スターリングラード攻防戦
| スターリングラード攻防戦 | |
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| 戦争:第二次世界大戦(独ソ戦) | |
| 年月日:1942年6月28日~1943年2月2日 | |
| 場所:スターリングラード、ソ連 | |
| 結果:赤軍の勝利 独ソ戦における赤軍の優位が確定。 |
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| 交戦勢力 | |
| 指揮官 | |
| フリードリヒ・パウルス元帥 |
ゲオルギー・ジューコフ元帥 |
| 戦力 | |
| 戦闘開始時 270,000 赤軍反撃時 850,000 |
戦闘開始時 187,000 赤軍反撃時 1,700,000 |
| 損害 | |
| ドイツ 戦死 147,300 捕虜 91,000 ハンガリー 戦死・捕虜 80,000 ルーマニア 戦死・捕虜 160,000 イタリア 戦死 25,000 捕虜 70,000 航空機 900 計 841,000[1] |
戦死・行方不明 478,741 負傷 650,878 民間人死者 40,000 航空機 2,769 計 1,129,619[2] |
スターリングラード攻防戦(スターリングラードこうぼうせん、1942年6月28日 - 1943年2月2日)は、独ソ戦におけるヴォルガ川西岸に広がるスターリングラード(現在のヴォルゴグラード)を巡り、繰り広げられた枢軸国軍(ドイツ、ルーマニア、イタリア、ハンガリー)対ソビエト赤軍の戦いである。
スターリングラードは元来ドイツ軍のブラウ作戦における副次的目標の一つに過ぎなかったが、日露戦争の奉天会戦、第一次世界大戦のヴェルダンの戦いを上回る動員兵力、犠牲者、経済損失をもたらした野戦に拡大した。また、史上最大の市街戦に発展した。
目次 |
戦いの背景[編集]
1941年6月、ドイツ軍はソ連領内に侵攻を開始(バルバロッサ作戦)。作戦の第一段階は順調に推移し、10月には首都モスクワ攻略を目的としたタイフーン作戦が発動されるが、ソ連軍の頑強な抵抗とナポレオンも苦しんだ冬将軍の影響で作戦は失敗。大きな損害を払いつつ後退したドイツ軍だったが、何とかノブゴロド、カリーニン、スモレンスク、ハリコフを維持して冬の戦線を持ちこたえた。
翌1942年5月、いわゆる春攻勢に出たソ連軍はセミョーン・チモシェンコ元帥の下でハリコフの奪回を図るが、ドイツ軍は第6軍と第1装甲軍の南北からによる後方遮断でこれを阻止・殲滅した(第二次ハリコフ攻防戦)。これによりドイツ軍は再び攻勢の時期を迎えるが、もはや前年のバルバロッサ作戦のようにバルト海から黒海にいたる全戦線で大規模攻勢を行う戦力はなかった。そこで、ソ連の石油供給源であり、ペルシア回廊を通じての英米からのレンドリースの経由地であったカフカース地帯に着目し、南方軍集団の戦線に限定された反攻を計画。以下の手順によるブラウ作戦が立案された。
- ドネツ川に沿いながらウクライナ東部ルハンシク州のドンバス炭田地帯を抑える。
- ドン川と、カフカース方面からモスクワに向かう鉄道が交わる要衝ロストフ・ナ・ドヌを占領する。
- カフカースに進撃して、マイコープおよびグロズヌイの油田を確保する。
- グロズヌイで、バクー油田からアストラハンを経て航空産業が盛んなサラトフ方面に向かう鉄道を遮断する。
- 同時にドン川東岸の側面を抑え、スターリングラード市付近でヴォルガ川の水上輸送路を遮断し、市内の大工場を破壊する。
本来ならカフカースの占拠による油田の奪取こそが作戦の主目的であり、スターリングラードの確保は副次的なものに過ぎなかった。しかし、ヒトラーはスターリンの名を冠した都市の占領による政治的効果とそれにともなう敵軍の士気の低下を期し、スターリングラードの攻略に必要以上の執着を抱いていた。また、ドイツ軍の得意とする電撃戦は機動戦においてその優位性を発揮するものであり、都市の攻略に付随する市街戦に向いた戦術ではなかった。さらに、前年のアメリカの宣戦布告にともない、ドイツの戦争指導部中枢にはできるだけ早くソ連を降伏に追い込みたいという思惑があった。これらの危険要素を抱えながら、ドイツ軍はブラウ作戦を実行に移す。
ブラウ作戦発動[編集]
6月28日、フェードア・フォン・ボック元帥指揮の南方軍集団は、ギュンター・フォン・クルーゲ元帥の中央軍集団などから戦力を引き抜いて強化した上で、大攻勢ブラウ作戦を開始した。7月7日にヒトラーの命令により、ブラウ作戦の参加部隊は、ドネツ川沿いに進んでドン川を渡りカフカース地方の油田地帯を攻めるA軍集団(ヴィルヘルム・リスト元帥指揮。第17軍、第1装甲軍など兵力100万)と、その側面をドン川沿いに進みながらスターリングラードでヴォルガ川を封鎖するB軍集団(男爵マクシミリアン・フォン・ヴァイクス上級大将指揮。第2軍、第6軍、第4装甲軍、イタリア第8軍、ハンガリー第2軍、ルーマニア第3軍、ルーマニア第4軍など兵力30万)とに分けられた。
迎え撃つソ連赤軍は、前年の大打撃から完全に立ち直ってはいなかったが、ウラル以東やカフカースなどに疎開させた工業設備が生産を再開し、機械化部隊の戦力は急速に再建されつつあった。また、拠点の保持にこだわって包囲され大量の捕虜を出した前年の戦訓に学び、より柔軟な守備戦術がとられるようになっていた。
戦いの経過[編集]
A軍集団[編集]
ドン川の渡河をめぐるロストフ・ナ・ドヌ周辺の戦闘は、セヴァストポリの戦いを終えるとともにクリミア半島からケルチ海峡を渡って支援攻撃する予定だった、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥の第11軍主力をヒトラーがレニングラード方面に引き抜いたこともあり、兵力が十分ではなく予想外の激戦となったが、7月25日に3日間の市街戦を経てロストフの街を占領した。その後、エヴァルト・フォン・クライスト上級大将の率いる第1装甲軍とリヒャルト・ルオッフ上級大将の第17軍を主軸にカフカースへと順調に進撃し、ノヴォロシースクやマイコープを占領した。8月22日には、第1山岳猟兵師団の選抜兵がヨーロッパ州最高峰のエルブルス山(標高5,642m)に登頂し、頂上にハーケンクロイツの旗を立てた[3] 。
しかし、前面に立ちはだかる険しいカフカース山脈に加え、鉄道およびカスピ海、黒海の航路から増援を受けたソ連軍の抵抗を受け、進撃は予定通りに進まなかった。また、黒海沿岸の要地であるノヴォロシースクも、市街は占領には成功したものの、トルコ国境のバトゥミへの進路どころか、港湾施設に黒海艦隊の水兵が立てこもって激しく抵抗し、最後まで海上からの補給に利用できなかった。さらに、マイコープの油田と製油施設もソ連軍が退却時に破壊しており、皮肉にもドイツ軍は燃える油田を前にしつつ燃料が欠乏することとなる。
9月に入り、補給の限界とソ連軍の防禦線構築により、グロズヌイから70キロ前面のテレク川で戦線は完全に膠着した。これに憤ったヒトラーは、9月9日にA軍集団司令官のリスト元帥を罷免し、直接指揮にあたる。後任に第1装甲軍司令官だったクライスト上級大将があてられたのは、後述するソ連赤軍の攻勢で戦局が逆転しつつあった11月22日だった。
このように、カフカースの油田奪取というブラウ作戦の主目標達成がいまや困難になった結果、ヒトラーはスターリングラード付近でのヴォルガ川遮断という、もう一つの目標に執着することとなる。
B軍集団[編集]
準備段階の6月18日、に第23装甲師団の作戦参謀ライヘル少佐が搭乗した連絡機が撃墜され、命令書がソ連赤軍に回収された。これは関係者が軍法会議にかかるほどの重大事件で、ヒトラーも不首尾に激怒したが、作戦は計画通りに進められ、B軍集団は6月28日にクルスク方面からドン川に向かって南東に攻撃を開始する。
しかし疑い深いスターリンは、ドイツ軍はヴォロネジからオリョール、さらにモスクワにむけて北上するだろうと考え、ライヘル少佐が携えていた命令書はワナだろうと判断した。これにもとづき、フィリップ・ゴリコフ中将のブリャンスク方面軍は、ドイツ軍の予想に反して帝政ロシア軍以来の伝統である後退戦術をとらず、ヴォロネジの市街地に拠点を構えて頑強に抵抗した。一方、ドイツ軍も負けじと2個の装甲師団まで投入して対抗し、7月13日になってようやく占領した。この作戦に拘束された結果、ドン川下流の制圧に7月下旬までかかる。以上のような南方軍集団の不手際に憤ったヒトラーは、7月15日に司令官のボック元帥を更迭し、軍集団司令部をB軍集団司令官ヴァイクスのもとに統合した。さらに翌日、ヒトラーは総統大本営を東プロシアのラステンブルク(現、ケントシン)付近に置かれたヴォルフスシャンツェ(「狼の砦」)から、ウクライナ西部のヴィーンヌィツャに設置されたヴェアヴォルフ(「人狼」)に前進させ、10月31日までここで自ら指揮を行う。ヴォロネジ攻略にみられた、都市の占領にこだわって戦略的目標を見失うという失策は不吉な前兆だったが、後にヒトラー自らがスターリングラードで犯してしまい、その結果は後述するように極めて深刻なものとなる。
上記のようにドイツ軍がヴォロネジ占領に手こずる間、ソ連赤軍はチモシェンコ元帥の指揮のもと、スターリングラードに向けて戦略的に粛々と後退し、前年のような無残な包囲殲滅を回避した。これを追うドイツ軍は、夏の大草原(ステップ)で1年前を彷彿させる快進撃を始めたが、前年と異なり捕虜や重機材はほとんど得られなかった。その報告をソ連赤軍の潰走と捉え、気を良くしたヒトラーは7月23日、ヘルマン・ホト(Hermann Hoth)上級大将が率いる第4装甲軍に対し、ドネツ川から反時計回りに前進して北方から東進する第6軍と協働してソ連赤軍の残存部隊を包囲殲滅するという当初の計画を延期し、主力部隊をロストフ・ナ・ドヌで抵抗にあっているA軍集団支援のためにノヴォチェルカースク付近のドン川に向わせた。さらに側面を支えるために、別の一隊をプロレタルスカヤからカルムイク自治共和国の首都エリスタを経て、ヴォルガ河口のアストラハン、さらにカスピ海方面へ進ませるよう命じた。カルムイク人はモンゴル系でヨーロッパ唯一の仏教徒であり、またレーニンもその血を引くという。無人に近い草原を突破し、仏教寺院が建つエリスタを占領したドイツ軍将兵の前途には、なおも草原がどこまでも続き、まさに地の果てに来た感があったという。これらの命令で、第4装甲軍は装甲師団と自動車化歩兵師団の一部がA軍集団に引き抜かれ、さらに燃料補給もA軍集団が優先されたため、またも進撃速度が鈍ってしまう。
しかし7月30日、ヒトラーはロストフ占領をうけて、第4装甲軍を再びスターリングラード方面に向わせた。一方、第6軍にはブラウ作戦に当初盛り込まれていなかったスターリングラード市の「占領」を命じる。8月7日、第4装甲軍の先鋒はスターリングラード南西130kmのコテリニコボに南側から回り込み、さらに翌8日、第6軍はドン川のカラチ鉄橋を占領し、攻勢の戦略拠点を確保した。しかし、スターリングラードへの本格的な攻略の開始は補給と兵力の集結を待たねばならず、一連の総統命令の乱発は作戦の遂行を大いに混乱させた。そのことは、ソ連赤軍を捕捉・包囲する時間的余裕を喪失させた。ソ連赤軍の防衛態勢が広大な領土と莫大な人口に頼って次第に強化されつつある中、ドイツ軍の作戦展開の遅延は敗北の遠因となっていく。
スターリングラードへの攻撃開始[編集]
フリードリヒ・パウルス大将率いる第6軍は、8月16日までにドン川西岸をすべて確保し、グスタフ・アントン・フォン・ヴィッテルスハイム( Gustav Anton von Wietersheim)大将の第14装甲軍団とヴァルター・フォン・ザイトリッツ=クルツバッハ砲兵大将の第51軍団を先頭に、いよいよスターリングラードに迫る。
当時、人口60万だったスターリングラード市は、往々にして当時のソ連邦最高指導者ヨシフ・スターリンが革命時のロシア内戦においてここでデニキン将軍の白衛軍に勝利したことを刻むため、彼の名前を冠するだけが取り柄の都市で、完全占領に足る戦略的価値はなかったとされることもあるが、それは大きな間違いである。
スターリングラード市は、ロシア南部でヴォルガ川がドン川にむかって最も西側に屈曲した地点にあり、ここを抑えることは、カフカースや黒海・カスピ海からロシア中心部に至る水陸双方の輸送路を遮断することにつながった。そうした戦略的位置にくわえ、五カ年計画で重点的にモデル都市として整備された結果、指折りの製鉄工場である赤い10月製鉄工場、大砲を製造していたバリカドイ(バリケード)兵器工場、さらにスターリングラード・トラクター工場(別名 ジェルジンスキー工場)など、ソ連にとって国家的に重要な大工場が存在する有数の工業都市だった。とくにスターリングラード・トラクター工場は、独ソ開戦とともにT-34戦車の主力生産拠点だったハリコフ機関車工場やキーロフスキー工場(レニングラード市)が疎開を強いられる一方、新たな戦車生産拠点となるクラスノエ・ソルモヴォ工場(ゴーリキー市)やウラル戦車工場(ニジニ・タギル市)の操業が本格化する以前においては、最も主力となるT-34組立工場であった。市内では、これら工場群の男女労働者や、未成年のコムソモール(共産主義青年同盟)団員で編成された、ソ連共産党に忠実な市民勢力による義勇兵のほか、ティモシェンコ元帥とともにドン川方面から組織的に撤退して再編された将兵。さらには前年以来ウクライナから逃れてきた難民も市内に収容されており、スターリングラードはロシア南部最後の拠点という性格を有していた。また、もしソ連赤軍が反撃に転じた場合は、ロストフ奪回の策源地にもなりえた[4]。
8月23日、情報を与えられていなかったスターリングラード市民は通常と同じように平穏な日曜日の朝を迎えたが、一瞬にして地獄の世界に直面する。ゲルニカ以来、絨毯爆撃を主導してきたヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン上級大将の第4航空艦隊は、市街に対して航空機のべ2000機による、爆弾総量1000トンにのぼる猛爆撃を加えた。続いてB軍集団による総攻撃が開始された。ここに150日におよぶ戦いの幕が開かれる。
まず、ヴィッテルスハイム大将指揮の第48装甲軍団は、早朝にドン川から出撃したハンス=ヴァレンティーン・フーベ中将の第16装甲師団を先鋒に急進し、85mm高射砲を使ったトラクター工場の女性労働者たち(コムソモールの少女たちともいわれる)による抵抗を排除して、午後4時過ぎに市の北郊ルイノクで待望のヴォルガ河畔に達した。しかし、市街地への南下は阻止された。このほか、第6軍と第4装甲軍は連携して徐々に外郭防衛線を突き崩してスターリングラードを包囲していったが、本格的攻撃の再開は、A軍集団の側面支援に向かった第4装甲軍の主力部隊がスターリングラード方面での展開を終えるまで、3週間もずれ込んでしまった。この間、ドイツ空軍は連日のように猛烈な爆撃を加えて市街のほとんどを廃墟にするとともに、ヴォルガ川を航行する船舶にも昼夜にわたり砲撃と航空攻撃を加えている。ヒトラーもパウルスも、スターリングラードは数日の攻撃で陥落できると楽観的に考えていた。8月28日になってスターリンはようやく非戦闘員の退去を許可したが、その間の爆撃で数万人の一般市民が犠牲となった。しかし、激しい爆撃がもたらした廃墟と瓦礫は無数の遮蔽物をもたらし、ソ連赤軍将兵にとっての要塞となっていく。
スターリングラード防衛のため、7月12日にスターリングラード方面軍が編成され、チモシェンコ元帥が司令官に任命された。ただし、彼は第二次ハリコフ攻防戦での大敗北という失策を引きずっていたため、スターリンの判断によってすぐに安定した北西方面軍へ異動となり、ワシーリー・ゴルドフ中将が交代した。しかし、ゴルドフはドン湾曲部の防衛戦で成果があげられなかったために更迭され、8月1日にアンドレイ・エレメンコ大将が軍司令官となった。エレメンコは、2月に行われたデミャンスク包囲戦の際、第4打撃軍を指揮してトロペツを攻略中に重傷を負って入院中だったが、スターリンに懇願して前線に復帰した。エレメンコは着任するや、ドイツB軍集団の集中が遅れているのを活用し、ドン川西岸方面から撤収してきた各部隊を短期間に再編した。さらに市内の工場労働者や市民を部隊編成させ、対岸からも補給を受けて防衛線の構築に努めた。
スターリングラード市内における防衛の中心を担ったのは第62軍で、司令官はアントーン・ロパーチン中将だった。ロパーチンは撤退戦で能力を発揮した。しかし、戦線の崩壊で心身ともに消耗し、街の防衛に悲観的になっていたため更迭される。彼に代わり、第64軍司令官代理だったワシーリー・チュイコフ中将が9月12日に新たに司令官に任命された。チュイコフは、のちに第8親衛軍司令官としてベルリン攻撃の主力となり、防衛軍司令官ヘルムート・ヴァイトリンク砲兵大将の降伏を受け入ることとなる。また、参謀長には対日参戦で活躍することとなるニコライ・クルイロフ少将が就いている。パウルスが司令部を戦場から離れた地点に置いたのに対し、チュイコフは最前線近くに司令部を置き、文字通り陣頭で指揮を行った。
総攻撃と市街戦突入[編集]
9月13日午前6時45分、第6軍は11個師団の兵力で、猛烈な砲爆撃とともに、ツァリーツァ渓谷から市街地への突入を開始した。攻撃の重点が置かれたのは、官公庁やウニヴェルマーク・デパート、二つの駅とフェリー乗り場のある市街地南部だった。ヒトラーは当初、この戦闘は比較的早期に終結すると予想していたが、爆撃と火災により瓦礫の山と化した廃墟を効果的に使って防衛するソ連第62軍の激しい抵抗に遭う。建物一つ、部屋一つを奪い合う市街地戦は冬季にまでもつれ込んだ。ドイツ軍がコンクリートの塊となった廃墟に突入しても、ソ連兵は上階で頑強に抵抗し、完全に占拠しても地下道や下水道を使って逆襲をかけてきた。地下壕は発見されるや、負傷兵や避難民ごと火炎放射器で焼き尽くされたが、後方の建物や窪地、瓦礫の中にはソ連の狙撃兵がいつの間にか入り込んだ。狙撃兵は、なるべく高い階級の敵の将校に照準を合わせ、あるいは伝令や斥候、補給要員、工兵を集中的に狙った。こうした狙撃兵の中からは、シベリアから派遣されたパチェク大佐の第284狙撃師団に属し、149人のドイツ軍将兵を射殺してソ連邦英雄となるヴァシリ・ザイツェフのような人物も現れる[5] 。
あるドイツ軍将校の手記にはこう記されている。
| “ | スターリングラードはもはや街ではない。日中は、火と煙がもうもうと立ち込め、一寸先も見えない。炎に照らし出された巨大な炉のようだ。それは焼けつくように熱く、殺伐として耐えられないので、犬でさえヴォルガ河に飛び込み、必死に泳いで対岸にたどり着こうとした。動物はこの地獄から逃げ出す。どんなに硬い意志でも、いつまでも我慢していられない。人間だけが耐えるのだ。
神よ、なぜわれらを見捨て給うたのか。[6] |
” |
悪臭や煙が充満する中で、虱にまみれ、建物の影や穴、地下壕を這っての戦いは、ドイツ兵によって「ラッテン・クリーク」(ネズミ戦争)と揶揄された。一方、チュイコフたちは、ネズミを罠にかけるチーズの役割に徹することとなる。
ドイツ軍の人事的混乱[編集]
9月に入って、ルジェフ付近における中央軍集団の正面ではソ連赤軍の新たな部隊が現れて散発的に攻撃を加えては後退するという現象が続き、冬季にむけて大規模な予備兵力が蓄積されつつある兆候がうかがえた。陸軍総司令部 (OKH) 参謀総長フランツ・ハルダー上級大将はかねてよりヒトラーと意見が衝突していたが、上記のようなソ連赤軍の動きへの対応をめぐって両者は決裂し、9月24日にハルダーが更迭される。後任にはハルダーと違ってヒトラーに従順な、西部軍参謀長のクルト・ツァイツラー少将が、ドイツ陸軍史上最年少の47歳で大将に一足飛びに昇格したうえ任命された。
スターリングラードに攻め込んだドイツ第6軍は、市街戦に装甲部隊や貴重な工兵部隊を惜しげもなく投入した。しかし、そもそも装甲部隊は市街地には不向きな部隊であり、瓦礫で身動きを奪われた戦車の多くが、上方から対戦車銃や火炎瓶で攻撃され、損害を出した。第14装甲軍団長ヴィッテルスハイム大将はこうした用兵に最初から異論を唱えていたが、ヒトラーの逆鱗に触れ、市街地突入翌日の9月14日に解任された。後任には、ヒトラーお気に入りの第16装甲師団長フーベ中将が当てられている。なお、火炎放射器や爆薬を扱いなれた突撃工兵部隊はこうした市街戦のまさにプロフェッショナルではあるが、もとより数は少ないうえ戦線各所で必要とされ、さらにソ連軍狙撃兵にとって格好の標的となり、急速に数を減らしていった。手榴弾や拳銃の弾丸が届く50ヤード以内で敵と向かい合えと抱擁戦を命令したチュイコフ中将が意図したように、両軍がきわめて狭い空間に入り乱れて対峙した結果、ドイツ軍による電撃戦の強さの秘訣であったユンカースJu87急降下爆撃機からの効果的支援が得られなくなり、市街戦は第一次世界大戦の塹壕戦にも似た一大消耗戦となった。
なお、主力部隊を突出部の先端であるスターリングラードに密集させ、弱体なルーマニア軍に第6軍の両翼を守らせるという戦略の危険性については、第4歩兵軍団長ヴィクトル・フォン・シュベドラー大将がヒトラーに率直に進言したが、「敗北主義者」と罵倒されて10月に解任される。しかし、シュベドラーの危惧は約1ヵ月後に、ものの見事に的中することとなる。
シュベドラー大将が枢軸軍側のアキレス腱と指摘したルーマニア第3軍の指揮官であるペトレ・ドゥミトレスク大将も、自分たちが直面している危険性を早い時期から認識しており、特にソ連軍によるドン川橋頭堡強化を何度も警告していたが、ヒトラーがフェルディナント・ハイム中将の第48装甲軍団から予備兵力としてドイツ第22装甲師団をペラゾフスキーに回す決定を下したのは、ソ連軍の本格的反攻が始まるわずか9日前の11月10日だった。
こうしたドイツ軍内の混乱が続くなか、ソ連赤軍はスターリングラードの防衛に集中し、ドイツ軍を釘付けにすることにより、予備兵力の訓練と展開の時間を稼ぐことが可能となった。共産党中央からは、のちに首相となる中央委員会書記ゲオルギー・マレンコフ、軍事会議委員ニキータ・フルシチョフらが派遣され、政治委員として督戦にあたった。また、ラヴレンチー・ベリヤが統括する内務人民委員部(NKVD)は厭戦的な将兵の摘発や逃亡の阻止に努めた。ソ連当局にスターリングラードで処刑された将兵は、1個師団の兵力を上回る1万3千人に達している。
ソ連第62軍の抵抗[編集]
徹底した持久戦、接近戦、白兵戦を行った第62軍の、ワシーリー・チュイコフ中将の指揮は、次の一言につきるだろう。「ドイツ兵たちに銃口を突きつけ、我々はまだ生きていると感じさせてやらなければならない。」
- 9月14日 - フォン・ハルトマン中将のドイツ第71歩兵師団が市街南部の中央駅(第一停車場)を攻撃。以後、スペイン内戦におけるグアダラハラの戦いで活躍したアレクサンドル・ロジムツェフ少将の率いる第13親衛狙撃師団との間で、数日間15回も取りつ取られつの大激戦となった。
- 9月16日 - コルフェス少将のドイツ第295歩兵師団が市街を見下ろす標高102メートルの丘ママエフ・クルガンを占拠するも、ゴリシュヌイ少将の第45狙撃師団との間で10月まで争奪が続く。頂上は両軍の砲弾が着弾して無人化し、冬になっても積雪しなかったといわれる[7] 。
- 9月18日 - 中央駅周辺が占拠され、ソ連第62軍は南北に分断される。チュイコフ中将はフェリー乗り場近くの地下壕から北部の工場地区にある石油備蓄施設の地下室に司令部を移した。しかし、市街南部を見下ろす巨大な穀物サイロには、第35親衛師団兵および北極海艦隊水兵からなる50名弱のソ連兵が籠城し、1個大隊のドイツ軍を引きつけて頑強に抵抗を続けた。
- 9月22日 - ドイツ軍は装甲師団の応援を得て、さんざん手こずったすえに穀物サイロのソ連兵を全滅させて「赤の広場」に進出した。これで、ソ連赤軍の補給拠点であるフェリー乗り場を機銃で射撃することが可能となった。その結果、市の中心である南部地区はほぼ制圧され、以後は北部の工場地区が攻防の焦点となる。しかし、4階建てのアパートを地雷と機銃を駆使して最後まで守り抜いた第42親衛連隊のヤコブ・パブロフ軍曹の一隊のような、後方に残存して徹底抗戦する小部隊も少なくなかった[8]。
- 9月27日 - レンスキー中将のドイツ軍第24装甲師団とマグヌス少将の第389歩兵師団を主力とする部隊が、市街戦中も戦車を作り続けていた、赤い10月製鉄工場への攻撃を開始する。ソ連軍もシベリアからの増援部隊を送りこみ、激しく抵抗した。
- 10月14日 - 猛烈な支援爆撃とともに、ドイツ軍第14装甲師団と3個歩兵師団がトラクター工場に対する総攻撃を開始した。市街への攻撃開始以来最大の激戦となり、ジョルデフ少将の第37親衛狙撃師団を壊滅させてヴォルガ川に達したが、ドイツ軍も1日で3,000人近い戦死者を出した。ソ連軍を全滅させたドイツ軍が河岸に到達するや、対岸のソ連軍は重砲やカチューシャロケット砲で集中砲火を浴びせたので、ドイツ兵の消耗も著しかった。
- 10月23日 - バリカドイ兵器工場のほとんどがドイツ軍の手に落ちる。前日には初雪が降ったが、市街の9割はドイツ軍の支配下となった。
- 10月27日 - 赤い10月製鉄工場にドイツ第79歩兵師団が突入。ソ連兵は火を落とした溶鉱炉などで食い止める。いまや第62軍は、工場の一郭に潜伏するか、ヴォルガ川に幅数百メートルで張り付いた帯状の陣地に立てこもる状態になった。しかし、ほとんど増援を得られないなかで将兵はきわめて頑強に抵抗した。ドイツ軍も補給に苦しみ、また空軍の支援も漸減し、冬を迎えつつある市街のわずか数パーセントをめぐり、際限の無い市街戦が続く。
- 11月8日 - ロシア革命25周年を記念して、この日にソ連軍が何らかの攻勢を仕掛けるだろうという懸念があったが何事もなく、無尽蔵のようなソ連の兵力も限界に近づいているとの楽観論がドイツ軍側に漂う。翌日、ヒトラーはスターリンの名を冠したスターリングラードを時間のいかんに関わらず必ず制圧し、第二のヴェルダンにはしないとラジオで大見得をきった演説した。
- 11月11日 - 午前6時30分、ドイツ軍は7個師団で工場地区に残る第62軍の掃討を開始した。激烈な白兵戦が展開されたすえ、特徴的な周回線路から「テニスラケット」と呼ばれた操車場は第62軍がなんとか確保したが、ドイツ軍は赤い10月製鉄工場を突破して数百メートル幅でヴォルガ川に到達し、第62軍は三つに分断される。浮氷がヴォルガ川に流れだし、ただでさえ困難だった対岸からの補給を阻害した。しかし、市内のほとんどを確保したとはいえドイツ軍の消耗も激しく、日ごとに寒気が強くなるなかで、戦線は再び膠着状態となってしまう。結局、これが第6軍にとって最後の総攻撃となった。一方、第62軍は今回も激しい爆撃を受けたが、彼らの頭上には爆弾に交じって鉄片や瓦礫、犂まで落とされた。これをみてチュイコフは、自らのみならず敵も限界に近づきつつあることを悟った。
ソ連軍の大反攻と逆包囲[編集]
ソ連軍最高指揮官代理ゲオルギー・ジューコフ上級大将と参謀総長アレクサンドル・ヴァシレフスキー大将のもとで、9月12日にスターリンの許可を得て極秘裏に2ヵ月にわたり準備された、100万人の将兵と戦車部隊の6割にあたる980両で両側面のルーマニア軍を粉砕し、スターリングラードの第6軍を逆包囲するというウラヌス作戦(天王星作戦)が発動される。各部隊は無線の発信を厳禁され、作戦目的も数日前まで極秘とされた。こうした情報封鎖のもとで、数週間前から第62軍への弾薬補給も理由なしに削減されており、限界に近い戦闘に直面しているチュイコフが苛立つほどだった。くわえて、悪天候が続いたために航空偵察が妨げられたのでソ連軍の大反攻は完全にドイツ軍の裏をかいた。ドイツ軍は、ソ連軍予備兵力の量を甘く見ていたうえ、第二次ルジェフ会戦を予知し、9月以来中央軍集団に威力偵察を加えてきた予備兵力も、モスクワに近いルジェフに充てられると判断していた。予想通りルジェフでもソ連赤軍はジューコフの直率による攻勢を開始し、待ち構えた中央軍集団によって大損害を受けたが、それは中央軍集団の兵力を移動させないための対策にすぎなかった。
- 11月19日 - 密かに編成を終えたニコライ・ヴァトゥーチン大将の南西方面軍および、コンスタンチン・ロコソフスキー中将のドン方面軍により、重砲3500門による猛砲撃が午前7時30分から80分間続けられたのち、ロマネンコ中将の第5戦車軍とチスチャコフ中将の第21軍が、ドン川に面したクレツカヤ=ラスホピンスカヤ地区を守るドゥミトレスク大将のルーマニア第3軍を粉砕して包囲行動を開始した。ルーマニア兵は対戦車兵器を持っていなかったため、戦車隊の攻撃を受けてパニック状態に陥る。なお、ルーマニア軍の後方には、予備としてドイツ第22装甲師団が配置されていたが、大部分が旧式となったチェコ製の38(t)戦車だったうえ、燃料不足のため2ヵ月近くエンジンをかけずにワラをかぶせて待機するうちに、電極をネズミにかじられるという思わぬアクシデントが発生し、行動可能な戦車は20両あまりに過ぎなかった。38(t)戦車より格段に高性能のT-34戦車200両からなる第5戦車軍はペスチャヌイ付近で第22装甲師団の反撃をあっけなく粉砕し、この日だけで雪の草原を50キロほど前進している。
- 11月20日 - つづいてアンドレイ・エレメンコ大将のスターリングラード方面軍は、シュミロフ中将の第64軍、トルファノフ中将の第57軍、トルブーヒン中将の第51軍による攻勢を南方の塩湖地帯から開始し、コンスタンチネスク大将のルーマニア第4軍を突破した。唯一の強力な予備兵力で、長砲身のIV号戦車を装備したレイザー少将率いるドイツ第29自動車化師団は、第51軍に属する第13機械化師団に反撃して大損害を与えた。しかし、パウルスが予備の兵力を追加しなかったうえ、他の地区のソ連赤軍は味方の損害をあえて無視して進撃の続行を優先したため、ドイツ軍の反撃の効果は局地的なものとなった。
- 11月21日 - 第6軍司令部はスターリングラードから60キロほど離れたドン川流域のゴルピンスキーに置かれていたが、冬営に備えて暖房や通信の設備が整ったニジネ・チルスカヤへの移転準備が進められていた。そうしたおりに、敵の戦車隊がゴルピンスキーにまで迫っているとの情報が入り、この日に急遽ニジネ・チルスカヤまで移動した。しかし、ヒトラーに前線からの後退を逃亡だと責められ、スターリングラード郊外のグムラク飛行場付近へと再移動する。こうした司令部の頻繁な移動と、パウルスの所在がたびたび不明になったことが、第6軍の混乱に拍車をかける。さらに悪いことに、11月段階の第6軍は深刻な燃料不足に陥っており、後方に機動力のある予備部隊をほとんど配置していなかった。また、馬匹の多くも糧秣の関係で戦線から遠い後方地区に送られていた。このため、突破された作戦域でソ連の戦車隊や騎兵隊の快進撃を阻める部隊はなく、移動手段を失っていた多くの車両や重火器が有効な反撃に使用されることなく無傷のまま遺棄された。一方、ドイツ側では、第6軍を援護する兵力を確保するために、ヴィテプスクにあったエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥の第11軍司令部を再編してドン軍集団が設置された。マンシュタインは即日、幕僚とともに特別列車で出発した。
- 11月23日 - 午前6時、ロディン少将のソ連第26戦車軍団が要衝であるドン川のカラチ大鉄橋を奇襲して奪回し、両岸で戦車を動かすことが可能となった。さらに夕刻16時にはソヴィエツキーで南西方面軍に属するアンドレイ・クラフチェンコ少将の第4戦車軍団とスターリングラード方面軍に属するワシーリー・ヴォリスキー少将の第4機械化軍団の戦車部隊が合流し、チル川方面との交通を遮断してドイツ第6軍に対する包囲環が完成する。包囲された枢軸軍の将兵は30万4000人にのぼった[9] 。また、ミハイ・ラスカル中将のもとで戦線に踏みとどまったルーマニア第5軍団もついに降伏し、5個師団が壊滅した。ようやく事態の深刻さに気がついた第6軍のパウルス司令官は、燃料が6日分しかないとして、スターリングラードから全軍をニジネ・チルスカヤ方面に撤退させるようヒトラーに許可を求め、徹夜して返電を待った。
- 11月24日 - ドイツ・バイエルン州のベルヒテスガーデンから東プロシアのラステンブルクに専用列車で到着したヒトラーは、自署した命令書でパウルスの撤退要請を即座に却下し、戦線死守を厳命した。「第6軍を空から養う」とするヘルマン・ゲーリング国家元帥や、それに追従する空軍参謀総長ハンス・イェションネク空軍上級大将の大見得もあり、空中補給による戦線の維持は可能と彼は判断していた。さらに、7月26日深夜のハンブルク空襲以来、英米軍によるドイツ本土爆撃は激しさを増す一方、11月4日にロンメル元帥の軍がエルアラメインから撤退を開始し、11月8日には連合国軍がモロッコ、アルジェリアに上陸した結果(トーチ作戦)、アフリカの戦線は崩壊しつつあった。こうした折、スターリングラードから撤退することはヒトラーにとって政治的にも重大な損失と思われた。この日、ちょうど55歳の誕生日を迎えたマンシュタインは、ようやくB軍集団司令部のあるハリコフ東方のスタロビリエスクに到着した。出迎えたヴァイクス司令官のもたらした第6軍の状況は破滅的だった。ただし、マンシュタインも参謀のテオドーア・ブッセ大佐も、ソ連軍の消耗に期待し、まだなんとかなるだろうと楽観的に考えていた。
- 11月26日 - マンシュタインとドン軍集団の幕僚は、帝制ロシア時代にドン・コサックの拠点がおかれたノヴォチェルカッスクの旧離宮にある第4装甲軍司令部に到着した。空路は悪天候で使えず、道路はきわめて貧弱で、鉄道はパルチザンの破壊工作による脅威に直面しており、5日がかりの鉄道移動となった。しかし、その間に包囲環はますます強化された。一方、マンシュタインの手元には、クレツカヤ地区での包囲を免れたルーマニア兵などわずかな戦力しかなく、ルーマニア第3軍の参謀長ヴァルター・ヴェンク大佐が後方要員や軍属までかき集めてチル川をようやく維持し、主力となる第6装甲師団はフランスからの到着を待たなければならないという惨憺たる有様だった。それでも第6軍の将兵は、「守り通せ!総統が我々を救出する!」というスローガンを信じ、クリスマスまでには救出されるだろうと思っていた。ヒトラーはパウルスの忠誠心を確保するため、彼を上級大将に昇格させた。
冬の嵐作戦[編集]
- 12月12日 - 予定より1週間ほど遅れてドン軍集団による包囲解除攻撃「冬の嵐作戦」がコテルニコスキーを起点に開始され、戦車233両を集めたフリードリッヒ・キルヒナー大将の第57装甲軍団を主力にアクサイ川を突破した。作戦二日目から、この時期に限って豪雨となり、硬い雪原は一転して泥濘と化した。泥濘の進軍はソ連赤軍の「お家芸」である。
- 12月16日 - ヴァトゥーチン大将の南西方面軍およびゴリコフ中将のヴォロネジ方面軍が、チル川方面でマールイ・サトゥルン(小土星)作戦を開始。再び吹雪となった平原を進撃したソ連赤軍第6軍と第1親衛軍はイタリア第8軍を撃破し、ドイツ軍の後方支援部隊や兵站基地を襲撃しながらドネツ川に向かって南下し、ドン軍集団の側面を牽制した。この結果、マンシュタインは、第6軍救出を図りつつロストフ・ナ・ドヌを維持するため兵力を割るという難しい局面に立たされる。この日、急激な気温の低下でヴォルガ川が完全に凍結し、第62軍への補給が容易になり、補充兵や重火器が送られたが、冬季用の衣類や機材が欠乏したドイツ軍将兵からは凍傷患者が続出するようになった。
- 12月19日 - チル川からの側面の圧迫が増しつつも、ドン軍集団は夜間には互いの照明弾が視認できる距離まで第6軍に近づいた。しかし、第6軍は一向に動こうとしなかった。しびれを切らしたマンシュタイン元帥は情報参謀アイスマン少佐を空路第6軍司令部に派遣し、救援に向かう「冬の嵐」(ヴィンター・ゲヴィッター)に呼応して包囲環の突破を図る「雷鳴」(ドンナーシュラーク)作戦の実施を強く求めたが、ヒトラーの死守命令に忠実なパウルス司令官と、十分な補給があれば復活祭まで戦い続けられるとし、燃料の不足を言い立てて撤退に消極的な参謀長アルトゥール・シュミット少将に拒否される[10] 。パウルスは心労から体調を崩し、第6軍の作戦指揮は実際にはシュミット参謀長が握っていた。第6軍が動かせる戦車は、わずか70両だった。
- 12月20日 - マンシュタインはパウルスに「雷鳴」実行を厳命したが、燃料不足で動けないと回答された。マンシュタインはさらにヒトラーに死守命令の変更を要請したが、パウルスの主張をヒトラーは追認し、変更を認めなかった。
- 12月23日 - ソ連赤軍第6軍に属するバダーノフ少将の第24戦車軍団がタツィンスカヤのドイツ空軍基地を襲撃した。ドイツ空軍輸送機の1割にあたる72機を戦車で破壊して飛行場を占領し、ただでさえ困難だったスターリングラードへの空中補給に大打撃を与えた。一方、ドン軍集団は、一足先に拠点を確保したロディオン・マリノフスキー中将の指揮する総予備のソ連第2親衛軍に、第6軍の陣地まで48キロのムイシコワ川で進撃を完全に阻まれた。さらに第6軍が「雷鳴」を実行しないため、マンシュタイン元帥は作戦をやむなく中止し、以後はカフカースのA軍集団の退路をロストフ・ナ・ドヌで封鎖して南方軍集団全体を殲滅に追い込もうとするソ連軍のサトゥルン(土星)作戦の阻止に努める。A軍集団の撤退は12月27日にヒトラーがようやく許可し、最終的には危ういところで成功するが、もはや第6軍の救援は絶望的となった。
- 12月24日 - ドン軍集団の砲声や照明弾はしだいに遠ざかり、絶望的状況のなかで第6軍の将兵はささやかな補給品でクリスマス・イブを迎える。第16装甲師団の軍医中尉兼牧師でアルベルト・シュバイツァー博士の友人でもあったクルト・ロイバーは、ソ連軍から奪った地図の裏に木炭で聖母像を描き、『ヨハネの福音書』にある「光・命・愛」という言葉を書き添えた。疲れ果てて塹壕に戻った将兵たちは、妻子をしのび敬虔な祈りを捧げた。ロイバーは捕虜となった後、1944年1月にエラブガの収容所で病死し、多くの手紙を送った妻子の待つ自宅に帰ることはなかったが、彼の描いた聖母像は最後の手紙とともに息子に届き、戦後になって「塹壕の聖母」(スターリングラードの聖母 Stalingrad Madonnaとも呼ばれる)として、ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム教会に飾られている。なお、ドイツではスターリングラードから意気軒昂にメッセージを伝える将兵の声がラジオで放送されたが、実はベルリンのスタジオで録音されたものだった。一方、ソ連側はドイツ軍にむけて、「スターリングラードでは7秒に一人ドイツ兵が死んでいる」と、一日中ラジオで宣伝した。
第6軍の降伏[編集]
- 1943年1月8日 - スターリングラードの戦いを決着させ、すみやかにサトゥルン作戦に移行すべく、ソ連赤軍大本営代表のヴォロノフ砲兵大将とドン方面軍のロコソフスキー司令官が、南北戦争のユリシーズ・グラント将軍さながらに、ドイツ第6軍に幹部の帯剣を認めた「名誉ある降伏」を勧告。パウルス司令官は軍使との接触すら拒否する。
- 1月10日 - ソ連赤軍、第6軍をスターリングラード市内に圧縮するコリツォー(「鉄環」)作戦開始。7個軍で西方より包囲環の縮小を図る。作戦の主導権は、攻防戦開始以来の方面軍司令官だったエレメンコではなく、ジューコフに抜擢されたロコソフスキーが握った。彼は赤軍大粛清の際にNKVDに逮捕された経験を持つが、新しい世代の有用性をスターリンもようやく認めるようになった。
- 1月16日 - マリノフカの突出部に攻め込んだソ連赤軍、ピトムニク飛行場を占領。ドイツ軍の保持している地域は1400平方キロから650平方キロに縮小した。ただし、ソ連赤軍の損失も甚大で、数日間進撃が停止される。この日、ドイツ政府は第6軍が包囲されていることを国民に初めて公表した。
- 1月20日 - ヒトラーが必要な人材と認めた第14装甲軍団司令官フーベ中将など装甲軍の幹部や、重傷を負った第4歩兵軍団長エルヴィン・イェーネッケ工兵大将、一部の技術者や職人からなる有技兵が、最後の救出機でグムラクから脱出した。一方、軍医は全員残され、2万人の傷病兵が積み残された。彼らはスターリングラード市街に徒歩で戻ったが、動けない者は病院ごとソ連兵に焼き払われるか、極寒の雪原に放置された。
- 1月21日 - ソ連赤軍、グムラク飛行場を占領。第6軍への補給はもちろん、民間人や傷病者の脱出も全く不可能となる。
- 1月22日 - ソ連赤軍、最終攻勢を開始。第6軍は市内の防衛線に追い込まれる。零下35度という厳寒の廃墟や雪原で、ドイツ軍将兵は戦死、さもなければ凍死か餓死、あるいは自決に迫られた。ヒトラーはパウルス以下が「英雄叙事詩」のごとく全員戦死することを切望し、正規軍としての降伏を許さなかった。
- 1月26日 - ロジムツェフ少将の第13親衛狙撃師団が、ドン方面軍に属するチスチャーコフ中将の第21軍とママエフ・クルガンで合流し、第62軍は5ヵ月ぶりにドイツ軍の包囲から解放される。自らチーズとなり、ドイツ軍を篭に引き込むというチュイコフ中将の作戦は成功した。一方、ドイツ第6軍は南北に分断される。この頃から、第6軍の幹部たちの間にも絶望的雰囲気が漂いだした[11] 。
- 1月30日 - ナチス政権発足10周年の記念日に、ヒトラーはパウルスを元帥に昇格させる。ドイツ陸軍史上、降伏した元帥はいないという史実でパウルスにプレッシャーをかけた。また、ゲーリング国家元帥は、第6軍をペルシア戦争の際にテルモピュライの戦いで全滅したレオニダス1世のスパルタ軍になぞらえた演説をラジオで流したが、伝説的な玉砕を要望された第6軍の将兵は冷たく受け止めた。
- 1月31日 - パウルス司令官とシュミット参謀長以下の幕僚がウニヴェルマーク・デパートの地下室に置かれた司令部を出て、ソ連第64軍司令官シュミロフ中将に降伏する。第6軍全体の降伏ではなく、司令部のみの投降という手段でヒトラーの厳命に応じた。このため、第6軍の各部隊は師団単位で個別に降伏する。シュミロフ中将は、バルバロッサ作戦の立案に参画したパウルス元帥ほどの大物が投降するとは思っておらず、司令部に案内されてきたパウルスに身分証明書の提示を求めたほどだった。パウルスは長期間のストレスのため悄然としていたが、ソ連赤軍が軍人に対する礼儀と名誉を尊重する姿勢を示すとしだいに上機嫌になり、グラスにウオッカが注がれると「我々を打ち負かしたソ連赤軍および諸君に」と乾杯の音頭を取ったという。
- 2月2日 - トラクター工場を中心に抵抗を続けていたカール・シュトレッカー将軍の第11軍団が投降し、ドイツ第6軍の抗戦は終わった。ソ連赤軍は勝利宣言を行い、ここにスターリングラード攻防戦は終結する。モスクワではクレムリンから祝砲が轟いたが、ドイツではラジオが「彼らは死んだ。ドイツが生きていくために」と第6軍の将兵が全員戦死したと報じ、ベートーヴェン交響曲第5番『運命』を放送した。ゲッベルスは3日間の服喪を発表する[12] 。
捕虜[編集]
包囲されたドイツ第6軍と枢軸国軍の将兵30万あまりのうち、2万5,000人の傷病兵などが空軍によって救出されたが、パウルス元帥と24人の将軍を含む、生き残りの9万6000人が降伏した。捕虜の運命は過酷で、ベケトフカの仮収容所まで雪道を徒歩で移動する際に落伍した将兵は、凍死するかソ連兵に殺害された。さらに、仮収容所で発疹チフスが大流行し、数週間のうちに約5万人が死亡した。生存者はその後、中央アジアやシベリアの収容所に送られ、戦後に生きて祖国へ帰国できたのは僅か6,000人であった。ヒトラーの甥(姉の子)であるレオ・ルドルフ・ラウバル(ヒトラーの愛人と噂されたゲリ・ラウバルの弟)は負傷していたもののヒトラーに仲間と戦うよう命じられ、捕虜となったが戦後に解放されて帰国した。他にもう一人の甥(異母兄の子)ハインツ・ヒトラーも捕虜となるが捕虜収容所で死亡した。従兄弟の子ハンス・ヒトラーも従軍していたが、からくも包囲網を逃れる事ができた。また、アルベルト・シュペーア軍需相の弟エルンスト一等兵もこの戦いで行方不明となっている。
しかし、パウルス元帥や将軍たちは優遇された。中にはザイトリッツのように、「ドイツ将校同盟 (Bund deutscher Offiziere)」 の議長として反ヒトラー宣伝に積極的に協力する人物もいた。とはいえ、戦後の冷戦激化とスターリンの猜疑心悪化により、彼らの多くは戦犯として裁判にかけられ幽閉された。パウルスは1953年にドイツに戻ったが、ザイトリッツは1955年になって訪ソしたコンラート・アデナウアー首相の奔走によって特別機で帰国できた。ちなみに、パウルスは東ドイツ政府より豪邸を与えられたが、西側にいる家族と遮断されて秘密警察シュタージの監視下に置かれた。また、西ドイツに戻ったザイトリッツは裏切り者として先祖伝来の財産と名誉を奪われ、苦しい老後を過ごしている。
ドイツ軍および枢軸軍の戦死者は約30万人、ソ連赤軍は約50万人とされる。また、一方、全体で7万近くのソ連軍捕虜が対独協力者(ヒヴィ )として第6軍に動員されたが、生存者はほとんどいなかったとされる。なお、攻防戦が終結した時点で戦前は60万を数えたスターリングラードの住民はわずか9796名に激減していた。ヴォルガ対岸に疎開したり、ドイツ軍によって後方に運ばれた人々も少なくなかったが、少なくとも20万人程度の民間人が死亡したと思われる。
スターリングラード攻防戦の影響[編集]
救出の望みが完全に絶たれたドイツ第6軍の兵士達は、零下30度の中、飢えと寒さで反撃どころではなく、降伏も投降も許されず、次々と倒れていった。カフカース地方の制圧を目指したA軍集団はソ連軍の抵抗と補給難からテレク河で前進が止まっていたが、ソ連軍のドン川西岸進出により、退路を断たれて壊滅する危険が生じた。しかし、マンシュタイン元帥の適切な指揮にくわえ、スターリングラード包囲網にソ連赤軍が釘付けとなったため、ソ連赤軍のサトゥルン作戦開始は遅れた。ロストフをソ連軍が奪回したのは、第6軍降伏からわずか12日後の2月14日だった。 この間に、クライスト上級大将のA軍集団は、いわば第6軍を生け贄としてハリコフ方面に撤退することができ、南方軍集団壊滅という最悪の事態をなんとか逃れることができた。
以上のように、ドイツ軍による1942年の夏季攻勢ブラウ作戦は、第6軍のすべてと第4装甲軍の主力が包囲殲滅されるという惨憺たる敗北に終わった。戦傷を含めるとスターリングラード攻防戦を通じての人的損害は、ドイツ陸軍総兵力の4分の1にあたる150万人におよび、3500両の戦車・突撃砲、3000機の航空機が失われた。カフカースからの撤収に成功したクライスト上級大将のA軍集団も、膨大な重火器と車両を遺棄しており、数ヶ月分の生産量に相当する大損失となった。
これ以降、ドイツ軍は東部戦線において広い正面で攻勢をかけられる兵力を持つことができず、決定的勝利を得る機会は二度と来なかった。スターリングラードの敗北は、ドイツ軍がかつて受けたことのない大敗北だった。ポーランド攻略以来の歴戦の精鋭部隊が無残に壊滅したうえ、多くの捕虜を出したこともあってドイツ国民に与えた心理的影響は大きかった。前年の戦いは勝利の終わりであったが、この戦いは敗北の始まりであった。エル・アラメインの戦いやミッドウェー海戦と共に、第二次世界大戦の大きな転換点となる戦いだった。
枢軸同盟国も、ルーマニア第4軍とイタリア第8軍が全滅、ルーマニア第3軍とハンガリー第2軍が部隊の大半を失うなど甚大な損失を出している。とくにイタリアは、エル・アラメインからの撤退後にトリポリを失うなど北アフリカ戦線で敗走を重ねており、ドイツからの離反を図ったガレアッツォ・チャーノ外相が更迭されるなどムッソリーニ政権に大きな動揺がみられた。くわえてトルコとスペインがドイツ側に立って参戦する可能性は完全に失われたため、軍事的のみならず政治的、外交的にもドイツの受けた打撃は甚大だった。
2月15日にはヨーゼフ・ゲッベルスが総力戦演説を行い、さらに高級レストランやナイトクラブ、宝石店の閉鎖、プロスポーツの中止、ファッション雑誌の廃刊が命じられるなど、風紀の引き締めが図られた。また、東プロシアで編成されたエリート部隊を基幹とする第6軍の将校には、プロイセンの名門に属する人物が多かった。たとえばヴァルター・フォン・ザイトリッツ=クルツバッハ大将は、フリードリヒ2世のもとで竜騎兵隊司令官を務めロスバッハの戦いで活躍した名将フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ザイトリッツ将軍を先祖としていた。また、大宰相オットー・フォン・ビスマルクの末裔ゴットフリート・フォン・ビスマルク中尉も捕虜となっていた。このため、ナチスに冷ややかだった貴族出身の将軍たちの「堕落」が意図的に強調され、敗北と結び付けられる。
こうした中で、やはり貴族である中央軍集団参謀ヘニング・フォン・トレスコウ大佐や情報参謀ルドルフ=クリストフ・フォン・ゲルスドルフ大佐により、ヒトラー暗殺計画が3月に相次いで立てられるが、いずれも未遂に終わった。また、決定的な敗戦を察知した知識人の一部はナチス政権への不満を強め、2月18日にはミュンヘン大学で反戦ビラを配布したショル兄妹が逮捕される「白バラ」事件が起きた。
俗に「ヒトラーは宿敵であるスターリンの名を冠したこの都市に運命的な物を感じて決戦の地と考え、何としてでも制圧することに固執するあまり大局を見失った」といわれるが、そのように見ることも出来る戦いであった。ヒトラー自身も、2月6日に敗北の責任は自分にあるとマンシュタイン元帥に率直に語ったと言う。ただし、それはパウルスやゲーリングに重大な任務を与えた責任を引き受けざるを得ないという意味だった。
一方、ミハイル・トゥハチェフスキーなど有能な将軍たちを大粛清で抹殺したうえ、独ソ開戦後もヒトラーに負けず劣らず戦争指導上の誤りを犯したスターリンだったが、スターリングラード攻防戦で歴史的勝利をもたらしたゲオルギー・ジューコフとアレクサンドル・ヴァシレフスキーを元帥に昇格させて強い信頼を示し、以後の戦略的判断は彼らの意見に従うようになる。ソ連赤軍将兵の士気も回復し、ジューコフたちの合理的指揮のもとで戦線を徐々に挽回していく。スターリングラードを守り抜いた第62軍は第8親衛軍の称号を与えられ、チュイコフ大将とともにベルリンに至る道を歩んでいく[13] 。
なお、ドイツ軍の占領地帯周辺に居住していたカルムイク人、イングーシ人、チェチェン人など非ロシア系少数民族は、帝政ロシア時代から民族運動を行っていたため、スターリンにドイツとの内通を猜疑されて中央アジアなどに強制移住させられた。スターリン政権崩壊後に生き延びた人々は故郷に戻ったが、その間に転入してきたロシア人との軋轢や独立運動など、副次的な余波は今日におよんでいる。また、長年弾圧され続けたコサックも、多くの対独協力者を出したことから過酷な措置を受けることとなる。
今大戦における数少ない消耗戦[編集]
戦いの途中から、両軍はスターリングラード市街に戦力を集中した。この結果、第二次世界大戦の緒戦においてドイツ軍が獲得した野戦での機動力はまったく活かされなくなる。
1941年の独ソ戦開始以降、赤軍の重要拠点維持の戦いにおける頑強さはつとに知られていたが、この戦いでも十二分に発揮され、全滅に等しい戦いをした部隊は数知れない。とはいえ、背後に兵站拠点を持つ赤軍は、苦戦ながらも戦線を維持することが可能であった。航空攻撃を受けつつヴォルガ河を渡って送り込まれた増援兵は十分な訓練を受けておらず、大部分がその日のうちに戦死した。しかし、生き延びて経験を重ねた赤軍将兵は、自動小銃や拳銃、ナイフ、刃を入れたスコップなどを携えてドイツ兵に忍び寄り、執拗にチュイコフが敵との「抱擁」と例えた近接戦を展開した。また、敵が潜む可能性のある部屋に手榴弾を投げ入れ、爆発直後に自動小銃を構えて突入し、粉じんの中を手当たり次第に乱射して制圧し、さらに次の部屋の制圧に向かうというチュイコフ中将が立てた戦術は、瓦礫の試打的投擲でも戦場に不慣れなドイツ兵をパニックに陥らせて絶叫させ、狙撃兵に部隊の所在を暴露させてしまうほど、ドイツ軍将兵に心理的ストレスを与えた。こうした戦術は、戦後に多くの国の特殊部隊で採用されたほど制圧効果があった。さらに、逆包囲の局面では赤軍がドイツ軍のお株を奪う機動戦に転じ、包囲殲滅に成功した。これらの経験は以後の攻勢へと蓄積されていく。スターリングラードの瓦礫のなかで生き延びたチュイコフ中将は、2年後にやはり瓦礫と化したベルリンで敵軍の降伏を受け入れることとなる。
一方、ドイツ軍は兵力が分散し伸びきった戦線の果てで、史上稀な苛烈なる市街戦に埋没した。電撃戦で編み出された様々な戦術的発展の恩恵を受けることなく、ひたすら最前線に兵力を逐次投入しては消尽していった。何より空軍による援助を受けられず、ひたすら近接戦闘をしなければならなくなると、第二次世界大戦の緒戦におけるドイツ軍の強さはまったく影をひそめざるを得なくなった。軍事的な優位はなくなり、個人の勇気だけが試されるような市街戦がはてしなく続く中において、ドイツ軍は膨大な損害を生みながらも、ついにこの都市を制圧することが出来なかった。
やがて季節の移り変わりとともに、コートや手袋、帽子など防寒装備の差が両軍の間に現れた。包囲され救出不能という絶望を知ると、勝利しか知らなかったドイツ精鋭部隊の将兵たちは、無慈悲な敵への敗北、さらに冷酷な条件下で捕虜になることの意味をようやく悟る。両軍とも戦闘に補給を傾注させた結果、食糧と飲料水、さらには医療機材は著しく不足した。傷病者は両軍将兵も市民も無残な最期を迎えた。ヒトラーの野望は、莫大な損失のみをもたらした。カフカースもヴォルガも手に入れることができず、すべてが無駄になったのである。
かつて、市街地戦闘による戦車部隊の損害を恐れていたヒトラーは、1939年のポーランド戦、1941年のバルバロッサ作戦においてそれを禁止していた。野戦である対フランス戦においてでも機甲師団の損害を恐れていたのだから。確かにヒトラーの恐れは的中した。だが、そしてそれを止める力を自らの中に無くした段階で、ナチス・ドイツ陸軍は破滅への道を転がりだすのである。
スターリングラードとドイツ空軍[編集]
緒戦の段階では、第4航空艦隊がメッサーシュミットBf109戦闘機によって貧弱なソ連空軍戦闘機を一掃し、スターリングラードの制空権を掌握したうえで、徹底した銃爆撃をソ連軍陣地やヴォルガ川を渡る船舶に加え、多大の打撃を与えていたが、陸軍同様にしだいに消耗していった。
包囲されたドイツ軍の脱出をヒトラーが認めなかった背景の一つには、前述のように空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥が空輸による食料、弾薬、燃料、兵員の補給が十分に可能であると見得を切ったことがあげられる。この年の春に、デミャンスクで包囲された10万のドイツ軍が、輸送機による補給で72日間耐え抜いたすえ脱出に成功したことも、楽観論の根拠となっていた。しかし、戦地の状況はデミャンスクよりはるかに深刻だった。季節も要求される物量も過酷なこの作戦について、ゲーリングが請け負ったことの代償はあまりにも大きかったといえるだろう。包囲されていた部隊の総数も把握できない状況とはいえ、デミャンスクと比較してはるかに多くの部隊がいることは確実な状況において、まず輸送機が不足していたうえに悪天候と厳寒が続き、飛行を妨げていた。さらに、デミャンスクのように強力な予備兵力が後方にないうえ、敵兵力も格段に多かった。また、開戦当初こそ数多くの撃墜数をドイツ空軍に献上したソ連空軍だったが、戦闘機パイロットは次第に空中戦の技量を上げてきており、スターリングラード周辺でも、セルゲイ・ルデンコ空軍大将の第16航空軍による邀撃が激しくなってきた。その中には、ドイツ空軍将兵から「スターリングラードの白い薔薇」と注目されたリディア・リトヴァクのような女性操縦士も含まれていた。ドイツ戦闘機の消耗とともに、鈍足で軽武装のJu 52輸送機は、ソ連戦闘機にとって格好の攻撃対象となっていく。さらに地上では、包囲環外周に1平方キロあたり100門の高射砲という徹底した対空陣地が待ち受け、多くの輸送機が撃墜された。
第6軍は1日700トン、最低でも300トンの補給を求めたが、平均到着量は110トン前後にすぎず、純粋な部隊維持用の補給も一度としてなされることはなかった。これは機械化されていないドイツ軍が多数保持しなければならなかった馬匹を維持出来ないことを意味しており、同時にそれを食料にせざるを得ないということでもあった。このことは、いざとなればすべての重装備を放棄することを意味していた。また、タツィンスカヤ、モロゾフスカヤといった飛行場も次々にソ連軍に占領され、輸送機の飛行距離は増大していった。ピトムニクとグムラクの着陸地が奪われた後は、第6軍の維持はパラシュートによる補給品投下に頼らざるをえなかった。もとより、このような方法によって十分な補給ができるはずもなく、さらに投下された補給品の多くは、衰弱しきったドイツ兵がたどりつく前にソ連兵に回収される有様だった。
無謀な任務を負わされ、現地で空輸作戦を統括したエアハルト・ミルヒ元帥は、ゲーリングの無知と怠慢に憤った。さらに、実現困難な命令に反発した空軍兵によるサボタージュすら発生した。最終的には、この空中補給作戦を遂行するために488機もの輸送機と1000人を越えるパイロットが失われた。特に飛行学校の訓練機と教官を多数失ったことは、ドイツ空軍が弱体化する要因の一つとなった。そして、第6軍を養うという約束を実行できなかったゲーリング元帥の威信も、英米軍によるドイツ本土爆撃の本格化とあいまって大きく損なわれ、ナチス党率いるドイツ政府のNo.2の地位を実質的に失うことになる。
脚注[編集]
- ^ Bergström, Christer, (2007), Stalingrad - The Air Battle: 1942 through January 1943, Chevron Publishing Limited
- ^ Россия и СССР в войнах ХХ века - Потери вооружённых сил, Russia and USSR in wars of the XX century - Losses of armed forces, Moskow, Olma-Press, 2001.
- ^ ヒトラーはゲルマン神話に現れ、ヨーロッパ州最高峰でもあるエルブルス山にこだわったといわれるが、登頂の様子を記録した映画を見て、軍の目的は油田の獲得で山の征服ではないと激怒している。なお、旗はドイツ軍撤退後も山頂に翻っていたが、ソ連の登山隊が冬になって苦難の末に撤去し、同時に冬季初登頂の記録を立てた。
- ^ 朝鮮戦争中に30代で韓国軍の参謀総長を務めた白善燁大将の『若き将軍の朝鮮戦争 ― 白善燁回顧録 』(草思社、2000年)によると、1941年に満州国軍官学校で独ソ戦について講演した関東軍情報参謀の甲谷悦雄中佐は、「間もなくヴォルガ河畔のスターリングラードという街で一大決戦が行われるだろう。そして、この決戦の勝者が世界を制する」と予言した。当時生徒だった白将軍は戦後に甲谷氏と再会する機会もあったが、スターリングラードに関する予言の根拠について、惜しいことに聞く機会を逸したという。
- ^ ザイツェフは映画『スターリングラード』のモデルとなったが、彼の狙撃銃は市内の戦争記念館に保管されている。
- ^ 映像の世紀より
- ^ 現在、ママエフ・クルガンにはソ連の戦勝を記念した、巨大な「母なる祖国の像」が立つ。
- ^ パブロフが立てこもった建物は、「パブロフの家」としてヴォルゴグラード市内に戦争遺跡として保存されている。
- ^ 23万あまりという説もあるが、参謀本部のエーバハルト・フィンク大佐は30万4000人という数値をマンシュタインに示している(アレクサンダー・シュタールベルク『回想の第三帝国』)。
- ^ ヒトラーはこの作戦の成功によってスターリングラードへの回廊を確保して第6軍に補給を送り、ヴォルガへのくさびを維持するつもりだった。一方、第6軍の越冬が不可能であることを十分に知っていたマンシュタインは、せめて動ける将兵だけでも自軍に合流させようとし、ヴォルガの戦線維持はあきらめていた。
- ^ 軍医部長レノルディーのように投降する将軍が現れる一方、第371歩兵師団長シュテンベル中将のように自決する者もあいついだ。フーベの後任となった第14装甲軍団司令官シュレーマー中将や第16装甲師団長アルゲン中将のように戦死する将官も増えた。こうした状況をみた第51軍団のフォン・ザイトリッツ=クルツバッハ大将は、配下の師団長たちに降伏の権限を委ねたため、憤ったパウルスに任務を解かれている。ザイトリッツはソ連赤軍に投降したが、ソ連兵に連行される際に第8軍団のハイッツ中将から降伏する者を撃つよう命令を受けたドイツ兵の機銃掃射を受けて仲間を失った。しかし、ハイッツ中将も秘かに投降用の白旗がわりにテーブルクロスを部下に保管させていたという。
- ^ こうした欺瞞に満ちたプロパガンダをソ連政府は逆用し、膨大な数の捕虜がいることを海外放送で発信し、モスクワ駐在の外国人記者の前にパウルスと将軍たちを引き出して撮影させ、さらには捕虜に家族宛ての書簡を書かせたうえでドイツ軍陣地に散布した。当然、司令部はそれらの回収と焼却に奔走したが、ドイツで帰りを待っている家族に夫や父親、息子が現時点では生存していることを知らせようと配慮して投函した将兵も少なくはなかった。
- ^ グロースマンの記述によると、スターリングラード戦線で徴発され、激戦を生き延びた一頭のラクダは第62軍改め第8親衛軍の軍旗とならぶ象徴となり、兵卒より遥かに大事な扱いを受けつつ多くの戦線をくぐり、チュイコフによってベルリンまで連れていかれたという。
スターリングラード攻防戦を題材にした作品[編集]
- ソ連側:
- Plievier, Theodor (記録小説):『死のスターリングラード』、角川書店、1952年
- ニキータ・クリーヒン+レオニード・メナケル監督(ロシア映画):『鬼戦車 T34』、1964年
- ガブリール・エギアザーロフ監督(ロシア映画):『スターリングラード大攻防戦』、1972年
- Robbins, David L.(スターリングラード 市街戦のソ連軍狙撃兵を題材の小説):『鼠たちの戦争(全2巻)』、新潮社、2001年
- ジャン=ジャック・アノー監督(アメリカ映画、上記Robbins作の小説を原作とする):『スターリングラード』、2001年
- コロミーエツ,マキシム(研究書):『ドン河の戦い:スターリングラードへの血路はいかにして開かれたか』、大日本絵画、2004年
- アントニー・ビーヴァー:『スターリングラード 運命の攻囲戦 1942-45』、堀たほ子訳、朝日文庫、2005年 ISBN 4-02-261477-3
- アントニー・ビーヴァー:『赤軍記者グロースマン 独ソ戦取材ノート1941-45』、川上洸訳、白水社、2007年
- 枢軸国側:
- コンサリク、ハインツ・G (ドイツ映画):『スターリングラードからの医者』、1958年
- フランク・ヴィスパー監督(ドイツ映画):『最後の戦線・壮烈第六軍』、1959年、ドイツ映画
- バム、ペーター:『目に見えぬ旗:ある従軍外科医の記録』、桜井 正寅訳、南江堂、1961年
- アダム、ヴィルヘルム(第6軍副官の回顧録):Der schwere Entschluß, Verlag der Nation, Berlin, 1965
- ヴィットリオ・デ・シーカ監督(イタリア映画):『ひまわり』、1970年
- ジュークス、ジェフリー (Pictorials) :『スタリングラード:ヒトラー 野望に崩る』、サンケイ新聞出版局、1971年
- コンサリク、ハインツ・G(小説):『第6軍の心臓:1942-1943年スターリングラード地下野戦病院』、フジ出版社、1984年
- ヨゼフ・フィルステンマイヤー監督(独米合作映画):『スターリングラード』、1993年
- Beevor, Antony (Non-fictions) :『スターリングラード:運命の攻囲戦 1942-1943』、2002年
- 押井守(ラジオドラマ):『押井守シアター ケルベロス鋼鉄の猟犬』
- 高橋慶史:『ラスト・オブ・カンプフグルッペ』、2001年第I部第5章、第II部第1章
- ゲーム:
- 『Call of Duty』(ゲーム)
- 『メダル・オブ・オナー ヨーロッパ強襲』(ゲーム)
- 『スターリングラード・ポケット』(ゲーム)
- 『Red Orchestra: Ostfront 41-45』(ゲーム)
関連[編集]
