総督

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総督(そうとく)とは、以下のことを指す。

  1. 中国代の地方長官
  2. 日本幕末から明治初期司令官禁裏御守衛総督東征大総督など。
  3. 大日本帝国植民地長官。台湾総督朝鮮総督
  4. 諸国における地方および海外領土、植民地の長官の称号に対する訳語の一つ。ローマ帝国レクトル・プロウィンキアエアケメネス朝ペルシアのサトラップオスマン帝国ワーリー大英帝国のガバナー(Governer)、ハンガリー王国下のクロアチアバンなど。
  5. 宗主国から独立した国家でも4の称号が継続して用いられることがある。イギリス連邦におけるガバナー・ジェネラル(Governer-General; カナダ総督オーストラリア総督など)、オランダ総督(stadhouder)など。

中国[編集]

中国の「総督」とは、国内の地方長官のことである。同時期の地方長官である巡撫が1程度を管轄したのに対し、総督は複数省の軍民両政を執りしきった。代には国難があった時に柔軟に対応するための臨時官(宣大総督・陝西三辺総督 等)であったが、この官職名を継承したは常設官として大権を与えた。また、清ではこれら通常の総督の他に、特命大臣的な総督(河道総督・漕運総督 等)も配置した。清朝末期になると地方行政を一手に担う総督の中には中央朝廷より実力を持つ者も出始めた。(曽国藩李鴻章袁世凱 等)

清の総督[編集]

日本[編集]

日本でも歴史的には、下関条約調印後1895年から1945年の間台湾総督府を、日韓併合条約調印後1910年から1945年の間朝鮮総督府を、それぞれ設置したことがある。また明治初期の地方裁判所の長官にあたる職位に総督という呼称を用いたこともある(裁判所 (地方制度)参照)。

古代ローマ帝国[編集]

東ローマ帝国[編集]

ユスティニアヌス1世時代の東ローマ帝国(青色部分)。青色と緑色部分はトラヤヌス時代のローマ帝国。赤線は東西ローマの分割線。

[1] 東ローマ帝国では、6世紀末に総督職(ギリシア語: ἔξαρχος, 英語: Exarchates, 古典ギリシャ語再建音:エクサルコス現代ギリシャ語エグザルホス)が設けられた。総督は「地方大守」と訳される事もある。

476年西ローマ帝国の滅亡後も、東ローマ帝国古代末期には安定した状態を維持し、領土拡張を行う能力を保持していた。ユスティニアヌス1世の再征服の間に、北アフリカイタリアダルマチアスペインが、東ローマ帝国の版図に入った。この領土拡張は帝国の限られた資源にとり途方も無い重圧となり、征服事業にかかった軍事費は東ローマ帝国の国家財政の破綻の要因ともなった。しかしながらユスティニアヌス帝の後継者である東ローマ皇帝たちは、再征服された領土を放棄して重圧を免れる方策を採らなかった。この経緯により、地方の変化に恒常的に対処する総督府英語: Exarchates)が設置される事になる。

ローマは早々に見放されたが、6世紀末の皇帝マウリキウスによってラヴェンナと北アフリカカルタゴに総督府が設けられ、東ローマ帝国は版図の維持に努めた。

ディオクレティアヌスによる専制君主制の強化により、属州の行政権と軍事権は別々の系統に属しており、総督も当初は軍の最高指揮官として置かれた。しかし徐々に臨戦体制強化のために行政権も握るようになった。軍事指揮官に行政権も与えて権限を集中させる傾向は、後のテマ制(軍管区制)へとつながっていく。総督は皇帝の代理だけでなくコンスタンティノープル総主教の代理としての役割も果たした。カルタゴ総督府は7世紀にウマイヤ朝によって、ラヴェンナ総督府は8世紀にランゴバルド王国によって陥落し、東ローマ帝国からは失われていった。

オランダ[編集]

16世紀~18世紀のネーデルラント連邦共和国オランダ)では、各州の議会あるいは連邦議会により、州の首長として総督(Stadtholder;「統領」とも訳される)が任命された。事実上君主に近い地位であり、後のオランダ王家であるオラニエ=ナッサウ家の一族がほとんど世襲していた。

大英帝国とイギリス連邦[編集]

イギリスも植民地に総督をおいており、例えば、インド総督1773年から1950年の間、存在した。植民地独立後もイギリス連邦(Commonwealth)に属する国々の中には、現在でも元首である国王の名代として総督が任命されている国がある。例えばカナダオーストラリアニュージーランドには現在でも職位としての総督が存在する。

「総督」と訳される役職にはGovernorとGovernor-Generalがあるが、前者は「知事」とも訳される。いずれにせよ、その地域において国王の代官としての役割を果たしているが、イギリス領である地域ではイギリス政府によってイギリス本国から総督が派遣されており、場合によってはかなりの統治権限を有する(返還前の香港が一例。現在ではジブラルタルセントヘレナイギリス領ヴァージン諸島フォークランド諸島などがこれに該当する)。それに対しカナダやオーストラリア、ニュージーランドなど独立した英連邦王国の場合、総督はあくまでもカナダやオーストラリア、ニュージーランドには通常は滞在していない各国の国王(イギリス国王が兼任)の代理として、儀礼的な職務を行う存在である(オリンピックの開会宣言は通常その国の元首が行うが、カルガリーオリンピックシドニーオリンピックバンクーバーオリンピックでは、当時のカナダ総督オーストラリア総督が開会宣言を行った。なお、1976年モントリオールオリンピックではエリザベス2世自身が、カナダ女王として開会宣言を行っている)。そのため、現在ではそれらの国における総督はイギリス政府とは無関係であり(各国の王室=イギリス王室とは関係があるが)、実際には各国の首相の推薦により、各国の市民権を持つ人が総督に選ばれるのが通例である。

ドイツ[編集]

ドイツ帝国時代、海外のドイツ植民地ヘルゴランド島の統治者として「ドイツ語: Reichskommissar」が派遣された。この役職は海外統治だけではなく、特定の政治問題担当者にも任じられるが、植民地や占領地の統治者であるReichskommissarは「総督」と訳されることも多い。

ナチス・ドイツ時代には占領地の統治に当たるReichskommissarが、東部占領地域ウクライナ、バルト三国)や西ヨーロッパに設置された。またポーランドのうち、ドイツに併合されなかった部分には「ドイツ語: Generalgouverneur」であるハンス・フランクポーランド総督府が支配に当たった。また形式上ドイツの保護領となったチェコベーメン・メーレン保護領)においては、「ドイツ語: :Reichsprotektor」が行政のトップとされた。これらの役職もそれぞれ総督と訳されることが多い。

各国の総督一覧[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ この節の主要参考文献:ポール・ルメルル著『ビザンツ帝国史』白水社文庫クセジュ(2005年)、ISBN 4560058709 および 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国の政治制度』東海大学出版会〈東海大学文学部叢書〉(2005年)、ISBN 978-4-486-01667-0

関連項目[編集]