アレクサンドル・コジェーヴ

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アレクサンドル・コジェーヴ
Alexandre Kojève
生誕 1902年4月28日
死没 1968年6月4日(66歳)
時代 20世紀の哲学
地域 西洋哲学
学派 大陸哲学
研究分野 現象学
存在論
主な概念 権威
動物
人間
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アレクサンドル・コジェーヴ(Alexandre Kojève, 1902年4月28日 - 1968年6月4日)は、哲学者。出身はロシアモスクワフランスで活動した。

人物[編集]

アレクサンドル・コジェーヴの名称はフランス語での読み方であり、ロシア語では、アレクサンドル・ヴラジーミロヴィチ・コジェーヴニコフ

パリ高等研究院で1933年から1939年まで行われた、ヘーゲル精神現象学』についての講義は、後のヨーロッパにおけるヘーゲル復興に大きな影響力を与えた。この講義の聴講者には、ジャック・ラカンジョルジュ・バタイユレイモン・アロンエリック・ヴェイユロジェ・カイヨワメルロ=ポンティアンドレ・ブルトンなどがいる。ここで提示されたヘーゲル像は、彼らによって後のフランス現代思想へと受け継がれることになる。なお、講義は後に、『ヘーゲル読解入門』として出版された。

生涯[編集]

コジェーヴは1902年、モスクワ旧市街の一角で生まれる。父は富裕な商人で、父方の伯父は、画家のヴァシーリー・カンディンスキー。コジェーヴの父は、1904年に勃発した日露戦争に招集され、1905年、満洲で戦死。母は、父と共に満洲に来ていたが、夫の死後、モスクワに帰還する。その際、コジェーヴの義父であり、後の夫であるレムキュールと出会う。コジェーヴは、モスクワでも評判の私立学校に入学し、個人教授も受ける。以後、コジェーヴは、ラテン語フランス語英語ドイツ語を学ぶ。

1917年の二月革命十月革命の時、コジェーヴは15歳になっており、彼はこのときから、「哲学日記」という手記を始める。このとき、すでに後にコジェーヴにとっての主要なモチーフとなる「死の観念」についての考察が始まっていた。

革命の混乱の中、コジェーヴの義父レムキュールは、賊に暗殺される。この頃コジェーヴは、慢性的な食料難のため、闇市に出入りし、その咎で投獄される。仲間たちは銃殺されるが、コジェーヴ自身は親戚の口利きによって助かる。

これら一連の経験が、コジェーヴをして大きく動揺せしめた。このことが、彼に「死=実在せざること」をどう理解するか、ということについて、生涯を通じて考察させるきっかけとなった。この「死についての考察」は、後に『ヘーゲル読解入門』において、大きく展開されることになる。

1920年、コジェーヴは祖国を捨て、ドイツ亡命する。1926年に至るまで、ドイツのハイデルベルクベルリンで研究を続ける。この間彼は、ドイツ語哲学、東洋語(サンスクリット語中国語チベット語)、ロシア文学について学ぶ。

1926年、ハイデルベルクで学位を取得したコジェーヴは、パリに移り、ソルボンヌで研究生活を続ける。この頃、高等研究院で教鞭をとっていた科学史アレクサンドル・コイレと知り合い、1933年(『精神現象学』講義の始まる年)まで、高等研究院で研究活動をした。ソルボンヌでは数学物理学、高等研究院では宗教哲学と東洋語を主に研究する。この頃、マルティン・ハイデガーは『存在と時間』を著している。

1933年、「ソロヴィヨフの宗教哲学」という論文を著す。この論文により、1934年、高等研究院の修了証書を取得。この頃、ヒトラーが首相に就任。同年、コイレがカイロに招聘されることになり、それまで高等研究院で行われていた講義がコジェーヴに託される。夏の間、準備のために『精神現象学』を数度、読み返す。このときに、「ナポレオンに具現化された歴史の終焉」という手がかりを見付け、このことが、コジェーヴのヘーゲル解釈に大きく影響することになる。またこの頃、講義と共に著述活動も活発になり、それらはフランス語、ドイツ語、ロシア語で著され、いくつかの雑誌に掲載される。

1943年、コジェーヴの記念碑的著作である『法の現象学(権利の現象学)』を著す。1945年、ヒトラー自殺。ドイツ政府は無条件降伏。原爆投下。コジェーヴは、フランスの政策に関する覚書を数編著し、また、講義の参加者の1人であるロベール・マルジョラン(フランス対外経済関係局の局長)によって、特務官に任ぜられる。この年以降、コジェーヴはフランス政府の仕事を続けることになる。

1947年、レイモン・クノーにより、高等研究院での講義録である『ヘーゲル読解入門』が公刊される。6月、米国マーシャル国務長官がヨーロッパ支援計画(マーシャル・プラン)を発表する[1]が、ソ連がこれを拒否[2]。7月、ヨーロッパ16か国はパリに集まり、ヨーロッパ経済協力委員会を創設[3]。コジェーヴはハバナで開催された国際貿易機関に関する会議に参加。

1948年3月、53か国がハバナ憲章に調印。これに、コジェーヴはフランス代表団の一員として参加。この憲章をアメリカが批准しなかったため、これは発効しなかった。そのため、暫定的に形成されたのが、GATTである[4]。4月、トルーマンが対外援助法に署名し、マーシャル・プランが始動する[5]。援助金はヨーロッパにおける機関設立によって投入されることになったが、そのための機関として、ヨーロッパ経済協力機構が創設される[6]。事務総長はロベール・マルジョランであり[7][8]、コジェーヴは対外経済関係局特務官として活動。

1953年、コジェーヴは結核に冒され政府活動を停止、その間に、自身の知の体系の充実に着手する。「カント論」、「概念・時間・言説」の執筆を始める。この年の3月、スターリンが死去。その死に際して、コジェーヴは「父を失ったようだ」と語った。

1959年に日本を訪問し、感銘を伴い帰国する。そこに、「歴史の終焉」後の人間の存在様式のある形を見出したのである。

1962年、ジュネーヴで行われた国連貿易開発会議の準備会議に、フランス代表として出席し、貧しい国々のために演説をする。彼はそのとき、ケネディ・ラウンドに大きな期待を寄せていたが、しかし11月、ケネディは暗殺される。1964年になると、交渉はジョンソンの下で開始され、コジェーヴはこれに参加。

1967年、定年になる時期だったが、官僚としての活動を続けることを望み、将来の国際貿易問題検討会の座長に任命される。

1968年、歴史の終わりに関して、『ヘーゲル読解入門』の注に日本のことを付け加える。6月、ブリュッセルにおける共同市場の会議に出席している最中、心臓発作で急死した。

邦訳著作[編集]

  • 『ヘーゲル読解入門-『精神現象学』を読む』 上妻精・今野雅方訳(国文社 1987年)
  • 『法の現象学』 今村仁司・堅田研一訳(法政大学出版局 1996年)
  • 『概念・時間・言説-ヘーゲル「知の体系」改訂の試み』 三宅正純・根田隆平・安川慶治訳(法政大学出版局 2000年)
  • 『権威の概念』 今村真介訳(法政大学出版局 2010年)

伝記[編集]

関連文献[編集]

  • ヴァンサン・デコンブ 『知の最前線』(高橋允昭訳、TBSブリタニカ, 1984年)
    • 『精神現象学』講義の行われた当時の状況が、詳しく語られる。
  • フランシス・フクヤマ 『歴史の終わり (上・下)』(渡部昇一訳・解説、三笠書房, 1992年、新版2005年)
    • フクヤマが提唱する「歴史の終わり」の概念は、コジェーヴの「歴史の終焉」から導かれた。
  • モーリス・パンゲ 『自死の日本史』(竹内信夫 筑摩書房 1986/ちくま学芸文庫 1992/講談社学術文庫 2011)
    • コジェーヴの「歴史の終わり」仮説の根本修正を背景の1つに『自死の日本史』を著した
  • 東浩紀 『動物化するポストモダン-オタクから見た日本社会』(講談社講談社現代新書], 2001年)
    • 「動物化」の「動物」は、コジェーヴから引かれている。
  • 竹田青嗣『人間的自由の条件』(講談社, 2004年)
    • ヘーゲルの人間学的、欲望論的側面の発見者としてのコジェーヴを描いている。

脚注[編集]

  1. ^ 「米対欧策転換 大陸全体を援助 マ長官重大演説」、1947年6月7日付毎日新聞(大阪)1面(ケンブリッジ市マサチュセッツ州)5日発ロイター=共同)。
  2. ^ 「パリ会談決裂す 英仏 ソを除き計画実現へ」、1947年7月4日付朝日新聞(東京)1面(パリ特電2日発AP特約)。
  3. ^ 「アメリカの資力と世界経済――マーシャル・プランを中心として」、『人文科学研究』第9号、早稲田大学人文科学研究所、1951年2月、81頁。
  4. ^ 樋口修「GATT/WTO体制の概要とWTOドーハ・ラウンド農業交渉」(国立国会図書館 調査及び立法考査局『レファレンス』第670号、2006年)、134頁。
  5. ^ 「ソ連進出の“防波堤” 対外援助法成立す 米大統領 署名・きょう発足」、1948年4月5日付朝日新聞(東京)1面(ワシントンにてハイタワー特派員3日発=AP特約)。
  6. ^ 島田巽 『マーシャル・プラン――米国の対外援助政策』 朝日新聞社1949年、172頁。
  7. ^ 島田巽 『マーシャル・プラン――米国の対外援助政策』 朝日新聞社、1949年、172頁。
  8. ^ Hogan, Michael J. (1987). The Marshall Plan: America, Britain and the Reconstruction of Western Europe, 1947-1952. New York: Cambridge University Press. , p. 127.

外部リンク[編集]