サッダーム・フセイン

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サッダーム・フセイン・アブドゥル=マジード・アッ=ティクリーティー
صدام حسين عبدالمجيد التكريتي
サッダーム・フセイン

イラク5代大統領
任期: 1979年7月16日2003年4月9日

出生: 1937年4月28日
イラク
ティクリート
アル=アウジャ村
死去: 2006年12月30日
バグダード
政党: バアス党
配偶: サージダ・ハイラッラー
サミーラ・アッ=シャフバンダル
ニダル・アル=ハムダニ
イマン・フワイシュ

サッダーム・フセイン[1]ar:صدام حسين1937年4月28日 - 2006年12月30日)は、イラク共和国政治家である。

前イラク共和国大統領、前首相、前革命指導評議会議長。バアス党地域指導部書記長。アラブ人スンナ派ムスリム

目次

生い立ち

イラク北部のティクリート近郊のアル=アウジャ村で羊飼いの家庭の子として生まれ、「直進する者」を意味するサッダームの名を受けた。父フセイン・アブドゥルマジド(フセイン・アル=マジドとも)はサッダームが生まれた時には既に死んでおり、母スブハ・トゥルファはまもなく再婚して、サッダームの3人の異父弟を生んだ。

10歳の時から、母方の叔父ハイラッラー・トゥルファのもとで暮らした。彼の敵に屈しない性格とイラク国粋主義的なアラブ民族主義は、叔父の影響から生まれたと言われている。

1950年代は、エジプトで革命が起こり、王制が倒されてガマール・アブドゥン=ナーセル政権が樹立に向かっている時期にあたり、アラブ諸国ではアラブ民族主義が高まりを見せており、サッダームもナーセルの影響を受けた。1958年には、イラクでもクーデターにより王制が打倒されている。

バアス党

1955年、首都バグダードに上京したサッダームは、まもなくバアス党に入党して革命活動に入った。バアス党は王制を打倒して政権についたアブドゥルカリーム・カーセムの共産主義寄り政策に反対し、1959年にカーセム首相暗殺未遂事件を起こした。この事件に関与したサッダームは、逮捕を逃れてシリア、ついでエジプトに逃れた。亡命中の欠席裁判により、サッダームは死刑宣告を受けている。

サッダームは、エジプトで亡命生活を送りながら高等教育を受け、カイロ大学法学部に学んだ。帰国後の1968年には、法学で学位を取得したといわれているが、カイロ大学には彼の在籍記録が存在しない。

権力掌握

1963年にバアス党がイラクで政権を奪取することに成功すると、サッダームは帰国してバアス党の要職に就いた。しかし、この第一次バアス党政権は短命に終わり、1964年、サッダームは逮捕投獄された。1966年に脱獄するが、この1960年代の間にサッダームはバアス党の治安部門を掌握し、党内の実力者となっていった。

1968年、サッダームも貢献したバアス党のクーデターにより党は再び政権を握ると、サッダームは革命指導評議会副議長に就任し、1973年からは国軍司令官を兼ねた。若きリーダーとして国民の期待を集めたサッダームの主導の元で第二次バアス党政権は石油事業の国有化を断行し、石油収入を背景に農業の機械化、農地の分配、学校教育の強化など、近代化と社会福祉政策を推し進めた。しかし、世俗主義的な政策とアラブ系スンナ派ムスリムのイラク中央部出身者の重用は、イスラム知識人(ウラマー)、北部のクルド人や南部のシーア派のような宗教派や少数派の不満を高めることにもなった。

一方、サッダームは政権内での地歩を固め、政敵を排除しつつ次期指導者としての地位を認めさせることに成功した。

1979年アフマド・ハサン・アル=バクル大統領の引退を受けて、大統領に就任。

サッダーム・フセイン政権

大統領に就任したサッダームは、その直後に開かれた党大会で、突如66人の人物を会場から連行させた。この内22人は死刑となり、国民に恐怖政治を印象付けさせた。その後もサッダームは、反体制派の虐殺などを含む様々な手段で強硬に弾圧し、大統領の独裁体制を構築した。

特に、元来世俗主義的アラブ民族主義の申し子であったサッダームは、イスラム教を掲げて政治に乗り出そうとする勢力を政権の脅威と見なして弾圧し、南部のシーア派地域を中心に高まりを見せていたイスラム主義の動きを弾圧、多くのシーア派法学者(イスラム聖職者)が逮捕、殺害、国外追放の処分を受けた。クルド人の自治運動にも敵対的な姿勢で臨み、その活動を妨害した。

更に議会で、イラク国内の有力政治家ら21人をひとつの部屋に集め、彼に逆らう政治家を呼びつけては外に出して銃殺刑を申し渡し、即刻行われた死刑執行を指揮している映像も残されている。

反対派への粛清、それによる恐怖政治、クルド人に対する弾圧から典型的な独裁者として恐れられた。特にサッダームはヨシフ・スターリンを公に絶賛しており[要出典]、サッダーム・フセイン体制にはスターリン主義の特徴が見受けられる。しかし、国内的には政治・経済が安定し、国民生活の向上も見られた。

教育面に関しては、ユニセフからの表彰も受けており、一部では、サッダームの行った弾圧は現イスラム世界において宗教的価値観を取り除き国家を成長させるに必要なことであったとの意見もある。

また、サッダームは自分への個人崇拝も進め、イラク国内には彼の巨大な彫刻、像、肖像画やポスターが飾られるようになった。

イスラムを政治から遠ざけたサッダーム・フセイン政権においては、「世俗主義的な一国民族主義」が主導的なイデオロギーであった。この思想においては、イラク国民とはすなわち古代メソポタミアの民の子孫であり、サッダームは、ネブカドネザルハンムラビになぞらえられる偉大な指導者と喧伝された。

ただし、アメリカ合衆国との対立姿勢を明確にした後は、キリスト教社会との対決を訴えるレトリックとして、イスラム世界の連帯を唱え、イラク国旗に「アッラーフ・アクバル(神は偉大なり)」の文字が加えられる。このことからわかるように、彼は必ずしもイスラームという宗教を否定していたわけではない。

男尊女卑の強い中東において「名誉の殺人」が数多く行われていた中、この「名誉の殺人」を非難した指導者であることは、あまり知られていない。

イラン・イラク戦争

1979年イラン革命によってイランにシーア派のイスラム共和国体制が成立し、イラン政府は極端な反米活動を展開した。しかし、革命の波及と政権転覆を恐れる周辺のトルコサウジアラビアなどの親米派アラブ国家の非難を浴び、アメリカ合衆国も強硬に非難した。

中東の反米政権を潰す目論みを立てたアメリカ合衆国のロナルド・レーガン大統領率いる政権は、1984年イラクと国交を回復し、1988年に至るまでサッダーム・フセイン政権に総額297億ドルにも及ぶ巨額の兵器供給を行った。

1983年12月19日、レーガン政権から派遣されたドナルド・ラムズフェルドイラクを訪問し、サッダームと90分におよぶ会談を行っている。

サッダーム・フセイン政権は、1980年から1988年まで国境紛争でイランと戦い、この戦争のさなか1988年3月に、サッダーム・フセイン政権が国内に住むクルド人に対して、毒ガスを使って大量虐殺を行った。当時のアメリカ合衆国のレーガン政権もこれを黙認した。

イラン・イラク戦争でアメリカ合衆国がイラクを支援した理由には、イランが他の中東諸国にイスラム革命の輸出を行なえば、サウジアラビアクウェートアラブ首長国連邦などスンナ派が実権を握る宗教色の薄い親米政権が危うくなり、石油の確保などアメリカ合衆国の利益も危ぶまれる可能性があったからだとされる。

アメリカ合衆国は、ラムズフェルドを特使としてイラクに派遣、全面的な支援を約束した。武器提供・石油パイプラインの建設などで、イラン・イラク戦争の開戦を促した。

イラクとアメリカ合衆国の会談の際、話が化学兵器に及ぶと、アメリカ合衆国側のジョージ・シュルツ国務長官は「我々は、特に問題視していない」と答えた。そのため、イランと結びつく危険のある国内の反対勢力である少数民族のクルド人に対して化学兵器が使用されたとされる。また、イギリスメディアによるとこの時期、イラクに向けて化学兵器生物兵器の原料がアメリカイギリスから輸出された。

湾岸戦争

1988年に終結したイラン・イラク戦争は、イラクを中東の軍事大国へと押し上げる一方で1970年代の近代化政策がもたらした富をイラクから失わせ、サッダームの関心を、イランに代わって、豊かな石油資源を持ち、以前からイラク人によってイラク領と主張されてきた隣国クウェートへと向けさせた。

アメリカ合衆国は中東の軍事バランスを抑制するためイラクへの支援を打ち切っている。

サッダーム・フセイン政権は、1990年、クウェートに侵攻し、これを占領、併合を宣言する。しかし、アメリカ合衆国をはじめとする国際社会の猛反発を受け、翌1991年湾岸戦争でアメリカ合衆国を主力とする多国籍軍に敗退した。

敗戦による政権の隙をついて、国内の反体制シーア派が政権への反乱を起こした。しかし、シーア派が期待したアメリカ合衆国の支援はなく、サッダーム・フセイン政権は鎮圧に成功する。この際、反逆者に対して、虐殺を含む非常に苛烈な報復が行われた。

これ以降、さらなる強権政治により、反対勢力を押さえ込むことで、サッダーム・フセイン政権はかえって安定化した。国内では秘密警察による反対派への弾圧、拷問、不当逮捕などが繰り返された。

湾岸戦争終結以降、イラクにはアメリカ合衆国を主導とする国際世界から経済制裁が科せられ、経済的に窮乏に追い込まれた。イラク側の主張によれば、この時期に化学兵器などの大量破壊兵器は廃棄したという。

イラク戦争

アメリカ同時多発テロ事件以降のアメリカ合衆国は、アルカーイダを支援しているとしてサッダーム・フセイン政権のイラクに強硬姿勢を取るようになった。もっともイラク攻撃自体はアメリカ同時多発テロ事件以前から、湾岸戦争時国防長官だったチェイニー副大統領を中心とする政権内部のネオコンで既に議論されていたようである。

2002年1月、アメリカ合衆国のブッシュ政権は、イラクをイラン北朝鮮と並ぶ「テロ支援国家」と名指しで批判した。2002年から2003年3月まで、イラクは国際連合の兵器査察を受けつつ、アメリカ合衆国による武力攻撃の危機にあった。

2003年3月20日、アメリカ合衆国のブッシュ大統領は、イラクが大量破壊兵器を廃棄せず保有し続けているという大義名分をかかげて、国連安保理決議1441を根拠としてイラク戦争を開始。攻撃はアメリカ合衆国軍が主力であり、イギリス軍もこれに加わった。

4月9日、バグダードは陥落したが、サッダームは既に逃亡していた。5月2日、アメリカ合衆国のブッシュ大統領が「戦闘終結宣言」を出した。

逮捕

逮捕直後のサッダーム。
逮捕直後のサッダーム。

サッダームは、戦闘終結宣言以降も数か月間行方不明であったが、2003年12月14日、アメリカ合衆国軍により逮捕された。アメリカ合衆国軍による取調べに対しては、「サッダーム・フセイン元大統領か?」という問いに対し、「サッダーム・フセインイラク大統領である」と答えた。

裁判

イラク住民虐殺などの罪で起訴され、2005年10月19日にバグダードの特別法廷で初公判が開かれた。だが、初公判の時に裁判長の質問に答えずにコーランを法廷中に唱えたり、名前を聞かれても名乗ることはなく、裁判そのものに対する拒否の意思をはっきりと示した。また、職業を聞かれた際は、「共和国大統領だ」と発言し、暗にイラク戦争に対する不当性を訴えている。この裁判の翌日、サッダームの弁護士の1人が誘拐され殺害された。また、11月にも弁護士の1人が殺害され1人が負傷し、サッダーム弁護団の警備強化をイラク政府に訴えている。

2006年11月5日、サッダームはイラク中部ドゥジャイルのイスラム教シーア派住民148人を殺害した「人道に対する罪」により、死刑判決を言い渡された。サッダームは判決を言い渡されると、「イラク万歳」と叫び、裁判を「戦勝国による茶番劇」だとして非難した。

死刑執行

2006年12月30日、サッダームは、バグダードにて絞首刑による死刑が執行され、刑死。69歳没。(サッダーム・フセインの死刑執行) フセインは、イラクが核兵器を開発済であり、核兵器を完成させて密かに国内のどこかに隠し持っているかのように振舞い続けた。死の直前にあたり、裁判関係者から「なぜ、かかる愚かな行為をしたのか」と問われた際、フセインは「核兵器を持っていないことが明らかになると、核を持っているイランに攻め込まれ、国家がなくなってしまうのではないかとの恐怖があったから」と答えている。

年譜

家族

脚注

  1. ^ 全名はサッダーム・フセイン・アブドゥル=マジード・アッ=ティクリーティー (صدام حسين عبد المجيد التكريتي) であり、「ティクリート出身のアブドゥル=マジードの子フセインの子サッダーム」と解される。彼を含め多くのイラク人の名前には、欧米や日本の人名慣習でいう「姓」にあたるものは存在しない。日本のメディアではサダム・フセインと表記されることが多く、縮めて呼ぶ際には「フセイン」とすることが多いが、これは彼の全名の中に含まれる父の名の部分であって、本来適切ではない。アラブ諸国では、縮めて呼ぶ際には「サッダーム」とするのが一般的である(詳細はイスラム圏の名前を参照)。なお、フセインのアラビア文字表記をそのまま読むと「フサイン」であるが、実際には「フセイン」の表記の方がより原音に近い。

関連書籍

日本

関連項目

外部リンク

ウィキメディア・コモンズ