カール・ブラント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
カール・ブラント(1947)

カール・フランツ・フリードリヒ・ブラント: Karl Franz Friedrich Brandt1904年1月8日 - 1948年6月2日)はドイツの医師。ドイツの政治家アドルフ・ヒトラーの主治医だった人物。1939年から精神障害者・身体障害者などの安楽死計画「T4作戦」の責任者となり、多数の人間を安楽死に追い込んだ。親衛隊における最終階級は親衛隊中将及び武装親衛隊中将(SS-Gruppenführer und Generalleutnant der Waffen-SS)。医学博士号(Dr.med)所持。

経歴[編集]

前半生[編集]

ドイツ帝国帝国直轄州エルザス=ロートリンゲンに属していたエルザス地方のミュールハウゼン(Mülhausen)で生まれる(現在はフランス領である)。1922年から1923年までドレスデン大学に、1924年から1928年までイェーナ大学フライブルク大学ミュンヘン大学ベルリン大学などに在学してフェルディナント・ザウアーブルッフゲオルグ・マグヌスドイツ語版の下で医学を学び、ベルリン大学在学中の1928年に州医師試験に合格した[1]。1929年10月19日にフライブルク大学から医学博士号(Dr.med)を贈られる。1930年に医師免許を取得[2]ボーフムの救急病院で医師として勤務した[3]

ナチ党入党[編集]

1932年3月1日に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党し(党員番号1,009,617)、同時に国家社会主義ドイツ医師同盟ドイツ語版の会員となる[2]。また同年、食事の席でヒトラーと知り合ったという[4]。1933年1月より、全国防空団ドイツ語版ボーフム地区指導者となり、2月には突撃隊に入隊。8月15日にヒトラーの副官ヴィルヘルム・ブリュックナーが自動車事故を起こして大けがをした際に彼の手術と看病に当たった。そのことが総統アドルフ・ヒトラーの耳に入り、ヒトラーは彼を医師にしようと決意した[2]。11月にはボーフムからベルリンに再建された大学病院外科病棟に移る[3]

総統付医師[編集]

1934年3月1日に親衛隊に移籍が命じられるとともに、総統付医師(Leibarzt des Führer und ReichsKanzlers)に任命され、ヒトラーのそば近くに仕えるようになった。3月17日にアンニ・レーボルン英語版と結婚。ヒトラーとヘルマン・ゲーリングが結婚式の立会人となり、披露宴はベルリンのゲーリング邸でで行われた[5]。7月29日に正式に親衛隊に入隊(隊員番号260,353)し、親衛隊上級地区「東」所属となる。1936年から1940年にかけて親衛隊本部に勤務する[2]

1939年10月頃、フィリップ・ボウラーとともにT4作戦の監督に任ぜられた。1940年5月5日にヒトラーより教授の称号を与えられ、5月9日にフリードリヒ・ヴィルヘルム大学の員外教授となる。5月15日より武装親衛隊のLSSAHに所属する。 1942年6月1日より国家研究顧問会ドイツ語版の一員となり、7月28日にブラントはヒトラーから「衛生及び保険全権委任者(Bevollmächtigter des Führers für das Sanitäts- und Gesundheitswesens)に任命され、衛生及び保険制度の軍事部門と民事部門の間での医師、病院、薬剤の需要の調整を行う特別任務を与えられた[6]。8月1日より親衛隊作戦本部に所属する。

1943年9月5日、公衆衛生及び保険全権委員(Generalkommissar des Führers für das Sanitäts und Gesundheitswesens)に任命され医学研究においての特別権限を与えられ、強制収容所での人体実験を発案する。また1943年からは戦傷者・空襲負傷者の治療の余裕を作るため、「治療しても仕方がない精神病患者」を安楽死させる計画が実行された。この計画はブラントの名をとってブラント作戦ドイツ語版と名付けられている。1943年9月5日からは全医療器具製造·物流部長(Leiter des gesamten medizinischen Vorrats- und Versorgungswesen)、1944年3月1日には毒ガス防護及び呼吸マスク特別委員会(Sonderausschusses Gasschutz und Atemgerät)の委員長職を歴任する[7]

1944年8月25日には公衆衛生及び保険国家委員(Reichskommissar für das Sanitäts- und Gesundheitswesens)となり全ドイツの医師の頂点となる[7]

失脚[編集]

しかし1944年10月5日、ハンス・カール・フォン・ハッセルバッハドイツ語版医師とともにテオドール・モレル医学博士がヒトラーに処方していた薬に反対する報告書をヒトラーに提出したことで信任を失い、マルティン・ボルマンから総統付医師職の解任を告げられた。1945年4月16日に、家族をベルリンから離したりしたこともあり、ヒトラー自身もブラントに怒りを募らせていた。1945年4月16日にはゲシュタポに逮捕されてその翌日に死刑判決を受けるが、数日後、カール・デーニッツの指令で解放される。

逮捕・処刑[編集]

戦後、イギリスに逮捕され、アメリカ軍によるニュルンベルク継続裁判医者裁判にかけられた。ここで、彼は冷凍実験等について尋問されるが、それでも意志を曲げず「ヒトラーの命令通りに執行した」と自己弁護をするが、侵略戦争などの計画、実行と戦争犯罪と非人道的犯罪の罪により有罪となった。判決は死刑だった。医学の研究の為に献体の旨を申し込んだが、却下された。1948年にランツベルク刑務所で他の6人(フィクトール・ブラックドイツ語版ヴァルデマール・ホーフェンヴォルフラム・ジーヴァスルドルフ・ブラントカール・ゲープハルトヨアヒム・ムルゴウスキー)と絞首刑に処された。

絞首刑に処される前にこう残した。おそらく冒頭の「ある国家」はアメリカを指しているのだと推測される。 「どうしてあらゆる観点からみて人体実験の最先端にある国家が、なぜその国家が只々その実験を真似てみた他の国家を疑い裁こうとする神経を持てるのか。安楽死でさえも!ドイツとその長引いてしまった惨状を見てみろ。それは、もちろん、この国家が広島と長崎の件で罪深いという事でさえ、自国の無比の道徳に呑み込まれてしまうほど小さなことだから驚く事は無い。(ドイツは)法律を決して歪めたのではない、正義なんて元々無かったんだ!これっぽちの正義もな。やはり権力がすべてを独裁してしまう。そして、この権力は被害を蒙ることを願っている。私たちはなんて被害に遭うことになるんだろうか。私もなんて被害者だ。」 「土壇場の上に立つことは何も恥ずかしいことではないんだ。これは、政治的復讐以外の何物でもないのだから。私は他の市民みたいに祖国の為に戦ってきたのだから…」 しかし、この続きは頭巾を被せられて声が遮られ、記録班に聞き取れなかったという。

キャリア[編集]

階級[8][編集]

  • 1933年、突撃隊上級曹長(SA-Obertruppführer)
  • 1934年7月29日、親衛隊志願兵(SS-Anwärter)
  • 1934年8月1日、親衛隊二等兵(SS-mann)
  • 1934年8月1日、親衛隊曹長(SS-Truppführer)
  • 1934年8月14日、親衛隊少尉(SS-Sturmführer)
  • 1934年8月14日、親衛隊中尉 (SS-Obersturmführer)
  • 1935年7月、伍長(Gefreiter)
  • 1936年9月13日、親衛隊大尉 (SS-Hauptsturmführer)
  • 1936年11月、陸軍軍医候補生(Unterarzt.(Heer))
  • 1937年11月9日、親衛隊少佐(SS-Sturmbannführer)
  • 1939年8月5日、 親衛隊中佐(SS-Obersturmbannführer)
  • 1940年5月15日、武装親衛隊中佐(SS-Obersturmbannführer der Waffen-SS.)
  • 1940年5月27日、武装親衛隊軍医中佐(Oberfeldarzt der Waffen-SS.)
  • 1942年8月1日、武装親衛隊大佐(SS-Standartenführer der Waffen-SS)
  • 1942年9月3日、予備役軍医大佐(Oberstarzt d.R.)
  • 1943年1月30日、親衛隊少将及び武装親衛隊少将(SS-Brigadeführer und Generalmajor der Waffen-SS)
  • 1943年3月1日、予備役陸軍軍医少将(Generalarzt d.R.(Heer))
  • 1944年4月20日、親衛隊中将及び武装親衛隊中将(SS-Gruppenführer und Generalleutnant der Waffen-SS)

受章[9][編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]