ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル

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ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
Georg Wilhelm Friedrich Hegel
ヘーゲルの肖像
生誕 1770年8月27日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国シュトゥットガルト
死没 1831年11月14日(満61歳没)
Flag of Prussia 1892-1918.svg プロイセン王国ベルリン
時代 18世紀の哲学
19世紀の哲学
地域 西洋哲学
学派 ドイツ観念論
ヘーゲル学派の創設者
歴史主義
研究分野 形而上学認識論
論理学
自然哲学
歴史哲学
美学宗教哲学
倫理学
政治哲学法哲学
主な概念 絶対観念論
弁証法
止揚
主人と奴隷の弁証法en:Master-slave dialectic
その他
署名
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ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770年8月27日 - 1831年11月14日)は、ドイツ哲学者である。ヨハン・ゴットリープ・フィヒテフリードリヒ・シェリングと並んで、ドイツ観念論を代表する思想家である。優れた論理性から現代の哲学研究も含め、後世にも多大な影響を与えた。観念論哲学及び弁証法論理学における業績のほか、近代国家の理論的基礎付けなど政治哲学における業績も有名である。認識論自然哲学歴史哲学美学宗教哲学哲学史研究に至るまで、哲学のあらゆる分野を網羅的に論じた。

現代思想、特に大陸哲学の先駆的哲学者とされ、毀誉褒貶、肯定的評価及び否定的評価を含め、様々な哲学者・思想家・文筆家の論述を通じて彼の影響は広がっていった。その影響については、ヘーゲル学派老ヘーゲル派ヘーゲル中央派青年ヘーゲル派)及びその第二世代や、新ヘーゲル主義などの頁を参照されたい。

概要[編集]

ドイツ観念論哲学の完成者であり、近代哲学と現代哲学の分水嶺として位置づけられることも多い。なお、同時代人に作家ゲーテ、音楽家ベートーヴェン、画家のカスパー・ダーヴィト・フリードリヒがいる。ヘーゲル死後、一時期ドイツの大学の哲学教授のポストはヘーゲルの弟子(ヘーゲル学派)で占められた。1830年代から1840年代にはヘーゲル学派の中でもヘーゲル左派が興隆したが、ヘーゲル左派の思想はマルクスらによって批判的に受け継がれ、次第に勢いが衰えていった。

彼の影響を受け、ヘーゲル哲学を批判的に継承・発展させた人物としては、セーレン・キェルケゴールカール・マルクスなどがいる。マルクス主義とその実践において根深い全体主義的傾向はヘーゲルに由来しているという主張があるが、その一方で、マルクス主義的な視点からのヘーゲルの哲学解釈には曲解との批判もある。

ヘーゲルは、古典に通じた慧眼で現実的かつ理想的な哲学を展開し、同時代のみならず後世にも大きな影響を与えた。主著の1つである『精神現象学』(1807年)は、元々の表題を「学の体系 (System der Wissenschaft) 」といい、当初は主観的精神(「意識」「自己意識」「理性」)から絶対知へと発展する過程を描いていたが、徐々に膨らんでいき、最終的には「精神」「宗教」という章が付け加えられた。イェーナ期の思索の完成ではあるが、ヘーゲル自身が認めているように、混乱している部分や後年の著作でカテゴリーが微妙に変化したものも多く、ここからヘーゲル哲学の全貌を知ることは困難である。他の著作に『論理学(大論理学)』、『エンチクロペディー』、『法哲学・要綱』などがある。なお、『歴史哲学』『美学』『宗教哲学』などはヘーゲルの死後、弟子たち(つまりヘーゲル学派)によって彼の講義ノートと聴講生のノートとを中心に編纂されたものである。

生涯[編集]

シュトゥットガルトのヘーゲルハウスにあるポートレイト

1770年8月27日ヴュルテンベルク公国シュトゥットガルト(現在のドイツ南西部バーデン=ヴュルテンベルク州の州都)の中流家庭に生まれる。父親はヴュルテンベルク政府の公務員だったゲオルグ・ルートヴィヒ・ヘーゲル(1733年-1799年)。進歩的な教育者であった母マリア・マグダレーナ・ルイーザ・ヘーゲル(旧姓フロム、1741年-1783年)の影響も手伝って、子供時代は学問の環境に恵まれ、文学書・新聞・哲学小論他の書物を読みあさった。病気がちで、6歳以前の時期に、天然痘で死に瀕したことがある。8歳のときシェイクスピア全集をもらい読むなど大変な読書家で、感想なども多数書き残す。妹のクリスティアーネとは親密で、終生強い絆をもっていた。

南ドイツのルター派正統神学テュービンゲン神学校で教育を受け、哲学者シェリングや詩人ヘルダーリンと交友を結ぶ。3人とも規則に縛られた神学校の環境を好まない点で意気投合し、互いの思想に影響しあった。ギリシャ語ラテン語博物学などを学び天文学物理学などを好む。だが、牧師にはならなかった。

フランス革命の展開を横目に見ながら、ヘルダーリンとシェリングの2人はカント観念論哲学への批判に没頭したが、ヘーゲルは当初それには加わらなかった。当時彼は、大衆哲学(popular philosophy:哲学を、学問的修練を積んでいない大衆にも理解されるよう著述する動き)の仕事を成し遂げることの方に興味があったからである。大衆哲学者は著述を通じ、哲学の今日的な問題を紹介したり、啓蒙主義を普及させる方法を議論したりしており、多くがロックリードなどイギリス思想に精通していた。ヘーゲルは、大衆哲学のやり方でカントの批判哲学を完成させたいと思っていた。こうしてテュービンゲン時代において、ヘーゲルはヘルダーリンやシェリングが関わった高度に神学的(かつ技巧的)な議論には懐疑的な立場をとった。彼がカント哲学の実践の試みよりもむしろ、その問題点の解決が重要であると認めたのは、1800年になってからのことである。

その後家庭教師を経て、1801年、ヘーゲルはイェーナ大学に私講師の席を手に入れる。このときの就職論文『惑星の軌道に関する哲学的論考』(惑星軌道論)で、かねてから興味のあった天文学で尊敬するヨハネス・ケプラー(出身が同じであった)こそが惑星の運動法則の本質の発見者であり、アイザック・ニュートンは数学的に発見したのみであるとニュートン批判を論じた(これは後に『自然哲学』で再び論じられる)。その後、員外教授(Extraordinary Professor)に昇進。しかし1806年イエナ・アウエルシュタットの戦いに破れたプロイセンナポレオンに征服されると、イェーナ大学は閉鎖せざるを得なくなった。ナポレオンはイェーナに入城し、それをヘーゲルは見た。ヘーゲルはこの時の事を「世界精神が馬に乗って通る」と表現している。

ベルリンにあるヘーゲルの墓

その後、彼は数年間『バンベルク新聞』編集者として働き、1811年、マリー・フォン・トゥーハー(Marie von Tucher)と結婚する。1816年、『(大)論理学』の出版ののち、ギムナジウム校長を経て、ハイデルベルク大学で正教授となる。彼は講義に出席している生徒のために、自身の哲学を要約した『エンチクロペディー概略 (The Encyclopedia of the Philosophical Sentences in Outline) 』 を出版した。

1818年ベルリン大学の正教授を務める。彼の講座は絶大な人気を誇るようになり、同じ時間にショーペンハウアーが講義を行ったが、出席者はわずかであった。プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、政治体制への彼の貢献に対して叙勲し、1830年には、彼を総長に指名した。ベルリンにおいて、彼は体制改革を求める暴動に悩まされることになる。1831年伝染病コレラベルリンに発生し、ヘーゲルは一旦避難したものの、収束する前に戻ったことから感染してしまい、数日の後に61歳で生涯を閉じた。ヘーゲルの遺体は、ヘーゲルの生前の希望により、ベルリンドローデン墓地に先に逝ったドイツ観念論の哲学者フィヒテ夫婦の墓の隣りに葬られている。

主な著作[編集]

生前に刊行された著書[編集]

以下の4作品はヘーゲルの生前に出版された。

  • 精神現象学Phänomenologie des Geistes1807年)。
  • 大論理学Wissenschaft der Logik、1812-16年)
    通例、『エンチクロペディー』内の『論理学』と区別するため原書にはない「大」をタイトルに付け加えて呼ぶ。
  • エンチクロペディーEnzyklopaedie der philosophischen Wissenschaften1817年1827年1830年
    本書は三部(論理学、自然哲学、精神哲学)に分かれている。
    * 第一部 小論理学
    • 上記の『大論理学』と同じ理由により元来無い「小」を加えている。
    • 第二部 自然哲学
    • 第三部 精神哲学
  • 法哲学(綱要)Grundlinien der Philosophie des Rechts1821年
    『法哲学』と翻訳されているが、本書の内容は決して法哲学に限っているわけではなく、ヘーゲルの倫理また政治思想が展開されている。ドイツ語の Recht は、「まっすぐな」を意味する古いドイツ語である reht に由来し、そこから正義権利という意味に派生したものであり、ラテン語の ius の翻訳語としても使われる。つまり、英語で普段使われている意味での right や law とは一致しない。さらに Recht という語に対するヘーゲル独自の解釈も手伝って幅広い意味を持ちつつ議論が展開される結果、法の哲学的考察などはごく一部であり、決して中心テーマではない。この意味で「法権利の哲学」と訳すこともある。なお、この本については、メインタイトルとサブタイトルが逆転して定着してしまったという指摘があり、本来のタイトルは「法の哲学概要 自然法と国家学要綱」ではなく「自然法と国家学要綱 法の哲学概要」だったとの説がある。現行のズールカンプ版でも、左ページが自然法と国家学要綱であるほか、サヴィニーがこの著作を「ヘーゲルの自然法」と呼んだことなどが知られている。

死後に刊行された著書[編集]

基本的にヘーゲルの講義を聞いた教え子達のノートに基づいて、没後出版された。

  • 美学(講義)
  • 歴史哲学(講義)
  • 哲学史(講義)
  • 宗教哲学(講義)
岩波書店より『ヘーゲル全集』全32冊が刊行されている(版元品切)。
各巻のタイトルと訳者は、岩波書店サイト ヘーゲル全集を参照。

※読み易い長谷川宏訳が1992年より、約15年かけて刊行された。

  • 哲学史講義(上中下巻、河出書房新社、1992年 - 1993年)
  • 歴史哲学講義(上下巻、岩波文庫、1994年、ワイド版2003年)
  • 美学講義(上中下巻、作品社、1995年 - 1996年)
  • 精神現象学(作品社、1998年)
  • 法哲学講義(作品社、2000年)
  • 論理学 哲学の集大成・要綱 第1部(作品社、2002年)
  • 自然哲学 哲学の集大成・要綱 第2部(作品社、2005年)
  • 精神哲学 哲学の集大成・要綱 第3部(作品社、2006年)

業績に対する評判[編集]

ヘーゲルは、当時の多くの学者と同様、あらゆる学問分野を「百科全書的」に網羅した「体系」を作ろうとした。その範囲は、自然科学、人文科学、社会科学の全てを含むほか、教育者としてのヘーゲル、政論家としてのヘーゲルなどの側面も持つ包括的なものである。他方、「ヘーゲルに倫理学なし」の批判は以前よりつきまとっている。これは、ヘーゲルが個人倫理学よりも社会科学的問題解決を重視したと見られているからであり、倫理的に生きるには倫理的な法を持つ国の国民になればよいというヘーゲルの言葉に、その思想がよく表れている。

ヘーゲルの文体は難解なものとして知られ、一文字ずつなめるように読んでいき、読書を通じてヘーゲルの思考過程を追体験することが必要とされている。言葉の定義があいまいだという不満も多いが、そもそもヘーゲルの弁証法においては概念の自己運動にあわせて言葉が動いていくものであるから、言葉の定義を問うこと自体が無理な構造となっている。他方で、哲学的体系性や整合性を離れた場所で書かれる各書の序文や、教育・政論の分野では、勢いに満ちた名文も多いと評される。

ヘーゲル独自の弁証法論理学は、従来の形式論理学とは大いに異なるものである。それはヘーゲルが、一般的な形式論理学を乗り越えて、真に正しくかつ現実的な論理学を把握しているという確固たる自負を持っていたからである。そのため、現代の数学的論理学とは必ずしも親和性が高いわけではないが、逆に、その仏教論理学や量子力学への近似性を唱える者もいる。自然哲学の分野でも、ヘーゲルの今日的読解を進めているケースがある。

社会科学的にはヘーゲルは右派からも左派からも批判の対象となってきた。ヘーゲル哲学からはカール・マルクスのような左派も、フランシス・フクヤマのような右派も生まれた。このような分派はヘーゲルの死後、激しくなった。

キルケゴールニーチェなどの実存主義哲学では、ヘーゲルは悪しき理性主義の象徴のように批判されてきたが、宗教についての卓越した認識や理念を内包しているヘーゲルの「理性」概念は、百科全書派のような啓蒙思想でいう「理性」や後の19世紀末以降の記号論理学的な意味での「理性」とは明らかに一線を画している概念であり、正しく理解された上での批判だったとは言えない面がある。

哲学者ではなく小説家としてのヘーゲルを説く者もいる。「精神現象学」は学問としての哲学というより、個人の魂がどのように成長していくかを説いた書であるとして、ゲーテ等に見られる「教養小説」として読むほうが正しいという意見である。この意味でヘーゲルは「経験」の哲学者と言われる。

なお、早熟のシェリングと比べ、遅れてきた努力家という位置づけをされることがあり、ヘーゲルには若い頃と成熟期で思想に変化が見られる。そのため時期的な変遷を考慮せず、安易にヘーゲル一般を語ることは、現在の研究水準では望ましいことではない。

バートランド・ラッセルは『西洋哲学史』("History of Western Philosophy"、1945年)の中で、ヘーゲルのことを、最も理解が困難な哲学者であると書いている。彼によれば、ヘーゲルは当時の現在誤っているとされている論理学に基づき、壮大な論理体系を作り上げたのであって、そのことがかえって多くの人に多大な興味を持たせる結果になったのである。

用語[編集]

脚註[編集]

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関連項目[編集]

外部リンク[編集]