毛沢東思想

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毛沢東思想(もうたくとうしそう、中国語: 毛泽东思想ピンイン: Máo Zédōng Sīxiǎng)または毛沢東主義(もうたくとうしゅぎ、英語: Maoismマオイズム)は、毛沢東を中心とする中国共産主義者が創立した政治思想[1]。その信奉者は毛沢東主義者マオイストとも呼ばれる。

毛沢東思想の主要概念には、人民戦争理論新民主主義論3つの世界論などがある。1947年以降の中国共産党規約では「マルクス・レーニン主義中国における運用と発展」とされ、「マルクス・レーニン主義」などと並ぶ「行動指針」と位置づけられた[1][2]。特に1950年代から1960年代の中ソ対立文化大革命の時期に強調された。

概要[編集]

中国共産党は1945年4月23日から6月11日にかけて開催された第7回党大会において、党規約に「中国共産党はマルクス・レーニン主義の理念と中国革命の実践を統一した思想、毛沢東思想を自らの全ての指針とする」との記述を加えた。ここでいう毛沢東思想とは、理念としてはカール・マルクスウラジーミル・レーニンが確立した共産主義を指針としながら、それを中国の実情に適応させた、農民中心の革命方式を指しているとされている。

毛沢東の思想は、毛沢東が若い頃から親しんだ農村社会の観察や経験から導き出された中国発展のためのアイディアを含んでおり、その大綱として大公無私(個人の利益より公共の福祉を優先する)、大衆路線(農村大衆の意見に政治的指針を求めそれを理解させて共に行動する)、実事求是(現実から学んで理論を立てる)などがある。この他、社会と協調できる個人主義、大人数の協力、農村から蜂起して都市を囲いこんでいくゲリラ戦術理論(人民戦争理論)、世界各国が各自の特性に応じた革命を行うことによって第三次世界大戦を防ぐことができるとする「中間地帯論」なども毛沢東思想に含められる場合がある。

毛沢東の農村重視の姿勢には、本来のマルクス主義唯物史観による「社会主義革命は発達した資本主義社会で発生する」との理論に対して、ロシア革命時のロシア以上に資本主義が未発達で農業中心社会であった中国の実情に対して、マルクス・レーニン主義を適用する必要性があった。また農村社会にも特有の平等主義や、暴力の肯定、知識階級に対する反エリート主義反知性主義)などが挙げられる。またソビエト連邦型との相違には、新民主主義論による人民民主主義や、3つの世界論による世界認識と外交政策などがある。

毛沢東思想は毛沢東の著作、発言、実践などの総称であり、必ずしも体系的に理論化され矛盾なく整理されたものではない。簡易な参照には毛主席語録も使用された。

毛沢東思想は、1950年代以降の社会主義政策推進、1957年からの反右派闘争1960年代以降に激化した中ソ対立、更に1966年に発動された文化大革命などで特に強調され、毛沢東の個人崇拝や、政敵の打倒、国外の各国共産主義勢力への干渉にも広く使用された。

毛沢東死後の中国での評価[編集]

毛沢東の死後、その思想をめぐる評価は微妙に揺れ動いた。

毛沢東の死後、その後継者を自称した華国鋒の唱えた「二つのすべて(两个凡是)」は、毛沢東自身が唱えた「実事求是」を持ち出して対抗した鄧小平により批判され、華国鋒が失権すると、鄧小平は彼自身の解釈に基づく「実事求是」を中国共産党の指導方針として実権を掌握した。

1981年6月の第11期6中全会で採択された『建国以来の党の若干の歴史問題についての決議』では、毛沢東思想を「毛沢東同志を主要な代表とする中国の共産主義者が、マルクス・レーニン主義の基本的原理に基づき、中国革命の実践経験を理論的に総括してつくりあげた、中国の実情に適した科学的な指導思想」と定義している。その一方で、この決議は、毛沢東が文化大革命で提起した論点は「毛沢東思想の軌道から明らかに逸脱したもので、毛沢東思想と完全に区別しなければならない」とし、毛沢東思想を毛沢東個人の思想とは区別している。この決議では、「実事求是」「大衆路線」「独立自主」が毛沢東思想の真髄とされている。また、この決議と前後して、周恩来、劉少奇、朱徳ら、毛沢東と同時期の他の指導者たちの思想も、毛沢東思想の一部と解釈されるようになってきている。鄧小平は「マルクス・レーニン主義、毛沢東思想の堅持」を含む「四つの基本原則」を繰り返し強調した。彼が堅持されるべきと考えた毛沢東思想は、こうした新たな解釈に基づくものである。

なお、毛沢東以降の指導者たちの考えは、「鄧小平理論」、江沢民の「3つの代表」論、胡錦涛の「科学発展観」と、世代ごとに別のものとしてまとめられている。

影響[編集]

毛主席語録(ドイツ語版)

欧米[編集]

1960年代の世界的な学生運動では、しばしば原理主義的な共産主義信奉が毛沢東思想に移行する例がみられた。影響を受けたのは大学生を中心とする都市部の中産階級の若者であり、彼らが構成したヒッピーが始めたコミューン運動などで、人民公社型の集団生活の実践や、下放のスタイルが模倣された。1967年のジャン=リュック・ゴダールの映画『中国女』では毛沢東思想を研究するために共同生活を始めるフランスの若者たちを描いている。

フランス[編集]

フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルは、ソ連による1956年ハンガリー侵攻(ハンガリー動乱)、1968年チェコスロヴァキア侵攻(プラハの春)以降、反スターリン主義に共感するようになり。当時ソ連と対立していた中国(中ソ対立)の毛沢東主義者主導の学生運動を支持しはじめ、晩年にいたるまでフランスの毛沢東主義者と交遊していた。

1968年の5月革命にもマオイストの影響があるとされ、クリストフ・ブルセリエは、フランスのマオイスムの流行について、スターリン批判とそれによるソ連型共産主義の失墜、およびそれに代わるユートピアを求める運動の中で中国モデルが誇大視されたとしている[3]。マオイスト運動はフランス共産党のソ連擁護に対する反動として起こり、反西欧主義、東洋趣味が混在していた。また、エコール・ノルマル・シュペリウールロベール・リナールらエリート学生、中国専門家のシャルル・ベトレームルイ・アルチュセールが中心にいたといわれる[4]。1963年にジャック・ヴェルジエが創刊した雑誌『革命』が中国ブームに火をつけた。1964年フランス共産党から除名追放されたフランソワ・マルティが同年7月に東京で中国人運動家と知り合い、毛沢東の招待を受ける。マルティらは『新しい人間主義』という雑誌を出している。

五月革命以後、当時の内務大臣マルスランによってマオイストの組織は解体命令を受けるが、ベニ・レヴィによってGP(fr:Gauche Proletaire プロレタリア左派)が結成され、アンドレ・グリュックスマンベルナール・アンリ・レヴィらが参加する。GPによる移民労働者の支援活動は、サルトルやゴダール、ミシェル・フーコーらによって支持された。同団体は、マドレーヌ広場の高級店フォーションから「フォーションが貧民窟に食糧支援をする」「盗人から盗んでも罪にはならない」「わが労働の果実をパトロンから奪おう」として商品を奪うフォーション事件を起こしている[5]。代表のベニ・レヴィはのちにサルトルの助手となり、ユダヤ思想に没入し、イスラエルに渡った。

またフランスの作家のフィリップ・ソレルスや哲学者のアラン・バディウらが毛沢東思想に魅了された[6]的場昭弘によれば、エコール・ノルマルはマオイスムの母体となっていたと指摘している[7]

他の欧州各国[編集]

ベルント・アロイス・ツィンマーマンは1969年に創作の集大成となった「若い詩人のためのレクイエム」において、毛沢東語録からの抜粋を淡々と読み上げるなど毛沢東語録を音楽創作に用い、なおかつ傑作に仕上げた。ほか作曲家のコーネリアス・カーデューはマオイストであり、晩年は政治活動に専念している。最後のピアノ作品「我々は未来のために歌う」では毛沢東思想への忠誠が、スコア序文に掲げられている。

アメリカ合衆国[編集]

ブラック・パンサー党の指導者ヒューイ・P・ニュートンマルコムXをはじめ、マルクスレーニンチェ・ゲバラフランツ・ファノンらの思想に共鳴していたが、とりわけ毛沢東から大きな影響を受け、のちにヒューイら指導者は中国を訪問している。若いころニュートンはロバート・ウィリアムズの公民権運動団体「革命的行動運動 (Revolutionary Action Movement,RAM)」に加入していたが、ウィリアムズは中華人民共和国から「クルセイダー」という機関紙を出していた。またブラック・パンサー党はアメリカ合衆国における黒人社会を第三世界植民地と見做し、合衆国と敵対関係にあったベトナム朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、キューバといった国々に対して連帯の意思を表明していた。

70年代は、ボクサーのマイクタイソンが毛の入れ墨を彫っているようにファッション的に毛沢東を肯定する人が、ヒッピーやアウトローに多かった。アンディ・ウォーホルは1972年にニクソン大統領の中国訪問にあわせて「マオ」という作品を発表している。

コミューン運動も人民公社の英訳がピープルズコミューンであるようにインスピレーションを与え、ヒッピーの人民パーク人民コンピュータ会社人民科学など人民とコミューンはヒッピーや新左翼のタームとなった。各種のグルイズム的なカルト宗教と結合してその信者コントロールの手段としてより広範囲に利用された。またニューエイジや精神世界ですらそれを模範する文化が広がった。人民寺院事件では、毛沢東主義との関係がアメリカの新聞等で指摘されている。人民寺院教祖のジム・ジョーンズは、中国の洗脳を研究していた[8]

日本[編集]

毛沢東思想自体は、文化大革命の実態が伝えられていなかった時期の日本では、現代社会における政治体制を考える上で多くの示唆を与えてくれる思想として喧伝されたため、これを信奉する若者(主に全共闘世代団塊の世代近辺以上)が続出した。

日本においては、共産同ML派日本共産党(左派)日本共産党(革命左派)神奈川県委員会日本労働党といった政治団体がかつて毛沢東思想を指導思想として掲げており、全共闘や毛派以外の新左翼も毛沢東主義から一定の影響を受けていた。毛沢東主義は、議会主義と大衆運動を掲げていた日本共産党日本社会党の主流派の方針とは相容れないものであり、毛沢東思想支持者は既成左翼と呼ばれた社会党・共産党の両政党と激しく対立した。

一般社会においても、ダイエー創業者の中内功養老孟司[9]麻原彰晃が毛沢東思想の強い影響を自認しているほか、欧米崇拝の強かった時期に毛沢東思想の変異体であるコミューン運動が無批判に紹介された事や、毛沢東思想の農本主義的側面が、かつての農村共同体への素朴な憧憬を残していた時期の日本社会で肯定的に伝えられた事もあって、各種のカルト集団によるコミューン型共同体が日本各地で形成された。

現在は日共左派が、修正的な毛沢東主義の影響を受けている。日共左派は反米愛国を掲げ、反米右翼と共闘するなど日本の左翼運動の中では異端的である。また、三橋派緑の党も毛沢東主義を独自に解釈した独特のイデオロギーを有している。日本労働党は現在は毛沢東思想を掲げていない。

カンボジア[編集]

毛沢東思想を奉じるグループが、実際に武力闘争によって政権を獲得した例として最も有名なのは、カンボジア内戦後に政権を握ったポル・ポト派である。 ポル・ポト派は、文化大革命期の中国によって支援されていたために、その影響を強く受けており、政権を握ると文化大革命期に中国で行われた政策を極端な形で模倣した。 ただしポル・ポトは後に中共すら批判するようになり、毛思想も修正されてゆく。

ポル・ポト派貨幣経済を否定するために通貨の流通を停止させ、自力更生的に食料生産を担う農村共同体を国民生活の基本単位とするために、生産力を持たない“寄生虫”とみなされた都市とその住民を強制的に農村へ下放した。

大規模な下放の過程で、ポル・ポト派が農村に適応できないと判断した都市住民や、知識人・技術者といった人々は“敵”の烙印を押され、“白い肌”の都市住民に反感を持つ“黒い肌”の農民の手で組織的に殺戮させる事で、共通の敵を作り出し国民の結束を高めようと図った。 [10]

現状[編集]

毛沢東は中国人民の救星(救世主)と書かれたスローガン

現在でも、世界中の様々な反政府組織が毛沢東思想に範をとって活動している。そのため一部の国家では「マオイスト」という言葉はテロリスト・過激主義者という先入観を持たれる可能性がある。また、毛派はしばしば中国共産党の手先とみなされることがあるが、中国に対する一方的な親近感以上の関係は確認されなかったり、逆に現在の中国共産党と敵対している場合もある。

発展途上国の毛派はゲリラ路線に走りやすいが、これら毛沢東思想を継承したグループは、麻薬製造や貴金属・宝石採掘などの独自の資金源を有している場合が多く、中国も含めて諸外国の援助を受けずに独力で大勢力に発展している場合がほとんどである。

ペルーの自称毛派たるセンデロ・ルミノソが中国の支援を受けていた事実は無く、鄧小平時代になって中国が毛沢東思想を放棄してから以降は、在ペルーの中国人や中国政府関係者、さらには北朝鮮関係者までがセンデロ・ルミノソの攻撃対象とされている。コカインの原料となるコカの産地を制圧しているセンデロ・ルミノソの勢力は依然として強力かつ活発である。

近年では2008年ネパール共産党毛沢東主義派が武装闘争の末に合法的に政権参加し、隣国のインドブータンでもネパール毛派と協力関係にあるインド共産党毛沢東主義派ブータン共産党マルクス・レーニン・毛沢東主義派の活動が活発化した。ただしインド毛派は一部地域での影響力に留まる。

ウルグアイの拡大戦線は、トロツキズム社会民主主義、毛沢東主義、古典的なマルクス・レーニン主義など様々な思想者が共生している。

日共左派やロシアの毛派は武装闘争や犯罪は一切行なっていない。先進国では理論による組織拡大に力を入れる傾向にある。

毛沢東主義は、実態としては確固たるイデオロギーは無く、観念的である。時の指導者により修正や改ざんが多く成される。ネパールの毛派とブータンの毛派も思想的な繋がりは薄い。

著名な毛沢東主義者[編集]

以下に転向者を含む、著名な毛沢東主義者、または毛沢東に思想的影響を受けた人物を列挙する。

脚注[編集]

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  1. ^ a b 中国共産党規約 総綱
  2. ^ 毛沢東思想 - 人民中国インタ-ネット版
  3. ^ Christophe Bourseiller,Les Maoistes. La folie hisitoire des gardes rouges francais,Points,2008(1996)サルコジと5月革命(下)―マオイストの変質 的場昭弘
  4. ^ Christophe Bourseiller,Les Maoistes. La folie hisitoire des gardes rouges francais,Points,2008(1996)サルコジと5月革命(下)―マオイストの変質 的場昭弘
  5. ^ Christophe Bourseiller,Les Maoistes. La folie hisitoire des gardes rouges francais,Points,2008(1996)サルコジと5月革命(下)―マオイストの変質 的場昭弘
  6. ^ 的場昭弘「資本主義の危機/新自由主義と国家--民主君主制としてのサルコジ政権」
  7. ^ 的場昭弘「資本主義の危機/新自由主義と国家--民主君主制としてのサルコジ政権」
  8. ^ Reiterman 1982. p. 163-4.
  9. ^ 養老孟司『毛沢東主義者の中国観』
  10. ^ 肌の色の違いは、中国系やベトナム系の多かった都市住民と、クメール人しかいない農村との人種的な構成差の反映でもあった。

参考文献[編集]

  • 「中国革命と毛沢東思想―中国革命史の再検討 (1969年) 」(中西功、青木書店、1969年)
  • 「毛沢東―実践と思想」(近藤邦康、岩波書店、2003年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  • Marx2Mao.org 毛沢東インターネット・ライブラリ(英語)