クウェート侵攻

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クウェート侵攻
Invasion of Kuwait
Ku-map.png
戦争:湾岸戦争
年月日1990年8月2日 - 1990年8月4日
場所クウェート
結果:イラク軍の勝利、クウェートを併合。
交戦勢力
イラクの旗 イラク クウェートの旗 クウェート
指揮官
イラクの旗 アリー・ハサン・アル=マジード
イラクの旗 フセイン・カーミル・ハサン
イラクの旗 イヤード・フタイイフ・ハリーファ・アッ=ラーウィー
クウェートの旗 ジャービル3世
クウェートの旗 シェイク・ファハド・アル=サバーハ 
戦力
100,000[1] 16,000[2]

クウェート侵攻(クウェートしんこう、英語: Invasion of Kuwait)は、1990年に発生したイラククウェート侵攻した事件である。この侵攻を機に、湾岸戦争に発展した。イラク・クウェート戦争(イラク・クウェートせんそう、英語: Iraq-Kuwait War)とも言われる。

概要[編集]

経緯[編集]

イラン・イラク戦争時、クウェートはイラクを積極的に支援し、イラク南部の港湾都市バスラが戦闘により被害を受けたときクウェート港を開放し、また約400億ドルの資金を提供してきた。終戦後、イラクはクウェートへの負債の返済するために、石油の減産による石油価格の上昇を目的に、石油輸出国機構(OPEC)を通じて石油の減産を求めた。しかし、OPECはイラクの求めに応じず、クウェートとサウジアラビアは石油の増産を行っていた。

クウェート・サウジアラビアの石油増産政策に対して、イラクは増産中止と石油価格の値上げを訴えるも拒否された。

そのためイラクはクウェート国境付近に軍隊を動員して威嚇したが、アラブ諸国は脅威として捉えずに単なる脅しと見て、懐柔案による解決を考えていた。欧米諸国も同様の考えを持っており、最悪の場合でもイラクが領有権を主張していたワルバ、ブービヤーン両島に軍を進めるだけの局地的な紛争に留まるであろうと判断していた。実際、イラク側の当初の作戦計画でも、クウェート北部への限定攻撃とされていたが、侵攻前々日の7月31日に急遽計画が変更され、全面侵攻とされたという経緯がある。このために、イラク軍の側も、十分に準備して侵攻を行なうことができず、とくに兵站物資の配布は極めて不十分な状態であった。

勃発[編集]

1990年8月2日午前2時、共和国防衛隊(RG)はクウェート国境を越えて侵攻を開始した。このとき、十分な弾薬・燃料を携行していたのは、RGの戦車2個中隊のみで、他の部隊が有する兵站物資は必要最低限のみであった。しかしクウェート軍は、RGの50分の1の戦力しかなかった上に、奇襲を受けて混乱しており、わずか数時間のうちに制圧され、軍の一部はサウジアラビアやカタールに撤退した。 イラクの奇襲作戦に混乱したクウェート軍ではあったが、すぐに軍勢を立て直し、アリー・サーリム空軍基地を死守するなど、各所で奮戦を見せたが、力の差は歴然としており、20時間でクウェート軍の抵抗は粉砕された。

クウェート市内に侵入したRGはダスマン宮殿を攻撃した。首長のジャービル3世ら首長一族の大半は、軍首脳の助言に従い事前に宮殿を出てサウジアラビアに向けて出発した後だった。しかしジャービル3世の異父弟で、クウェート・オリンピック委員会委員長であるシャイフ・ファハドは国外からクウェートに帰国したばかりで、イラクの軍事侵攻を知らされておらず、宮殿に戻ると、RGの一群と遭遇した。そして、宮殿護衛隊と共に銃撃戦を行った末、シャイフ・ファハドは射殺された。

また、共和国防衛隊により占領されたクウェート国際空港に着陸したブリティッシュ・エアウェイズ149便の乗員乗客がイラクの首都バグダードに連行された。(ブリティッシュエアウェイズ149便乗員拉致事件

国際社会の反応[編集]

占領下のクウェート[編集]

バグダッドで会談するサダム・フセインとアラー・フセイン・アリー「クウェート共和国」首相

当初、フセイン政権はクウェートのイラク領土編入では無く、同国の属国化を狙って、クウェート国内の対イラク協力者であるアラー・フセイン・アリー陸軍大佐を首相とする「クウェート暫定革命政府」を成立させた。しかし、閣僚の大半がイラク人であった。1990年8月4日、同政府は「クウェート共和国」の樹立を宣言した。しかし、国際社会がこれを承認しないことが分かるや、8月8日、イラク革命指導評議会は、クウェートの併合を決定。イラク19番目の県「カーズィマ県」と名称を一方的に変更した。

沿革[編集]

  • 1990年
    • 7月10日 - ジッダで開かれた湾岸5ヶ国会議が開催される。クウェートとアラブ首長国連邦の石油過剰生産が議題に取り上げられる。
    • 7月15日 - イラクのターリク・アズィーズ外務大臣が、アラブ連盟にクウェートへの債務取り消しを要求する信書を送る。
    • 7月17日 - サッダーム・フセインがイラク国営テレビで演説し、クウェートとアラブ首長国連邦の石油過剰生産を批判する。
    • 7月18日 - アズィーズ外相がアラブ連盟に再び信書を送り、クウェートがルメイラ油田の盗掘を行っていると指摘する。クウェート議会はアズィーズ信書を否定する声明を決議する。
    • 7月19日 - 共和国防衛隊がクウェート国境に3万人の軍隊を移動させる。
    • 7月20日 - クウェートが、イラクの要求を非難する声明を発表する。
    • 7月22日 - イランが、イラクの石油価格値上げ案への支持を表明する。
    • 7月24日 - アメリカ国防総省がペルシア湾周辺を警戒地域に指定する。イラクはクウェート国境に陸上部隊3万人を集結させる。
    • 7月25日 - エジプト大統領のムバーラクがバグダードを訪問。サッダームと会談しクウェートへの侵攻は行わない旨と、代表団によるクウェートとの交渉を行うことで合意する。一方でイラクはクウェートに対して、ルメイラ油田盗掘の損害賠償の支払いを要求する。
    • 7月27日 - スイスのジュネーヴで石油輸出国機構の総会が開催される。参考価格を21ドルとし、生産上限を日産2250万バレルにすることに合意する。アメリカ連邦議会が、イラク通商制裁法案を採択する。
    • 7月28日 - クウェートとイラクの代表者交渉が開始される。クウェートは首相のサアド・サバーハ、イラクの代表は革命指導評議会副議長のイッザト・イブラーヒーム
    • 7月29日 - 共和国防衛隊がクウェート国境地帯に再結集する。
    • 8月1日 - イラクとクウェートの交渉が決裂する。共和国防衛隊がクウェート国境に10万人を集結し、両国は国境を閉鎖する。
    • 8月2日
      • 2時00分 - 共和国防衛隊がクウェート国境を突破する
      • 2時35分 - クウェート首長のジャービル3世が、サウジアラビアのファハド国王に電話連絡し、イラクの侵攻を伝える。
      • 国際連合は緊急安全保障理事会を招集して、イラク軍の即時無条件撤退を要求する共同決議案を全会一致で採択する。

脚注・参考文献[編集]

  • 山崎雅弘「イラク軍のクウェート侵攻と「砂漠の盾」作戦」、『歴史群像アーカイブ』Vol.15、学研、2010年8月、 56-63頁。

関連項目[編集]