大平正芳

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日本の旗 日本の政治家
大平 正芳
おおひら まさよし
Masayoshi Ohira at Andrews AFB 1 Jan 1980 walking cropped 2.jpg
1980年4月30日
生年月日 1910年3月12日
出生地 日本の旗 日本 香川県三豊郡和田村
没年月日 1980年6月12日(満70歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都港区
出身校 東京商科大学(現・一橋大学
前職 大蔵省官僚・大臣秘書官
所属政党 自由党→)
自由民主党
称号 正二位
大勲位菊花大綬章
衆議院永年在職議員
商学士
親族 兄:大平数光(豊浜町長)
女婿:森田一(衆議院議員)
サイン OhiraM kao.png

日本の旗 第68-69代 内閣総理大臣
内閣 第1次大平内閣
第2次大平内閣
任期 1978年12月7日 - 1980年6月12日
天皇 昭和天皇

日本の旗 第79-80代 大蔵大臣
内閣 第2次田中角栄第1次改造内閣
第2次田中角栄第2次改造内閣
三木内閣
三木改造内閣
任期 1974年7月16日 - 1976年12月24日

日本の旗 第100-101代 外務大臣
内閣 第1次田中角栄内閣
第2次田中角栄内閣
第2次田中角栄第1次改造内閣
任期 1972年7月7日 - 1974年7月16日

内閣 第2次佐藤第2次改造内閣
任期 1968年11月30日 - 1970年1月14日

選挙区 香川県第2区
当選回数 11回
任期 1952年10月2日 - 1980年6月12日

その他の職歴
日本の旗 第92-93代 外務大臣
(1962年7月18日 - 1964年7月18日)
日本の旗 第21-22代 内閣官房長官
(1960年7月19日 - 1962年7月18日)
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大平 正芳(おおひら まさよし、1910年明治43年)3月12日 - 1980年昭和55年)6月12日)は、日本大蔵官僚政治家位階正二位勲等大勲位

衆議院議員(11期)、内閣官房長官(第2122代)、外務大臣(第9293100101代)、通商産業大臣第31代)、大蔵大臣(第7980代)、内閣総理大臣(第6869代)などを歴任した。

来歴・人物[編集]

生い立ち[編集]

香川県三豊郡和田村(現観音寺市)の農家・大平利吉と妻・サクの三男として生まれる。兄2人、姉3人、弟妹がそれぞれ1人ずつの8人兄弟だったが、正芳が生まれた時長女は満1歳で、兄の1人も2歳半で既に亡くなっていた[1]。父利吉は学歴こそ無かったものの村会議員や水利組合の総代を務めていた。また利吉は書をたしなみ,和漢の古典にもよく通じた読書家で、正芳の読書好きや漢籍への造詣も父の影響を強く受けている。大平は「讃岐の貧農の倅」と称したが生家は中流に属していた。それでも子供6人を抱えた大平家の生活は苦しいもので、正芳も幼い頃から内職を手伝ってして家計を支えていた[2]

学生時代[編集]

和田村立大正尋常高等小学校(現観音寺市立豊浜小学校)、旧制三豊中学校(現香川県立観音寺第一高等学校)に進んだ。当時、中学校に進学する者は学級で2〜3人程度で、次男・三男には分けてやるものはないからせめて学業くらいは修めさせてやろうという利吉の気遣いからだった。兄の大平数光は高等小学校を卒業して家業を継ぎ、後に豊浜町長となって大平の地元での選挙活動を支援した。中学時代の大平は温厚で目立たない少年で、級友たちは後に政治家になった大平に当惑したという[3]

1926年(大正15年)、三豊中4年の時大平は腸チフスに罹り4か月間生死の境をさまよった。家計に負担をかけないため海軍兵学校を受験したが、受験前に急性中耳炎を患い身体検査で不合格となった。1927年(昭和2年)夏、父利吉が急死する。翌1928年(昭和3年)4月、経済的に恵まれなかったものの親戚からの援助や奨学金を得て高松高等商業学校(現香川大学経済学部)に進学[4]

高商に入学した春、元東北帝国大学教授で宗教家の佐藤定吉が講演に訪れた際キリスト教に出会った。自身の病や父の死を立て続けに経験した大平はキリスト教に傾倒し、1929年暮れに観音寺教会で洗礼を受けた[5]

卒業後の進路について大平は大学への進学を希望したものの経済的に厳しく断念せざるを得なかった。母は四国水力(現四国電力)への就職を望んでいたようだが昭和恐慌の煽りを受け採用自体が無かったため進学も就職も決まらない状態にあったところ、桃谷勘三郎食客となり桃谷順天館で化粧品業に携わった。大平は信仰の師である佐藤の発明した薬品を商品化するとのことで桃谷の誘いを受け大阪に出てきたものの、一向に商品化される様子はなく、自身の生き方について葛藤する日々を過ごした[6]

1933年(昭和8年)、再び学業に戻ることを決意した大平は綾歌郡坂出町(現坂出市)の鎌田共済会と香川県育英会の2つの奨学金を得て東京商科大学(現一橋大学)に進学した[7]。大平23歳の時のことである。文京区千駄木に居を構え、在学中大平は経済哲学の杉村広蔵助教授、法律思想史の牧野英一教授らの講義を手当たり次第に履修した[8]。なかでも経済思想史に強い関心をもった大平は2年に進級すると上田辰之助ゼミナールに参加した。恩師上田について大平は「経済学者というよりも、むしろ社会学者であり、社会学者である前に実のところ言語学者であられた」と評している[9]。卒業論文は「職分社会と同業組合」[10]。また、大平は「わたしの思想というものが仮にあるとすれば(杉村先生の思想が)それをつくるものの考え方の素材となっている」と述べ[11]、杉村の著書『経済倫理の構造』(岩波書店、1938年)は死の直前まで大平の傍らに置かれていた[12]。大学在学中も引き続きキリスト教の活動にも精力的に参加し、YMCA活動に従事した[13]

大蔵省時代[編集]

1935年(昭和10年)、高等試験行政科試験合格。特に官吏志望だったわけではなく、学校時代から別子銅山の煙を見て育ち、また川田順を愛読していた大平は住友系の企業への憧れを持っていた。ところが当時大蔵次官だった同郷の津島壽一に挨拶に行った折、「ここで採用してやる」という型破りな方法で大蔵省への採用が決まった[14]。1936年入省、預金部に配属。以後、税務畑を中心に以下の役職を歴任した。

  • 1937年(昭和12年) - 横浜税務署長[15]。当時東京税務監督局直税部長だったのが池田勇人で、以後しばしば部下として会う。
  • 1938年(昭和13年) - 仙台税務監督局間税部長。どぶろく退治に尽力。
  • 1939年(昭和14年) - 興亜院にて大陸経営にかかわり、1939~40年に張家口蒙疆連絡部で勤務した他[16]、帰国後も頻繁に大陸に出張[17]
  • 1942年(昭和17年) - 本省主計局主査(文部省・南洋庁担当)。大日本育英会(後の日本育英会、現独立行政法人日本学生支援機構)の設立に尽力した[18]
  • 1943年(昭和18年) - 東京財務局関税部長。なお、この時の仕事として幾分誇らしげに挙げていたのが国民酒場の創設である。戦時下の耐乏生活による国民の疲れを癒すことが目的だった[19]
  • 1945年(昭和20年) - 津島壽一大蔵大臣の秘書官[20]
  • 1946年(昭和21年) - 初代給与局第三課長[21]
  • 1948年(昭和23年) - 経済安定本部建設局公共事業課長[22]
  • 1949年(昭和24年) - 池田勇人蔵相秘書官。以後1952年まで務める[23]。秘書官時代、大平は安岡正篤に歴史上一番偉い秘書官は誰かと質問したところ、安岡は織田信長の草履取りで信長の欠点を知り尽くした豊臣秀吉だと答えた。大平は「貧乏人は麦を食え」に代表される欠点だらけの池田に仕えることで政治家になるための経験を積んだという[24]
  • 1950年(昭和25年) - 国税庁関税部消費税課長兼任

政治家としての活動[編集]

池田側近として[編集]

1952年(昭和27年)、大蔵省時代の上司だった池田勇人の誘いを受け、大蔵省を退官し自由党公認で衆議院議員に立候補し当選[25]。以後、連続当選11回。

宮澤喜一黒金泰美らと池田勇人側近の秘書官グループと呼ばれる[26]1960年(昭和35年)に第1次池田内閣内閣官房長官に就任[27]。「低姿勢」をアピールする同内閣の名官房長官と評された[28]第2次池田内閣第2次池田内閣第1次改造内閣でも官房長官を務め、続く第2次池田内閣第2次改造内閣外務大臣[29]に就任した。外相時代は韓国との国交正常化交渉を巡って、金鍾泌中央情報部長との間で最大の懸案だった請求権問題で合意(いわゆる「金・大平メモ」62年11月12日)、日韓交渉で最も大きな役割を果たした政治家である[30]。中国大陸との関係に関しては、経済的、地政学的、また極東の政治的現実の観点から、「長崎国旗事件」によって途絶えた日中関係を現実的な重大な課題として受け止め、前向きな姿勢で対中関係の改善に取り込んだ。アメリカが主導する「中国封じ込め」政策に苦しみつつも、日中経済貿易関係の拡大を執拗に追求した。LT貿易の成立、貿易連絡事務所の相互設置と新聞記者交換の実現等、日中関係はこれまでに見られないほど進展した[31]

原子力・核問題への対応[編集]

また、主として外相時代に日米核持ち込み問題において、当事者としてアメリカとの核密約の取り交わしに関わる。外相時代にはキューバ危機の煽りで在日米軍・自衛隊が臨戦態勢を取っており、核・原子力関連の問題が多かった。1963年(昭和38年)1月にはエドウィン・ライシャワー駐日大使を通じて原子力潜水艦の寄港申し出でがあり、世間でも議論の的となった。この件については1年8か月かけて日米で技術的な照会や、原子力委員会での審議を重ねた後閣議で承認されたが、大平の秘書官を務めた森田一によれば、実際には1963年(昭和38年)4月にライシャワーから密約の存在を伝えられ苦悩していたと言う[32]

なお、核密約の方は大平もまた、公にその存在を公表することは無かったのだが、自民党の機関誌『政策月報』にて核・原子力関係の問題について語っている。その中で社会党が取っていた原子力技術全般への反対姿勢を核アレルギーを感情的に煽っている旨批判している他、原子力に対しての認識として次のように述べている。

大平 (注:寄港申し出が)非常にショッキングなできごとのように取り上げられたので、わたし自身も多少驚いたのでございます。しかし、民主主義の政治においては、われわれ政治をやる者がこう思うからというだけではいけないので、やはり国民全体が理解し、それに協力するという雰囲気ができ、それで政策が実行に移されることが望ましいし、またそうすべきでございます。(中略)その論議は事実を踏まえた上で公正に行われるべきだと思います。
大平 核兵器とか言いますと、一般の受ける印象は非常に悪魔のようにつよい。(中略)核兵器と言う、みんなが悪魔みたいにみているものの持っている戦争抑止力というものに依存しておるということだから、これを一がいに平和の敵であるというような考え方は、非常に危険な考え方になるのではないだろうか。
大平 日本は一番、パブリックリレーション(広報・相互理解)の面で弱いですね。
大平 今日、原子力潜水艦の安全性というようなことから、今度は議論の焦点が最近はサブロックに移ってきたようだけれども[33](中略)事態が進みまして、こういったものの寄港問題が新しく出てくれば、それは事前協議の新しい問題として出てくるわけでございまして、いまの問題に関する限りは全然関係のない論議じゃないか。こういう論議に反対論の論調が集中してきたということは、逆に見れば本体のほうにあまり問題がなくなっているのではないかという感じがするのですね[34]

大平正芳 西脇安[35]「原子力潜水艦寄港問題を語る 対談」『政策月報』1964年9月

なお寄港承認直後にもサブロック問題に絡んで当時取り交わし済みだった核密約の再確認を行ったことが、21世紀に入ってから報じられている。小泉純也防衛庁長官ら新任閣僚が、同ミサイルの配備を事前協議の対象となると指摘したため、米側が危機感を募らせていたからだった[36]

宏池会会長[編集]

次の佐藤政権では政調会長を務めた後[37]第2次佐藤内閣の2度目の改造内閣通商産業大臣[38]第1次第2次田中内閣で再び外務大臣[39]、第2次田中改造内閣・三木内閣大蔵大臣を務め[40]、内政外政にかかわる要職を歴任した。

佐藤内閣では通産相として日米繊維交渉の解決を託され、大平自身も意欲的に取り組んだというが、交渉の進展が芳しくないと感じた佐藤は大平を事実上更迭し、ライバルの宮澤喜一を後任に据えた(結局宮澤も繊維交渉は解決できず、田中角栄通産相の裁量によって妥結を見る)。

1971年(昭和46年)、「大平クーデター」で前尾繁三郎にかわって宏池会会長に就任[41]、名実ともにポスト佐藤時代のリーダー候補として名乗りをあげた。以後1980年(昭和55年)の死去まで派閥の領袖の座にあった。

三角大福の争いとなった1972年(昭和47年)総裁選では3位につけ[42]、その後も田中角栄と盟友関係を続ける[43]。田中内閣で外務大臣だったときに中国を訪問、それまでの台湾との日華平和条約を廃し、新たに日中の国交正常化を実現させた。日中国交正常化における大平の役割について、倪志敏著「田中内閣における中日国交正常化と大平正芳(その1-その4)」が最も詳しい。 その後、1974年(昭和49年)12月の田中金脈問題で田中が総理を辞任すると、蔵相だった大平はポスト田中の最有力候補となり田中派の後押しを背景に総裁公選での決着を主張。しかし、椎名裁定により総理総裁は三木武夫に転がり込んだ[44]。その裁定には、田中から「うまく負けたな。五十一対四十九で君の負けだ」と述べられた。三木内閣では引き続き蔵相を務めるが[45]、この時に値上げ三法案(酒・たばこ・郵便値上げ法案)が廃案になったことによる歳入欠陥に対処するために10年ぶりの赤字国債発行に踏み切り、以後、日本財政の赤字体質が強まったことが後年の消費税導入による財政健全化への強い思いへとつながっていく[46]

1976年(昭和51年)の三木おろしでは再び総裁を狙うが、最終的に福田赳夫と「2年で大平へ政権を禅譲する」としたいわゆる「大福密約」の元で大福連合を樹立[47]。福田内閣樹立に協力し、幹事長ポストを得て、福田首相・大平幹事長体制が確立した[48][49]保革伯仲国会では大平幹事長は「部分連合(パーシャルれんごう)」を唱えて野党に協調的対応を求め、国会運営を円滑化に努める[50]

総理大臣就任[編集]

1978年(昭和53年)の自民党総裁選挙に福田は「大福密約」を反故にして再選出馬を表明、大平は福田に挑戦する形で総裁選に出馬する[51]。 事前の世論調査では福田が有利だったが[52]、田中派の全面支援の下、総裁予備選挙で福田を上回る票[53]を獲得[54]。この直後の記者会見で、「一瞬が意味のある時もあるが、十年が何の意味も持たないことがある。歴史とは誠に奇妙なものだ」と発言し[55]、「大福密約」の無意味さについて触れている。この結果を受けて福田は本選を辞退、大平総裁が誕生し[56]、1978年12月7日に第68代内閣総理大臣に就任した[55]

総理在任中の政策[編集]

大平は直属の民間人有識者による長期政策に関する研究会を9つ設置し、内政については田園都市構想、外交においては環太平洋連帯構想総合安全保障構想などを提唱した[57]。大平政権期の世界は、1978年(昭和53年)に発生したイラン革命第二次石油危機の余波、1979年(昭和54年)のソ連のアフガニスタン侵攻などといった事件によって、「新冷戦時代」と呼ばれる環境にあった。このような情勢への対応として、大平は日米の安全保障関係を日本側から公の場では初めて「同盟国」という言葉で表現し[58][59]、米国の要望する防衛予算増額を閣議決定した。また「西側陣営の一員」として1980年(昭和55年)のモスクワオリンピック出場ボイコットを決定、福田前政権の「全方位外交」から転換し、後の中曽根康弘政権へと継承される対米協力路線を鮮明にした政権だった[60][61]

また、環太平洋構想によってアジア太平洋地域の経済的な地域協力を模索したり、総合安保構想によって地域経済やエネルギー供給などを含む包括的かつ地球規模での秩序の安定化を図る安全保障戦略を模索したりし[62]、「国際社会の一員」としての日本の役割を意識した政策を打ち出した。また、歴史的、地政学の観点から、中国を重視する姿勢を打ち出し、中国の近代化に積極的協力する国策を打ち出した。同年12月に中国を訪問し、政府借款の供与、「日中文化交流協定」に調印等、後の1980年代における日中緊密化の道へと導いた[63]

四十日抗争と衆参同日選挙[編集]

政権基盤が強固ではなく田中角栄の影響が強かったことから、大平内閣は「角影内閣」と呼ばれた。大平を支える田中派など自民党主流派と福田を支持する三木派らの反主流派との軋轢は大平の総理就任後も続いた。1979年衆院選では大平の増税発言も響いて自民党が過半数を割り込む結果を招くと[64]、大平の選挙責任を問う反主流派は大平退陣を要求するが、大平は「辞めろということは死ねということか」として拒否。ここに四十日抗争と呼ばれる党内抗争が発生し[65]、自民党は分裂状態になった。大平は、両派の妥協案として浮上した「総総分離」案[66]も拒否し、強気の姿勢をとり続ける。

選挙後国会首班指名選挙では反主流派が福田に投票した結果、過半数を得る者がなく、決選投票では、大平派田中派・中曽根派渡辺系・新自由クラブの推す大平と、福田派三木派中曽根派・中川グループが推す福田の一騎打ちとなった結果、138票対121票[67]で大平が福田を下して[68][69]、第2次大平内閣が発足した[70]

これによって自民党内にはかつてない「怨念」が残り、事実上の分裂状態が続いた結果、第2次大平内閣は事実上の少数与党内閣の様相を呈した。翌年の1980年(昭和55年)5月16日に社会党内閣不信任決議案を提出すると、反主流派はその採決に公然と欠席してこれを可決に追い込んだ。不信任決議案の提出は野党のパフォーマンスの意味合いが強かったため、可決には当の野党も驚き、民社党春日一幸委員長は不信任決議案が可決された後、「切れないノコギリを自分の腹に当てやがって」と野党の未熟ぶりを嘆いたという。大平は不信任決議案の可決を受けて衆議院を解散(ハプニング解散)、総選挙を参議院選挙の日に合せて行うという秘策・衆参同日選挙で政局を乗り切ろうとした[71]。こうして第36回衆院選第12回参院選が公示され、投票日は6月22日と決まった。

急死[編集]

総選挙が公示された5月30日、大平は第一声を挙げた新宿での街頭演説の直後から気分が悪くなり、翌日過労不整脈により虎の門病院に緊急入院した。大平は年明け以降、休日が3月22日と翌23日の私邸での休養だけで、国内政局からくる心労に加え、多くの外遊をこなす激務に、70歳という高齢と、心臓の不安が重なり、肉体は限界に来ていた[72]。以前にもニトログリセリンを服用することがあったが、公表はされていなかった。

大平入院により、反主流派の中川一郎は健康問題をかかえた大平では6月22日から予定されているヴェネツィアサミット出席が難しいことを理由に進退を決すべきと発言し、河本敏夫は大平の全快を祈ると前置きしつつも国際信義上サミットの出席は早めに決すべきと記者会見で語って暗に大平退陣を要求、反主流派の一部から大平退陣の声があがりはじめた[73]

また6月9日には大平派の鈴木善幸が大平の後は話合いによる暫定政権が好ましいと記者団に語り、大平派からも大平退陣について発言する動きがあがった。この鈴木発言を新聞でみた大平は「浅薄な腹黒者、不謹慎極まりない」と怒りをあらわにしたという。大平本人は近日中に退院してサミットに出席するつもりで、興亜院時代からの盟友で官房長官をつとめていた伊東正義ほかにもそれを明言している。

一時は記者団の代表3人と数分間の会見を行えるほどに回復したものの、6月12日午前5時過ぎ容態が急変。志げ子夫人以下家族たち、伊東正義、田中六助自民党副幹事長に看取られながら、5時54分死去した[74]。70歳3か月、突然の死だった。死因は心筋梗塞による心不全と発表された。

死去前夜、7時半頃桜内義雄幹事長が選挙情勢について報告に訪れ、その後伊東官房長官とも30分程話し、そして午後9時ごろ娘婿で秘書官の森田一がヴェネツィアサミットの準備に当らせるため佐藤秘書官をヴェネツィアに派遣することを報告した際に返した「そうか、わかった」が最後の言葉となった。

この突然の大平の死により、官邸の方は伊東正義官房長官が総理臨時代理として内政を監督し、党の方は西村英一副総裁が総裁代行として選挙戦の采配にあたり、サミットの方は大来佐武郎外務大臣が大平の代理として首脳会議に出席する[75]という、異例の総理総裁権限の分散によりこの危機を乗り切ることになった。

48年ぶりの現職総理の死去[76]という想定外の事態は状況を一変させた。自民党の主流派と反主流派は弔い選挙となって挙党態勢に向かった。有権者の多くも自民党候補に票を投じた。「香典票」と呼ばれた同情票が選挙結果に大きな影響を与えたことは否めなかった[77]。結局自民党は衆参両院で安定多数を大きく上回る議席を得て大勝した[78]。大平の選挙区だった香川2区へは娘婿の森田一が補充立候補で急遽出馬し当選を果たした。

墓所は、東京の多磨霊園と郷里豊浜の豊浜町墓地公園にある。豊浜の墓碑銘には正面に「大平正芳之墓」、左面に盟友の筆による「君は永遠の今に生き 現職総理として死す 理想を求めて倦まず 斃れて後已ざりき 伊東正義 謹書」、右面に戒名「興國院殿寛道浄基正芳大居士位」が刻まれている。「永遠の今」は大平が生前よく揮毫した一句である。

評価[編集]

大蔵省の出身で、蔵相時代の赤字国債発行や財政再建への強いこだわりがあり、財政家としての側面は広く知られている。大平自身は三木内閣の蔵相時代に赤字国債の大量発行に踏み切った責任を強く感じ、「子孫に赤字国債のツケを回すようなことがあってはならない」との思いから、内閣総理大臣に就任した際に税制改革を断行しようと考えて一般消費税導入を提唱した。しかし自由民主党内からの反発や野党・世論の反対を受け、また1979年衆院選での自由民主党大敗もあって挫折に追い込まれた[79]

大平自身の取り組みで後世への遺産となったものには、むしろ外交など対外関係にまつわるものが多く、戦後日本を代表する外政家といえる。

外務大臣としては、池田内閣時代における日韓交渉、田中内閣における日中国交正常化交渉で、いずれも重要な役割を果たした。総理大臣時代に提案した「環太平洋連帯構想」は今日のAPECを始めとするアジア太平洋における様々な地域協力へと受け継がれている。また、特筆すべきものとして、鄧小平との交流とその影響がある。2人は1978年以降の短期間に合計4度も会談しているが、この中で大平は、占領期の傾斜生産方式や自身が深く携わった「所得倍増計画」を始めとした戦後日本の経済発展について詳細に説明、それがGNP「四倍増計画」その他、鄧小平による改革開放の着想と策定に大きな影響を与えたという[80][81][82][83][84]。なお、専任の外務大臣としての在職日数は戦後最長である[85]

1980年4月30日、アンドルーズ空軍基地にて妻の大平志げ子(後方)と

演説や答弁の際に「あー」、「うー」と前置きをすることからアーウー宰相の異名を取った。また、その風貌から讃岐の鈍牛とも呼ばれた。このため鈍重な印象が強かったが、実際は頭の回転が早く、ユーモアのセンスもあった。発言も論理的で、早口であり、「あーうー」を除けば全く乱れがなかった。自身は「戦後で一番長い間外務大臣をやらせていただきましたが、外務大臣の答弁は下手に言えないので、あーといいながら考えて、うーと言いながら文章は考えてその癖がついてしまったが、悔いはございません (笑)」と発言している。この「あーうー」は当時流行語にもなり、物まねする子供も多かった。

このような朴訥で謙虚な人柄だったが、「戦後政界指折りの知性派」[86]との評が一般的で、学問や人間の知的活動への畏敬の念を、政治の場にあっても終生失わなかったという[87]。財政問題への取り組みや、「総合安全保障」の提唱、1960年代の外相時代から、自衛隊も含めた積極的な国際貢献を唱えたことなど、その政治思想や経済観の先見性は今日顧みられることが少なくない。

2008年頃から評伝、回想録や研究所、大平自身の著作集などが相次いで刊行されている(2010年5月1日朝日新聞、5月2日読売新聞)。

エピソード[編集]

  • 読書家として知られ、郷里の記念館には1万数千に及ぶ蔵書が収められている。また、文章を能くし、『財政つれづれ草』、『春風秋雨』、『旦暮芥考』、『風塵雑租』などといった政治経済論と随想を合わせた本を折に触れて出版した。なお、大平の著作のすべてと、研究者・政界関係者による大平についての論稿『大平正芳 人と思想』、『大平正芳 政治的遺産』、『在素知贅 大平正芳発言集』、『去華就實  聞き書き大平正芳』などが大平正芳記念財団でまとめられたが、下記外部リンクの大平財団ホームページにてPDFファイルの形で読むことができる。
  • 池田、前尾、宮澤と酒豪の多い宏池会にあって、大平だけはまったく酒が飲めなかった。猪口1杯で気分を悪くしてしまうほどで、酒の席ではキリンレモンと饅頭をつまむのが恒例だったという。
  • 盟友田中角栄は「オヤジ」と呼ばれたが大平は「おとうちゃん」と呼ばれていた。
  • 敬虔なクリスチャン聖公会)で、しばしば聖書を好んで引用した。葬儀も立教学院諸聖徒礼拝堂で行われている。
  • 1979年(昭和54年)の四十日抗争で大平続投か福田返り咲きかで自民党分裂直前までいった党内抗争が起こったが、四十日抗争中に首相官邸での食事中に側近だった内閣官房副長官の加藤紘一には「福田は俺にやめろと言った。しかし、後を誰にやらせるか考えると、俺にはやめる自由がない。しかし、万が一俺が今ここで死んだら、誰を日本の総理にすべきか」と話しかけ、少し沈黙が続いた後、大平が口を開き「いいか、(もし俺が死んだら)日本のために総理をさせなきゃならぬのは福田赳夫だ」と続けた[88]。1978年自民党総裁選や1979年の四十日抗争などで感情も混じって福田赳夫と対立していたが、自分にとってかわる首相にふさわしい政治家としては福田赳夫を認めていたエピソードである。

発言[編集]

  • 「東京の人間は郵便番号も書かない馬鹿だ」や「東京に三代住むと白痴になる」などと発言し物議を醸した。
  • 訪米の折、当時日米間の懸案となっていた捕鯨問題に関して記者から質問された際、「鯨は大きすぎて、私の手には負えません」と答えて記者たちを大笑いさせ、その質問は立ち消えとなり、また国会での野党の質問に答える際、「私はあーうーですから」といってその場を和ませてから答弁をすることもあり、ユーモアを交えながら場の雰囲気を掴んで和らげる手腕に長けていた。
  • 長女(森田一代議士夫人)に対して口癖のように「女子(おなご)は勉強せんでいい。可愛い女になれ。そして早くお嫁に行きなさい」と語っていたといい、こうした言動が『婦人公論』誌で長女により明かされたところ、国会で市川房枝により女性蔑視として厳しく追及された[89]。議題には直接関係のない話題での追及に、大平は顔をくしゃくしゃにしながら苦笑しつつユーモアたっぷりに答弁し、議場は大爆笑に包まれた。
  • 靖国神社にはA級戦犯が合祀される前に参拝したことがある。靖国神社参拝に関して野党から国会で質問されると「大東亜戦争に関する審判は、歴史が下すであろうと考えています」と答弁した。
  • 「政治とは?」との問いに対して「明日枯れる花にも水をやることだ」と答えたという。

栄典[編集]

家族・親族[編集]

大平は自身の後継者として長男正樹を考えていた[91]慶應義塾大学卒業後3年ばかり神崎製紙に勤めた[91]。これは大平が敬愛していた郷土の先輩の加藤藤太郎相談役を務めていた関係からである[91]。正樹はその後ヨーロッパ遊学で見聞を拡げている最中にベーチェット病という難病にかかり、昭和39年(1964年)に26歳の若さで他界した[91]。大平は長男について『私の履歴書』で「私にとっては全部に近い存在であった」と語っている。
  • 二男・(大平正芳記念財団常務理事、社団法人日中協会理事)
  • 三男・大正富山医薬品(株)代表取締役社長)
  • 長女・芳子大蔵官僚・政治家森田一の妻)
  • 孫・大平知範(大平正芳記念財団評議員)

大平を師と仰ぐ政治家[編集]

  • 加藤紘一(政界入り前に大平派に入り、後に大平内閣で官房副長官)
  • 衛藤征士郎(政界入り当時、大平に師事)
  • 白川勝彦(政界入り前に大平派に入り、大平と師弟関係を結ぶ)

脚注[編集]

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  1. ^ 福永文夫『大平正芳』(中央公論新社、2001年)15頁。
  2. ^ 『大平正芳』 16-17頁。
  3. ^ 『大平正芳』 19-20頁。
  4. ^ 『大平正芳』 24頁。
  5. ^ 『大平正芳』 25-26頁。
  6. ^ 『大平正芳』 27-28頁。
  7. ^ 『大平正芳』 27頁。
  8. ^ 『大平正芳』 28頁。
  9. ^ 『大平正芳』 29頁。
  10. ^ 『大平正芳』 30頁。
  11. ^ 『大平正芳』 29頁、『在素知贅・大平正芳発言集』(大平正芳記念財団,1996年)
  12. ^ 『大平正芳』 29頁。
  13. ^ 『大平正芳』 28頁。
  14. ^ 『大平正芳』 32頁。
  15. ^ 『大平正芳』 34頁。
  16. ^ 倪志敏「大平正芳と阿片問題」101–103頁。
  17. ^ 『大平正芳』 38-42頁。
  18. ^ 『大平正芳』 43-44頁。
  19. ^ 『大平正芳』 43-45頁。
  20. ^ 『大平正芳』 45頁。
  21. ^ 『大平正芳』 54頁。
  22. ^ 『大平正芳』 55頁。
  23. ^ 『大平正芳』 56頁。
  24. ^ 『大平正芳』 59-60頁。
  25. ^ 『大平正芳』 62-65頁。
  26. ^ 『大平正芳』 79頁。
  27. ^ 『大平正芳』 89頁。
  28. ^ 『大平正芳』 93頁。
  29. ^ 『大平正芳』 100頁。
  30. ^ 倪志敏「大平正芳と日韓交渉一『大平・金メモ』の議論を中心に一」 159頁。
  31. ^ 倪志敏「池田内閣における中日関係と大平正芳(その3)」59-60頁。
  32. ^ 核密約認める回顧録出版へ 大平首相元秘書官の森田氏 『共同通信』2009年12月18日 16時56分配信
  33. ^ サブロックは潜水艦用の核弾頭付ミサイルである。対談でも触れられているが、当時サブロックはまだ開発中であった。
  34. ^ なお、サブロックに関する発言での小見出しは「核兵器と潜水艦とは別の問題」である。
  35. ^ 当時東京工業大学理学博士 専門は放射線防御工学
  36. ^ 64年に大平氏と核密約を再確認 米、外相交代で危機感共同通信』2009年11月01日 16時05分配信
  37. ^ 『大平正芳』 134頁。
  38. ^ 『大平正芳』 138頁。
  39. ^ 『大平正芳』 166頁。
  40. ^ 『大平正芳』 186・192頁。
  41. ^ 『大平正芳』 148-153頁。
  42. ^ 『大平正芳』 163-165頁。
  43. ^ 『大平正芳』 186頁。
  44. ^ 『大平正芳』 188-191頁。
  45. ^ 『大平正芳』 192頁。
  46. ^ 『大平正芳』 214-215頁。
  47. ^ 『大平正芳』 207-210頁。
  48. ^ 『大平正芳』 211頁。
  49. ^ ただし、福田は著書『私の履歴書』で「大福密約」は存在しなかったとしている。
  50. ^ 『大平正芳』 216-217頁。
  51. ^ 『大平正芳』 221-223頁。
  52. ^ 『大平正芳』 226頁。
  53. ^ 福田47万2499票に対し大平55万0889票。
  54. ^ 『大平正芳』 226-227頁。
  55. ^ a b 『大平正芳』 229頁。
  56. ^ 『大平正芳』 227頁。
  57. ^ 倪志敏「大平正芳内閣と中日関係ー中日緊密化へのプロセス(その2)」58-62頁
  58. ^ 『大平正芳』 243頁。
  59. ^ ホワイト・ハウスにおける歓迎式の際の大平内閣総理大臣答辞
  60. ^ 『大平正芳』 258・261頁。
  61. ^ 五百旗頭真編『戦後日本外交史』。
  62. ^ 倪志敏「大平正芳内閣と中日関係(その二)-中日緊密化へのプロセス-」 58-60頁。
  63. ^ 「大平正芳内閣と中日関係(その三)-中日緊密化へのプロセス-」35-38頁。
  64. ^ 『大平正芳』 247-249頁。
  65. ^ 『大平正芳』 251頁。
  66. ^ 内閣総理大臣と自民党総裁に別人が就くこと。ここでは大平総理、福田総裁の案が示された。それに対して大平は「福田総裁代行」案を提示したが、反主流派の容れるところとはならなかった。
  67. ^ 新自由クラブを除く野党は欠席した。
  68. ^ 『大平正芳』 254-255頁。
  69. ^ この138票というのが首班に指名された者が獲得した最も少ない票の記録となっている。
  70. ^ 『大平正芳』 256頁。
  71. ^ 『大平正芳』 263-264頁。
  72. ^ 『大平正芳』 265頁。
  73. ^ 『大平正芳』 266頁。
  74. ^ 『大平正芳』 266-267頁。
  75. ^ 外相会議と全体会議には急遽同行させた佐々木義武通商産業大臣を大来の代理として出席させた。
  76. ^ 1932年5月15日に五・一五事件犬養毅が官邸で青年将校に暗殺されて以来、また病死としては1926年1月22日に加藤高明が心臓麻痺で急死して以来。
  77. ^ 大平を伝記で好意的に評価している福永文夫などもこの観点で記述し、野党の一つ、社民連もその党史にて自民党が弔い合戦に努めたことを敗因に挙げている。’80参議院選挙~ダブル選挙 『社民連十年史』
  78. ^ 『大平正芳』 267-268頁。
  79. ^ 正々堂々と消費税導入を掲げて選挙に負けた男 JBpress 2010年7月5日付
  80. ^ 倪志敏「大平正芳内閣と中日関係(その3)-中日緊密化へのプロセス-」20-22頁。
  81. ^ こうして改革開放は始まった国務院発展研究センター 張雲方(人民中国2008年11月19日
  82. ^ 鄧小平氏と大平正芳氏の対話 「人民網日本語版」2004年8月20日
  83. ^ 中国経済について矢吹晋、於学士会1987年4月10日夕食会
  84. ^ 鄧小平と中日経済交流張雲方、中日経済情報週刊
  85. ^ 総理大臣との兼任を含めると吉田茂が1位。
  86. ^ 北岡伸一『自民党』中公文庫ほか
  87. ^ 飯田経夫「知的活動への畏敬の念」『大平正芳回想録 — 追想編』
  88. ^ 第173回国会衆議院予算委員会 2009年11月2日議事録
  89. ^ 第87回国会参議院本会議 1979年1月31日議事録
  90. ^ 神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』161頁
  91. ^ a b c d 神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』162頁

参考文献[編集]

著作集[編集]

  • 『大平正芳全著作集』 講談社 全7巻-生誕100周年を期に2010年3月~2012年6月刊。福永文夫監修

大平政権に関連する文献[編集]

大平個人・大平政権に集中した一部を掲載する。
  • 森田一、新井俊三 『文人宰相 大平正芳』(春秋社、1982年)
  • 森田一 『心の一灯 回想の大平正芳その人と外交』(服部龍二・昇亜美子・中島琢磨編、第一法規、2010年)
  • 田中六助 『大平正芳の人と政治』(朝日ソノラマ、1981年)
  • 田中六助 『再び大平正芳の人と政治』(朝日ソノラマ、1981年)
  • 栗原祐幸 『大平元総理と私』(廣済堂出版、1990年)
以上は、大平側近(大平派幹部)の政治家たちによる回想・人物評。
  • 国正武重 『権力の病室―大平総理最期の14日間』(文藝春秋、2007年) 
     大平政権時の官邸記者クラブ付朝日新聞記者による病床の大平についてのドキュメント。
  • 杉田望 『総理殉職―四十日抗争で急逝した大平正芳』(大和書房、2008年)-新取材による書下ろし
  • 伊藤昌哉 『自民党戦国史』(朝日ソノラマ(正続)、1982-83年/朝日文庫全3巻、1985年/ちくま文庫全2巻、2009年) 
     大平のブレーン(池田勇人の政務秘書)で、当時の政局の回想とドキュメント。
  • 辻井喬 『茜色の空』(文藝春秋、2010年/文春文庫、2013年)-交流のあった経済人作家による伝記小説。
  • 奥島貞雄 『自民党幹事長室の30年』(中央公論新社、2002年/中公文庫、2005年)
    「自民党幹事長室の30年(3) 寡黙な哲学者 大平正芳」-初出<『中央公論』2001年9月号> 
     自民党幹事長室長による回想記の一章。
    • 続編に『自民党抗争史』 (中央公論新社、2006年/中公文庫、2009年)
  • 川内一誠 『大平政権・554日 自らの生命を賭けて保守政治を守った』(行政問題研究所、1982年)
大平派の番記者による大平政権の公的な概説。
  • 服部龍二 『日中国交正常化―田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦』(中公新書、2011年)、日中国交正常化を巡る研究書。
  • 服部龍二 『大平正芳 理念と外交』(岩波現代全書、2014年)
  • 『大平正芳からいま学ぶこと』(桜美林大学北東アジア総合研究所、2010年)
大平とゆかりのある人物による追想録。
  • 渡辺昭夫編 『戦後日本の宰相たち』(中央公論社、1995年/中公文庫、2001年)、※以下は、研究論文論考
村松岐夫 「第14章 大平正芳―歳入歳出政治の問題提起者」 
  • 吉田雅信 『大平正芳の政治的人格』(東海大学出版会、1986年)
  • 内田健三「第一次大平内閣」「第二次大平内閣」林茂辻清明編『日本内閣史録6』(第一法規、1981年)
  • 金斗昇「大平正芳と日韓会談―請求権問題合意の論理を中心に」『法学政治学論究』44号(2000年3月)

倪志敏の論考(外部リンク参照)[編集]

演じた俳優[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

議会
先代:
臼井荘一
日本の旗 衆議院文教委員長
1959年 - 1960年
次代:
臼井荘一 (代理)
党職
先代:
福田赳夫
自由民主党総裁
第9代:1978年 - 1980年
次代:
鈴木善幸
先代:
内田常雄
自由民主党幹事長
第17代:1976年 - 1978年
次代:
斎藤邦吉
先代:
前尾繁三郎
宏池会会長
第3代 : 1971年 - 1980年
次代:
鈴木善幸
先代:
西村直己
自由民主党政務調査会長
第16代 : 1967年 - 1968年
次代:
根本龍太郎
公職
先代:
福田赳夫
日本の旗 内閣総理大臣
第68・69代:1978年 - 1980年
次代:
鈴木善幸
先代:
福田赳夫
日本の旗 大蔵大臣
第79・80代:1974年 - 1976年
次代:
坊秀男
先代:
福田赳夫
小坂善太郎
日本の旗 外務大臣
第99・100代:1972年 - 1974年
第92・93代:1962年 - 1964年
次代:
木村俊夫
椎名悦三郎
先代:
椎名悦三郎
日本の旗 通商産業大臣
第31代:1968年 - 1970年
次代:
宮澤喜一
先代:
椎名悦三郎
日本の旗 内閣官房長官
第21・22代:1960年 - 1962年
次代:
黒金泰美
外交職
先代:
ヘルムート・シュミット
西ドイツ
先進国首脳会議議長
1979年
次代:
フランチェスコ・コッシガ
イタリア


-
-
第代
-
-

伊藤博文
黑田清隆
山縣有朋
松方正義
大隈重信
桂太郎
西園寺公望
山本權兵衛

寺内正毅
原敬
高橋是清
加藤友三郎
清浦奎吾
加藤高明
若槻禮次郎
田中義一

濱口雄幸
犬養毅
齋藤實
岡田啓介
廣田弘毅
林銑十郎
近衞文麿
平沼騏一郎

阿部信行
米内光政
東條英機
小磯國昭
鈴木貫太郎
東久邇宮稔彦王
幣原喜重郎
吉田茂

片山哲
芦田均
鳩山一郎
石橋湛山
岸信介
池田勇人
佐藤榮作
田中角榮

三木武夫
福田赳夫
大平正芳
鈴木善幸
中曽根康弘
竹下登
宇野宗佑
海部俊樹

宮澤喜一
細川護熙
羽田孜
村山富市
橋本龍太郎
小渕恵三
森喜朗
小泉純一郎

安倍晋三
福田康夫
麻生太郎
鳩山由紀夫
菅直人
野田佳彦

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