ヘルムート・シュミット

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西ドイツの旗 西ドイツの政治家
ヘルムート・シュミット
Helmut Schmidt
Helmut Schmidt (13.07.1977).jpg
ヘルムート・ハインリッヒ・ヴァルデマール・シュミット
生年月日 1918年12月23日(95歳)
出生地 ドイツの旗 ドイツ帝国 ハンブルク
所属政党 ドイツ社会民主党
配偶者 ハンネローレ・シュミット
サイン Helmut Schmidt Signatur.svg

任期 1974年5月16日 - 1982年10月1日
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1978年、ボンサミットにおけるシュミット(右から二人目)

ヘルムート・ハインリッヒ・ヴァルデマール・シュミットHelmut Heinrich Waldemar Schmidt, 1918年12月23日 - )は、西ドイツ政治家ドイツ社会民主党 (SPD) 所属。第5代連邦首相(在任:1974年 - 1982年)。その他国防相(1969年 - 1972年)、経済財務相(1972年)、財務相(1972年 - 1974年)、外務大臣(臨時、1982年の2週間)を歴任。1983年からは『ディー・ツァイト』紙の共同編集者を務める言論人・文化人でもある。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

ハンブルクの生まれでそのことに誇りを持ち、現在はハンブルク市民に「卓越したハンザ人」と敬愛されている。両親はいずれも教師だった。しかし父はユダヤ教徒の商人と女性給仕の間に生まれた私生児で、ナチスの政権獲得後にユダヤ人に対する差別と迫害が始まると、父は書類を偽造してアーリア人である証明書を得た、とシュミット自身が告白している。その出自ゆえにナチスに対する反感は持っていたが、ナチス左派が宣伝した社会主義的側面には共感するところもあったという。

1937年にハンブルクのリヒトヴァルク高校を卒業した後、1939年に兵役でドイツ国防軍に入隊し、ブレーメン対空砲部隊に配属された。間もなく第二次世界大戦が勃発。1941年からは東部戦線ソ連軍との戦いに将校として従軍。1942年に帝国空軍省の対空砲教官兼顧問としてドイツに戻った。1944年、ヒトラー暗殺計画参加者に対する人民法廷の裁判を傍聴するよう上官に命じられたが、その茶番ぶりに傍聴を辞退した。同年末、中尉・中隊長として西部戦線に従軍。1945年初め、防空演習中に空軍司令官ヘルマン・ゲーリングに対する批判的な言動をしたためにナチスの政治将校に裁判にかけられそうになるが、上官の将軍に救われた。1945年4月にリューネブルガー・ハイデイギリス軍の捕虜となり、8月31日に釈放された。

捕虜収容所からの釈放後、ハンブルク大学経済学政治学を学び、収容所で知り合った社会主義者の影響で戦後すぐにSPDに入党。在学中の1947 - 1948年、SPDの下部学生組織であるドイツ社会主義学生連盟 (Der Sozialistische Deutsche Studentenbund; SDS) のリーダーを務めた。1949年にハンブルク大学から経済学士号を取得。卒業後ハンブルク市の自治体職員となり、まず商工振興局で、その後1952年から同市の経済・運輸局で、その長であるカール・シラーの下で働いた。1955年のドイツ再軍備後に二度軍事訓練に参加し、1958年にはドイツ連邦軍予備役大尉、のち予備役少佐になっている。

政界進出[編集]

1953年、連邦議会選挙にハンブルク選挙区から初出馬して当選。1958年にSPDの州代表メンバーの一員に選ばれ、核兵器撲滅キャンペーンや連邦軍削減などのキャンペーンに参加。1958年から1961年まで、欧州議会議員を兼任。1961年12月、ハンブルク州政府の内務相になり、連邦議会議員を辞任。内相就任間もない1962年2月16・17日の北海大洪水では、憲法違反の懸念を恐れずに連邦軍の出動を要請して被害の拡大を防いだ彼の指導力が高く評価され、その名は広く知られるようになった。1965年に連邦議会に再出馬して当選、すぐに議会幹事会の一員となり、1967年にはSPD連邦議会院内総務の座に就き、1968年には副党首になった。1967 - 1969年には党議員団の外交・全ドイツ問題政策調査委員会会長を兼務。彼の言によれば、院内総務の仕事がその政治家人生でもっとも楽しいものだったという。

1969年10月22日、SPDと自由民主党 (FDP) の連立でヴィリー・ブラント政権が成立、シュミットは国防大臣として初入閣。その在任中に兵役義務が18か月から15か月に短縮され、またハンブルクとミュンヘンに連邦国防大学が設立された。1972年7月にブラントに抗議して辞任したハンブルク市職員時代の上司、シラーを継いで経済・財務相に就任(11月まで)。同年12月から1974年3月まで財務相。なお財務相として「トライラテラル・コミッション」(日米欧三極委員会)の委員でもあり、ビルダーバーグ会議に参加して1973年5月の原油価格400%値上げ決定にも関わっている。

首相就任[編集]

1974年5月16日、ブラントが「ギョーム事件」によって辞任した後を受けて急遽連邦首相に就任し、オイルショックによる世界的な経済不況の中で、積極的な景気維持の策をとった。隣国フランスの大統領ヴァレリー・ジスカール・デスタンと緊密に協力し、就任間もなく欧州理事会を設立。1975年のヘルシンキ条約全欧安保協力機構 (OSCE) の創設に貢献した。1976年の総選挙で議会第一党の座をドイツキリスト教民主同盟 (CDU) に奪われたが、FDPとの連立維持で政権に留まった。テロリスト集団ドイツ赤軍分派の活動、特に1977年の「ドイツの秋」と呼ばれる財界要人誘拐殺人・ハイジャックなどの一連の事態に対する彼の対処は、困難を伴いつつも妥協しない断固としたもので、テロリストによるルフトハンザ航空181便ハイジャック事件に際しては、テロ対策特別部隊GSG-9を投入して、それを果断に鎮圧した。シュミットの弁舌の才もその政権運営に大きく寄与した。

アメリカ合衆国国務長官ヘンリー・キッシンジャーとも親交のあるシュミットは、1977年には初めて北大西洋条約機構 (NATO) とワルシャワ条約機構との軍事力不均衡、特にソ連軍の中距離弾道ミサイルSS-20の危険を主張。かくて彼の党派は1980年の選挙で、ソビエト連邦との戦略ミサイル制限交渉を進め、同時にアメリカ軍パーシング2ミサイルを西ドイツに配備させるという「NATO二重決定」の主張に踏み切った。彼は自らの政治的展望を1979年のソ連軍のアフガニスタン侵攻に対するNATOの対策と絡ませていた。この主張には国民の多くのみならず、平和主義路線をとってきた自党内からさえも批判が巻き起こった。この選挙でCDUからの第一党奪還は出来なかったものの、やはりFDPとの連立で議会での過半数確保を乗り切り、11月に首相としての再指名を果たした。この間1981年10月に心臓にペースメーカーを付ける大病をしたが、快復している。外交政策においてシュミットはこれまでの保守政権が行ってきた親イスラエル政策を改め、石油ショックの教訓からアラブ諸国へと接近し、1981年5月にはサウジアラビアを訪問してレオパルト2戦車の売却を行った。このことはイスラエル政府を激怒させ、イスラエル首相のメナヘム・ベギンはシュミットが元ナチス・ドイツ軍の将校であった過去を取り上げて「総統ヒトラーに忠誠を誓った過去がある」と非難した。

シュミットの社会民主主義的な社会・経済政策は、次第に政権維持の頼みの綱であるFDPとの溝を大きくしていった。FDPは自由主義経済と財政再建を主張し、予算案で対立が起きていた。1982年、彼は連邦議会からの不信任案に競り勝つも、ついに9月17日、連立与党FDPの大臣4人が内閣を去った。シュミットは臨時外務大臣を兼任し、SPDのみでの少数与党で内閣の政権維持の試みを重ねたが、10月1日建設的不信任決議(罷免と同時に後任を任命する不信任決議)が成立、政権継続断念を余儀なくされた。これは、戦後西ドイツ史では初めての出来事であった。後任の首相にはCDU・FDPの賛成多数で不信任案決議を提出したCDU党首のヘルムート・コールが選出された。

言論人へ[編集]

2001年のシュミット

首相を追われたことを受けてシュミットは1984年に党副党首を辞任。1987年を最後に連邦議会からも去った。それまでSPD出身の連邦首相は彼を含めて3人いたが、党首を経験したことがないのはシュミットだけである。これはブラントという抗いがたい偉大な存在がいたことによる。

1983年、ドイツ随一の高級オピニオン紙である週刊新聞『ディー・ツァイト』の共同編集者に就任。1985年にはその経営代表責任者となった。1983年には福田赳夫と共に協調行動評議会 (InterAction Councils) にも参加している。1986年12月にはEMCを支援しヨーロッパ中央銀行の創設を側面から援助するための委員会の創設にもかかわった。そのほか多数の財団や基金の顧問といった名誉職に名を連ねている。防衛、民主主義、グローバリゼーション中国の台頭、自伝など、様々な分野で多数の著書がある。

彼は1987年の連邦議会議員引退後も政治については活発な発言を続けている。現在のSPDの政策と反対に、トルコ欧州連合加盟には真っ向から反対し、しばしば『ディー・ツァイト』にその理由を書いた論文を寄稿している。その関連において、「多文化共生社会は、インテリの幻想に過ぎない」と一蹴。また同盟90/緑の党との連立政権だったSPDのゲアハルト・シュレーダー政権が決定した原子力発電所の全廃にも懐疑的な目を向けており、「いわゆる地球温暖化に関するヒステリー」と批判している。また第二次世界大戦で国防軍の行った戦争犯罪を取り上げた「国防軍の犯罪展」については「危険な極左」と激しく非難。その政治的主張は単純な右翼・左翼の分類には当てはまらない。

私生活・人柄[編集]

ロキ夫人と踊るシュミット(1977年)
ボンの経済開発援助省(元連邦首相府)の中庭にあるムーアの作品

私生活では、大戦中の1942年に幼馴染のハンネローレ・グラーザー(愛称「ロキ」)とルター派教会で結婚。愛妻家であり、のちに党の後輩であるシュレーダーが首相になったとき、「私はロキとは70年の付き合いだ。結婚して56年になる。ほんの少しでも見習ってもらえれば」と目の前で述べて、首相就任の前年に四度目の結婚をしたシュレーダーに苦言を呈している。自然保護活動に熱心だったロキは、2010年10月21日にハンブルクの自宅にて91歳で死去した。ロキの葬儀はハンブルクのルター派教会聖ミヒャエル教会 (ハンブルク)ドイツ語版で2010年11月1日に執り行われた。ロキとの間には2人の子があり、1944年に生まれた長男ヘルムートは障害があり1歳になる前に病死したが、1947年に誕生した長女ズザンネはブルームバーグテレビジョン職員となり、現在はロンドンに在住している。

ロキの没後2年となる2012年8月、『ディー・ツァイト』のインタビューにおいて、1933年生まれの元秘書ルート・ロアーと事実婚の関係にあることを明らかにした[1]

シュミットの教派ルター派だが、無神論者ではないものの宗教は重視していないと発言している。2007年には「アウシュヴィッツの蛮行を見過ごした神をもはや信じていない」と述べた。教会は戦後道徳の再建にも民主主義法治国家の建設にも寄与しなかったとも述べているが、道徳的な基盤として教会を認めている。

非常な愛煙者であり、1990年代にテレビのトーク番組に出演したときも終始タバコを吸い続け、顰蹙を買ったことがある。連邦議会の議場内は禁煙なので、やむを得ず審議中だけ嗅ぎ煙草を使った。モスクワの大クレムリン宮殿の「エカテリーナの間」の中でタバコに火をつけた唯一の人物でもある。90歳となった2009年に日本のNHKで放送されたテレビ番組の取材でもタバコを手放すことはなかった。

美術愛好家でもあり、首相就任時にはボンにある首相府の中庭にヘンリー・ムーアの作品「Two Large Forms」を据えさせた。この彫刻は東西ドイツ再統一への願いを込めている。執務室にエミール・ノルデの絵を飾り、入口の「首相執務室」と書かれた札を取り払って「ノルデの部屋」と掲げさせた。音楽にも造詣が深く、国防相時代に連邦軍の軍楽隊「Big Band」を創設させた。自身もオルガンピアノを弾くのが趣味で、演奏家としてピアニストのクリストフ・エッシェンバッハゲルハルト・オピッツらと共演してヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトヨハン・ゼバスティアン・バッハの曲をレコード録音したほどである。ただし近年[いつ?]は加齢により右耳はほとんど聞こえず、左耳にも補聴器をつけており、「音楽が聴けないのは食べられないよりつらい」と語っている。

表彰[編集]

ハンブルクにある連邦国防大学は、2003年にヘルムート・シュミット大学ハンブルクと改称されている。オックスフォード大学ケンブリッジ大学ソルボンヌ大学ハーバード大学ジョンズ・ホプキンス大学慶應義塾大学など多数の大学から名誉博士号を授与されている。2007年にはフィリップ大学マールブルクが名誉哲学博士号を授与したが、SPD右派で現実主義者の彼への授賞に、マルクス主義の影響が強い同大学の政治学教授の中から強い反対の声が上がった。

さまざまな分野の賞を多数受賞しているが、ドイツ連邦共和国功労勲章のみ、ハンザ同盟都市ハンブルクの市民のしきたりに従って度重なる授章の打診を毎回断っている。

ハンブルク州内相時代の功績であるハンブルク大洪水の時の様子は最近[いつ?]何度かドラマ化され、俳優のウルリッヒ・トゥクルなどがシュミットを演じている。

脚注[編集]

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外部リンク[編集]


公職
先代:
ヴィリー・ブラント
西ドイツの旗 ドイツ連邦共和国首相
1974年 - 1982年
次代:
ヘルムート・コール
先代:
ハンス=ディートリッヒ・ゲンシャー
西ドイツの旗 ドイツ連邦共和国外務相
1982年
次代:
ハンス=ディートリッヒ・ゲンシャー
先代:
カール・シラー
西ドイツの旗 ドイツ連邦共和国財務相
1972年 - 1974年
次代:
ハンス・アーペル
先代:
カール・シラー
西ドイツの旗 ドイツ連邦共和国経済相
1972年
次代:
ハンス・フリードリッヒス
先代:
ゲアハルト・シュレーダー
西ドイツの旗 ドイツ連邦共和国国防相
1969年 - 1972年
次代:
ゲオルク・レーバー
外交職
先代:
ジェームズ・キャラハン
イギリス
先進国首脳会議議長
1978年
次代:
大平正芳
日本