陸軍中野学校

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大日本帝国陸軍
Imperial Japanese Army
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通称号

陸軍中野学校 (りくぐんなかのがっこう)は、諜報防諜宣伝など、秘密戦に関する教育や訓練を目的とした旧日本陸軍学校。かつての所在地は東京都中野区中野4丁目付近。通称号東部第33部隊

目次

[編集] 概要

[編集] 沿革

創設の動きは1937年昭和12年)、戦争形態の加速度的進化で謀略の重要性が増し、日本が世界的な潮流からの停滞を余儀なくされることを怖れた岩畔豪雄中佐が、参謀本部に「諜報謀略の科学化」という意見書を提出したことに始まる。同年末、陸軍省が中心となってその創設を決定。岩畔、秋草俊福本亀治中佐を中心として開校された「後方勤務要員養成所」が前身である。1938年に開校し、1940年には陸軍中野学校と改名した。1941年には参謀本部直轄の軍学校へ転身する。その存在は陸軍内でも極秘であった。

創立当初、東京九段の愛国婦人会本部の別棟が仮校舎で、1939年4月に当時の中野区囲町に移転した。1945年4月、空襲の激化に伴い群馬県富岡町に疎開、富岡中学校等の施設を利用して授業が行われた。当初は純粋なスパイ技術養成機関であったが、大東亜戦争太平洋戦争)の開戦を機にゲリラ戦術教育機関(米陸軍の特殊戦スクール相当)へと変貌する。1938年の開校まで統合された教育機関がなかったため、日本陸軍にとっては有意義であったが、遅きに失した観はある。

なお、1944年(昭和19年)8月、静岡県二俣町に遊撃戦(ゲリラ戦)の要員養成を主たる目的として陸軍中野学校二俣分校が設立されている。(1974年、ルバング島から帰国した小野田寛郎元少尉は同校の卒業生である。インドシナ戦争中にベトミンクァンガイ陸軍士官学校教官を務めた谷本喜久男も同校の卒業生である[1]。)

学生は陸軍士官学校予備士官学校教導学校の学生から選抜された。その大半は一般大学卒などの学歴を持ち市井を経た軍人の士官学校である予備士官学校出身者であり、次いで教導学校卒の下士官出身者が多く、陸軍士官学校卒の者は少数であった。

昭和20年1月3日に中野学校に入校した第八期生150名のうち、90%以上は一般大学や高等専門学校の出身者で、東京大学出身者が最も多く、次いで拓殖大学東京外国語大学、そして、早稲田大学慶應義塾大学明治大学などが続いた。一般大学の学生から数多く選抜されたのは、諜報員として、幅広く高い学識と冷静な視点が求められていたためである。たたき上げの軍人の場合は、軍人としての教育は受けているものの、その知識は偏っていることから判断を誤るおそれがあり、態度にも軍人らしい雰囲気を出してしまうため、商社マンや新聞社通信員などの民間人を装って諜報活動を行う際に妨げとなるから避けられたのである。

[編集] 校風

学生は軍服を着ず、平服姿で長髪が推奨されていた。そのため代々の軍人の家庭の出身者は、親から軍人にあるまじき姿を叱責され、スパイとして教育を受けている以上は親にも理由を明かせず、言い訳もできず苦労したと言われる。また2年間の教程であったが、八紘一宇大東亜共栄圏といったスローガンは一顧だにされず、「戦時中で最も自由主義的ではなかったか」と回顧する出身者もいる。 また、天皇に対する見方も自由であり学生の中で天皇制の是非が討論される事もしばしばだったという。

[編集] 教育

午前中は諜報、謀略、防諜などの秘密戦に関連する学問の講義と実践、午後は自習となっていた。 ここでいう「諜報」とは、情報を収集することで内外の情勢を正確に掌握し、いかなる事態に遭遇しても、すばやく的確な意思決定ができるようにすること、「謀略」とは、情報操作や宣伝で敵を孤立・混乱させたりすること、「防諜」とは、敵が仕掛けてくる諜報、謀略を探知し、それを逆利用し、偽の情報を流して敵を混乱させることである。 いわゆるスパイの特殊技能そのものの教育も行われたが、教育の中心は、諜報の理論や、柔軟で融通のきく能力の育成に置かれた。 中野学校の学生は「名誉や地位を求めず、日本の捨石となって朽ち果てること」を信条とした。日本軍一般の教育とは異なり、生きて虜囚の辱めを受けてもなお生き残り、二重スパイとなって敵を撹乱するなど、あくまでも任務を遂行すべきよう教育された。また、汚く卑怯ともいえる諜報活動を行うこととなるからこそ、「至誠」の心を強く持つよう教育された。 講義では、対露政治謀略工作で日露戦争の勝利に大きく貢献した明石元二郎大佐が何度も紹介され、彼が学生の英雄となっていた。 教官は、中野学校の一期生や、参謀本部、陸軍省の中堅将校などであった。

このような教育は昭和20年3月まで行われたが、同年3月10日の東京大空襲の影響により、中野学校本校は群馬県富岡町に移設されることとなり、これを境に教育内容も二俣分校と同じくゲリラ戦要員養成へと変更され、本土決戦を想定した遊撃戦の訓練などが行われた。

[編集] 卒業生の動向

各種遊撃、潜入、工作活動などを学習した中野学校出身者は太平洋戦争中も活発に活動をした。 参謀本部勤務などの他、アジア各地で各種機関を設立して義勇軍の育成や諜報活動に任じたが、大東亜戦争末期は遊撃戦要員として戦闘に加入した者も多くいた。沖縄戦においても義烈空挺隊に数名が要員として参加している。

昭和16年12月8日にはじまるマレー作戦では、中野学校出身者らで構成された藤原機関が、英印軍の半数を占めるインド人の兵士に対する投降作戦を展開し、投降したインド人により編成されたインド国民軍が、さらなる投降誘致や軍事施設破壊などに活躍した。これは後に岩畔機関に引き継がれ、チャンドラ・ボースを首班とする自由インド仮政府がシンガポールにて樹立されることになる。

ビルマでは、昭和15年より、中野学校出身者らで構成された南機関が、ビルマの青年志士らによって編成された独立義勇軍と行動を共にし、日本軍との共同作戦を成功させた。

インドネシアではパレンバン降下作戦や、ジャワ攻略戦においてオランダ側ラジオ局に偽装して偽の情報を流しオランダ軍を混乱させた特殊ラジオ謀略放送にも中野学校出身者が深く関与していた。

至誠を重んじ、本気でアジア国家の独立を願った中野学校出身者は、戦況の悪化からアジア諸国の独立を迅速に達成できない軍首脳と衝突することも多かった。

二俣分校を含む卒業生の総数は2500余名である(一説に2131名とされる)。公式には昭和20年8月15日の終戦をもって閉校したが、その一部は以降も国内外で活動を継続していたと見られ、占領軍に対するゲリラ攻撃を計画するなどしていたという。中には身分を偽装してGHQに潜入し内部撹乱を図った者もおり(田中徹雄大尉、後に山梨県副知事 など)、GHQの対日工作機関「キャノン機関」の破壊に成功したという説もある。また、インドネシアや、ベトナム[1]を始めとする戦後の東南アジア独立戦争に携わった卒業者も多くいる。

[編集] 施設用地の変遷

  • 中野の用地は戦後、警察大学校警視庁警察学校等の警察施設地へと転用されたが、これらの施設は2001年府中市へ転出し、2008年4月1日東京警察病院が東京都千代田区から移転した。跡地には福本亀治揮毫の「陸軍中野学校趾」の石碑が建てられている。
  • 富岡校として使用された富岡中学校は現在、群馬県立富岡高等学校となっており、校内に「陸軍中野学校終焉之地」碑などがある。
  • 二俣分校跡地は現在、浜松市保健所天竜支所となっており、「陸軍中野学校二俣分校校趾碑」が建てられている。

[編集] 歴代校長

[編集] 映画「陸軍中野学校」シリーズ

映画「陸軍中野学校」シリーズは、1966年から1968年にかけて5本が大映で製作された。主演は市川雷蔵日本映画では珍しい戦争下のスパイ映画で、時代劇スター・市川雷蔵の数少ない現代劇での代表作として知られている。

  • 『陸軍中野学校』 監督:増村保造(1966年)
  • 『陸軍中野学校 雲一号指令』 監督:森一生(1966年)
  • 『陸軍中野学校 竜三号指令』 監督:田中徳三(1967年)
  • 『陸軍中野学校 密命』 監督:井上昭(1967年)
  • 『陸軍中野学校 開戦前夜』 監督:井上昭(1968年)

[編集] 脚注

  1. ^ a b ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に基づく日越のありかたに関する研究 井川一久 東京財団研究報告書 2005年10月

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

  • 斎藤充功 『陸軍中野学校の真実 諜報員たちの戦後』角川書店、2005年 同文庫、2008年
  • 斎藤充功 『陸軍中野学校 情報戦士たちの肖像』 平凡社新書335 、2006年
  • 畠山清行、保阪正康編 『陸軍中野学校終戦秘史』 新潮文庫、2004年
  • 畠山清行、保阪正康編 『秘録陸軍中野学校』 新潮文庫 2003年
  • 加藤正夫 『陸軍中野学校 秘密戦士の実態』光人社、2001年 同文庫、2006年 
  • 加藤正夫 『陸軍中野学校の全貌』展転社、1998年。
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