国家弁務官

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国家弁務官(こっかべんむかん、Reichskommissar ライヒスコミッサール)は、ドイツ帝国期からナチス・ドイツ期のドイツが設置していた弁務官。ドイツの中央政府より任命され、特定の行政問題を担当した。「帝国弁務官」と訳されることが多いが、共和政であったヴァイマル共和政時代やナチス・ドイツ時代にも設置されていたので本稿では「国家弁務官」と訳すものとする。ドイツ支配地の行政の監督を行う国家弁務官の場合は「総督」「民政長官」などとも訳される。

ドイツ帝国[編集]

本国[編集]

ドイツ帝国本国では、特別の行政問題を監督させる者を国家弁務官に任じていた。たとえばハンブルクには「移住問題国家弁務官」(Reichskommissar für das Auswanderungswesen)が設置されていた。

また1890年8月にヘルゴラント島ヘルゴランド=ザンジバル条約の下、大英帝国からドイツ帝国に譲渡されたが、この後、1891年2月にこの島がプロイセン王国シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州に編入されるまでの間、島の行政官として国家弁務官が置かれていた。その際の国家弁務官はアドルフ・ヴェルムート(Adolf Wermuth)であった。

植民地・保護国[編集]

ドイツ帝国の植民地保護国にも総督として国家弁務官が置かれた。

ヴァイマル共和国[編集]

第一次世界大戦の敗戦により植民地をすべて喪失したヴァイマル共和政下のドイツでは植民地の行政を担当する国家弁務官は設置されなかった。国内の行政問題にかかる国家弁務官は存在した。たとえばヒャルマル・シャハトは1923年に「国家通貨委員」(Reichswährungskommissar)に任じられている。

また1932年にはドイツ国首相フランツ・フォン・パーペンは、プロイセン州首相オットー・ブラウンが率いるプロイセン州政府がドイツ国政府の命令を無視したとして「プロイセン・クーデタ(Preußenschlag)」を起こしてブラウン以下州政府の要人を排除した。この後、パーペンは暫定的な処置としてプロイセン州に国家弁務官を設置し、パーペン自身が国家弁務官に就任している。

ナチス・ドイツ[編集]

ヒトラー内閣が成立した当日、ヘルマン・ゲーリング(航空担当)、フランツ・ゼルテ(労働問題担当)、ギュンター・ゲレッケde:Günther Gereke)(公共事業担当)の3人が国家弁務官に任ぜられた。ナチス・ドイツ時代にはこのほかにも個別の政策に対応する国家弁務官が置かれた。

2月6日、「プロイセンにおける秩序ある政府の樹立のためのライヒ大統領令」が発せられ、パーペンが再び国家弁務官に就任し、プロイセン州の権限を握った。その後テューリンゲン州メクレンブルク=シュヴェリン州オルデンブルク州ブラウンシュヴァイク州アンハルト州リッペ州にも国家弁務官が置かれた。バイエルン州などは抵抗したものの、国会議事堂放火事件後に発せられた緊急大統領令がその抵抗力を奪った。3月9日、突撃隊親衛隊がミュンヘン市内を騒擾状態に陥れた。これを州政府が統御できないことを理由にしてフランツ・フォン・エップがバイエルン州の国家弁務官となり、州政府を解散させた。これは州の自治権を奪う強制的同一化ドイツ語: Gleichschaltung)の動きの中で行われた。

4月7日には『ラントとライヒの均制化に関する暫定法律の第二法律』が公布され、国家弁務官に代わってライヒ代官(または国家代理官、州総督Reichsstatthalter)の設置が定められ各州の国家弁務官はその役割を終えた。しかし1935年にドイツ領に復帰したザール、1938年のアンシュルスによって併合したオストマルク州オーストリア)、ミュンヘン会談によって獲得したズデーテン地方なども過渡的措置として国家弁務官が置かれている。

第二次世界大戦の占領地域のいくつかにも国家弁務官が置かれた。これらの弁務官は総督という訳語を当てられることがある。

政策別国家弁務官[編集]

航空
  • ヘルマン・ゲーリング(1933年1月30日 - 1945年4月28日)
労働
スポーツ
法律
入植問題
酪農
鉱業
価格統制
公共事業
中小事業者
自動車
ザールラント再統合担当
オーストリア・ドイツ再統合担当
  • ヨーゼフ・ビュルケル(1938年4月23日 ‐ 1940年3月31日)

獲得地域の国家弁務官[編集]

占領地担当国家弁務官[編集]

外部リンク[編集]