イラク戦争
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| イラク戦争 | |
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![]() 左上から、サーマッラーをパトロールする米軍兵士、倒されるサダム・フセイン像、バグダッド南部で爆発するIED、小銃を構えるイラク軍兵士 |
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| 戦争:対テロ戦争の一環 | |
年月日:2003年3月20日 - 継続中
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| 場所:イラク | |
| 結果:(継続中) | |
| 交戦勢力 | |
| 旧イラク国軍 バアス党 スンニ派武装勢力 ・ドレイミ族、他 イラク・イスラム軍 クルド人系アンサール・アル・スンナ軍 シーア派マフディー軍 外国系 ・イラクの聖戦アルカーイダ組織 ・外国人イスラム聖戦士 |
アメリカ軍 イギリス軍 自衛隊(日本) オーストラリア国防軍 ポーランド軍 その他の多国籍軍 クルド人民兵(ペシュメルガ) イラク治安部隊(軍・警察) |
| 指揮官 | |
| サッダーム・フセイン イッザト・イブラーヒーム ムクタダー・サドル アブー=ムスアブ・アッ=ザルカーウィー |
ジョージ・W・ブッシュ トミー・フランクス トニー・ブレア ヌーリ・マリキ |
| 戦力 | |
| フセイン政権下 イラク軍約37万人 |
進攻時 連合軍26万3,000人 現在 |
| 損害 | |
| フセイン政権下 イラク軍[7] 死者4,900-6,375人 連合軍の占領後 |
連合軍 死者4,302人[9] ・アメリカ軍4,000人 ・イギリス軍170人 ・その他132人 民間契約要員[9] 死者1,012人 イラク治安部隊[10] 死者8,000-10,000人 |
イラク戦争(イラクせんそう)は、2003年3月19日よりアメリカ合衆国が主体となり、イギリス、オーストラリアに、工兵部隊を派遣したポーランドなどが加わり、イラクに進攻した戦争である。中国国務院が発表する「2007年アメリカ人権記録」によると、2003年以来イラク平民死亡数は66万人以上。ロサンゼルス・タイムスの統計によると、100万人も上回る。
目次 |
[編集] 開戦理由
米英が主張した開戦事由は以下の通り。
- イラクは大量破壊兵器の保有を過去公言し、かつ現在もその保有の可能性が世界の安保環境を脅かしている
- 独裁者サッダーム・フセインが国内でクルド人を弾圧するなど多くの圧政を行っている
- 度重なる国連査察の妨害により、大量破壊兵器の廃棄確認が困難である
- 度重なる査察妨害によって、湾岸戦争の停戦決議である国連安保理決議687が破られている
- 国連安保理決議1154で「今後のいかなる安保理決議違反も、イラクにとって最も厳しい結果を招く。」という、湾岸戦争停戦協定(上記687)破棄条件の決議、つまり最終警告決議がされていた
- フセインとアルカーイダが協力関係にある[11]
まとめると、イラク戦争(第二次湾岸戦争)は、国連決議1154、1441にもとづき、第一次湾岸戦争の停戦協定(安保理決687)が破棄されて起きた。 大量破壊兵器の保有に関してはUNSCOMのスコット・リッター主任査察官、IAEAのエルバラダイ事務局長(肩書きはいずれも当時)らは当初から否定的であった。後にサダム・フセインはFBIの取調べ官に対して、査察に非協力的だったのは「大量破壊兵器を保持している事をほのめかす事でイランや国内の反政府勢力を牽制しようとした」ためで、化学兵器など大量破壊兵器は「湾岸戦争後の国連の査察ですべて廃棄させられたため無かった」と証言している(出典:CBS 60ミニッツ「サダム・フセインの告白」)。フランス、ドイツなどは開戦するなら1441以外に新たな安保理決議を付加すべきと主張したが、1441は無条件の査察を求めているのに対してイラク側が条件をつけてきたため、米英及び同盟国は開戦に踏み切った。また、フランスは議論の初期には主戦派で、地中海にいた原子力空母「シャルル・ド・ゴール」のペルシャ湾派遣準備を進めていることがTVニュースなどでも盛んに報じられていたが、後になって態度を翻した。 国際法的には開戦の理由はイラクが無条件査察を認めないことであって、大量破壊兵器が存在することではない。 なお米英側が勝利宣言を行った後の2004年10月、アメリカが派遣した調査団が「イラクに大量破壊兵器は存在しない」との最終報告を提出。大量破壊兵器の情報の信憑性も薄いものであったことが明らかになった。
また、後に元財務長官のポール・オニールが「政権開始当初からイラク戦争の計画はあった」と「暴露」[12] したほか、開戦時のCIA長官だったジョージ・J・テネットも「ブッシュ政権内でイラク開戦前に同国の差し迫った脅威について真剣な協議は行われなかった」と自著で証言している。さらに、ジョセフ・ウィルソン元駐ガボン大使が2003年7月6日付けのニューヨーク・タイムズ紙に寄稿した記事に端を発したプレイム事件によって、ブッシュ政権がイラクの脅威に関して意図的な情報操作(フレームアップ)をしていた疑惑が濃くなっている。
ブッシュ政権は、「イラクの無条件査察の拒否に対して開戦したのであって大量破壊兵器が存在するために開戦したわけではない」と主張しているが、この戦争の正当性が根底から大きく揺らいでいると一般には思われている。
2008年3月、国防総省は正式に「フセインとアルカーイダの関係を示す決定的証拠はない、認められるのはパレスチナ武装勢力との関係のみ」とする報告書をまとめた。なお、報告全文は当初インターネットでの公開が予定されていたが、直前になって突如文書頒布のみに切り替えられた。
戦争の経過はイラク戦争の年表も参照。
[編集] 戦争の名称
戦争の名称は、戦争の場となった地名を付けるのが一般的だが(朝鮮戦争、ベトナム戦争など)、イラク戦争という名称はアメリカ合衆国の立場からイラクを敵対視する一方的な態度であるという意見もあれば、慣例であるとして否定する考え方もある。また、戦争に至った経緯を考えて第2次湾岸戦争と称する場合もある。
また、大規模戦闘終結宣言はアメリカ側が一方的に行っているが、終戦宣言は現在まで行われた事は無く、イラク戦争自体の定義に混乱が生じている。この問題を背景にしてかウィキペディア英語版では、2003年の戦争を 2003 invasion of Iraq = 2003イラク進攻としており、現在の戦闘状況は Post-invasion Iraq, 2003–present = ポスト・イラク進攻 2003-現在と称し、合わせて Iraq war = イラク戦争としている。
アラビア語でもさまざまな呼称があるが、アラビア語版ウィキペディアではアメリカのイラク侵攻(الغزو الأمريكي للعراق)、あるいはイラン・イラク戦争を第1次と数えて第3次湾岸戦争(حرب الخليج الثالثة)などとも呼ばれている。
[編集] 開戦までの経緯
1991年の湾岸戦争の際にイラクが受諾した停戦決議『国連決議687』においては、イラクは大量破壊兵器の不保持が義務づけられていた。この達成を確認する手段として、国連は武器査察団をイラクに送り、兵器の保有状況、製造設備などを調査した。しかし、当初は比較的協力的であったイラク側はアメリカのスパイ行為などを口実に協力的ではなくなり、工場の偽装が明らかになったケースや、兵器は破棄されたがその記録など証拠となる手がかりが一切残っていないと主張するケース、一部施設への立ち入り拒否、など様々な形での遅延、妨害があったとされる。また、アメリカは独自にイラク南部、北部に飛行禁止区域を設定、イラク機の空域侵犯を理由に、制裁措置として米英はイラク軍施設に対して攻撃を繰り返していた(詳細はイラク武装解除問題を参照)。
2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件は世界に衝撃を与えたが、この攻撃によってアメリカの世論は一気に保守化し、この年に大統領に就任したジョージ・ウォーカー・ブッシュは世論を後押しに、報復としてアフガニスタンを攻撃した。ブッシュ政権はこの戦争を「対テロ戦争」と名づけて、アメリカの対外政策の柱とした。
アフガニスタンでの軍事行動は非常に順調に行き、ブッシュ大統領は2002年初頭の一般教書演説において悪の枢軸発言を行い、イラク、イラン、朝鮮民主主義人民共和国は大量破壊兵器を保有するテロ国家であると名指しで非難した。特にイラクに対しては、長年要求し続けた軍縮の進展の遅さと、大量破壊兵器の拡散の危険を重視し、02年に入ってから政府関連施設などの査察を繰り返し要求した。イラクはこれに応じ、4年ぶりに全面査察に応じたものの、アメリカは納得のいく結果ではなかったと非難。イラク側は2003年2月14日から2月16日にかけてカトリック教徒のターリク・ミハイル・アズィーズ副首相がバチカン、イタリアに渡りローマ教皇ヨハネ・パウロ2世と会談するなどして必死に戦争回避を国際社会に訴えたが最終的に2003年3月17日、先制攻撃となる空爆を行った後、ブッシュ大統領はテレビ演説を行い、48時間以内にサッダーム・フセイン大統領とその家族がイラク国外に退去するよう命じ、全面攻撃の最後通牒を行った。しかし、フセイン大統領は徹底抗戦を主張して応えなかったため、2日後の3月19日(アメリカ東部標準時)に予告どおり、イギリスなどと共に『イラクの自由作戦』と命名した作戦に則って、攻撃を開始した。
イラク攻撃にはフランス、ドイツ、ロシア、中華人民共和国などが強硬に反対を表明し、国連の武器査察団による査察を継続すべきとする声もあったが、それを押し切った形での開戦となった。これら国々の反対の裏には真に人道的な反対というより、イラクでの自国の石油利権に絡んでいるとする意見もある。アメリカ国内の世論は武力介入に一般的に高い支持率を得ているものの、国連の支持なしの攻撃に必ずしも国論は一致していないとされる。
また、アメリカに合わせて武力行使を積極支持したイギリス・ブレア政権の閣僚が相次いで辞任を表明し、政府の方針に反対した。3月17日クック枢密院議長兼下院院内総務、3月18日ハント保健担当・デナム内務担当両政務次官が辞任。結果としてブレア首相は議会の承認を早急に採りつける必要に迫られた(BBCニュースの記事に更に詳細なリストがある)。
[編集] ブッシュ大統領の開戦前後の演説
ブッシュ大統領は開戦前後の演説における戦争理由として以下を挙げた。
- 生物・化学兵器等、大量破壊兵器を保有し続け、その事実を否定し、国連の武器査察団に全面的な協力を行わない(部分的な協力に止まっている)ことに対する武力制裁のため。(但し、これについてはブッシュ大統領自身が後に撤回した。イラク武装解除問題参照)
- イラクの一般市民をサッダーム・フセイン大統領の圧政から解放するため。
- テロリストに対する支援国であるイラクを「民主的な国」に変えるため(対テロ戦争の一環)。
[編集] それ以外で語られるアメリカの開戦理由
- イラクをサウジアラビアの軍事基地の代替地として確保し、サウジから米軍部隊を移転することでムスリム(イスラム教徒)の反米感情を和らげ、テロの発生を予防する。ビンラディンは湾岸戦争の際、イスラム教の聖地メッカのあるサウジに異教徒の軍隊(米軍)が駐留したことに激しい衝撃を受け、米軍のサウジからの撤退という要求を掲げて反米テロ闘争を開始し、ついには911テロへと至った。しかし米国は、フセインの脅威から同盟国を守る為という名目で、湾岸戦争後も引き続きサウジに部隊を駐留していた為、テロリストの要求に屈服したという印象を与えることなく、サウジから部隊を撤退させるには、どうしてもフセインを排除する必要があった。
- イラクを民主国家にし、資本主義経済を根付かせる事で将来起こるであろう石油枯渇による中東経済の混乱を最小限に抑える。
- イラクを親米化する事で中東(イラン、シリア、その他反アメリカ諸国)に「民主化のドミノ倒し」を起こさせる(いわゆるドミノ理論)。これがイラク戦争の最大の目的だと言う見方がある。ブッシュ政権中枢で影響力持ちイラク戦争を強く支持したネオコングループでは、フセインがアラブ世界で支持されることがイスラエルの危機につながると考えられていた。イスラエルはイラクを穏健路線のヨルダン王家に統治させる戦略を打ち出していた。
- 石油の一大産出地域である中東に戦乱を生じさせ、石油価格を上昇させて石油市場の流れを操作する。
- アメリカ人の気質として、戦時に大統領が代わるのは好ましくない、とする風潮があり、戦争開始時点で二期目の再選を目指していたブッシュ大統領のキャンペーンの一環であったとの説。
- イラクは石油輸出の決済をドル仕立てからユーロ決済への移行を決定していた。これが実行されるとアメリカドルの世界基軸通貨としての地位が揺らぐため、それを阻止するための防衛戦争として侵略を決行したとの説。ドル防衛による経済的利益と、軍事行動による物的・人的損害との均衡が明らかに取れておらず、国際通貨ユーロの地位向上とイラク戦争という先後関係を因果関係に読み替えた誤謬である。
- 冷戦以後、目立った戦争を経験していなかった軍需産業が衰退していたため戦争を誘発するようホワイトハウスに圧力をかけたという説。これはイラク戦争に反対する反戦団体や市民団体が主張する一種の陰謀論であり、圧力の存在は証明されていない。
- 戦争により武器・兵器を消費するため。一定の周期で過剰に生産された武器・兵器を消費しなければ軍事マーケットにおける需給のバランスが崩れると言われていることから。これも一種の陰謀論だと言える。
- 数十年後に予想されるされる原油枯渇によるエネルギー危機にそなえて、石油利権の確保のため。
- サウジに次いで、世界第二位の埋蔵量を持つと言われるイラク北部の油田地帯を反米のフセイン政権が握っているのは、アメリカにとって好ましいことではなかったとの説。
[編集] イスラーム原理主義者の世界観における開戦理由
- ダール・アル=イスラームの支配をもくろむ邪悪なキリスト教の酋長ブッシュと、シオニスト国家イスラエルによるイスラーム世界征服のための戦争という説[要出典]。
[編集] 開戦反対国のイラクでの利害
フランスとロシアが石油や開発プロジェクトを巡ってイラクと良好な関係にあり、イラクに武器輸出をしていて、武力行使に対して両国が慎重な姿勢を崩さなかった背景にはその利益を守ろうとする動機があったともいわれている。イラク軍の保有する近代兵器の大半はロシア、フランス製である[要出典]。同時にアメリカと一線を画し、反戦を訴えることで国際地位の向上を目指したともとる事ができる。また、フランスはイラクに多額の借款を持っており、戦争による体制の崩壊で当該借款が回収不能になることが危惧された。
[編集] 各国での反応
開戦直後の各国の反応は以下の通りであった。
- イギリスのブレア首相は政府声明として、アメリカの武力行使を支持し、共に参戦すると表明。参戦の際の声明では、かつてウィンストン・チャーチル元首相が発した「陸海空から」という文言が用いられた。
- 日本の小泉純一郎首相(当時)は記者会見で、「アメリカの武力行使を理解し、支持する」と表明した。後に明らかになったことだが、小泉の同声明は外務省の事務方が用意した文書よりも踏み込んだ内容になっている。文書では「理解する」との表現が盛り込まれていたが、開戦の際の記者会見では小泉は「支持」という踏み込んだ文言を用いた。
- オーストラリアは空軍の戦闘攻撃機、海軍のフリゲート、特殊部隊を派遣。
- フィリピンは支持。中国、ロシア、欧州連合、アラブ連盟は非難。
- イスラエルはイラクからのミサイル攻撃に対して即時報復の構え。国内では非常事態体制に入り、ガスマスクの携帯を勧めた(生物・化学兵器への備え)。
- イラク政府はこの戦いを聖戦(ジハード)であるとした。
- 国際連合のコフィー・アナン事務総長は強い遺憾の意を表明。
- 韓国は3月21日の臨時閣議で、600人以内の建設工兵支援団と100人以内の医療支援団を派遣することを決定。だがその後、議会で反対に遭い、与党の分裂などもあって派遣が実現するかどうかは不透明化した。4月2日の国会での演説で、盧武鉉大統領は再び派兵の承認を議会に要請。
- アメリカ国内では非常用品、更に拳銃・ライフル・散弾銃の売り上げがなぜか増加した。
戦争開始後、世界各地での反戦デモが繰り広げられ、一部の国では規制しようとする警察と小競り合いが起き、負傷者や逮捕者が出るほど激化した。著名アーティスト達は揃って攻撃を非難。これと同時にワシントンにおいては開戦を支持するデモも大規模に行われた。
3月27日の国連安全保障理事会の席上において、英米側が戦争の正当性を主張。ロシア、中華人民共和国、イラクなどがこれに批判的な発言を行った。
4月1日、フランスのド=ビルパン外相は、テレビのインタビューで英米への支持を表明、良好な関係を保つことの重要性を強調した。また、フランスは開戦前にフランス領空のアメリカ空軍機の自由通過を承認。開戦後にフランス海軍、ドイツ海軍はサウジアラビア近海に展開。ロシア海軍も開戦から1ヶ月以上経ってからサウジアラビア近海及びインド洋に展開した。
4月14日、アメリカ政府はシリアを非難。イラクの政府要人などを匿い、化学兵器を所持していることなどを理由としたものだが、これは当のシリアは元よりフランス外相、国連事務総長などの反発を招いた。
[編集] 報道への対応
日本ではNHKは発生した時間から68時間報道を行った。また民放各局はお昼のニュース枠より通常放送を中止し、深夜まで全国放送を行った。3月21日より通常の編成に戻ったが『JNNニュース』(TBS)、『産経テレニュースFNN』(フジテレビ(日曜))などはパーティシペーションで放送された。
[編集] 戦術
[編集] 迅速な攻略
2003年3月19日に開戦を宣言すると、翌3月20日には制空権が確実な状態で陸上部隊が進攻を開始した。ウムカスルやルメイラ油田を攻略し、南部最大の都市バスラの攻防戦で幾分足止めを食らうが制圧。鉄道と道路沿いを西に向かい、ナーシリーヤでクートに北上する部隊とサマーワを経てユーフラテス川沿いにヒッラを目指す部隊に分かれ、4月にバグダッドで合流して突入、これを攻略した。この攻略に際して米進攻部隊が途中で待ち伏せ攻撃に苦しんでいるとの情報を出し、バグダッド市内にいた共和国防衛隊、特別共和国防衛隊の戦車などが進攻部隊攻撃のため市内を出たところ空爆によって大半が破壊された。これは市内での空爆の困難さからうまく市街地の外に戦車などを出す戦術ともいえる。
合わせて北部のモスル、ティクリート、キルクークには空挺隊が攻略し、西部の砂漠地帯も同様に攻略した。 全土の攻略に1ヶ月強というすさまじい速さでの占領であった。その迅速さは戦争開始前後から積極的にメディア工作をおこなっていたサハフ情報大臣がバグダッドの平穏を強弁しているその後ろを米軍戦闘車両が通過する、といった映像が放映される一幕を演出するほどであった。
[編集] 小規模兵力とハイテク兵器の投入
投入された兵力は1991年の湾岸戦争が66万人であるのに比較して、26万3千(アメリカ陸軍とアメリカ海兵隊で約10万、イギリス軍3万。海空軍、ロジスティク、インテリジェンスなどをふくめるとアメリカ軍約21万4千、イギリス軍4万5千、豪2千、ポーランド2.4千)と非常に少ない。GPS誘導爆弾やレーザー誘導爆弾など高性能の武器を効果的に用いることで特定の拠点を効率的に破壊するドクトリンとした。
これは、湾岸戦争後にコリン・パウエルによって提唱された「パウエル・ドクトリン」と呼ばれる戦争のスタイル(圧倒的な兵力を投入し、短期間での勝利を目指すもの)と対照的である。各国の軍事専門家の間でもイラク戦争における米軍の戦術がどの程度功を奏するかについては注目され、あるいは心配されていた。
この計画を積極的に提唱したのはラムズフェルド国防長官だと言われている。同長官はかねてより、パウエル・ドクトリンはベトナム戦争からの教訓として形成された「ワインバーガー・ドクトリン」の亜流であり、時代遅れになりつつある、との見解も表明している。
実際にイラク戦争では、開戦劈頭における航空機のピンポイント爆撃をはじめとする空爆と巡航ミサイルによる結節点の破壊によってイラク軍の指揮系統は早期に崩壊した。組織的抵抗力を開戦直後にほぼ喪失したイラク軍は、各地で散発的に抵抗するしかなくなり、アメリカ軍は完全に戦争の主導権を握った。
事前の大方の予想を裏切り、アメリカの陸上部隊も迅速にバグダッドまで進軍することに成功した。このことはアメリカの圧倒的軍事力を一時的なイメージだけであれ世界中に見せつける結果となった。軍事大国アメリカの存在感をいっそう高め、中東を始め世界各国に改めて示すことができた訳である。開戦前から戦争が泥沼化すると予想していた研究者もいたが、この初期の圧勝によって彼らの主張は全く受け入れられなかった。この軍事的成功はC4ISR化(指揮・統制・監視・偵察のIT化とコンピュータ化)をいっそう促し、RMA(軍事革命)という考え方が台頭する。中国人民解放軍もこうした新しい戦争には着目し、ハイテク環境下における局地戦や、三打三防戦略といったドクトリンを生み出している。
この戦争では無人偵察機がアフガニスタンに引き続いて使用され、続く占領下の武装勢力との抗争では、遠隔操作の無人自走機関銃がアフガニスタンと共に初めて実戦投入。戦場のロボット化が進んだ。
[編集] 占領政策
イラク戦争は5月1日の『戦闘終結宣言』によって、連合軍は圧倒的勝利という姿で、形式的にはイラクへの攻撃を終了した。イラクはアメリカ軍のバグダッド進攻によるフセイン政権崩壊以降、安保理決議1483に基づいてアメリカ国防総省人道復興支援室および連合国暫定当局(CPA)の統治下に入って復興業務が行われることとなった。
アメリカ軍がバグダッドに進攻すれば市民は諸手を挙げて歓迎し、米軍と共にフセイン体制打倒に決起してくれるだろうと考えていたブッシュ政権であったが、その観測は後に裏切られる事になる。
[編集] 占領政策のつまずき
少数の兵力しか用いないという米英軍の戦術は進攻作戦においては大いに役に立ったが、占領政策にはひどく不向きであったと現在では考えられている。敵の軍隊のみを排除すればいい軍事行動とは違って、占領時にはインフラの復旧、治安の確保、食糧の配給など様々な活動が求められるが、兵士の数が足りないためどれも完全には行なえず、結果イラク国民の反発を招き、更に治安の悪化が進み、より多くの兵士が必要となるという悪循環を招いている。
進攻当時、抵抗らしい抵抗をしなかった旧イラク軍だが、大規模兵器を早々と放棄し、小型の武器弾薬をこっそり隠して米軍に対してレジスタンス攻撃をしきりに行い、現在も継続していると考えられている。これはフセイン自身も証言し、大統領宮殿などからも証拠を確保したが、湾岸戦争終結時より計画していたもので、経済制裁を受ける中で、最低限の材料で爆弾を製造する方法なども情報機関や軍によって研究されており、攻勢を受ける間は抵抗せずに地下にもぐり、攻勢をやめた占領軍に対して爆弾で攻撃をかけていると考えられた。米英軍の占領政策はこのような事態を全く予測しておらず(ないしは非常に軽視したものと考えられ)、これは明らかに情報分析の初歩的敗北であり、「戦闘終結宣言」後に大量の死者を出す結果を招いた。現代において戦場で最も重要視される情報入手・統制、リスク分析において欠陥があったことは米英占領軍にとってはかなりの痛手であった。現状ではさらに旧軍人だけでなく、武装集団や過激派も活動を活発化させており、アメリカ軍や軍属、イラクで活動する民間人やマスコミ関係者への襲撃も増加している。
また、バグダッドなど大都市を占領すると、圧政から解放されたと感じた市民が略奪に走り、博物館の展示物や商店の品物が略奪の対象となった。これはこのような無政府状態に対する準備が行われていなかったことの表れでもある(略奪防止の措置は後手に回り、フォトジャーナリスト・森住卓の現地報告によれば、米英軍は他省庁を放置して石油省のみを厳重に警備していた。また、略奪物の8割ほどはイスラム聖職者などの教えによって返却された)。また市民の略奪の対象には市役所や警察署などが含まれており、米英軍はこれも防ぐこともできなかった。後に占領政策に移ると、市民の登録情報や個人情報、自動車の登録番号などが根こそぎ持ち去られるか、破壊されていることがわかった。このため、車爆弾や自爆テロで用いられた自動車のナンバーが判明しても、持ち主がわからないためレジスタンス組織の検挙に繋がらなくなっている。
[編集] 占領政策の民営化
復興業務には「ハリバートン」社、「ベクテル・インターナショナル」社らアメリカの民間企業がいくつも参加していた。戦闘終結直後に民間企業が続々と参加してくることは初めてであったが、これら実験的な政策はチェイニーらブッシュ政権閣僚の肝いりであったと言われている(参入した多くの企業が、ブッシュ政権の閣僚を取締役に頂いている)。
本来は軍が行ってきた輸送業務などを、安全が確保された地帯に限って民営化し、民間企業がトレーラーなどを使って食糧や物品、軍事物資を輸送する、民間企業は同時に石油開発事業も行って利益を得る、と言うものであった。アメリカ国防総省から見れば、戦争で大きな比重を占める輸送業務を民営化することで、その分の兵力と予算を作戦に回す事ができ、効率的だと考えられた。
しかし、実際にはイラクは戦闘状態であり、輸送任務についた民間のトレーラーは、アメリカ軍の護衛がついているとはいえ、すぐに武装勢力の標的となり、銃撃、爆弾攻撃、ロケット砲攻撃、殺人、誘拐が相次いだ。運転手にはアメリカ人の他、現地のイラク人やネパール人、フィリピン人ら賃金の安い外国人を雇用したが、彼らも数多く戦闘の犠牲となり、また度重なる攻撃によって幹線道路周辺は治安が悪化し、民間企業では手に余る状態となった。また、治安悪化によってアメリカ軍の兵力が不足し始めると、企業には警備員を雇用させ、護衛兵力を民営化させた。民間軍事会社とよばれる企業に委託することでおこなわれた。高収入であるため、かなりの数がイラクに入ったが、彼らも数多く殺害されている。武装勢力と戦闘して死亡した者も多い。ただし、警備員は飽くまで民間人であるため、死亡しても“戦死者”には計上されない。民間軍事会社の社員は多くは警察、軍の出身者であり、国籍も多様である。
このように、輸送業務は麻痺状態に陥っているため、前線の兵士まで物資が十分に届いていないことが、兵士が家族に当てた電子メールなどでわかっている。特に水不足が深刻で、摂氏50度の砂漠の中で水分補給をぎりぎりまで制限されていると言う。また、現在のアメリカ軍はベトナム戦争の時代とは違って徴兵を行っていないため、イラクの状況から入隊希望者が集まらず、兵士の絶対数の確保が困難となっている。このため前線の兵士は数ヶ月で帰還できるところを、1年以上待たされていることも普通である。この人員不足をアメリカ軍は州兵(国家防衛隊)で補っているが、彼らも同様に扱われる上、同じ州兵を繰り返しイラクに派遣するなど、待遇は悪化している(2006年には戦傷を受けて休養中の予備役や、果ては物故者にまで現役復帰を呼びかける文書が送付されていた事が発覚した 軍当局は“古い名簿に基づく誤った処理”と弁解している)。さらに州兵の不在が、結果としてアメリカ国内での災害の発生・拡大に深く影響を与えることも、2005年のハリケーン・カトリーナによって明らかとなった。
一方、石油開発は油田施設やパイプラインへの攻撃で産油量が低迷。世界第二位の埋蔵量でありながら、安定した供給を行えない上、ブッシュ大統領が発言した「世界民主化」は、王政や独裁制であるアラブ諸国の不信感をますます募らせたため、石油危機の再来が恐れられた。このため、石油メジャーを中心に石油資源買いが発生し、原油価格は戦闘終結宣言後から急速に価格が上昇した。(ただし、石油価格高騰は投資資金の石油市場流入や中国経済の急成長も関わっているため、原因は1つではない。)
[編集] 反米武装勢力の攻撃
ところで、連合軍はイラクと講和したわけでも、停戦協定を結んだわけでもなく、アメリカが旧体制を転覆して(一種のクーデターである)一方的に終結を宣言したに過ぎない。前述したように、イラク軍やイラク政府が地下に潜ってしまった為である。また、戦闘が終結したことにすると、復興事業に乗り出すことができ、戦闘には参加できない国も兵力を差し向け易くできると言った政治的な意味合いが強かった。
イラク軍は開戦前の投降呼びかけに2000名が応じる(米軍は当初8000名と発表)など戦意が低く、進攻中もほとんど反撃できず、極めて脆弱に見えた。アメリカ兵の死者は136名と湾岸戦争をさらに下回り、「イラク戦争は大成功であった」と世界に見せ付けることとなった。しかし、サッダーム一族や政府関係者は逃亡、また実際には戦闘終結宣言以降も散発的な戦闘が続き、アメリカ軍や有志連合を標的とした攻撃も頻発するようになった。8月には国連事務所を爆破してセルジオ・デメロ国連事務総長特別代表らを殺害(爆発の瞬間が、たまたま取材に入っていたNHKのクルーに撮影された)、国連チームの撤収に至った。
この当時の攻撃は主にイラク軍や秘密警察の残党によるものだと考えられ、元大統領サッダーム・フセインや、彼の2人の息子に指示されていると思われた。しかし、アメリカ軍による残党狩りによって2人の息子(ウダイ、クサイ)は共に戦死、この年12月にようやくサッダームが逮捕されるに至ると、一時的に攻撃が増加したものの、事態は収束に向かうかに見えた。 ただし、この残党による攻撃によって5月までの戦闘によるアメリカ兵の死者数を上回る犠牲者が発生した。
だが2004年に入ると攻撃の対象が拡大し、連合国暫定当局が設置した新しい警察や新しいイラク軍を標的とする事件が増えた。これらで犠牲になる者はほとんどがイラク人で、残党たちはアメリカ軍への攻撃に加えて、新体制の象徴たるものの破壊を狙ったと考えられる。また、民間外国人を狙った誘拐事件も頻繁に発生し、日本人民間人も被害に遭った。これらはイラク国内の武装勢力によるものと思われ、誘拐した人質と引き換えに軍を撤退させるよう要求するのが手口であった。ただ、彼らは宗教指導者の呼びかけに応じることも多かった。
[編集] 大規模戦闘の勃発
2004年4月にはファルージャで反米武装勢力とアメリカ軍の間で、占領後初めての大規模な戦闘が起こった(ファルージャの戦闘)。また、この頃から南部でもシーア派イスラム教徒が反米抗議を行うことが増え、一部の過激派が攻撃を加えた。更に、5月に米兵によるイラク人捕虜虐待が明るみに出ると、この反米運動は全国的な広がりを見せるに至る。6月に暫定政権が発足し、体制の構築が進むと、それに対応して攻撃も行われた。この頃から攻撃は無差別性が際立ち、大都市中枢などで一般市民を狙ったと思われるテロが相次ぐようになる。無防備ないわゆる「ソフトターゲット」と呼ばれる標的を狙うことについては、残党による手口だとは考えにくいと当時から囁かれた。また、この頃から、アルカーイダ系の武装集団がシリアやイランを通じて大量にイラク入りしていると報道された。
さらに、南部に多いシーア派の過激派民兵が8月に武装蜂起し、南部最大の都市バスラを中心に米英軍と戦闘となった。シーア派民兵はムクタダー・サドルに率いられ、組織的な戦闘を行ったが、民兵側の犠牲が相当数に上り、イラク・シーア派の指導者アリー・シースターニーの停戦呼びかけに応じ、1ヶ月ほどで沈静化へ向かった。
続く11月にはアルカーイダ系の武装勢力(アメリカ軍は当時そう考えていた)の活動がファルージャで活発になり、アメリカ軍は「夜明け」と命名した作戦によって攻撃した(ファルージャの戦闘に詳細)。しかし事前に大々的報道がなされたため、目的であるザルカーウィーらアルカーイダ系テロリストは既に逃亡、武装勢力も散った後であった。米軍が直接制圧に当たっているが、12月後半には7割の地域で武装勢力が回復したと言われている。また、ザルカーウィーにしても、彼が真に武装勢力の指導者であったことに疑いの声が上がる。アルカーイダの犯行と思われた事件のほとんどはフセイン政権の残党によるものと言う見方が、現在では強まっている。アメリカはこの作戦「夜明け」を実行するに当たり、バグダッドの治安要員が足りなくなるため、イギリス政府に対して、バスラを中心としたイラク南東部を活動範囲としていたイギリス軍の一部をバグダッドに転戦させた。
ファルージャの戦闘の一方は米軍だったが、他の一方は「反米武装勢力」とは断定できない。
[編集] 政権発足と兵力縮小
この執拗な攻撃やテロに対し、有志連合を結成していた各国が次々に離脱を宣言した。とくに開戦当初から支持を表明していたスペイン国内で2004年3月11日に列車爆破テロが発生したことは、派兵国に少なからず動揺を与えた。ブッシュ政権はイラクの治安悪化を理由として、派兵要員を13万人から15万に増強する旨を発表した。さらに2004年11月のアメリカ大統領選挙終了後は20万人に増強する動きもあったが、実際は14万5千人までの増強で抑えられた。2005年4月には憲法製作を行う移行政府が発足し、アメリカのイラク復興業務は次の段階に入った。
ところが、2005年の夏に起こったハリケーン「カトリーナ」の襲来時、肝心の被災地で活動すべき多くの州兵がイラクに派遣されていた事が大問題にされ、救難活動が遅れたために2千人近くが死亡したとする批判が国内から相次いだ。このためブッシュ政権は一部の兵力を本土に帰還させたため、イラク兵力は13万8千人となった。12月の議会選挙の際にはさらに多い15万5千人に増員したが、翌2006年2月には早々と13万6千人に削減し、3月には13万3千人となった。また、2月には正式な民主政権が発足する予定であった事から、ポーランド、韓国、イタリアに引き続き、イギリス、オーストラリア、日本が相次いで兵力削減・離脱を発表した。しかし、シーア派とスンニ派(あるいは石油資源を巡るクルド人)の対立から政権建設は難航し、22日のアスカリ廟爆破事件によって宗派対立に発展した。このため、日英豪3カ国の撤退計画は不透明なものとなった。
[編集] 武装勢力抗争の激化
アスカリ廟爆破以来、報復合戦となったシーア派とスンニ派の衝突は、3月に入ってからは沈静化したものの、一部で内戦の危機と報じられたが、多国籍軍はこれを否定した。しかし、一方で米メディアなどはイランの武装勢力が侵入してテロ工作をしていると報道し、アメリカ政府高官や軍もイランを(核開発問題を絡めて)非難している。しかし、イラク戦争自体が情報操作の産物だった過去の例を考えれば、またしてもアメリカの責任転嫁を目的とした情報操作である可能性もある(2007年9月現在、イラン関与の確たる証拠は公表されていない)。武装勢力にはイラク人がシーア派、スンニ派、クルド人のグループがそれぞれいくつもあり、シーア派にはイランからの支援が、スンニ派はシリアが援助しているとも言われる。ただし、シリアは少数派のシーア派系アラウィ派がスンニ派を支配する国家形態であり、イラクのスンニ派政権とは長年対立を続けてきたため、これに積極的な支援を与えているわけではないとの見方も存在する。また、フランスに海外拠点を置く旧バース党残党も他のスンニ派勢力と連携して活動を続けていると見られ(バグダッド市ドーラ地区、アザミヤ地区を実質的に支配)、国外からもイスラム原理主義勢力などが侵入していると「戦闘終結宣言」直後からささやかれていた。アメリカは内戦ではないと主張しているものの、実際のところ、これらの武装勢力が群雄割拠して、それぞれがテロ攻撃を繰り返しており、民間人の死者が増加し続けている。
一方、アメリカ兵の死者は2005年10月から減少に転じていたが、これは危険地域の警備をイラク警察や国家警備隊、親米武装勢力に移譲しているからだと指摘されている。この間、テロ発生件数は横ばいであるが、多国籍軍への攻撃は減少しており、その分イラク人を標的にしたものが増加した。 また、2006年10月からは宗派抗争を通じて影響力を更に強めた武装勢力各派が対米攻撃を再度激化させ、米軍死者数は再び増加の傾向を見せている。
また、2006年に入って、武装勢力がイラク人の技術者や知識人を巧妙に殺害していることがわかってきた。フセイン政権は国力となる知識階級を積極的に育成してきたが、武装勢力はこれらの人々を直接殺害、あるいは拉致してから殺害して死体を遺棄するなどの方法で、すでに医師が約300名、科学者が約100名、大学教授は80名以上が殺害された。知識階級はバース党員や旧政府の官僚が多かった為、抑圧されてきた勢力の犯行だと考えられるが、身代金目的の誘拐も数多い。このような治安悪化を理由として、40万人のイラク人が危険を感じて国外へ逃亡しており、国家の基礎体力低下は避けられない。2006年にイラクにいる医師は全土で2000名程度と見られている。
このため、イラク国内において、故意にイラクを弱体化させようと動く勢力の存在が浮かび上がっている。また、フセインは初等教育にも力を入れており、湾岸戦争前に9割あった(とされた)識字率も、戦後の経済制裁とこの戦争、続く統治の失策によって5割を下回っている。
[編集] 正式政府の発足
[編集] マリキ政権の誕生
2006年4月に入ると、エジプトやサウジアラビアの要人が相次いで「イラクは内戦である」と発言し、イラク移行政府が強く反発した。しかし国内はシーア派とスンニ派による抗争が過激化し、連日テロや殺戮が起こっていた。スンニ派が反発したのは移行政府首相がシーア派過激派のサドルと親密だったからである。4月22日、シーア派系議員連合「統一イラク同盟」(UIA)は、首相にジャワド・マリキを擁立した。スンニ派とクルド人も容認し、連邦議会が再開した。4月26日には早くもアメリカ政府からラムズフェルド国防長官とライス国務長官が相次いでイラク入りし、これを歓迎した。
閣僚についての決定は、各宗派の調整に手間取り、閣僚をそれぞれの宗派の議席に割り当てることで合意するが、国防相と内務相をマリクが兼任すると言う暫定的な形となった。5月20日にマリクが閣僚名簿を読み上げ、議会が賛成して承認され、正式政府が発足した。フセイン政権崩壊から3年が経過していた。アメリカ軍は、政権発足時に25万4000人のイラク治安部隊を32万5000人に増強し、12月までに95パーセントを達成するとした。しかし、アメリカ軍の撤退については、ラムズフェルド長官は「削減できればいいが、約束はできない」と発言した。
政権発足直後の6月7日、マリキ首相とアメリカ軍は共同で、イラク国内でテロを誘発してきたとされるザルカーウィー容疑者を、空爆作戦によって殺害したと発表した。成果は発足直後のアピールとして強調され、6月13日にはブッシュ大統領が電撃訪問してマリキを祝福したが、ザルカーウィーの配下は1,000名程度とされる一方、イラク全土の武装集団は20,000名以上と推測されており、アルカーイダも直後に後継者を発表したことから、政治的にも戦略的にも効果は薄いと見られる。実際、その後も一般市民を標的とした爆弾テロや、武装勢力による拉致、殺害、銃撃などは相次ぎ、2006年内のイラク国民の死者は3万4000人以上となった。政権発足後も状況に大きな変化はなく、米国政府とマリキ政権は相互不信に陥りつつあるといわれる。
イラク政府は同国の安定化を模索する国際会議を3月10日にバグダッドで開催すると発表した。イランやシリアを含む周辺諸国のほか、米国をはじめとする国連安保理の5常任理事国、アラブ連盟、イスラム諸国会議機構 (OIC) が招待された。4月にも開催予定で日本などサミット参加国も加わる。米側は国務省報道官の記者会見などで路肩爆弾による米兵への攻撃問題を取り上げたいと表明した。
[編集] サダム・フセインの死刑執行
2006年12月30日、サッダーム・フセインの死刑が執行された(→サッダーム・フセインの死刑執行)。
[編集] スンニ派イラク住民とアルカーイダの対立
イラクのスンニ派の町では米軍に対する攻撃が盛んであるが、国外から侵入するアルカーイダ系勢力に対しても外国の武装勢力だとして武力衝突が生じていた。その一方で資金力に優れるアルカーイダと一部スンニ派武装勢力が対米攻撃で協力関係を結ぶなど、スンニ派地域へのアルカーイダの浸透も進んでいた。
そこでアメリカ軍はイラクのアルカーイダ系組織の幹部ザルカーウィーの脅威を強調し、ザルカーウィー派掃討を目的とした空爆などの過激な攻撃をスンニ派地域で繰り返した(結果として2006年6月のザルカーウィー殺害後もイラク情勢への影響はあまりなかった)。この時スンニ派の間では、攻撃による巻き添え被害の大きさからザルカーウィーを追放しようとする動きが強まった。
2007年に入り、アルカーイダの過激な活動に反発するスンニ派市民までがテロの対象とされ、塩素ガスを用いたテロによる多数の被害者をだし両者間の溝が表面化した。4月には主要なスンニ派武装勢力のひとつ「イラク・イスラム軍」が構成員30人をアルカーイダに殺害されたとして、ビンラディンに対する非難声明をだした。
こうした「反アルカーイダのスンニ派」と「アルカーイダ系スンニ派」の対立のなかで、アメリカ軍が反アルカーイダのスンニ派部族と協力関係を持つなど、事態は一層複雑化している。6月25日バグダッド中心部にあるマンスール・ホテルのロビーで発生した自爆テロでは、アルカーイダ系過激派との戦いに協力した6人のスンニ派部族指導者が殺害された。[13]
[編集] 増派による治安回復
2007年1月、ブッシュ米大統領は「イラクの混乱の原因はすべて私にある」とコメントし、最大で米兵2万2000人のイラクへの一時増派を明らかにした。兵力増強をブッシュに進言したのはジョン・マケイン上院議員だとされる。2月にはイラク駐留米軍の司令官にデービッド・ペトレイアスが就任した。1万数千人がバグダッドで治安維持に当たるほか、治安悪化の著しい西部の州にも7000人程度が派遣され、ゲリラ掃討に当たる。また、この戦争と占領によって、米本国の陸軍と海兵隊の人員が不足したことから、数万人規模で増員する。さらに、ペルシャ湾に空母打撃部隊2個部隊を配備するなど、イラクのほか、イランやシリアに対する軍事的威嚇の度合いを強めている。しかし、過去数度にわたる増派の効果がいずれも薄かったことから今回の増派の効果を疑問視する声もある。
しかしながら夏以降の増派は一定の成果を見せ、2007年の米兵死者数は年間では過去最悪の901人を記録したが、9月以降減少傾向を見せ、10月にの米兵戦死者は39人に減少、11月には37人、12月はその数は更に下回り23人となった。米軍は依然として状況を楽観していないが、2004年2月の20人に次ぐ低水準となった。これには、ペトレイアスの新たな治安維持戦略が挙げられる。ペトレイアス戦略は、前任のジョージ・ケイシー司令官とは異なり、日本の陸上自衛隊がサマーワで行っていた人道復興活動を強化し、前述のアルカーイダに反発するスンニ派部族や同派部族を代表する覚醒評議会との連携強化につながった、こうした硬軟の使い分けにより、イラク聖戦アル・カーイダ機構に大攻勢をかけ、ペトレイアス司令官によると、聖戦機構の6~7割に打撃を与えたとしている。2007年10月には軍内部で対聖戦機構勝利宣言が検討されたが、その際には慎重論が大勢を占めた。また、フセイン拘束を指揮したことでも知られるオディエルノ副司令は2008年8月までには米軍の駐留規模を2、3万人削減できるとの見通しを示している。2008年4月8日にはペトレイアス司令官が上院で証言を行い、その際に増派前の水準への兵力削減が発表させると一方、武装勢力との攻防が依然一進一退の状況であることから、それ以上の追加撤退については否定した。
[編集] シーア派内部の対立
フセイン政権崩壊後、政権の中枢に躍り出たのが、これまで支配下に置かれていたイスラム教・シーア派勢力である。イラク戦争から5年を迎えた2008年3月に入ると、そのシーア派内で内部抗争が勃発。同派の強硬派であるムクタダー・サドル一派と政府との対立が表面化。政府軍とマフディー軍が、同月25日にバスラで衝突したのを皮切りに、クート、ヒッラ、バグダッドに拡大。ヌーリ・マリキ首相自身が陣頭指揮を執った、25日のバスラでの戦闘では双方合わせて31名が死亡した。26日にマリキ首相は、28日までのマフディー軍の武装解除を要求、一方のサドルも前日のナジャフでの声明で徹底抗戦の構えを見せている。27には両者の先頭でバスラ近郊の石油パイプラインが爆破された。また同日には、米国のジョージ・ブッシュ大統領がオハイオ州での演説で政府軍支持を鮮明にした。更に、同日深夜にはバグダッドで外出禁止令が発令された。翌・28日には政府軍に同調した米軍が南部・バスラのマフディー軍施設を空爆した。同日にマリキ首相は、マフディー軍の武装解除期限を4月8日まで延長すると発表した。30日にはサドル自身がマフディー軍に対し戦闘中止を呼びかけ、31日にはバグダッドの外出禁止令が解除された。
[編集] 戦闘終結宣言後の犠牲者
開戦からブッシュ大統領による戦闘終結宣言が出されるまでの期間は非常に短かったが、現在(2008年3月)もイラク人兵士・警察官・民間人、そしてアメリカ軍をはじめとする多国籍軍兵士も、ともに犠牲者が増え続けている。イラク治安部隊(新イラク軍・新イラク警察)は、イラク警察だけで少なくとも8,000人から10,000人が戦死している。
アメリカ兵の犠牲者は4,000人を突破し、これに加えて、軍に従事する民間軍事会社の契約要員(米軍から民間委託分野として警備や輸送業務に従事し、治安作戦への参加も指摘されている。実態として傭兵に近い)が、これまでに少なくとも1,000人以上が死亡していると報じられている(そのなかには、軍事経験のある日本人の契約要員が1名いる)。
2007年10月現在、イラクでは各種民間警備会社は、米正規軍を上回る計18万人が活動中。その活動内容は事実上野放しで、誰を殺しても誰に殺されてもさしたる問題にはされていない。民間警備会社の警備員による虐殺・暴行も報道されており、2007年9月16日にはブラックウォーターUSA社の警備員が乱射で民間人17名を射殺、持参の銃を現場に置いて「武装勢力に対し正当防衛を行った」と悪質な偽証をした事件が表面化[14]、イラク・アメリカで問題となった。
また、英軍の死者170人、その他諸国軍の死者132人と合わせて、連合軍全体の死者数では4,000人以上(民間軍事会社の契約要員を除く)となる。ちなみに日本の自衛隊は戦死者が一人も出ていないと公式に発表されている(武装勢力側は、複数名の自衛官殺害戦果を主張している)
またアメリカ軍は戦闘で殺害した武装勢力や、アメリカ兵の過誤(誤爆・誤射)で死亡したイラク民間人の数を公表していない(「数えていない」という発言がアメリカ軍上層部から出ている)。なお、報道を基にこれらを集計しているサイト"Iraq Body Count"の2007年11月30日付のデータによると、死亡者は約80,000-87,000人と集計されている。これはあくまでも報道された数に基づいた数値であり、正確な数値は判明していない。一刻も早い治安の回復が望まれているが、宗教的対立によるテロリズムは(暫定政府時点から)激化の一途を辿り、特に2006年7-8月には二ヶ月で6,500人の死者を出したと言われる。
Lancet Study による2004年10月の推計によると、兵士・民間人あわせて約98,000人という推計が出ている。ただし95%信頼区間が8,000人から194,000というもので大雑把な推計である。また、Lancetによれば死亡率増加の調査を基にした研究では、2006年6月時点でイラク戦争の死者は約655,000人になると推計されたが、2008年1月に
