カール・マルクス
1875年のマルクス
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| フルネーム | カール・ハインリヒ・マルクス Karl Heinrich Marx |
|---|---|
| 生誕 | 1818年5月5日 |
| 死没 | 1883年3月14日(満64歳没) |
| 時代 | 19世紀の哲学 |
| 地域 | 西洋哲学 ドイツ |
| 学派 | 唯物論 科学的社会主義、共産主義 若いころはヘーゲル左派 |
| 研究分野 | 自然哲学、歴史哲学、政治哲学、科学哲学、経済学、各国の近現代史、政治学、社会学 |
| 主な概念 | 史的唯物論 剰余価値 労働者の搾取、階級闘争 『資本論』 科学的社会主義の共同創設者(フリードリヒ・エンゲルスと共に) |
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影響を受けた人物:
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| 署名 | |
| マルクス経済学 | |
|---|---|
| 生誕 | 1818年5月5日 |
| 死没 | 1883年3月14日 |
| 研究分野 | 資本主義経済の分析 |
| 影響を 受けた人物 |
アダム・スミス、リカード ほか |
| 影響を 与えた人物 |
マルクス経済学者、シュンペーター、他多数 |
| 実績 | マルクス経済学・科学的社会主義の創始者 |
カール・ハインリヒ・マルクス(ドイツ語: Karl Heinrich Marx, 1818年5月5日 - 1883年3月14日)は、ドイツの哲学者、思想家。政治思想史、経済思想史の上では、19世紀以降の共産主義運動・労働運動の理論的指導者、経済学者として知られる。20世紀において最も影響力があった思想家の一人とされる[1]。
親友にして同志のフリードリヒ・エンゲルスとともに、包括的な世界観および革命思想として科学的社会主義を打ちたて、資本主義の高度な発展により共産主義社会が到来する必然性を説いた。
マルクスの経済学批判による資本主義分析は主著『資本論』に結実し、『資本論』に依拠した経済学体系はマルクス経済学と呼ばれる。
- マルクスの思想については、マルクス主義も参照。
目次 |
生涯 [編集]
生い立ち [編集]
| マルクス主義 |
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批評
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| 共産主義 |
|---|
カール・マルクス(以下、マルクス)は、1818年5月、プロイセン王国治下のモーゼル河畔にあるトリーアにて、父ハインリヒ・マルクスと母アンリエットとの間に生まれた。父ハインリヒの家系は、代々ユダヤ教のラビ(聖職者で神学者)を務める家柄であったが、父ハインリヒ自身は、自由主義的な啓蒙思想をもち、1812年からフリーメーソンの会員[2]でもあった弁護士であり、マルクスが生まれる前に、ユダヤ教からキリスト教のプロテスタントに改宗した。母アンリエットもユダヤ教のラビの家系なので、マルクスの出自はユダヤ系ドイツ人といえるが、6歳の頃に兄弟たち全員が父親と同じくプロテスタント(キリスト教)の洗礼を受けている。それまではマルクス自身もユダヤ教会に籍を入れていた[3]。
1830年、マルクス12歳のとき、トリーアの名門ギムナジウムに入学。マルクスの入学したギムナジウムは開明的な校風で、校長が熱烈なルソーの支持者であった。マルクスの高校卒業論文(哲学)の主題は、「職業の選択にさいしての一青年の考察」であった。
大学進学とヘーゲル左派思想 [編集]
1836年、マルクス18歳のとき、姉の友人で検事総長の娘だったイエニー・フォン・ヴェストファーレン(22歳)と婚約した。その後ボン大学に学び、後にベルリン大学に入学し、ヘーゲル左派の影響を受ける。さらに、1841年にはイエナ大学へ入学。学位請求論文は『デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異』であった。この学位請求論文により、マルクスは哲学博士となった。
エンゲルスとの出会い [編集]
1842年、マルクス24歳のとき、ケルンで創刊されたブルジョワ急進主義の「ライン新聞」主筆を務める。この頃に生涯の友人にしてマルクス最大の支援者となるフリードリヒ・エンゲルスとの出会いを果たしているが、この時の出会いはお互いにほとんど影響をもたらさなかった。マルクスは「ライン新聞」の編集長をしていたが、ほどなく対ロシア政府批判のために受けた同新聞社への弾圧により、1843年3月に失職した。
ヨーロッパ諸国遍歴と共産主義宣言 [編集]
1843年6月、マルクス25歳のときにイエニー・フォン・ヴェストファーレンと結婚。11月にパリへ出発、マルクスは友人であるアーノルト・ルーゲ、ゲオルク・ヘルヴェークとともに、パリで『独仏年誌』を出版した。しかしながら、『独仏年誌』は2号で廃刊となり、マルクスはドイツからの亡命共産主義者が隔週発行していた「フォアヴェルツ」紙に寄稿するようになった。1844年8月、フリードリヒ・エンゲルスがパリにマルクスを訪れ、10日間滞在し、この時から本格的な二人の交友がはじまった。また、この時期マルクスは、ハインリッヒ・ハイネとの知遇を得て交友を始めることとなる。しかし「フォアヴェルツ」紙に寄稿されたプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の批判記事に憤慨したプロイセン王国枢密顧問官のフランス政府への働きかけにより、1845年1月にはパリからベルギーのブリュッセルへ追放を余儀なくされた。この時のベルギー政府の受け入れには「現在の政治問題についての著作を発表しない」という条件が付いており、マルクスはこれを文書で確約した。しかし、マルクスはこの確約は政治に参加しないことを意味するものではないと解釈し、以後も政治的な活動を続けた[4]。
1846年、マルクス28歳のとき、在住地のブリュッセルにてエンゲルスとともに「共産主義国際通信委員会」を設立、さらに共産主義組織の分派争いの過程で新たに「共産主義者同盟」の結成に参画することになり、『共産党宣言』を起草した。『トリーア新聞』を機関紙としていた「真正社会主義者」カール・グリューンと論戦をしたのもこの頃である。しかしながら、「共産主義者同盟」内の齟齬に起因する内部争いにより、マルクスらは組織内部の少数派に転落、さらには1848年2月のフランス二月革命のため3月3日にベルギー警察に夫婦とも抑留され、24時間以内の国外退去を命じられたため、翌日フランス臨時政府の招きに応じてパリにもどる。翌月にはプロイセン王国領のケルンへと移動し『新ライン新聞』を創刊したものの、政府に弾圧されて翌1849年には廃刊となり、5月には国外追放となる。いったんはパリへと戻るもののフランス政府の実権は反動派が握っており、マルクスはエンゲルスの招きに応じて、1849年8月末、ロンドンに亡命した。以後、マルクスは亡くなるまでイギリスにとどまり続けた。
亡命先ロンドンでの滞在生活 [編集]
マルクスの親友であり支持者であったエンゲルスは、ロンドンで実父が所有する会社に勤めており、資金面においてロンドンに滞在するマルクスを支えた。しかしロンドン亡命後数年間のマルクスは貧困にあえいでおり、二男グイドが1850年11月に、三女フランツィスカが1852年に、長男エドガーが1855年3月に、それぞれ亡くなっている[5]。1851年からマルクスは「ニューヨーク・トリビューン」紙の特派員になり、1862年まで500回以上寄稿した。1851年12月にフランスにおいて大統領のルイ・ナポレオンがクーデターを起こして実権を握るが、これに対してマルクスは2か月後の1852年2月には『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を発表し、激しく非難した。1864年にロンドンで結成された第一インターナショナルに参加、主導権を握り、バクーニンと激しく論争した。
ロンドン亡命以降、マルクスは1850年から亡くなる1883年までの30年間、大英図書館に朝10時から閉館となる夕刻の6時まで毎日通い続け、経済研究と膨大な量の資料収集を行った。マルクスの『資本論』は、この長年にわたる経済研究から生まれたといっても過言ではない。1859年には『経済学批判』を出版した。
1867年4月12日、『資本論』第一巻を刊行。資本の生産過程に関する研究成果の集大成であった[6]。
1871年3月26日、マルクス53歳のときにパリ・コミューンが発生。わずか72日間の短期間ながらも、パリにおいて民衆蜂起による世界初の労働者階級の自治による革命政権が誕生した。このときマルクスは『フランスの内乱』と題する執筆をおこない、この政権を支持した。同時に、「なぜヴェルサイユに逃げた政府軍を追わないのか」とパリ・コミューンを批判もした。
ロンドンでのマルクス家の生活は裕福で、メイドが複数いた。ひとりのメイドはマルクスの子供を産んだが、妻の怒りを避けるために、エンゲルスが自分の子供として認知した[7]。
晩年 [編集]
1871年のパリ・コミューンの蜂起鎮圧以降は『資本論』の執筆活動に専念し、数百にも及ぶレポートを書きつづけた。マルクスは、亡命地ロンドンにいながら、自らの理論体系の構築を行うとともに、ドイツ、フランスの共産主義運動への助言をおこない、精神的支柱であり続けた。1875年にはドイツ社会民主主義運動のアイゼナハ派にあてて文書を送り、これはのちに『ゴータ綱領批判』として出版された。1881年12月2日に妻イエニーが死亡した。
1883年3月14日、亡命地ロンドンの自宅にて、肘掛け椅子に座したまま逝去した(65歳)。1883年3月17日には埋葬が行われた。マルクスの葬儀は、家族とエンゲルスらのごく親しい友人による計11人(または9人)で執り行なわれた[8][9]。このときのエンゲルスの弔辞は「カール・マルクスの葬儀」として遺されている。彼の墓はイギリスのアーチウェイ駅の近くにあるハイゲイト墓地にあり、1956年には有志の手で新たにスウェーデン産の黒御影石の胸像が加えられた。そして現在に至るまで、彼の生前の面影を偲ぶことができる。
マルクスは、彼が亡くなる直前まで精力的に執筆活動を行っており、彼の元には膨大な草稿が遺されていた。そして彼の没後、遺された草稿に基づき、彼の意思を受け継いだエンゲルスが1889年に『資本論』第二巻を編集・出版、さらに1894年には、第三巻の編集・出版が行われた。
マルクスの歴史観 [編集]
「マルクス主義」も参照
唯物史観 [編集]
詳細は「唯物史観」を参照
マルクスの歴史観によれば、その時代における物質的生活の生産様式が社会の経済的機構(社会的存在)を形成し、同時代の社会的、政治的、精神的生活諸過程一般(意識)を規定するとしている。したがって、人間の意識と社会的存在との関係は、人間の意識がその時代における社会的存在(物質的生活の生産様式)を規定するのではなく、逆にその時代における社会的存在が、政治経済や芸術・道徳・宗教といった、同時代の意識そのものを規定するという関係が成立することになる。 人間の社会的存在を土台にして、その時代における意識を規定するという関係から、人間の社会的存在を下部構造、人間の意識を上部構造とよび、つねに時代とともに変化する下部構造のありようが、その時代における上部構造の変化を必然的にもたらすものとされた。このようなマルクスの歴史観を唯物史観(唯物論的歴史観)という。マルクスの言葉では以下のとおりである。
人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。
— 『経済学批判 序言』
人間社会の発展と疎外 [編集]
若いころ、マルクスは、人間の作り出したシステムや生産諸関係が人間の手を離れ、逆に人間を敵対的に抑圧する状態、すなわち疎外が発生することを指摘した。(「疎外」という言葉はヘーゲル哲学でよく用いられる。)疎外の形態はさまざまであり、商品や貨幣が人間を支配し労働本来のよろこびが失われる労働の疎外、生産における人間と機械の地位が逆転し、人間の主体性が否定され、まるで歯車の一部のようにされる機械技術による疎外[10]などである。
ただし、唯物論的な歴史観(唯物史観)を確立した後、マルクス、エンゲルスは「疎外」という用語をほとんど使っていない。
資本主義の発展と革命 [編集]
マルクスは『資本論』の中で、資本主義に内在するさまざまな矛盾点や問題点を考察する一方、資本主義そのものは社会の生産性を高めるために必要な段階と捉えており、資本主義経済の発展・成熟とそれに伴う恐慌、階級闘争の激化などを契機として、革命が起こり共産主義へと移行すると考えていた。マルクスが共産主義革命の前提としていたのは、当時のイギリス、ドイツ、フランスなどに代表される西欧の成熟した資本主義的生産様式であった。しかし、実際に社会主義革命が成功したのはロシア、中国、キューバなど資本主義の発展の遅れた国々であった。
マルクスの経済学 [編集]
マルクス経済学を参照。
マルクスの宗教観 [編集]
マルクスは、学生時代にヘーゲル哲学を研究するかたわら、詩作を試みた時期があった。愛をうたった詩も多い。1837年(19歳)のときにノートに書いた「絶望者の祈り」[11]という詩は、「運命の呪いと軛だけを残して何から何まで取上げた」神への復讐というフレーズで始まっている。
マルクスは26歳のとき、論文『ヘーゲル法哲学批判序論』のなかで次のように述べている[12]。
宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。それは人民の阿片(アヘン)である。人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである
この"阿片"については『ヘーゲル法哲学批判序論』に、痛み止めである旨の記述もある。阿片は当時、緩和医療での疼痛などの痛み止めとしても使用されていた。
ブルーノ・バウアーがユダヤ人を解放するには彼らをユダヤ教からキリスト教に改宗させればよいと主張したのに対し、26歳のマルクスは、私有制のエゴイズムが金銭崇拝と商人根性をユダヤ人に教えるのであり、改宗は無意味である。必要なのは人間をエゴイズムから解放することである、と反論している(『ユダヤ人問題によせて』)[13]。
マルクス自身はフォイエルバッハから影響を受けて無神論的になり、社会や歴史を形成する原理は宗教的理念ではなく、究極的には経済に求めるべきと考えた。
マルクスの文学・芸術観 [編集]
ギリシャ悲劇、シェイクスピアなどの劇文学を愛好した[14]。
マルクス没後の出版 [編集]
マルクスは主著『資本論』を第1巻しか完成できなかった。第2巻と第3巻はマルクスの遺稿をもとにエンゲルスが編集したものである。それらの序文でエンゲルスは、未完成の草稿からまとまった著作を作りあげる苦労を語っている。またマルクスの原文をできるだけ忠実に再現し、追加や書き換えは最小限にとどめるという編集方針を述べている[15]。
ソビエト連邦成立後、マルクスの著作はソ連共産党のマルクス=レーニン主義研究所で編纂され出版された。
マルクスの遺稿に手を加えたり、見出しをつけたり、並べ替えたりして出版されたこともあった[16]。
新『マルクス=エンゲルス全集』の出版 [編集]
現存するすべてのマルクスの自筆原稿、公刊された著作の各版、および手紙類までふくめて再現する新『マルクス=エンゲルス全集』(通称『新MEGA』)[17]が、旧東独のマルクス=レーニン主義研究所により刊行されてきた。東独消滅により国家事業として支援されなくなった後は国際マルクス/エンゲルス財団により刊行が続けられている。たとえば『資本論』第1巻ではドイツ語版初版と第2版、フランス語版などが別々に収録されており、第2巻と第3巻の各草稿もすべてが収録される予定である。そこで公刊されたマルクスの資本論草稿の一部は『資本の流通過程』『資本論草稿集1~9』(大月書店)として日本語訳されている。
語録 [編集]
- 「哲学者は、世界をただいろいろに解釈しただけである。しかし、大事なことは、それを変革することである」(『フォイエルバッハに関するテーゼ』)
- 「ヘーゲルはどこかで、すべて世界史上の大事件と大人物はいわば二度現われる、と言っている。ただ彼は一度は悲劇として、二度目は茶番として、とつけくわえるのを忘れた」(『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)
- 「人間は、自分で自分の歴史をつくる。しかし、自由自在に、自分で勝手に選んだ状況のもとで歴史をつくるのではなくて、直接にありあわせる、あたえられた、過去からうけついだ状況のもとでつくるのである」(『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)
- 「職業選択における主なみちしるべは、人類の福祉と私たち自身の完成ということである。この二つは敵対して闘うもの、一方は他方を否定するはずのものと考えるのは誤りで、人間の天性は、その時代の完成と福祉とのために働く場合に、はじめて自己の完成をも達することができるようにできている」(ギムナジウム(高校)時代の卒業論文『職業の選択にさいしての一青年の考察』)
- 「これまでのすべての社会の歴史は、階級闘争の歴史である」(『共産党宣言』)
- 「万国の労働者よ団結せよ!」(『共産党宣言』)
個人生活 [編集]
妻イエニーとの間には7人の子供が生まれたが、ロンドンでの一時期の貧しい生活によって4人が夭折し、成人したのは3人の娘だけであった[18]。子供は、長女のジェニー・キャロライン(イエニー、1844年–1883年)、次女ジェニー・ローラ(1845年–1911年)、長男エドガー(1847年–1855年)、二男ヘンリー・エドワード・ガイ (グイド、1849年–1850年)、三女ジェニー・エベリーネ・フランシス(フランツィスカ、1851年–1852年)、四女ジェニー・ジュリア・エレノア(1855年–1898年)、 それに1857年7月に名づけられないまま亡くなった子供の7人である。
逸話 [編集]
- マルクスの浪費癖は有名である。マルクスの学生時代、父親からの手紙に「どんな金持ちの子供でも1年に500ターラー (通貨)も使う者はいないというのに、お前は700ターラーでも足りないという、ああなんということだ(当時のベルリン市の幹部の俸給は800ターラー)」と記されていたという。ロンドン亡命後の滞在にあたっては、エンゲルスからの生活費支援が不可欠であった。[19]。また、ロバート・L.ハイルブローナーによると、マルクスの人となりを次のように評している。「もしマルクスが折り目正しく金勘定のできる人物だったなら、家族は体裁を保って生活できたかもしれない。けれどもマルクスは決して会計の帳尻を合わせるような人物ではなかった。たとえば、子供たちが音楽のレッスンを受ける一方で、家族は暖房無しに過ごすということになった。破産との格闘が常となり、金の心配はいつも目前の悩みの種だった」。[20]
- 悪筆であり、彼の原稿を解読できるのはエンゲルスを含めごく限られた人間のみであった。
- 南北戦争では北部を支持し、エイブラハム・リンカーンに祝電を送り返事をもらっている。その後任のアンドリュー・ジョンソンが南部に対して妥協的な戦後処理を行った際には、書簡の中で「現在アメリカで起こっていることに就いて私は懸念しなければならない。反動が起こっている」と批判している。
- マルクス自身、元々の出自はユダヤ系であったが、他人に対するさまざまな偏見を持っていた。たとえば、彼の親友にしてライバルのフェルディナント・ラサールを「ユダヤの黒んぼラサール[21]」「頭の格好と髪の生え方からして、奴はモーゼと一緒にエジプトから脱出したニグロの子孫に違いない(さもなきゃ、奴のお袋さんか、父方の祖母さんがニガーと交わっていたということさ)。[22]」(1862年のエンゲルス宛書簡)と親友宛の手紙に書いている。
- マルクスはまた、論敵手・バクーニン(ロシア人)との確執から、ロシア人への偏見を込めて「奴らは信用できない。奴らが動き出すと悪魔も逃げ出す」と評していたが、ヴェラ・ザスーリッチとの手紙でロシアにおける独自の可能性を認めている。これは純血ロシア人を嫌ったレーニンにも共通している。
- 娘イエニーの手記によると、マルクスの好きな色は共産主義のシンボルカラーである赤、好きな格言は「人間にかかわることで、私にとってどうでもよいものはなにひとつない」(ローマの詩人テレンティウスの言葉)、好きなモットーは「全てを疑え」であった。
- イギリス亡命時に酒場でイギリス人スピーカーがドイツ批判をしたことにマルクスが激怒し、乱闘となった。
- 『ポートレートから読むマルクス』において、マルクス家の家政婦ヘレーネ・デムートの息子フレデリックの1912年4月10日の手紙で自分の父親がマルクスである旨、またエリノアがフレデリックを母違いの兄である旨、1929年2月27日のクララ・ツェトキンへの手紙があったことが判明した。フレデリック・デムートはほとんどマルクスと会ったことがないまま育ち、工場労働者となった。
著作 [編集]
- 『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学との差異』(学位請求論文)
- 『プロイセンの最新の校閲訓令に対する見解』
- 『第6回ライン州議会議事』
- 『ヘーゲル国法論批判』
- 『ユダヤ人問題によせて』
- 『ヘーゲル法哲学批判序説』
- 『経済学・哲学草稿』
- 『聖家族』
- 『フォイエルバッハに関するテーゼ』(フォイエルバッハ・テーゼ)
- 『ドイツ・イデオロギー』
- 『クリーゲに反対する回状』
- 『哲学の貧困』
- 『共産党宣言』(共産主義者宣言)
- 『新ライン新聞編集委員会の声明』
- 『フランスにおける階級闘争』
- 『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』
- 『亡命者偉人伝』
- 『イギリスの選挙』
- 『ケルン共産主義裁判の真相』
- 『経済学批判要綱』
- 『経済学批判』
- 『フォークト氏』
- 『資本論』
- 『フランスの内乱』
- 『ゴータ綱領批判』
ほか
脚注 [編集]
- ^ なお、2005年のイギリスBBCのラジオ番組の視聴者投票でもっとも偉大な哲学者に選ばれたhttp://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-07-23/2005072301_02_2.html
- ^ Nikolaus Sandmann: Heinrich Marx, Jude, Freimaurer und Vater von Karl Marx. In: Humanität, Zeitschrift für Gesellschaft, Kultur und Geistesleben, Hamburg; Heft 5/1992, S. 13–15.
- ^ 廣松(2008) p.17
- ^ 「名著誕生1 マルクスの『資本論』」pp30-31 フランシス・ウイーン著 中山元訳 ポプラ社 2007年9月20日第1刷
- ^ 「名著誕生1 マルクスの『資本論』」p37 フランシス・ウイーン著 中山元訳 ポプラ社 2007年9月20日第1刷
- ^ 第二巻以降はマルクスの死後、彼によって残された膨大な研究レポートと生前の彼の意思に基づき、エンゲルスらによって順次編纂・刊行された。
- ^ 若狭和朋『日露戦争と世界史に登場した日本 日本人に知られては困る歴史』
- ^ Wheen, Francis (2001). Karl Marx. London: Fourth Estate. ISBN 978-1-85702-637-5.p. 382.
- ^ Stephen Jay Gould; Paul McGarr; Steven Peter Russell Rose (24 April 2007). The richness of life: the essential Stephen Jay Gould. W. W. Norton & Company. pp. 167–168. ISBN 978-0-393-06498-8. Retrieved 9 March 2011
- ^ たとえば、映画『モダン・タイムス』(1936年公開)でチャップリン演じる労働者が、ひたすらねじ回しを繰り返す作業の末に発狂の上トラブルを起こし、あげくの果てには巨大歯車に巻き込まれてしまうシーンがあり、当時の資本主義社会における閉塞感と機械技術による疎外を象徴的に描写している。
- ^ Des Verzweifelnden Gebet
- ^ この文章は、ドイツの詩人でマルクスの親友でもあるハインリッヒ・ハイネの1840年の著作『Ludwig Borne iv(ルートヴィヒ・ベルネ)』中の「宗教は救いのない、苦しむ人々のための、精神的な阿片である」が先行している。福岡大学理学部_柴田勝征研究室_言問い亭を参照。
- ^ 大内兵衛 『マルクス・エンゲルス小伝』 岩波書店〈岩波新書〉、1964年、24頁。
- ^ 『シェイクスピアは「資本論」の中でどう描かれたか』(川上重人・著) および、アマゾン・ドットコムでの、西岡昌紀による本書のレビュー
- ^ このことから資本論第2巻と第3巻は事実上マルクスの著作として読まれてきたのであるが、しかし現在アムステルダム社会史国際研究所に現存する草稿の調査から、エンゲルスによる書き換えが予想よりはるかに多いことが明らかになった。またその内容が、かならずしも形式的なものでもないとする研究者も多数いる。またエンゲルスによる章別構成や原稿の配列順序に異を唱える論者もいる。
- ^ 『資本論』第4部こと『剰余価値学説史』は、エンゲルスの死後カール・カウツキーの編集で出版されたが、これは本文の改竄を含んでおり、ソ連マルクス=レーニン主義研究所により編集し直された。これは構成および各節の小見出しが上の研究所の手になるものである。その後、未編集の草稿の状態を再現した「1861-63年の経済学草稿」が日本語訳でも出版されている。『資本論』に関するもの以外にもマルクス、エンゲルスの死後に発見された著作やノートには同様の問題をはらんでいるものがあり、特に1932年のいわゆる旧MEGAに収録された『ドイツ・イデオロギー』は原稿の並べ替えが行われ、廣松渉から「偽書」と批判された(詳細は『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』(岩波文庫)の「解説」および『廣松渉著作集』、岩波書店、第八巻参照)。『経済学・哲学草稿』は旧MEGA版、ディーツ版、ティアー版などの各版で順序や収録された原稿が異なる(『経済学・哲学草稿』、岩波文庫版、p.298)。
- ^ かつて日本語訳され大月書店から刊行されていた『マルクス=エンゲルス全集』の底本は「全集」ではなく「著作集」(通称『MEW』)である。
- ^ Peter Singer (2000). Marx a very short introduction. pp. 5. ISBN 0-19-285405-4
- ^ 『エピソードで読む西洋哲学史』堀川哲著
- ^ 『入門経済思想史-世俗の思想家たち』ロバート・L.ハイルブローナー著
- ^ 原文:"Der jüdische Nigger Lassalle"
- ^ 原文:"Es ist mir jetzt völlig klar, daß er, wie auch seine Kopfbildung und sein Haarwuchs beweist, von den Negern abstammt, die sich dem Zug des Moses aus Ägypten anschlossen (wenn nicht seine Mutter oder Großmutter von väterlicher Seite sich mit einem Nigger kreuzten."
参考文献 [編集]
- 大内兵衛 『マルクス・エンゲルス小伝』 岩波書店〈岩波新書〉、1964年
- ナガイ・ケイ 『喧嘩屋マルクス』 富士書房、1989年
- 大村泉ほか 『ポートレートで読むマルクス 写真帖と告白帖にみるカール・マルクスとその家族』 極東書店、2005年
- 廣松渉 『青年マルクス論』 平凡社、2008年(平成20年)。ISBN 978-4582766547。
関連項目 [編集]
- マルクス主義
- マルクス経済学
- 弁証法
- 唯物論
- 唯物史観
- 空想的社会主義
- ヘーゲル
- 青年ヘーゲル派
- フォイエルバッハ
- ブルーノ・バウアー
- マックス・シュティルナー
- 第一インターナショナル
- ミハイル・バクーニン
- 共産党宣言
- ロシア革命
- マルクス主義関係の記事一覧
外部リンク [編集]
- 田口富久治「マルクス」(Yahoo!百科事典)
- 日本人に謝りたい -ユダヤ長老が明かす戦後病理の原像-
- カール・マルクスとその夫人
- マルクス カール・ハインリッヒ:作家別作品リスト(青空文庫)
- 「Karl Marx」 - スタンフォード哲学百科事典にある「カール・マルクス」についての項目。(英語)
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