ゲアハルト・シュレーダー

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ドイツの旗 ドイツの政治家
ゲアハルト・シュレーダー
Gerhard Fritz Kurt Schröder
Gerhardschroeder01.jpg
ゲアハルト・フリッツ・クルト・シュレーダー
生年月日 1944年4月7日(70歳)
出生地 ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
Flagge Fürstentum Lippe.svg リッペ自由州 モッセンベルク
出身校 ゲッティンゲン大学法学部
所属政党 ドイツ社会民主党
配偶者 ドリス・ケップフ

ドイツの旗 第7代首相
任期 1998年10月27日 - 2005年11月22日
大統領 ローマン・ヘルツォーク
ヨハネス・ラウ
ホルスト・ケーラー
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東ドイツホーネッカー国家評議会議長(右)と会談するニーダーザクセン州首相時代のシュレーダー、ラフォンテーヌ(左)(1987年)
シュレーダー(2002年の総選挙、ミュンヘンにて)
2005年5月9日、ロシアで行われた戦勝60周年記念式典にて。左から、日本小泉純一郎首相、フランスのジャック・シラク大統領、シュレーダー、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領、アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領
2005年の連邦議会選挙で演説するシュレーダー

ゲアハルト・フリッツ・クルト・シュレーダー[1]: Gerhard Fritz Kurt Schröder, 1944年4月7日 - )は、ドイツ連邦共和国政治家。第7代連邦首相1998年 - 2005年)。ドイツ社会民主党 (SPD) の党首(1999年 - 2004年)。

経歴[編集]

出自[編集]

第二次世界大戦中の1944年リッペ自由州英語版(現ノルトライン=ヴェストファーレン州の一部)のモッセンベルクドイツ語版に、労働者階級の一家に生まれる。的屋だった父フリッツは、ゲアハルトが生まれて数週間後にルーマニアでのソ連軍との戦闘で戦死した(32歳)。ゲアハルトには父親の記憶が無い。母と姉と三人家族で敗戦後の苦しい生活の中育つ。

1958年国民学校ドイツ語版の義務教育を終える。その後、レムゴードイツ語版の町の金物商で小売商人資格の取れる見習修業を受けると、1961年からゲッティンゲンで建設労働者および商店従業員として働いた。戦死者の一人息子として兵役義務から免除される。シュレーダーは、1962年から1964年にかけて、ジーゲンの夜間学校で中等教育修了資格ドイツ語版を取得し、1964年から1966年ビーレフェルトで大学入学資格(アビトゥーア)を取得した後、1966年ゲッティンゲン大学に入学する。法学を専攻した。大学生だった1968年、最初の結婚をする(しかし数年で離婚)。1971年、第一次司法試験に合格し大学を卒業。司法修習生となる。1972年に二度目の結婚をするが、再び数年で離婚する。1976年、国家司法試験に合格し弁護士免許を取得。弁護士としては、ドイツ赤軍テロリストの弁護を担当したこともある。

政治家[編集]

1963年ドイツ社会民主党 (SPD) に入党。1978年にSPDの下部組織・社会主義青年団 (Jusos) の連邦代表に就任し、1980年までその役職を務める。

1980年、ドイツ連邦議会議員に初当選。連邦議会議員時代の1984年に三度目の結婚(その後三度離婚する)。

1986年ニーダーザクセン州の州議会議員に転じ、1990年までSPDのニーダーザクセン州議会議員団長、および野党代表を務める。1990年に州議会選挙でSPDが勝利し、ニーダーザクセン州の州首相となる。同年、フォルクスワーゲン社の監査役に就任し、1998年までその職にあった。1993年、SPDの党首選挙に出馬するが、ルドルフ・シャーピング(後にシュレーダー政権の国防相)に敗北。1994年同盟90/緑の党と連立を組み、州首相に再任。1997年、各州政府の代表からなる連邦参議院の議長となる(任期一年)。この年、ジャーナリストだったドリス現夫人と四度目の結婚。夫妻には夫人の子が一人、2004年と2006年に迎えた養子が二人いるが、シュレーダーに実子はいない。

首相[編集]

1998年、「新しい中道」をキャッチフレーズに、SPDの連邦首相候補として連邦議会選挙に再出馬して当選。この選挙で社会民主党が議会第一党を獲得、同盟90/緑の党との連立で16年ぶりの政権交代を実現し、ドイツ連邦共和国第7代首相に就任。高級な背広に葉巻というおよそSPDという労働者政党らしからぬ装いで「ボス同志」[2]と揶揄される。

1999年、政策的に対立していた党内左派のオスカー・ラフォンテーヌ党首に代わって、SPD党首となる。この年前半のコソボ紛争でドイツは戦後初めて戦争に参加、激しい議論を呼んだ。また同年、環境税を導入した。

2000年2月、IT技術者確保のためにグリーンカード制度を導入。首相お膝元のハノーファー万国博覧会を開催するが、大失敗に終わる。

2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件を受け、「アメリカ合衆国との無制限の連帯」を表明。ドイツ連邦軍の「不朽の自由作戦」参加を決定。ドイツ軍はアフガニスタンでの国際治安支援部隊 (ISAF) の活動に、NATOの一員として現在も参加している。11月、年金改革法案可決。12月、将来の原子力発電所全廃を決定。

2002年6月のサミット終了後、サッカーワールドカップ決勝戦を観戦するために、日本政府専用機に搭乗し、日本を訪問[3]。8月にエルベ川が大洪水を起こし、現地に乗り込んで対策を指示。経済不振の続く旧東ドイツの開発重視は政策の一つでもあった。同月の連邦議会選挙でドイツの道を提唱し、アメリカによるイラクへの攻撃反対を訴えて辛勝。首相に再任。12月、中国の同済大学より、名誉博士号が授与される。この年、シュレーダー政権の改革政策を風刺した「税金ソング」が7週間にわたりシングルのヒットチャート1位となる。良くも悪くも、前例のない「メディアの宰相」だった。

2003年3月、経済のグローバル化や成長戦略を視野に入れた改革プロジェクト「アゲンダ2010」を発表。その内容が新自由主義的であるとしてSPDの伝統的な支持基盤である労働組合から批判される。この年3月に起きたイラク戦争にはフランスと共に国連決議抜きでの開戦に反対し、派兵しなかった。

2004年、高い失業率や保険制度改革(削減)が不評で政権への不満からデモが頻発。SPDの支持率が低下したことを受け、3月にSPD党首を辞任。後任は幹事長のフランツ・ミュンテフェーリング。5月にEU東欧までの25ヶ国に拡大し、EUの地理的・経済的中心国としてのドイツの役割が大きくなる。地方議会選挙の連敗で連邦参議院で与野党逆転を許し、野党が擁立したホルスト・ケーラー大統領の当選を許す。7月、移民受け入れに関する新法を可決。

2005年失業者が500万人を突破し、戦後最多に。地方議会選挙での連敗を受けて、7月に内閣信任案を与党に否決させ、連邦議会を解散[4]。これによって9月18日に総選挙の投票が実施される。SPDは圧倒的に不利という事前の予想を覆して善戦したが、野党キリスト教民主同盟 (CDU) 側に4議席及ばず議会第二党へ転落。長い協議の末首相の座を退き、CDU党首アンゲラ・メルケルに譲ることになった。11月29日には議員職も辞職し政界から離れる。首相退任直前の10月、トルコエルドアン首相と共に、キリスト教圏の首脳として初めてイスラム教の断食開けの祭に参加。イラク戦争への反対姿勢と共に、イスラム圏には好意的に受け取られた。トルコのEU加盟にも賛成していた。

首相退任後[編集]

2006年3月、ロシア国営天然ガス会社ガスプロムの子会社の役員に就任。在任中からロシアとの癒着が疑われ批判された。この年、自伝を出版。

2007年5月、中華人民共和国外務省顧問に任命。伝統的中国医学を世界に宣伝する役割を負う。成長著しい中国市場を重視し、首相在任中は毎年訪問してリニアモーターカーの売り込みなどをしていた。9月にダライ・ラマ14世を首相官邸に招いて会見したメルケル首相を「中国国民の感情を傷つけ、両国の友好を損ねた」と講演で批判している。

現在そのほかスイスにあるロスチャイルド投資銀行のヨーロッパ支部相談役、スイスのRingier出版相談役を務める。

語録[編集]

  • 「教師というのはぐうたらの間抜けだ」(1996年)
  • 「ビール持って来い (Hol' mir mal 'ne Flasche Bier)、でなきゃストライキしてもう書かないぞ」(2000年のサイン会での発言。この声を編集して曲を付けたCDが発売され、8週にわたってヒットチャート2位になる)
  • 「我々の社会には怠ける権利というものはない」(2001年)
  • 「それはそうともああとも出来る。私はそれに賛成だ」(2003年、雑誌とのインタビューで)
  • 「私のニューヨークはハノーファーだ」(2005年、この翌年、ハノーファー名誉市民になった)
  • 「シュレーダーとギルド・ホーン(ドイツの流行歌手)には共通点がある。歌詞の中身は空っぽだが、ショウが本当に上手い」(自由民主党 (FDP) のギド・ヴェスターヴェレ党首がシュレーダーを評して)
  • 「将来のSPD党大会はこうなるだろう。昼は泣き、夜は子供を増やすことに励む。そういう党戦略なら私は喜んで協力するよ」(2005年11月のSPD党大会で、涙ながらに首相退任を報告したのち、プラツェック新党首の少子化対策取り組みへの呼び掛けに応えて)

脚注[編集]

  1. ^ ゲアハルト・シュレーダー元ドイツ連邦共和国内務大臣(1953年 - 1969年キリスト教民主同盟)とは別人である。
  2. ^ 「同志」(: Genosse)は社会主義共産主義者が互いを呼ぶ時の尊称。
  3. ^ 横浜で行われたこの決勝戦にはヨハネス・ラウ大統領、オットー・シリー内相、果ては野党領袖でこの年の総選挙でシュレーダー首相と激突するエドムント・シュトイバーバイエルン州首相までが来日して皆で観戦し、あたかもドイツの首脳が丸ごと日本に来たかのような観を呈した。ラウ大統領以外は、全員ドイツ代表の決勝進出を受けて急遽来日を決めた(ラウ大統領は次回ワールドカップ開催国の元首として、ドイツ代表の結果に関係なく来日する予定になっていた)のだが、ドイツはブラジルに 0 - 2 で敗れ、準優勝に終わった。
  4. ^ ドイツではこの方法以外での連邦議会の解散はできない。詳しくはドイツの政治を参照すること。

外部リンク[編集]


公職
先代:
ヘルムート・コール
ドイツ連邦共和国首相
1998年 - 2005年
次代:
アンゲラ・メルケル
先代:
エルンスト・アルプレヒト
ニーダーザクセン州首相
1990年 - 1998年
次代:
ゲアハルト・グロコフスキー
党職
先代:
オスカー・ラフォンテーヌ
ドイツ社会民主党党首
1999年 - 2004年
次代:
フランツ・ミュンテフェーリング