アジア主義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

アジア主義(アジアしゅぎ)、または汎アジア主義(はんアジアしゅぎ、英語: Pan-Asianism)とは、日本と他のアジア諸邦の関係や、アジアの在り方についての思想ないし運動の総称である。19世紀後半に活発となった欧米列強のアジア侵出に対抗する方策として展開された。

概要[編集]

欧米列強の脅威の排除とアジアとの連帯を目指した主張で、明治中期までの日本ではもっぱら興亜会に代表される「興亜論」(こうあろん)の名称で呼ばれた。その内容は開国文明化、協同、合邦、新秩序構築など、論者の思想、立場によって異なり一義的な定義はない。また国際情勢の変化に伴って主張内容が変化する。

当初は日本と中国支那)・朝鮮との対等提携指向を指すものであったが、江華島事件壬午事変甲申政変を経て起こった日清戦争で、元来のアジア主義の理念は一旦崩壊し、政府や国内の新聞や朝鮮への対外強硬論が主流となり、日清戦争以後の亜細亜主義の定義は、元来のアジアとの平和協調路線とは完全に正反対のものになった。

日露戦争以降のアジア主義の定義は、東アジアにおける日本の優位を前提にアジアの革命勢力を支援する思想に発展し、やがて日本を盟主としたアジアの新秩序構築(アジア・モンロー主義あるいは大アジア主義)、そして昭和研究会による「東亜協同体論」としての政策化、大政翼賛会興亜総本部大日本興亜同盟による統制、そして「東亜新秩序」「大東亜共栄圏」構想へとつながっていく。1945年の日本の敗戦によって、近代アジア主義は終焉したとされる。

その後の国際的な地域統合の流れの中で生まれた「東アジア共同体」構想も、しばしば戦前・戦中アジア主義と関連付けて言及されることがある。

年表[編集]

人物・組織・思想[編集]

興亜会
1880年海軍軍人で中国での情報活動に従事していた曽根俊虎などを中心に設立された。琉球処分や壬午事変などで日清関係が悪化していくなかで両国の提携論を標榜し、最初のアジア主義団体とされている。日清提携のための中国語での機関誌発行や語学教育に力を入れた。のち亜細亜協会と改称し、東亜同文会が設立されるとこれに合流した。
東邦協会
陸軍の小沢豁郎白井新太郎らが中心となって設立。副島種臣を初代会長とし、の地下組織「哥老会」を利用して革命を起こそうとした。
善隣協会
興亜会から分離した吾妻兵治岡本監輔らが内蒙古における医療・教育援助を目的として設立した善隣講書館が前身。和書や洋書を漢訳出版し中国へ輸出した。のち陸軍少将・依田四郎が協力し、善隣協会専門学校が設立された。
岡倉天心
ボストン美術館東洋部(中国・日本部)部長。『日本の覚醒』(The Awakening of Japan)を出版。日本の朝鮮支配については正当化した。
植木枝盛
愛国志林』、『愛国新誌』などで独自の小国主義・アジア連合論を展開。清朝や朝鮮との戦争に反対し、アジアの被抑圧からの独立振興を主張した。
樽井藤吉
1885年、『大東合邦論』を執筆し、日本と朝鮮の対等合併による「大東国」建国を主張した。大阪事件に連座して下獄したため原稿(日本文)を散逸し、日清戦争直前の1893年漢文で出版した。
犬養毅
頭山満の親友、盟友。中国から亡命してきた孫文や蒋介石インドから亡命してきたラス・ビハリ・ボースらをかくまう。
玄洋社
頭山満が主宰。福岡県を拠点にし、中国の孫文や、朝鮮の金玉均を援助した。日露戦争時には、馬賊を編成し、ロシア軍の後方を撹乱した。在野の立場を貫き、日本政府の「大東亜共栄圏」構想に与しなかったため、のち迫害される立場になった。広田弘毅は正規のメンバーだったといわれる。
黒龍会
内田良平が主宰。朝鮮での甲午農民戦争時に東学と連携しつつ清軍を挑発するために派遣された玄洋社の別働隊「天佑侠」を起源としている。なお名称の「黒龍」とは黒い龍ではなく、黒龍江(アムール川)を指す。
中国同盟会
宮崎滔天梅屋庄吉北一輝らが参加。東遊運動を開始し、辛亥革命に協力した。
東亜同文会
戊戌の政変により日本に亡命した康有為梁啓超の支援をきっかけに作られた政教社系の東亜会と、中国で商業活動を担っていた大陸浪人が組織した同文会の合併により1898年発足した。初代会長は近衛篤麿で、東亜同文書院の経営を主な活動とした。
孫文大アジア主義講演
1924年11月、日本の神戸で講演し、「日本は西洋覇道の鷹犬になるのか。東洋王道の干城になるのか」と述べる。東洋の仁義道徳を、世界秩序の基本にすべきであると主張し、日本政府に対して中国との不平等条約を改正することを暗に求めた。カラハン宣言により不平等条約を破棄したソビエト連邦を王道の側に立つ国家とし、日・中・ソの提携を提唱している点に特徴がある。
汪兆銘
汪兆銘は国父孫文の大アジア主義の意思を継承した人物。1912年1月1日、南京で孫文は臨時大総統に就任し列国に向かって中華民国成立の宣言を発表したが、この宣言の起草を行った。日中戦争中には徹底抗戦を主張する蒋介石に対し日中の共存共栄こそ中国国民の幸せに至る道であると確信し、中国共産党や蒋介石とは異なる独自の道を目指した。「一面抵抗、一面平和」の哲学のもと日中和平を唱え奔走したがついに叶わなかった。
大陸浪人
広田弘毅などが参加。満州国満鉄調査部に近い岸信介大川周明松井石根らは超国家主義を主張し、戦後A級戦犯となった。
東亜協同体論
1930年代末(日中戦争初期)、東アジア地域において民族国家を超克する協同体の建設を主張したもの。当時の近衛文麿首相のブレイン集団である昭和研究会を中心に構想され、三木清蝋山政道尾崎秀実新明正道らが主要な論者となった。
スバス・チャンドラ・ボース
自由インド仮政府を樹立しインド独立を達成することで、東南アジアなどにその輪を広げ、アジア人によるアジア建設を目指した。
マハトマ・ガンディー
非暴力主義を掲げて、インドをはじめとする植民地支配民族の独立運動を展開した。
三浦襄
最後まで大東亜共栄圏を理想と信じて行動した日本人
平野義太郎
マルクス主義者であるが、転向後、中国華北部での自然村調査などをへて、1945年に『大アジア主義の歴史的基礎』において、大アジア主義を主張。同書は近年、「日本におけるアジア主義の終着点」とも評価され[1][2]、見直されはじめている。
町井久之(通名。本名:鄭建永)
戦後、活動した右翼活動家・ヤクザ(任侠世界からはのちに引退し、実業家へ転身)。在日韓国人でありながらも、大アジア主義を標榜し、反共・反北朝鮮も盛り込んだ思想団体「東声会(後に東亜会→東亜友愛事業組合と改称)」を設立。「一朝有事に備えて、全国博徒の親睦と大同団結のもとに、反共の防波堤となる強固な組織を作る」という児玉誉士夫の呼び掛けで、「東亜同友会」設立構想にも参画する。
鹿島守之助
参議院議員、鹿島建設会長。「汎欧州」を掲げる欧州連合の父クーデンホーフ=カレルギー伯爵の構想に基づき「汎アジア」を提唱。

脚注[編集]

[ヘルプ]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]