マルクス主義批判

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マルクス主義批判とは、マルクス主義に対する批評や批判である。

マルクス主義は、歴史、経済、政治、哲学の分野に及ぶ壮大な体系であり、さまざまな角度からの批判がある。

唯物史観批判[編集]

共産主義は資本主義の止揚された姿なので、マルクスは先進国で共産主義革命が起こると主張したが、実際に起こったのは発展途上国のロシアであった。また社会主義の、まず原始共産制から階級分化が起こり、やがて共産主義社会の到来で階級対立がなくなるという考えは、キリスト教的な千年王国待望論で、それは科学というよりも宗教的信仰であるという批判もある。また、階級が消滅した後の世界についてマルクス主義は具体的なことをほとんど何も語っていないが、闘争のない一切が平和と幸福に満ちた停止した社会とすれば、それは皮肉にもマルクスが否定したユートピアのように聞こえる。未開社会やサルのような動物の社会でも、順位制という身分制度があり、原始共産制は見られない。[1]

マルクスは上部構造は下部構造に規定されるという下部構造決定論を説いたが、現実には政治体制と経済体制にはズレが生じる場合がある。例えば、大日本帝国のように、高度な経済力や技術力を持っており、大正期にはある程度民主化が進んでいたのにもかかわらず、昭和期に突然、宗教色の強い天皇主義に反動化する場合もある。吉本隆明は上部構造は下部構造から幽霊のように疎外された共同幻想であり、宗教・法・国家はその本質の内部において、社会の生産様式の発展史とは関係がないと主張している。また、ルイ・アルチュセールは、政治体制は下部構造だけでなく、もっと重層的な要素で決定されるという重層的決定を説いている。フランシス・フクヤマも、購買力平価ベースの一人当たりGDPが8,000-10,000ドルあたりまで経済発展すれば民主化するという共通点を経験的に指摘できるが、経済体制と政治体制の相関関係は十分解明されていないと述べている。フロイトは政治的儀式が経済性とは関係のない性的要素を含んでいることを指摘し、「唯物史観は真理だが、それが全てではない」と主張している。社会学者のマックス・ヴェーバーは、物理的な欲求や技術革新ではなく、むしろ禁欲や勤勉を推奨するプロテスタンティズムの倫理が資本主義を成立させたのではないかと考察している。

マルクスは歴史上の全ての闘争は階級闘争であると主張する。レーニンは共産主義が普及したら階級闘争はなくなり、世界から戦争もなくなると主張したが、戦争原因は経済的合理性には還元できない。もしそうなら、世界大戦のように戦勝国も敗戦国も大被害を受けるほど戦争が拡大することはなかったはずである。首都が瓦礫になるまで徹底抗戦するなどということは、どう考えても不合理である。また、もし国民が餓死寸前であり、貧困にあえいでいたら、近代的な軍備を整えて戦争を起こすことすら不可能なはずである。逆説的な言い方だが、戦争は経済的な余裕があるからこそ実行することができるのである。

フランシス・フクヤマは戦争は精神的な気概、優越願望の衝突によって起こると主張する。例えば、動物の世界では同種同士では住み分けを行い、争いは回避されるようなシステムになっている。ナワバリ争いで闘うこともあるが、負けた方は致命傷を受ける前にすごすごと退散し、勝った方はナワバリを維持できたことに満足し、わざわざ追い討ちをかけたりはしない。同種同士で殺し合いまでエスカレートすることはめったになく、戦争は気概を持った人間に特有の行為である。侵略的な国王が自国で自給自足できるだけの生産力があるのにもかかわらず、巨費を投じて他国を武力侵略するのは、彼が自分の力を誇示したいという名誉欲、野心に駆られたからだと考えたほうが合理的である。また、動物に自己防衛という概念はあるが、報復や復讐と言う概念はない。生存効率や経済的合理性を無視して、仇討ちや復讐を実行するのは人間だけである。[2]

ジョルジュ・バタイユは、人間には経済的合理性では説明できない破壊衝動が存在することを指摘し、それを蕩尽、あるいは過剰なる太陽エネルギーと呼んでいる。

マルクス経済学批判[編集]

マルクスは資本論の中で、商品過剰と労働者過剰による資本主義の没落を説いたが、これはただの景気循環程度の問題に過ぎず、資本主義の本質的な没落を招く欠陥ではない。ケインズが主張したように、財政出動による公共事業の失業対策で対処可能である。また、あくまでも商品価格は需給関係によって成立するのであり、労働価値説は誤りだという批判もある。[3]

マルクスは、資本家階級を革命により没落させようと主張しているが、資本家はリスク管理や市場調査などの重要な社会的分業を担っているのであり、その役割を不当に過小評価している。

マルクスは生産手段を持つ者を資本家、持たない者を労働者と定義したが、株式会社の発達により、所有と経営が分離し、その違いが曖昧化した。労働者でも株式を購入したら資本家になれる。

発展途上国は先進国に搾取されているから経済的に貧しいのであり、この国家間の格差はますます広がっていくと言う従属理論も展開されたが、日本、韓国、台湾、シンガポールは積極的に先進国と交流し、奇跡とも言われる高度経済成長を達成した。発展途上国が発展途上国のままでいるのは、先進国に搾取されているからではなく、むしろ積極的に先進国と貿易や技術交流、相互投資を行わないからであるとの見解がある。[4]

共産主義体制批判[編集]

マルクスの『資本論』はあくまでも資本主義社会の分析を行っているに過ぎず、共産主義社会の分析を行っているわけではない。共産主義が資本主義よりも優れているという考察や証明は行われていない。

マルクスの理論に基づいてレーニンやスターリンが作ったソビエト連邦の共産主義体制は、共産主義を科学だと自称し、他のイデオロギーを非科学的、反革命的だと弾圧したので、労働者階級の解放どころか、結局は人民の自由を抑圧するポスト全体主義体制でしかなかった。階級廃絶を主張していたが、党官僚という偽善的な新階級を生み出してしまい、富は公平どころか特権階級に集中した。ミーゼスハイエクは社会主義、共産主義、ナチズム、ファシズムは同根的な集産主義であり、計画経済や社会主義・共産主義が『独裁制の全体主義』に陥るのは必然的なことだったとの指摘をした。

レーニンは著書「国家と革命」の中で、共産社会が実現した暁には国家経済の運営は極めて単純になり、郵便事業をモデルとした読み書きと四則演算ができる程度の人材であれば誰でもその運営に携われるとしたが、実際には計画経済を立案・実施するためには極めて専門的な知識と技能をもったエリート集団が必要となり、庶民とはかけ離れた特権的官僚組織を生み出した。また治安維持についても「泣いている子がいれば近所の人間が黙っていないように」社会が自発的に秩序を保つと予言したが、実際にソ連国家が生み出したのは秘密警察や強制労働・組織的拷問などの歴史上まれに見る権力による暴力組織であった。

また、需給に関する全ての情報が効率的に集められない以上、効果的な計画経済は不可能であるとの指摘(経済計算論争)もある。現実に、道路建設、住宅建設、軍事産業、宇宙事業などの大規模な重厚長大産業では大きな効果を発揮したが、スピードと多様性が要求される情報産業やサービス産業には対応できず[5]、民需品の品質は低いものが多かった。1960年代後半には宇宙事業でもアメリカの後塵を拝した。ソビエト共産党自身もその不合理性を認め、政治・経済の自由化を推し進め、1991年に解散した。[6]

弁証法的唯物論批判[編集]

レーニンは、認識は人間による自然(物質)の反映である[7]という反映論を説き、意識は大脳の機能に過ぎないと述べたが、意識と物質には弁証法的には統一できない差異がある。例えば、日本語の文字は、それを知らない外国人にとってはただのインクの染みに過ぎない。日本語、日本文字を理解する人物が主観的に見るからこそ、文字として読まれるのである。文字の本質とは、規則的なパターンと日本人(日本語話者)の持つ<共同主観性>であり、物質(インク)そのものではない。

現象学では、人間はただ無差別に対象をカメラのように認識しているのではなく、志向性をもって、対象を主観的に<了解>(観察ではなく)して、意味付与していると指摘している。ゲシュタルト知覚という言葉があるように、生物は対象をありのままにではなく、抽象化し、単純化し、象徴化して認識、記憶しているのである。

また、人間の身体は新陳代謝を繰り返し、物質的には数年で全身すべてが入れ替わると言われている。しかし、人間は同一の人格を維持している。清野清は、生命現象の本質とはタンパク質などの物質ではなく、あくまでもDNAの配列パターンであり、設計図であり、情報であると主張している。[8]

レーニン的な弁証法的唯物論は、つきつめれば人文・社会科学領域も自然科学によって説明できるとする自然科学至上主義であり、自然科学万能論である。しかし、医学的な大脳生理学や神経学がどれだけ発達しても、知覚の問題は説明できても、解釈や感想、評価という人間の行う意味付けや価値付け、審美眼の部分は説明できない。吉本隆明はいくら人体を医学的に解剖しても、その人の性格や哲学、思想は分からないように、精神は肉体から派生するが還元はできないとして、自然科学ではアプローチ(観察)できない人間の解釈、感想、審美眼を「幻想」と呼んでいる。

生物も高度で複雑な機械に過ぎない(機械論)と言う指摘もあるが、生物と機械は違う。機械は任意に分解し、組み立てなおすことができるが、生物は一度分解したら死んでしまい、もう二度と活動を再開することはない。生命活動は身体的な全体性があって初めて成立するものであり、各要素や各部分、各器官に分解することはできないのである。外的な損傷がなくても、生物とその死体は魂が抜けたとしか表現しようのない、不可逆で質的な断絶がある。無機的な物質には存在しないが、生物には存在する根源的なエネルギーを、人々は昔から霊魂(ゴースト)、精神分析学ジークムント・フロイトEs(エス[9]無意識本能衝動)、吉本隆明は原生的疎外と呼んでいる。

前衛主義批判[編集]

マルクスは「哲学者は世界をさまざまに解釈してきた。しかし重要なのは世界を変革することだ」と主張し、理論革命家が革命を先導すべきだと主張した。これをレーニンは前衛主義として受け継ぐ。しかし、もしマルクスの言うように革命が「歴史の必然」ならば、インテリゲンツィアが信念を持って革命を遂行する必要などないはずである。

笠井潔は、インテリゲンツィアを知的無用者だと述べ、彼らが革命の理想にとりつかれたのは、本来は無用者であるのもかかわらず、自分をひとかどの人間だと思い込んだエリート意識であり、過剰な自己観念であり、にもかかわらず自分を評価しない社会に対するルサンチマン、劣等感であると指摘している。無目的で鬱屈としたインテリにとって、マルクスの革命理論は絶好の受け皿となった。これらのコンプレックスと自意識の強い田舎インテリの姿は、ドストエフスキーの文学などに多種多様に描写されている。前衛主義とは大衆を愚衆と考えた傲慢なエリート主義であり、排他的で硬直化した独善性である。それはレーニンの「マルクス主義は真理であるがゆえに全能である」という言葉に象徴されている。人民を解放しようという献身的な利他性どころか、世界を意のままに動かそうとする肥大化したエゴであり、ソ連が収容所群島と化したり、連合赤軍が観念的なテロリズムに走るのは、その独善性と傲慢さゆえに必然であると指摘している。[10]

吉本隆明は、知識人階級は非現実的で抽象的な理想に走るのではなく、<大衆の原像>を自分の理論の中に組み込むことが、世界を正しく認識する上で重要だと主張している。

科学哲学からの批判[編集]

科学哲学者のカール・ポパーは、マルクス主義は科学を自称しているが反証可能性がないため科学ではない、と指摘している[要出典]。共産主義社会の到来を予言したが、時期を明確にしていないので、永遠に「いつか共産主義社会が到来する」と言い続けていたらその予言は外れることはない。これは歴史上言い続けられてきた「いつか最後の審判が訪れる」「千年王国は近づいた」といった宗教的預言と同種の構造であり、科学として正誤を確認しようがないのである。

その他の批判[編集]

小泉信三は、社会主義は科学ではなく、労働者の資本家に対する体系化された嫉妬の情であると指摘している。

吉本隆明は『マチウ書試論』のなかで、「人間は、狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想を信ずることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は選択するからだ。」と述べ、階級性に関係のない人間の自由意志の存在を指摘している。

脚注[編集]

  1. ^ 小泉信三:『共産主義批判の常識』
  2. ^ フランシス・フクヤマ:『歴史の終わり』
  3. ^ 小泉信三:『共産主義批判の常識』
  4. ^ フランシス・フクヤマ:『歴史の終わり』
  5. ^ コンピュータネットワークが発達すると、計画経済はコンピュータを活用して初めて可能になるという議論も現れたが、実践の試みであるチリのサイバーシン計画政権転覆により中絶した
  6. ^ フランシス・フクヤマ:『歴史の終わり』
  7. ^ 『哲学ノート』なおこのあと「それは単純な反映でなく、一連の諸概念、諸法則などの定式化、形成の抽象の過程」と続く。
  8. ^ 清野清 『日本共産党を論破する』世界日報社 2004年 ISBN 9784882010807
  9. ^ アメリカのジェイムズ・ストレイチーによるフロイト翻訳全集(1953年)でラテン語のイドと訳された。
  10. ^ 笠井潔:『テロルの現象学』

関連項目[編集]