市川雷蔵 (8代目)

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はちだいめ いちかわ らいぞう
八代目 市川 雷蔵
Raizō Ichikawa VIII in Junan-bō Hangan.jpg
『次男坊判官』(1955年昭和30年)、大映)
屋号 升田屋
定紋 三升の中に雷 Mimasu no Naka ni Ikazuchi.jpg
生年月日 1931年8月29日
没年月日 1969年7月17日(満37歳没)
本名 太田吉哉
襲名歴 1. 二代目市川莚蔵
2. 八代目市川雷蔵
別名 亀崎章雄(出生名)
竹内嘉男(旧名)
出身地 日本の旗 日本京都府京都市中京区
職業 歌舞伎役者俳優
ジャンル 映画テレビドラマ舞台
活動期間 1944年1969年
三代目市川九團次(養父)
三代目市川壽海(養父)
太田雅子(永田雅一養女)
当たり役
眠狂四郎雲隠才蔵
主な作品
時代劇
眠狂四郎』シリーズ(12作)
忍びの者』シリーズ(8作)
濡れ髪』シリーズ(5作)
』シリーズ(3作)
炎上
弁天小僧
新・平家物語
現代劇
陸軍中野学校』シリーズ(5作)
若親分』シリーズ(8作)
ある殺し屋
華岡青洲の妻
ぼんち

八代目 市川 雷蔵(はちだいめ いちかわ らいぞう、1931年昭和6年)8月29日 - 1969年昭和44年)7月17日)は、歌舞伎役者・日本の俳優。出生名は亀崎 章雄(かめざき あきお)。後に本名を竹内 嘉男(たけうち よしお)、さらに太田 吉哉(おおた よしや)に改名した。

概要[編集]

京都府京都市生まれ。生後6か月のときに三代目市川九團次の養子となり、15歳のとき市川莚蔵を名乗って歌舞伎役者として初舞台を踏む。1951年昭和26年)に三代目市川壽海の養子となり八代目市川雷蔵を襲名。1954年昭和29年)に映画俳優に転身。1959年昭和34年)の映画『炎上』での演技が評価され、キネマ旬報主演男優賞受賞、ブルーリボン賞主演男優賞などを受賞。1960年代には勝新太郎とともに大映の二枚看板(カツライス)として活躍した。1968年昭和43年)6月直腸癌を患っていることがわかり、手術を受けるが肝臓に転移、翌年7月に死去した。

生涯[編集]

誕生・三代目市川九團次の養子となる(1931年8月 - 1933年)[編集]

市川雷蔵は1931年昭和6年)8月29日京都府京都市中京区西木屋町神屋町で誕生した。出生時の名は亀崎 章雄といった。生後6か月の時に伯父で歌舞伎役者三代目市川九團次の養子となり、本名を竹内 嘉男と改名した[1]

映画評論家の田山力哉によると、雷蔵が養子に出された経緯は次のとおりである。雷蔵の父は母が雷蔵を妊娠中に陸軍幹部候補生として奈良に移り、母は父の生家に留まった。しかし母は父の親族のいじめに遭い、母は父に助けを求めたが無視されたため、たまりかねて実家に戻って雷蔵を出産[2][3]。その時までに両親の仲は決裂しており、母は1人で雷蔵を育てるつもりだったが、間もなく父の義兄にあたる三代目九團次が雷蔵を養子として引き取ると申し出た。母ははじめこの申し出を断ったが最終的に同意、雷蔵は九團次の養子となった[4][3]。雷蔵自身が九團次の養子であることを知ったのは16歳の時[5]、実母との対面を果たしたのは30歳を過ぎてからのことだった[6]

歌舞伎役者となる(1934年 - 1949年5月)[編集]

三代目九團次の養子となってからおよそ2年が過ぎた1934年、雷蔵は京都から大阪へ移った。九團次は幼少期の雷蔵に歌舞伎役者の修行をさせなかった[7]。雷蔵自身も少年時代には歌舞伎役者ではなく海軍士官や医師になることを志したが、近視だったため海軍士官になることは諦めざるを得ず、やがて医師になることも諦め、1946年、3年生の時に中学校を退学。歌舞伎役者となる道を選んだ[† 1][8][9]

1946年11月、15歳の時に大阪歌舞伎座で催された東西合同大歌舞伎の『中山七里』の娘おはなで市川 莚蔵(いちかわ えんぞう、養父・三代目市川九團次の前名[10])を二代目として名乗り初舞台を踏んだ[11]。初舞台から2年余りが経った1949年5月には嵐鯉昇(後の八代目嵐吉三郎、映画俳優・北上弥太郎)や二代目中村太郎らとともに若手による勉強会「つくし会」を立ち上げ、稽古に励んだ[1]。しかし養父の九團次は京都市会議員の子で、歌舞伎役者に憧れて二代目市川左團次に弟子入りした、門弟あがりの役者だった[12]。権門の出ではない九團次は上方歌舞伎における脇役専門の役者に過ぎず、雷蔵はその息子であることに苦しみ続けることになる。

三代目市川壽海の養子となる(1949年6月 - 1951年6月)[編集]

市川壽海との養子縁組が成立した日の記念写真(昭和26年4月)

1949年に雷蔵が「つくし会」を立ち上げたのと同じ時期に、演出家武智鉄二は筋の良い若手歌舞伎役者を起用して、後に「武智歌舞伎」と呼ばれるようになる正統派歌舞伎を上演するようになった[† 2][1]。「つくし会」が武智歌舞伎に参加した[1]ことがきっかけで雷蔵を知った武智は、雷蔵の役者としての資質を高く評価したが、九團次の子のままでは権門が幅を利かせる梨園では日の目を見ずに埋もれてしまうことを案じた[13]。そこで武智は、四半世紀もその名が絶えていた上方歌舞伎の大名跡「中村雀右衛門」を継がせようと考えたが、雷蔵が梨園の権門の出でないことを嫌った三代目中村雀右衛門の未亡人に断られてしまう[14][13]

その後武智は、子がなかった三代目市川壽海が雷蔵を養子にしたいという意向を持っていることを知る。1950年12月、三代目市川壽海は「つくし会」に審査員として立ち会い、『修禅寺物語』の源頼家を演じた雷蔵に高評価を与えていた[1]。壽海は仕立職人の息子という歌舞伎とは無縁の出自を抱えながら、苦労の末に戦中から戦後にかけての関西歌舞伎で急成長をとげ、この頃までには関西歌舞伎俳優協会会長の要職を担う重鎮となっていた[15]。さらに七代目團十郎九代目團十郎が俳名に使っていた「壽海」を名跡として名乗ることを許され[16]、加えて「成田屋」と「壽海老」という、通常ならば市川宗家の者が使用する屋号定紋を許されてもいた[† 3][17]。そこで武智は関係者に働きかけ、この養子縁組を取りまとめることに成功する[18]。壽海は雷蔵に、自身と同じような市川宗家ゆかりの由緒ある名跡である「市川新蔵」を継がせたいと願ったが、これには当時東京で市川宗家の番頭格としてこれを代表する立場にあった二代目市川猿之助が「どこの馬の骨とも知れない役者に新蔵の名跡はやれない」と猛反対[† 4]、交渉の結果「市川雷蔵」の名跡を継ぐことで決着した[19]。養子縁組は1951年4月に成立。同年6月には大阪歌舞伎座で雷蔵襲名披露が行われた[20][21]。なお、映画監督の池広一夫によると三代目市川壽海について、雷蔵の実父ではないかという噂があったという[22]

養子縁組を受けて、雷蔵は現在の本名・太田 吉哉に改名した[20][21]。この名前は姓名判断に凝っていた雷蔵が自ら決めたものだった[23]。ちなみに大映京都撮影所所長だった鈴木晰也によると雷蔵は周囲にも盛んに改名を勧め、大映の関係者の中には雷蔵の勧めで改名した者が20〜30人はいたという[23]。後に結婚する永田雅子も、もとは恭子という名前だったが雷蔵の勧めで雅子に改名している[24]

映画俳優に転身(1951年7月 - 1957年)[編集]

映画『忠臣蔵』で大役の浅野内匠頭を演じた雷蔵
右は上使多門伝八郎の黒川弥太郎
(大映製作、1958年(昭和33年)4月1日公開の『忠臣蔵』より、スチル写真)

1951年に壽海の養子となった雷蔵だったが、若いうちから大役を与えないという壽海の方針もあって、さして良い役は与えられず、楽屋には大部屋があてがわれるという扱いを受けた[25]。そんな中、雷蔵は1954年に大映所属の映画俳優に転身した。

動機について雷蔵自身は日和見的・試験的に映画に出てみようと思ったと述べている[26]が、田山力哉によると雷蔵は以前から自分に対する処遇に強い不満を感じていたところ、1954年に大阪歌舞伎座で催された六月大歌舞伎『高野聖』において、台詞がひとつもない白痴の役が割り当てられたことに憤激し[† 5]、梨園と縁を切ることを決意、かねてから雷蔵を時代劇のスターとして売り出そうとしていた大映の誘いに応じ、映画俳優に転身したという[27]。なお映画俳優転身後に雷蔵がつとめた歌舞伎は1964年1月、前年に落成したばかりの日生劇場で上演された武智鉄二演出『勧進帳』の富樫左衛門のみである。雷蔵はこの時「歌舞伎は年を取ってからでないとだめだが、映画は年を取ったらだめ。若い間、映画で稼いで、年を取ったら歌舞伎をやろうと思っているんです」と語っている[28]。映画俳優になることを決めた後、雷蔵は映画館に足繁く通って東映の時代劇スター中村錦之助の演技を研究した[29]

雷蔵は1954年8月25日公開の『花の白虎隊』で映画俳優としてデビューした。権門の出ではない雷蔵の出自は歌舞伎界では出世の妨げとなったが、関西歌舞伎の重鎮・市川壽海の子である雷蔵は映画界では貴種として扱われた。大映の経営陣は雷蔵を長谷川一夫に続くスターとして売り出す意向を持っており、デビュー作の『花の白虎隊』の後5作目の『潮来出島 美男剣法』(1954年12月22日公開)、6作目の『次男坊鴉』(1955年1月29日公開)と立て続けに主役に抜擢した[30]

デビュー2年目の1955年、雷蔵は『新・平家物語』(1955年9月21日公開)の平清盛役でスターとして注目を集めるようになった。雷蔵の映画を16本監督した田中徳三は、当初雷蔵の俳優としての大成は難しいと感じていていたが、『新・平家物語』で印象が一変したと述べている[31]。また雷蔵の映画を16本監督した池広一夫は、それまで長谷川一夫の亜流のようなことをやっていたのが、じわじわと役者根性が出てきたと評している[32]。映画評論家の佐藤忠男は、『新・平家物語』を境に「長谷川一夫の後を追うように、もっぱらやさ男の美男の侍ややくざを演じた」雷蔵が、「通俗的なチャンバラ映画だけではなく、しばしば格調の高い悲劇も鮮やかに演じるすぐれた俳優になっていった」と評している[33]。雷蔵は足腰が弱く、立ち回りの時にふらつく癖があった[34][35]。元大映企画部長の土田正義によると、立ち回りに不安のある雷蔵に「天下を制した青年清盛」を演じさせるのは大変な冒険だったという[36]。雷蔵も自身の足腰の弱さを自覚しており、同志社大学相撲部へ通い四股を踏むなど様々な鍛錬を行った[37]が改善されず、撮影時にスタッフは足腰の弱さが画面に表れないよう配慮する必要があった[38][39]。雷蔵の映画を18本監督した三隅研次によると、雷蔵は自らの肉体的な弱さに対し強い嫌悪感を持っていたが、ある時期を境にそうした肉体的欠陥を受けいれた上で、それを乗り越えようとする姿勢をとるようになったという[40]。『新・平家物語』を境に雷蔵は、年間10本以上の映画に出演し休日返上で撮影を行う多忙な日々を送るようになった[41]

トップスターとなる (1958年 - 1968年5月)[編集]

1958年昭和33年)、市川崑は『炎上』(1958年昭和33年)8月19日公開)(原作は三島由紀夫の小説『金閣寺』)の主役に雷蔵を抜擢した。市川によると、はじめは川口浩を起用しようとしたが、大映社長の永田雅一に反対され、そこで直感的に雷蔵を指名したという[42]。この役は吃音症に劣等感を持つ暗い学生僧で、大映社内にはそれまで二枚目の役ばかりを演じてきた雷蔵の起用を疑問視したり反対する意見もあった[43]が、「俳優市川雷蔵を大成させる一つの跳躍台としたい」という決意で臨んだ雷蔵[44]はこの役を好演した。市川は雷蔵の演技を「百点満点つけていいと思います。もう何もいうことないですよ」と評した[45]。『炎上』での演技はしばしば、雷蔵自身の生い立ちが反映していると評される。市川崑は「役を通じて何か自分というものを表出しようとしている」「演技を通り越した何か…(中略)…彼がそれまで背負ってきた、人にはいえないような人生の何かしらの表情」があったと評している[46]。田中徳三は雷蔵の複雑な生い立ち、心の地の部分のようなものが出、役と重なり合っていたと評している[47]。池広一夫は、生い立ちにまつわる「人生の隠された部分」、「地の部分」というべきものを演技に出せる雷蔵だからこそできた表現と評している[48]。なお、大映企画部だった辻久一が雷蔵自身の生い立ちが『炎上』での演技に影響しているのではないかと問うたところ、雷蔵はこれを否定しなかった[49]。『炎上』での演技は世間でも高く評価され、キネマ旬報主演男優賞、ブルーリボン賞男優主演賞などを受賞。雷蔵はトップスターとしての地位を確立した[50]

1963年昭和38年)に始まった『眠狂四郎』シリーズは、雷蔵の晩年を代表するシリーズとなった。田中徳三によると、雷蔵は当初主人公・眠狂四郎を演じることに苦戦した。雷蔵自身も1作目の『眠狂四郎殺法帖』(1963年昭和38年)11月2日公開)について、「狂四郎という人物を特徴づけている虚無的なものが全然出ていない」と述べ、失敗作だったことを認めている[51]ものの、4作目の『眠狂四郎女妖剣』(1964年昭和39年)10月17日公開)で虚無感、ダンディズム、ニヒリズムを表現する役作りに成功した[52]。『眠狂四郎』シリーズにおける雷蔵の演技について勝新太郎は、「眠狂四郎をやる時にかぎり、鼻の下がちょっと長くなるのね。死相を出すというのかな。人間、死ぬ時の顔だね、あれは」「立ち回りなんかも、雷ちゃん、顔で斬ってたね。剣で斬らないで顔で斬ってた」と述懐、「雷ちゃんは、眠狂四郎を殺陣でもセリフでもなく、顔でやっていたんだとおれは思うよ」と評している[53]。池広一夫は「何も言わないで、表情もなしで、ただ歩いている姿だけで、背負っている過去みたいなものを表現した」と評している[54]。『眠狂四郎多情剣』の監督を務めた井上昭は、雷蔵以外にも眠狂四郎を演じた役者はいるが、精神性において雷蔵にはかなわなかったと述べている[55]。雷蔵が主演したシリーズの作品数は12本に及び、雷蔵が主演した作品の中で最も多いものとなった。

池広一夫によると、雷蔵は俳優としてキャリアを重ねるにつれ、監督として映画製作に携わることを希望するようになっていったという。池広は雷蔵に対し、監督ではなくプロデューサーとして題材、脚本家、監督、出演者をすべて決める方がよいとアドバイスした[56]1968年昭和43年)1月、雷蔵は「今まで見たこともない新しい演劇をこしらえたい」という決意の下、劇団「テアトロ鏑矢」を設立しプロデューサーとしての活動を始めようとしたが、その直後に病に冒され(下述)、劇団が活動することはなかった[57]。雷蔵の作品14本の脚本を担当した星川清司によると、雷蔵は星川と三隈研次に「映画というのはそう長くないかもしれないなあ。いつか3人で芝居をやろう。新しい仕事をやってみよう」、「黙阿弥の作品を現代的な目でとらえてやってみようよ」語ったこともあったという[58]

死(1968年6月 - 1969年7月17日)[編集]

京都祇園八坂神社境内西楼門裏にある灯篭には、雷蔵と壽海の名が刻まれている

1968年昭和43年)6月、雷蔵は『関の弥太っぺ』の撮影中に下血に見舞われ、入院した[59]。検査の結果直腸癌であることが判明したが、本人には知らされなかった[59][60]。8月10日に手術を受け退院した[60]が、家族は医師から「半年余りの間に再発する」という宣告を受けた[59]。実は、雷蔵は生まれつき胃腸が弱く[61]1961年昭和36年)にも『沓掛時次郎』の撮影後に下血に見舞われており、病院で精密検査を受けた結果、「直腸に傷がある」という診断を受けたことがあった[61]。また、1964年昭和39年)1月に日生劇場で『勧進帳』をつとめた際には武智鉄二に対し、「下痢に悩まされている」と告白している[62]

退院後、雷蔵は『眠狂四郎悪女狩り』(1969年1月11日公開)『博徒一代 血祭り不動』(1969年昭和44年)2月12日公開)の撮影を行ったが体力の衰えが激しく、立ち回りの場面は吹き替えの役者が演じた[63]1969年昭和44年)2月に体調不良を訴え、再び入院。2度目の手術を受けた雷蔵はスープも喉を通らなくなるほど衰弱していた[64]が、『あゝ海軍』で海軍士官の役を演じることに意欲を見せ、関係者と打ち合わせを行っていた。しかし復帰がクランクインに間に合わず、大映は代役に二代目中村吉右衛門を立てて撮影することを決定。そのことを新聞を読んで知って以来、雷蔵は仕事の話を一切しなくなった[65][64]。7月17日、肝臓への癌転移のため死去。37歳没。葬儀は7月23日に大田区池上本門寺で行われた。墓所も同寺にある。戒名は「大雲院雷蔵法眼日浄居士」。

死の間際、雷蔵は混濁した意識の中で死に顔を誰にも見せないよう何度も懇願したといわれている[66]が、太田雅子はこれを否定し、「雷蔵は最後まで復帰をあきらめておらず、遺言は一切なかった」と述べている[67]。死後、雷蔵の顔には白布が二重に巻かれ、火葬されるまで解かれることはなかった[68]。太田雅子によると、雷蔵本人の「痩せてしまった姿を誰にも見せたくない」「きれいな顔のままを皆さんに覚えておいてもらいたい」という願いから、死後は、養父の壽海と社長の永田以外の者には死に顔を見せなかったという[64]

最後の出演作品となったのは『博徒一代 血祭り不動』(1969年昭和44年)2月12日公開)で、当時人気だった東映任侠路線を明らかに意識した作品だった。雷蔵は「鶴田浩二の二番煎じをやらすんかい」と出演を渋ったが、土田正義が「次は(雷蔵が)やりたい作品に出演させる」と説得し出演が決まった経緯があった。後年、土田はやりたくないと言っていた映画が最後の出演作になったことについて後悔の念を述べている[69]。雷蔵の死から2年後の1971年昭和46年)、大映は倒産した。星川清司は、「雷蔵の死は、大映の倒産を象徴する出来事だった」と回顧している[70]

死後(1969年7月17日 - )[編集]

死から5年後の1974年にはファンクラブ「朗雷会」が発足[71]2012年現在も活動を続けている。大映京都撮影所で製作部長を務めた松原正樹によると、雷蔵のファン層はその演技や人間性に惹かれたと思われるインテリの女性が多いところに特徴があり、「キャーキャーとさわぐようなタイプなど見当たらなかった」という[72]。また京都では、雷蔵の命日にあたる7月17日に行われる「市川雷蔵映画祭」で主演作品を上映することが夏の恒例行事となっている[73][74]2009年12月から[75]2011年5月まで[76]雷蔵の出演作品を上映する『没後40年特別企画 大雷蔵祭』が開催された。

家族[編集]

プライベートでは1962年昭和37年)に永田雅一の養女・永田雅子と結婚[77]。3人の子供が生まれている[78]。雅子は生前の雷蔵から「表には一切出ないように」と言われており[79]、雷蔵の死後、雷蔵について語って欲しいという依頼を断り続けていた[80]が、死後40年を経た2009年平成21年)、『文藝春秋2009年平成21年)5月特別号に太田雅子の名で回想記「夫・市川雷蔵へ四十年目の恋文」を発表している。

受賞歴[編集]

雷蔵、雷蔵を語る』、巻末の年譜による。

評価[編集]

演技[編集]

脚本家の八尋不二は雷蔵の人柄について、「誰に対しても、おごらず、たかぶらず、常に礼儀正しかった」と評しており、その性格が芸風にも反映されていたとしている。八尋は、「数ある時代劇の俳優の中にも、もう彼のように、折り目の正しい、いい意味での、本当の武士らしい武士になりきれるものは一人もいない」と述べている[81]

池広一夫は、雷蔵の生い立ちが役者としての雷蔵に「非情の影」を落とし、その結果人生の影の部分、地の部分が出ていた。しかも単に出すのではなく噛みしめて出していたと評している[82]。雷蔵の出演作品で最も多く監督を務めた森一生は、雷蔵は自身が抱える「誰にもいっていない人間的な苦しみ」に耐え、芝居に昇華させていたと述べている[83]。森が映画評論家の山根貞男によるインタビューを受けた際、2人は雷蔵に「さわやかな悲しさがある」という見解で一致した。山根はこの言葉の意味を「悲劇を演じることが多いがのですが、ただ暗くゆううつというのではなく、どこかにスカッとした面があります。悲しみとさわやかさの両方を備えた役者というのは雷蔵以外にはいません」と解説している[84]

佐藤忠男は雷蔵の演技について、時代劇、現代劇を問わず、「どんなにみじめな役でも、どんなに滑稽な役でも、それを格調高く演じることによって作品に気品を与えた」と評している[85]。評論家の川本三郎は雷蔵の演技の良さについて、「ここにいながらここにいない」ともいうべき「濁世にあっていつもまなざしを遠くへと向けている透明感」にあると評し、この透明感ゆえに「取りようによってはキザなセリフが、そうはならない」と述べている[86]

鈴木晰也は、雷蔵と同じように武智歌舞伎から映画俳優に転身したが、大成せずに結局歌舞伎の舞台に戻った二代目中村扇雀七代目大谷友右衛門を引き合いに出して、梨園で子役時代を経験しなかった雷蔵が歌舞伎に染りきらなかったことが映画で成功した大きな要因だったと分析している[87]

容姿[編集]

雷蔵には普段は地味で目立たない容姿だが、撮影時にメークをすると一変するという特徴があった。多くの映画関係者がこの特徴に言及している。

市川崑は、雷蔵の本質は「硬質かつ素朴」で、通常のスターが特定のキャラクターを通すのに対し、持前の素朴さが「メーキャップでどうにでも変わる」ところに特徴があったと評している[88]。井上昭は、メークを施すと普段の姿とはまったく違って美しく見えたといい[89]、また「『え、これが!?』というぐらい、メークでパッと変わる」とも述べている[90]。田中徳三は、「手応えのない温和さと、清潔な雰囲気を持ったこの人は、仕事になると凛然と肩を上げて、着実で重厚な、そして絢爛たる演技者に変貌した。これは素顔を知っている私には、目をみひらくような驚きであった」と評している[90]

井上昭によると、デビュー時に雷蔵は勝新太郎や花柳武始とともに長谷川一夫からメークの指導を受けた。他の2人は、教わった通りにメークをしていたのに対し、雷蔵だけは自己流を通す部分が多かったという。井上は、目張りや眉毛のメークに雷蔵の独自性が表れていると分析している。さらに井上によると、雷蔵は主要なメークを自身の手で行い、その様子を人に見せようとはしなかったという。井上は、雷蔵にとってメークは役柄に没頭していくプロセスであったため、他人には見られたくなかったのだと推測している[91]

『好色一代男』の脚本を書いた白坂依志夫は、普段は商社マンのようだが「スクリーンに登場すると、驚くべき変貌を遂げ、明るさのなかに、虚無と一抹の郷愁をたたえた雄々しく、美しい青年スタア」に変貌を遂げると評している[92]。井上昭は、雷蔵が主演した作品のポスターには後姿の雷蔵が顔だけ振り向いている構図のものが多いが、これは後姿にこそ雷蔵の持つ虚無的な魅力が出ると多くの監督が感じていたためだと述べている[93]

勝新太郎との比較[編集]

雷蔵の狸吉郎(左)と勝の栗助(右)
間に若尾文子のきぬた姫
(大映製作、1959年昭和34年)12月27日公開『初春狸御殿』より、スチル写真)

雷蔵は脇役専門の役者・三代目市川九團次の子で、かつては二代目市川莚蔵といった。勝新太郎は長唄三味線方・杵屋勝東治の子で、かつては二代目杵屋勝丸といった。その雷蔵と勝が大映と専属契約を結んだのはともに1954年で、ふたりは同期入社だった。1931年生まれの同い年で、歌舞伎に早々と見切りをつけ、映画という新天地を選んだ点で、このふたりは良く似た境遇にあった。

前述のように大映の経営陣は雷蔵を長谷川一夫に続くスターとして売り出す意向を持っており[94]、「スムーズに軌道に乗った」[95]。一方田中徳三によると、デビュー当初の勝は「長谷川一夫さんの二番煎じのような」白塗りの二枚目を演じていた[96]が、監督も配役も一流のものとはいえず、長らくヒット作に恵まれなかった[97]

勝が興行収入や話題において雷蔵を凌ぐほどの活躍を見せるようになったのは、1960年代に入って主演した『悪名』シリーズや『座頭市』シリーズがヒットしてからのことであった[98]。鈴木晰成は、勝は「70〜80本撮って何ひとつ当たらん状態が続いた後、『悪名』でようやく使いものになった」[99]と述懐している。また田中徳三によると、1960年の『不知火検校』で野心的な悪僧を演じて絶賛されるまでは勝の出演作は客入りが悪く、映画館主からはなぜあの俳優ばかりを使うのかという苦情が寄せられるほどだったという[100]。1959年当時の状況について勝は、「番付が違う。雷ちゃんはもうすぐ大関、横綱になるのが分かってたわけだから。おれのほうは、三役になれるかなれないかというところ」と振り返っている[101]

「勝」と「雷」を掛け合わせて「カツライス」と呼ばれるまでになった大映の「二枚看板」市川雷蔵と勝新太郎[102]は、その容姿や芸風が大きく異なることから比較の対象とされることが多く、2人はライバル関係にあると一般には思われていた。しかし「勝っちゃん」「雷ちゃん」とお互いを呼び合う2人の仲は、関係者によると決して悪いものではなく、むしろ親しい関係にあったという[98]。そもそも雷蔵は、勝の妻である中村玉緒とは、玉緒の父が関西歌舞伎の二代目中村鴈治郎という関係もあって、彼女が幼少時から親交があった[103]

作家の村松友視は、「大きい役とは縁がなく、門閥と因襲にしばられる歌舞伎界で、悶々とした日々をすごし」た雷蔵[104]と、歌舞伎界において裏方である長唄三味線の出身である勝[105]には、ともに「一種のコンプレックスが、解決すべき重大な問題としてあった」のであって、「同じようなエネルギー源となる要因」を持っていたのだと指摘している[105]

俳優としての比較
雷蔵は台本が完成するまでは作品について色々と意見を言う性格で、「ゴテ雷」と呼ばれた。ただし一度納得すると不平や愚痴を言うことはなく、撮影に入ってから意見を言うこともなかった[106][107][108][109]。一方、勝は台本の段階では何も言わず、撮影現場で意見をするタイプで、台本とは全く違う演技をしてスタッフを困らせることもしばしばあった[110][111]
井上昭によると、雷蔵は監督の演出方法に合わせて役を演じることができた。そのため、たとえば同じ眠狂四郎でも監督が違うと匂いや味が違うのだと述べている。一方勝の場合は、監督が違っても「座頭市だったら、全部、勝ちゃんの座頭市」になると述べている[112]。鈴木晰也も同様の意見を述べている[113]。村松友視は、勝は「何をやっても勝新太郎のイメージ」になるタイプの俳優で、長谷川一夫や片岡千恵蔵らとともに日本の映画スターの本流に属するのに対して、雷蔵は役柄に応じて多彩に演じ分ける、日本の映画スターの中では異色の存在であったと分析している[114]
両者の主演作品で監督した田中徳三は、両者の殺陣を比較して、雷蔵については「腰から下がきまらない点はあるが、それでも十分にリアルな立ち回りもできる人」と概ね肯定的な評価を与えている一方で、「勝ちゃんが巧すぎる」として勝に軍配を上げている[115]
人物像の比較
池広一夫によると、勝は嫌いな相手に対しても「一応調子を合わせる」ことができたが、雷蔵の場合は「嫌いな人は徹底的に嫌う」タイプで、面と向かって「顔も見たくない」という態度をとったという。池広によると、雷蔵が特に嫌ったのは仕事がいい加減な人間だった[116]
大映映画の多くで美術監督をつとめた西岡善信は、映画関係者との人付き合い方について、勝が俳優と飲みに行くタイプだったのに対し、雷蔵は裏方と交流するタイプだったという[117]。田中徳三も、雷蔵はスタッフの面倒見がよく、しばしば自宅へ招いたり一緒に食事をするなどしていたと述べている[118]。星川清司によると、雷蔵は「ネオンのけばけばしい店や有名な料亭」を好まず、「ごくふつうの料亭で格式ばらずに」、「真正直に映画論や人生論をたたかわした」[119]
雷蔵の『眠狂四郎炎情剣』と勝の『座頭市二段斬り』をほぼ同時期に手がけた撮影監督の森田富士郎は、両者の性格について、雷蔵は真面目、勝は破れかぶれな性格だったと述べている[120]

出演作品[編集]

これまでに確認されている雷蔵の出演作品は159本である[75]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 雷蔵自身は、中学をやめて家で過ごすうちになんとなく芸能界に興味を持ち、なんとなく歌舞伎役者になったと述べている(市川1995、16-18頁。)。
  2. ^ 武智歌舞伎の第1回公演は1949年12月に行われている。
  3. ^ 「壽海老」は本来、市川宗家の御曹司・市川海老蔵替紋の代替に使う役者文様である。
  4. ^ 先代の五代目市川新蔵九代目市川團十郎に見込まれてその養子となり、ゆくゆくは「十代目團十郎」となることが期待されたが病を得て早世したという経緯があった。
  5. ^ 武智鉄二は、『高野聖』での配役に憤った雷蔵が武智に対し、「こんなことでは、永久に、脇役者にされてしまいます」と語ったことを明かしている。(ノーベル書房(編)1991、196頁。)
  6. ^ a b c d e f 特別出演

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 雷蔵、雷蔵を語る、巻末の年譜。
  2. ^ 田山1988、14-15頁。
  3. ^ a b ノーベル書房(編)1991、265頁。
  4. ^ 田山1988、15-17頁。
  5. ^ 市川1995、52-53頁。
  6. ^ ノーベル書房(編)1991、264-266頁。
  7. ^ 市川1995、16頁。
  8. ^ 田山1988、18頁。
  9. ^ 保阪2001、321頁。
  10. ^ わたしの雷蔵、260頁。
  11. ^ 田山1988、18-19頁。
  12. ^ 田山1988、17頁。
  13. ^ a b ノーベル書房(編)1991、195頁。
  14. ^ 田山1988、21-22頁。
  15. ^ 『上方歌舞伎・想い出の俳優』「三世市川壽海」(奈河彰輔、歌舞伎美人)2010年2月16日 閲覧。
  16. ^ 『團十郎辞典』「壽海」(成田屋、市川團十郎・市川海老蔵公式サイト)2010年2月16日 閲覧。
  17. ^ 『歌舞伎ファン』「右之助君、5月22日のNHK教育TVに出演」[リンク切れ]船木浩司[リンク切れ])2010年2月16日 閲覧。
  18. ^ 田山1988、22-23頁。
  19. ^ 田山1988、27頁。
  20. ^ a b 田山1988、27-28頁。
  21. ^ a b 市川1995、297-298頁。
  22. ^ 室岡1993、208頁。
  23. ^ a b 村松2006、234-236頁。
  24. ^ 田山1988、74頁。
  25. ^ 田山1988、28頁。
  26. ^ 市川1995、20-21頁。
  27. ^ 田山1988、28-30頁。
  28. ^ 田山1988、76-77頁。
  29. ^ 保阪2001、324頁。
  30. ^ 田山1988、34-35頁。
  31. ^ 室岡1993、102頁。
  32. ^ 室岡1993、210頁。
  33. ^ 佐藤2006、298頁。
  34. ^ 田山1988、34頁。
  35. ^ 室岡1993、254・270頁。
  36. ^ 室岡1993、270頁。
  37. ^ 室岡1993、210頁。
  38. ^ 室岡1993、254頁。
  39. ^ ノーベル書房(編)1991、282-283頁。
  40. ^ ノーベル書房(編)1991、282-283頁。
  41. ^ 田山1988、47頁。
  42. ^ 室岡1993、11-12頁。
  43. ^ 室岡1993、12・271頁。
  44. ^ 市川1995、32頁。
  45. ^ 室岡1993、23頁。
  46. ^ 室岡1993、17-18頁。
  47. ^ 室岡1993、107頁。
  48. ^ 室岡1993、206-208頁。
  49. ^ 田山1988、57頁。
  50. ^ 田山1988、54-57頁。
  51. ^ 市川1995、218-220頁。
  52. ^ 室岡1993、113-116頁。
  53. ^ 室岡1993、256頁。
  54. ^ 田山1988、72-73頁。
  55. ^ 保阪2001、328-329頁。
  56. ^ わたしの雷蔵、38-39頁。
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  58. ^ 保阪2001、319頁。
  59. ^ a b c 田山1988、86頁。
  60. ^ a b 太田2009(『文藝春秋』2009年平成21年)5月特別号、361頁。)
  61. ^ a b 田山198858頁。
  62. ^ 田山1988、79頁。
  63. ^ 村松2006、243頁。
  64. ^ a b c 太田2009(『文藝春秋』2009年平成21年)5月特別号、362頁。)
  65. ^ 村松2006、260頁。
  66. ^ ノーベル書房(編)1991、257頁。
  67. ^ 太田2009(『文藝春秋』2009年平成21年)5月特別号、362-363頁。)
  68. ^ 田山1988、6-7頁。
  69. ^ 室岡1993、210頁。
  70. ^ 室岡1993、122頁。
  71. ^ わたしの雷蔵、前書きおよび奥付
  72. ^ 保阪2001、311頁。
  73. ^ 京都映画スポット” (日本語). e京都ねっと. 2010年2月16日閲覧。[リンク切れ]
  74. ^ 近年の市川雷蔵映画祭についてはRCSのホームページ(2009年[リンク切れ]2008年[リンク切れ]2007年[リンク切れ])を参照。
  75. ^ a b 大雷蔵祭” (日本語). 角川映画. 2010年2月16日閲覧。
  76. ^ 大雷蔵祭 FINAL” (日本語). 角川映画. 2011年8月1日閲覧。
  77. ^ 太田2009(『文藝春秋』2009年平成21年)5月特別号、357頁。)
  78. ^ 太田2009(『文藝春秋』2009年平成21年)5月特別号、358頁。)
  79. ^ 保阪2001、332頁。
  80. ^ 太田2009(『文藝春秋』2009年平成21年)5月特別号、354頁。)
  81. ^ ノーベル書房(編)1991、245頁。
  82. ^ 室岡1993、208頁。
  83. ^ 保阪2001、325頁。
  84. ^ 保阪2001、325頁。
  85. ^ 佐藤2006、368頁。
  86. ^ 川本2005、164頁。
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  89. ^ 室岡1993、256頁。
  90. ^ a b ノーベル書房(編)1991、287頁。
  91. ^ 保阪2001、327-328頁。
  92. ^ ノーベル書房(編)1991、258頁。
  93. ^ 保阪2001、328頁。
  94. ^ 田山1988、34-35頁。
  95. ^ 村松2005、78頁。
  96. ^ 室岡1993、103-104頁。
  97. ^ 村松2006、99-100頁。
  98. ^ a b 村松2006、94・100-101・134-135頁。
  99. ^ 室岡1993、393頁。
  100. ^ 村松2006、99頁。
  101. ^ 室岡1993、228頁。
  102. ^ 保阪2001、309頁。
  103. ^ 市川1995、264頁。
  104. ^ 村松2005、82頁。
  105. ^ a b 村松2005、86頁。
  106. ^ 田山1988、36頁。
  107. ^ 室岡1993、104頁。
  108. ^ ノーベル書房(編)1991、243-244頁。
  109. ^ 村松2006、102-103・137頁。
  110. ^ 室岡1993、104-106頁。
  111. ^ 村松2006、103頁。
  112. ^ 室岡1993、265-266頁。
  113. ^ 村松2006、135-136頁。
  114. ^ 村松2005、84-85頁。
  115. ^ 室岡1993、118頁。
  116. ^ 室岡1993、208頁。
  117. ^ 村松2006、90頁。
  118. ^ 室岡1993、106頁。
  119. ^ 保阪2001、320頁。
  120. ^ 室岡1993、300頁。
  121. ^ 雷蔵、雷蔵を語る』および『市川雷蔵とその時代』巻末の資料をもとに、上映年別に記載(『おてもやん』のみMovie Walkerを参照)。

参考文献[編集]

関連書籍[編集]

  • 『雷蔵、雷蔵を語る』 市川雷蔵、飛鳥新社、1995年/朝日文庫、2003年
  • 『雷蔵の色』 村松友視、河出書房新社、2009年7月
  • 『雷蔵好み』 村松友視、集英社、2002年/集英社文庫、2006年
  • 『市川雷蔵』 石川よし子(編)、三一書房、1995年
  • 『わたしの雷蔵』 石川よし子(編)、国書刊行会、2008年
  • 『市川雷蔵出演映画作品ポスター集』 粟田宗良(編)、ワイズ出版、1999年
  • 『侍…市川雷蔵その人と芸』 ノーベル書房(編)、ノーベル書房、1991年
  • 『市川雷蔵とその時代』 室岡まさる(インタビュー・構成)、徳間書店、1993年
  • 『完本市川雷蔵』 山根貞男(編)、アサヒグラフ別冊、1994年/新装版ワイズ出版、1999年
  • 『孤愁 市川雷蔵写真集』 マガジンハウス、1991年
  • 『甦る!市川雷蔵 限定秘蔵版』 近代映画社、1992年
  • 『市川雷蔵の映画と時代』 サンデー毎日別冊、毎日新聞社、1990年
  • 『市川雷蔵 RAIZO 秘蔵傑作スチール・スナップ』 ビクターブックス、1992年
  • 『市川雷蔵 銀幕の貴公子よ永遠に』 朗雷会編<シネアルバム>芳賀書店、1983年
  • 『RAIZO「眠狂四郎」の世界』 <歴史読本1994年11月特別増刊号>、新人物往来社、市川雷蔵没後25年記念出版

外部リンク[編集]