スバス・チャンドラ・ボース

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スバス・チャンドラ・ボース
Subhas Bose.jpg
সুভাষচন্দ্র বসু
通称: ネータージー
生年: 1897年1月23日
生地: British Raj Red Ensign.svgイギリス領インド帝国
没年: 1945年8月18日(満48歳没)
没地: Merchant flag of Japan (1870).svg 台湾
思想: 民族主義
活動: インドの独立運動家
所属: インド国民会議派
自由インド仮政府
インド国民軍
投獄: 1924年

スバス・チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose、ベンガル文字সুভাষচন্দ্র বসু1897年1月23日 - 1945年8月18日)は、インドの独立運動家、インド国民会議派議長、自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高司令官。民族的出自はベンガル人ネータージー(指導者、नेताजी, Netāji。ネタージネタジ とも)の敬称で呼ばれる。なお、スバスの部分は、シュバス(Shubhas)とも発音される。

目次

プロフィール [編集]

生い立ち [編集]

1897年にインド(当時はイギリス領インド帝国)のベンガル州カタク(現在のオリッサ州)に生まれ、カルカッタ(現在のコルカタ)の大学を卒業、両親の希望でイギリスケンブリッジ大学に留学した。

独立運動家 [編集]

マハトマ・ガンディー(左)とボース(右)

しかし1921年マハトマ・ガンディー指導の反英非協力運動に身を投じ、1924年にカルカッタ市執行部に選出されるも、逮捕・投獄されビルママンダレーに流される。

釈放後の1930年にはカルカッタ市長に選出されたが、チャンドラ・ボースの独立志向とその影響力を危惧したイギリスの植民地政府の手により免職された。

その後も即時独立を求めるインド国民会議派の左派、急進派として活躍し、1937年1939年には国民会議派議長を務めた。この間、国民会議派内に前進同盟を結成した。その後、ガンディーら穏健派と対立し国民会議派を除名される。

ドイツへの亡命 [編集]

ベルリンで行われたインド旅団の結成式
演説しているのはヴィルヘルム・ケプラー

第二次世界大戦勃発後、1941年に密かにインドを脱出して陸路アフガニスタンを経て、ソ連スターリンに協力を要請するが、断られたため、ソ連経由でナチス政権下のドイツ亡命した。

ヒトラーイタリアムッソリーニにも協力を要請するが、ヒトラーには「インドの独立にはあと150年はかかる」と言われ協力を拒否された。ヒトラーがボースを冷遇したのは彼がインド人の中でもナチスがドイツ人と同じくアーリア人に属する兄弟民族とみなしていたヒンドゥスタニ人ではなく、非アーリア系に属するベンガル人であったためとされる。

1937年、秘書のオーストリア人女性[1]エミリー・シェンクル英語版とオーストリアのザルツブルク州バド・ガスタイン英語版で結婚。結婚生活では一女・アニタ・ボース・プファフ英語版をもうけるが、政治的な問題で結婚は公表していない(チャンドラ・ボースは社会主義者だった)。

ドイツでは主に北アフリカ戦線で捕虜となったインド兵から志願者を募り自由インド軍団(兵力3個大隊、約2,000人)を結成し、イギリスと戦火を交えるドイツに協力していた。チャンドラ・ボースのベルリンからの反英ラジオ放送は有名である。

日本への移動 [編集]

伊号第二九潜水艦乗員とスバス・チャンドラ・ボース(1943年4月28日、伊号第二九潜水艦艦橋にて)

日本の対英開戦の知らせを聞いたチャンドラ・ボースは、日本に協力を願い出ることを望むが、すでに独ソ戦が始まっており、往路と同じルートを取りインドへ戻ることは不可能だった。

しかし、太平洋戦争大東亜戦争)開戦後の1942年に日本が占領下に置いた元イギリス領のシンガポールを拠点として設立されたインド独立連盟と、英領マラヤやシンガポール、香港などで捕虜になった英印軍のインド兵を中心に結成されていたインド国民軍を最高司令官として率いていたラース・ビハーリー・ボース(「中村屋のボース」)の体調が悪化したことなどを受けて、1943年にインド独立連盟幹部のA・M・ナーイルが、チャンドラ・ボースを後継者として招へいすることを進言し、これを受けて日本政府はチャンドラ・ボースとの協力と日本への移送を承諾した。

日本からドイツへの要請で、ドイツ海軍潜水艦U180で密かにフランス大西洋岸のブレストを出航、インド洋でUボートから日本海軍巡潜乙型伊号第二九潜水艦に乗り換えて東京に到着した。

自由インド仮政府 [編集]

大東亜会議に参加した各国首脳。左からバー・モウ張景恵汪兆銘東條英機ワンワイタヤーコーンホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース

東京で、ビハーリー・ボースやA・M・ナーイルらと合流した後、ビハーリー・ボースの後継者としてインド独立連盟総裁とインド国民軍最高司令官に就任し、その後日本の支援により同年10月21日にシンガポールで自由インド仮政府首班に就任。同年に行われた大東亜会議オブザーバーとして参加する。

その後チャンドラ・ボース率いるインド国民軍は、インドの軍事的方法による開放を目指してビルマラングーンに本拠地を移動させ、さらに1944年に日本軍とともにインパール作戦に参加したことを皮切りに、連合軍と主にビルマで戦った

なお、ドイツのインド旅団、すなわち自由インド軍団は、チャンドラ・ボースの日本への脱出後も欧州戦線でドイツ軍側で活動していた。また、当時の日本の首相である東條英機はチャンドラ・ボースを高く評価し、たびたび会談していた。東條自身、チャンドラ・ボースの東亜解放思想を自らが提唱する大東亜共栄圏成立に無くてはならないものだと考えていた。

事故死と生存の「噂」 [編集]

ボースの碑(杉並区 蓮光寺)

日本の敗戦により、日本と協力してイギリスと戦いインド独立を勝ち取ることが不可能となった。ボースは東西冷戦を予想し、イギリスに対抗するためソ連と協力しようとし、日本軍関係者の協力を受けて東京経由でソ連へ向かおうとした時、台湾松山飛行場で搭乗していた九七式重爆撃機が離陸に失敗した事故により死去したとされている。チャンドラ・ボースの臨終の言葉は「インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ」であったと言われている。ボースの遺体は台北市営火葬場で荼毘に付され、台北市内の西本願寺で法要が営まれた。ボースの遺骨は日本に運ばれ、東京都杉並区日蓮宗蓮光寺で眠っている。

しかしこれに対して、チャンドラ・ボースをインド独立連盟に招聘し、その後も自由インド政府幹部としてチャンドラ・ボースと近い立場にあったA.M.ナーイルは自書内で、今や敗戦国となった日本を経由して日本の旧敵国のソ連へ向かおうとする事が不可能であったことや、チャンドラ・ボースの敵であるイギリスと同じ連合国の1国であるソ連と協力を行おうとすることの不可解さ、さらに事故の際に「死んだ」とされる日本人の複数の同乗者がその後も生存していたことや、同乗し生き残ったS.A.アイエルがチャンドラ・ボースとともに持ち出した宝飾品などを中心とした政府資産が行方不明になっていることなどを根拠に、チャンドラ・ボースの「飛行機事故死」に疑問を投げかけている。また、特にインドにおいてチャンドラ・ボースの事故死を信じない者を中心として、生存説を支持する論説もたびたび出されている[2]

これらの疑問に対し、インド政府は過去3度にわたって調査委員会を組織し、1956年1970年2006年にそれぞれ報告書を作成している。最初の2回(実施時の政権与党はいずれもインド国民会議派)は「飛行機事故で死亡し生存の可能性がない」と結論づけた。しかし、インド人民党が与党であった1999年に組織した3度目の調査委員会は「飛行機事故は連合軍によるボースの追跡をかわすために日本軍が作り上げた」とし、蓮光寺の遺骨はボースのものではなく、チャンドラ・ボースがすでに死亡していることは間違いないものの死因については「説得力のある証拠がない」として具体的に言及しなかった[3]。この報告書が発表された2006年には政権与党は再びインド国民会議派などによる連立政権に移っており、発表時のインド政府は「調査結果に同意しない」と表明した。

また、チャンドラ・ボースの甥の妻は「政府の考えに賛成だ。墜落死には多くの証拠があり、遺骨はチャンドラ・ボースものだ」とコメントした[4]

葬儀 [編集]

ビハーリー・ボースと血縁関係はないが、密かに行われた葬儀の際はビハーリー・ボースのそれとして行われ、中村屋菓子が供えられたという。なお、チャンドラ・ボースの遺骨が安置されている蓮光寺は、ビハーリー・ボースの側近が住んでいた家の近くにある。その後蓮光寺には、インドのプラサード大統領ネルー首相インディラー・ガンジー首相などが訪問しており、その時の言葉も碑文として残されている。また、多くの在日インド人も訪れている。

評価 [編集]

インドの国会議事堂の正面にはチャンドラ・ボース、右にはガンディー、左にはジャワハルラール・ネルーの肖像画が掲げられている。また現在もコルカタの国際空港がチャンドラ・ボースの名前を冠しているほか、コルカタにはチャンドラ・ボースがインドを脱出する直前まで住んでいた邸宅(ネタージ・バワン)もあり、記念館となっている(2007年安倍晋三首相が訪問した)。2005年にはインド映画Netaji Subhas Chandra Bose: The Forgotten Hero』が公開された。インドでは現在も人気の高い政治家である。

前進同盟は戦後に政党全インド前進同盟として再結成されチャンドラ・ボース流の民族主義的な社会主義を唱えて活動しており(現在はインド共産党マルクス主義派などとともに左翼戦線を構成)、チャンドラ・ボースの出自にあたる西ベンガル州を中心に根強く支持されている。ほかマレーシア・インド人会議も党の行事でチャンドラ・ボースの活動を顕彰している。

脚注 [編集]

  1. ^ 当時のオーストリアがドイツに併合されていたこともあり、歴史書の中でしばしばドイツ人と間違われている。
  2. ^ hindustantimes.com
  3. ^ 調査委員会の委員長によると、蓮光寺の遺骨のDNA型鑑定も検討したが、技術的に困難といわれたため断念した(朝日新聞2006年5月10日夕刊)。
  4. ^ 朝日新聞2006年5月22日夕刊

関連 [編集]

外部リンク [編集]

官職
先代:
(創設)
1931 Flag of India.svg 自由インド仮政府国家主席
1943 - 1945
次代:
(消滅)
先代:
(創設)
1931 Flag of India.svg 自由インド仮政府首相
1943 - 1945
次代:
(消滅)