ジャン=ポール・サルトル

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ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル
Jean-Paul Charles Aymard Sartre
1967年(一人はさんで右側の女性がシモーヌ・ド・ボーヴォワール)
生誕 1905年6月21日
フランスの旗 フランスパリ
死没 1980年4月15日(満74歳没)
フランスの旗 フランスパリ
時代 20世紀の哲学
地域 西洋哲学
学派 実存主義
大陸哲学
マルクス主義
研究分野 認識論存在論現象学形而上学
倫理学
政治哲学
主な概念 実存は本質に先立つ悪しき信念
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ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトルフランス語: Jean-Paul Charles Aymard Sartre, 1905年6月21日 - 1980年4月15日)は、フランス哲学者小説家劇作家。内縁の妻はシモーヌ・ド・ボーヴォワール。強度の斜視があり、1973年に右失明

生涯[編集]

1905年パリ16区に生まれる。生後15ヶ月で、海軍将校であった父が熱病に倒れ死亡したため、母方の祖父であるシャルル・シュヴァイツァー(1844 - 1935、ノーベル賞受賞者であるアルベルト・シュバイツァーの伯父)の家に引き取られる。つまり、母アン・マリ-・シュヴァイツァー(旧姓)とアルベルト・シュバイツァーはいとこであった。シャルルはドイツ語の教授であり深い教養を持ち、サルトルの学問的探究心を刺激した。

パリのブルジョワ知識人階級の中で育ったサルトルは、1915年にパリの名門リセであるアンリ4世校リセ・ルイ=ル=グランで学び、このときにのちに作家となるポール・ニザン (1905 - 1940) と知り合う。ちなみに、2002年の『帝国以後』が世界的なベストセラーとなったエマニュエル・トッドはニザンの孫である。母の再婚(その再婚相手は当時は工場長であったジョゼフ・マンシー)にともない、1917年にはラ・ロシェルの高等中学校に転校することになるが、サルトルは転校先のラ・ロシェルにうまく溶け込むことができず、後に挫折の年月と述懐している。この時期のエピソードとしては、母の金を盗んだことで祖父から見離されたことや、美少女を口説こうとして失敗し、自身の醜さを自覚したことなどが知られる。こうしたラ・ロシェルでの「悪い影響」を案じた家族により、1920年には再びアンリ4世校に転校して、そこでポール・ニザンと再会した。

1923年、高等師範学校に入学する為、準備学級に在学中にニザンと知り合いとなる。その年に刊行した同人雑誌「無名誌」(Revue sans titre)に短編小説『病める者の天使』を発表。

1924年高等師範学校(École Normale Supérieure)に入学して、モーリス・メルロー=ポンティと知り合う。

1927年には、ニザンと共にヤスパースの『精神病理学総論』仏訳の校正を行っている。

1928年アグレガシオン(1級教員資格)(哲学)試験に落第。サルトルを知るものはみな驚くが、翌年首席で合格した。ポール・ニザンも同じ1929年に合格した(哲学)。このころ、同試験の第2位(哲学)で生涯の伴侶となるシモーヌ・ド・ボーヴォワールと知り合い、1929年には2年間の契約結婚を結んでいる。

1931年高等中学校の哲学科で教師となる。真理の伝説を執筆、この本は20ページ程の本であった。出版しようとしたが、知識のみで描かれた本で説得力に乏しい本であったために出版は拒否された。1933年から1934年にかけて、ベルリンに留学して現象学を学ぶ。

1935年に想像力についての実験のため、友人の医師・ラガッシュによってメスカリン注射を受ける。この際に全身をカニやタコが這いまわる幻覚に襲われ、以降も幻覚を伴う鬱症状に半年以上悩まされることになる。甲殻類に対する恐怖は生涯続いた。

レイモン・アロンとの会話によりエドムント・フッサールの現象学に興味を持ち、エマニュエル・レヴィナスの博士論文『フッサール現象学の直観理論』(La théorie de l'intuition dans la phénoménologie de Husserl)を読み、ベルリンに留学した際にはフッサールに学ぶ。その後、1936年から1939年にかけてル・アーヴルやパリで教鞭を執る傍ら、哲学・文学両面にわたる執筆活動を行い、1938年には小説『嘔吐』を出版して名声を博した。

第二次世界大戦のために兵役召集されるが、捕虜となったのち、1941年に偽の身体障害証明書によって収容所を釈放される。

1943年、主著『存在と無』を出版。『存在と無』は副題に「現象学的存在論の試み」と打たれているとおりにフッサール現象学、精神分析学、そしてマルティン・ハイデッガー存在論に色濃く影響されている。

戦争体験を通じて次第に政治的関心を強めていったサルトルは、1945年にはボーヴォワールやメルロー=ポンティらと雑誌『レ・タン・モデルヌ』を発行。以後、著作活動の多くはこの雑誌を中心に発表されることになる。評論や小説、劇作を通じて、戦後、サルトルの実存主義は世界中を席巻することになり、特にフランスにおいては絶大な影響力を持った。

1950年・45歳のサルトル
毛沢東主義の政治新聞を配り歩くサルトル

徐々にサルトルはマルクス主義に傾き、ソ連を擁護する姿勢を打ち出す。これがアルベール・カミュやメルロー=ポンティとの決別の原因のひとつとなった。

1952年8月、カミュが『反抗的人間』に対するジャンソンの批判に抗議したのに対して、「アルベール・カミュに答える」を書く(いわゆる「カミュ=サルトル論争 」)。

構造主義が台頭しはじめると、次第にサルトルの実存主義は「主体偏重の思想である」として批判の対象になる。とりわけレヴィ・ストロースが、1962年の『野生の思考』の最終章「歴史と弁証法」において行ったサルトル批判は痛烈なものであった。しかしながら、当時の「構造主義ブーム」の中でレヴィ・ストロースによるサルトル批判の妥当性が充分に検証されたとは言いがたい。後に竹内芳郎は『マルクス主義の運命』(解題)の中で「レヴィ・ストロースは『弁証法的理性批判』について何一つ理解しておらず、サルトルへの批判は的外れだった」という趣旨の見解を述べている(ここでレヴィ・ストロースが批判の対象としたサルトルの著作は『弁証法的理性批判』であったが、その内容については「思想」(後述)を参照されたい)。

キューバを訪問し、ボーヴォワールと共にチェ・ゲバラと会談するサルトル(1960年)。
サルトルはゲバラ最後の戦場となったボリビアでの革命運動での死亡まで、このアルゼンチン出身の革命思想家に支持を寄せた。

その後、サルトルはアンガジェ / アンガージュマン(政治参加もしくは社会参加)の知識人として、自らの政治的立場をより鮮明に打ち出し、アルジェリア戦争の際にはフランスからの独立を目指す民族解放戦線(FLN)を支持する。アルジェリア独立後もサルトルはキューバ革命後のキューバの革命政権を支持するなど脱植民地化時代における第三世界の民族解放運動への支持は一貫していたが、ソ連の立場を概ね支持しながらも、ソ連派の共産党には加入せず、ソ連による1956年ハンガリー侵攻(ハンガリー動乱)、1968年チェコスロヴァキア侵攻(プラハの春)に対する軍事介入には批判の声をあげた。やがてソ連への擁護姿勢を改め、反スターリン主義毛沢東主義者主導の学生運動を支持するなど独自の政治路線を展開していく。しかし、左派陣営内であったことはかわりがない。

1964年にはノーベル文学賞に選ばれたが、「いかなる人間でも生きながら神格化されるには値しない」と言って、これを辞退。1966年9月、ボーヴォワールとともに来日。

1973年に激しい発作に襲われ、さまざまな活動を制限することになる。また、斜視であった右目からの出血により、この時期に失明する。失明によりギュスターヴ・フローベールの評伝(『家の馬鹿息子』)の完成の不可能を悟る。ボーヴォワールとの対話の録音を開始する(のち、『別れの儀式』に収録)。晩年、自力による執筆が不可能となったサルトルは「共同作業」によっていくつかの著作を完成させようとするが、いずれの試みも失敗に終わっている。特にユダヤ人哲学者・ベニ・レヴィと取り組んだ、ユダヤ教思想に影響を受けた倫理学についての著作には意気込みを示し、「いま、希望とはL'espoir maintenant)」と題されたレヴィとの対話記録を新聞に発表していた。「いま、希望とは」ではかつての主体を重視した実存主義思想から大きな転換がはかられていた。その転換に戸惑ったボーヴォワールはこの対話を、レヴィが加齢により判断力を失ったサルトルをかどわかし書かせたものだとし、取り消しを迫ったが、サルトルはこれは歴とした自身の思想であるとして退けた。また、この時期に作家フランソワーズ・サガンとの交流があったことが、サガンの「私自身のための優しい回想」に記されている。

1980年、肺水腫により74年の生涯を閉じたときにはおよそ5万人がその死を弔った(その群集の中にはベルナール=アンリ・レヴィミシェル・フーコーもいた)。遺体はパリのモンパルナス墓地に埋葬されている。死後、主にボーヴォワールおよび養女である Arlette Elkaïmアルレット・エル・カイム(34歳年下で1956年以降愛人、1965年に養女、遺言執行人)らの編集により多数の著作が出版された。

思想[編集]

サルトルの思想は実存主義によるもので、今まさに生きている自分自身の存在である実存を中心とするものである。特にサルトルの実存主義は無神論的実存主義と呼ばれ、自身の講演「実存主義はヒューマニズムであるか」において、実存は本質に先立つと主張し、「人間は自由という刑に処せられている」と言い切っている。

もし、すべてが無であり、その無から一切の万物を創造した神が存在する(有神論の立場)ならば、神は神自身が創造するものが何であるかを、あらかじめわきまえている筈である。ならば、あらゆるものは現実に存在する前に、神によって先だって本質を決定されているということになる。この場合は、創造主である神が存在することが前提になっているので、「本質が存在に先だつ」ことになる。

しかし、サルトルはそのような一切を創造する神がいないのだ(無神論の立場)としたらどうなるのか、と問う。創造の神が存在しないというならば、あらゆるものはその本質を(神に)決定されることがないまま、現実に存在してしまうことになる。この場合は、「実存が本質に先だつ」ことになり、これが人間の置かれている根本的な状況なのだとサルトルは主張するのである。

そこでまず、サルトルは即自対自という対概念を導入する。これは物事のあり方と人間のあり方に分けて対比させたもので、即自である物事とは、「それがあるところのものであり、あらぬところのものであらぬもの<l'être est ce qu'il est et n'est pas ce qu'il n'est pas>」であるとした。これは物事が、常にそれ自身に対して自己同一的なあり方をしていることを意味し、このようなあり方を即自存在<être-en-soi>という。

それに対して、対自<pour-soi>である人間とは、「それがあるところのものであらず、それがあらぬところのものであるもの」とした。人間は、何をやっているときでも常に自分を意識することができるので、物事のように自己同一的なあり方をしていない。AはAであるといわれるのは即自存在においてのみであって、対自においてはAはAであったとしか言われえない。対自は仮に存在といわれたとしてもそれ自身は無<néant>である。これは人間があらかじめ本質を持っていないということを意味する。このことについてサルトルは「人間とは、彼が自ら創りあげるものに他ならない」と主張し、人間は自分の本質を自ら創りあげることが義務づけられているとした。

人間は自分の本質を自ら創りあげることができるということは、例えば、自分がどのようにありたいのか、またどのようにあるべきかを思い描き、目標や未来像を描いて実現に向けて行動する「自由」を持っていることになる。ここでのサルトルのいう自由とは、自らが思い至って行った行動のすべてにおいて、人類全体をも巻き込むものであり、自分自身に全責任が跳ね返ってくることを覚悟しなければならないものである。このようなあり方における実存が自由であり、対自として「人間は自由という刑に処せられている」というのである(人間は自由であるように呪われている。<condamné à être libre>)。

とはいえ、人間は自分で選択したわけでもないのに、気づいたときにはすでに、常に状況に拘束されている。他人から何ものかとして見られることは、わたしを一つの存在として凝固させ、他者のまなざしは、わたしを対自から即自存在に変じさせる。地獄とは他人である<l'enfer, c'est les autres>。そのうえ、死においては、すでに賭けはなされたのであって、もはや切り札は残されていない。わたしを対自から永久に即自存在へと変じさせる死は、私の実存の永遠の他有化であり、回復不能の疎外であるといわれる。

しかしながら、これを常に状況によって自分が外から拘束されているとみなすべきではない。自由な対自としてのかぎりでの人間は、現にあるところの確実なものを抵当<gage>に入れて、いまだあらぬところの不確実なものに自己を賭ける<gager>ことができる。つまり、自己が主体的に状況内の存在に関わり、内側から引き受けなおすことができる。このようにして現にある状況から自己を開放し、あらたな状況のうちに自己を拘束することはアンガージュマン<engagement>といわれる。

サルトルは自らのアンガージュマン<engagement>(社会参加)の実践を通してしだいに社会的歴史的状況に対する認識を深め、マルクス主義を評価するようになっていく。『存在と無』に続く哲学的主著『弁証法的理性批判』は、実存主義(あるいは現象学的存在論)をマルクス主義の内部に包摂することによって、史的唯物論の再構成を目指したものだった。

なぜ、そのような作業が必要だとサルトルは考えたのか。『弁証法的理性批判』序説の『方法の問題』によれば、ソ連をはじめとする共産党の指導者たちが、マルクス主義理論を教条化することによって、それにあわない現実を切り捨てていったからである。「彼らは教条を経験の力の及ばぬところに置いた。理論と実践の分離はその結果として、実践を無原則な経験主義に変え、理論を純粋で凝結した“知”に変えてしまうことになった」(『方法の問題』人文書院 30頁)

『批判』においてサルトルが行おうとしたことは、実践弁証法によって史的唯物論を再構成し、「発見学」<euristique>としての本来のマルクス主義を基礎づけなおすことだったのである。

『弁証法的理性批判』は (1) 「構成する弁証法(個人的実践)」、 (2) 「反弁証法(実践的惰性態)」、 (3) 「構成された弁証法(集団的実践)」の3つの段階を進んでいく。その内容を大まかに見ると次のようになる。

人間の主体的実践が疎外され客体化・固定化することによって実践的惰性態<pratico-inerte>「=生産物、生産様式、諸制度、政治機構など、人間によってつくられた“存在”」が形成される。それは、人間によって形成されたものであるが、「すでに形成されたもの」として諸個人を規定・支配する社会的・歴史的現実である。それらの分野に埋没し、受動的に支配される人間は、真の活動性を持たない集合態<collectif>にすぎないが、共通の目標を目指す集団<groupe>を形成し「共同の実践」をつくりだすことによって、実践的惰性態をのりこえ、真の活動性をとりもどす。

実践的惰性態(=生産物、生産様式、政治制度等)は、いわば歴史の「受動的原動力」であり、社会・歴史の客観的構造や運動法則というのはこの分野において成立する。それに対して集団的実践(特に階級闘争)は歴史をつくる人間の主体的活動であり、歴史の「能動的原動力」というべきものである。

このような『弁証法的理性批判』における理論形成の意図をサルトルは『方法の問題』の中で繰り返し述べている。

例えば『方法の問題』の第2章、「媒体と補助諸科学の問題」でサルトルは「生産関係及び社会的政治的構造の水準では、個々の人間はその人間関係によって条件づけられている(76頁)」として、生産関係(経済的土台)と個人との間に家族、居住集団、生産集団など現実に数多くの「媒体」が存在すること、「発見学」としてのマルクス主義はそれをも含めて解明していくことが必要であると主張した。

そして、個人の意識の縦の方向に関わるものとして精神分析学の成果を、また、社会的な横の総合に関わるものとしてアメリカ社会学の成果を、マルクス主義の中に「方法」として取り入れることを主張したのである。

以上のように、実践的惰性態<pratico-inerte>、集合態<collectif>、集団<groupe>等の概念を駆使して史的唯物論の再構成を目指した『弁証法的理性批判』の意図は、マルクス主義の中に精神分析学やアメリカ社会学の成果を包摂し、20世紀の知の集大成を行うことで「構造的、歴史的人間学」を基礎づけることであった。

主要著作[編集]

哲学著作[編集]

  • 『想像力』 L'Imagination(1936年)
  • 『自我の超越』 La Transcendance de l'ego(1937年)
  • 『情緒論素描』 Esquisse d'une théorie des émotions(1939年)
  • 『想像力の問題』 L'Imaginaire(1940年)
  • 存在と無L'Etre et le néant(1943年)
  • 『方法の問題』 Question de Méthode(1960年)
  • 『弁証法的理性批判』 Critique de la raison dialectique(1960年)
  • 『倫理学ノート』 Cahiers pour une morale(1983年、未訳)
  • 『真理と実存』 Vérité et existence(1989年)

評論[編集]

  • 『ユダヤ人』Réflexions sur la question juive(1946年、1954年再発)
  • 『実存主義とは何か』L'Existentialisme est un humanisme(1946年)
  • シチュアシオンSituations(1947–65年)
    • 『文学とは何か』 Qu' est-ce que la littérature?(1948年)

作家論[編集]

小説[編集]

  • 壁(サルトル)Le mur(1937年)
  • エロストラートErostrate(1938年)
  • 水いらずIntimité(1938年)
  • 部屋(小説)la chanbre(1938年)
  • 一指導者の幼年時代L'enfance d'un chef(1938年)
  • 嘔吐La Nausée(1938年)
  • 自由への道Les chemins de la liberté(1945年、1949年)
    • 第一部『分別ざかり』 L'âge de raison (1945年)
    • 第二部『猶予』 Le sursis(1945年)
    • 第三部『魂の中の死』 La mort dans l'âme(1949年)
    • 第四部『最後の機会』(未完)La dernière chance(1949年)
  • 『アルブマルル女王もしくは最後の旅行者』 La reine Albemarle ou le dernier touriste (1991年)

戯曲[編集]

  • Les Mouches(The Flies)1943(1943年6月2日初演、シャルル・デュラン演出)
  • 『出口なし』 Huis Clos 1945(1944年5月27日初演、R・ルーロー演出、ヴィユ・コロンビエ劇場)
  • 『恭しき娼婦』 La putain respectueuse(1946年11月8日初演)
  • 『墓場なき死者』 Morts sans sépulture(1946年11月8日初演)
  • 『汚れた手』 Les Mains sales(1948年4月2日初演)
  • 悪魔と神Le Diable et le Bon Dieu (The Devil and the Good Lord)(1951年6月7日初演)
  • キーンKean 1954(1953年11月14日初演、サラ・ベルナール劇場)
  • 『ネクラソフ』 Nekrassov 1956(1955年6月8日初演)
  • 『アルトナの幽閉者』 Les Séquestrés d'Altona 1959(1959年9月24日初演)
  • 『トロイヤの女たち』 Les Troyennes 1965(1965年3月10日初演)

その他[編集]

  • 『言葉』 Les Mots(1963年)
  • 『反逆は正しい』 On a raison de se révolter(1973年)(フィリップ・ガヴィ、ピエール・ヴィクトールとの共著)
  • 『奇妙な戦争──戦中日記』 Carnets de la drôle de guerreWar Diaries: Notebooks from a Phoney War 1939-1940)(1983年)

邦訳[編集]

(「存在と無」「嘔吐」「シチュアシオン」を除く)

  • 『水いらず・壁』伊吹武彦,吉村道夫訳 世界文学社 1946
  • 『サルトル全集』人文書院 1950-77
第1-3巻『自由への道』佐藤朔,白井浩司訳 1950-52
第4巻(未刊)
第5巻 壁 短篇集」水いらず・壁(伊吹武彦訳) エロストラート(窪田啓作訳) 部屋(白井浩司訳) 一指導者の幼年時代(中村真一郎訳) 1950 『水いらず』新潮文庫 1971
第6巻 嘔吐」1951
第7巻 汚れた手 劇作集」汚れた手(白井浩司訳) 墓場なき死者(鈴木力衛訳) 1951
第8巻 恭々しき娼婦 劇作集 第2」出口なし(伊吹武彦訳) 恭々しき娼婦(芥川比呂志訳) 1952
第9巻 シチュアシオン 文学とは何か』
第10巻 唯物論と革命 シチュアシオン」1953
第11巻 アメリカ論 シチュアシオン」1953
第12巻(未刊)
第13巻 実存主義とは何か 実存主義はヒューマニズムである』伊吹武彦訳 1955
第14巻 劇作・狂気と天才 キーン』鈴木力衛訳 1956
第15巻 ボードレール』佐藤朔訳 1956
第16巻 悪魔と神 劇作』生島遼一訳 1952 のち新潮文庫
第17巻 ネクラソフ』淡徳三郎訳 1956
第18-20巻 存在と無 現象学的存在論の試み』
第21巻 賭はなされた』福永武彦訳 1957
第22巻 スターリンの亡霊』白井浩司訳 1957
第23巻 哲学論文集』想像力(平井啓之訳) 自我の超越・情緒論粗描(竹内芳郎訳) 1957
第24巻 アルトナの幽閉者』永戸多喜雄訳 1961
第25巻 方法の問題』平井啓之訳 1962
第26巻 弁証法的理性批判 第1巻 実践的総体の理論 第1』竹内芳郎,矢内原伊作訳 1962
第27巻 弁証法的理性批判 第1巻 実践的総体の理論 第2』平井啓之,森本和夫訳 1965
第28巻 弁証法的理性批判 第1巻 実践的総体の理論 3』平井啓之,足立和浩訳 1973
第29巻 言葉』白井浩司訳 1964
第30-32巻 シチュアシオン 第4-6
第33巻 トロイアの女たち(芥川比呂志訳)
第34-35 聖ジュネ 殉教と反抗』白井浩司,平井啓之訳 1966 のち新潮文庫
第36-39巻 シチュアシオン 8-10』
  • 『革命か反抗か カミュ・サルトル論争』佐藤朔訳編 新潮社 1953
  • 『歯車』中村真一郎訳 人文書院 1954
  • 『マルクス主義論争』C.ルフォール共著 白井健三郎訳 ダヴィッド社 1955
  • 『ユダヤ人』安堂信也訳 岩波新書 1956
  • 『サルトル著作集』全7巻 人文書院 1961
  • 『知識人の擁護』佐藤朔 岩崎力 松浪信三郎 平岡篤頼 古屋健三訳 人文書院 1967
  • 『サルトル対談集』第1-2 鈴木道彦 等訳 人文書院 1969-70
  • 『否認の思想 ’68年5月のフランスと8月のチェコ』三保元海老坂武花輪莞爾大久保健治大久保昭男栗栖継訳 人文書院 1969
  • 『反逆は正しい 自由についての討論』ガヴィ,ヴィクトール共著 鈴木道彦,海老坂武,山本顕一訳 人文書院 1975
  • 『家の馬鹿息子 ギュスターヴ・フローベール論(1821-1857)』1-3 平井啓之、海老坂武、鈴木道彦、蓮實重彦訳 人文書院 1983-2006(未完)
  • 『マラルメ論』平井啓之,渡辺守章訳 中央公論社 1983 のちちくま学芸文庫
  • 『女たちへの手紙 1926年~1939年 サルトル書簡集1』朝吹三吉二宮フサ、海老坂武訳 人文書院 1985
  • 『奇妙な戦争 戦中日記 Novembre1939-Mars1940』海老坂武、石崎晴己西永良成訳 人文書院 1985
  • 『シナリオ フロイト』西永良成訳 人文書院 1987
  • 『ボーヴォワールへの手紙 サルトル書簡集2』二宮フサ、西永良成、海老坂武訳 人文書院 1988
  • 『サルトル/メルロ=ポンティ往復書簡 決裂の証言』菅野盾樹訳 みすず書房 2000
  • 『植民地の問題』鈴木道彦、多田道太郎、海老坂武他訳 人文書院 2000
  • 『真理と実存』澤田直訳 人文書院 2000
  • 『自我の超越』竹内芳郎訳 人文書院 2000
  • 『哲学・言語論集』鈴木道彦 他訳 人文書院 2001
  • 『言葉』澤田直訳 人文書院 2006
  • 『自由への道』1-6 海老坂武,澤田直訳 岩波文庫 2009-11

関連項目[編集]

外部リンク[編集]