リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー

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Richard Coudenhove-Kalergi
リヒャルト・ニコラウス・栄次郎・
クーデンホーフ=カレルギー
Coudenhove-Kalergi 1926.jpg
1926年
全名 Richard Nikolaus Eijiro Graf Coudenhove-Kalergi
身位 伯爵
出生 1894年11月16日
日本の旗 日本東京府
死去 1972年7月27日(満77歳没)
オーストリアの旗 オーストリアフォアアールベルク州ブルーデンツ郡シュルンス英語版
配偶者 1人目: イダ・ローラン英語版
  2人目: アレクサンドラ・フォン・ティーレ伯爵夫人 [旧姓 バリー] Alexandra Gräfin von Tiele, [geb. Bally]
  3人目: メラニー・ベナツキー=ホフマンMelanie Benatzky-Hoffmann
父親 ハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー
母親 青山みつ
役職
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受賞
1950年
1962年
1965年
1966年
  • ズデーテン・ドイツ人母国協会欧州カール大帝賞ドイツ語版
1967年
1972年

リヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギードイツ語: Richard Nicolaus Eijiro Coudenhove-Kalergi1894年11月16日 - 1972年7月27日)は、クーデンホーフ家カレルギー家が連携した伯爵一族クーデンホーフ=カレルギー家の人物で、東京生まれのオーストリア政治活動家汎ヨーロッパ連合主宰者。別名、青山 栄次郎(あおやま えいじろう)。

汎ヨーロッパ主義(パン・ヨーロッパ主義)を提唱し、それは後世の欧州連合構想の先駆けとなった。そのため欧州連合の父の一人に数えられる。

略歴[編集]

父はオーストリア=ハンガリー帝国駐日特命全権大使ハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵、母はハインリヒの大使公邸の使用人をしていた東京牛込出身の日本人青山みつ(クーデンホーフ=カレルギー・光子)。父ハインリヒが在日中に、みつ(旧名)と出会い日本で結婚(みつは日本国籍を喪失し仏教から夫と同じカトリックに改宗した[1])。クーデンホーフ=カレルギー夫妻の7人の子の次男として1894年東京府に生まれる。一家は1896年に日本を離れ、父親の故郷オーストリア=ハンガリー帝国へ行き(リヒャルトと兄は父母と別の経路で行った[2])、ロンスペルク城で兄弟姉妹とともに育つ[3]

1908年ウィーンボーディングスクールテレジアヌム英語版に入学し[4]1913年に卒業[2]1914年ウィーン大学に入学し哲学近代史を専攻[5]1917年にウィーン大学を卒業[2]、同年に同大学で哲学博士号取得[6]。彼は哲学者になりたかった[7]。1914年に始まった第一次世界大戦では兄ハンス(Johannes)と弟ゲオルフ(Gerolf)は徴兵されたが[2]、リヒャルトは若干の胸部疾患があったので徴兵を免れた[8]。オーストリア=ハンガリー帝国が第一次大戦に敗北して帝国内諸国が独立すると一家は領地のあるチェコスロバキア共和国の国籍となり、兄で長男のハンスがロンスペルクの領主として領地・領民を治めることになった[2]。一家の領地は多くが政府に没収された[5]。ウィーン大学在学中[2]、大物俳優イダ・ローラン1881年-1951年)と知り合い、駆け落ち同然に同棲を始め[9]1915年4月に19歳の彼は、34歳のイダと結婚[4]、正式な結婚は彼が24歳になってからである[2]。イダの連れ子エリカはクーデンホーフ=カレルギー家の養女になった[4]

1923年、最初の妻イダの資金で[2]汎ヨーロッパ社(Paneuropa-Verlag)を設立し、1924年に発刊した同社の機関誌『Paneuropa』(汎ヨーロッパ)にてジャーナリスト・編集者として働く。クーデンホーフ=カレルギーは1923年の時点において、第一次大戦後の将来的な戦争と、ソ連側・米国側の分断を警告していた[10]

リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーが主宰し政治活動の拠点としていた汎ヨーロッパ連合(汎ヨーロッパ運動)はナチス・ドイツに弾圧された。1939年の春にフランス共和国の市民権を取得した[7][11]。以後終生フランス国籍である[6]1940年にアメリカ合衆国へ亡命し、ニューヨーク大学のセミナー等[12]をしながら汎ヨーロッパ運動を継続。1944年にニューヨーク大学教授に認定される[4]。米国亡命中には、クーデンホーフ家のかつての主君の末裔オットー・フォン・ハプスブルク公と協調して(クーデンホーフ家の源流はハプスブルク君主国の伯爵である[2])リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー自らを首班とするオーストリア亡命政府を画策し、米国政府・英国政府に働きかけた[6][12][13]

第二次世界大戦後、1946年ヨーロッパへ帰り、スイス・グシュタートに入った[4]1962年にオーストリア共和国から名誉大銀星勲章(Großes Silbernes Ehrenzeichen mit dem Stern)を受勲した[14]1967年には生まれて間もなく離れた日本へも帰郷し、勲一等瑞宝章を受勲した[5]

2度の大戦を一緒に生き抜いた妻イダは1951年に死去、1952年にアレクサンドラ・フォン・ティーレ伯爵夫人(1896年-1968年)と再婚し、1968年にアレクサンドラが死去後、1969年にメラニー・ベナツキー=ホフマン(1909年-1983年)と再婚した[4]

1972年にスイス国境付近のオーストリア国内にある村落シュルンスで死去[11][15]。彼の秘書ダッシュ女史によると、彼は自殺したという[16]。彼が偉大であったため、人々を失望させないように彼の自殺は隠蔽されたようである[16]

フリーメイソンリー[編集]

リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーは友愛団体フリーメイソンリーの会員すなわちフリーメイソンである[17][18]

汎ヨーロッパ連合のウェブサイトによると、1922年、クーデンホーフ=カレルギーはフリーメイソンのロッジに参加し、そのロッジとはウィーンにあるロッジ「人道」(Humanitas)である[11][19](文献によっては1921年に既に参加している[20])。その後は中央ヨーロッパ、フランス、英国、米国のフリーメイソンリーと接触を続けた[11]。後年スペイン語で翻訳出版されたクーデンホーフ=カレルギー著『汎ヨーロッパ』の略歴紹介によると、1922年がロッジ「人道」でクーデンホーフ=カレルギーがフリーメイソンリーに入会(スペイン語: iniciado)した年である[21]

ナチス・ドイツは1938年に発行した『Die Freimaurerei Weltanschauung Organisation und Politik』(ベルリンF. Eher発行、著者: ディーター・シュヴァルツ、序文: ラインハルト・ハイドリヒ保安警察長官)でクーデンホーフ=カレルギーがフリーメイソンである件について記述し[22]、クーデンホーフ=カレルギーはチェコスロバキア外務大臣エドヴァルド・ベネシュプラハで入会[23])と同一のグランド・オリエント・ロッジに所属する高位階級のフリーメイソンリー会員であるというのがナチス・ドイツの調査である[18]。この書籍は後の版でエルンスト・カルテンブルンナー親衛隊上級地区司令官が序文を寄せ、最終版は1944年の第6版となった[18]。また英訳版があり、『Freemasonry Its World View Organization and Policies』の英題で発行された[18]

フリーメイソンたちの欧州統合構想[編集]

クーデンホーフ=カレルギーが汎ヨーロッパ運動を開始すると、ヨーロッパ各地のフリーメイソンリーが彼を後援に招くなど汎ヨーロッパ運動を支援した[20]。クーデンホーフ=カレルギー以前に欧州統合へ言及したフリーメイソンは、例えばヴィクトル・ユーゴー[24][25][26]である(1849年の平和会議)。イタリア統一の中心人物としてクーデンホーフ=カレルギーが言及したジュゼッペ・マッツィーニ[27]は、イタリアのグランド・オリエント・ロッジGrande Oriente d'Italia)で代表者(グランド・マスター)を務めたフリーメイソンである[28]

欧州の歌[編集]

Nuvola apps arts.svg 音楽・音声外部リンク
欧州の歌を試聴する
Nuvola apps arts.svg
欧州旗 Flag of Europe
European Anthem - 欧州評議会公式YouTube。「歌なし」の正式版。

1955年、フリーメイソンのクーデンホーフ=カレルギーはヨーロッパのシンボルとなる欧州の歌としてベートーヴェンの「歓喜の歌」を提案した[29]

「歓喜の歌」の歌詞のもとになったフリーメイソンのシラー[30]の詩は、シラーの親友でフリーメイソン[31]クリスティアン・ゴットフリート・ケルナーの求めに応じてドレスデンにあるフリーメイソンのロッジ「三振りの剣と緑のラウテ上のアストレア」(Zu den drei Schwertern und Asträa zur grünenden Raute)の音楽付きの儀式のために1785年に書かれたものであり[32][30][33]、それは(友情の絆により結束した平等な人々の社会という)メイソンの理想を描写するものである[32]

欧州評議会の閣僚委員会は1972年1月に欧州の歌への「歓喜の歌」の採択決定を公式発表した。欧州は極めて多種の言語のため歌詞は非公式であるが、セルビアのフリーメイソンリー本部(グランドロッジ)によると作曲したベートーヴェンはフリーメイソンである[24]カナダのグランドロッジによると少なくとも有力な根拠がある[34])。

思想[編集]

初期の著書に見られる貴族論等[編集]

青年時代のクーデンホーフ=カレルギーは彼の名を知らしめた「汎ヨーロッパ」構想以外に著書『Adel(貴族)』(1922年)[35]等の出版がある。彼自身貴族である彼がそれらの著書において考える「貴族」とは、単に伝統的貴族ではなく、人類が更なる高みに上るために必要な指導者・先駆者となる者である[36]。貴族には美があり、その基本となるのは肉体的、精神的、知的な美である[36]。彼によるとヨーロッパ貴族は英国のフェアプレイ精神・騎士道精神のジェントルマン型、フランスの芸術家気質のボヘミアン型、ドイツの貴族、官僚、将校、大地主政治家など武勇気質のジークフリート型があり、優れているのは英国のジェントルマン型である[36]

また「技術」とは人類が期待する転換期をもたらすものであり、前人未踏の新しいエネルギー源を発見する発明家が現れてその転換期が到来し、その発見は人類を飢餓、凍死、強制労働から解放する[36]。しかしながら技術は戦争につながるのでヨーロッパは「平和主義」であるべきで、そのための汎ヨーロッパ運動であり、その運動は平和主義者の貴族が行うのであるという[36]

名誉、金銭、生命を犠牲にして平和を勝ち取るという彼の戦闘的な平和主義や、「新しい貴族」(精神貴族)によるそれらの実践的理想主義は、ヨーロッパで大部分の平和主義者からの支持を得るまでには至らなかったが、若い平和主義者からの支持を得ることができた[20]

汎ヨーロッパ主義[編集]

概略[編集]

クーデンホーフ=カレルギーが結成した汎ヨーロッパ運動の1923年の旗。クーデンホーフ=カレルギーの1950年の覚書によるとこの旗は「金色の太陽」、「赤十字」、「青空」の組み合わせである[37]
ヨーロッパのシンボルとして使用する案もあった(欧州評議会加盟国イスラム教が主流のトルコが「十字」に難色を示した)。

International Paneuropean Union flag.svg
後年、欧州旗のスターリングが太陽の周囲に追加された。

クーデンホーフ=カレルギーの汎ヨーロッパ運動は1922年10月に始まった[38]。彼は汎ヨーロッパの構想を新聞紙上で発表した。1922年11月15日、Vossischen新聞の「Paneuropa-ein Vorschlag」という記事の中で最初に発表され、11月17日にNeuen Freien Presseでも発表された[39]。1923年に単行本『汎ヨーロッパ』を著しセンセーションを起こし、汎ヨーロッパ運動は組織化されていった[40]。本は「全欧州の青年に告ぐ」という文言で始まり、「汎ヨーロッパ連合に加入します」というハガキが付き、初めの1か月に100人余りが申し込んだ[41]オーストリア共和国政府の支援もあり[40]1926年に24か国の代表による第1回汎ヨーロッパ会議をウィーンで開催し、2,000人以上の政治家・論客が参加した[6][15]。汎ヨーロッパ運動の本部は彼の一族の旧主君ハプスブルク家の旧王宮「ホーフブルク宮殿」(ウィーン)に置かれた[42]

クーデンホーフ=カレルギーの「汎ヨーロッパ」の要旨は、第一次世界大戦後のヨーロッパは戦勝国敗戦国ともに大損害を被っているにも拘らず分裂しているが、ヨーロッパはロシアの脅威に対抗しなければならず、米国と経済競争をしなければならない、というものである[36](この対外的な対決姿勢の部分は米国で出版された英語版の『汎ヨーロッパ』からは除外された[27])。

世界連邦

1919年のある日、クーデンホーフ=カレルギーは地球儀を眺めて世界のブロック化に思い至った[43]

欧州の統合を目指したクーデンホーフ=カレルギーが、欧州統合の先に目指すところは世界が1つになること、世界連邦である[5]。世界連邦に至る過程において、世界の諸地域は5つの地域国家群(ブロック)に分けられ、それは「ヨーロッパ」(植民地含む[2])、「南北アメリカ」、「東アジア」、「イギリス連邦」、「ソビエト連邦」であり、最終的に世界連邦を形成するのである[5]

支持者

当時クーデンホーフ=カレルギーの「汎ヨーロッパ」を支持した政治指導者は、エドゥアール・エリオ(仏首相)、アリスティード・ブリアン(1926年ノーベル平和賞受賞者)、グスタフ・シュトレーゼマン(同1926年ノーベル平和賞受賞者、フリーメイソン[44])、ウィンストン・チャーチル(英自治領植民地大臣、英首相、フリーメイソン[23])、レオ・アメリー[41](英自治領植民地大臣、フリーメイソン[45])、イグナーツ・ザイペルオーストリア共和国連邦首相)、トマーシュ・マサリクチェコスロバキア共和国大統領)などの人物である[5][15]。文化人では、ハインリヒ・マン(作家)とその弟トーマス・マンノーベル文学賞作家)、ゲアハルト・ハウプトマン(ノーベル文学賞作家)、シュテファン・ツヴァイクユダヤ系の作家)、フランツ・ヴェルフェル(ユダヤ系の作家)、リルケ(ユダヤ系の詩人)、ヴァレリー(詩人)、リヒャルト・シュトラウス(作曲家)らが賛同した[15][46]アインシュタインノーベル物理学賞物理学者、ユダヤ系)、フロイト精神分析学者、ユダヤ系)らも賛同した[46][47]

ブリアン1927年に汎ヨーロッパ連合初代名誉会長になった[46]。チャーチルは1946年の「チューリッヒ演説」でヨーロッパ合衆国を提唱し、演説では英国とヨーロッパを分けた[48]。演説の文面はクーデンホーフ=カレルギーの協力があった[4]。現実には英国(イギリス)はクーデンホーフ=カレルギーが死去した翌年の1973年欧州諸共同体石炭鉄鋼経済原子力)に加盟し、後の欧州連合の加盟国になった。ユダヤ系の銀行家マックス・ヴァールブルクM・M・ヴァールブルク&CO社)は1924年初期、金マルクで調達した資金を汎ヨーロッパ運動に提供し、その額は60,000金マルクであった[49]

マサリクはクーデンホーフ=カレルギーを支持こそしたものの[15]、クーデンホーフ=カレルギーが「ヨーロッパ合衆国のジョージ・ワシントン」としてマサリクを担ぎ上げるという誘いには「時機尚早」として乗らなかった[27]。もし自分が35歳であったなら(若かったなら)、とマサリクは、そこまで乗り気ではない一因を後年に語った[27]。またマサリクは、息子のヤン・マサリクはフリーメイソンリーに入会したが[50]、自身はフリーメイソンリーをカトリックにとってやましい団体と思っていた[51]。初代米大統領ジョージ・ワシントンはフリーメイソンであり[50]、米国に彼のフリーメイソン記念館「George Washington Masonic National Memorial」が1922年に着工、1932年に完成し、ジョージ・ワシントンがフリーメイソンであることは特に有名である。

壮年から老年にかけて

クーデンホーフ=カレルギーは1950年代以降、汎ヨーロッパ会議も継続していたが、懐古的保守と見なされるようになり保守層からの一定の支持はあったものの、かつてのような欧州統合の主役ではなかった[52]。欧州連合(EU)に至る過程において、シューマン宣言1950年)のロベール・シューマン、シューマン宣言を構想したジャン・モネらがクーデンホーフ=カレルギーと同時代に活躍した[5][53]。欧州における定説では、シューマンプランが欧州を生み、シューマンプラン構想・欧州石炭鉄鋼共同体設立のジャン・モネが「EUの父」であるという[5]筑波大学教授・東京大学特認教授のハラルド・クラインシュミット(Harald KLEINSCHMITDT)によると、クーデンホーフ=カレルギーの思想上の価値観はほとんどの人々にとっては魅力がなかったうえ、矛盾に満ち、また貴族のエリート意識があり、不適切な理想主義的価値観の尊重がなされ、さらに宗教上の派閥主義が原因となり、汎ヨーロッパ主義は時流に取り残されたのである[54]

植民地への見解[編集]

クーデンホーフ=カレルギーが世界連邦として世界を5ブロックに分けたうちの1ブロック「ヨーロッパ」とはヨーロッパ諸国の植民地を含めた範囲であり、英国は広大な植民地を領有しているのでそれら植民地が含まれる「イギリス連邦」を1ブロック化した[5]

著書『汎ヨーロッパ』(1923年)の欧州統合にはアフリカ東南アジアが入っている[55]。著書でヨーロッパとアフリカは政治的・経済的に同等ではなかったため、1927年に『汎ヨーロッパ』のフランス語版が出版されたフランスでは、アフリカをヨーロッパの経済的後背地と考える「ユーラフリック」(Eurafrique)論者たちが『汎ヨーロッパ』を好意的に受けとめた[55]。1927年フランス語版は、1923年ドイツ語原書の出版以降の動向に関して新たに付け加えられた。

1931年に発表したフランス語の書籍『La lutte pour l’Europe』(欧州のための戦い)でクーデンホーフ=カレルギーは西アフリカを欧州の庭にして欧州で共同開発をするという提案をした[55]

クーデンホーフ=カレルギーはイタリアのムッソリーニ政権がエチオピアの再植民地化を目的に行ったエチオピア侵攻(第二次エチオピア戦争: 1935年-1936年)をヨーロッパ全体にとっての利であるということで支持している[56]。欧州列強によるエチオピアへの態度はアフリカを「汎アフリカ主義」へ向かわせる大きな影響を及ぼすことになった[57]。第二次大戦後、欧州統合の構想に刺激され、アフリカの知識人たちは「汎アフリカ」を提唱した[55]。1950年代にアフリカで脱植民地化が始まり、アメリカ合衆国においてもアフリカ系アメリカ人黒人)の公民権適用と人種差別撤廃の運動が始まった(アフリカ系アメリカ人公民権運動)。

クーデンホーフ=カレルギーは東南アジアに関しては、ヨーロッパ・オランダの植民地であったインドネシアオランダ領東インド)を「汎アジア」ブロックが実現したならばそちらに差し上げてもよいということを言っていた[36]

ユダヤ教への見解[編集]

クーデンホーフ=カレルギーはカトリックのキリスト教徒として育てられた[20]

ユダヤ系の俳優イダ・ローランと結婚したクーデンホーフ=カレルギーは、第1回汎ヨーロッパ会議が開催された1926年に、彼の汎ヨーロッパ運動によりヨーロッパのユダヤ教徒に特別な支援をする意思を表明し、またヨーロッパ合衆国はユダヤ教徒に有益であり、民族的憎悪と経済的敵愾心をなくすであろうと言った[58]

クーデンホーフ=カレルギーはナチスの民族的ナショナリズム・ゲルマン民族至上主義を批判した[5]。民族平等の考えは、父ハインリヒの影響も見受けられ、ハインリヒは民族平等論者でユダヤ教徒への差別などを批判し、『ユダヤ人排斥主義の本質』という本も書いている[5]。リヒャルトは1937年、『Judenhaß!』(ユダヤ教徒への憎悪!)を出版した。

ドイツ・オーストリア関税同盟事件[編集]

クーデンホーフ=カレルギーの「汎ヨーロッパ」の過程には「欧州関税同盟」の構想がある[5]。オーストリアでは1929年からの世界恐慌下にある1931年に、前オーストリア共和国連邦首相の外務大臣ヨハン・ショーバーがクーデンホーフ=カレルギーの「汎ヨーロッパ主義」をドイツとの経済協力のための大義として主張したが、第一次世界大戦の戦勝国フランスによる経済制裁でオーストリア最大の銀行クレジット・アンシュタットCreditanstalt)は1931年5月に破綻、ショーバーは失脚し、その後ナチスが台頭することになった(ドイツ・オーストリア関税同盟事件)。

クーデンホーフ=カレルギーは1931年に『Brüning - Hitler: Revision der Bündnispolitik』(ブリューニング - ヒトラー: 同盟政策の変更)という31ページの本を自身の汎ヨーロッパ社から出版している。ドイツの首相ハインリヒ・ブリューニングBrüning)はドイツ・オーストリア関税同盟事件のドイツ側の当事者であり事件後に首相を辞任し、躍進したヒトラーのナチスに暗殺される危険(長いナイフの夜#ドイツ政界の噂)があったブリューニングはアメリカ合衆国に亡命した。

1932年にスイスのバーゼルで開催された第3回汎ヨーロッパ会議ではナチス・ドイツへの反対を決議した[5]

リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーとアドルフ・ヒトラー[編集]

1920年に導入されたハーケンクロイツのナチス党旗。クーデンホーフ=カレルギーの汎ヨーロッパ主義はナチスと対立した。
ナチス指導者ヒトラー。写真は1920年代前半。

ナチス・ドイツの指導者アドルフ・ヒトラーは、クーデンホーフ=カレルギーと同時代の政治家であり、クーデンホーフ=カレルギーと同じく父親はオーストリア=ハンガリー帝国の役人である。ヒトラーはクーデンホーフ=カレルギーより5年早く、オーストリア=ハンガリー帝国の税関職員アロイス・ヒトラーとヒトラー家の家政婦クララとの間にオーストリアのブラウナウで生まれた。

対立

ヒトラーは自著『我が闘争』(1925年-1926年)に続いて1928年に完成させた生前未発行の口述筆記の自著『Zweites Buch』(第二の書; 続・我が闘争)の中でクーデンホーフ=カレルギーを「Allerweltsbastarden Coudenhove」(皆全員にとっての忌まわしい愚かなインチキ人間、クーデンホーフ)と記述している[59][60]。ヒトラーは教育水準の高い知識人が嫌いで、貴族のような上流階級も嫌いであった(アドルフ・ヒトラー#対人関係)。

1932年の第3回汎ヨーロッパ会議はヒトラーを指弾した[4]1933年、ヒトラーがドイツ首相に就任し(1月)、汎ヨーロッパの書籍はドイツで禁止され、焚書(焼却)となり[4][46]、汎ヨーロッパ連合のドイツ支部は解体された[46]。1935年第4回汎ヨーロッパ会議(ウィーン)は国家社会主義が議題になった[4]。1937年にクーデンホーフ=カレルギーは20世紀の2つの全体主義に関する書籍『Totaler Staat Totaler Mensch』(トータラー・スタート トータラー・メンス; 全体国家 全体人間)を汎ヨーロッパ社から発行した[4]。1938年にナチス・ドイツはクーデンホーフ=カレルギーがフリーメイソンリーの会員であることを記述した書籍『Die Freimaurerei Weltanschauung Organisation und Politik』(フリーメイソンリー 世界観 組織と政策)を発行した[22]

ナチス・ドイツの「ナチズム」は反ユダヤ主義が組み込まれ、ヒトラー自身も反ユダヤ主義である。ナチスはフリーメイソンリーをユダヤ教に関連する団体と位置付け、クーデンホーフ=カレルギーによる汎ヨーロッパの組織を国際的なフリーメイソンリーの担い手と見なした[18]

「ナチズム」のヒトラーにとって「汎ヨーロッパ主義」は邪魔であり、1938年のドイツによるオーストリア併合Der Anschluß Österreichs an das Deutsche Reich)の前夜[4]、クーデンホーフ=カレルギーは妻イダを連れてチェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴ、イタリアを経てスイスへ逃避行を余儀なくされた[61]。ホーフブルク宮殿の汎ヨーロッパ運動本部はナチスに占拠され、約4万点に及ぶ書類が処分された[27]。1939年にドイツ・スロバキア・ソ連によるポーランド侵攻が開始し、第二次世界大戦に発展した。フランスを汎ヨーロッパ運動の本拠にするも1940年にフランスがドイツの手に落ちるとスイスを経て、ポルトガル・リスボンに着き、英国亡命は査証手続き難航により中止し[12]、最終的にアメリカ合衆国へ(ここでも査証に苦戦を強いられたが[62])亡命、1940年8月中旬にリスボンからニューヨークへ渡航した[11]。妻イダと娘のエリカは1940年6月にスイスを経てポルトガル・リスボンからニューヨークへ渡航した[4]。ドイツ軍は1940年7月、英国上陸作戦(アシカ作戦)の口火を切り、バトル・オブ・ブリテンを開始した。亡命の翌年、日本が米国に真珠湾攻撃を行い(1941年12月8日)、ヒトラーは米国に宣戦布告した(12月10日)。

1943年の第5回汎ヨーロッパ会議は亡命中の米国で行われ、チャーチルが参加した[12]。亡命中はヒトラーが嫌っていた学者となった(ニューヨーク大学教授)[4]

欧州戦線も大詰めの1945年4月にヒトラーは絶命(アドルフ・ヒトラーの死)、ナチス・ドイツは敗北、ヒトラーとナチス・ドイツによるヨーロッパの席巻は終焉した(欧州戦線における終戦)。クーデンホーフ=カレルギーは戦後の1947年ヨーロッパ議員同盟(EPU: European Parliamentary Union)を創設するなど、ヨーロッパ共同体の進展に尽力した。

ヒトラーの未発行本『第二の書』(続・我が闘争)は、1961年に発行された。クーデンホーフ=カレルギーの汎ヨーロッパ社1937年『Totaler Staat Totaler Mensch』(トータラー・スタート トータラー・メンス)は1939年に逆の題名『Totaler Mensch Totaler Staat』(トータラー・メンス トータラー・スタート)でHerold社から再発行され、1965年にHerold社から『Totaler Mensch Totaler Staat』が再・再発行された。

文化芸術に対する境遇

リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーとアドルフ・ヒトラーは華やかな世紀末ウィーンの文化を体験した。クーデンホーフ=カレルギーはその時代にあって「ヨーロッパの三大美人」[56]と評され、そしてまたユダヤ系であった[56]大物俳優イダ・ローランと結婚し、1920年代になると彼はヨーロッパ文壇の寵児であった[63]。1920年代のヨーロッパ文壇においてはパリヘミングウェイ(1926年『日はまた昇る』、1929年『武器よさらば』)ら「失われた世代」もいた。

クーデンホーフ=カレルギーの一族と芸術のかつての縁では、ポーランド貴族の曾祖母でパリやワルシャワ社交界の美貌の伯爵夫人マリア・カレルギス(カレルギー家)が芸術のパトロンヌであった。マリア・カレルギスはフレデリック・ショパンフランツ・リストリヒャルト・ワーグナーらと親交を結んだ[64]

ヒトラーはオーストリア=ハンガリー帝国における美術教育の最高機関ウィーン美術アカデミー(ウィーン造形美術大学)を2度の受験に失敗して結局入学できず、芸術家として挫折した。リヒャルト・ワーグナーのような反ユダヤ傾向の芸術家を好むヒトラー総統はユダヤ系の芸術家をウィーン美術アカデミーから追放した(「退廃芸術」追放)。クーデンホーフ=カレルギーの支持者トーマス・マンはナチスによりプロイセン芸術院から追放された。

リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの甥でウィーン幻想派の画家ミヒャエル・クーデンホーフ=カレルギーはウィーン美術アカデミーに入学し、1964年に首席で卒業した[65]。彼の絵筆には若い頃に伯父リヒャルトと語り合った世界観がある[65]

鹿島守之助との親交[編集]

日本の外交官永富(鹿島)守之助(1927年に鹿島建設の鹿島一族へ婿入り)は外交官の卵であった1922年にベルリンに赴任してクーデンホーフ=カレルギーの「汎ヨーロッパ」の論説に感銘を受けた[36]。永富は在ドイツ大使本多熊太郎の紹介でクーデンホーフ=カレルギーと知り合うことが出来た[36]。クーデンホーフ=カレルギーは、世界平和の実現のため、無力な国際連盟の基礎として世界の5大地域が必要と永富に言った[66]。その内ソ連、汎アメリカ、イギリス帝国は既に成立し、ヨーロッパとアジアはまだであるということであった[66]。クーデンホーフ=カレルギーは永富に「汎アジア」を進言し、汎アジアが成立したら友情のしるしとして汎ヨーロッパ側に必ず要するわけではないオランダ領東インド(インドネシア)を(汎アジア側に)差し上げると言った[36]。永富はクーデンホーフ=カレルギーに『汎ヨーロッパ』の翻訳を依頼され、1927年に国際連盟協会から日本語版を出版した[36]

鹿島(永富)は1929年末に外務省を退官し[36]、汎アジアを提唱して郷里の兵庫から衆議院選挙に出馬したが落選した[66]。それを鹿島から聞いたクーデンホーフ=カレルギーは、地域の統合・協力は必ず実現するからと鹿島を励ました[66]

しかしながら鹿島は太平洋戦争が差し迫る1940年頃、アジアに対する考えを「汎アジア」から「大東亜共栄圏」へと変化させ(しかしまた鹿島の後年の回想録では1942年から1943年頃、鹿島は日本が敗戦してアジア諸国の領土を失うと予期していたという)、またヒトラーを支持した[36]。鹿島は第二次大戦後、5年8か月の公職追放となった[36]

鹿島は1957年、クーデンホーフ=カレルギーの思想に則し、汎アジア構想の具体化のため、国際的平和と安全の研究機関「鹿島研究所」(1966年から財団法人「鹿島平和研究所」)を設立した[67]。1967年、財団から第1回鹿島平和賞がクーデンホーフ=カレルギーに贈られることになった[66]。その時クーデンホーフ=カレルギーは、日本が世界平和を担う運命にあり、それは世界唯一の平和主義的な「日本国憲法」がそのようにしていると謝辞で述べた[66]

鹿島が翻訳・出版したもの等を整理して、鹿島研究所出版会1963年設立、のち鹿島出版会)から『クーデンホーフ・カレルギー全集』全9巻が1970年から1971年にかけて刊行された。

一生涯、クーデンホーフ=カレルギーを尊敬し、親交を続けた鹿島は、1973年に生家の庭園に「わが最大の希願は、いつの日にかパンアジアの実現を見ることである 鹿島守之助」と刻まれた碑を建立し、1975年に生涯を終えるまで汎アジアを希求し続けた[66]

ベニート・ムッソリーニへの接近[編集]

クーデンホーフ=カレルギーはヒトラーと対立する他方で、ファシズム思想の本家であるイタリア王国国家ファシスト党ベニート・ムッソリーニ統領(任期1925年-1943年)に対しては接近し、これはムッソリーニがナチス・ドイツによるオーストリア併合に反対していたためであり、クーデンホーフ=カレルギーはオーストリア併合を阻止しようとしたが1937年にイタリアが日本とドイツの防共協定に参加したことにより失敗した(日独伊防共協定[56][63]。クーデンホーフ=カレルギーとムッソリーニとの往復書簡で1923年と1940年に交わされたものは残存している[68]

クーデンホーフ=カレルギーとムッソリーニはともに1番目の妻の名が「Ida」である。ムッソリーニは1914年にIda Dalserイダ・ダルセル1880年-1937年)と結婚した。

クーデンホーフ=カレルギーの支持者チャーチルもまたムッソリーニに対する好意的態度を見せたが、EUの父の一人に数えられる反ファシズムのアルチーデ・デ・ガスペリはイタリア国内でムッソリーニと対決し、1927年に逮捕され、釈放後にバチカンを頼り、イタリアのファシズム体制崩壊後はイタリアで外務大臣、首相、大統領を歴任した。

ヨシフ・スターリンへの批判と冷戦の展開[編集]

1932年第3回汎ヨーロッパ会議(スイス・バーゼル)ではヒトラーに対してと同時にソビエト連邦の指導者ヨシフ・スターリン共産党書記長)に対しても反対を表明した[4]。クーデンホーフ=カレルギーはスターリンの批判をしていたのでソ連に嫌われていた[5]。ソ連との関係はクーデンホーフ=カレルギーがノーベル平和賞を逃した理由の一つであるという憶測がある[5]

熱戦から冷戦へ

ヒトラーが死去してからの第二次大戦後、スターリンは汎ヨーロッパ運動に反対を表明した[41]。かねてから反・共産主義者として知られていたクーデンホーフ=カレルギーは[69]、1950年代以降の壮年から老年にかけて反・共産主義の姿勢を強めた[6]。クーデンホーフ=カレルギーにとってスターリンが生きていることは死んだヒトラー以上に「自由」に対する危険であった[70]。米国亡命中からクーデンホーフ=カレルギーを支持していた[12]米大統領ハリー・S・トルーマン(フリーメイソン[50])は、日本への原子爆弾投下日本の降伏により第二次大戦が終結すると間もなく「トルーマン・ドクトリン」(1947年)を宣言し、ソ連側(東側諸国)と米国側(西側諸国)の東西冷戦を発展させた。

1953年にスターリンは死去した。ソ連内部においても1956年フルシチョフによる「スターリン批判」が行われた。クーデンホーフ=カレルギーの『Totaler Staat Totaler Mensch』(1937年)の英語版を1950年代に読み共感を覚え日本語版を発行した日本の政治家鳩山一郎(フリーメイソン[71])は第3次鳩山一郎内閣で1956年にフルシチョフ、ブルガーニンらとの交渉の末、日ソ共同宣言にこぎ着けた。

東西対立関係はベトナム戦争1960年-1975年)、キューバ危機(1962年)など依然として続き、米国ジョン・F・ケネディ政権下で押し進められたベトナム戦争ではクーデンホーフ=カレルギーが『汎ヨーロッパ』(1923年)で懸念を表明していた化学兵器[36]が使用された(航空機による「枯葉剤」散布)。クーデンホーフ=カレルギーは冷戦を憂慮し、晩年に創価学会会長池田大作との対話を試み、世界平和について語り合った。

クーデンホーフ=カレルギーの死去後、1980年代後半のソ連指導者ゴルバチョフによるペレストロイカチェルノブイリ原発事故1986年)を受けてのグラスノスチ分断ドイツにおいて西ベルリンを囲み東西ベルリンを分断したブロック壁の崩壊(ベルリンの壁崩壊: 1989年)などを経て冷戦は終結した。

ロシアに関する地政学

クーデンホーフ=カレルギーはヨーロッパとロシアの団結はいつの日か実現可能であろうとも考えていた[72]。ただしそれはヨーロッパとアジアがウラル山脈アルタイ山脈まで拡大したりヨーロッパが中国・日本・太平洋まで拡大したりしないならば、という地政学的な条件付きであった[72]

クーデンホーフ=カレルギーが汎ヨーロッパ論を展開する中でヨーロッパや祖国オーストリアの復興のために反対していたヴェルサイユ体制(1919年)[5]においては、ロシア(ソ連)は、ヴェルサイユ条約ほか諸講和条約とともに発足した国際連盟へ1934年に加盟した(1939年に連盟から除名)。1945年発足の国際連合(UN)においては、ソ連は最初からの原加盟国であり常任理事国である。北大西洋条約機構(NATO)においては、2002年に「NATO・ロシア理事会」(NATO20)が設立されたが、21世紀初頭のNATO諸国とロシア連邦の間には未だ溝がある[73]

ノーベル平和賞候補[編集]

1930年代のクーデンホーフ=カレルギーはノーベル平和賞に毎年のように推薦されていたが、国際連盟との関係が重要であったノルウェー政府としては「汎ヨーロッパ」に魅力がなく、ノーベル委員会もクーデンホーフ=カレルギーをそれほど高く評価していなかったようである[74]

下記はリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーがノーベル平和賞の候補になった年と彼を推薦した人物の一覧である。これは、ノーベル賞公式サイトが発表している秘匿期間が既に終わった1901年から1956年までの分である[75]

最晩年の1972年に汎ヨーロッパ運動50周年で欧州統合の功労者ジャン・モネとの共同受賞というシナリオもあったようであるが[52]、クーデンホーフ=カレルギーは1972年7月に世を去り、また1972年のノーベル平和賞は「受賞者なし」であった。クーデンホーフ=カレルギーは第二次大戦の頃は華々しい活躍をしたが、晩年は欧州統合の傍流であった[52]。クーデンホーフ=カレルギーはノーベル平和賞を受賞しなかったが、彼の没後40年、彼の汎ヨーロッパ運動から90年が経過した2012年に欧州連合(EU)はノーベル平和賞を受賞した。

クーデンホーフ=カレルギーの政敵ヒトラーは1939年に一人の推薦人により一度だけノーベル平和賞への推薦が提出されたが、これは反ファシストのE.G.C.ブラント(ヒトラーの主治医K.ブラントとは別人物)が皮肉で提出したものであり、すぐに提出は撤回した[76][77]

著書『自由と人生』に見られる友愛の政治思想[編集]

友愛の提唱

汎ヨーロッパ運動主催者であり、また友愛団体フリーメイソンリーの会員であったリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵は、「Brüderlichkeit」(ドイツ語。ブリューダーリッヒカイト)すなわち「友愛」を思想として提唱した。

伯爵の著作に『自由と人生』(ドイツ語の原題は『Totaler Staat Totaler Mensch(トータラー・スタート トータラー・メンス)』。1937年。題意は「全体国家 全体人間」。)がある。文字通り全体主義あるいはファシズムを批判しながら、友愛にもとづく世界を構想した。この書籍は、クーデンホーフ=カレルギーが汎ヨーロッパ運動によりナチス・ドイツと対立し、双方が政治的に応酬する中で出版された。ドイツによるオーストリア併合はその翌年の1938年のことであり、クーデンホーフ=カレルギーはナチスから狙われ国から国へ逃亡した[61]。日本では元首相鳩山一郎に強い影響を与えた書籍であり、歳月経過後に鳩山が日本語版を書いた(翻訳用テキストは英語版)。

本著作は英訳された『The Totalitarian State against Man(ザ・トータリタリアン・ステート・アゲインスト・マン)』(1938年。題意は「人間に敵対する全体主義国家」。)の他、フランス語訳(1938年)、鳩山一郎の日本語訳『自由と人生』(洋々社1952年、乾元社1953年、洋々社新版1967年)等がある。

国家社会の文明論

1935年、クーデンホーフ=カレルギーは、ファシズムやボルシェビズムが終わるという見通しを立てた[78]。加えて技術進歩により、階級差や貧富の差が無くなり、社会が変容すると宣言した[78]。その社会では個人が確立され、母性による友愛が、社会や国家を築くという[78]。それには、クーデンホーフ=カレルギーが自己完成を人間の最高の義務と考えているという背景がある[78]。クーデンホーフ=カレルギーは、自身の描く社会や国家になるには、教育改革により、全人類が兄弟姉妹になり、全人類が同一の」の子(「神の子」も参照)にならなければと考えた[78]。そのために必要なのは、友愛という名の、心の革命であるという[78]

心の革命

クーデンホーフ=カレルギーの友愛は、フランス革命の友愛に立脚している[78]。とはいえクーデンホーフ=カレルギーの友愛主義は、自由と平等の両立であり、フランス革命に対して高く評価していない[78]。クーデンホーフ=カレルギーによると、「自由、平等、友愛」のためのフランス革命には、自由の革命はあれど平等と友愛の革命はなく、自由と平等は依然対立しているが、誰もが望むような経済的平等は自由と対立しているようでは無価値である[78]。そこで、友愛主義のもと、友愛革命という心の革命が必要となる[78]。さらにクーデンホーフ=カレルギーは、友愛革命が、各国の国民間および階級間の橋渡しとして、その全ての自由な人間が同胞になる福音であると強調する[78]。心の革命とは暴力や強制ではなく、相互の尊厳を尊重することであり、その権利は人間生来のものであり、その権利はあらゆる制度に優る[78]

レディとジェントルマン(淑女と紳士)

友愛思想の提唱者クーデンホーフ=カレルギーは、友愛主義のもと、友愛革命を以って、友愛社会を築くことを目標としていた[78]。クーデンホーフ=カレルギーが描いた友愛社会は、理想の社会である[78]。その社会はLadyGentlemanレディジェントルマン、または淑女紳士)で構成される[78]。クーデンホーフ=カレルギーにとってのジェントルマン像は、英国(イギリス)のジェントルマンである[78]。ジェントルマンになるための特別な才能は必要ないとし、ありふれた人間であることが人間的であり、ジェントルマンの理想である[78]。そのジェントルマンは、女性より体の強いものとして、レディを尊敬して守る道徳上の義務がある[78]

政治家批判

クーデンホーフ=カレルギーは同時代の政治家アドルフ・ヒトラーと対立し、批判していた。また同時代の政治家ヨシフ・スターリンの批判もしていた[5]

クーデンホーフ=カレルギーは、ある同時代の政治家を、卑怯で尊大、うぬぼれた輩(やから)と批判している[78]。クーデンホーフ=カレルギーによると、クーデンホーフ=カレルギーの時代の政治は、ある政治家が部分的に手中に収め、その政治家は「大多数の世論の支持を得たものとうぬぼれているような」人物である[78]。そこで政治の世界でもレディとジェントルマンの理想が重要になってくる[78]。この理想が到来すると民主政治が確固たるものとなる[78]。出来ない約束をする政治家がいなくなる[78]。理想社会のジェントルマンに財産や子どもを任せることが出来る[78]

日本との関係[編集]

汎ヨーロッパへの反応[編集]

  • 外交官・鹿島建設社長の鹿島守之助はクーデンホーフ=カレルギーの熱烈な支持者であり、鹿島は『汎ヨーロッパ』の日本語版(国際連盟協会、1926年)の翻訳者である。その翻訳の仲介役であった東京帝国大学神川彦松教授と東北帝国大学松原一雄教授(国際法学)は汎ヨーロッパを「モンロー主義のヨーロッパ版」として警戒した[82]。ジャーナリストで法政大学教授(経済学)の高木友三郎はクーデンホーフ=カレルギーの汎ヨーロッパに感銘を受け、1931年の満州事変勃発後に『東亜モンロー主義の驀進』(1932年)を書いた[82]。1934年に外務省情報部長天羽英二は、日本によるアジア独占の野心がある「東亜モンロー主義」の声明(天羽声明)を非公式談話として発表した[83]。天羽は戦後、公職追放となった。
  • 日中戦争(1937年-1945年)の激化後、右翼の重鎮でアジア主義者の頭山満がクーデンホーフ=カレルギーに興味を持ち、頭山はクーデンホーフ=カレルギーに「アジア共同体」を提案させるつもりがあった[84]
  • 1964年、アジア太平洋地域の放送関係団体からなるアジア太平洋放送連合は、第10代NHK会長前田義徳が学生時代に読んだ『汎ヨーロッパ』のイメージが元で設立された[82]

母・クーデンホーフ=カレルギー光子[編集]

母・光子(みつ)はリヒャルトが幼い頃、『桃太郎』などの日本の童話を読み聞かせた[5]

1906年に夫のハインリヒが急逝すると光子がクーデンホーフ=カレルギー家の当主となった。

リヒャルトはウィーン大学に在学中[2]、光子に同行した社交場で俳優のイダ・ローランと知り合ったのであるが[9]、リヒャルトと光子との関係はイダとの結婚で悪化した。光子は日本の古い考えがあり芸人を蔑視していた[2]。リヒャルトはウィーン大学を卒業する前年の1916年に光子から勘当された[2]。光子はリヒャルトが「汎ヨーロッパ」で脚光を浴びると、汎ヨーロッパ運動には興味がなかったが、この頃にリヒャルトの勘当を解いた[2]

光子もまた、かつて自身がハインリヒと結婚するという時に、外国人と結婚することを望まなかった父母から一時勘当され、後に結婚は承諾された[2]。ハインリヒ側でも、貴族と平民の身分違いもさることながらハインリヒは外交官であるので任地の女性との結婚が許されず、その件でハインリヒはバンコクへ転任、この結婚はヨーロッパの外交官としては前代未聞であった[2]。それだけでなくハインリヒの父フランツが反対していた[2]

光子はハインリヒと結婚して日本を離れる際に昭憲皇太后明治天皇の皇后)に拝謁し、1931年に高松宮夫妻と謁見した[2]。光子は日本大使館から守られていたのでリヒャルトの母であってもナチス・ドイツからの迫害は受けなかった[2]

鳩山一郎への影響[編集]

著書『自由と人生』を巡って[編集]

日本の政治家鳩山一郎とクーデンホーフ=カレルギーの関係において、クーデンホーフ=カレルギーの著書『Totaler Staat Totaler Mensch』(トータラー・スタート トータラー・メンス; 全体国家 全体人間)の日本語翻訳・単行本出版がある。翻訳用テキストは英訳書である『The Totalitarian State against Man』(英訳者: アンドリュー・マクファディエン)。底本として使用した英書から一郎はクーデンホーフ=カレルギーの友愛思想に影響を受けた。

ナチス・ドイツから逃れ汎ヨーロッパ運動を継続するため、クーデンホーフ=カレルギーは1940年にポルトガルのリスボンでアメリカ合衆国への亡命を図っていた。当時の日本がドイツと協力関係にあったにもかかわらず、ポルトガル公使館米澤菊二館長は亡命の査証手続きに苦労していたクーデンホーフ=カレルギーを手助けした[62][85]。クーデンホーフ=カレルギーはコロンビア大学総長ニコラス・バトラーに電報で打診し、ハル国務長官(フリーメイソン[86])の署名入りのビザ発行命令が出されてようやく米国行き航空券の入手に成功した[27]。「ハル・ノート」は、翌年1941年に米国から日本に提案された。

クーデンホーフ=カレルギーはアメリカ合衆国への亡命を手助けした米澤館長に英書『The Totalitarian State against Man』をプレゼントし、米澤はジャーナリストの松本重治にその本を貸し、松本は早稲田大学教授の市村今朝蔵に貸した[85]。市村は鳩山一郎にその本を日本語に翻訳して出版してもらおうと思い一郎のもとを訪れた[85]。既に第二次世界大戦は終焉し一郎は公職追放中にあった。

一郎は市村から手渡された英訳書を『自由と人生』と題して翻訳し、1952年に出版された[87]。本書で一郎は、英語の「Fraternity」(フラタニティ)を「友愛」と翻訳した。一郎は友愛思想を日本で提唱、出版の翌年には友愛青年同志会を結成した。クーデンホーフ=カレルギーは友愛青年同志会名誉会長を務めた[71][87]1954年に友愛青年同志会の「友愛の旗」と「友愛の歌」(来拪中翁作詞、渡邉暁雄作曲[88])が決定し[87]、友愛青年同志会第1回全国大会にはクーデンホーフ=カレルギーからメッセージが寄せられた[87]。友愛青年同志会はのち日本友愛青年協会(1959年-2011年)、そののちに日本友愛協会(2011年-)となる。友愛の伝道者となった一郎が友愛団体フリーメイソンリーに入会したのは1951年であった[71]

Nuvola apps kview.svg 画像外部リンク
Searchtool.svg 日本語版『自由と人生』を持つフィッシャー大統領[89] - 2009年9月30日、日墺首脳会談。(ゲッティ・イメージズ社所蔵)

一郎の孫鳩山由紀夫の「友愛」思想も祖父一郎を介してクーデンホーフ=カレルギーの思想から影響を受けている。日本の総理大臣になった由紀夫は「日本オーストリア交流年」の2009年に行われた日・オーストリア首脳会談の際、一郎訳の日本語版『自由と人生』をオーストリア連邦大統領ハインツ・フィッシャーに手渡した[90]

一郎の子孫たち[編集]

一郎の息子鳩山威一郎(友愛青年同志会3代目会長[78])とブリヂストン創業一家出身の安子(日本友愛青年協会3代目理事長[78])との間の三人の子供たち、井上和子(旧姓鳩山、日本友愛協会評議員長[91])、鳩山由紀夫(日本友愛青年協会4代目理事長[78])、鳩山邦夫(友愛青年同志会4代目会長[78])は友愛青年同志会(友愛青年連盟、日本友愛青年協会、日本友愛協会)の役員を務め、さらにクーデンホーフ=カレルギーを継承するものとして鳩山友愛塾2008年-)を開催している。

一郎の別邸であった「鳩山荘 松庵」(千葉県館山市)のロビーに飾られている2枚の「友愛」の揮毫はそれぞれ一郎と邦夫のものである[92]

由紀夫は脳科学者茂木健一郎教授[93]らとともに「友愛研究会」(2013年-)[94]を開催している。由紀夫の政策には「東アジア共同体」がある。由紀夫は一般財団法人東アジア共同体研究所(2013年-)を主宰し理事長を務め、鳩山幸孫崎享橋本大二郎高野孟らが役員として参加し、茂木健一郎教授は東アジア共同体研究所の事業「世界友愛フォーラム」代表幹事に就任している[95]。由紀夫は公式サイトのプロフィールで座右の銘は「友愛」を挙げ、尊敬する人物はリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーではなく、ジョン・F・ケネディを挙げていた[96]

日本への帰郷[編集]

1967年10月30日には、日本の鹿島平和財団から第1回「鹿島平和賞」を贈られた[67]。その授賞式や報道関係の取材に協力するため、鹿島平和財団、NHK、友愛青年同志会の三者の招待で10月26日から11月8日にかけて夫婦で訪日した[67][78]。この時の訪日で天皇裕仁(昭和天皇)と香淳皇后に謁見し、皇太子明仁親王と美智子妃も接見し、各界の指導者と会見し、数回の講演を行った[67]。クーデンホーフ=カレルギーにとってこの訪日は、東京で生まれて以来、71年ぶりの日本への帰郷であった[67]。翌1968年、鹿島守之助による日本語訳の著書『美の国 日本への帰郷』が鹿島研究所出版会で刊行された。この頃、鳩山一郎の長男威一郎は大蔵省主計局に勤務し、威一郎の長男由紀夫は東京大学を卒業した(1969年)。

2回目の訪日は1970年10月6日から10月28日にかけてであった[78]。今回は創価学会の全面的な支援による招待となり[97]創価学園東京キャンパス[98]、建設中の創価大学などを訪問し[97]、池田大作と会見した[99]。クーデンホーフ=カレルギー離日後の日本は、およそ1か月経過したのちの11月25日、元大蔵官僚・戦後日本の大作家でトーマス・マン等を敬愛していた三島由紀夫[100]が1968年に結成した楯の会会員を引き連れ(同1968年『わが友ヒットラー』発表)、楯の会の「父でもあり、兄でもある」自衛隊(散布「」から)の市ヶ谷駐とん地において自衛隊員に向けてクーデターを呼びかけるが空転に終わり、そうかと分かった三島が割腹自殺を遂げて絶命するという空前の出来事に直面した(三島事件)。

池田大作[編集]

対話[編集]

創価学会の三色旗。1988年に池田大作が提案した[101]。青=平和、黄=栄光、赤=勝利[101]

クーデンホーフ=カレルギーの晩年、世界は冷戦下にあった。クーデンホーフ=カレルギーは世界平和の実現のため、仏教に、創価学会に希望を抱き[102]、1967年の訪日(帰郷)に際し、当時創価学会の会長であった池田大作との会見を強く求め[99]、鹿島、NHK、友愛青年同志会の関係者一同は創価学会への接触に反対していたが構うことなく[103][104]、1967年10月30日に会談を実現した[105][106]。クーデンホーフ=カレルギーは自分より30歳以上若い池田を好人物・知性ある人物として高く評価した[103]。クーデンホーフ=カレルギーは池田が日本国外の知識人・要人と対談した初めての相手となった[103]。クーデンホーフ=カレルギー著『美の国 日本への帰郷』(1968年、鹿島研究所出版会)には池田に関する言及もある[103]

会見は1970年の東京都においても行われ[99]、延べ十数時間の対談となり、クーデンホーフ=カレルギーが語った日本が成すべき世界平和実現・新たな太平洋文明の発展・平和思想としての仏教の発信、それらの考えは池田に印象を残した[107]

1971年、産経新聞にクーデンホーフ=カレルギーと池田の対談が連載され、対話集『文明・西と東』として1972年に刊行されている[108][97]

創価歓喜の凱歌[編集]

クーデンホーフ=カレルギーの提案によりベートーヴェンの「歓喜の歌」は「欧州の歌」になった。創価学会にはベートーヴェンの「歓喜の歌」の旋律に創価合唱団・指揮者の服部洋一が作詞した歌詞が付いた「創価歓喜の凱歌」(「創価歓喜の歌」、「よろこびのうた」)がある[109]

オーストリア共和国の勲章[編集]

池田が1992年にオーストリア共和国から受勲した科学・芸術名誉十字章勲一等(Österreichisches Ehrenkreuz für Wissenschaft u. Kunst I. Klasse)は[110]、リヒャルトと異種の勲章で、リヒャルトの甥ミヒャエルと同種の勲章である[14]

後世の出来事[編集]

国際交流、生誕記念等[編集]

  • 2002年、日本と欧州連合(EU)の首脳協議により、2005年に「日・EU市民交流年」として日本とEU諸国においてさまざまな催しが行われることになった[111]。その頃の出来事として、2003年、拡大するヨーロッパと日本の将来を考えるシンポジウム「ヨーロッパ統合への道 リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーのパン・ヨーロッパ構想からアテネ条約まで」が日本で開催され、リヒャルトの姪(ミヒャエルの姉)でジャーナリストのバルバラが参加した[112]。また2004年には日本でリヒャルトの展示会が開催され[85]、2005年の「日・EU市民交流年」にあたってはチェコでプラハ・アーヘン・クラブとチェコ日本協会の共催により「クーデンホフ・カレルギー家の人々」の講義が実施された[113]
  • 2010年3月、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー生誕115周年記念の国際アジア・シンポジウムが国際アジア共同体学会(ISAC)と青山学院大学総合研究所で共催され、甥のミヒャエルが開会で挨拶をした[114]
  • 京都では京都市立南大内小学校がロンスペルク城のあるチェコ共和国ポベゾビチェチェコ語: Poběžovice、ドイツ語: Ronsperg)のポベゾビチェ小学校と2011年度から国際学校間交流を開始した[115][116]。第二次大戦で荒廃したロンスペルク城は日本からの募金で2011年においても復旧作業が続いている[117]。2012年、国際日本文化研究センター京都市でリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーと日本をテーマにしたフォーラムを開催した[118]

国会における言及[編集]

国会において言及されることもある。

... 欧州は、基本的には、大ざっぱに言って一つの共通の価値観がある、これはキリスト教の価値観であります。それから、生活レベルも、少なくとも欧州の今のEU十五カ国の中には貧困も餓死も宗教的、民族的対立もない。これは、過去百年のクーデンホーフ・カレルギー以来の努力が今まさに結実したことだろうと思います ...

憲法調査会幹事・安全保障及び国際協力等に関する調査小委員長 中川昭一(2003年7月24日第156回国会「憲法調査会」第9号[119]より)

  • 民主党衆議院議員鳩山由紀夫は、第1次安倍内閣における安倍晋三総理が所信表明演説で挙げた「美しい国」の四つの条件(一.「歴史を大切に」、二.「規律を知る、凜とした国」、三.「未来へのエネルギーを持ち続ける」、四.「世界に信頼され、尊敬される国」[120])に関して、それらの四つを矛盾に満ちていると論じた後、次のように言及した。
... 私は、総理の「美しい国」から、友愛精神の提唱者であるクーデンホーフ・カレルギー伯爵が一九六八年に書いた「美の国 日本」を連想いたしました。しかし、カレルギー伯の理念は、日本という国は調和を大切にする国だということであり、それを自立と共生の精神に置きかえ、現在の日本の社会をつくり上げていこうと考えているのが私ども小沢民主党であります。 ...

民主党幹事長 鳩山由紀夫(2006年10月2日第165回国会本会議」第4号[120]より)

  • 自民党衆議院議員加藤紘一による言及。鳩山由紀夫内閣における鳩山由紀夫総理が掲げる友愛精神に関して。クーデンホーフ=カレルギーへの言及に先立って、加藤は鳩山に「あなたは、時々、言葉が軽いとかソフトクリームとか言われる」と言った。この「ソフトクリーム」とは、鳩山兄弟らによる1996年の民主党結党時に自民党の中曽根康弘元首相が、民主党や鳩山の友愛(1996年の新語・流行語大賞)に関して、ソフトクリームのように甘く美味だが夏の終わりと共に溶けて無くなるという主旨の評価を下したものである[121][122]。鳩山が2010年に首相を退陣した際にはその中曽根大勲位から、ソフトクリームからアイスキャンディーに成長したところで伸び悩んでいるのでこれからもっと勉強してほしいと箴言もなされた[123]
... 友愛の中身 ... カレルギーさんという ... その後のEUの同盟をちゃんとつくり上げた人の精神だというので、何か、どっちかというと外国物なんですね。 ...

予算委員会理事 加藤紘一(2009年11月2日第173回国会「予算委員会」第2号[124]より)

  • 公明党衆議院議員富田茂之による言及。前国会(11月2日第173回国会)の加藤紘一議員による鳩山由紀夫総理に対する質疑に関して。
... 最後に、一つだけ総理に御紹介したい文章があります。前国会で、加藤紘一議員と総理の間で友愛について議論があったときに、クーデンホーフ・カレルギー伯のお話が出てきました。昭和四十五年十月に来日されたクーデンホーフ・カレルギー伯の講演を、私、当時高校二年生でしたけれども伺う機会がありまして、そのときの伯の結論は、二十一世紀は太平洋文明の時代だ、西洋から太平洋へ全部移るんだ、そのときに、私たち高校生、中学生に対して講演してくださったんですが、君たちが二十一世紀のこの太平洋文明を担っていくんだというのが結論だったものですから、すごい鮮明に今でもそのときのお話は覚えているんです。そのクーデンホーフ・カレルギー伯が、四十五年に来日された後、四十七年に対談集を日本で出版されました。その中に、もう四十年前に伯はこういうことを言われているんです。民主主義は、今日二つの大きな危機に直面しています。一つは金権政治です。 ... もう一つの危険は、扇動主義です。 ... この二つの指摘を四十年前にクーデンホーフ・カレルギー伯がされたということは物すごいことだと思いますし、この警鐘を我々国会議員は野党を問わずしっかり受けとめていかなければいけないというふうに思います。 ...

—予算委員会理事 富田茂之(2010年1月25日第174回国会「予算委員会」第4号[125]より)

映画「カサブランカ」、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー、フリーメイソンリー[編集]

ナチス・ドイツに抵抗した自由フランスの旗(1940年-1944年)。
ドイツ抵抗運動指導者ヴィクトル・ラズロ

クーデンホーフ=カレルギーは第二次世界大戦下の1942年に公開されたアメリカ映画「カサブランカ」に登場する人物のモデルであると言われている[3]。モデルと言われている人物はポール・ヘンリード1905年-1992年)が演じた自由フランスのドイツ抵抗運動指導者「ヴィクトル・ラズロ」である。ナイトクラブ「カフェ・アメリカン」の店主「リック・ブレイン」(ハンフリー・ボガート、本映画の主役)の恋人でヴィクトル・ラズロの妻「イルザ・ラント」役を演じたイングリッド・バーグマン1915年-1982年)は、世代ではリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー(1894年-1972年)の妻イダ(1881年-1951年)よりは、娘のエリカ(Erica Coudenhove-Kalergi)に近い(米国渡航時のイダは59歳)。また現実のナチス・ドイツは反ユダヤであると同時に反フリーメイソンリーであった[18]

ロレーヌ十字の指輪の場面

カナダのフリーメイソンリー本部(グランドロッジ)によると、男がヴィクトル・ラズロにロレーヌ十字が装飾された指輪を見せて同士であることを証明するシーンがあり(反枢軸国シーン)、しばしばそれは高位階級のフリーメイソンのために用いられる十字と見紛うのであるという[126][127][128]

フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』の場面

アフリカ大陸フランス領モロッコにある都市カサブランカは映画の当時、ナチスから逃れるためにリスボンから米国へ亡命する経由地となっている港であった[129]

カサブランカにある米国白人リックのナイトクラブ(「カフェ・アメリカン」)は亡命者の溜まり場になっていった[129]。リックのクラブの一角でドイツ軍人たちがドイツ軍歌『ラインの守り』を店内のピアノを弾きながら歌うのに対抗して、ラズローはフランス国歌『ラ・マルセイエーズ』をクラブのバンドに指示してバンド演奏で歌い始め、店内ほぼ総立ちで『ラ・マルセイエーズ』の大合唱となる。ドイツ軍人たちは自分たちの軍歌を止め着席してしまう。

『ラ・マルセイエーズ』は1782年にフランスでフリーメイソンリーに入会したフランス軍人クロード・ジョゼフ・ルージェ・ド・リール大尉が1792年に作詞作曲をして1795年にフランス国歌となった歌である[130]

ワーナー・ブラザーズ

「カサブランカ」の配給ワーナー・ブラザーズの設立者ワーナー四兄弟のうち三人(長男ハリー、三男サム、四男ジャック)がフリーメイソンであることが判明している[131]。三人のメイソンリー入会の年月日は判明していないが、長男ハリーと四男ジャックは映画当時の1942年に存命し、三男サムは1927年に死去している。オーストリア=ハンガリー帝国出身のハンガリー人マイケル・カーティス監督を米国(ハリウッド)に迎えたのは四男ジャック・ワーナーである[132]。「カサブランカ」製作はワーナー・ブラザーズ社のワーナー・ブラザーズ=ファースト・ナショナル[129]

「Casablanca」の意味

スペイン語「Casablanca」(カサブランカ)とは直接は「白い家」の意味であるが、アメリカ合衆国の「ホワイトハウス」はスペイン語で「Casa Blanca」である。1942年のホワイトハウスの当主フランクリン・ルーズベルト大統領(任期1933年-1945年)はフリーメイソンであり、1911年10月11日ニューヨーク市でフリーメイソンリーに入会した[133]。フランクリン・ルーズベルトはワーナー・ブラザーズの長男ハリー・ワーナーと親しい友人であった[134]

クーデンホーフ=カレルギーがヴェルサイユ条約に反対した、米国の戦略上「汎ヨーロッパ」は容認できなかった、母親(光子)が米国の敵国日本出身である、など理由は諸説あるが、フランクリン・ルーズベルトはクーデンホーフ=カレルギーの亡命時に面談を拒否している[5]

フランクリン・ルーズベルト政権4期目の副大統領でフランクリン・ルーズベルトの次に米大統領を務めたフリーメイソンのハリー・S・トルーマン(1909年2月9日フリーメイソンリー入会[50])はクーデンホーフ=カレルギーのヨーロッパ統合論を支持した[12][69]

フランクリン・ルーズベルトからの冷遇、トルーマンからの厚遇は、1940年に反ナチス映画『独裁者』を米国で発表したチャップリンとは逆であった。

クーデンホーフ=カレルギー・ヨーロッパ賞[編集]

クーデンホーフ=カレルギー・ヨーロッパ賞(独: Coudenhove-Kalergi-Europapreis、英: European Prize Coudenhove-Kalergi)は、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーを記念して1978年ジュネーヴに設立された「クーデンホーフ=カレルギー財団」、2008年にウィーンに移転して改名した「ヨーロッパ社会クーデンホーフ=カレルギー(独: Europa-Gesellschaft Coudenhove-Kalergi、英: European Society Coudenhove-Kalergi、仏: Société Européenne Coudenhove-Kalergi)」により授与される賞である。対象者は欧州統合への顕著な貢献人物[135]

賞は1978年から始まり、受賞者は第6代ドイツ連邦首相ヘルムート・コール1990年受賞)、第40代米大統領ロナルド・レーガン1992年受賞)、第8代ドイツ連邦首相アンゲラ・メルケル(2010年受賞)、初代欧州理事会常任議長ヘルマン・ファン・ロンパウ(2012年受賞)らの人物[136]

リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー由来の事物[編集]

ウィーンのクーデンホーフ公園。
"Benannt nach dem Gründer der Pan-Europa-Union, Dr. Richard Nikolaus Coudenhove-Kalergi (geboren 1894 in Tokio, verstorben 1972 in Schruns)."
"名称の由来は汎ヨーロッパ連合の創設者リヒャルト・ニコラウス・クーデンホーフ=カレルギー博士(1894年に東京で生まれ、1972年にシュルンスで死去した)。"

脚注[編集]

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関連項目[編集]

外部リンク[編集]

00リヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギー00

1894年11月16日 - 1972年7月27日

先代:
-
国際汎ヨーロッパ連合会長
1926年 - 1972年
次代:
オットー・フォン・ハプスブルク