ニコラエ・チャウシェスク

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ニコラエ・チャウシェスク
Nicolae Ceaușescu
Nicolae Ceausescu.jpg
ニコラエ・チャウシェスク(1981年)

任期 1965年3月22日1989年12月22日

任期 1967年12月9日1974年3月28日

任期 1974年3月28日 – 1989年12月22日

出生 1918年1月26日
ルーマニア王国の旗 ルーマニア王国オルト県スコルニチェシュティ
死去 1989年12月25日(71歳)
ルーマニア救国戦線の旗 ルーマニアドゥンボヴィツァ県トゥルゴヴィシュテ
政党 ルーマニア共産党
配偶者 エレナ・チャウシェスク
署名 Nicolae Ceauşescu signature.svg

ニコラエ・チャウシェスクルーマニア語: Nicolae Ceaușescu1918年1月26日[1] - 1989年12月25日)は、ルーマニア政治家ルーマニア社会主義共和国国家評議会議長1967年 - 1974年)、初代大統領1974年 - 1989年)、ルーマニア共産党書記長1965年 - 1989年)[2]

1960年代から80年代にかけての24年間にわたり、ルーマニア共産党政権の頂点に立つ独裁的権力者として君臨した。

概要[編集]

1960年代後半から70年代にかけて、東欧社会主義圏にあってソ連から距離を置いた自主的な外交政策を展開し、国際政治の鍵を握る人物の一人として注目された。

だが1980年代に入ると、強権的な統治や個人崇拝、国民生活の窮乏に対する内外の批判が高まった。1989年、この年の東ヨーロッパ諸国の大変動、いわゆる「東欧革命」の最後を飾る流血の政変(ルーマニア革命)によって権力の座を追われ、処刑された。

前半生(生い立ちから権力掌握まで)[編集]

トゥルゴヴィシュテの警察によるチャウシェスクの顔写真(1936年)

生い立ち[編集]

1918年ルーマニア王国オルト県スコルニチェシュティ村の農家にて、10人兄弟の3男として生まれる(チャウシェスクの家族英語版を参照)。11歳のとき、工場で働くために首都のブカレストに移住する。

党活動の開始から第二次世界大戦終了まで[編集]

1932年、当時は非合法組織であったルーマニア共産党に入党し、1933年に逮捕される。翌1934年には、鉄道職員試験に嘆願抗議する署名運動の扇動(2度目)を理由に再び逮捕された。逮捕当時の警察によるチャウシェスクに関する記録には「危険な共産主義の扇動者」「共産主義の配布者」「反ファシストプロパガンダ」といった記述がある。その後チャウシェスクは地下に潜伏するが、「反ファシスト」活動の罪により1936年にドフタナ刑務所に投獄された[3]。獄中でエレナ・ペトレスクと出会い、1946年に結婚。チャウシェスクはエレナを終生の伴侶とし、以後、エレナは生涯にわたって夫の政治人生を支えることになる。1940年、チャウシェスクは再び逮捕され、投獄される。1943年にはトゥルグ・ジウ強制収容所に移された。この時にゲオルゲ・ゲオルギュ=デジと出会い、収容所での生活を共にする。

第二次世界大戦後[編集]

1945年5月8日第二次世界大戦の敗戦によってルーマニア王国は崩壊し、ルーマニアはソビエト連邦に占領された。この頃、チャウシェスクは共産主義青年同盟英語版の秘書を務めていた(1944年1945年[3]1947年、ルーマニア共産党が権力を握ると、チャウシェスクは農業省の次官を、そしてゲオルゲ・ゲオルギュ=デジの下で国防次官を務める。1952年アナ・パウケル英語版らモスクワ派共産主義者が追放されると、チャウシェスクは中央委員会の委員となった。1954年、正式に政治局の一員となり、党内の序列では2番目に高い地位にまで昇り詰めた[3]

最高指導者として[編集]

1965年3月19日、党の書記長であったゲオルゲ・デジが死去。チャウシェスクはデジと昔からの親友ではあったが、デジが死んだ時点では明白な後継者というわけではなかった。しかし、デジ死去後に政治局内で後継者を巡る対立が起こり、妥協の候補としてチャウシェスクに白羽の矢が立った。

こうして、チャウシェスクは党の第一書記に就任し、1967年には国家評議会議長および同国の元首となる。1974年大統領制が導入されると初代大統領に就任した。チャウシェスクの最初の仕事は、政党名をルーマニア共産党へ変更すること(1948年に社会民主党を併合して「ルーマニア労働党」と改称していた)と、「ルーマニア人民共和国」から「ルーマニア社会主義共和国」への転換宣言であった。1967年、チャウシェスクは国務院の議長となり、自身の権力を強化した。政権を獲得してからしばらくの間の外交政策は、ソ連と距離を置く親西欧路線を取り、ルーマニア国内および西側諸国で人気を得た。1960年代、ルーマニアはワルシャワ条約機構へ積極的に干渉し、1968年チェコ事件に対しては、チェコスロバキアへのルーマニア軍の派遣を拒否してソ連を公然と非難した。一方でソ連は、共産主義ブロック内で独自路線をゆくルーマニアの態度を「うわべだけのもの」とさほど重要視していなかった。

こうした外交策により、チャウシェスクは、アメリカ合衆国および西側諸国から開放政策の推進を持ちかけられることになる。ルーマニア社会主義共和国は、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が承認した最初の共産主義国であり、IMF(国際通貨基金)にも加盟し、アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンも真っ先に迎え入れた[4]1971年、GATT(関税および貿易に関する一般協定)に加盟。ルーマニアとユーゴスラビアは、東ヨーロッパでは共産主義ブロック崩壊前の欧州経済共同体で貿易協定を結ぶ唯一の国でもあった[5]。チャウシェスクは東側諸国の国家元首だったが、前述のように西側諸国へ積極的にアプローチし、アメリカ、フランスイギリススペイン日本など西側主要諸国へ公式訪問するなかで、改革を達成した共産主義のアピールを行った。また、チャウシェスクは自身を「見識ある国際的な政治家」とみなされたがり[6]1969年には中ソ対立最中の中華人民共和国を訪問した。

リチャード・ニクソンジェラルド・フォードと会談するチャウシェスク(1973年)
妻エレナ、昭和天皇とともに(1975年)
1978年6月13日、バッキンガム宮殿にて、エリザベス2世とともに
北朝鮮を訪問し、金日成(左)と面会するチャウシェスク(1971年)

1975年4月4日から4月9日にかけて日本を訪問し、昭和天皇4月4日)、三木武夫首相(当時)(4月5日)と会談した[7][8]1977年にはイスラエルを訪問したエジプトの大統領アンワル・アッ=サーダート(当時)と会談し、国際情勢に関して協議した。ルーマニアは、イスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)の両方と正常な外交関係を維持した唯一の国であった[9]

また、西側諸国によるモスクワオリンピックの大規模なボイコットの報復として、東側諸国が軒並みボイコットした1984年ロサンゼルスオリンピックにおいても、ルーマニアは他の東側諸国と足並みをそろえず参加。こうした姿勢は西側諸国からは賞賛されたものの、ソ連や東ドイツなどの東側諸国から顰蹙を買った。

堕胎と離婚の禁止[編集]

1966年、チャウシェスク政権は国の人口を増やすため、人工妊娠中絶法律で禁止とした。妊娠中絶は42歳以上の女性、もしくはすでに4人(のちに5人に変更)以上子どもを持つ母親のみ例外的に許された。ルーマニアでは5人以上子どもを産んだ女性は公的に優遇され、10人以上の子持ちともなると「英雄の母」の称号を与えられたが、殆どの女性は興味を示さず、せいぜい子ども2〜3人程度がルーマニアの平均的な家庭であった(ルーマニアの人口統計英語版を参照)[10]。また、秘密裏に行われた妊娠中絶の結果障害を負った女性、あるいは死亡する女性も少なくなかった[11]

チャウシェスクは上昇傾向にあった離婚率にも目を付け、離婚に大きな制約を設け、一部の例外を除いて禁止した。1960年代後半までにルーマニアの人口は増加に転じたが、今度は育児放棄によって孤児院に引き取られる子供が増えるという新たな問題が生じた。これらの子供は十分な栄養も与えられず病気がちとなり、さらに子供を死なせた場合にはその孤児院の職員の給与が減らされるため、無理な病気治療のひとつとして大人の血液を輸血され、エイズに感染する子どもが激増した。こうした人口政策で発生した孤児たちは「チャウシェスクの落とし子」と呼ばれ、ストリートチルドレン化するなど、後々までルーマニアの深刻な社会問題となった。

共産主義体制の影響[編集]

ルーマニア国内のチャウシェスクのプロパガンダポスター

1971年中国北朝鮮北ベトナムを訪問したチャウシェスクは、それらの国々の強硬な共産主義体制の影響を受けた。チャウシェスクは特に北朝鮮の朝鮮労働党、中国の文化大革命のような政治綱領の具現化と国家の大変革を志向するようになる。

ルーマニアに帰国後まもなく、金日成チュチェ思想の影響により北朝鮮の政治体制を模倣し始めた。北朝鮮のチュチェ思想の書物はルーマニア語に翻訳され、国中に広く配布された。1971年7月6日、チャウシェスクはルーマニア共産党政治局の執行委員会で演説を行った。この演説は7月の論文英語版と呼ばれている。

部下の亡命[編集]

1978年、ルーマニアの秘密警察セクリタテアの上級幹部であるイオン・ミハイ・パチェパ英語版がアメリカに亡命した。陸軍少将でもあったパチェパの離反・亡命は、チャウシェスク政権にとって大きな痛手となり、チャウシェスクは秘密警察の組織・運営の見直しを余儀なくされる。パチェパは1986年に出版した著書『Red Horizon : Chronicles of a Communist Spy Chief 』(邦題:『赤い王朝 -チャウシェスク独裁政権の内幕-』 ISBN 978-4770407702)にて、チャウシェスク政権の内情(アメリカの産業に対する大々的な工作活動や、西側から支持を得るための取り組みなど)を暴露している。パチェパ亡命後のルーマニアはより孤立を深め、経済は停滞した。チャウシェスクの諜報機関は外国の諜報機関によって逆に侵入を受けるようになり、チャウシェスクによる支配は徐々に弱まっていった。かつてのパチェパの協力者を一掃するためセクリタテアの再編成を試みるも効果は無かった。

対外債務[編集]

1968年チェコスロバキアのソ連からの政治的独立、ならびにソ連による同国への軍事侵攻(チェコ事件)に対するチャウシェスクによる抗議は西側主要国の称賛を呼んだ。西側主要国はチャウシェスクについて「反ソ連の一匹狼」と考えており、チャウシェスクに資金援助を行うことでワルシャワ条約機構の内部分裂を狙い、チャウシェスクは経済開発のために西側から130億ドル以上の融資を受けたが、この融資が最終的にルーマニアの国家財政を破綻させた。チャウシェスクは、莫大な対外債務を返済するために憲法を改正し、将来的にルーマニアが外国から融資を受けることを禁止した。1980年代、チャウシェスクは対外債務返済のため、あらゆる農産物や工業品の大量輸出を行い、国内では食糧の配給制が実施された。一連の強引な飢餓輸出により、ルーマニア国民は日々の食糧や冬の暖房用の燃料にも事欠くようになり、停電は当たり前になるなど、国民生活は次第に困窮の度合いを深めていった。1980年代のルーマニア国民の生活水準は着実に下がっていったにも関わらず、国民には「対外債務返済のための一時的なものであり、最終的には利益になる」と説明された。対外債務は1989年夏までに完済したが、大規模な輸出政策は同年12月に革命が勃発するまで続いた。

緊迫[編集]

ニコラエ・チャウシェスクの70歳の誕生日と政治活動55周年を記念して発行された切手(1988年)

政権獲得当初こそ国民からの高い支持を得ていたチャウシェスクであったが、1980年代にはその人気は低下していった。1989年頃にもなると、チャウシェスクはもはやルーマニアの現状を受け入れることすらままならなかった。1980年代末、一般市民がろくに商品が無い商店の前に長い行列を作っている中、チャウシェスクは商品でいっぱいの店に入り、大量の食ベ物を抱えて芸術祭を訪問する対照的な姿が国営テレビで度々放映された。

食糧配給のための軍の派遣部隊は、チャウシェスクが訪問する店へ先回りし品物を補充して「チャウシェスク政権によって達成された高い生活水準」を演出し、またある時には、チャウシェスクが訪問する農場に国中から手配した栄養十分の畜牛を放ったりもした。1989年当時、ルーマニア国内のテレビでは「記録的豊作である」と宣伝されたが、当時の平均的なルーマニア国民が経験した窮乏との落差・矛盾はどうやっても説明がつくものではなかった。

国民の中には、国内の窮乏をチャウシェスクが知らないのではないかと考え、チャウシェスクが各地を訪問する際に嘆願書や不満を訴えた手紙を手渡す者もいた。しかしチャウシェスクは、それらの手紙を受け取ると、それをすぐに秘密警察の人間に渡した。これらの手紙をチャウシェスクが実際に読んだかどうかは今なお不明だが、いずれにしても嘆願書を渡すことは非常にリスクが大きく、国民は次第にそれを思いとどまるようになった。チャウシェスクは、ルーマニア経済の実情については側近から良い報告しか受けておらず、本当の国内事情を把握していなかったとされている。

このほかにもチャウシェスクは首都ブカレスト市内に「国民の館」と呼ばれる巨大な宮殿を建設し、党や国家の要職もチャウシェスクの家族・親族30人以上が独占していた。こうした一般庶民の生活を顧みない政治姿勢に国民は失望し、人気も支持も低下していった。

1985年、ソ連でミハイル・ゴルバチョフが推進するペレストロイカの影響で東欧でも自由化・民主化の機運が高まると、なおも個人独裁に固執するチャウシェスクは国際社会で一層孤立することになった。東西両陣営から欧州統合の障害とみなされ、史上初となるKCBの剥奪にまで至っている[12]

革命と最期[編集]

1989年ポーランドで民主的な政権が成立した際、ルーマニアにもこのような動きが波及することを恐れたチャウシェスクは、チェコ事件の時とは反対にワルシャワ条約機構軍による軍事介入をソ連に要請した。しかしソ連のゴルバチョフはこの要求を一蹴し、チャウシェスクは事実上ソ連に見限られる形となった。チャウシェスクはなおも権力の維持を図ろうとするが、首都ブカレストを含めて全国規模で暴動が勃発。ソ連の介入がないことが確定的となったため、ルーマニア国軍もチャウシェスク政権に反旗を翻した。同年12月に起きたルーマニア革命でチャウシェスクは完全に失脚し政権は崩壊、12月25日、逃亡先のトゥルゴヴィシュテにおいて、革命軍の手によって妻エレナとともに公開処刑銃殺刑)された。

死後[編集]

チャウシェスクの死後、ルーマニア全土の病院は革命の犠牲者数について、「64000人」という数字よりもはるかに低い「1000人未満」という数字を報告した[13]

ビリヤードに興ずるチャウシェスク
モルドバにて、イオン・イリエスクとともに輪投げに興ずるチャウシェスク

1990年自由選挙による議会が開かれると、野党側は与党救国戦線を激しく追及した。これはのちに救国戦線が右派(ペトレ・ロマン)と左派(イオン・イリエスク、後の社会民主党)に分裂する遠因にもなった。

末期のチャウシェスク政権は他の長期政権同様、チャウシェスク本人ではなく高級官僚化した党幹部らが実質的な権力を握っていたとされる。当時の党幹部らは革命の際に国外に脱出しており、真相は明らかにされていない。実際の革命の現場でも、集会の場にルーマニア人のジャーナリストがおらず外国の報道機関しかいなかったこと、国軍・大統領親衛隊の能力を超える武力が行使された形跡があることなど、未だ解明されていない点が多い。

1999年12月、革命10周年に当たってルーマニア国内で行なわれた世論調査によると、6割を超える国民が「チャウシェスク政権下の方が現在よりも生活が楽だった」と答え、同国政府を驚かせた。市場経済の停滞と失業者の増加により生活が悪化したことなどから国民の不満が高まり、各地の工場や炭坑ではストライキが頻発した。現在もチャウシェスクの負の遺産として残されている国民の館は観光地化され、世界中から多くの人々が訪れている。

家族[編集]

妻との間に2男1女がいる。

  • ヴァレンティン・チャウシェスク英語版1948年2月17日 - ) - 長男。ただし実子ではなく、チャウシェスク夫妻が孤児院から引き取った養子核物理学者となり政治には関わっていなかったことから、革命の際にも身柄拘束はされなかった。その後、横領などの容疑で逮捕されたものの、不起訴処分となり釈放、現在は核物理学者として復帰している。革命時に新政権によって没収された財産の返還を求める裁判を起こした。
  • ゾヤ・チャウシェスク英語版1949年3月1日 - 2006年11月20日) - 長女。数学者であった一方、党の役職にもついていた。革命前は贅沢三昧の暮らしをしていたといわれ、「飼い犬に牛肉を与えていた」等と報じられる。革命の際に身柄を拘束される。間もなく横領などの容疑で改めて逮捕されたが、不起訴処分となり釈放。その後革命時に新政権によって没収された財産の返還を求める裁判を起こした。最終的にその訴えの一部が認められ、財産の一部がゾヤに返還された。2006年、肺がんのため死去。
  • ニク・チャウシェスク英語版1951年9月1日 - 1996年9月25日) - 次男。革命時はセクリタテアの幹部で、党政治執行委員候補であり、父の後継者と目されていた。革命の際には愛人とともに車で逃亡を図るも逮捕された。間もなくブカレスト市内の国営テレビ局に連行され、押しかけた人々に罵られながら救国戦線の関係者らに詰問され、その一部始終がテレビで放映された。その後横領など複数の罪で起訴されたが、裁判中の1996年、肝硬変のため死去。

参考文献[編集]

チャウシェスク本人の著作、演説・報告・インタビュー集
  • 草野悟一編訳)『ニコラエ・チャウシェスク 社会主義建設の旗手』恒文社、1971年。
  • (草野悟一編訳)『ニコラエ・チャウシェスク 平和と国際協力の政策』恒文社、1971年。 
  • (草野悟一編訳)『ニコラエ・チャウシェスク 国際平和への道』恒文社、1978年。
  • (鈴木四郎訳)『ニコラエ・チャウシェスク 社会・政治思想』恒文社、1981年。
その他

チャウシェスクとその時代を扱った作品[編集]

映画
  • Autobiografia lui Nicolae Ceausescu (ニコラエ・チャウシェスク自伝)Andrei Ujica監督、2010年。チャウシェスクの書記長就任から、89年の革命後の裁判までの記録映像を編集、構成。IMBbYoutube

脚注[編集]

  1. ^ http://ceausescunicolae.files.wordpress.com/2010/09/ascrisceausescudosaruldcadresemnat.jpg
  2. ^ 就任当初は、「ルーマニア労働党第一書記」。
  3. ^ a b c Ceausescu.org
  4. ^ “RUMANIA: Enfant Terrible”. TIME Magazine. (Monday, Apr. 02, 1973). http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,907041-1,00.html 2010年5月20日閲覧。 
  5. ^ Martin Sajdik, Michaël Schwarzinger. European Union enlargement: background, developments, facts. Transaction Publishers, NJ, USA, 2008. p. 10. ISBN 978-1-4128-0667-1. 
  6. ^ David Phinnemore. The EU and Romania: accession and beyond. Federal Trust for Education and Research,London, UK, 2006. p. 13. ISBN 1-903403-79-0. 
  7. ^ 中野文庫「1975年の天皇の勅語」
  8. ^ 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室「ニコラエ・チャウシェスク・ルーマニア社会主義共和国大統領夫妻の訪日に際しての共同コミュニケ」
  9. ^ Roger Kirk, Mircea Răceanu. Romania versus the United States: diplomacy of the absurd, 1985-1989. Institute for the Study of Diplomacy, Georgetown University, 1994. p. 81. ISBN 0-312-12059-1. 
  10. ^ Communist Romania's Demographic Policy, U.S. Library of Congress country study for details see Gail Kligman. 1998. The Politics of Duplicity. Controlling Reproduction in Ceausescu's Romania. Berkeley: University of California Press.
  11. ^ Ceausescu's Longest-Lasting Legacy - the Cohort of '67
  12. ^ ナイトの称号が剥奪された例は過去に2例あり、もう1例はジンバブエの独裁者ロバート・ムガベのナイト爵位である
  13. ^ Aubin, Stephen P (1998). Distorting defense: network news and national security. Greenwood Publishing Group. pp. 158. ISBN 9780275963033. http://books.google.com/books?id=5YH5rPgWvzUC&pg=PA158&dq=revolution+romania+1989+death+toll&lr=&as_drrb_is=q&as_minm_is=0&as_miny_is=&as_maxm_is=0&as_maxy_is=&as_brr=3 2008年6月28日閲覧。. 
  14. ^ 著者はルーマニア共産党最高幹部であったがチャウシェスクと対立。89年の革命では救国戦線のリーダーの一人となる。
  15. ^ 著者はチャウシャスク政権下の秘密警察最高幹部であったが、1978年アメリカに亡命。

関連項目[編集]

先代:
ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ
ルーマニア共産党書記長
1965年 - 1989年
次代:
(解散)
先代:
キヴ・ストイカ英語版
国家評議会議長
1967年 - 1974年
次代:
(大統領制移行)
先代:
(発足)
ルーマニア大統領
1974年 - 1989年
次代:
イオン・イリエスク