マンダレー

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マンダレー
မန္တလေး
Mandalay Fort Wall.jpg
マンダレー城の壁と堀
座標 : 北緯21度58分 東経96度04分 / 北緯21.967度 東経96.067度 / 21.967; 96.067
歴史
建設 1859年
行政
ミャンマーの旗 ミャンマー
 管区 マンダレー管区の旗 マンダレー管区
 市 マンダレー
市長 Phone Zaw Han 准将
地理
面積  
  市域 113 km2 (43.6 mi2)
人口
人口 (2005年現在)
  市域 927,000人
  都市圏 2,5000,000[要出典]
その他
等時帯 MMT (UTC+6:30)
夏時間 なし
公式ウェブサイト : http://www.mandalaycity.net/

マンダレー (မန္တလေး, Mandalay) は、ミャンマー(以前のビルマ)でヤンゴンに次ぐ第2の都市であり、人口は 927,000 人(2005年人口調査)、都市圏人口は 2,5000,000 人[要出典]に上る。イギリスにより併合されるまで、ビルマで独立を保った最後の王朝(コンバウン王朝)の首都(1860年~1885年)であった。また、現在のマンダレー管区の区都である。マンダレーは国土のほぼ中央部に位置し、エーヤワディー川の東岸で、ヤンゴンの 716 キロメートル北の、ミャンマーの乾燥地帯の中央にある。

歴史[編集]

マンダレー王宮

マンダレーは、1859年5月23日にミンドン・ミン王によって建設され[1]1885年の第三次英緬戦争を経て大英帝国に併合されるまで、ビルマで独立を保った最後の王朝の首都(1860年~1885年)であった。

ビルマの他の町とは異なり、マンダレーは、近隣に Hti Baunga という名の村が存在したとはいえ、より小さな居留地が町の一部へと発展したものではない。マンダレーは、仏教の2400周年の祝祭の機にまさにこの場所に偉大な都市(仏教の都)が現れるであろうというブッダの予言に従って、標高 236 メートルのマンダレー丘のふもとに建設された。

宗教遺跡が多く集まる高さ 240m のマンダレー丘。
Thudhamma Zayats は、ミンドン王の治世の代に造られた。
729の卒塔婆の何棟かは、クドードォ寺の World's largest book として知られている。
アトゥーマシー僧院は火災によって失われる前の姿の忠実なレプリカとして再建された。
マンダレー市街

ミンドン王は、その予言を実現させることを決意し、アマラプラの王国を統治していた1857年1月13日に、新たな王国を創設する勅令を発した。登位記念式典は1858年1月に挙行され、それまでの王都アマラプラは解体されて、象によりマンダレー丘のふもとの新立地に運ばれた。起工式とともに、ミンドン王は、ビルマ歴1219年(1857年) Kason 月の6番目に月が欠け始める日に、マンダレーの基礎を定めた。王は、同時に、7つの建造物の基礎も定めた。城壁で囲まれた王都、それを取り囲む堀、Maha Lawka Marazein 仏塔(クドードーパゴダ)、 Pahtan-haw Shwe Thein という名の高位叙階式場、 Atumashi (比類なき)僧院、 Thudhama ザヤット(説教のための公会堂)、仏典を収めた図書館が、それである。

王都全体は Lei Kyun Aung Myei (四島の上に立つ栄光の地)と呼ばれ、王宮は Mya Nan San Kyaw (名高きエメラルドの王宮)と呼ばれた。王国の新首都は Yadanabon Naypyidaw (そのパーリ語名である Ratanapura (「宝石の都」を意味する。)のビルマ語訳)と呼ばれた。その後、呼び名が丘にちなんでマンダレーになった。その名は、パーリ語の Mandala (「平原」を意味する。)-マンダレーは太鼓の表面のように平坦であるといわれる-の派生語であり、パーリ語の Mandare (「幸運の地」を意味する。)の派生語でもある。

マンダレーは、ちょうど29年後の第三次英緬戦争の間、占領されることになる。当代の王であるティーボー・ミンと王妃スパヤラットは、王宮から退去することを強いられ、結局インドに亡命した。王宮は、 Dufferin 要塞と改名され、イギリスとインドの軍隊が宿営するために使われ、多くの驚くべき財宝が略奪された。その中で最も優れたものの一部は、大英帝国に還送され、今なおヴィクトリア&アルバート美術館で見ることができる。[2]

第二次世界大戦中は、日本軍が、中国の補給線を断つことを狙って、インドシナを占領した。しかし、1939年1月には、ビルマを経由する新たな補給線が既に開通していた。これは、ビルマルートとして知られるようになったもので、ラングーン(ヤンゴン)からマンダレー、ラシオ保山市及び昆明市を経由して重慶市に至るものであった。[3]何万トンもの軍需物資がこの道を通って中国の民族主義者に届けられ、日本軍を苦況に陥れたために、日本軍はこの補給線を断とうと躍起になった。そのため、日本は、地元民族主義者集団の支援を狙って、三十人の志士に率いられたビルマ独立義勇軍 (BIA) の設立を援助した。彼らの指揮の下で、日本はビルマに進攻し、マンダレーを1942年5月2日に占領した。王宮を含む要塞は日本軍の兵站部に転用され、イギリス軍がラングーンの都と港とを奪回するための地上作戦の一部として1945年3月にマンダレーを解放したのに先立って、激しい爆撃にさらされた。王宮は完全に焼失し、王立造幣局と時鐘塔のように一対の石造りの建物を組み合わせた王宮は、石造りの台座を残すのみとなった。その後、ネ・ウィンが1980年代に忠実な複製を建設した。

1948年、ビルマはイギリスからの独立を宣言し、ビルマ連邦の結成とともに、マンダレーはマンダレー管区の区都となった。

2000年代に入ってから、多くの中国人移民が移住しており、元からの住民が追い出される事例が発生している模様である[4]

交通及び経済[編集]

マンダレーは、ヤンゴンからの幹線鉄道の終点であり、ピンウールイン、ラシオ及びミッチーナーへと更に北方に延びる支線の起点である。1990年代に欧米が制裁を科して以来、華人がマンダレーの経済の支配を強めつつある。1999年に、中国の援助で、新たな国際空港であるマンダレー国際空港が完成した。

現在ではミャンマー最大の中国資本の拠点である。国境で賄賂を支払い、ミャンマーの国民証明書を手に入れて移住する中国人が増えているとされ、地元住民からは「リトル・チャイナ」と呼ばれている。また、マンダレー市内には住民名義で工場を経営する中国人やマンダレーで生産した衣類に「中国製」のタグを付けて香港経由で欧米に輸出していた中国人経営の工場も存在するという。[5]

「マンダレーへの道」としてのエーヤワディー川の名声は今でも残っており、米や料理用油、穀物、竹、チーク材等の農産物を始めとする物流の大動脈となっている。マンダレーは、北部及び中部ミャンマーの取引及び通信の中心でもある。主要産業には、織物、タペストリーヒスイの切り出しと研磨、石及び木の彫刻、大理石及び青銅の仏像、寺院の装飾品及び道具一式、黄金及びの葉の制作、マッチの製造、醸造及び蒸留がある。

マンダレービール[編集]

マンダレービールは、マンダレーにおいて産業省が醸造しており、ミャンマーにおいては有名なビールである。ミャンマーにおける最初の国有醸造所であるマンダレーは、マンダレーラガー、マンダレー赤ラガー及びマンダレーエールを生産している。

文化[編集]

マンダレー大学

マンダレーは、ミャンマーにおける仏教文化と信仰の中心であり、無数の僧院と700を超えるパゴダがある。マンダレー丘のふもとには、世界最大の本としても知られる、世界の公式「仏典」がクドードーパゴダの中にある。そこには仏教のパーリ経典が全文彫り込まれた729枚の石盤が、1枚ずつ白い仏塔に納められている。

マンダレーの旧城市内の建物は、囚人を用いて近年補修された堀に囲まれている。旧城市は、第二次世界大戦中にほとんど破壊され、今は複製に置き換えられているマンダレー王宮、マンダレー刑務所、さらに、北西方面部隊 (Na Ma Hka) の司令部である陸軍駐屯地がある。

参照[編集]

  1. ^ ビルマ政府考古学調査局「マンダレー王宮」1963年(2006年8月22日現在Mandalay Palace所収)
  2. ^ Bird, George W, Wanderings in Burma (1897年、ロンドン、 F J Bright & Son )254頁(Wanderings in Burma所収)
  3. ^ The Old Burma Road re-opened with a Willys MB by Alain Henry de Frahan(リンク切れ)
  4. ^ PATRICK BARTA (2013年1月15日). “アジア諸国で高まる反中国感情”. ウォール・ストリート・ジャーナル. http://jp.wsj.com/article/SB10001424127887324050504578242272438539446.html 2013年1月15日閲覧。 
  5. ^ 読売新聞2012年1月28日 国際8面

外部リンク[編集]