リビア

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リビア国
دولة ليبيا
リビアの国旗 The emblem on the passport of Libya.svg
国旗 国章
国の標語:なし
国歌リビア、リビア、リビア
リビアの位置
公用語 アラビア語
首都 トリポリ
最大の都市 トリポリ
政府
国民議会議長
(大統領格)
ヌーリー・アブーサハミーン英語版
首相 アブドゥッラー・アッ=スィニー英語版
面積
総計 1,759,540km217位
水面積率 極僅か
人口
総計(2008年 6,420,000人(103位
人口密度 3人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 1,223億[1]リビア・ディナール
GDP (MER)
合計(2008年 1,000億[1]ドル(64位
GDP (PPP)
合計(2008年 902億[1]ドル(83位
1人あたり 14,520[1]ドル
2月17日革命
 - 日付
2011年2月17日
通貨 リビア・ディナール (LYD)
時間帯 UTC (+2)(DST:なし)
ISO 3166-1 LY / LBY
ccTLD .ly
国際電話番号 218

リビア国(リビアこく)、通称リビアアラビア語: ليبيا‎ リービヤー)は、北アフリカに位置する共和制国家。東にエジプト、南東にスーダン、南にチャドニジェール、西にアルジェリア、北西にチュニジアと国境を接し、北は地中海に面し、海を隔てて旧宗主国のイタリアが存在する。首都はトリポリである。

アフリカ世界地中海世界アラブ世界の一員であり、アフリカ連合アラブ連盟に加盟している。アラブ・マグレブ連合にも加盟しており、広義のマグリブ諸国に含まれる。

国名[編集]

各言語の国名に共通する Libya は、ギリシャ神話の登場人物リビュエーに由来し、古代ギリシアで北アフリカの地中海沿岸地域(エジプトより西)をまとめて Libya と呼んでいたことに由来する。さらにこの語は、アフリカ大陸全体を指す場合もあったが、現在この意味では使用されていない。

その後、現在のリビアの領域はイフリキアと呼ばれ、北西部が首都トリポリ(アラビア語名:タラーブルス)の名をとってトリポリタニア(タラーブルス)、北東部がバルカ(太古の時代からの呼称、キュレナイカとも呼ばれた)、南部内陸部がフェッザーンなどの地域からなっており、16世紀にこの地を併合したオスマン帝国はこの地域全体を西タラーブルス州としていたが、1911年イタリア王国がオスマン帝国からこの地を奪った際に、古名を復活させリビアとした。

歴史[編集]

伊土戦争にてリビアを爆撃するイタリア王国飛行船
抗イタリア戦争の英雄、オマル・ムフタール

古代から植民地時代まで[編集]

古代にはフェニキア人カルタゴ古代ローマ東ローマ帝国の支配を受けた。

7世紀アラブ人ウマイヤ朝に征服され、イスラム教が広がった。その後16世紀オスマン帝国に併合された(オスマン・トリポリタニア英語版)。1711年に土着化したトリポリ総督のトルコ系軍人が自立し、カラマンリー朝が成立した。19世紀初頭にカラマンリー朝はアメリカ合衆国第一次バーバリ戦争を繰り広げた。その後イギリスフランスによるこの地への干渉が始まったため、オスマン帝国はリビアを再征服し、1835年にカラマンリー朝は滅亡した。

20世紀初頭の伊土戦争により、1911年にはイタリア王国がリビアを植民地化した。植民地化後はイタリア人が入植したが、サヌーシー教団オマール・ムフタールやベルベル人による激しい抵抗が繰り広げられ、1926年からイタリアロドルフォ・グラッツィアーニによる厳しい弾圧が行われたが、特にフェザーンでの抵抗は激しく、リビアの完全平定は1932年にまでもつれこんだ。

第二次世界大戦中には連合国イギリス)と枢軸国イタリアナチス・ドイツ)の間で激戦が繰り広げられた(北アフリカ戦線)。イタリアの敗戦により、戦後は英仏の共同統治領とされた。

独立からカダフィ政権時代[編集]

1949年の国際連合の決議により、1951年キレナイカ首長国英語版キレナイカ)、トリポリタニアフェッザーンの3州の連邦制によるリビア連合王国として独立した。キレナイカの首長であり、サヌーシー教団の指導者だったイドリース1世が国王に即位した。1963年連邦制は廃止され、リビア王国が成立した。

1969年9月1日ナーセル主義者だった27歳のムアンマル・アル=カッザーフィーカダフィ)と同志の青年将校たちによるクーデターにより、トルコに滞在中だった国王イドリース1世は退位し、カダフィを事実上の元首とする共和国が成立した。

その後はイスラーム主義社会主義やナーセル主義やカダフィが著した『緑の書』に基づく国家を建設を目指し、対外的にはソビエト連邦に接近して援助を受けた。1970年代から1990年代まで数々のテロを支援したため、アメリカ合衆国イギリスなどの欧米諸国と敵対した。1985年に発生した西ヨーロッパでの一連のテロ事件により経済制裁を受け、1986年にはアメリカ軍によって空爆(リビア爆撃)されたが、その報復として1988年にパンナム機を爆破(パンアメリカン航空103便爆破事件)した。

2001年の同時多発テロ事件以降は一転してアメリカと協調路線をとる一方、成果を出せない親アラブ外交から親アフリカ外交へとシフトし、アフリカ連合内で主導権を握ろうとしていた。

2011年、カダフィ打倒を旗印にしたリビア国民評議会とカダフィ政権側の間でリビア内戦が勃発した。一時期はカダフィ政権側が評議会側の拠点だったベンガジ進攻寸前まで至ったが、NATO(北大西洋条約機構)などから軍事的な支援を受けた評議会軍が同年8月23日に首都トリポリを制圧した。10月20日にカダフィがスルト(シルト)で射殺され、42年間続いたカダフィ政権は崩壊するに至った。

カダフィ政権崩壊後[編集]

2012年7月7日に60年ぶりに行われた国民全体会議選挙(定数200)で、120議席が無所属に、80議席が政党に配分された。国民勢力連合が39議席、ムスリム同胞団系の公正建設党が17議席、残りの議席は各中小政党が獲得した。国民評議会は同年8月8日に権限を全体国民会議に移譲し解散した。今後、選挙によって選ばれた議員で構成された議会に承認された内閣行政権を継承し、そしてこの議会が制憲議会としてリビアの新憲法を制定し、1年以内の正式政府発足を目指して[2]統治機構を調えることとなる。

9月11日米領事館襲撃事件が発生し、J・クリストファー・スティーブンス大使はじめ関係者4人が死亡するなど、未だ国内は不安定な情勢が続いている。

9月12日、リビア全体国民会議は、ムスタファー・アブーシャーグールを首相に指名したが期限内に組閣を果たせず、首相不信任案を可決し解任した。リビア国民評議会時代の暫定首相であるアブドッラヒーム・アル=キーブが引き続き暫定政権を率いた[3]10月14日、国民議会は元外交官のアリー・ゼイダーンを首相に選出した[4]

2014年、各地でイスラム系武装勢力の攻勢が活発化し、政府の支配権が弱まった。同年7月14日、それまで民兵が掌握していたトリポリ国際空港が襲撃を受け、政府側が実効支配権を喪失。空港周辺における戦闘は続き、双方がロケット砲を打ち合う大がかりな戦闘に発展。100人前後が死亡、400人以上の負傷者を出した[5]。同月28日には、市街地と空港を結ぶ道の途中にある大型石油貯蔵施設が被災。大規模な火災となった。7月31日にはベンガジの特殊部隊本部が陥落した[6]

2014年10月上旬には、イスラーム国の旗をはためかせた20台近くの四輪駆動車が同国東部の市街地を行進した[7]

政治[編集]

カダフィ政権時代は人民主権に基づく直接民主制を宣言し、ジャマーヒリーヤと呼ばれる独特の政体をとり、成文憲法は存在せず、1977年に制定された人民主権確立宣言およびイスラム法が主要な法の源とされていた。また、政党も存在しなかった。

元首[編集]

現在の元首は、大統領が選ばれるまで、国民議会議長が務めている。

行政[編集]

閣僚として、副首相・財務大臣・石油大臣・国防大臣などが置かれている。

立法[編集]

リビア国民全体会議(国民議会)の定数は200(トリポリタニア102・バルカ(キレナイカ)60・フェッザーン38)である。国民議会は首相及び内閣を承認する権限を有する。

カダフィ政権では、政党は存在しなかったが、政権崩壊後に設立されるようになった。主要政党は、マフムード・ジブリール元暫定首相が設立した国民勢力連合ムスリム同胞団系の公正建設党などがある。

司法[編集]

最高司法機関は最高裁判所で、その下に高等裁判所第一審裁判所が存在する。また、国の治安に関する事案を扱う特別裁判所として人民裁判所が置かれていたが、近年廃止された。なお、多くのイスラム国家同様死刑制度があった。

軍事[編集]

国際関係[編集]

カダフィ政権時代は反欧米、反イスラエルのアラブ最強硬派の国家であった(詳細は大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国#国際関係を参照)。カダフィ政権崩壊後は、アメリカ合衆国と関係を修復している。また、シリアシリア国民評議会が設立された時にいち早く承認し、その後のシリア国民連合もシリアにおける唯一の合法的な政府として承認している。現在シリア政府とは、国交を断交している。

治安[編集]

カダフィ政権時では、比較的治安が安定していたが、2011年リビア内戦以降は武器などが大量に出回り、急速に悪化傾向にある。新リビア政府は回収しているが過激派組織 などにも渡っており回収作業は難航している。2013年5月武装勢力が外務省などを包囲して、カダフィ前政権高官がまだ政府内に留まっているとして、追放と内閣の交代などを求めている。国民議会はカダフィ前政権高官などを追放させる法案を可決したが、国防相が一時辞意を表明するなど国内は不安定化している。また、カダフィ政権時と比べて殺人事件発生率が約5倍になっており、治安対策が急務である。

地方行政区分[編集]

リビアの地方行政区画

シャアビーヤと呼ばれる県の自治体が22県ある。2007年に32県から22県に再編された。その他にマハッラと呼ばれる自治体が468置かれている(2014年現在)。

主要都市[編集]

  • トリポリ(タラブルス、首都) - トリポリタニアの中心都市。
  • シルテ(スルト) - トリポリタニアの都市。
  • ミスラータ - トリポリタニアの都市。製鉄業が盛ん。2011年リビア内戦の激戦地の一つだった。
  • ザーウィヤ - トリポリから西に約50kmに位置するトリポリタニアの都市。巨大製油所が2つあり、経済上の重要都市の一つ。
  • バニワリード - トリポリの南東部にあるトリポリタニアの都市。ミスラタ大学のキャンパスがある。ワルファラ族の本拠地。
  • ベンガジ - キレナイカの中心都市。リビア連合王国・リビア王国の時代には複都制が採られており、ベンガジはトリポリと並ぶもう一つの首都であった。
  • アジュダービヤー - キレナイカ最西端の都市。トリポリとベンガジを結ぶ幹線上にあり、さらに南部クフラに分岐する交通の要。オージラ油田からのパイプラインが通る。
  • アルバイダ(アル=バイダ、ベイダ) - キレナイカの都市。リビア連合王国・リビア王国の時代には首都の一つとされていた。国内有数の保養地で、サヌーシー教団の本拠地がある。
  • トブルク - キレナイカの都市。第二次世界大戦における北アフリカ戦線の激戦地として知られる。
  • セブハ - フェザーンの中心都市。

地理[編集]

リビアの衛星画像

アフリカ大陸の北部に位置し、地中海に面している。国土の大部分がサハラ砂漠の一部であり、面積の大半を砂漠が占める。サハラ砂漠のリビア部分を特にリビア砂漠と呼ぶ。砂漠には砂丘のみならず、岩石砂漠や礫砂漠も存在する。南部には山脈が走り、トリポリ南方にはナフサ山地が、ベンガジ東方にはアフダル山地が存在する。降水は北部の地中海沿岸にわずかにある。西のトリポリタニアから東のキレナイカにかけての地中海沿岸の屈曲した部分をスルト湾(シドラ湾)と呼ぶ。国土の70%は標高500m以下だが、地中海を北から南に行くほど標高は高くなり、チャドとの国境付近は標高1,000m~2,000mの高原となっている。

ケッペンの気候区分によれば、地中海沿岸の僅かな部分は地中海性気候ステップ気候に属し、気候は温暖である。しかし、沿岸部も乾燥しており、主要都市でも年間降水量は400mmを越えない。国土の大部分を占める砂漠地帯は砂漠気候であり、年間を通して乾燥している。サハラ砂漠から北に向かってギブリと呼ばれる熱風(シロッコ)が吹き出す。

経済[編集]

2010年GDPは779億ドルであり、アフリカ第7位[8]日本岐阜県とほぼ同じ経済規模である[9]

独立以前のリビアは農牧業を主産業とした農業国だったが、1955年から油田開発が進められ、1959年に産油国となった。王政時代はオクシデンタル・ペトロリウム社等の国際石油資本により石油開発が進められたが、1969年の革命後に石油は国有化された。カダフィ政権が起こしたパンナム機爆破事件により1992年から1999年まで国際連合の経済制裁が続き、リビア経済は疲弊した。その後は徐々に石油関連を筆頭とした外国資本が次々と流入した。

油田の多くはキレナイカに集中しており、石油の埋蔵量はアフリカ最大といわれている。輸出の大部分が石油で、貿易黒字を維持するために輸出量は調節している。リビアは石油が豊富でありながらも人口が少ないために、一人当たりのGDPはアフリカでは最上位レベルで12000ドルを超えており、先進国クラスである。2010年のリビアの一人当たりGDPは12,062ドル。なお、エジプトが2,771ドル、スーダンが1,642ドル、チャドが742ドル、ニジェールが383ドル、チュニジアが4,160ドル、アルジェリアが4,477ドルなどである。

独立以前から皮革繊維じゅうたん金属細工などの軽工業が行われていた。独立後、石油収入を基盤に重工業化が進められ、石油精製製鉄セメントアルミ精錬などを行う国営工場が建設されている。

国土の1.2%が耕地となっており、現在でも農業牧畜に従事する国民も多い。地中海農業オアシス農業が主な農法であり、1969年革命後の社会主義政権は農業の産業化に力を入れ、深層地下水パイプラインで輸送して灌漑を進めている(リビア大人工河川)。

交通[編集]

トリポリやベンガジなど地中海沿岸の国内の主要都市を結び、チュニジア、エジプトの国境を越えて両国に続く高速道路が整備されている。地中海沿岸の都市から内陸部の都市を結ぶ道路も整備されている。

鉄道は、イタリア統治時代に建設されたものが一部の都市を結んでいたが、1965年までに全廃された。しかし2014年現在、全国を結ぶ鉄道網を建設する計画が進行中であり、実際に一部の区間で中国およびロシアの協力で建設が始まっている。

国民[編集]

リビアの民族分布(1974年

国民の大多数がアラブ人、もしくはアラブ人とベルベル人の混血である。少数民族として先住民のベルベル人や、南部のスーダン系黒人が存在する。遊牧生活を送るベドウィンやベルベル系のトゥアレグ人も存在する。かつてはユダヤ人も存在していたが、イスラエル建国や第3次中東戦争による反ユダヤ主義的機運の高まりで、多くのユダヤ人が国外に脱出。最後まで留まっていたユダヤ人もカダフィ政権下で全員国外追放された。

移民としてアラブ諸国サハラ以南のアフリカ諸国からの出稼ぎ労働者が存在する。特にエジプトチュニジア出身者が多い。パレスチナ人難民も存在する。

民族[編集]

多くの部族がいて、部族の影響が強い。

言語[編集]

公用語アラビア語である。西部ではアラビア語チュニジア方言の影響が強く、東部ではアラビア語エジプト方言の影響が強い。またイタリアの植民地であったことから一部ではイタリア語も通用する。

宗教[編集]

宗教は国教イスラームが約97%であり、大半がスンナ派であるが、イバード派も少数派として5〜10%程度を占める。また、キリスト教も少数ながら存在し、コプト正教会が人口の1%以上を占める他、移民によってもたらされたアングリカン・チャーチローマ・カトリックも存在する。シナゴーグも存在したが、現在は使われていないか、モスクに改装された。

教育[編集]

カダフィ政権時代は、6歳から15歳までの初等教育前期中等教育が無償の義務教育期間となり、その後3年間の後期中等教育を経て高等教育への道が開けていた。義務教育に限らず、国公立の学校学費は無償であった。2003年の15歳以上の人口の識字率は82.6% である[10]

主な高等教育機関としてはガル・ユーニス大学(1955年)やトリポリ大学(元アル・ファテフ大学)(1957年)などが挙げられる。

文化[編集]

世界遺産[編集]

リビア国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が5件存在する。詳細は、リビアの世界遺産を参照。

祝祭日[編集]

日付 日本語表記 現地語表記 備考
2月17日 革命記念日 国民評議会がトリポリを陥落させて政権を奪取
3月3日 自由の日 囚人400人を解放
5月1日 メーデー 労働者の日
8月8日 イド・アル=フィトル イスラム教の祝日で、ラマダーンの終了を祝うもの
10月23日 解放記念日 カダフィ政権からの解放
12月24日 独立記念日 يوم وطني イタリア及びフランスからの独立

国の象徴[編集]

国旗・国章[編集]

2011年のカダフィ政権崩壊により、1951年から1969年まで使用されていた王政時代の国旗が復活した。2011年まで使われていた旧国旗は緑一色であった。 国章は、国民議会発足後も決まっていない。

脚註[編集]

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参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

リビア政府
日本政府