コマンド部隊

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コマンド部隊(コマンドぶたい)、コマンド、あるいはコマンドー、またはコマンドウ[1]英語およびフランス語commandoドイツ語Kommando )は、軍事用語で、主に突撃作戦を前提に編成され他にも奇襲後方撹乱偵察などを目的とする部隊のこと。通常、常備軍の中から精神力や身体能力の高い者を選抜されたエリート部隊、もしくは特殊部隊であることが多い。イギリスチャーチル首相が特殊部隊をコマンドと命名した事が始まりである[2]イギリスでは空挺および海挺の潜入作戦と破壊工作を主とする特殊空挺部隊(SAS)および特殊舟艇部隊(SBS)は小数あるいは単一の兵隊による行動を前提としておりこれらは「SpecialService」と呼ばれ区別される。一方、コマンドはある一定規模の攻撃による敵陣突破、奇襲・後方撹乱などの作戦の遂行を前提としており最低でも数十人の部隊で行動する。

第一次世界大戦のドイツの浸透突撃部隊であった突撃歩兵も機能上ではコマンド部隊として分類される。有名なコマンド部隊としてイギリス軍のコマンド部隊やアメリカ陸軍デルタフォースなどが挙げられる。近年は常備軍の中にあって対反乱作戦部隊としての役割が与えられている。

概要[編集]

コマンドの起源は第二次世界大戦時、イギリスのチャーチル首相が新たに創設された特殊部隊をコマンドと命名したことが始まりである[2] 語源はボーア戦争において跳躍するボーアのコマンドと呼ばれる義勇騎兵部隊にある。また特殊部隊発案者のダドリー・クラーク英語版陸軍中佐が南アフリカ出身であったことも一因である。[3] オランダ植民地支配下の南部アフリカ語(アフリカーンス語)で、部族対立の際に部族の中でコマンド・指揮つまり指揮系統における一部隊を結成したことに由来する。欧米語においてコマンドとは一部隊の名称でもある。第二次ボーア戦争当時の1900年においてボーア軍が動員した75,000人のオランダ系白人コマンドがゲリラ戦により、イギリス軍450,000人を効果的に引き付けたとされている。

コマンドの派生語として、ズボンの下に何もはいていない状態(ノーパン)を指すスラングとして"Going commando"又は単に"commando"が使われることがある(主として米英加)。語源には諸説あるが、一説としてアメリカのコマンド部隊で洗濯の手間を省くためパンツをはかない習慣が広まったことから言われるようになったとされる。

成立と発展[編集]

近代軍においてコマンドの名を冠された部隊が初めて創設されたのは、1940年のイギリスだった。当時のイギリスは、フランスに侵攻したナチス・ドイツ軍と対決すべく欧州大陸に派兵をしていたのだが、電撃戦によって大敗北を喫し、ダンケルクの戦いによってかろうじて兵員をイギリス本土に撤収させるのが精一杯という有様だった。

このような記録的敗北は受け入れがたいもので、イギリス陸軍は一時的に茫然自失の状態となった。そこで、当時イギリス陸軍参謀総長、ジョン・ディル英語版大将の副官だったダドリー・クラーク中佐は、ドイツ軍に対抗すべくゲリラ戦を展開する部隊を構想した。

クラーク中佐がこのタイプの部隊創設を思いついたのは、ダンケルクの撤退によって多くの兵器類を大陸に破棄せざるを得なかったからである。つまり、武器がない状態では圧倒的優位を誇るドイツ軍を正面から撃破することは不可能で、代役として携帯火器のみを装備したゲリラ部隊による奇襲戦以外の選択肢がなかったのだ。

クラークがこのアイデアを思いついたのは、ダンケルク撤退戦の最終日に当たる1940年6月4日で、上司のディル大将には翌日の6月5日に計画案を提出した。ディル大将は更に翌日の6月6日に、当時イギリス首相だったウィンストン・チャーチルに計画案を提出し、6月8日にはクラーク中佐に計画案の承認が伝えられた。驚くべきことに、コマンド部隊の創設はたったの4日間で決定されたことになる。

チャーチルからの条件は、イギリス本土をドイツ軍から防衛する部隊は使用できないことと、同様の理由から火器類の装備は最低限で済ませることの2点のみだったと言われている。チャーチル自身が書き残したメモによると、この部隊の兵員は志願兵を選抜して編成され、トンプソン・サブマシンガン手榴弾で武装され、オートバイ装甲車で移動するとされている。

この新しい部隊にはボーア戦争時代に活躍したボーア軍の呼称だったコマンドが冠されることになったが、実際の部隊編成は18世紀に活躍したレンジャーを手本にしたとされる。このため、コマンドは志願兵選抜制で、3人の将校に47人の下士官と兵士で1個部隊が編成されるという、当時のイギリス軍としては極めて異質なものとなった。

こうして、速成で編成されたコマンド部隊は、1940年の6月23日から翌日にかけて、初めての作戦を実施した。フランス北部のブローニュ地区に奇襲上陸作戦を行ったのである。しかし、死傷者こそいなかったものの、その成果は見るべきものが無く、チャーチルからの不興を買った。

最初の作戦が不首尾に終わった後、コマンド部隊は長期間かけて再編成されることになった。2回目の作戦が実施されたのは1941年の2月21日で、目標はノルウェーロフォーテン諸島だった。奇襲は成功し、作戦を撮影した映像がイギリスで公開され、大きな宣伝効果を生んだ。当時のイギリス軍はドイツ軍に対して全く良いところがなかったので、このような小規模部隊による奇襲攻撃の成功が戦意高揚に利用されたのである。

アメリカはイギリスに触発され陸軍レンジャー英語版や「悪魔の旅団」(Devil's Brigade)の異名で知られる第1特殊任務部隊英語版を創設する。陸軍レンジャーはイギリス軍のコマンド特殊訓練施設で訓練を受け初陣もイギリス軍コマンドの指揮下で活動した。第1特殊任務部隊も半数はイギリス軍式訓練を受けたイギリス連邦自治領カナダ軍将兵で構成された。[4]

一方、ナチス・ドイツではコマンドに苦しみアドルフ・ヒトラーがコマンドを軍人ではなくテロリストとして即処刑するコマンド指令英語版を発令する。一方で国防軍情報部直属のブランデンブルク部隊オットー・スコルツェニー指揮下の第502SS猟兵大隊を創設するなど特殊部隊にも力を入れた。[5]

しかし、現地指揮官に事実上作戦の全権をゆだね、きわめて大きな自由裁量権を与えるコマンド部隊は、将兵に、というより国民すべてに絶対的な統制を敷き絶対的な服従を要求していた、そして戦局の悪化と共にその傾向をさらに強めていたナチスドイツの国是そのものに反する存在であり、米英軍コマンド部隊ほどの独自の活躍は見られなかった。ブランデンブルク部隊は戦局の悪化と共に正規軍に編入されて消耗し、第502SS猟兵大隊も総統の側近スコルツェニーの私兵程度の存在で終わった。

また、大日本帝国やソ連といった他の全体主義国家においてもコマンド部隊の必要性は認識されていたが、やはりその規模や活動は主に指揮統率面で制限され、有効な運用をされていない。

第二次世界大戦後、特にベトナム戦争以後は、少数の将兵からなる小さな戦闘単位の現地指揮官に大幅な自由裁量権を与える運用が一般化し、いわば「軍全体のコマンド部隊化」が進んでいる。また、各国でさらなる少数精鋭として特殊部隊や緊急展開部隊が編成されている。

各国のコマンド作戦[編集]

イギリス[編集]

アメリカ[編集]

ドイツ[編集]

イタリア[編集]

日本[編集]

  • 日本軍は、陸軍中野学校において上記ボーア戦争を研究したが、「ボーア隊形」による少数精鋭部隊の行動として、すなわちあくまでも既存の浸透戦術の応用としての解釈にとどまり、通常の指揮系統から独立したコマンド部隊の設立には至らなかった。
  • 日本軍太平洋戦争で実施した作戦のうち、コマンド部隊を用いた例としては、終戦間近の1945年5月25日、義烈空挺隊による米軍占領下の沖縄県読谷飛行場に九七式重爆撃機を胴体着陸させ、航空機39機を破壊し、航空燃料の焼却に成功した例がある。そのほか、南方各地で孤立した現地部隊が現場レベルで少数編成の「斬り込み隊」を編成し、コマンド部隊的な活動を行った例も多数ある。

出典[編集]

  1. ^ 高井三郎「現代軍事用語集 解説と使い方」。眞邉正行「防衛用語辞典」。金森國臣「英和/和英対訳 最新軍事用語集」。
  2. ^ a b 白石光 2008, p. 8
  3. ^ 白石光 2008, pp. 7-8
  4. ^ 白石光 2008, pp. 11-12
  5. ^ 白石光 2008, pp. 9-10

参考文献[編集]

  • 白石光 『ミリタリー選書 29 第二次大戦の特殊作戦』 イカロス出版、2008年 

関連項目[編集]