ザルツブルク州

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ザルツブルク州
Salzburg
ザルツブルク州の旗 ザルツブルク州の紋章
(州旗) (州の紋章)
オーストリア国内におけるザルツブルク州の位置
州都 ザルツブルク
州首相 ヴィルフリート・ハスラウアーÖVP
面積
 - うち陸面積
 - 水面積
7,154.23 km² (第6位)
7054.07 km² (98,6 %)
100,16 km² (1,4 %)
人口
 - 総計
 - 人口密度
(2013年1月1日)
531,898 人 (第7位)
74.0 人/km²
与党 ÖVP緑の党およびチーム・シュトロナッハ
前回選挙 2013年5月5日
次回選挙 2018年
連邦議会議席数 4
市町村総数
 - うち市の数
 - うち町の数
119
11
24
最高点 グロースグロックナー山 (3,797 m
ISO 3166-2:AT AT-5
ウェブサイト [1]

ザルツブルク州ドイツ語: Salzburg)は、オーストリア共和国を構成する9つの連邦州のひとつ。州都は同名のザルツブルク市。ドイツ語で特に区別して表記する場合、ザルツブルク州はLand SalzburgあるいはSalzburger Land、市はStadt Salzburgとする。

地理[編集]

オーストリア全土約84,000km²の8.3%にあたる7,150 km²の面積を占める。人口は約53万人で、オーストリア全人口の6.4%である。最大の都市は州都のザルツブルク。

オーストリアの中央やや西よりに位置し、北東でオーバーエスターライヒ州と、東でシュタイアーマルク州と、南でケルンテン州と、チロル州東チロルと、西でチロル州の北チロルと、北でドイツバイエルン州と接する。南西ではかつてオーストリア領であったが今日ではイタリアボルツァーノ自治県となっている南チロルと接する。

州の大部分がアルプス山脈北東部にあたり、州内を南西から北へ逆L字に流れるザルツァッハ川沿いに都市が発展してきた。南部にケルンテン州チロル州の東チロルとまたがって、オーストリア最高峰のグロースグロックナー山がある。また北東部のザルツカンマーグートは、ザルツカンマーグート地方のハルシュタットとダッハシュタインの文化的景観として世界遺産に登録されている。

歴史[編集]

ハルシュタット文化の墓の遺跡のスケッチ

現在のザルツブルク州に人類が居住を始めたのは、新石器時代にさかのぼる。続く青銅器時代鉄器時代にはケルト人によるハルシュタット文化が栄えていた。

ローマ帝国紀元前15年にこの地を征服しノリクム属州を置いた。ノリクムからはそして毛皮が輸出され、イタリア半島からはオリーブオイルワインなどが輸入された。5世紀にはゴート族ヴァンダル族アラン族そしてフン族の侵入を受けた。「ノリクムの使徒」と呼ばれる聖セヴェリノが活動したのもこの頃である。476年には西ローマ帝国が滅亡し、6世紀にはバイエルン人が定住するようになった。

7世紀末、ヴォルムス司教だった聖ルーペルトは、バイエルン部族大公テオド2世洗礼を施し、領地の寄進を受けてローマ都市ユヴァウムの跡地にザンクト・ペーター修道院を建立した。彼は初代ザルツブルク司教とみなされている。

798年ローマ教皇レオ3世はザルツブルク司教アルノ大司教へと昇格させバイエルンの四司教の上においたため、ザルツブルクはヨーロッパにおける伝道の中心地となった。ザルツブルク大司教は東方のスラヴ人カランタニア)への宣教を行い、またアギロルフィング家の歴代バイエルン部族大公からの寄進もあって領地を拡大していった。東方への拡張は907年に大司教ディートマール1世マジャル人との戦いで敗死すると中断したが、955年東フランクオットー1世レヒフェルトの戦いでマジャル人を破ると再開された。

中世初期の叙任権闘争において、大司教ゲプハルト(在位: 1060年 - 1088年)やコンラート1世(在位: 1106年 - 1147年)は教皇派であったため追放され客死を余儀なくされた。しかし1200年に即位したエーバーハルト2世(在位: 1200年 - 1246年)は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世を支持し、彼の下で世俗支配権の強化と領地の大幅な拡大に成功した。このためエーバーハルト2世は「領邦ザルツブルクの父」と称されている。

最後の領主大司教となったヒエロニムス・フォン・コロレド伯爵。彼はモーツァルトの最初のパトロンとしても知られる

1803年帝国代表者会議主要決議によって神聖ローマ帝国の聖界諸侯は世俗化されることになった。大司教ヒエロニムス・フォン・コロレドも領主権を失い、替わって元トスカーナ大公フェルディナントを初代大公としてザルツブルク選帝侯国が設置された。しかし1805年プレスブルクの和約において、オーストリア帝国チロルなどをフランス帝国側に割譲した補償としてザルツブルクを獲得することになった。フェルディナントはヴュルツブルク選帝侯国を与えられ、ザルツブルクはオーストリアの一州となった。続くシェーンブルンの和約1809年)でザルツブルクはバイエルン王国へ割譲されたものの、ウィーン会議によってオーストリアへ復帰した。

第一次世界大戦に敗れたオーストリア=ハンガリー帝国パリ講和会議によって民族自決に基づき解体されたが、ドイツ人が多数を占めるザルツブルク州はオーストリア第一共和国連邦州に留まった。1920年マックス・ラインハルトの提案したザルツブルク音楽祭が始まり、ザルツブルクは観光産業が発展してゆく。

1938年ナチス・ドイツはオーストリアと合邦し(アンシュルス)、翌年ザルツブルク帝国大管区を設置した。ドイツが第二次世界大戦に敗れた後、ザルツブルクはアメリカ軍の占領下に置かれたが、1955年にオーストリアは連合国との間にオーストリア国家条約を調印して独立を回復した。

1995年にオーストリアが欧州連合に加盟したため、バイエルン州との国境における入国手続きが簡略化され、ドイツをはじめとする各国との交流が活発化している。また1996年にはザルツブルク市の旧市街がザルツブルク歴史地区としてユネスコ世界遺産に登録された。

政治[編集]

ザルツブルク州の州議会(Landtag)の定数は36議席で、任期は5年である。伝統的にオーストリア国民党(ÖVP)が強く、1945年から2004年までの州首相は一貫して同党から輩出されてきた。2004年の州議会選挙では5議席増と躍進したオーストリア社会民主党(SPÖ)が第一党となり、同党のガブリエレ・ブルクシュターラーがザルツブルク州初の女性州首相に就任した。2009年の州議会選挙でもSPÖが15議席を得て第一党の地位を維持したが、2013年の選挙ではÖVPが第一党となり、同党のヴィルフリート・ハスラウアーが首相に就任した。2014年2月時点の各会派の議席数は、オーストリア国民党11議席、オーストリア社会民主党9議席、緑の党7議席、オーストリア自由党(FPÖ)6議席、チーム・シュトロナッハ3議席となっている。

州首相一覧[編集]

第一共和国での州首相とその在任期間は以下の通り。

ナチスが設置したザルツブルク帝国大管区帝国大管区指導者とその在任期間は以下の通り。

第二共和国の州首相とその任期は以下の通り。

地方行政[編集]

ザルツブルク州は5つの郡(Bezirk; 行政管区とも訳される。また俗にGauとも呼ばれる)に分けられる。郡は自治体ではなく、行政事務を処理する州の出先機関である。また州都のザルツブルクは郡に属さない憲章都市Statutarstadt)に指定されており、郡の業務も独自に処理している。

ザルツブルク州の郡および憲章都市の区分

郡は以下の通り。括弧内は俗称である。

ザルツブルク州を構成する基礎自治体(Gemeinde; ゲマインデ)は合計119ある。このうち11が市(Stadt)の、また24が町(Marktgemeinde; 市場町)の指定を受けている。

交通[編集]

外部リンク[編集]

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