ニコラエ・チャウシェスク

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ニコラエ・チャウシェスク
Nicolae Ceauşescu
ニコラエ・チャウシェスク
チャウシェスク(1978年

任期: 1967年12月9日1974年

任期: 1974年3月28日1989年12月22日

任期: 1965年3月22日1989年12月22日

出生: 1918年1月26日
ルーマニアの旗ルーマニア王国
オルト県スコルニチェシュティ
死去: 1989年12月25日(満71歳没)
ルーマニア
ドゥンボヴィツァ県トゥルゴヴィシュテ
政党: ルーマニア共産党
配偶: エレナ・ペトレスク

ニコラエ・チャウシェスクルーマニア語: Nicolae Ceauşescu1918年1月26日 - 1989年12月25日)は、ルーマニア政治家大統領国家評議会議長ルーマニア共産党書記長を歴任した。

妻のエレナ・チャウシェスクと共に縁故主義による独裁政権を敷き、「王朝」と呼ばれるほど権勢を欲しいままにした。

目次

[編集] プロフィール

[編集] 共産党員

1939年、当時21歳のニコラエ・チャウシェスク

オルト県スコルニチェシュティ村出身。非合法だったルーマニア共産党に参加し、度々投獄を経験。獄中でエレナ・ペトレスクと出会い、1946年に結婚し終生の伴侶とする。

第二次世界大戦ソビエト連邦の占領の下にルーマニアが社会主義への道を辿ると獄中の同志だったゲオルグ・ゲオルギウ・デジの側近となり、共産主義青年同盟の書記長などを歴任。一時粛清のあおりで失脚するが、その後復活して共産党内での地位を高めていく。

[編集] 元首

1973年、妻と共にアメリカ合衆国を公式訪問したチャウシェスク(一番左)、右の二人はリチャード・ニクソン大統領夫妻
国内に掲出されたプロパガンダポスター

1965年にデジの死去を受けてルーマニア共産党書記長に就任。1967年、国家評議会議長となり元首になる。1974年大統領制が導入されると初代大統領を務めた。政権を獲得してからしばらくの間は東欧の中でもソ連から距離を置く親西欧路線を取り、1968年チェコ事件に際しても自国の軍隊をチェコに派遣せずソ連の行動を批判し、国民並びに西側諸国からの人気を得た。

前回のモスクワオリンピックの西側諸国による大量ボイコットのお返しとして、東側諸国が軒並みボイコットした1984年ロサンゼルスオリンピックにも参加。こうした姿勢は西側諸国からは賞賛されたものの、ソ連や東ドイツなどの東側諸国からは不快感を持たれた。 

当初こそ国民からの高い人気を得たものの、チャウシェスクは家族とともに一般国民とはかけ離れた大宮殿に住む優雅な生活をしており、国内の経済については、側近の者から良い報告しか受けておらず、本当の国内事情を把握していなかったと言われる。街頭へ視察へ出ても視察コースの店には一時的に普段は見かけない食品や製品が豊富に並べられていたとされるが、近年では反説も多い。

実際には対外債務の返済のための強引な輸出政策によって市民の食料や冬の暖房用の燃料にも事欠くようになる等、次第に国民生活は困窮の度を深くしていった。しかし、チャウシェスクはブカレスト市内に「国民の館」と呼ばれる巨大な宮殿を建設し、またチャウシェスクの家族・親族30名以上が党や国家の要職を独占した。こうした一般の人々の生活を省みない政治姿勢に国民は失望し、人気や支持も落ちていった。

後にソ連にゴルバチョフ政権が誕生しペレストロイカを推進すると個人独裁の保持に固執。東西両勢力から欧州統合の障害となった。1989年ポーランドに民主的な政権が誕生すると、ルーマニアにもこの様な動きが波及するのを恐れ、チェコ事件時とは正反対にワルシャワ条約機構軍による軍事介入を一方的に主張した。その後の同年12月に起きたルーマニア革命失脚し、革命軍にエレナ夫人とともに銃殺刑によって公開処刑された。

[編集] 革命の経緯

なお1989年当時、莫大な対外債務を返済するために食料や灯油といった生活必需品までもを輸出する飢餓輸出政策のため、一般国民の生活水準が低下していた。また秘密警察セクリタテア)などの監視による言論の統制などで不満分子を抑圧していたが、西側の情報が徐々に入るにつれ、ついに民衆の不満が爆発したと伝えられている。また、国内のハンガリー系少数民族と西側諸国の協力、自由ヨーロッパ放送のプロパガンダ、ハンガリーとCIA、フランス情報機関の連携も革命の原動力となった。しかし革命の1年前までは国外の反チャウシェスク機運は高まっていたが、国内では、革命の機運はまだなかった。しかし国民の生活は、政府が米国からの借款を断っていたために窮乏を強いられていた。

[編集] 逃亡

1989年12月、ハンガリー系国民、特にカルヴァン派キリスト教徒による反政府集会を武力で鎮圧。同12月21日、首都ブカレストの党広場で開かれた官製集会が一転、このことを糾弾する集会になると、国民の自由獲得への反政府デモや暴動が全国各地で起こった。チャウシェスクは国防大臣のワシーリ・ミリャに暴動の武力鎮圧を命じたが、ミリャはこれを拒否した。これに激怒したチャウシェスクはミリャ国防大臣を処刑した。このことが軍部に知れ渡ると軍の首脳はチャウシェスクに反旗を翻すことを決め、ルーマニア軍は革命を支援する側に立った。しかし、なおチェウシェスクに忠誠を誓う秘密警察セクリタテアは市民や国軍に対する激しい反撃を繰り返し、ルーマニア国内は混乱する。これに乗じ、チャウシェスクは逃走した。これらの様子はルーマニア国営テレビを通じ全国に放送された。翌12月22日、全土に戒厳令を敷き、チャウシェスクは妻エレナとともにヘリで飛行場へ逃走した後に、リビア亡命することを計画した。22日13時、イオン・イリエスク率いる救国戦線は国営テレビ、ラジオ局を掌握。同17時、救国戦線が政権を掌握した。

[編集] 処刑

12月23日にチャウシェスク夫妻は、トゥルゴヴィシュテにおいて一般市民の車を強奪しようとしたところを、国防次官を主導とする救国戦線により逮捕される。12月25日、救国戦線はチャウシェスク夫妻を、60,000人の大量虐殺と10億ドルの不正蓄財などの罪で起訴、形だけの軍事裁判で即刻銃殺刑の判決を下しその場で殺害した。この様子はビデオで撮影され、フランスを含む西側諸国でただちに放送された。日本でも各テレビ局が一斉に放送した。中でもフジテレビは深夜時間帯に報道特別番組「チャウシェスク処刑」を設け、数時間にわたるビデオの映像に翻訳の字幕スーパーをつけて全部放送した。

12月26日、ルーマニア国内でも処刑の様子が公表された[1]。裁判の様子から死刑判決が下されおびえる夫妻、そして銃殺から処刑後の死体の様子まで撮影されたのは、非公開処刑だとアドルフ・ヒトラー等のように生存説を唱えられる事が懸念されたからである。この放送は、チャウシェスクが対外的には清貧な大統領を装う一方で、残忍な独裁者だったという印象を強くした。即刻銃殺刑に処したこと、西側諸国に公開したことを見ても如何に大統領が国民を抑えつけ恐れられていたかが分かる。

なお、死刑執行が直ちに行われた理由の一つとして、死刑執行直前までつけていた時計に現在位置情報を秘密警察に知らせる機能がついていたため、直ちに死刑を執行しないと秘密警察に身柄を奪還される恐れがあったためと報じられた[要出典]

[編集] 処刑後

大量虐殺の形跡や不正蓄財の確定的な証拠は見つからなかった。1990年自由選挙による国会が開かれると、野党側は与党救国戦線を激しく追及した。これはのちに救国戦線が右派(ペトレ・ロマン)と左派(イオン・イリエスク、後の社会民主党)に分裂する遠因にもなった。

末期のチャウシェスク政権は、他の長期政権にも見られる様にチャウシェスク本人ではなく高級官僚化した党幹部らが実質的な権力を握っていたとされる。当時の党幹部らは革命の際に国外に脱出しており、従って真相は明らかでない。革命の際も、集会の現場にルーマニア人のジャーナリストがおらず外国の報道機関しかいなかったこと、革命の際に国軍・大統領親衛隊を超える能力の武力が使われた形跡があることなど、いまだ説明されていない状況が数多く残っている。

1999年12月、革命10周年に当たって行なわれた世論調査によると、6割を超えるルーマニア国民が「チャウシェスク政権下の方が現在よりも生活が楽だった」と答え、同国政府を驚かせた[要出典]。チャウシェスク政権下では、共産主義の名のもとに国民全員に最低限の生活が保障されていた[要出典]ことや、市場経済の停滞と失業者の増加により生活が悪化したことなどから、国民の不満が高まり、各地の工場や炭坑ではストライキが頻発した。その参加者の中には、チャウシェスクの肖像写真とともに、「チャウシェスク、私たちはあなたが恋しい」といったプラカードを掲げる人も少なくなかったとされる。[要出典]現在負の遺産として残されている国民の館は観光地化され、世界中から多くの人々が訪れている。

日本テレビ系列の番組『知ってるつもり』では、市民からの献花が絶えないチャウシェスクの墓の様子と、妻エレナが非難される様子が放送された。

[編集] 家族

妻との間に2男1女。

  • ヴァレンティン・チャウシェスク1948年2月17日 - ) - 長男。ただし実子ではなく、チャウシェスク夫妻が孤児院から引き取った養子核物理学者となり、政治には関わっていなかったことから、革命の際にも身柄拘束はされなかった。その後横領などの容疑で逮捕されたものの、不起訴処分となり釈放。現在は核物理学者として復帰している。革命時に新政権によって没収された財産の返還を求める裁判を起こした。
  • ゾヤ・チャウシェスク1949年3月1日 - 2006年11月20日) - 長女。数学者。党の役職についていた。革命前は贅沢三昧の暮らしをしていたといわれ、「飼い犬に牛肉を与えていた」等と報じられる。革命の際に身柄を拘束される。間もなく横領などの容疑で改めて逮捕されたが、不起訴処分となり釈放。その後革命時に新政権によって没収された財産の返還を求める裁判を起こした。最終的にその訴えの一部が認められ、一定の財産がゾヤに返還された。2006年、肺がんのため死去。
  • ニク・チャウシェスク1951年9月1日 - 1996年9月25日) - 次男。政治に関与しており、革命時はセクリタテアの幹部で、党政治執行委員候補。父の後継者と目されていた。革命の際には愛人とともに車で逃走中、逮捕された。間もなくブカレスト市内の国営テレビ局に連行され、押しかけた人々に罵られながら、救国戦線の関係者らに詰問される。その一部始終がテレビで放映された。その後横領など複数の罪で起訴されたが、裁判中の1996年、肝硬変のため死去。革命の1ヶ月前にアメリカに亡命した体操選手ナディア・コマネチに愛人関係を強要していたといわれる。

[編集] 脚注

  1. ^ ダン・チョバヌ、智片 通博 『この目で見た政権の崩壊-ルーマニア「革命」の7日間』 日本放送出版協会、1990年6月発行(p167,171)

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ
先代:
ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ
ルーマニア共産党書記長
1965年 - 1989年
次代:
(解散)
先代:
キヴ・ストイカ
国家評議会議長
1967年 - 1974年
次代:
(大統領制移行)
先代:
(発足)
ルーマニア大統領
1974年 - 1989年
次代:
イオン・イリエスク