軍服 (大日本帝国陸軍)
この記事では、明治維新の建軍から第二次世界大戦敗戦による軍解体まで、大日本帝国陸軍の軍人が着用した制服について解説する。軍服一般については軍服を参照。
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[編集] 概要
帝国陸軍はその建軍(藩兵を解散して御親兵や鎮台兵を設置)頃から新政府の国軍として軍服の統一を図るようになった。当初はフランス陸軍の軍服に範をとっていたが、普仏戦争の影響から、明治19年の改正(明治19年2月24日内閣達14号(下士卒)及び明治19年勅令第48号(将校))ではドイツ陸軍の軍服に範をとるようになった。
将校・准士官と下士官・兵の服制には差異があり、明治33年勅令第364号により「陸軍服制」へ統一されるまでは、「陸軍将校服制」と「陸軍下士以下服制」が別個に規定されていた。また、基本的に将校准士官の軍装品一式は自弁調達する私物であり、各々の好み・気分・懐具合などにより細部の作りを含めて個性が見られた。中でも昭和初期はそれが特に顕著であり、大正11年制式後半・昭和5年制式・昭和13年制式においては若年層の間でいわゆる「青年将校文化(大11制・昭5制 / 昭13制式)」が大流行している。
将校准士官は民間の紳士服店・軍装品店・百貨店、偕行社などで軍服をテイラー・メイドで誂えるのが古くより一般的であったが、第二次世界大戦中の1940年代には軍人の増加やその国状により、民間や偕行社を問わずレディ・メイドのいわゆる「吊るし服」が普及した。下士官兵の軍装品は細かな規格に沿って製作された官給品であるが、同制式の軍装品でも時代や製作者(被服廠・納入業者)によって体裁に差異があり、また古参下士官には暗黙の了解として軍装品の私物化や改造が認められていたなど、帝国陸軍の軍服には階級を問わず規格外のものが多々存在する。
陸軍軍属に対しては上記とは別に陸軍軍属従軍服制が規定され、陸軍軍人の「軍服」に相当する従軍服が制定されていた。なお、この従軍服は製式や階級章などにおいて軍服とは異なった独自のものとなっていた。
[編集] 天皇の軍服
明治維新により天皇の衣食住も欧米化が進められると、西洋式の御服(天皇の服)が必要となり、明治5年には同年制定の文官大礼服に似た正服が調製された[1]。しかし、お雇い外国人ジ・ブスケからフランス皇帝は武官大将の制服を着用し、文官制服は着用しない旨の助言があったため、その直後には[注 1]軍服風の御服(御軍服[4]・御大禮服[5])が制定されている。この服は、明治13年10月11日太政官布告第五十五号による改定まで使用された。同布告では、陸軍大将の制服に準じた陸軍式御服のみが定められており、海軍式のものは制定されていなかった。明治13年の布告は大正2年皇室令第9号を以って廃止され、新たに陸軍式御服及び海軍式御服が定められた[6]。基本的には一般の陸海軍大将と変わらないが、階級章が通常のものよりも若干長く、陸軍大将を示す3つの星章のほかにひとまわり大きい菊花章が付された。また、海軍の第一種軍装および正装・礼装では将官を示す袖章の線が、一般の大将は太線2本に中線3本であるのに対し中線が4本あった。
海軍の式典に参加する場合には海軍の軍服型の御服を着用したが、通常は陸軍の軍服型の御服を着用する場合が多かった(ちなみにイギリス王室においては海軍軍装が優先)。
1945年の第二次世界大戦敗戦により陸海軍の解体と廃止が定まったことから、従来の陸軍式御服及び海軍式御服に代って、新しい天皇御服[7]および皇族服が制定されたが、昭和22年5月2日皇室令第12号(皇室令及附屬法令廢止ノ件) により、皇室令がすべて廃止されたことにより、天皇御服と皇族服は同時に廃止された。
[編集] 正装(将校准士官等)
[編集] 正装をすべき場合
正装で正衣(せいい)を着用すべき場合は、時代により多少の変遷はあるが概ね次の通りである。
- 新年
- 三大節(新年宴会・紀元節・天長節)
- 特に拝謁のため参内するとき
- 賢所参拝のとき
- 陸軍始
- 靖国神社大祭日
- 観兵式又は儀仗服務のとき
- 任官・叙位・叙勲のとき
- 一般大礼服着用のとき
- その他、自家の賀儀、葬祭や記念撮影時にも着用することができた。
[編集] 様式
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肩章がない。黒田清隆
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肩章がない。大山巌
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元帥陸軍大将。大山巌
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元帥陸軍大将。小松宮彰仁親王
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元帥陸軍大将。伏見宮貞愛親王
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元帥陸軍大将。寺内正毅
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陸軍大将(袖章が亀甲模様に細線7条)。乃木希典
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陸軍大将(袖章が亀甲模様に細線7条)。児玉源太郎
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陸軍大将(袖章が亀甲模様に細線7条)。黒木為楨
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陸軍大将(袖章が亀甲模様に細線7条)。秋山好古
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陸軍中将(袖章が亀甲模様に細線6条)。高島鞆之助
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陸軍中将(袖章が亀甲模様に細線6条)。黒田久孝
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陸軍中将(袖章が亀甲模様に細線6条)。曾我祐準
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陸軍歩兵少佐(袖章が細線4条)。朝香宮鳩彦王
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陸軍砲兵少佐(袖章が細線4条)。北白川宮成久王
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陸軍歩兵中尉(袖章が細線2条)。徳田金一
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陸軍騎兵大尉。松平容大
1873年(明治6年)9月24日に「陸軍武官服制」(明治6年9月24日太政官布告第328号)が制定される。将校(士官)准士官は、立襟ダブルボタンの半マンテル、長袴(ちょうこ、スラックス)に短靴(たんか、サイドゴアブーツ)の正装を用いた。細部の改正を経つつ、この基本形は帝国陸軍の最期まで用いられることとなった。
1879年(明治12年)3月18日制定の「陸軍服装規則」によると、将校准士官同相当官は、正帽・正衣・正袴・飾帯(佐官(隊附・伝令使を除く)以上。会計・軍医・馬医部の佐官相当官以上および参謀科尉官がこれを用いる)・白手套・下襟・飾緒(参謀科及び伝令使のみ)・正剣(正剣に代わって軍刀を佩用するのは、将官が部隊を率いる場合、参謀科将校が観兵式などにあたりその職を奉じる場合、伝令使及び隊附の佐尉官の場合である)および短靴を着用することとなっていた。
1900年(明治33年)の「陸軍服制」(明治33年勅令第364号)によると、一般将校準士官の第一種帽は、(色合いは黒色に近い)濃紺絨の地質。帽章の日章(旭日章)は金色直径1寸7分。目庇(まびさし)は革で、表が黒色、裏が萌黄色。頤紐(あごひも)が黒革で幅が3分5厘、頤紐釦が直径3分であった。また第一種帽には横章が付されている。上下部縫際に蛇腹組み金線小線(幅1分5厘)1条を付すほか、階級により別に金線が付された。少尉は金線小線1条とし、大佐に至るまで小線1条ずつ増えた。少将は金線大線(幅9分)1条及び小線1条とし、大将に至るまで小線1条ずつ増えた。また、頂上に五芒星の刺繍が付された。正衣袖章は金線で表され、少尉同相当官を1条として、大佐同相当官の金線6条に至るまで1条ずつ増えてゆく。
明治45年2月24日勅令第10号による改正では、第1種帽を正帽と改称すると共に、目庇の裏が黒色(元は萌黄色)となり、顎紐の幅が3分7厘(2厘太くなる)、顎紐止め釦の直径3分5厘(5厘大きくなる)となる。
昭和13年勅令第392号による改正では、正衣について、各部将校准士官(旧相当官)の飾帯の定色の区別がなくなり、一律に緋色となる。
[編集] 正装(下士卒等)
1873年9月24日に「陸軍武官服制」(明治6年9月24日太政官布告第328号)が制定される。下士卒にはシャコー帽が採用された。
1879年3月18日制定「陸軍服装規則」によると、下士卒同相当官は、正帽・正衣・正袴を着し、正帽には前立を装し、各科所用の兵器を携帯し、乗馬本分者は長靴を、徒歩本分者は脚絆を着用した。但し、飾隊儀仗の整列等にあって隊附徒歩本分の下士卒は、下副官および曹長のほか、皆背嚢を負い、毛布を蹄鉄状に付しその上に外套を付着し、嚢中に定規の器具を収め脚絆を袴下に着用した。また、工兵及び鍬兵の下士卒は毛布の代わりに各工具を付着した。また、隊外の下士は、兵科に関せず総て軍刀を佩用した。なお、1880年(明治13年)には、官営千住製絨所が操業を開始し、国産の羅紗地が用いられるようになった。
1900年の「陸軍服制」(明治33年勅令第364号)でも下士卒第一種帽(シャコー帽)は維持された(憲兵および輸卒を除く兵科の下士卒)。憲兵および各部の下士卒の第一種帽は将校准士官のそれに近いものであった。
[編集] 礼装
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寺内寿一陸軍大将(左端)。正装と異なり前立や飾帯を着用しない
「陸軍服装規則」(明治45年軍令陸第1号)では、礼装は前立・飾帯を着用しないほかは正装に同じと規定された。
[編集] 通常礼装
[編集] 昭和13年制式以前
明治初期にはこの分類はなかった。後にこの分類が採用されたが軍装・略装と大差はない。「陸軍服装規則」によれば、暑中以外は軍帽・軍衣・長袴・短靴・刀・刀緒・刀帯を着用した(軍楽部・騎兵科・参謀・副官・週番将校・特務曹長には特則あり)。
なお、当時の規則によれば、勲章従軍記章記念章類を略綬ではなく本章を用い佩用するか否かで通常礼装と軍装とが区別されるわけではない(軍装では勲章・記章の佩用をしないことが許されていたに過ぎない)。
[編集] 昭和13年制式以降
1938年の昭和13年制式で通常礼装は改正され、正衣に用いる肩章(正肩章)に擬似した通常礼装用の肩章が制定され、通常礼装時には昭和13年制式の立折襟冬衣および夏衣にこれを着用する定めとなった。これにはドイツ陸軍の影響があったのではないかという説も一部ではある[8]。
自身が受章している勲記章類を略綬ではなく本章を佩用し、肩章を冬衣夏衣に付し通常礼装とした。
[編集] 軍装・略装
[編集] 明治6年制式
将校の軍衣は濃紺絨(黒色)の肋骨服(ろっこつふく)。
1873年の明治6年制式では、下士卒の略帽は目庇がなかったが、1875年(明治8年)に目庇のある形状に改正され、以後用いられ続けた。
[編集] 明治12年以降
[編集] 将校・同相当官
1879年の明治12年3月18日制定「陸軍服装規則」によると、将校同相当官は、軍装に際しては軍帽(第2種帽と考えられる)、軍衣、軍袴、白手套、下襟、飾緒(参謀官及び伝令使のみ)および軍刀を着用した。
但し、軍袴については乗馬には短袴(たんこ、乗馬ズボン)を用いた。また、隊附徒歩本分の将校は、戦時出征の場合および平時であっても衛兵勤務及び行軍野営演習などの場合には背嚢を負い、外套を背嚢上に付着し、脚絆を着用した。また、会計・軍医・馬医部の将校相当官は、軍装にあっても軍刀に代えて正剣を帯びた。
[編集] 下士卒・同相当官
明治12年3月18日制定「陸軍服装規則」によると、下士卒及び同相当官の軍装は同時期の正装に同じであり、次の点のみ異なっていた。
[編集] 明治19年制式
1886年(明治19年)7月6日に定められた明治19年制式は[注 2]、それまでのフランス型からドイツ型への大きな転換となった。第二種帽や軍衣の地質は、将校等は濃紺絨、下副官以下は紺絨であった。
| 区分 | 第2種帽横章 | 袴 | 袴側章 | ||
|---|---|---|---|---|---|
| 兵科 | 将官 | 緋絨 | 濃紺絨 | 緋絨 | |
| 憲兵佐尉官・憲兵下副官 | 第2種帽なし | 藍絨 | 緋絨 | ||
| 近衛隊に属する佐尉官・下副官 | 緋絨 | 一般に同じ | 一般に同じ | ||
| 屯田兵佐尉官・下副官 | 黄絨 | 藍霜降絨 | 緋絨 | ||
| 近衛隊以外 | 歩兵佐尉官 | 黄絨 | 濃紺絨 | 緋絨 | |
| 砲兵佐尉官 砲兵上等監護 |
黄絨 | 濃紺絨 | 黄絨 | ||
| 工兵佐尉官 工兵上等監護 |
黄絨 | 濃紺絨 | 鳶絨 | ||
| 輜重兵佐尉官 | 黄絨 | 濃紺絨 | 藍絨 | ||
| 騎兵佐尉官・下副官 | 黄絨 | 茜絨 | 萌黄絨 | ||
| 歩兵下副官 | 黄絨 | 紺絨 | 緋絨 | ||
| 砲兵下副官 | 黄絨 | 紺絨 | 黄絨 | ||
| 工兵下副官 | 黄絨 | 紺絨 | 鳶絨 | ||
| 輜重兵下副官 | 黄絨 | 紺絨 | 藍絨 | ||
| 各部 | 監督部・軍吏部の将校相当官 | 花色藍絨 | 濃紺絨 | 花色藍絨 | |
| 衛生部の将校相当官 | 深緑絨 | 濃紺絨 | 深緑絨 | ||
[編集] 第二種帽
第二種帽は天井部分の喰出(はみだし)が小さいタイプであった。星章(帽章)は金色で中心より尖頭に至るまで5分(1.5cm)。眼庇は黒革、幅1分5厘(0.5cm)の頂端線は喰出に付した。下部(鉢巻部分)の高さは1寸7分強(5.2cm強)で、横章は将官・佐尉官・各部等で色が異なっていた。
将官の下部(鉢巻部分)は緋絨に幅1分(0.3cm)の濃紺線3条が入るような形状であった各兵科佐官および同相当官は黄絨に濃紺線2条、各兵科尉官および同相当官は黄絨に濃紺線1条であった[注 3]。上等監護及び下副官以下は濃紺線が入らない。
なお、各部の将校相当官はそれぞれ相当する将佐尉官の形状に同一で、ただ緋絨ではなくそれぞれの部の定色が用いられた。
[編集] 軍衣
下士卒軍衣は紺絨の立襟釦留めの短上衣で、襟には定色絨であり、肩章には所属の連隊ないし大隊番号が付され、階級は袖の線により表示される。
[編集] 袴
袴の側章について、将官および同相当官は幅1寸1分の大線2条及び幅1分の小線1条を、佐尉官は大線幅1寸3分の大線1条を付した。なお、騎兵佐尉官は短袴であった。
[編集] 明治26年制式
1893年の明治26年制式は将校准士官下副官の夏衣のみの改正で、他の服装については改正はない(明治26年勅令第25号)。これは明治33年制式でも継続された。将校准士官夏衣は白色の立襟で銀色5つ釦。物入(ポケット)は左胸と左右腰部に雨蓋(フラップ)なしのものが付された。階級は袖章で区別したが、将佐尉官は銀色の星章の数で、大中少はその上部に付された線章の数で判別した(例:星章2個の線章1本は少佐)。
その後、特務曹長及び監視区長が設けられたことに伴い、1894年(明治27年)に「陸軍各兵特務曹長及監視区長服制ノ件」(明治27年勅令第110号)が制定された。特務曹長及び監視区長の服制は、各々その兵科の下副官と同じとされた。
また、1893年4月6日に憲兵刀が廃止され、憲兵下士卒は騎兵刀を佩用することとなった(明治26年4月6日陸達第36号)。
[編集] 垂布(在台湾陸軍軍人)
1899年(明治32年)7月7日に制定された「在台湾陸軍軍人ノ日覆ニ白布ヲ垂下ス」(明治32年7月7日勅令)により、在台湾の陸軍軍人は夏季日覆を付した帽の後方に白布3条を垂下することが認められた。これは炎熱の地に服務することから日射から後頭部を保護する目的で定められた特則である。同様のものは第二次世界大戦中、略帽に付されて用いられた。
[編集] 戦地服(北清事変)
1900年の北清事変(義和団の乱)では、白色の夏衣に代わってカーキ色の夏衣が現地の一部部隊に限って貸与された。
[編集] 明治33年制式
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1904年(明治37年)当時の下士卒の軍衣。近衛後備混成旅団のため第二種帽の鉢巻は緋色
明治33年制式は、1900年(明治33年)9月8日に制定された「陸軍服制」(明治33年勅令第364号)に基くものである。従来の「陸軍将校服制」及び「陸軍下士以下服制等」が統合されて一つの勅令となった。
[編集] 第二種帽
将校准士官第二種帽は明治19年制式から殆ど変更はなく、監督部の横章が銀茶絨(明治19年制式では軍吏部と共に花色藍絨であった)に変更された程度であった。
将校准士官第二種帽は濃紺絨で星章は金色、横章が官によって異なった。下士卒第二種帽は色が紺絨と将校准士官の濃紺絨よりも色は薄く、星章が真鍮である点などが異なっていた。大線は幅1寸5分であった。
[編集] 軍衣
将校准士官の軍衣(ぐんい、冬服)は、濃紺絨の肋骨服(騎兵を除き胸章は角打黒毛糸組で直径2分、胸部左右各5個)であった。物入は腰部左右に各1個。正衣同様の袖章によって階級を区別した。
下士卒軍衣(騎兵・軍楽部除く)は紺絨の立襟5つ釦。物入れは左胸裏面に1個付され、工兵のみ右胸部の2個が付された。襟章・肩章の定色によって、近衛兵や兵科部を区別した。階級は袖章で区別した。
騎兵を除く各兵科卒の袖章について、黄絨小線幅2分は、上等兵は3条、一等卒は2条、二等卒は1条。袖口より2寸上り、表半面に付着し各間隙は1分である。騎兵を除く各兵科下士の袖章について、平織り金線幅2分・黄絨大線幅8分各1条は共通である。黄絨小線幅2分は、曹長・一等工長は3条、軍曹・二等工長は2条、伍長・三等工長は1条。
[編集] 夏衣
将校准士官の夏衣(かい、夏服)は明治26年制式夏衣に同じ。夏衣袖章は将佐尉を星章の数で、その上の線章の数で大中少を表した。下士卒夏衣は白色の立襟ホック留め。袖章は衣とは異なり山形。
[編集] 明治37年戦時服
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乃木大将は通常の軍衣。右端の将校が着用している戦時服は、胸部物入がなく、袖章(星章3つは将官)があることから明治37年戦時服(茶褐色夏衣袴)であると思われる。手前の将校の軍帽は比較的後世の形に近い。1905年(明治38年)1月5日
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1904年頃の伊地知幸介
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1904年頃の陸軍歩兵大尉(右)。畑英太郎
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陸軍歩兵少尉。明治37年戦時服制による釦6個の濃紺絨衣袴を着用。円形5分5厘の銀釦は5個又は6個が制式である。東條英機
日露戦争(1904年(明治37年)2月10日宣戦布告、1905年(明治38)9月1日休戦成立)に際しては、戦時服が「戦時又ハ事変ノ際ニ於ケル陸軍服制ニ関スル件」(明治37年勅令第29号)、その後「陸軍戦時服服制」(明治38年勅令第196号)により定められた。
「戦時又ハ事変ノ際ニ於ケル陸軍服制ニ関スル件」(明治37年勅令第29号)では、将校准士官同相当官の軍衣を夏衣同様の製式で作成することを認めた。もっとも、夏衣のままの白色では戦場で目立つため、濃紺・紺絨の地質で、袖章も黒色とした。釦の数は5個又は6個と幅を持たせた。また、将校以下の夏衣・夏袴・日覆・垂布は茶褐色とすることを認めた。
[編集] 明治38年戦時服
「陸軍戦時服服制」(明治38年勅令第196号)では、のちの明治45年制式/四五式に類似した服制が定められた。後年の軍帽と同様の形式のものが第二種帽として制定される。将校相当官の帽用星章と頤紐釦は銀色。
襟部には襟章(兵科部定色の布)および、襟部徽章(隊附はアラビア数字、後備隊附はローマ数字、国民軍附は右側にローマ数字で左側にアラビア数字。それぞれ隊号を表記)を佩用した。
[編集] 明治39年制式
1906年(明治39年)4月12日、「陸軍戦時服服制」は「陸軍軍服服制」と改められた(明治39年勅令第71号)。これによって、臨時のものであった陸軍戦時服は以後も着用するものとなった。もっとも、「陸軍軍服服制」における第2種帽・衣・袴・外套等の地質は、下士卒等にあっては当分の間は濃紺絨を以て茶褐絨に代用することが許された。これは、日露戦争の終結により大量の濃紺絨の生地が余ってしまったことからこれを費消するための過渡的措置であった。
ここに、帝国陸軍の軍装・略装は従来の濃紺色・紺色から茶褐色(カーキ色)へと色彩面で極めて特徴的な転換が行われた。
[編集] 明治45年制式
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陸軍中将。1915年頃の神尾光臣
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1930年の霧社事件における在台湾の将校。通常とは異なる帽を着用している
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陸軍中将。1932年以降の後宮淳
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陸軍少将。1931年頃の香椎浩平
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陸軍軍医少佐ないし陸軍三等軍医正(少佐相当官)。1932年当時の石井四郎
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九〇式鉄帽を着用した戦地における外套姿。1937年12月13日
[編集] 明治45年
1912年(明治45年)制式の明治45年制式および四五式は、明治45年勅令第10号による改正によるものであり、「陸軍軍服服制」(明治39年勅令第71号)の明治39年制式をほぼ踏襲している。平時着用の軍服としては初めて茶褐色(カーキ色)の生地を採用し、軍衣袴および外套にはパイピングとして緋色線の装飾が付されるもので、幾度の改正を経ながら1930年の昭和13年制式までの20年間以上使用された。
この軍装が主に使用された戦争は次の通りである。
[編集] 軍帽
軍帽の地質は茶褐絨、鉢巻及び天井喰出は緋絨、天井喰出の下部において左右両側に金色金属の鳩目打小孔各2個を付す。帽章は星章とされたが、「近衛の称呼を冠する近衛師団の軍隊に属する者」に限り星章を桜葉で囲んだ物を使用する。将校准士官軍帽の顎紐釦には桜花の模様が入り、下士官兵軍帽(四五式軍帽)の耳釦は無地。
[編集] 軍衣
軍衣の地質は茶褐絨。背中は1枚布で、物入れは将校は左右各2個(胸部物入は雨蓋付き、腰部物入は雨蓋無し)、下士卒の場合は左右胸部に各1個(雨蓋付き)。釦は兵科将校准士官は金色金属、各部将校相当官准士官相当官は銀色金属、兵科下士卒は赤銅、各部下士卒は白銅。
兵科区分にかかわりなく、袖章は将校は緋絨で下士卒は蛇腹組緋毛糸。鏑の全周に喰出しに付す。将校准士官軍衣の鏑袖(袖の折り返し)は4寸(約12cm)。下士兵卒軍衣には、左脇下に表が茶褐絨で裏が褐色麻製の剣留1個を付した。
[編集] 襟章
襟章の地質は各兵科部の定色絨(兵科区分のない将官には無し。各部の将官相当官は有り)。定色(兵科色)は以下の通り。
- 歩兵科 - 緋色
- 騎兵科 - 萌黄色
- 砲兵科 - 黄色
- 工兵科 - 鳶色
- 輜重兵 - 藍色
- 憲兵科 - 黒色
- 航空兵科 - 淡紺青色(航空兵科の新設は1925年(大正14年)のため大正14年制式となる)
- 経理部 - 銀茶色(薄紫色)
- 衛生部 - 深緑色
- 獣医部 - 紫色
- 軍楽部 - 紺青色
形状は古の楯を模した(俗称「鍬型」)。隊号章として歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵・航空兵(1914年に新設)の隊附将兵は、それぞれの連隊又は大隊の番号(隊号)をアラビア数字で、台湾歩兵連隊附は右襟に桜花と左襟にアラビア数字の隊号を、臨時朝鮮派遣歩兵連隊中隊附は右襟に日章・中隊番号と左襟に連隊番号を、独立守備大隊附は右襟に特別章と左襟に大隊番号を付すなどした。また、各兵種(例:野砲兵・山砲兵・重砲兵・野戦重砲兵・高射砲兵)に属する者は隊号章とともに襟部徽章を付す。
[編集] 肩章
形状はフランス陸軍の肩章に倣った物。地質は緋絨(法務官のみ白絨)、縦長の着脱式で、基本的に下士官兵用の官給品は軟芯、将校准士官などの私物は硬芯。線章・星章は、兵科将校准士官下士は金色金属、各部将校准士官下士相当官は銀色金属。兵科卒の星章は黄絨、各部卒の星章は白絨。
[編集] 夏衣
将校准士官同相当官の夏衣は地質が茶褐薄毛織(ウール)または茶褐布(コットン)である点を除き、将校准士官同相当官軍衣に同じ。但し、袖章(緋絨の線1本)は付さなかった。
下士卒の夏衣は地質が茶褐布である点を除き、下士卒軍衣に同じ。但し、袖章(緋色の線1本)は付さなかった。
[編集] 袴
将校准士官同相当官には、茶褐絨の長袴・短袴および茶褐布または茶褐薄毛織の夏長袴・夏短袴が規定されていた。
下士卒には、軍袴・夏袴のみが規定されていた。騎兵科・軍楽部を除く各兵科部下士同相当官卒のそれはスラックス型(長袴)、騎兵科下士兵卒のそれは乗馬ズボン型(短袴)であった。
[編集] 将官・同相当官の特則
将官同相当官には、次の特則があった。
- 通常の茶褐絨の「軍帽」以外に「紺絨帽」が規定されていた。
- 通常の茶褐絨の「軍衣」以外に「紺絨衣」が規定されていた。
- 通常の茶褐布又は茶褐薄毛織の「夏衣」以外に「白夏衣」が規定されていた。
- 通常の茶褐絨の「長袴」・「短袴」及び茶褐布又は茶褐薄毛織の「夏長袴」・「夏短袴」以外に「白長袴」・「白短袴」が規定されていた。
[編集] 大正7年
1918年の大正7年5月4日付陸軍省副官「衣袴及外套仕様改正ノ件陸軍一般ヘ通牒」(陸普第1462号)によると、大正7年度支給の下士卒への衣袴及び外套から新様式のものが給与されるようになり、それに「改四五式」の捺印がされた。これは、軍縮時代で必要とする募兵数が減少したことから徴兵検査の基準が高くなり、体格の良い兵卒が増加したため寸法を全体的に見直した改正である。この段階では、外見上、四五式と改四五式との差は実際には全く無かった。
[編集] 大正9年
1920年の大正9年5月28日陸達第38号により、夏衣袴の茶褐布を帯赤茶褐色から帯青茶褐色に改正した。理由としては次の点がある。
[編集] 大正11年
1922年の大正11年勅令第415号によって、同年9月26日に以下のように改正された。
- 軍帽及び軍衣の地質について、従来は茶褐絨のみとされたが、茶褐布も許容されることとなった。
- 従来は軍衣及び外套には袖章(将校緋羅紗玉縁縫込み、下士官兵蛇腹織緋線)が、長袴及び短袴には側章がそれぞれ付されていたが、これを廃止して軍衣と夏衣を全く同じ製式とする。これは戦地における迷彩性を高める目的や過剰な装飾を除くことで経済性を追求したものと考えられる。一般に「改四五式で緋線が廃止された」と言われるのはこの改正を指している。
[編集] 昭和5年
1930年の昭和5年制式(「昭和5年勅令第74号 陸軍服制中改正」)による改正に基づくものである。</ref>では、尺貫法からメートル法に採寸を改められた。このタイプを「昭五式(しょうごしき)」と呼ぶのは、下士官兵への官給軍服にこの押印がなされていたことによる。このような押印は官給品ではない将校准士官の軍服にはない。従って、将校准士官の軍服を「昭五式」と呼称するのは誤りであり、あくまで「昭和5年制式」である。
将校以下全将兵共通の改正として生地節約のため背中の裁断が二枚はぎになる。また、下士卒(1931年11月に「下士官兵」に改称)の軍衣は着丈がやや短くなり、裏地が七分裏になる。生地の繊維が太くなりざらざらしたものになり旧制式の改四五式と比べ質がやや落ちる。下士卒外套は生地節約のため、釦配列はシングルになるが腰部は帯革留鉤式のままと変更された(夏外套は剣留式)。全体的に事変に対する大量動員を見越した、節約・省略型の改修であった。
なお、本制式はあくまで小規模な改正である「陸軍服制中改正」であり(大規模な改正である「陸軍服制改正」ではない)、既存の大正11年制式からは(下士卒外套を除き)大きな変更点はない。
- 満州事変(1931年(昭和6年)-1933年(昭和8年))
- 上海事変(1932年(昭和7年)1月-同年5月)
- 支那事変(1937年(昭和12年)-)
- 張鼓峰事件(1938年(昭和13年)7月29日-同年8月11日)
- ノモンハン事件(1939年(昭和14年)5月-同年9月)
[編集] 青年将校文化(大11制・昭5制)
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当時の瀟洒な青年将校の標準的なスタイル。軍帽はいわゆるチェッコ式。陸軍砲兵中尉時代の李鍝
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当時の瀟洒な青年将校の標準的なスタイル。軍帽はいわゆるチェッコ式。陸軍航空兵大尉時代の岩橋譲三
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当時の瀟洒な青年将校の標準的なスタイル。軍帽はいわゆるクラッシュ型。陸軍歩兵少尉時代の朝香宮孚彦王
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1932年当時の尉官(軍装)。軍帽はいわゆるロス式。陸軍歩兵大尉時代の鳥飼恒男
他方、若年の将校准士官(青年将校)の間では、襟を高く、ウエストは絞り、襟章や肩章の形に凝り、急角度に付けられたシャープな造形の雨蓋、着丈は短く、釦配列を縮め、短袴は腿部の膨らみを大きく、長袴は美脚効果を狙ったものに、生地色は従来の褐色系から濃緑や薄緑といった青みを増した緑系のものが大流行する。軍帽もチェッコ式(チェコ式、チェック式とも。襠の前部を高くする形状)やクラッシュ型(芯金を抜き天の中部をへこます形状)と言った、大正時代末頃まで標準だったロス式の襠の整った控えめで大人しい形状を打破する大型で派手なものが流行し、目庇も小さめで額に吸い付くかの如く急角度な見栄えのする物も同時に流行した。
それまで外見で将校准士官と下士官兵の軍服に特に大差は無かったが、これらの青年将校文化が華やかなりし頃は、外国軍の要素(主にドイツ国防軍の軍装の影響を強く受けたと言われている)を取り入れ、明らかに将校と解る昭和新時代の当時の若者らしい自己主張を持ったお洒落な軍装が多く現れた。青年将校文化は軍衣袴・夏衣袴・軍帽・正衣袴・正帽・外套・雨覆(マント)・外被・襦袢・手套といった被服のみならず、編上靴・短靴・長靴・巻脚絆・革脚絆・軍刀・指揮刀・図嚢・拳銃・拳銃嚢といった軍装品全般にまで広まることとなり、これら軍装品を扱うテイラーなど各専門店や百貨店、偕行社でも顧客獲得のための競争を行っていた。中でも変わり物としては、栗原安秀陸軍歩兵中尉らと二・二六事件を共謀した中橋基明陸軍歩兵中尉のように、雨覆(マント)の裏地を真紅の緋色生地で仕立てた物などが存在した(緋色裏地の軍衣等は明治19年制式時代等に存在)。
なお、青年将校文化の流行自体は大正11年制式時代から既に起きていたものであり、その源流自体は明治期(シャープな雨蓋の造形は明治39年制式・明治45年制式最初期に存在等)にさかのぼる。また、本格的な大流行は昭和5年制式時代であるが、のちの昭和13年制式(青年将校文化(昭13制))にも引き継がれているため、(青年将校文化は)昭和5年制式だけのものではない。
帝国陸軍におけるこれらの青年将校文化は服制がほぼ共通の准士官間でも流行し、また、将校間においても一般階層出身者のみならず皇族王公族といった特権階層でも広く好まれ、その大流行ゆえに帝国陸軍では事実上公式に認められた一般的な文化となった。なお、保守的な海軍では同時期のみならず全時代を通しこのような青年将校文化は皆無であり、軍服にお洒落を見出す行為の規模は陸軍と比べはるかに小さいものであった。
[編集] 昭和13年制式
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陸軍中将。土肥原賢二
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陸軍中将。安藤利吉
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陸軍中将。安達二十三
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陸軍少将。佐々木登
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陸軍大佐。山崎保代
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陸軍大佐。一木清直
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陸軍大佐。堀場一雄
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陸軍軍医大佐。松本秀治
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陸軍中佐。八原博通
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陸軍少佐。李鍝
1938年(皇紀2598年)の昭和13年制式/九八式は、「陸軍服制改正」(昭和13年勅令第392号)に基づく大規模な改正である。なお、戦間期にはアメリカ陸軍とイギリス陸軍が戦闘服と勤務服を別に採用していたのに対し、帝国陸軍はドイツ陸軍・フランス陸軍・イタリア陸軍・ソ連赤軍ともどもこれに追随することはなかった。
[編集] 青年将校文化(昭13制)
旧制式に引き続き軍装品に個性を見いだす青年将校文化は継承された。軍帽(チェッコ式・クラッシュ型等)や軍服の仕立て、生地色など全体の体裁自体は旧制式の文化と特に変わらないが、本制式で改正された「襟」は台襟は高いままに、従来の立襟を彷彿とさせる折襟部分の開きが小さい仕立てが流行した。また、折襟を固定したり(台襟と縫い付ける、スナップ・ボタンを仕込む等)、第1釦に被る長さ・台襟より大きな折襟を持つものも登場した。
昭和13年制式初期には襟章は制式の規格よりやや細長い物が、また、通常礼装用の肩章には正肩章と同等の高級品(体裁の良い丸打金線)が好まれた。
のちの1940年(昭和15年)には各部および憲兵を除く「兵科区分」が廃止され(胸章)、また戦時色の高まりおよび青年将校が求める体裁の良さから、徒歩本分者(将官・佐官を除く歩兵等の尉官准士官。常勤(略装)時は短靴を、野戦(軍装)時は編上靴と巻脚絆ないし革脚絆を主用)の間でも(儀式の軍装時を除いて)大々的に長靴を履く者が増加した。
[編集] 上衣
[編集] 襟部分
将校准士官の冬衣夏衣は基本的に2個ホック(体格や嗜好に応じて1個ホックにすることも可能)の立折襟だが、下士官兵の軍衣夏衣は平折襟に近い開襟兼用立折襟。折襟への移行については、同様な軍装を採用していたドイツ軍への傾倒によるものという説、当時交戦していた中国国民革命軍の軍服(初期は中独合作によりドイツ軍の軍服に倣って採用していた)の影響と見る説があるが、そもそも戦間期において立襟から折襟への変更は世界的な流れであり(従来の立襟では首元が窮屈であり第1釦をはずしての開襟着用は体裁を損なうため)、同時に襟部の体裁(窮屈さを緩和するために襟高を低くすると見栄えが悪くなる)を考慮したこの新形式になったという説が一般的である。
立襟から折襟への改正によって帝国陸軍の軍服の体裁が大きく様変わりしたことによって、階級にかかわらず一部の古参軍人は(旧制式への愛着や、自身が古株ということを誇示するため)旧制式を好んで着用し、これは第二次大戦敗戦時まで見受けられた。また新制式(折襟)と旧制式(立襟)の併用は認められていた。
主に将校准士官の冬衣夏衣では従来の旧制式を新制式に改造することが多く、その際は新しく折襟部分の生地を前身頃の裏地から取り、立襟に付けるといった工程が踏まれた。
この軍装が使用された主な戦争・事変は次の通りである。
[編集] 胸章
昭和5年制式では兵科部区分を襟章で表していたが、昭和13年制式では胸章で表すことになった。山形(M字型)の定色絨で右胸に着用した。将校准士官胸章は定色線の幅5mm、全幅39mmとされた。下士官兵胸章の場合は、将校准士官と同等のそれに幅3mmの絨製台地が付された。定色は以下の通り。
- 歩兵科 - 緋色
- 騎兵科 - 萌黄色
- 砲兵科 - 黄色
- 工兵科 - 鳶色
- 輜重兵 - 藍色
- 憲兵科 - 黒色
- 航空兵科 - 淡紺青色
- 経理部 - 銀茶色
- 衛生部 - 深緑色
- 獣医部 - 紫色
- 軍楽部 - 紺青色
- 技術部 - 黄色(技術部の新設は1940年のため昭和15年制式となる)
- 法務部 - 白色(法務部の新設は1942年(昭和17年)のため昭和17年制式となる)
- 従来は軍属に相当する陸軍法務官として帝国陸軍の法務部門に属していたものを、各部とし明文化したもの。定色は従来の旧陸軍法務官が軍帽・襟章・肩章等の地質色に使用していた白色を継承)
なお、1940年には昭和15年8月1日陸達第33号および昭和15年勅令第585号による改正が行われ、兵科の胸章が廃止された。陸達の時点では憲兵を除く各兵科の胸章が廃止されることとなっていたが、勅令では憲兵を含む兵科区分の胸章が廃止された(そのため憲兵科には六光旭日形の襟部に付す憲兵徽章が別個制定された)。なおこれはあくまで兵科のみであり、各部の胸章は廃止されておらず帝国陸軍の解体まで存続している。
[編集] 襟章
階級章は肩章から襟章となる。明治45年制式の肩章をベースに形状のみの変更で、将校准士官は平行四辺形、下士官兵は長方形(俗称「座布団」。のちには織出品も生産されている)。大きさは共通の縦18mm、横40mmとされた。白絨の法務官/法務部将兵を除き、地質は緋絨。将校准士官襟章の星章の造型は昭和5年制式までの肩章で使われていた立体型から、平型に変更された。1940年には兵長の階級が新設(伍長勤務上等兵は廃止)されたのに伴い襟章も制定されている。
[編集] 脇裂(将校准士官)
勅令中には、将校准士官冬衣軍衣の脇裂(サイドベンツ)についての定めがある。左脇裂は裂け目の裏面の下端に釦を付して開閉できるようにした。これは、将校准士官は刀帯を上衣の下に帯びていたため、軍刀を左腰から出す必要があったことによる。長さは腕骨上端より下ること210mmが基準とされた。なお、右脇裂はダミーとして裂け目は付すもの実際には裂かない。
[編集] 肩章(将校准士官)
通常礼装用に制定され、軍装・略装には着用されない。正装・礼装(正衣)に用いる肩章(正肩章)に疑似し、丸打金線又は丸打黄絹線で、星章は銀色金属、桜花釦は金色金属で桜花模様が付く。肩章の装着方法は正肩章とは異なり、上衣の肩に設けられた切込孔に裏金具を挿し込む。なお「通常礼装肩章(通礼肩章)」の呼称は俗称であり、制式名称は「肩章」である。
[編集] 肩章(下士官兵)
下士官兵には旧制式の肩章とは異なる横長で着脱式の肩章が制定された。冬衣の地質に同じで、星章及び釦は金色金属。長辺が120mm、短辺を50mmとし、襟側15mmの位置に釦を付すと共に狭まり、最短辺は270mmである。
下士官は肩端に平織黄絹線又は金線の線章を付す。曹長・上等兵は星章3個、軍曹・一等兵は星章2個、伍長・二等兵は星章1個(肩端から50mmの位置に星章1個を付す)を付す。なお「陸軍服装令」上では下士官兵に通常礼装と称する服制は存在しないため「通常礼装肩章(通礼肩章)」の俗称は誤りであり、あくまで制式名称は「肩章」である。
[編集] 上衣細部
- 釦は赤銅から金色金属へ変わる。
- 下士官兵の軍服には新たに腰部物入が付く。
- 下士官兵の冬衣は前身頃は総裏地に戻り、両脇下に襠を付した。下士官兵の夏衣では襠の代わりに通気孔を設けた。
[編集] 防暑衣・開襟夏衣
昭和13年6月1日陸達第31号により、防暑衣(折襟兼用立折襟型)が制定された。夏衣と異なり開襟着用が前提で、脇下には釦で開閉する通気孔を有する。
また、のちに将校准士官には開襟平襟式(背広型)の夏衣が制定された。この開襟夏衣の前釦は3~4個であり、胸部物入はプリーツ入りの貼付型または夏衣と同じ切込型を有する。襟章は上襟部に付けるバージョン(主に前釦4個型)と下襟部に付けるバージョン(主に前釦3個型)の2タイプがある。防暑衣・開襟夏衣ともに開襟シャツないしネクタイ併用のワイシャツを合わせて着用した。なお、これらの防暑衣(折襟兼用立折襟型)・夏衣(開襟平襟型)は、後述の昭和18年制式においても引き継がれた。
[編集] マント(将校准士官)
明治45年制式の「雨覆」を体裁はほぼそのままに、名称を「マント」に改名。また、旧制式では将官・佐官・尉官准士官の階級を大まかに区別するための星章を襟章に用いていたがこれを廃止し(頭巾の首元に付す副章は存続)、上衣用の同制式の襟章を付す。
丈は膝下約30mmを標準とするが、乗馬本分者は同約150mmと為すことも可能。
[編集] 略帽
旧制式の時点で仮制式であり広く用いられていた略帽(通称「戦闘帽(戦斗帽)」)が制式制定された。なお軍帽は儀式・外出・常勤・演習などで従来通り使用されている。
鉄帽の下に被っても邪魔にならないよう、目庇は45mmと短いものとなった。一般の将校准士官下士官兵は横幅26mmの星章(台地について規定はない)、「近衛の称呼を冠する近衛師団の軍隊に属する者」は星章の周囲を桜葉が囲む形状で横幅50mm、縦38mmの帽章を付した。星章自体の地質は将校准士官も下士官兵と同じく黄羅紗製とされたが、金線や黄絹製の星章も広く用いられた。
[編集] 垂布
昭和13年6月1日陸達第31号により、略帽に付す垂布(略帽垂布・帽垂布)が制定された。
[編集] 袴
将校准士官には冬長袴・冬短袴・夏長袴・夏短袴が規定されていた。下士官兵にあっては、袴についてはそれまで徒歩本分者と乗馬本分者で長袴と短袴を振り分けて支給していたがこれを短袴に統一した。
[編集] その他細部
- 軍刀について、第二佩鐶は廃止され記述も単に「佩鐶」のみとなる。正装時も第一佩環のみで佩く。
- 外套に帯革留鉤が無くなり通常の剣留になる。
[編集] 昭和18年制式
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第2総軍総司令官たる元帥陸軍大将(畑俊六)。向かって右胸には功一級金鵄勲章(功一級副章)を、左胸には元帥徽章(上)と将官部隊長章(左)を佩用
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中央が参謀総長たる陸軍大将(梅津美治郎)。昭和18年制式と昭和13年制式が混在している
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陸軍中将。太平洋戦争中後期は略帽を着用することが多かったが、軍帽を廃止したわけではないので軍帽着用の姿もこの他にも多く残っている。牛島満
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陸軍少将。防寒帽を着用。小畑信良
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陸軍大佐。服部卓四郎
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陸軍大尉。盛厚王
1943年の昭和18年制式/三式は、昭和18年勅令第774号による改正に基づくものである。改正点は戦況逼迫による軍服の簡略化と、士気の高揚と秩序を維持するための階級や職種の明示化である。
将校准士官においては甲種幹部候補生や特別操縦見習士官など速成将校のみならず既製服(吊るし服)が普及し、生地の質は低下し釦は鉄製金塗装でのっぺりしたものとなる。肩章孔や鏑袖の省略(廃止ではない)、短袴裾開釦は3つに減らすといった簡略が多く見受けられる。下士官兵用は生産・整備を容易にするため、従来は「一号・二号・三号・四号・五号・六号」となっていたサイズ区分が「大号・中号・小号」の3サイズとなった。一連の流れによる質の低下は続いていたが、昭和18年制式/三式として軍服自体は昭和13年制式/九八式と外見に差異は無く、あくまで襟章と袖章(後述)の改正のみである。
なお将校准士官においては、昭和18年制式の袖章と昭和13年制式の襟章の併用(ないしその逆も)といったイレギュラーは珍しくない。
この軍装が使用された戦争は次の通りである。
- 太平洋戦争中後期(1941年12月8日-1945年)
[編集] 襟章
昭和13年制式では襟章について階級による大きさに差異はなかったが(縦18mm、横40mm)、昭和18年制式の改正により区別化された。将校准士官は横が45mmで統一ながら、縦は将官30mm、佐官25mm、尉官准士官20mmとされた。同時に星章も襟章の大型化に合わせて拡大された。下士官は横40mm、縦20mm。兵は横40mm、縦18mmと昭和13年制式の襟章と同じである。
星章の並びについて、昭和13年制式以前は体裁を重んじて均等に並べることになっており、昇進の度に階級章を買い替えねばならなかった。そのため昭和18年制式では昇進時にそのまま横に星章を付け足す事ができるよう、端から順番に星章を埋めることに改正された。
- 下記の将校准士官襟章の大きさは将佐尉官に限らず全て均一描写
[編集] 袖章
准士官以上の冬衣・夏衣・防暑衣には袖章が制定された。袖章は昭和13年制式で外套・外被に付された線章と、昭和18年制式で新たに制定された星章からなっていた。線章は濃茶褐織紐で、将佐尉官は幅10mm、准士官は幅4mmで袖の全周に付された。星章は金線繍および黄絹繍ないし黄絨で、茶褐絨の台地が付された。将佐尉官は線章の数で、大中少は星章の数で表した(例:線章2本の星章1個は少佐、准尉は星章無しの袖章1本)。
[編集] 胸章
- 航空胸章
- 制定当初は陸軍航空部隊に関係する職種に属する兵科将校および士官候補生のみが佩用することとなっていたが、翌1944年(昭和19年)5月9日には陸軍航空に関係する軍隊・官衙・学校の全ての兵科部将兵および陸軍生徒(実戦部隊の空中勤務者・地上勤務者のみならず、上は航空総軍総司令官・航空総監・航空士官学校校長などから、陸軍航空に間接的に携わる程度な飛行部隊附の経理部将兵や衛生部将兵(軍医・衛生兵)、階級を指定されない少年飛行兵生徒まで広範囲にわたる)が佩用することと改正された。
- 意匠は淡紺絨の台地の中央に星章と桜葉(近衛師団の帽章に近い様式)、航空機の主翼とプロペラを組み合わせた。材質は金銀線製、絹製、織出製がある。冬衣・夏衣・防暑衣の右胸部物入上部に付した。
- 空中勤務者胸章
- 制式名称は「航空用特別胸章」、通称・俗称は「空中勤務者胸章(空中勤務者章)」。佩用区分は操縦者を中心とする航空機に搭乗する空中勤務者(「空中勤務者」は操縦者・偵察者・爆撃手・無線手・射手など、空中勤務を行ういわゆる搭乗員全般を指す用語。地上勤務を行う整備兵・通信兵などは「地上勤務者」と称する)のみ。
- 意匠は淡紺絨の台地にデフォルメされた鷲。材質は金線または織出製。冬衣・夏衣・防暑衣に付し、佩用位置は航空胸章の上部でセットになる。意匠・佩用位置ともにドイツ陸軍の軍服で使用されている国家鷲章に擬似しておりドイツへの傾倒という説もあるが、そもそもデフォルメされた鷲の意匠は陸軍航空においては飛行第64戦隊の旧部隊マーク(「赤鷲」)など、比較的古くから広範囲で使用されているため詳細や因果関係は不明である。
[編集] その他細部
- アルマイト製の「隊長章(部隊長章)」(将官・佐官・尉官による区別有)が制定された。
- 各部の定色胸章を勅令中から除き、代わりに「識別章(識別線)」を設けた。定色絨の識別章は昭和18年制式の襟章下部に付すこととなったが、引き続き胸章も使用されている。
- 夏衣の両脇下に通気孔を設けることが認められた。
[編集] 戦時特例
[編集] 昭和19年特例
1944年12月1日に「大東亜戦争陸軍下士官兵服制特例」(昭和19年勅令第652号)が制定される(「戦時服」)。夏衣袴・冬衣袴・外套・外被・略帽・雑嚢・水筒が省略化された。
[編集] 昭和20年特例
1945年の「大東亜戦争陸軍下士官兵服制特例中改正」(昭和20年勅令第384号)により同特例が「大東亜戦争陸軍軍人服制特例」に改められ、軍服の代用として国民服を使用する事も可能となった。また、近衛師団は禁闕守衛勤務に服する場合を除き、桜葉で囲まれた(「近衛」の称呼を冠する近衛師団に属する部隊に属する者の)星章に代えて一般の星章を用いることができるようになった。
[編集] 軍楽部
- 明治19年制式(1886年7月6日)
- 軍楽部徽章が制定される。
- 明治45年制式(四五式)
- 軍楽部軍衣:濃紺絨、襟は緋絨、紺青絨定色襟章、紺青絨の袖章の下に緋絨のフラップが付く。軍袴は緋絨に紺青絨の側章が付く。
[編集] 開襟夏衣袴・防暑衣袴・防暑略衣袴・防暑襦袢等
[編集] 注釈
- ^ 錦織は明治5年の天長節から着用としているが[2]、刑部は翌年6月としている[3]。
- ^ 明治19年7月勅令第48号(陸軍将校服制改正)及び明治19年12月内閣達第14号(陸軍服制中下士以下服制改正)
- ^ 勅令の規則上では、将官の場合が上下端の大線が幅6分(18.2cm)で、間隙(濃紺絨部分)3条のそれぞれの幅は1分(0.3cm)、小線2条のそれぞれの幅は間隙に同じのものとされ、濃紺絨の生地に緋絨の線を4本縫い付けることとなっていた。佐尉官も同様の規定となっていた。
[編集] 脚注
- ^ 刑部 p 66
- ^ 錦織 p 76
- ^ 刑部 p 67
- ^ 刑部 p 67
- ^ 錦織 p 76
- ^ 錦織 p 76
- ^ 詰襟型であり、天皇は同年11月8日に新御服を着用し伊勢神宮に参拝した。
- ^ 太田臨一郎『日本近代軍服史』
[編集] 参考資料
- 刑部芳則 『洋服・散髪・脱刀 : 服制の明治維新』 講談社、2010年4月。ISBN 978-4-06-258464-7。
- 錦織竹香 『古今服装の研究』 東洋図書、昭和2年。
[編集] 根拠法令
- 明治45年2月24日改正の陸軍服装規則(近代デジタルライブラリー)
[編集] 関連項目
| この「軍服 (大日本帝国陸軍)」は、軍事に関連した書きかけ項目です。この項目を加筆・訂正等して下さる協力者を求めています。 (ポータル:軍事/PJ軍事/PJ軍事史) |