ハンナ・アーレント

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ハンナ・アーレント
Hannah Arendt
ハンナ・アーレント
生誕 1906年10月14日
ドイツの旗 ドイツ帝国ケーニヒスベルク
死没 1975年12月4日(69歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
時代 20世紀の哲学
地域 西洋哲学
ドイツ
アメリカ合衆国
学派 大陸哲学
研究分野 形而上学
倫理学人間学
政治哲学
歴史哲学
主な概念 人間の条件人間
暴力
革命
過去と未来の間
イエルサレムのアイヒマン
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ハンナ・アーレントHannah Arendt, 1906年10月14日 - 1975年12月4日)は、ドイツ出身のアメリカ合衆国哲学者思想家。主に政治哲学の分野で活躍した。

小惑星100027「Hannaharendt」は彼女に敬意を表して命名された。

生涯[編集]

幼年時代[編集]

ドイツ、ケーニヒスベルクの旧い家柄である、ドイツ系ユダヤ人のアーレント家に生まれる。出生地はハノーファー郊外のリンデン(Linden)。父は工学士の学位を持ち、電気工事会社勤務のパウル・アーレント、母はマルタ・アーレント。両親ともに社会民主主義者であった。

父パウルはギリシアラテンの古典についての深い造詣を持つ教養人で、ハンナの読書は彼の蔵書から始まった。母マルタは注意深くハンナを育て、詳細な育児記録が残っている。それによると、幼いハンナは一人でいることを好まず、好奇心が強く、知的にきわめて早熟で、言葉や数学に対しては高い理解力を見せ、音楽を好みつつ音痴だったという。

両親ともに信仰を持たなかったが、家族ぐるみの付き合いであったラビのフォーゲルシュタインのシナゴーグに、幼いハンナは通う。一方、法律的な義務からキリスト教の日曜学校にも通う。またアーレント家のキリスト教徒のメイドたちからの影響も大きく、彼女の宗教観は複雑な発展をみせる。もっとも、後年、「子供の時以来、自分はいかなる時でも神の存在を疑ったことはない」[1]と述べたように、ある種の信仰は生涯通じて持ち続けた。

15歳の折、当時在学中だったルイーゼシューレにおいて、若い教師の授業をクラスメートと共にボイコットし、放校処分になる。その後二学期間ベルリン大学で学ぶ。神学教授のグァルディーニによるキルケゴールの授業に深い影響を受ける。半年間の独学ののち、1924年、18歳にして大学入学資格試験に合格、マールブルク大学に入学。

大学時代[編集]

1924年の秋、マールブルク大学でマルティン・ハイデッガーと出会い、アーレントは哲学に没頭する。本人はこの哲学へののめりこみを、「初めての情事」という形で表現している[2]。なお、当時既婚であったハイデッガーとは一時不倫関係にあった[3]。また、ここで出会ったハンス・ヨナスとは終生の友人となり、同大学において共にルドルフ・ブルトマンの新約聖書のゼミを受講する。

その後、フライブルク大学フッサールのもとで一学期間を過ごした後、ハイデルベルク大学に赴き、カール・ヤスパースの指導を受ける。博士論文は『アウグスティヌスの愛の概念』。この頃、クルト・ブルーメンフェルトと出会い、シオニストの政治思想・活動に目を開かれている。

1929年9月、ギュンター・シュテルンと結婚。1931年にはフランクフルトに引越し、カール・マンハイムティリッヒの講義に参加する。ラーエル・ファルンハーゲンの研究は、この時期になされた。

ナチズム以降[編集]

ナチスが政権を獲得しユダヤ人迫害が起こる中、ブルーメンフェルトに協力し、反ユダヤ主義の資料収集やドイツから他国へ亡命する人を援助する活動に従事する。一度は逮捕される危険にあいながらも、自身も1933年フランスに亡命。この地でもシオニスト関係の仕事に従事する。ギュンターとは1937年に別れ、1940年スパルタクス団ドイツ共産党を経験する活動家ハインリッヒ・ブリュッヒャーと結婚。彼から政治的思考を学ぶこととなる。

第二次世界大戦が始まり1940年にフランスがドイツに降伏すると、アーレントはアメリカ合衆国に亡命した(1941年)。1951年、市民権取得、その後、バークレー、シカゴ、プリンストン、コロンビア各大学の教授・客員教授などを歴任、1967年、ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチの哲学教授に任命される。

1951年に『全体主義の起原』[4]を著し、全体主義について分析した。その後も、みずから経験した全体主義およびそれを生み出すにいたった西欧の政治思想を考察した。

1963年にニューヨーカー誌に『イエルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告』を発表し、大論争を巻き起こす。

1975年12月4日、自宅にて心臓発作により死去(69歳)。

思想[編集]

アーレントは、身をもって経験した全体主義の衝撃―「起こってはならないことが起こってしまった」―から、政治についての思索を開始するに至った。1945年、以下のような発言をしている。

「リアリティとは、『ナチは私たち自身のように人間である』ということだ。つまり悪夢は、人間が何をなすことができるかということを、彼らが疑いなく証明したということである。言いかえれば、悪の問題はヨーロッパの戦後の知的生活の根本問題となるだろう…」 [5]

彼女の政治哲学の原点は「人間のなしうる事柄、世界がそうありうる事態に対する言語を絶した恐れ」[6]であった。なぜ人間にあのような行為が可能であったのかという深刻なショックと問題意識から、彼女は政治現象としての全体主義の分析と、その悪を人びとが積極的に担った原因について考え続けることになる。

活動的生活[編集]

アーレントは、人間の生活を「観照的生活」(vita contemplativa)と「活動的生活」(vita activa)の二つに分ける。

  • 観照的生活とは、プラトンの主張するような永遠の真理を探究する哲学者の生活である。
  • 活動的生活とは、あらゆる人間の活動力を合わせたものである。
    • 活動的生活は主として、活動(action/Handeln)仕事(work/Herstellen)労働(labor/Arbeiten)の三つに分けることができる。
      • 「活動」は、人間が関係の網の目の中で行う行為であり、平等かつお互いに差異のある人間たちの間にのみ存在しうる。個々人は自発的に「活動」を開始し、その行為の結果として自身が何者(who)であるかを暴露する。それはちょうどギリシアにおけるダイモーン(守護霊)のように、自身には決して明らかにはならないが他者には明白ななんらかの徴である。
      • 「仕事」は、職人的な制作活動に象徴される目的-手段的行為をさす。ある特定の目的の達成をめざして行われる行為はアーレントにとって「仕事」であった。「活動」はその結果として語り継がれる物語以外の何物をも残さないが、「仕事」はその達成された目的の証としての最終生産物を残す。最終生産物の産出に示される「仕事」の確実性は古来より高く評価されており、それ故にギリシア人は本来「活動」そのものであった政治を「仕事」によって行われるよう置き換えることを試みた、とアーレントは指摘している。
      • 「労働」は人間のメタボリズム(?)を反映した行為であり、生存と繁殖という生物的目的のため、産出と消費というリズムにしたがって行われる循環的行為である。「活動」や「仕事」と異なり、人間は生存に伴う自然的な必要を満たすために「労働」を強いられる。それゆえ古来より労働は苦役であり続けたが、アーレントによればマルクスによって人間が行うもっとも生産的な行為として位置づけられた。

革命論[編集]

アーレントは、革命については戦争と分母を同じくするものであり、すなわち暴力が母体になっているとする。

革命は戦争と共に20世紀の様相をかたちづくってきたものであり、戦争が簡単に革命に転化し、革命が戦争への道を開く傾向を示しているのは、暴力がこの両者の一種の公分母になっているからである。聖書と古典が明らかにしているように、人類の伝説的なはじまりは暴力による。「はじめに犯罪ありき」―「自然状態」はそれを理論的に純化して言い換えたものに過ぎない。

また、革命がもたらしたものは「自由の経験」であり[7]、革命の前提には、近代的な「平等」の観念があったとする。古代においては自然状態における平等は存在しなかった[8]

アメリカ革命を解放された人間同士の自由な活動として評価し、「地上の生活は稀少性に呪われているのではなく、豊かさに祝福されているはずだという確信の起源は革命に先立つものであり、アメリカ的なものであった」として、近代的な革命の原型を作ったとアーレントはみなしている[9]。またアメリカ革命の起源になったのはロックとアダムスミスによる労働説にあるとも指摘している[10]

他方、アーレントは次のようにイギリス革命における「革命」とは「(君主制)の復古」を意味しているとして、批判している[11]。これに対して、アメリカ革命は、「革命の子をむさぼり食うようなことはせず、したがって「復古」をはじめた人々は、そのまま、革命をはじめ、それを成し遂げ、そのうえ新しい秩序の中で権力と官職に就いた」と評価している。

一方、フランス革命とそれに連なるロシア革命を必要と善意による、民衆の自然的な欲求からの解放を目指したものであったとして否定的な見解を示した[12]。すなわちフランス革命は、「自由の創設から、苦悩からの人間の解放へとその方向を変えたとき、忍耐の障壁を打ち壊し、不運と悲惨の破壊力を解放した」としている[13]

フランス革命については、エドマンド・バークのフランス革命論は正しいとし、他方、トマス・ペインのものは誤っていたとする。「人権宣言が過去に耳を傾けることのできたような時代は歴史上存在しなかった」し、したがって、過去の時代に「すべての人間が生まれながらにして譲渡不可能の政治的権利を与えられていると見ることは表現上の矛盾」として、批判した。

また、フランス革命における「革命」の観念には、周期的な法則性、「不可抗力的な運動」がみられると指摘し、したがって、フランス革命の結果に、ヘーゲルの歴史哲学があるとしている[14]。フランス革命におけるこのような「不可抗力的な運動」の観念はのちに「歴史的必然」と言い換えられ、19世紀から20世紀にかけてフランス革命の後継者であると自認する人々は「歴史的必然の代理人」であると主張したとアレントは論じる[15]。「世界を火のなかに投じたのはアメリカ革命ではなくフランス革命であった」とアレントはいっている。

フランス革命を継承したロシア革命については「歴史の道化」として批判した[16]。また「疑いもなくボリシェヴィキ党の粛清は、もともとフランス革命の進路を決定した諸事件をモデルとし、それとの関連で正当化された。両方とも歴史的必然の概念で導かれていたという点で共通していた。」として、粛清の起源をフランス革命とその産物である「歴史的必然」という観念にみた。

ほかにも革命家のヒロイズムにごまかされることなく、彼らが「人間のリアリティに対して無感覚になった」ことをみるべきだとして、批判している。[17]。 アレントは「ロベスピエールは魂の葛藤、つまりルソーの引き裂かれた魂を政治の中に持ち込んだ。しかしその領域では、それは解決不可能であったため、殺人的なものとなった。」としている。

また、革命の際に「人民」が求めたのは「政治以前の暴力」であったとしている[18]

このようなアーレントの共産主義や人民の暴力革命に対する強烈な敵意は当時のアメリカの新左翼に大きく影響を与え、ノーマン・ポドレツアーヴィング・クリストルなど、後に新保守主義の源流となったニューヨーク知識人と呼ばれるユダヤ系知識人の政治勢力を生み出した。


その他、評議会制についてアーレントは政党制を排した議会制度として肯定的に検討した[19]

人物[編集]

  • 生涯にわたって朝の過ごし方を非常に重視し、ゆっくり起床した後に何杯ものコーヒーを飲むことを日課としていた。その習慣を貫くために、学生時代は朝の八時からのギリシア語の授業に出席することを拒否し、学校当局と悶着を起こした。交渉の結果、特別の難しい試験を受けることを条件に、独学での勉強を許可されたという[20]
  • アドルノに対しては、家に入れることすら厭うほどの嫌悪感を抱いていた。
  • マールブルク大学時代、一人暮らしをしていた屋根裏部屋のネズミを手なずけ、来客があると呼び出してエサを食べさせていた。ヨナスに対して、「このネズミは自分と同じようにひとりぼっちなの」と語った[21]
  • 1948年イスラエルの右派ヘルート党の党首メナヘム・ベギンが訪米した際にはアルバート・アインシュタインらとともに名を連ね、党の姿勢を批判する書簡をニューヨークタイムズに送っている。

邦訳著作[編集]

単著[編集]

  • 革命について』(志水速雄訳、合同出版、1968年/中央公論社、1975年/ちくま学芸文庫、1995年)
  • イエルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』(大久保和郎訳、みすず書房、1969年、新装版1994年)
  • 『歴史の意味―過去と未来の間に.1』(志水速雄訳、合同出版, 1970年)
  • 『文化の危機―過去と未来の間に.2』(志水速雄訳、合同出版, 1970年)
  • 『暗い時代の人々』(阿部斉訳、河出書房新社、1972年、改訂版1995年/ちくま学芸文庫、2005年)
  • 全体主義の起原 (1・2・3)』(大島通義大島かおり・大久保和郎訳、みすず書房、1972-74年、新装版1981年)
  • 暴力について』(高野フミ訳、みすず書房、1973年/山田正行訳、同・みすずライブラリー、2000年)
  • 人間の条件』(志水速雄訳、中央公論社、1973年/ちくま学芸文庫、1994年)
  • 『カント政治哲学の講義』(ロナルド・ベイナー編、法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス〉、1987年)
    • 『完訳カント政治哲学講義録』(仲正昌樹訳、浜野喬士編訳書、明月堂書店、2009年)
  • 『パーリアとしてのユダヤ人』(未来社、1989年)
  • 過去と未来の間―政治思想への8試論』(みすず書房、1994年)
  • 『精神の生活 (1・2)』(佐藤和夫訳、岩波書店、1994年)
  • ラーエル・ファルンハーゲン―ドイツ・ロマン派のあるユダヤ女性の伝記』(みすず書房、1999年)
    • 別訳『ラーヘル・ファルンハーゲン―あるドイツ・ユダヤ女性の生涯』(未来社、1985年) 
  • 『アーレント政治思想集成 (1・2)』(ジェローム・コーン編、みすず書房、2002年)
  • 『暗い時代の人間性について』(情況出版、2002年)
  • 『アウグスティヌスの愛の概念』(みすず書房、2002年)
  • カール・マルクスと西欧政治思想の伝統』(大月書店、2002年)
  • 『政治とは何か』(ウルズラ・ルッツ編、岩波書店、2004年)
  • 『思索日記(1) 1950-1953』(ウルズラ・ルッツ、インゲボルク・ノルトマン編、法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス〉、2006年)
  • 『思索日記(2) 1953-1973』(ウルズラ・ルッツ、インゲボルク・ノルトマン編、法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス〉、2006年)
  • 『責任と判断』(ジェローム・コーン編、筑摩書房、2007年)
  • 『政治の約束』(ジェローム・コーン編、筑摩書房、2008年)

共著[編集]

  • メアリー・マッカーシー)『アーレント=マッカーシー往復書簡――知的生活のスカウトたち』(キャロル・ブライトマン編、法政大学出版局、1999年)
  • (マルティン・ハイデガー)『アーレント=ハイデガー往復書簡――1925-1975』(ウルズラ・ルッツ編、みすず書房、2003年)
  • (カール・ヤスパース)『アーレント=ヤスパース往復書簡――1926-1969(1-3)』(ハンス・ザーナー、ロッテ・ケーラー編、みすず書房、2004年)

参考文献[編集]

  • マーガレット・カノヴァン『アレント・政治思想の再解釈』(寺島俊穂・伊藤洋典訳、未來社、2004年)
  • エリザベス・ヤング=ブルーエル『ハンナ・アーレント伝』(荒川幾男ほか3名訳、晶文社、1999年)
  • 川崎修『アレント――公共性の復権』(講談社、1998年、新版2005年/講談社学術文庫、2014年)
  • 千葉眞『アーレントと現代――自由の政治とその展望』(岩波書店、1996年)
  • 寺島俊穂『生と思想の政治学――ハンナ・アレントの思想形成』(芦書房、1990年)
  • 伊藤洋典『ハンナ・アレントと国民国家の世紀』(木鐸社、2001年)
  • 森分大輔『ハンナ・アレント研究――<始まり>と社会契約』(風行社、2007年)
  • 杉浦敏子『ハンナ・アーレント (FOR BEGINNERSシリーズ)』(現代書館、2006年)
  • 杉浦敏子『ハンナ・アーレント入門』(藤原書店、2002年)
  • マルティーヌ・レイボヴィッチ『ユダヤ女 ハンナ・アーレント』(合田正人訳、法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス〉、2008年)
  • 森川輝一『〈始まり〉のアーレント――「出生」の思想の誕生』(岩波書店、2010年)
  • 矢野久美子『ハンナ・アーレント――「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』(中央公論新社中公新書〉、2014年)
  • 仲正昌樹[22]『ハンナ・アーレント「人間の条件」入門講義』作品社、2014年。ISBN-10: 4861824796、ISBN-13: 978-4861824791
  • 森一郎[23]『死を超えるもの: 3・11以後の哲学の可能性』東京大学出版会 、2013年。ISBN-10: 4130101242、ISBN-13: 978-4130101240
第8章 アーレントと原子力の問題I――大地からの疎外、または「宇宙人」の侵略
第9章 アーレントと原子力の問題II――戦争論への寄与
  • 千場達矢『哲学者アーレントに脚光 思考停止に警鐘 現代に響く』日本経済新聞2014年7月20日朝刊40面

映画[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 友人のアルフレッド・ケイジンに語った。Kazin "New York Jew" p.199
  2. ^ 『ハンナ・アーレント伝』p87
  3. ^ 1950年に再会したときになおハイデッガーへの自分の愛の存在したことについて、彼への手紙で言及している。2人の往復書簡(1925 - 1975年)は公刊されている
  4. ^ The Origins of Totalitarianism
  5. ^ 「悪夢と逃避」『アレント政治思想集成』 vol.1. p.182
  6. ^ 「近年のヨーロッパ哲学思想における政治への関心」 『アレント政治思想集成』p.300
  7. ^ 「革命がそのコースを走り始めると、それにまきこまれた人びとが自分たちの企ての勝敗を知るずっと前に、物語の新しさとその筋書きの奥深い意味が俳優にも観客にも明らかになりはじめた。筋書きについていえば、それは疑いもなく自由の出現であった。解放(liberation)と自由(freedom)は同じではない。革命が前面にもたらしたものは、この自由であることの経験であった。」
  8. ^ 「古代的観念では、全ての人々が自然において平等ではないため、人為的な制度たる法すなわち法律によって人々を平等にする都市国家を必要とした。平等は人々が互いに私人としてではなく、市民として会うこの特殊に政治的な空間にのみ存在した。これは今日の観念、つまり人は生まれながらにして平等であり、社会的・政治的な人工の制度によって不平等にされているという観念と大きく異なる。」
  9. ^ 「社会問題が革命的役割を果たし始めるのは、近代になってからであり、それは人々が貧困が人間の条件に固有のものであるということを疑い始めたことによる。地上の生活は稀少性に呪われているのではなく、豊かさに祝福されているはずだという確信の起源は革命に先立つものであり、アメリカ的なものであった。ジョン・アダムズが「私はいつも、アメリカの植民は、無知なる者に光を与え、全地球の人類の奴隷的部分を解放せよという神意の偉大な計画のはじまりであると考えている」と述べた時、社会の完全な変革という近代的意味における革命の舞台ができあがった。」
  10. ^ 「理論的に言えば、まずロックが、ついでアダム・スミスが、労働と労苦は貧困の属性ではなく、貧困ゆえに財産なき者に押しつけられたこの労働は、その反対に富の源泉であると述べた時、革命の舞台はできあがった。つまり、ヨーロッパに革命的活力を培養したのは、独立宣言のずっと以前からあってヨーロッパによく知られていたアメリカ的生活条件の存在であって、アメリカ革命ではなかった。」
  11. ^ 「革命(revolution)」という言葉は、もともとは天体の周期的で合法的な回転運動を意味していた。したがって、すべての革命の主役たちにとりついた観念、すなわち、自分たちは旧秩序にはっきりと終止符を打ち新しい世界の誕生をもたらす過程の代理人であるという観念ほど、「革命」という言葉のもともとの意味からかけ離れた観念はない。革命が初めて政治的用語として用いられたのは、1660年に英国で残部議会が打倒され、君主制が復古したときであり、それは、既に以前確立されたある地点に回転しながら立ち戻る運動を暗示するのに用いられた。非常に逆説的なことであるが、この用語が政治的、歴史的な言葉としてはっきり定まった事件、すなわち名誉革命は少しも革命とは考えられず、君主の権力が以前の正義と栄光を回復したものと考えられたのである。このように、「革命」という言葉はもともとは復古を意味し、したがって我々には革命の全く正反対と思われる事柄を意味する。イングランドにおける最初の近代革命の短命な勝利は正式には「一つの復古」として、すなわち、1651年の国璽の銘刻文にあるように「神の加護により復活した自由」として理解されていた。」
  12. ^ 著『革命について
  13. ^ 「フランス革命の人々のうち、生き残って権力の座につくことができたのは、大衆の代弁者となって、法律を大衆が突き動かされていた力、根源的な必然性の力に委ねた人たちだけであった。フランス革命は、自由の創設から、苦悩からの人間の解放へとその方向を変えたとき、忍耐の障壁を打ち壊し、不運と悲惨の破壊力を解放したのである。
  14. ^ ルイ16世が「これは反乱だ」と叫び、側近のド・ロシュフコーが「いいえ陛下、これは革命です」と訂正したとき、革命という言葉の強調点が周期的な回転運動の合法則性からその不可抗力性に完全に移っている。不可抗力的な運動という概念は、19世紀になるとすぐに歴史的必然という概念に観念化されるが、フランス革命のページの最初から最後まで響き渡っている。理論面で言えば、フランス革命のもっとも深い帰結はヘーゲル哲学の近代的歴史概念の誕生に見られる。」
  15. ^ 「フランス革命の足跡を辿ったすべての人たちが、自分たちはフランス革命の人々の後継者であるばかりか、歴史と歴史的必然の代理人でもあると考えた。この結果、自由のかわりに必然が政治的かつ革命的な思想の主要な範疇となった。世界を火のなかに投じたのはアメリカ革命ではなくフランス革命であった。したがって、アメリカを含め、いたるところで「革命」という言葉の現代的な使い方にその含意と響きを与えたのはフランス革命である。」
  16. ^ 「ロシア革命の人びとがフランス革命から学んでいたことは、歴史であって活動ではなかった。彼らは、歴史の偉大なドラマが自分たちに割り当てる役ならどんな役でも演じる能力を身につけていた。だから、悪役以外に役がないばあいにも、ドラマの外に残されるくらいなら喜んでその役を引き受けたのである。彼らは歴史によって愚弄されたのであり、歴史の道化となったのであった。」
  17. ^ 「人はしばしば革命家たちの格別な無私の態度に感動するが、それを「理想主義」やヒロイズムと混同してはならない。フランス革命以来、革命家たちがリアリティ一般に対し、特に人間のリアリティに対して無感覚になったのは、彼らの感傷の際限のなさに原因がある。彼らは、自分たちの「教義」や歴史の進路や革命それ自体の大義のために、人々を犠牲にするのに何の良心の呵責も感じなかった。これはルソーの行動、その現実離れした無責任さと信頼性の無さに、きわめてはっきりとあらわれているけれども、ロベスピエールが分派闘争のなかに持ち込んだとき、はじめて重要な政治的要因となった。政治面で言えば、ロベスピエールの徳のもつ悪は、彼の徳がいかなる制限をも受けつかなかった点にあった。」
  18. ^ 「革命が勃発すると、問題になったのは経済的・財政的問題よりは人民であった。彼らは政治的領域にただ闖入してきただけでなく、そのなかへ崩れこんできたのである。彼らの要求は暴力的であり、いわば政治以前のものであった。自分たちを力強く迅速に救ってくれるものはただ暴力だけであるように見えた。」
  19. ^ 『革命について』『暴力について』
  20. ^ 『ハンナ・アーレント伝』p.72
  21. ^ 『ハンナ・アーレント伝』p.106
  22. ^ 金沢大学教授、哲学
  23. ^ 東北大教授、哲学
  24. ^ ハンナ・アーレント

関連項目[編集]

外部リンク[編集]