カール・マルクス
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| ドイツの経済学者 | |
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カール・マルクス
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| 生年月日: | 1818年5月5日 |
| 没年月日: | 1883年3月14日 |
| 学派: | マルクス経済学 |
| 研究分野: | 資本主義経済の分析 |
| 特記すべき概念: | マルクス経済学・科学的社会主義の創始者 |
カール・ハインリヒ・マルクス(Karl Heinrich Marx, 1818年5月5日 - 1883年3月14日)は、ドイツの経済学者、哲学者、ジャーナリスト、革命家。20世紀において最も影響力があった思想家の一人とされる[1]。
親友にして同志のフリードリヒ・エンゲルスとともに、包括的世界観及び革命思想として「科学的社会主義」(学問的社会主義)を打ちたて、資本主義の高度な発展により共産主義社会が到来する必然性を説いた。
『共産党宣言』の結語「万国のプロレタリアよ、団結せよ!」“Proletarier aller Länder, vereinigt Euch!”の言葉は有名である。
マルクスの経済学批判による資本主義分析は主著『資本論』に結実し、『資本論』に依拠した経済学体系はマルクス経済学と呼ばれる。
目次 |
[編集] 生涯
ユダヤ系ドイツ人。ナポレオン支配を脱して拡大したプロイセン王国治下のモーゼル河畔、トリーア出身。父ハインリッヒ・マルクス(旧名ヒルシェル・ハレヴィ・マルクス)はラビの家系に生まれ、ユダヤ教からキリスト教のプロテスタントに改宗した弁護士で、トリーアの顧問を歴任した。母はオランダ生れのユダヤ人のアンリエットで、ハインリッヒよりもユダヤ性が強く、日常生活でイディッシュ語を話していた。姉はゾフィー。カール自身もプロテスタントとしての洗礼を6歳で受けた。
校長が熱烈なルソーの支持者であった、現在も残る高校に学んだマルクスの卒業論文(哲学)の主題は、「労働生活は果たして幸福か」というものだった。
18歳のとき姉の友人で検事総長の娘だったイエニー・フォン・ヴェストファーレン(22歳)と婚約した。(彼女の召使いは、後に終生マルクス家に仕えたヘレーネ・デムート[愛称:レンシェント]であった。)
マルクスの父は、1838年、腎臓病のため死去した。
マルクスは、1841年、イエナ大学への学位請求論文により哲学博士となった。
1842年、マルクスは、フリードリヒ・エンゲルスと出会った。マルクスは、「ライン新聞」の編集者をしていたが、1843年、対プロイセン政府批判のために受けた同年3月の「ライン新聞への弾圧」により、失職した。
マルクスは、友人とともに、パリで『独仏年誌』(Franco-German Annals)を出版し、500ターレルの収入を得た。
1843年6月イエニー・フォン・ヴェストファーレンと結婚すると、11月にパリへ出発した。
1844年5月1日、長女イエニーが誕生した。この時期、マルクスは、ハインリッヒ・ハイネとも知り合い交際した。
『独仏年誌』は2号で廃刊になったが、プロイセン王国枢密顧問官で外交使節としてたびたびパリを訪問していたアレキサンダー・フォン・フンボルトのフランス政府への働きかけにより、1845年1月ベルギーのブリュッセルへ追放された。
1847年、長男エドガー誕生した(8歳で死亡)。
1848年2月のフランス二月革命のため3月3日に警察に夫婦とも抑留され翌日パリにもどる。1849年8月末ロンドンに赴く。次男ヘンリー、長女フランチスカ誕生するも1850年末に死亡する。また娘エリノア、ラウラも誕生する。ロンドンの生活で彼の独自思想を確立する。マルクスの支持者である親友のエンゲルスがエンゲルスの父親が所有する会社に勤め、資金面においてマルクスを支えた。1851年からマルクスはニューヨーク・トリビューンの特派員になり、1862年まで500回以上も寄稿した。ロンドンで結成された第一インターナショナルの存在を知るや、遅ればせながら参加し、バクーニンと主導権争いを演じた。
1871年のパリ・コミューンに際しては、『フランスの内乱』を書き、のちにも革命後社会のイメージとして大いに影響されていた。他方で「なぜヴェルサイユに逃げた政府軍を追わないのか」とパリ・コミューンを批判してもいた。
パリ・コミューン以降は『資本論』の執筆に専念し、数百にも及ぶレポートで書きつづけた。1881年12月2日妻イエニー死亡。資本論第一巻を出版した。1883年3月14日、自宅の肘掛け椅子に座ったまま死去。膨大な草稿を残していた。葬儀は家族とエンゲルスら友人で計11人で行なわれた。このときのエンゲルスの弔辞は「カール・マルクスの葬儀」として残されている。墓はイギリスのアーチウェイ駅の近くハイゲト・セメタリにある。1956年に有志によりスエーデン産の黒御影石の胸像形の墓にされた。没後に残された草稿に基づいてエンゲルスが1889年に『資本論』第二巻を編集・出版し、1894年に第三巻を編集・出版した。
[編集] その他
- 『ポートレートから読むマルクス』において、マルクス家の家政婦ヘレーネ・デムートの息子フレデリックの1912年4月10日の手紙で自分の父親がマルクスである旨、またエリノアがフレデリックを母違いの兄である旨、1929年2月27日のクララ・ツェトキンへの手紙があったことが判明した。フレデリック・デムートはほとんどマルクスと会ったことがないまま育ち、工場労働者となった。
- 娘イエニーの手記によるとマルクスの好きな色は赤、モットーは「全てを疑え」であった(妻イエニーは青、「絶望するなかれ」)。
- 悪筆であり、彼の原稿を解読できるのはエンゲルスを含めごく限られた人間のみであった。
- マルクスの理論からは社会主義革命がロシアで勃発することはあり得なかった。マルクスが展開する議論の前提にあるのは英独仏など西欧の成熟した資本主義国である。
- 自身もユダヤ人であるが、親友にしてライバルのフェルディナント・ラサールを「ユダヤの黒んぼラサール"Der jüdische Nigger Lassalle"」「頭の格好と髪の生え方からして、奴はモーゼと一緒にエジプトから脱出したニグロの子孫に違いない(さもなきゃ、奴のお袋さんか、父方の祖母さんがニガーと交わっていたということさ)"Es ist mir jetzt völlig klar, daß er, wie auch seine Kopfbildung und sein Haarwuchs beweist, von den Negern abstammt, die sich dem Zug des Moses aus Ägypten anschlossen (wenn nicht seine Mutter oder Großmutter von väterlicher Seite sich mit einem Nigger kreuzten."」(1862年のエンゲルス宛書簡)と発言している。
- マルクスはバクーニンとの関係からロシア人を「奴らは信用できない。奴らが動き出すと悪魔も逃げ出す」と評していたが、ヴェラ・ザスーリッチとの手紙でロシアにおける独自の可能性を認めている。これは純血ロシア人を嫌ったレーニンにも共通している。
- イギリス亡命時に酒場でイギリス人スピーカーがドイツ批判をしたことにマルクスが激怒し、乱闘となった。
- 南北戦争では北部を支持し、エイブラハム・リンカーンに祝電を送り、返事をもらっている。
- マルクスの偏見にも拘らず、娘ラウラは混血黒人のポール・ラファルグと結婚したが、のちに夫婦で自殺した。
- マルクスの浪費癖は有名である。マルクスの学生時代、父親からの手紙に「どんな金持ちの子供でも1年に500ターラー (通貨)も使う者はいないというのに、お前は700ターラーでも足りないという、ああなんということだ(当時のベルリン市の幹部の俸給は800ターラー)」と記されていたという。ロンドン亡命後はエンゲルスに生活費を出してもらっていた(堀川哲著『エピソードで読む西洋哲学史』より)。またロバート・L.ハイルブローナー著の『入門経済思想史-世俗の思想家たち』には、次のように記されている。「もしマルクスが折り目正しく金勘定のできる人物だったなら、家族は体裁を保って生活できたかもしれない。けれどもマルクスは決して会計の帳尻を合わせるような人物ではなかった。たとえば、子供たちが音楽のレッスンを受ける一方で、家族は暖房無しに過ごすということになった。破産との格闘が常となり、金の心配はいつも目前の悩みの種だった」。
- 今もロンドン市内のレストランの2階に旧宅跡が残る。
- 後にジョン・F・ケネディ大統領が「もしアメリカのジャーナリズムがマルクスの原稿料を値切らなかったならば、マルクスはあんなに貧乏しなかったろう。そしてあんな革命論など書かなかったろう」とジョークを言っている。
[編集] 宗教観
初期の著作『ヘーゲル法哲学批判序論』に「宗教は、逆境に悩める者のため息であり(中略)、それは民衆の阿片である。」とあるが、この文章は、ドイツの詩人でマルクスの親友でもあるハインリッヒ・ハイネの1840年の著作『Ludwig Borne iv(ルートヴィヒ・ベルネ)』中の「宗教は救いのない、苦しむ人々のための、精神的な阿片である」から引用したものと思われる。[1]
なお、この"阿片"については『ヘーゲル法哲学批判序論』に、痛み止めである旨の記述もある。当時の阿片は緩和医療での疼痛などの痛み止めとして使用される一般的な医薬品であり、文中ではこの意味で"阿片"の語句が使われていた。確かに中毒を引き起こす「麻薬」として当時も利用されていたが、決してその面を強調したものではなく、また今日のように製造販売の禁止はされていない。
自身はフォイエルバッハから影響を受けて無神論的になり、青年ヘーゲル派(ヘーゲル左派)の主張を敷衍し、「歴史の形成原理は宗教的理念ではなく下部構造、すなわち労働にある」と考えた。
とはいっても「神が人類および人間自身を最高たらしめる普遍的な目的をあたえたのであるが、神はこの目的を達成しうるための手段をさ がしもとめることを人間自身にゆだねた。神は、人間にもっともふさわしい。そして人間が人間自身と社会とを最もよく高めることができるような立場を社会の中でえらぶことを人間にゆだねたのである」(マルクス・エンゲルス全集40巻515~519頁)としている。
自らが棄教したユダヤ教を「ユダヤ教の本質は私利である」といっている。
[編集] 資本主義
資本主義については『資本論』の中で定義した。一般に誤解されているが、マルクスは資本主義の矛盾や問題点に目をむけて研究を進めていたが、資本主義そのものは社会の生産性が高まる必要な時期と捉えており、資本主義が成熟し、やがて共産主義へと移行すると考えていた。
そのため資本主義の成熟を経ていないロシアがソビエト連邦を建てることへの異議は当時から多かった。また、資本主義の成熟を見ていないという点は当事者であるボルシェビキも自覚的であったために(実際には先進国での革命が相次ぐと期待していたために)、メンシェビキら政敵やドイツ社会民主党に批判されるという点でも、新政策立案の条件においても、悩みの種であった。資本主義の成熟の果てに社会主義が可能になるという条件は、一連の社会主義国がそのシステムの運用に失敗した理由の一つとして最も挙げられることの多い点である。
[編集] 出版物の正確性
マルクスは主著『資本論』を第1巻しか完成できなかった。現在出回っている第2巻と第3巻はマルクスの遺稿をもとにエンゲルスが編集したものである。それらの序文でエンゲルスは、完成度がまちまちな草稿からまとまった著作を作りあげる苦労を語っている。またマルクスの原文を忠実に再現し、追加や書き換えは形式的なものに限るという編集方針を述べている。このことから資本論第2巻と第3巻は事実上マルクスの著作として読まれてきたのであるが、しかし現在アムステルダム社会史国際研究所に現存する草稿の調査から、エンゲルスによる書き換えが予想よりはるかに多いことが明らかになった。またその内容が、かならずしも形式的なものでもないとする研究者も多数いる。またエンゲルスによる章別構成や原稿の配列順序に異を唱える論者もいる。
ソビエト連邦成立後、マルクスの著作はソ連共産党のマルクス=レーニン主義研究所で編纂され、世界中に流通することになった。『資本論』第4部こと『剰余価値学説史』は、エンゲルスの死後カール・カウツキーの編集で出版されたが、これは本文の改竄を含んでおり、ソ連マルクス=レーニン主義研究所により編集し直された。これは構成および各節の小見出しが上の研究所の手になるものである。現在は未編集の草稿の状態を再現した「1861-63年の経済学草稿」が邦訳でも出版されている。
現在、マルクスの著作物の日本語訳の多くが、この研究所で編纂されたものを使用して翻訳がされているが、マルクスが学生時代に法律学や哲学を専攻したことがあるためか、かなり専門用語を多用して書かれているため、向坂逸郎らが翻訳した際にその用語を十分理解していなかった部分があり、日本語訳の内容は原作とは離れている可能性が否定できない。
現存するすべてのマルクスの自筆原稿、公刊された著作の各版、および手紙類までふくめて再現する新『マルクス=エンゲルス全集』が、旧東独のマルクス=レーニン主義研究所により刊行されてきた。現在は国際マルクス/エンゲルス財団により刊行が続けられている。たとえば『資本論』第1巻ではドイツ語版初版と第2版、フランス語版などが別々に収録されており、第2巻と第3巻の各草稿もすべてが収録される予定である。そこで公刊されたマルクスの資本論草稿の一部は『資本の流通過程』『資本論草稿集1~9』(大月書店)として邦訳されている。
[編集] 語録
- 「哲学者は、世界をただいろいろに解釈しただけである。しかし、大事なことは、それを変革することである」(『フォイエルバッハに関するテーゼ』)
- 「ヘーゲルはどこかで、すべて世界史上の大事件と大人物はいわば二度現われる、と言っている。ただ彼は一度は悲劇として、二度目は茶番として、とつけくわえるのを忘れた」(『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)
- 「人間は、自分で自分の歴史をつくる。しかし、自由自在に、自分で勝手に選んだ状況のもとで歴史をつくるのではなくて、直接にありあわせる、あたえられた、過去からうけついだ状況のもとでつくるのである」(『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)
- 「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである」(『経済学批判 序言』)
- 「宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。宗教は追いつめられた生きもの溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。それは人民の阿片(アヘン)である。人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである」(『ヘーゲル法哲学批判序説』)
- 「職業選択における主なみちしるべは、人類の福祉と私たち自身の完成ということである。この二つは敵対して闘うもの、一方は他方を否定するはずのものと考えるのは誤りで、人間の天性は、その時代の完成と福祉とのために働く場合に、はじめて自己の完成をも達することができるようにできている」(ギムナジウム(高校)時代の卒業論文「労働生活は果たして幸福か」)
- 「これまでのすべての社会の歴史は、階級闘争の歴史である」(『共産党宣言』)
[編集] 著作
- 『資本論』
- 『経済学批判』
- 『経済学批判要綱』
- 『フランスにおける階級闘争』
- 『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』
- 『フランスの内乱』
- 『共産党宣言』(共産主義者宣言)(1848年)
- 『ドイツ・イデオロギー』
- 『経済学・哲学草稿』
- 『ヘーゲル法哲学批判序説』
- 『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学との差異』
- 『哲学の貧困』
- 『ユダヤ人問題によせて』
- 『ゴータ綱領批判』
- 『亡命者偉人伝』
- 『ケルン共産主義裁判の真相』
- 『フォークト氏』
- 『聖家族』
- 『ヘーゲル国法論批判』
- 『プロイセンの最新の校閲訓令に対する見解』
- 『第6回ライン州議会議事』
- 『フォイエルバッハに関するテーゼ』(フォイエルバッハ・テーゼ)
- 『クリーゲに反対する回状』
- 『新ライン新聞編集委員会の声明』
- 『イギリスの選挙』
- 『イギリスのインド支配』
他多数。
[編集] 脚注
- ^ なお、2005年のイギリスBBCのラジオ番組の視聴者投票でもっとも偉大な哲学者に選ばれたhttp://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-07-23/2005072301_02_2.html
[編集] 関連項目
- マルクス主義
- マルクス経済学
- 弁証法
- 唯物論
- 唯物史観
- 空想的社会主義
- 初期社会主義
- 青年ヘーゲル派
- フォイエルバッハ
- ブルーノ・バウアー
- マックス・シュティルナー
- 第一インターナショナル
- ミハイル・バクーニン
- アナキズム
- マニフェスト
- ロシア革命
- マルクス主義関係の記事一覧
[編集] 外部リンク
- カール・マルクスとその夫人
- マルクス カール・ハインリッヒ:作家別作品リスト(青空文庫)
- (百科事典)「Karl Marx」 - スタンフォード哲学百科事典にある「カール・マルクス」についての項目。(英語)
[編集] 参考文献
- 『ポートレートで読むマルクス』 極東書店 2005
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