杉原千畝

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杉原千畝
外交官時代の杉原
生誕 1900年1月1日
日本の旗 大日本帝国岐阜県加茂郡八百津町
死没 1986年7月31日(満86歳没)
日本の旗 日本神奈川県鎌倉市
墓地 日本の旗 日本、鎌倉霊園(29区5側)
住居 神奈川県鎌倉市西鎌倉
国籍 日本の旗 日本
出身校 早稲田大学高等師範部英語科予科中退
日露協会学校特修科修了
職業 外交官
宗教 キリスト教 日本ハリストス正教会
配偶者 杉原幸子
子供 杉原弘樹、千暁、晴生、伸生(存命)
受賞

諸国民の中の正義の人
1985年1月18日

ポーランド復興勲章
2008年1月16日

杉原 千畝(すぎはら ちうね、1900年(明治33年)1月1日 - 1986年(昭和61年)7月31日)は、日本官僚外交官

第二次世界大戦中、リトアニアカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。外務省からの訓令に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる[1]。その避難民の多くが、ユダヤ系であった[脚注 1]。海外では、「日本のシンドラー[脚注 2]などと呼ばれることがある。

生涯[編集]

外交官になるまで[編集]

1900年(明治33年)1月1日、岐阜県加茂郡八百津町に生まれる[脚注 3]。「千畝」という名前は、人名としては極めてユニークな名前だが、税務署の職員だった父の赴任地・武儀郡では千枚田や棚田を意味する「千畝」という地名が実際に存在し、杉原の故郷付近の景観から連想した命名であろうというのが一般的見解である[脚注 4]。千畝の家系は、元々は士族の流れをくむ「岩井」姓だったが、絶家となった名門・杉原清家を再興するために、父の代から杉原姓に変わったという。

1912年(明治45年)、古渡尋常小学校(現・名古屋市立平和小学校)[2]を全甲(現在の「オール5」)の成績で卒業後、作家の江戸川乱歩と入れ違いに旧制愛知県立第五中学(現・愛知県立瑞陵高等学校)に入学[3]。同校卒業後、当時朝鮮京城に赴任していた父は、千畝が京城医学専門学校(現・ソウル大学校医科大学)に進学して医師になることを望んでいた。千畝の甥にあたる杉原直樹によれば、千畝の父の名は、初め「三五郎」(みつごろう)であったが、自分の命を救ってくれた杉原纐纈(こうけつ)という医師の名前から「好水」(こうすい)という音韻の類似した名前に改名し、これを「よしみ」と読んだという。父・好水が医師という職業を千畝に強く薦めたのにはこうした背景がある[4]

しかし、医者になるのが嫌だった千畝は、京城医専の試験では「白紙答案を提出」[5]して「弁当だけ食べて帰宅」[6]した。当初、英語を学び「英語の教師になるつもりだった」[7]千畝は、父の意に反して、1918年(大正7年)4月に早稲田大学高等師範部英語科(現・早稲田大学教育学部英語英文学科)の予科に入学。「ペンの先に小さなインク壺を紐で下げて、耳にはさんで」[8]登校していた逸話が残る。千畝自身の説明では、「破れた紋付羽織にノート二三冊を懐にねじ込んで、ペンを帽子に挟んで豪傑然と肩で風を切って歩くのが何より愉快」[9]と多少修正されるが、バンカラな校風で知られた昔の早稲田大学でも珍しい奇天烈な格好で通学していた。独特のペン携帯の流儀から、学友に「変わった人間」(ドイツ語で“Spinner”)と笑われても、「これならどこででも書くことができる。合理的だよ」と平然としていたという。しかし、実際は授業中ほとんどノートをとらず、講義内容をすべて暗記していた[8]

父の意に反した進学だったので、仕送りもなくたちまち千畝は生活苦に陥った。そこで早朝の牛乳配達のアルバイトを始めたが、それで学費と生活費をまかなうことはできなかった[10]。ある日、千畝は図書館で偶然目にした地方紙の掲示(大正8年5月23日付の「官報」第2039号)により、外務省留学生試験の存在を知る。受験資格は旧制中学卒業以上の満18歳から25歳の者であったが、研究社の受験雑誌『受驗と學生』(大正9年4月号)に掲載された千畝自身の受験体験記によると、法学・経済・国際法から外国語二ヵ国語という具合に旧制中学の学修内容とはかけ離れたものであり、実際は千畝のような大学在籍者や旧制高校修了者以外の合格は難しいものであった。千畝は大学の図書館にこもり、連日「ロンドンタイムズ、デイリーメールの両紙を初め、米国発行の数雑誌を片端から全速力で閲覧」[11]するなど猛勉強の末、「日支両国の将来」に関する論述や「英国下院に於ける外務次官ハームウォーズ紙の独軍撤退に関する演説」[脚注 5]の英文和訳等の難問を制して合格[脚注 6]

ハルビン学院と満洲国外交部[編集]

1919年(大正8年)10月に日露協会学校(後のハルビン学院)に入学。11月には早稲田大学を中退し[脚注 7]、外務省の官費留学生として中華民国ハルビンに派遣され、ロシア語を学ぶ。この官費留学生の募集で、英独仏語の講習生募集は行われなかった。ロシア語選択は当初の千畝の選択ではなく、今後のロシア語の重要性を説く試験監督官の勧めで決めたものである[12]。学生の過半数は、外務省や満鉄、あるいは出身県の給費留学生であった。当時の千畝は、三省堂から刊行されていた「コンサイスの露和辞典を二つに割って左右のポケットに一つずつ入れ、寸暇を惜しんで単語を一ページずつ暗記しては破り捨てていく」[13]といった特訓を自分に課していたという。

1920年(大正9年)12月から1922年(大正11年)3月まで陸軍に入営。最終階級は陸軍少尉。1923年(大正12年)3月、日露協会学校特修科修了。特にロシア語は非常に堪能で、満州里領事代理の考査では、ロシア語の総合点は100点満点の90点。「一、二年前の卒業任官の留学生と比較するも遜色なし。むしろ正確優秀」[14]という折り紙付きの評価を受け、生徒から教員として教える方に転じる。1930年(昭和5年)にハルビン学院を卒業する佐藤四郎(哈爾濱学院同窓会会長[15])は、「ドブラエ・ウートラ」(おはよう)と一言挨拶すると、謄写版刷りのソ連の新聞記事を生徒たちに配布して流暢なロシア語で読み上げ解説する、青年教師・千畝を回顧している。母校の教師として、千畝は、ロシア語文法・会話・読解、ソ連の政治・経済及び時事情勢などの講義を担当した[16]。佐藤は、「ロシア語の力は、日本人講師でずば抜けていた」と証言している[17]

1924年(大正13年)に外務省書記生として採用され、日露協会学校、ハルビン大使館二等通訳官などを経て、1932年(昭和7年)に満洲国外交部事務官に転じた。1926年(大正15年)、六百頁余にわたる『ソヴィエト聯邦國民經濟大觀』を書き上げ、

本書は大正十五年十二月、在哈爾濱帝國總領事館、杉原書記正の編纂に係はる。執務上の參考に資すること多大なるを認め、これを剞劂に付す
【現代語訳=この本は、大正15年(1926年)12月、ハルビンの日本総領事館の杉原書記官が書き上げたもので、仕事をする上で大いに役立つと思いますので、これを出版します】

という高い評価を外務省から受け、26歳の若さにして、ロシア問題のエキスパートとして頭角をあらわす[脚注 8]

1932年(昭和7年)、3月に満洲国の建国が宣言され、ハルビンの日本総領事館にいた千畝は、上司の大橋忠一総領事の要請で、満洲国政府の外交部に出向。1933年(昭和8年)、満洲国外交部では政務局ロシア科長兼計画科長としてソ連との北満洲鉄道(東清鉄道)譲渡交渉を担当。鉄道及び付帯施設の周到な調査をソ連側に提示して、ソ連側当初要求額の6億2,500万円を1億4,000万円にまで値下げさせた。ソ連側の提示額は、当時の日本の国家予算の一割強に値するものであり、杉原による有利な譲渡協定の締結は大きな外交的勝利であった[脚注 9]。外務省人事課で作成した文書には、杉原に関して、「外務省書記生たりしか滿州國成立と共に仝國外交部に入り政務司俄國課長として北鐵譲渡交渉に有力なる働をなせり[18] という記述が見られる。

ところが、日本外交きっての「ロシア通」という評価を得てまもなく、1935年(昭和10年)には満洲国外交部を退官。満洲赴任時代、1924年(大正13年)に白系ロシア人のクラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワと結婚していたが、1935年(昭和10年)に離婚。この在満の時期に、千畝は正教会の洗礼を受けた。正教徒としての聖名(洗礼名)は「パヴロフ・セルゲイヴィッチ」、つまりパウェル(パウロ)である[脚注 10]

この受洗は、結婚に際してにわかに思いついたことではなく、早稲田大学の学生時代、千畝は、後の早稲田教会となる早稲田奉仕園の信交協会に一時期属しており、満洲に赴任する前にすでにキリスト教と出会っていた[19]。この奉仕園の前身は「友愛学舎」と呼ばれるもので、バプテスト派の宣教師ハリー・バクスター・ベニンホフが大隈重信の要請を受けて設立したものである[20]。友愛学舎の舎章は、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)である[21]

このハルビン在職期に杉原は、有名なシモン・カスペ英語版殺害事件などユダヤ人や中国人の富豪の誘拐・殺害事件を身近で体験することになった[22]。これらの事件の背後には、関東軍に後援された、白系ロシア人のファシスト組織があった。杉原は、破格の金銭的条件で、関東軍の橋本欣五郎から間諜(スパイ)になるよう強要されたが、これを拒否[脚注 11]。千畝自身の言葉によれば、「驕慢、無責任、出世主義、一匹狼の年若い職業軍人の充満する満洲国への出向三年の宮仕えが、ホトホト厭」になって外交部を辞任した[脚注 12]

かつてリットン調査団へのフランス語の反駁文を起草し[23]、日本の大陸進出に疑問を持っていなかった千畝は、この頃から「日本の軍国主義」を冷ややかな目で見るようになる。杉原手記には、「当時の日本では、既に軍人が各所に進出して横暴を極めていたのであります。私は元々こうした軍人のやり方には批判的であり、職業軍人に利用されることは不本意ではあったが、日本の軍国主義の陰りは、その後のヨーロッパ勤務にもついて回りました」と、千畝にはまれな激しい言葉が見られる[24]。千畝の拒絶に対し、関東軍は、前妻クラウディアが「ソ連側のスパイである」という風説を流布し、これが離婚の決定的理由になった。満洲国は建前上は独立国だったが、実質上の支配者は関東軍だったので、関東軍からの要請を断り同時に満洲国の官吏として勤務することは、事実上不可能だった[25]

満洲時代の蓄えは、離婚の際に前妻クラウディアとその一族に渡したため、ハルビンに渡った時と同じように、千畝はまた無一文になった。そこで、弟が協力して池袋に安い下宿先を見つけてくれた。帰国後の千畝は、知人の妹である菊池幸子と結婚し、日本の外務省に復帰するが、赤貧の杉原夫妻は、結婚式を挙げるどころか、記念写真一枚撮る余裕さえなかった[26]。「杉原手記」のなかで、「この国の内幕が分かってきました。若い職業軍人が狭い了見で事を運び、無理強いしているのを見ていやになった」[27]と、千畝は述べている。ソ連と関東軍の双方から忌避された千畝は、満洲国外交部を辞めた理由を尋ねられた際、関東軍の横暴に対する憤慨から、「日本人は中国人に対してひどい扱いをしている。同じ人間だと思っていない。それが、がまんできなかったんだ」[28]と幸子夫人に答えている。

独ソ戦迫るヨーロッパへ[編集]

カウナスに残る旧日本公使館

1937年(昭和12年)にはフィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任し、次いで1939年(昭和14年)にはリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となる。ちなみに千畝は当初、念願であった在モスクワ大使館に赴任する予定であったが、ソ連側が、反革命的な白系ロシア人との親交を理由に、ペルソナ・ノン・グラータを発動して千畝の赴任を拒絶した。当時の『東京朝日新聞』(1937年3月10日付)は、「前夫人が白系露人だったと言ふに理解される」と報じた。

日本の外務省はソ連への抗議を続けるとともに、千畝に対する事情聴取も行い、それは『杉原通訳官ノ白系露人接触事情』という調書にまとめられ、そのなかで千畝は、「白系露人と政治的に接触したことはなく、むしろ諜報関係で情報収集のためにあえて赤系のソ連人と接触していた、そのため満洲外交部に移籍してからは、共産主義者の嫌疑をかけられ迷惑した」[脚注 13]などと述べている。日本政府は、ライビット駐日ソ連臨時大使を呼び出して、杉原の入国拒否の理由を再三尋ね、ソ連に敵愾心を持っていた白系ロシア人との親密な関係を指摘されたが、それは具体的な証拠のないものだった。北満鉄道譲渡交渉を控えた千畝の事前調査は、それがどのような経路で行われたのかソ連側も把握できないほど周到なものだった[29]

ソ連が最後まで入国自体も認めなかったために、千畝は行先を近隣のヘルシンキへと変更された。バルト三国を初めとしたソ連周辺国に、千畝を含む6名ものロシア問題の専門家が同時に辞令が発令された事実を突き止めた渡辺勝正は、これが、ノモンハン事件における手痛い敗北の結果、対ソ諜報が喫緊の課題になったためであるとしている[30]

1938年(昭和13年)3月4日、杉村陽太郎・駐仏日本大使は、パリの日本大使館から、ヘルシンキに着任している「杉原通譯官ヲ至急當館ニ轉任セシメラレ」たしと直訴する、広田弘毅外務大臣への極秘電信を送った[31]。千畝を自分の手元におきたかった杉村は、電信に「タタ發令ハ官報省報職員録ニハ一切發表セサルコト」と付記したが、広田外相は「遺憾ナカラ詮議困難ナリ」とこれを拒絶し[32]、千畝の引き抜き作戦は失敗に帰した。というのも、千畝には、独ソ間で日本の国家存亡に係わる重大任務が待ち受けていたからである。

その任務の具体的内容は、1967年(昭和42年)に書かれたロシア語の書簡[脚注 14]の冒頭で、以下のように述べられている。

カウナスは、ソ連邦に併合される以前の[脚注 15]リトアニア共和国における臨時の首都でした[脚注 16]。外務省の命令で、1939年の秋、私はそこに最初の日本領事館を開設しました。リガには日本の大使館がありましたが、カウナス公使館は外務省の直接の命令系統にあり、リガの大使館とは関係がありませんでした。ご指摘の通り、リガには大鷹正次郎氏がおり、カウナスは私一人でした。周知のように、第二次世界大戦の数年前、参謀本部に属する若手将校の間に狂信的な運動があり、ファシストのドイツと親密な関係を取り結ぼうとしていました。この運動の指導者の一人が大島浩・駐独大使であり、大使は日本軍の陸軍中将でした。大島中将は、日独伊三国軍事同盟の立役者であり、近い将来におけるドイツによる対ソ攻撃についてヒトラーから警告を受けていました。しかし、ヒトラーの言明に全幅の信頼を寄せることが出来なかったので、大島中将は、ドイツ軍が本当にソ連を攻撃するつもりかどうかの確証をつかみたいと思っていました。日本の参謀本部は、ドイツ軍による西方からのソ連攻撃に対して並々ならぬ関心を持っていました。それは、関東軍、すなわち満洲に駐留する精鋭部隊をソ満国境から可及的速やかに南太平洋諸島に転進させたかったからです。ドイツ軍による攻撃の日時を迅速かつ正確に特定することが、公使たる小官の主要な任務であったのです。それで私は、何故参謀本部が外務省に対してカウナス公使館の開設を執拗に要請したのか合点がいったわけです。日本人が誰もいないカウナスに日本領事として赴任し、会話や噂などをとらえて、リトアニアとドイツとの国境地帯から入ってくるドイツ軍による対ソ攻撃の準備と部隊の集結などに関するあらゆる情報を、外務省ではなく参謀本部に報告することが自分の役割であることを悟ったのです。

1967年に書かれた千畝による露文書簡の冒頭部分

日本人がまったくいないカウナスに千畝が赴任してきたことに驚いて興味を持った地元紙は、早速領事館に取材を申し込み、「日本はどんな国」という見出しで特集を組んだ。杉原一家の写真付きで紹介された特集記事で、「日本では各家庭に風呂があって、毎日入浴するっていうのは本当?」「日本の女性の家庭での地位は?」といった質問に千畝は一つ一つ生真面目に答え、ステポナス・カイリースの『日本論』(全3巻)[33]以来のちょっとした日本ブームを引き起こした[34]

さて、千畝が欧州に派遣された1938年(昭和13年)、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害によって極東に向かう避難民が増えていることに懸念を示す山路章ウィーン総領事は、ユダヤ難民が日本に向かった場合の方針を照会する請訓電報を送り、同年10月7日近衛外務大臣から在外公館への極秘の訓令が回電された。千畝がカウナスに臨時の領事館を開設する直前のことである。その訓令「猶太避難民ノ入國ニ關スル件」は、以下のようなものであった。

「貴殿第三九号ニ関シ、陸海軍及内務各省ト協議ノ結果、獨逸及伊太利ニ於テ排斥ヲ受ケ外國ニ避難スル者ヲ我國ニ許容スルコトハ、大局上面白カラサルノミナラス現在事變下ノ我國ニ於テハ是等避難民ヲ收容スルノ餘地ナキ實情ナルニ付、今後ハ此ノ種避難民(外部ニ對シテハ單ニ『避難民』ノ名義トスルコト、實際ハ猶太人避難民ヲ意味ス)ノ本邦内地竝ニ各殖民地ヘノ入國ハ好マシカラス(但シ、通過ハ此ノ限ニ在ラス)トノコトニ意見ノ一致ヲ見タ」
【現代語訳=貴殿(山路総領事)が発信した第39号(請訓電報)に関し、陸海軍及び内務各省と協議の結果、「ドイツおよびイタリアにおいて排斥を受け、外国に避難する者をわが国に受け入れることは、大局上よろしくないのみならず、現在事変(日中戦争)下にあるわが国では、これらの避難民を収容する余地はないのが実情なので、今後はこの種の避難民(外部に対しては単に『避難民』の名義とすること。実際はユダヤ人避難民を意味する。)のわが国内地(本土)ならびに各植民地への入国は好ましくない。(ただし、通過はこの限りでない。)」とすることで意見が一致した。】

近衛外務大臣から在外公館長への訓令「猶太避難民ノ入國ニ關スル件」(昭和13年10月7日付)[35]

上掲の訓命では、ユダヤ人差別が外部に露見すると海外から非難を受けることは必至なので、「外部ニ對シテハ單ニ『避難民』ノ名義トスルコト」と明記され、わざわざ内訓を外部に公表しないことを念を押し、ユダヤ避難民が日本に来ることを断念するように仕向けるよう指示した機密命令であり、日本政府は、いわゆる「五相会議」決定のユダヤ人保護案を表面上示しながら、裏ではユダヤ人差別を指示する二重外交を展開していたのである[36]

「命のビザ」[編集]

杉原領事代理による手書きのビザ

ポーランドとリトアニアには、ミルやテルズなどユダヤ人社会に知られたユダヤ教の神学校があり、ヨーロッパ中から留学生が集まっていた。そのなかに祖国がドイツに降伏したため無国籍になった、オランダ出身のナタン・グットヴィルトとレオ・ステルンハイムがいた。グットヴィルトは、オランダ領事ヤン・ズヴァルテンディクオランダ語版に出国の協力を求めた。ズヴァルテンディクは、今日でも有名なオランダ企業フィリップス社のリトアニア支社長だったが、1940年(昭和15年)5月、バルト諸国担当のオランダ大使 L・P・デ・デッケルの要請を受けて、ナチス共鳴者のティルマンス博士に代わりカウナス領事に就任していた。祖国を蹂躙したナチスを強く憎んでいたズヴァルテンディクはグットヴィルトらの国外脱出に協力を約束し、6月末グットヴィルトは、ワルシャワ大学出身の弁護士でユダヤ難民たちのリーダー格だった、ゾラフ・バルハフティク英語版に対して、この件について相談した。ズヴァルテンディク領事は、「在カウナス・オランダ領事は、本状によって、南米スリナム、キュラソーを初めとするオランダ領への入国はビザを必要とせずと認む」とフランス語で書き込んでくれた[脚注 17]

ズヴァルテンディクによる手書きのビザは途中でタイプに替わり、難民全員の数を調達できないと考えたバルハフティクらはオランダ領事印と領事のサインの付いたタイプ文書のスタンプを作り、その「偽キュラソー・ビザ」を日本公使館に持ち込んだのである[37]。ドイツ軍が追撃してくる西方に退路を探すのは問題外だった。そして、今度はトルコ政府がビザ発給を拒否するようになった。こうして、トルコ領から直接パレスチナに向かうルートも閉ざされた。もはや逃げ道は、シベリア鉄道を経て極東に向かうルートしか難民たちには残されていなかった。難民たちが、カウナスの日本領事館に殺到したのには、こうした背景があった。

1940年(昭和15年)7月、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。当時リトアニアはソ連軍に占領されており[脚注 18]、ソ連が各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは、まだ業務を続けていた日本領事館に名目上の行き先(オランダ領アンティルなど)への通過ビザを求めて殺到した。「忘れもしない1940年7月18日の早朝の事であった」と回想する千畝は、その手記のなかで、あの運命の日の光景をこう描いている。「6時少し前。表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然人だかりの喧しい話し声で騒がしくなり、意味の分からぬわめき声は人だかりの人数が増えるためか、次第に高く激しくなってゆく。で、私は急ぎカーテンの端の隙間から外をえかがうに、なんと、これはヨレヨレの服装をした老若男女で、いろいろの人相の人々が、ザッと100人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った」[38]

ロシア語で書かれた先の報告書にあるように、カウナスに領事館が設置された目的は、東欧の情報収集と独ソ戦争の時期の特定にあったため[39]、難民の殺到は想定外の出来事であった。杉原は情報収集の必要上亡命ポーランド政府の諜報機関を活用しており、「地下活動にたずさわるポーランド軍将校4名、海外の親類の援助を得て来た数家族、合計約15名」[40]などへのビザ発給は予定していたが、それ以外のビザ発給は外務省や参謀本部の了解を得ていなかった。本省と千畝との間のビザ発給をめぐる齟齬は、間近に日独伊三国軍事同盟の締結を控えて、カウナスからの電信を重要視していない本省と、生命の危機が迫る難民たちの切迫した状況を把握していた出先の千畝による理解との温度差に由来している。

ユダヤ人迫害の惨状を熟知する千畝は、「発給対象としてはパスポート以外であっても形式に拘泥せず、彼らが提示するもののうち、領事が最適当と認めたもの」を代替案とし、さらに「ソ連横断の日数を二〇日、日本滞在三〇日、計五〇日」を算出し、「何が何でも第三国行きのビーザも間に合う」だろう[41]と情状酌量を求める請訓電報を打つが、本省からは、行先国の入国許可手続を完了し、旅費及び本邦滞在費等の携帯金を有する者にのみに査証を発給せよとの発給条件厳守の指示が繰り返し回電されてきた。

杉原夫人が、難民たちの内にいた憔悴する子供の姿に目をとめたとき、「町のかどで、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ[脚注 19]という「旧約の預言者エレミアの『哀歌』が突然心に浮かん」[42]だ。そして、「領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」という千畝の問いかけに、「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけど、そうして上げて下さい」[43]と同意。そこで杉原は、苦悩の末、本省の訓命に反し、「人道上、どうしても拒否できない」[44]という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証を発給した。

日本では神戸などの市当局が困っているのでこれ以上ビザを発給しないように本省が求めてきたが、「外務省から罷免されるのは避けられないと予期していましたが、自分の人道的感情と人間への愛から、1940年8月31日[脚注 20]に列車がカウナスを出発するまでビザを書き続けました」とし、避難民たちの写真を同封したこの報告書[脚注 21]のなかで、杉原はビザ発給の理由を説明している。

杉原の独断によるビザ発給に対する本省の非難は、以下のようなものであった。

最近貴館査證ノ本邦經由米加行『リスアニア』人中携帶金僅少ノ爲又行先國手續未濟ノ爲本邦上陸ヲ許可スルヲ得ス之カ處置ニ困リ居ル事例アルニ附避難民ト看傲サレ得ベキ者ニ對シテハ行先國ノ入國手續ヲ完了シ居リ且旅費及本邦滯在費等ノ相當ノ携帶金ヲ有スルニアラサレハ通過査證ヲ與ヘサル樣御取計アリタシ
【現代語訳=最近カウナスの領事館から日本を経てアメリカに行こうとするリトアニア人のなかには、必要なお金を持っていなかったり行先国が決まっていなかったりなどの理由で、どう対処したらよいのかわからず困ることがあります。避難民と見なしうる者に関しては、行先国の入国手続きを完了し、旅費と滞在費相当の携帯金を持っている者でなければビザを与えないよう取りはからって下さい】

1940年8月16日付の本省から杉原の独断によるビザ発給を非難する電信

1995年(平成7年)7月12日、パメラ・サカモトが松岡外相の秘書官だった加瀬俊一[脚注 22]に千畝のカウナスからの電信について問い合わせてみても、「ユダヤ問題に関する電信を覚えていなかった。『基本的に、当時は他の切迫した問題がたくさんありましたから』」[45]と加瀬は答えており、東京の本省は条件不備の難民やユダヤ人の問題などまるで眼中になかった。それどころか、日独伊三国軍事同盟を締結も間近な時期に、条件不備の大量難民を日本に送り込んで来たことに関して、「貴殿ノ如キ取扱ヲ爲シタル避難民ノ後始末ニ窮シオル實情ナルニ付」(昭和15年9月3日付)と本省は怒りも露わにし、さらに翌年も「『カウナス』本邦領事ノ査證」(2月25日付)云々と、千畝は名指しで厳しく叱責された。

窮状にある避難民たちを救済するために、千畝は外務省を相手に芝居を打った。もし本省からの譴責に真っ向から反論する返電を送れば、本省からの指示を無視したとして、通行査証が無効になるおそれがある。そこで千畝は、本省からビザ発給に関しての条件厳守を指示する返信などまるでなかったかのように、「当國避難中波蘭出身猶太系工業家『レオン、ポラク』五十四歳」(昭和15年8月24日後發)に対するビザ発給の可否を問い合わせる。つまり、米国への入国許可が確実で、十分な携帯金も所持しており、従って本省から受け入られやすい「猶太系工業家」をあえて採り上げるのである[46]

そして千畝は、わざと返信を遅らせてビザ発給条件に関する本省との論争を避け、公使館を閉鎖した後になって電信第67号(8月1日後發)を本省に送り、行先国の許可や必要な携帯金のない多くの避難民に関しては、必要な手続きは納得させた上で当方はビザを発給しているとして強弁して、表面上は遵法を装いながら、「外國人入國令」の拡大解釈を既成事実化した。

一時に多量のビザを手書きして万年筆が折れ、ペンにインクをつけては査証を認める日々が続くと、一日が終わり「ぐったり疲れて、そのままベッドに倒れ込む」状態になり、さらに「痛くなって動かなくなった腕」を夫人がマッサージしなくてはならない事態にまで陥った[47]。手を痛めた千畝を気遣い、杉原がソ連情報を入手していた、亡命ポーランド政府の情報将校「ペシュ」こと、ダシュキェヴィチ大尉は、「ゴム印を作って、一部だけを手で書くようにしたらどうです」と提案。オランダ領事館用よりは、やや簡略化された形のゴム印が作られた[脚注 23]

ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながら一カ月余寝る間も惜しんでビザを書き続けた千畝は、本省からのベルリンへの異動命令が無視できなくなると、領事館内すべての重要書類を焼却し、家族と共に今日まで残る老舗ホテル「メトロポリス」に移った。杉原は領事印を荷物に梱包してしまったため、ホテル内で仮通行書を発行した[48]。そして9月5日、ベルリンへ旅立つ車上の人になっても、杉原は車窓から手渡しされたビザを書き続けた。その間発行されたビザの枚数は、番号が付され記録されているものだけでも2,139枚にのぼった。汽車が走り出し、もうビザを書くことができなくなって、「許して下さい、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」と千畝が頭を下げると、「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」という叫び声があがった。そして「列車と並んで泣きながら走っている人」が、千畝たちの「姿が見えなくなるまで何度も叫び続けて」いた[49]

領事館閉鎖後の避難民[編集]

Stamps of Lithuania, 2004-16.jpg

日本領事館の閉鎖日が近づくとともに、作業の効率化のため千畝は途中から記録するのを止めてしまい、規定の手数料[脚注 24]を徴収することも忘れていた。実際には、記録に残っているビザ以外にもビザや渡航証明書が発給されているが、記録外の実数は把握できない。また、一家族につき、一枚のビザで充分であったため、家族を含めて少なくとも数千名の難民の国外脱出を助けたと考えられている[脚注 25]

1941年(昭和16年)に入り、独ソ戦が目前になると、ドイツとソ連に分割された東欧のユダヤ人の運命はさらに過酷なものになり、ヒトラーとスターリンに挟撃されて右往左往する他はなかった。モスクワの日本大使館にも日本通過ビザを求める難民たちが殺到し、駐ソ大使・建川美次は、その惨状を1941年4月2日付の電信で、以下のように伝えている。

彼ラ住ム家ナク歸ルニ所ナク進退キワマリ囘答ノ不信ヲ泣訴終日號泣シテ立去ラル者アリ
(難民たちには家もなく、帰るところもなく、助けて下さいと訴え、一日中泣いて大使館から立ち去ろうとしません)

独ソ戦の開始以前に運良く通過ビザを入手できた難民たちも、すべてがシベリア鉄道で極東までたどり着けたわけではなかった。当時ソ連は外貨不足に悩んでおり、シベリア鉄道に乗車するためには、ソ連の国営旅行会社「インツーリスト」に外貨払いで乗車券を予約購入しなければならなかったからである。乗車券は当時の価格で約160ドルもし[脚注 26]、通常の銀行業務が滞りがちな戦時に、着の身着のままで逃げてきた難民たちの誰もが支払えるという金額ではなかった[50]

リトアニアでシナゴーグが燃える様子を眺めるドイツ兵と地元住民(1941年撮影)

逃げ遅れたユダヤ人たちの多くは、アインザッツグルッペンと呼ばれる「移動殺戮部隊」の手にかかったり、ナチスやソ連の強制収容所に送られて絶命した。独ソ戦が始まるや、ヴァルター・シュターレッカー親衛隊少将率いるアインザッツグルッペAは、北方軍集団に従って移動。そして、リガ(ラトヴィア)・タリンエストニア)・プスコフレニングラード(ともにソ連)に向かう中継地たるカウナスにまず殺到したため、千畝の赴任先であったカウナスにおけるユダヤ人社会は、特に甚大な被害を受けた[51]。カウナスのユダヤ評議会の指導者の役割を不承不承押しつけられた医師のエルヒャナン・エルケスは、荒れ狂うユダヤ人殺戮についてイギリスにいる子供たちに書いた1943年(昭和18年)10月付の手紙の中なかで、殺戮部隊が「大量殺戮という任務を終えると、頭のてっぺんから靴の先まで、泥とわれわれの仲間の血にまみれて戻って」きて、「テーブルについて、軽い音楽を聴きながら、料理を食べ、飲み物を飲むのです。彼らはまさに殺戮のプロでした」と述べている[52]

カウナスでは、保護を口実に1941年(昭和16年)8月末までに、ヴィリンヤンポレに設置されたゲットーにユダヤ人の移送が完了し、1万5,000人が住んでいた密集家屋に約3万のユダヤ人が押し込められた。独ソ戦開始前のカウナスのユダヤ人人口は約4万であり、開戦後わずか2カ月で1万人ものユダヤ人が殺害されたのである[53]。1939年から1940年という千畝のカウナス赴任は、それより早くても遅くても、難民救済に効果を発揮しなかった。その赴任の時期は、ゾラフ・バルハフティク英語版が「タイムリー」[脚注 27]と呼ぶ時宜にかなったものであり、「カウナスでのあの一カ月は、状況と場所と夫という人間が一点に重なった幸運な焦点でした。私たちはこういうことをするために、神に遣わされたのではないかと思ったものです」[54]と杉原夫人は述べている。

「父は相手がユダヤ人であろうとなかろうと、助けたことでしょう。父に尋ねればきっとそう答えると思います。ユダヤ人であろうとキリスト教徒であろうと変わりはありません」という、四男・伸生(のぶき)による「カウナス事件」に関する発言は、カウナスでの難民救済の実情と正確に符合している[脚注 28]。カウナス事件において問題になっているのは、「難民問題」であって「民族問題」ではない。いわゆる「杉原ビザ」の内、1938年(昭和13年)12月6日の近衛内閣の五相会議決定によるユダヤ人保護政策「猶太人対策要綱」の「資本家、技術者ノ如キ特ニ利用價値アル者」に該当する事例は一件のみ(「『ベルクマン』他約十五名ノ有力ナル『ワルソー』出身猶太系工業家一行」)[55]であり、また、カウナスにおける難民救済は、満洲にユダヤ人居留区を創設しようとする企画「河豚計画」ともまったく関係がない。

松岡外相の「貴官カカウナス領事代理当時、査證ヲ與ヘタル猶太難民ノ數、至急囘電アリタシ尚右氏名、行先、査證、月日郵報アリタシ」という1941年(昭和16年)2月4日の訓命に対して、この種の命令を予期していなかった千畝は戸惑い、「原本リストは途中から番号の入っていない不完全なものであったため、杉原は控えを基にリストを全部作り直さなければならず」[56]、ようやく完成して発送するのに三週間以上もかかっている[脚注 29]。しかも、「『リスアニア人』竝ニ波蘭人ニ與ヘタル通過査證二、一三二内猶太系一、五〇〇ト推定ス」という数字も相当適当なものであり、千畝にとって窮状にある難民たちがユダヤ系であるか否かなど問題ではなかった。松岡は、この時日ソ不可侵条約の調印のためソ連に赴き、さらにドイツとイタリアに向かおうとしていた。松岡が出発したのは3月12日であったので、「郵送ではすでに間に合わない。したがって『杉原リスト』は、東京の本省ではなくベルリンの日本大使館に送られ、ここから随員によって松岡の手元に送り届けたのであろう」と、渡辺勝正は推測している[57]

ポーランド諜報機関との協力[編集]

千畝のハルビン時代の後輩で在ベルリン満洲国大使館一等書記官の笠井唯計(ただかず)が理事官補だった1940年(昭和15年)、フィンランドの尾内陸軍大佐と相談し、情報提供と引き替えに満洲国のパスポートを出した一人に、イェジ・クンツェヴィチなるポーランドの情報将校がいた。クンツェヴィチは、カウナスの杉原と協力するときは「クバ」と名乗る、ポーランド参謀本部第二部のアルフォンス・ヤクビャニェツ大尉であった。1941年(昭和16年)7月、ゴルフに行く笠井はヤクビャニェツを便乗させた。ヤクビャニェツ大尉は、ポーランドの地下抵抗運動の秘密集会に出席することころだった[58]

ピクニックという名目で国境付近を偵察する杉原らの動向に以前から不審を抱き、ドイツ防諜機関は密かに杉原周辺の探索を続けていたが、1941年、ついに日本及び満洲国の大公使館とポーランド情報機関の協力関係をつかんだ[59]。7月6日夜半から7日未明にかけて、ヤクビャニェツ大尉さらに満洲公使館にメイドとして勤務していたザビーナ・ワピンスカがベルリンの中心部ティーアガルテンで逮捕され、拷問の結果、日本の大公使館の外交行囊を用いて中立国スウェーデンからロンドンの亡命ポーランド政府に情報を送るクーリエの経路がドイツ側の察知されることになったのである[脚注 30]

ドイツ防諜機関の責任者であったヴァルター・シェレンベルクの有名な回想録の第12章はまるまる「日本とポーランドの陰謀」[60]と題されている。そして「K某」(ヤクビャニェツの偽名「クンツェヴィッチ」の頭文字)の逮捕[脚注 31]を契機に明らかになった対独諜報網の全欧規模の広がりを目の当たりにしたシェレンベルクは、ソ連を共通の敵としているはずの日本が深く関与していることにいらだちを露わにしている。ドイツ諜報機関はまた、日本人とポーランド諜報部との協力関係の後援者として、在ローマ日本大使館の河原畯一郎[脚注 32]・一等書記官やイエズス会総長のヴウォジミエシュ・レドゥホフスキポーランド語版神父が深く関与していることについてイタリア国防部から警告を受けていた[脚注 33]

後にストックホルム武官府の小野寺信大佐(当時)に引き継がれるポーランド諜報網との接触に関しては、まず亡命政府のガノ大佐からワルシャワの日本大使館武官府にポーランド情報組織の接収の提案があり、日本側は表向きはドイツとの同盟関係を理由に拒絶した。しかし、在欧の日本とポーランドの将校や外交官たちは密かに接触を続け、ビィウィストク(ポーランド)やミンスク、スモレンスク(ソ連)を拠点とするポーランド諜報網から、在欧日本大公使館と武官府はソ連の軍事的動向を高い確度で知ることができた[61]。千畝の接触は、すでにフィンランド時代に始まっており、まずヘルシンキ在住のジャーナリスト、リラ・リシツィンを通して、その従姉妹にあたるゾフィア・コグノヴィツカの息子で、ポーランド「武装闘争同盟」(ZWZ;後のAK 国内軍)のカウナス地下司令部のメンバーであるタデウシュ・コグノヴィツキに近づくことから始まった[62]。千畝の本省への回電に、実際に足を運んでいない「スモレンスク」「ミンスク」に関する情報が含まれているのは、ポーランド諜報網との協力の成果である。

杉原は、1941年(昭和16年)の5月9日後發の電信で、「獨蘇關係ハ六月ニ何等決定スヘシトナス」と、6月22日に勃発する独ソ戦の時期を正確に予測し、また経済通らしく、「極メテ多量ノ『ミンスク』發穀物到着セリ」と、ソ連側が穀物の大量備蓄を始めて長期戦に備えていることを報告している。大著『ソヴィエト聯邦國民經濟大觀』でソ連経済の躍進を伝えた千畝は、ネップと呼ばれる計画経済によって早期に経済目標を達成したソ連がその余力を軍事部門に傾注していることも熟知しており、ヨーロッパを席巻するドイツの破竹の勢いに幻惑されている本国に、「独ソ戦近し」、またソ連は日本が考えているほど早く戦線を放棄しないことを警告する電信を打電した。

1941年(昭和16年)4月18日、大島は千畝らの情報を元に、東京に独ソ開戦情報と意見具申を伝えているが、日米交渉に没頭していた日本政府は、他が見えない近視眼に陥っていた。近衛内閣の書記官であった富田健治は、「独ソ戦近し」を伝える大島からの「この情報をそう強く信じていたわけではないが、かなり心配していた。しかし帰国した松岡が否定的であり、陸海軍も独ソ開戦戦せずという空気であったので、そのまま見送られた」と述べている[63]。戦後衆議院議員になる富田健治の証言は、戦時日本のインテリジェンス機能の麻痺と、「空気」で最高指導政策が決定されてしまう恐るべきガバナンスの欠如を物語っている。出先には優秀な諜報要員を配置しながら、中央に適切な分析官を用意できなかったため、命がけで入手された情報も活かされなかった。また、情報伝達の技術的側面の遅れも深刻で、大島の電信は、一ヵ月も経たない5月10日に英国諜報機関によって解読されてしまった[64]

ゲシュタポの危機迫る[編集]

大公使館の「現地採用者はスパイと思え」というのは外交の世界では常識だが、ドイツ系リトアニア人のヴォルフガング・グッチェがまさにそれであった。しかし、ドイツの愛国者ではあったが反ユダヤ主義者ではなかったグッチェは、杉原の仕事を手伝い、神学生のモシェ・ズプニックとの別れ際に、つぎのような予言的な言葉を残した。「世界は『車輪』だ。今はヒトラーが上だが、いつか車輪が回って下になるさ。希望を失うなよ」[脚注 34]。もう一人の現地採用雇員は、ボリスラフ・ルジツキという名前のポーランド人で、表の顔は領事館の忠実なボーイ兼給仕だったが、このボーイは、実はルドヴィク・フリンツェヴィチが指揮するポーランド地下抵抗組織「ヴィエジュバ」(ポーランド語で「柳」の意)が公使館の情報を仕入れるために送り込んだ諜報員だった[65]。こうして、カウナスの日本公使館の懐深く複数のポーランド情報組織が入り込み、ゲシュタポスパイまで抱え込む、複雑怪奇な情報戦の渦中に千畝がいた。杉原夫人も、「領事館には数人のスパイが出入りして」[66]いることに気づいており、わずかの気抜かりも命取りであった。

カウナス領事館が閉鎖されてから、千畝が、プラハ、さらにケーニヒスベルクへ赴任するようになったのは、名目上の上司だった大鷹正次郎・ラトビア大使から松岡外相への進言によるものである。大鷹の進言の概要は、カウナス領事館の千畝のみを、そのままケーニヒスベルクに移転させて、対ソ諜報活動に従事させることは、ドイツ側の納得を得られないだけでなく、ソ連側からも、ドイツに抗議がないとはいえない。したがって同地に正式の総領事、または領事を任命し、千畝をその下に置いて、対ソ関係事務を担当させた方がよいと思われる[67]というものである。

1941年(昭和16年)年8月7日、ドイツ国家保安本部のラインハルト・ハイドリヒは、外相リッベントロップに対して、「ドイツ帝国における日本人スパイについて」の報告書(1941年8月7日付)を提出し、そこにはドイツの「軍事情報に並々ならぬ関心を示していた」として、「日本領事杉原」の名前が筆頭に挙げられ、「ポーランド及び英国に親しい人物」[68]として名指しで非難されていた。北満鉄道買収交渉のハルビン時代からソ連にマークされていた杉原は、またドイツ諜報機関の最大の標的の一つでもあった。亡命ポーランド政府の情報将校たちが、カウナスの日本公使館の手引きにより在欧日本大公使館やバチカンの後援を受け、さらにスウェーデンを経由してロンドンのポーランド亡命政府へ情報を送る、全欧規模の諜報網をドイツ国家保安局が知るところになり、それが故に千畝はケーニヒスベルクからの即刻退去を求められたのである[69]

千畝を忌避したのは東プロイセンの大管区長官、エーリヒ・コッホである。後に美術品略奪者、ウクライナのユダヤ人虐殺者として悪名を馳せるコッホは、大量のユダヤ人逃亡を助けた千畝に当初から強い反感を持っており、ケーニヒスベルク着任から一ヵ月後にやっと千畝を引見した。ほどなくベルリン大使館から千畝の東プロイセン在勤をコッホが忌避した旨を伝えられ、千畝は最後の任地であるルーマニアのブカレストに向かうことになる[70]。同盟国さえ出し抜き、名目上は敵国である亡命ポーランド政府の情報将校とさえ協力する、非情な情報戦の世界に千畝は生きていた。いわゆる「杉原ビザ」発給の最初の契機は、千畝が活用していたポーランドの情報将校を安全地域に逃すためのものであるが、それは、軍人などの家族等関係者を含めても多くて「当初600名分の通過ビザ」[71]の予定であり、ここまでは、日本の外務省も参謀本部も周知のことであった[脚注 35]。しかし、想定外の出来事が発生した。そしてそれが、ナチスに追われたポーランドからの大量の難民のリトアニアへの流入とカウナスの日本領事館への殺到である。

リビコフスキの回想録『対ドイツ情報 組織と活動』によれぱ、情報提供を受けたポーランド情報将校の安全を確保するためビザ発給は、山脇正隆・陸軍次官からストックホルム武官府の小野寺信大佐(当時)に命令されたものと、リガ武官府の小野打寛(おのうち・ひろし)中佐から杉原への指示があった二通りのものがあったが[72]、千畝は単に「ポーランド情報機関への見返りというだけのことなら、ビザ発給を止めることもできた」[73]のである。

ドイツ側は、カウナス領事館の「向かい側の地階に監視用の部屋を整」え、千畝らがバルト海沿岸都市クライペダ(ドイツ時代の呼称は「メーメル」)[脚注 36]への遠乗りした時もゲシュタポの尾行が付いていた。急ブレーキをかけて追い越させようとした尾行車が、驚いて急カーブを切り森中で擱座するなど、千畝らはスパイ映画もどきの作戦でドイツ側を翻弄している[74]。また、ソ連の秘密警察もカウナス領事館を監視し、暗号電報の解読に腐心して一部それに成功している[75]

ポーランド参謀本部との協力関係は、もちろん千畝の発案ではなく、出発点は、ロシア革命以降ソ連とコミンテルンを共通の敵とする両国の利害関係の一致にあった。最初の本格的協力はシベリア出兵の時期であり、日本が入手した暗号表をポーランド側に提供し、この返礼として、ポーランドの暗号専門家ワレフスキ大尉が、1919年(大正8)年、日本の暗号システムの全面的改定を行った。当時、赤軍の配置と移動を次々と見破るポーランド参謀本部の諜報能力は驚異の的であり、諜報部門では、ポーランドは日本の先生格であった。それまでの日本の暗号システムは、「ルイ14世時代にロシニョールが作ったものと大差のない二重語置換式という比較的よく知られた方式をとって」おり、1920年代に、タイプライターキーボードで操作できる暗号用ホイールをセットした暗号機をつくり、調整改良して「パープル・マシン」と呼ばれるものを導入した。しかし、欧米先進諸国の暗号作成と解読技術に追いつけぬまま先の敗戦を迎え、第二次世界大戦中せっかく苦労して入手した情報が東京に伝達される過程で連合国の防諜網にとらえられる事例が数多くあった[76]

日本に来たユダヤ難民[編集]

リトアニアから国外脱出を果たしたユダヤ人たちはシベリア鉄道に乗り、ウラジオストクに到着した。次々に極東に押し寄せる条件不備の難民に困惑した本省は、以下のように、ウラジオストクの総領事館に厳命した。

本邦在外官憲カ歐洲避難民ニ與ヘタル通過査證ハ全部貴館又ハ在蘇大使館ニ於テ再檢討ノ上行先國ノ入國手續ノ完全ナル事ノ確認ヲ提出セシメ右完全ナル者ニ檢印ヲ施ス事
【現代語訳=日本の官憲がヨーロッパから避難してくる人々に与えた通過許可証は、あなたのところやソ連の大使館でもう一度調べて、行先国に入る手続きが終わっていることを証明する書類を提出させてから、船に乗るの許可を与えること】

しかし、ハルビン学院で千畝の二期後輩であったウラジオストク総領事代理・根井三郎は、難民たちの窮状に同情し、1941年(昭和16年)3月30日の本省宛電信において以下のように回電し、官僚の形式主義を逆手にとって、一度杉原領事が発行したビザを無効にする理由がないと抗議した。

避難民ハ一旦當地ニ到着セル上ハ、事實上再ヒ引返スヲ得サル實情アル爲(・・・)帝國領事ノ査證ヲ有スル者ニテ遙々當地ニ辿リ着キ、單に第三國ノ査證カ中南米行トナル居ルトノ理由ニテ、一率檢印ヲ拒否スルハ帝國在外公館査證ノ威信ヨリ見ルモ面白カラス
【現代語訳=逃げてきた人たちがここにまでやって来たからには、もう引き返すことができないというやむを得ない事情があります。日本の領事が出した通行許可書を持ってやっとの思いでたどりついたというのに、行先国が中南米になっているというだけの理由で一律に船に乗る許可を与えないのは、日本の外交機関が発給した公文書の威信をそこなうことになるのでまずいと思います】

1941年3月30日付の根井三郎による本省への抗議の電信

本省とのやり取りは五回にも及び[77]、難民たちから「ミスター・ネイ」の名で記憶されている根井三郎は、本来漁業関係者にしか出せない日本行きの乗船許可証を発給して難民の救済にあたった。

一度はシベリアの凍土に潰えるかに見えた難民たちの命は、二人のハルビン学院卒業生の勇気ある行為によって救われた。後藤新平が制定した同校のモットー「自治三訣」[78]は、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして、報いを求めぬよう[脚注 37]というものであった。

こうした根井三郎の人道的配慮により乗船できるようになった難民たちは、敦賀港や舞鶴港へ続々上陸。その内のユダヤ系難民たちは、ユダヤ系ロシア人のコミュニティ、関西ユダヤ教団(シナゴーグ)及び、当時、日本で唯一存在していたユダヤ人組織である「神戸猶太協會」(アシュケナージ系)があった神戸などに辿り着く。http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2014042190070036.html

難民の内1,000人ほどがアメリカ合衆国やパレスチナに向かい、残りは後に上海に送還されるまで日本に留まった。松岡洋右外務大臣は、外相という公的な立場上は、カウナスの千畝に対してビザ発給条件を守るよう再三訓命した張本人であり、また同時にドイツとの同盟の立役者でもあるが、個人的にはユダヤ人に対して民族的偏見を持っていなかった。難民たちの対応に奔走していたユダヤ学者の小辻節三(後のアブラハム小辻)が、満鉄時代の縁を頼りに難民たちの窮状を訴えると、松岡は小辻にある便法を教えた。すなわち、避難民が入国するまでは外務省の管轄であるが、一度入国後は内務省警保局外事部に管轄が変わり、滞在延期については各地方長官の権限に委ねられている、と教えたのである。そこで、小辻は管轄の地方官吏たちを懐柔し、敦賀港に1940年10月9日に上陸時に利用されたゴム印には「通過許可・昭和15年10月9日より向こう14日間有効・福井縣」となっていたが、「杉原ビザ」を持ってバルハフティクらが来港した時には、それが「入國特許・自昭和15年10月18日・至昭和15年11月17日・福井縣」に変わっていた[79]

日本にやって来たユダヤ難民たち、とりわけ黒ずくめでもみあげを伸ばした神学生などのは、当時の日本人に強烈な印象を残し、安井仲治による写真集「流氓ユダヤ」シリーズにその様子が収録された[80]。安井の撮影には、若き日の手塚治虫が随行し、その時の体験が、漫画『アドルフに告ぐ』(1986) に結実した。グラフィックデザイナーの妹尾河童の自伝『少年H』(1997) も当時の難民たちに言及しており、また野坂昭如による直木賞受賞作品『火垂るの墓』(1967) においても、「みな若いのに鬚を生やし、午後四時になると風呂屋へ行列つくって行く、夏やというのに厚いオーバー着て」[81]いたという記述が見られる。

日本滞在後難民たちが向かった上海租界には、戦前よりスファラディ中心の大きなユダヤ人のコミュニティがあり、ユダヤ人たちはそこで日本が降伏する1945年(昭和20年)まで過ごすことになった。

独ソ戦と第三帝国の落日[編集]

難民たちが脱出したリトアニアはその後、独ソ戦が勃発した1941年(昭和16年)にドイツの攻撃を受け、ソ連軍は撤退。以後、1944年(昭和19年)の夏に再びソ連によって奪回されるまで、ドイツの占領下となる。この間のリトアニアのユダヤ人20万8,000人の内、殺害された犠牲者数は19万5,000人から19万6,000人にのぼり、画家のベン・シャーンや哲学者のエマニュエル・レヴィナスを生んだ、カウナスのユダヤ人社会も壊滅した[82]。またソ連領内でも多数のユダヤ難民がシベリアなど過酷な入植地に送られ絶命した。

1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争の勃発で、日本からアメリカ合衆国への渡航が不可能になり、滞在期限が切れたユダヤ人たちは当時ビザが必要なかった上海租界に移動せざるを得なかった。上海では、ドイツの強硬な申し入れのもとにドイツを真似てユダヤ人ゲットー上海ゲットー)が作られ、上海のユダヤ人たちはそこに収容されることになった。上海が戦禍に覆われていたこともあり、終戦間際にはアメリカ軍機による空襲で数十名が死傷した[83]

リトアニア退去後の千畝は、ドイツの首都ベルリンを訪れた後、1940年(昭和15年)、当時ドイツの保護領になっていたチェコスロヴァキアのプラハの日本総領事館に勤務。1941年(昭和16年)には、東プロイセンの在ケーニヒスベルク総領事館に赴任し、ポーランド諜報機関の協力を得て独ソ開戦の情報をつかみ、5月9日発の電報で本国に詳細に報告しているが、それは以下のようなものであった。

伯林當地關ニハ依然トシテ連日軍用列車約十列車北行ス車輛ハ大部分佛國鐵道ノモノ(…)當地軍人關ニハ目下東『プロシア』ニハ『リヤブリン』方面ニ劣ラサル大兵カ集中シ獨蘇關係ハ六月ニ何等決定スヘシトナス(…)多數ノ隊付將校ハ五月迄ニ地圖判讀ノ程度ノ露語習得方命セラレ目下當地『バルト』獨逸人竝ニ白系ロシア人ハ敎師トシテ引張リ凧ナリ
【現代語訳=ベルリンからケーニヒスベルク方面に相変わらず毎日およそ十輛程度の軍用列車が北上しており、車輛はフランスから徴発したものが用いられています。(…)東プロイセンには旧ポーランド領に劣らぬ大兵力が結集しているので、独ソ関係は6月には決定的局面を迎えるでしょう。(…)ドイツ軍の野戦将校たちは5月までに地図が読める程度のロシア語の習得が命じられ、目下バルト系ドイツ人や白系ロシア人が先生として引っぱりだこです】

1941年5月6日付で独ソ戦の勃発時期を特定した電信

そして、千畝の報告の通り、6月22日独ソ戦が勃発した。同年11月から1946年(昭和21年)までルーマニアのブカレスト公使館などヨーロッパ各地を転々とし、各職を歴任。

千畝がブカレスト公使館に勤務していた時代には、鉄衛団の扇動によってルーマニアのユダヤ人の歴史の上でもとりわけ残忍なポグロムが頻発していた[84]。千畝とともに激動のヨーロッパを駆け抜けてきた杉原夫人は、 ルーマニアの「フェルディナンド王が亡くなった時に、ミハイの父であるカロルは、〝二十世紀のクレオパトラ〟と呼ばれたユダヤ人のルペスク夫人との恋愛を問題にされ、後継者の座を追われてフランスに住んでいましたので、まだ六歳だった幼いミハイが一国の王様として即位されたのです」[85]などと指摘し、第二次世界大戦中ヨーロッパを席巻していた反ユダヤ主義に関する鋭い歴史的観察者としての側面を示している。どの政治家も民族主義の扇動でのし上がってきた当時のルーマニアでは、民族主義そのものは人を際立たせる特徴とならず、反ユダヤ主義が政争の重要なファクターになっていたことを端的に示すエピソードである[86]

首都のブカレストは子供連れの杉原家には危険だろうということで、ルーマニア時代の杉原一家はポヤナブラショフに疎開していたのだが、そこで他ならぬ幸子夫人をめぐる一つの事件が起こる。 ヘルシンキにいた頃フィンランドの作曲家シベリウスから送られたレコードとサイン入りポートレートをブカレストに置き忘れて来たことに気づき、その奪回のために単身首都に戻ろうとする。しかし、ドイツ軍用車に便乗した帰路に大戦末期の戦闘に巻き込まれ、車外に投げ出された。さらにドイツ軍のなかに女性がいることに不審に思ったパルチザンに取り囲まれ、ドイツ語やロシア語で事情を説明するも、彼らにはどちらの言葉も分からず、日本人を一度も見たことがない部隊員から銃口を突きつけられる。夫人は「撃つなら撃ちなさい!私は日本人です」と絶叫し、あまりの剣幕に驚いた男たちが銃を引っ込め、ドイツ語が分かる青年がやって来て事情聴取の後釈放される。「何か足元がおかしいと思ってみると、いつのまにかハイヒールの踵が折れてい」た[87]

第二次世界大戦の終結後、ブカレストの日本公使館でソ連軍に身柄を拘束された杉原一家は、1946年(昭和21年)11月16日、来訪したソ連軍将校に帰国するため直ちに出発するように告げられ、オデッサ、モスクワ、ナホトカ、ウラジオストックと厳寒の旅を続け、翌1947年(昭和22年)4月、興安丸(鉄道省、7080トン)で博多湾に到着した[88]

不遇の後半生から顕彰へ[編集]

リトアニアでの記念植樹

日本へ帰国後、一家は神奈川県藤沢市鵠沼[脚注 38]松が岡に居を据えた。その地は、北満鉄道譲渡交渉の際の最高責任者で千畝の外交手腕を高く評価してくれた、広田弘毅が戦中に住んだ思い出の場所だった。千畝は、長男に弘樹と命名するほど広田を尊敬していた[89]。1947年6月13日、岡崎勝男・外務次官から退職通告書が送付され、6月7日に外務省を依願退職[脚注 39]

外務省退官からしばらくは、三男を白血病で失い、義理の妹・菊池節子(ロシア文学者・小沼文彦の夫人)も亡くなるなど家族の不幸に見舞われる。その後は連合国軍の東京PXの日本総支配人、米国貿易商会、三輝貿易、ニコライ学院教授、科学技術庁NHK国際局などの職を転々とする。1960年(昭和35年)に川上貿易のモスクワ事務所長、1964年(昭和39年)に蝶理へ勤務、1965年(昭和40年)からは国際交易モスクワ支店代表など再び海外生活を送った。

1968年(昭和43年)夏、「杉原ビザ」受給者の一人で、新生イスラエルの参事官となっていたニシュリ (B. Gehashra Nishri) と28年ぶりに大使館で再会。カウナス駅頭で「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」と叫んだかつての青年[脚注 40]は、杉原夫人の「手をとり固く握って涙を流して喜ん」[90]だ。外国人にも発音しやすいように、千畝は難民たちに「センポ・スギハラ」[脚注 41]と名前を教えており、その名前を外務省に照会しても「該当者なし」とのことであった。しかし、難民たちの消息を気にかけていた千畝が、以前イスラエル大使館に足を運び自分の住所を教えていたため、ニシュリは千畝を探し出すことができた[脚注 42]

1969年(昭和44年)、イスラエルの宗教大臣となっていたゾラフ・バルハフティク英語版エルサレムで29年ぶりに再会。この時初めて、今日誰でも閲覧できる本省との電信のやりとりが明かされ、失職覚悟での千畝の独断によるビザ発給を知ったバルハフティクが驚愕する。

後のインタビューで、バルハフティクはこう語っている[91]

実際には、日本政府の許可なしであったことを私たちが知ったのは、1969年に杉原氏とイスラエルで再会した時である。杉原氏が訓命に背いてまで、ビザを出し続けてくれたなんてことは、再会するまで考えられなかったので、とても驚いたことを覚えている。杉原氏の免官は疑問である。日本政府がすばらしい方に対して何もしていないことに疑問を感じる。賞を出していないのはおかしい。表彰していないのは残念である。杉原氏を支持している方は多くいるが、私は20年前から、日本政府は正式な形で杉原氏の名誉を回復すべきだといっている。しかし日本政府は何もしていない。大変残念なことである。

1998年5月25日のエルサレム郊外でのインタビュー

1975年(昭和50年)に国際交易モスクワ支店代表を退職して日本に帰国した。1977年(昭和52年)、神奈川県鎌倉市西鎌倉に転居した。

「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」[92]という悪意に満ちた中傷から、ニシュリによる千畝の名前の照会時の杓子定規の対応まで、旧外務省関係者の千畝に対する敵意と冷淡さは、河野洋平外務大臣による名誉回復がなされるまで一貫していた。こうした外務省の姿勢に真っ先に抗議したのは、ドイツ人のジャーナリスト、ゲルハルト・ダンプマンだった。ダンプマンは、旧西ドイツのテレビ協会の東アジア支局長を務め、1974年から1981年まで東京に在住していた。千畝への献辞の付いた『孤立する大国ニッポン』のなかで、「戦後日本の外務省が、なぜ、杉原のような外交官を表彰せずに、追放してしまったのか、なぜ彼の物語は学校の教科書の中で手本にならないのか(このような例は決して他にないというのに)、なぜ劇作家は彼の運命をドラマにしないのか、なぜ新聞もテレビも、彼の人生をとりあげないのか、理解しがたい」[93]と、ダンプマンは抗議したのである。それは、千畝がまだヤド・ヴァシェム賞を受賞 (1985) しておらず、幸子夫人による回想録の初版 (1990) も出版されていない、1981年(昭和56年)のことであった。

1985年(昭和60年)1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞。千畝の名前が世に知られるにつれて、賞賛とともに、政府の訓命に反したことに関して、「国賊だ、許さない」など中傷の手紙も送られるようになった[94]

同年11月、エルサレムの丘で記念植樹祭と顕彰碑の除幕式が執り行われるも、心臓病と高齢は千畝の海外渡航を許さず、千畝に代わって四男・伸生(のぶき)が出席した。1986年(昭和61年)7月31日、86歳でその生涯を閉じた。

終わらざるドラマ[編集]

千畝の死を知るや、駐日イスラエル大使のヤーコブ・コーヘンが駆けつけ、葬儀には、かつてのハルビン学院の教え子やモスクワ駐在員時代の同僚など、生前の千畝を知る三百人余が参列[95]。通夜には、一人の男性が新聞で知ったということで訪ねて来た。その男性は肉体労働をしているらしい様子で、紙には千円札がきちんとたたまれており、幸子夫人に紙に包んだ香典を渡すと、名前を聞いても言わずに帰って行った[96]。千畝は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園(29区5側)に葬られた。杉原の発給したビザに救われ、カウナスを通ってアメリカに渡ったゼルは、千畝が外務省を辞めるに至った経緯を知って憤慨し、病躯をおして長文の手紙を幸子夫人に送り、「日本に行って外務省に抗議する」旨を伝えた[96]

日本政府による公式の名誉回復が行われたのは、21世紀も間近の2000年10月10日になってのことだった[脚注 43]

これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであると常々私は感じております。故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。

2000年10月10日の河野洋平外務大臣による演説

2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災が発生し、地震と津波による甚大の被害が世界中に報道されるや、内外のユダヤ人社会から、第二次世界大戦時にユダヤ難民の救済に奔走した杉原の事績を想起すべきとのアピールがなされた[脚注 44]

3月21日、イスラエルの有力紙『エルサレム・ポスト』は第二次世界大戦中、「在リトアニア日本公使、チウネ・スギハラが、訓令に反してビザを発給し、6,000人のユダヤ人を救った」ことに注意を喚起し、「在日ユダヤ人共同体が協力し、すべてを失い窮状にある人々の救済を始め、在京のユダヤ人たちは募金のための口座を開いた」[97]と報じた。

東日本大震災によって被災した人々に対する義援金を募るにあたり、米国のユダヤ人組織であるオーソドックス・ユニオンは、会長のシムカ・カッツ博士と副会長のスティーヴン・ヴェイユ師の連名で、以下のような公式声明を発した[98]

窮状にある人々に手を差し伸べることは、主のいつくしみの業に倣うことである。1940年、杉原領事夫妻は身職を賭して通過ビザを発給し、6,000人のユダヤ人の命を助けて下さった。いまこそわれわれがその恩義に報いるときである。

東日本大震災への義援金を募る際の米国のユダヤ人組織オーソドックス・ユニオンによる公式声明

6月23日、ロサンゼルスのスカイヤボール文化センターで俳優の渡辺謙が、メッセージ「日本のための団結」を読み上げた後、千畝を描いた米国映画 "Sugihara:Conspiracy of Kindness" が上演され、収益が全額「日本地震救済基金」に寄付される[99]

10月24日、早稲田大学出身の超党派の国会議員を中心に「杉原千畝顕彰会」が発足し、平山泰朗・衆議院議員の提唱により、杉原千畝を顕彰する顕彰碑(書・渡部大語)が母校内(早稲田キャンパス14号館脇)に建立され[100]、その碑文には、「外交官としてではなく、人間として当然の正しい決断をした」が選ばれた。

12月24日、「第二次世界大戦中、リトアニア領事として同国からアメリカへ脱出する多くのユダヤ人の命を救った杉原千畝への恩を忘れないとの思いから」[101]、アメリカのリトアニア人居住地区から、東日本大震災で秦野市内に避難している子供たちに対し、クリスマスプレゼントとして、ノートとクレヨンが寄付された。

2012年(平成24年)2月20日、来日したリトアニアのクビリウス首相が野田佳彦首相に対して、「日本は地理的には遠いが親近感を抱いている。故杉原氏がユダヤ人を助けたことはリトアニアの日本理解に大きな影響を与えている」[102]と述べた。

3月22日、フロリダ州ボカラントン市で、千畝の功績を記念する式典が挙行され、ニューヨーク総領事館から川村泰久首席領事をはじめ約100人が出席した。4月26日、カナダ航空宇宙博物館において在カナダ日本大使館及びリトアニア大使館、ブナイ・ブリス・カナダとの共催で映画『命のビザ』を上演。

10月16日、千畝の母校である愛知県立瑞陵高校(旧制愛知五中)に、在日イスラエル大使館から感謝のためのオリーブの木が贈られ植樹式が行われた[103]

2013年、5月10日、カナダ在住のジャーナリスト・高橋文が、日本経由でカナダに渡ったユダヤ人7家族15人の証言を集めた記録映像『スギハラ・チウネのメッセージ』を八百津町の赤塚新吾町長に贈った[104]

9月10日、千畝のひ孫の杉原織葉(おりは)が、ミュージカル「SEMPO」に出演(難民の少女ニーナ役)[105]

語録[編集]

  • 「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」[脚注 45]
  • 「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」[94]
  • "Vaya con Dios!"[脚注 46] -- 千畝の激励としてソリー・ガノールが記憶している言葉。
  • 「世界は、大きな車輪のようなものですからね。対立したり、あらそったりせずに、みんなで手をつなぎあって、まわっていかなければなりません・・・。では、お元気で、幸運をいのります」[106] -- ビザ発給の際にある難民にかけた千畝の励ましの言葉。
  • 「旅行書類の不備とか公安上の支障云々を口実に、ビーザを拒否してもかまわないとでもいうのか? それがはたして国益に叶うことだというのか?」[107]
  • 「新聞やテレビで騒がれるようなことではない」[94]
  • 「大したことをしたわけではない。当然の事をしただけです」[脚注 47]
  • 「難民たちには、男性だけでなく、女性や老人、子供までいた。みな明らかに疲労困憊している様子だった」[108]
  • 「あの人たちを憐れに思うからやっているのだ。彼らは国を出たいという、だから私はビザを出す。ただそれだけのことだ」-- モシェ・ズプニックが聞いた言葉[109]

杉原千畝 語録

人物[編集]

  • 外国語に堪能であり、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語など数カ国語に通暁していた。特にロシア語には精通しており、隣室で会話のやり取りを聞いていた笠井唯計(ただかず)は、二人のロシア人の会話と取り違えたほどだった[110]
  • チェコスロヴァキアを占領したドイツのヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相が在チェコの各国外交官を呼びつけて即刻退去せよと述べた時、「ドイツに退去してくれと言われる覚えはない。その理由を説明して下さい」[111]とドイツ語で反駁し、リッベントロップを絶句させた。
  • 「父は相手がユダヤ人であろうとなかろうと、助けたことでしょう。父に尋ねればきっとそう答えると思います。ユダヤ人であろうとキリスト教徒であろうと変わりはありません」[112] … マレク・アルテールが四男・伸生(のぶき)から聞いた言葉。
  • 「杉原氏は広い心の持ち主であった。彼は廉直高潔の士であった。私は強い感動をおぼえた」[113] … 「杉原ビザ」の受領者の代表だったゾラフ・バルハフティク英語版の言葉。
  • 「神と共に行け、センポ・スギハラ。あなたは、天国においても、必ずや輝ける地位を占められることでしょう」[114] … 千畝の没後、ソリー・ガノール[115]が述べた追悼の言葉。
  • 「政府の命令に背き、良心に従った杉原さんがいなかったら、私たちの誰も存在しなかった。私たちが歩み続けた暗い道の中で、杉原さんの星だけが輝いていた」[脚注 48] … 「杉原ビザ」受領者、アンナ・ミローの言葉。
  • 「あなたは、自分の家族や将来を犠牲に出来ますか? 政府で働いていて汚職を発見したら、それを告発できますか? 杉原氏はそんな誰もができないことを世間の常識にとらわれずやり遂げたのです」[116] … 「杉原ビザ」受領者、マーシャ・レオンの言葉。
  • 「一言で言えば『古武士』のような方で、すべて黙っていて、分かる人だけが分かってくれればいいという、言い訳をしない方でした」[117] … モスクワ駐在員時代に部下だった川村秀の言葉。
  • 「杉原さんはユダヤ人とのつながりを周囲に喋ったりしない人だった。私も、新聞の記事で実情を知ったぐらいですから」[118] … 川村秀の言葉
  • 「あまり饒舌な方ではなかったのですが、言葉を選ぶように、私に分かりやすく話そうとしてくれているのがわかりました。私にとってそんな〝千畝さん〟の態度は不思議な感じでした。当時は女性の話を真剣に聞いて、きちんと答えてくれるような男性はほとんどいなかったからです」[119] … 杉原夫人の言葉。
  • 「非人間的な行為に対抗する勇気には、国籍や人種や宗教の壁などないということを示した」… トーマス・バーゲンソール (国際司法裁判所判事)の言葉[脚注 49]
  • 「私のような迫害を受けているものの苦しみを理解し、ただ深い同情を寄せる以外は何の理由もなく、私たちを死の淵から救ってくれたスギハラの行為は、生命を賭して厳しい困難に立ち向かう高貴な道義心を備えた偉大な人物にしかできないことです。もし彼がいなかったら、私はいまここにいません。スギハラのような男は、百年に一度しか現れませんよ」[120] … 「杉原ビザ」受領者、ヘンリー・クロンゴールド[脚注 50]の言葉。
  • 「杉原さんがビザを出したというのに、私たちが駄目という理由はありませんよ」[121] … ハルビン学院の後輩・根井三郎(ウラジオストク総領事代理)の言葉。
  • 「自分についてはまったく話さなかった。誰にでも温かく接する人柄だし、決して、上から見下ろしたり、差別したりしなかった」[122] … 川村秀の言葉。

日本政府の対応[編集]

「SEMPO SUGIHARAという外交官は存在しない」[編集]

戦後ソ連の収容所から帰国を果たした後、千畝は1947年(昭和22年)に外務省を辞職。幸子夫人によると岡崎勝男・外務事務次官から口頭で「例の件」の責任を免官の理由として告げられたという[123]

政府の公式見解では、1946年(昭和21年)から外務省のみならず行政組織全体に対して行われていた「行政整理臨時職員令(昭和21年勅令第40号)」に基づく機構縮小によるリストラの一環(当時の外務省職員の三分の一が退職)における千畝自身による依願退職とされている。またビザ発給後も1945年(昭和20年)のソ連による収容所送還まで、チェコスロヴァキアの在プラハ総領事館総領事代理やドイツの在ケーニヒスベルク総領事館総領事代理、ルーマニアの在ブカレスト日本公使館一等通訳官などを歴任し、7年間に渡り外務省で勤務し続ける中で昇給、昇進をして、1944年(昭和19年)には勲五等瑞宝章を受章していること、退職金や年金も支給されていることから、杉原にとって不名誉な記録は存在しないというのが現在まで政府の公式見解となっている。

しかし、元イスラエル大使の都倉栄二は、「当時、ソ連課の若い課長代理として活躍していた曽野明」が、「今後の日本はアメリカとソ連の両大国との関係が非常に大切になってくる。特にソ連は一筋縄ではいかぬ相手であるだけに、わが国の将来を考えるならば、一人でも多くのソ連関係の人材を確保しておくべきである」[124]と述べたことを証言しており、他ならぬこの都倉は、千畝から3ヶ月も遅れてシベリア抑留から復員したにもかかわらず、外務省勤務が即刻認められ、「ソ連関係の調査局第三課にこないか」[125]と曽野から誘われている。さらに、杉原が乗船した同じ復員船で帰国した部下の新村徳也は、帰国と同時に外務省外局の終戦連絡中央事務局に勤務することができた。

戦後、千畝の消息を尋ねるユダヤ人協会からの問い合わせに対して、外務省は旧外務省関係者名簿に杉原姓は三名しかいなかったにもかかわらず、「日本外務省にはSEMPO SUGIHARAという外交官は過去においても現在においても存在しない」と回答していた[90]

また家族以外で「カウナス事件」に立ち会った唯一の証人である新関欽哉(後の駐ソ大使)は千畝の死の翌1987年(昭和62年)、「NHKのテレビコラムで、『私の見たベルリンの最後』という話」をし、「まだ駆け出しの外交官であり、責任ある地位にはついていなかったが、いろいろ劇的な場面に居合わせたので」[126]、それをまとめた回想録『第二次世界大戦下 ベルリン最後の日』(1988) を刊行した。しかし、同書ではリトアニア領事館の杉原千畝に言及しているにもかかわらず、日本公使館にユダヤ難民が殺到するという前代未聞の外交事件に一行も触れていない。

新関は、第二次大戦末期に陥落したベルリン在住百数十名の日本人とともに満洲経由で帰国する。満洲では荷物引取交渉のために2週間満州里に滞在し、この時新関に協力したのが佐藤鉄松・ハルビン副領事である。佐藤は、在欧時代はケーニヒスベルクに在勤し、杉原を補佐した人物として、千畝のロシア語書簡(ワルシャワ軍事博物館蔵)でも言及されている。新関に関しては、「千畝手記」の抹消部分に「公邸の来賓用寝室には、たまたま外交官試験出の語学研修生N君が、泊まり客として居合わせ」たとされており、戦後も千畝と同じく藤沢市に居住。また、杉原がモスクワ駐在員時代には駐ソ大使であった[127]。帰国後すぐに「外務省政務局第三課に配属され」た新関は、「この課はソ連関係を担当してお」り、「そのころの最も重要な仕事は対ソ和平問題であった」[128]としている。渡欧時に語学研修生で、敗戦時にはベルリン大使館の三等書記官に過ぎなかった新関は、帰国するとすぐに外務省のソ連課に迎えられた。

また千畝退職時に外務省筋から「杉原はユダヤ人に金をもらってやったんだから、金には困らないだろう」などという根拠のない噂が流された時も[脚注 51]、新関はそれを打ち消すことをしなかった。歴史学者の杉原誠四郎は、「この人物は押し寄せるユダヤ難民を掻き分けるようにして領事館に入り、そして領事館に一泊した」のだから、「この噂が根も葉もないことであることを、新関欽哉はまっさきに証言しなければならない道義的立場にある」[129]と批判している。

外務省の曽野明[脚注 52]が「あらゆる抵抗を排除し、ソ連関係職員の確保に懸命に努力し」[130]たとするまさにその時期に依願退職を求められた杉原千畝は、26歳の時に『ソヴィエト聯邦國民経済大観』を外務省から刊行してロシア問題のエキスパートとして頭角をあらわし、北満鉄道買収交渉を成功させるなど、省内でその名を知らぬ者はいなかった。「外務省きってのロシア通」と考えられていただけに、千畝の排除を「戦後の人員整理」に帰す政府見解に関して疑いを持つ研究者は少なくなかった[131]

歳川隆雄は、日本の外務省内には血縁関係者が多く、入省時の語学研修にもとづく派閥が省内人事や外交政策にも影響があるとして、外務省人事の問題点を指摘している[脚注 53]。高橋保[脚注 54]の渡欧日記に、「杉原千畝氏の家に招かれ、食事を共にする。そこに鴻巣書記生、亀井トルコ商務官、田中書記生など来る。非常に面白いが、色々外務省の欠点、人事など例の如く話す」[132]とあり、杉原手記に「万事勉強不足で有名な外務省」[133]と述べられているように、千畝自身も実際の能力や業績よりも血縁関係や学閥が優先される外務省の人事システムに疑問を持っていた。そして、かつての外務省の同僚から「杉原はユダヤ人に金をもらってやったんだから、金には困らないだろう」と中傷されたとき、旧外務省関係者と絶縁した。

杉原は、大公使への道を開く文官高等試験の受験をするために、「子供の教育の関係上」という口実で繰り返し帰国願いを申請したが、外相より「一等通譯官杉原千畝賜暇帰朝許可ス」とされたのは、ミッドウェー海戦の半年後の1942年(昭和17)12月2日[134]になってからであり、枢軸国側の敗色濃い欧州からの帰国が実現しないまま、敗戦を迎えた。

千畝自身は、カウナス事件に関して、以下のように述べている。「本件について、私が今日まで余り語らないのは、カウナスでのビーザ発給が、博愛人道精神から決行したことではあっても、暴徒に近い大群衆の請いを容れると同時にそれは、本省訓令の無視であり、従って終戦後の引揚げ(昭和二二年四月の事)、帰国と同時に、このかどにより四七才で依願免官となった思い出に、つながるからであります」[135]

公式の名誉回復へ向けて[編集]

東京大学理学部を卒業の後三井物産に勤務していた古崎博[脚注 55]は、1940年(昭和15年)、重要な軍事物資だった水銀調達の相談のために、大連特務機関長・安江仙弘大佐を訪問した際、「リトアニアにいた日本領事が、外務省の反対を押し切って、満洲に逃げてくる千人近いユダヤ人に査証を発行して、これをすくったことがある。この領事は外務省から叱られて本国召還をくらったようですがね」[136]と、安江が述べたことを記録している。1940年(昭和15年)のこの面談の日付は明示されていないが、難民たちがカウナスの領事館に殺到した7月から、安江がまだ予備役に編入される前の9月、の間であることは間違いない。「本国召還」などは史実と相違しているが、「カウナス事件」という名前で外務省内で問題視されていた千畝にまつわる事件が、在欧武官府から東京の陸軍中央まで伝えられていた事実を証言している。

千畝の依願退職に関しては、戦後日本の省庁機能を再建する際に、外務省関係者の間で「カウナス事件」における不服従が問題になり、終戦連絡中央事務局連絡官兼管理局二部一課から、千畝の解雇が進言された事実が、堺屋太一加藤寛渡部昇一らの対談によって、具体的に証拠立てられた[137]

渡部昇一がその著作で「杉原は本省の命令を聞かなかったから、クビで当たり前なんだ。クビにしたのは私です」と証言したとする曽野明に対して、加藤寛がその内容を照会したところ、「日本国を代表もしていない一役人が、こんな重大な決断をするなど、もっての外であり、絶対、組織として許せない」と曽野が述べたという[138]

この曽野明と、曽野に引き抜かれた都倉英二、そして先の新関欽哉こそ、杉原なき外務省で戦後の対ソ外交を主導した三人であった。

政治学者の小室直樹は、「これは人道的立場からのやむを得ざる訓命違反であって、失策ではない。杉原千畝元領事は、戦後直ちに外務省に呼び戻すべきであった。日本外務省は、日本の外交的立場をぐっと高めるに足る絶好のチャンスを、みすみすと失ったのである」[139]と、杉原の免職を批判している[140]

1991年(平成3年)10月には、鈴木宗男・外務政務次官(当時)が幸子夫人を招き、杉原副領事の人道的かつ勇気ある判断を高く評価し、杉原副領事の行動を日本人として誇りに思っているとし、併せて、半世紀にわたり外務省と杉原副領事の家族との間で意思の疎通を欠いていた無礼を謝罪した。しかし、当時まだ外務省に在職していた佐藤優は、『国家の罠』(2005) において、その名誉回復すら「当時の外務省幹部の反対を押し切」[141]ってなされたものであったとし、千畝の不服従に対する外務省関係者の執拗な敵意の存在を証言している。

「外務省が詫びる必要はない、と会談そのものに反対したという」などと『朝日新聞』(1994年10月13日付)で取り沙汰され、杉原の名誉回復に反対したと一部マスコミで報じられた当時の外務事務次官小和田恆(元国連大使)は、「そういう報道は心外です。私としては、反対したという記憶はありませんし、私自身の考え方からしても反対するはずがない」[142]とし、自身が杉原領事の立場にいたらどうするかという『アエラ』(2000年11月13日号)の取材に対して、「組織の人間として訓令に従うか従わないかは、最終的にその人が良心に照らして決めなければならない問題」[143]と答え、千畝の行為に一定の理解を示した。

1992年(平成4年)3月11日の第123回国会衆議院予算委員会第二分科会において、草川昭三議員の質問に対して、兵藤長雄・外務省欧亜局長は、「確かに訓命違反、その時の服務命令の次元で考えればそうであったけれども、しかしもっと大きな次元で考えれば、(・・・)数千人の人命を救うかどうかという、より大きな問題がそこにかかわっていたということで、結果的に見れば我々もこの話は美談だったというふうに今見るわけでございます」と、確かに「訓命違反」ではあるが、「数千人の人命を救うかどうかという、より大きな問題」[144]があったとして、切迫した状況における杉原領事の判断を支持した。

2000年(平成12年)、河野洋平・外務大臣の顕彰演説によって、日本政府による公式の名誉回復がなされた[145]。それは、千畝の没後14年目のことであった。

年表[編集]

  • 1900年(明治33年) - 1月1日、岐阜県加茂郡八百津町で生まれる。
  • 1912年(明治45年) - 古渡尋常小学校(現・名古屋市立平和小学校)を全甲(現在の「オール5」)の成績で卒業。
  • 1917年(大正6年) - 愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高校)卒業、京城へ転居。
  • 1918年(大正7年) - 京城府より上京、早稲田大学高等師範部英語科(現・早稲田大学教育学部英語英文学科)予科入学。
  • 1919年(大正8年) - 早稲田大学中退。外務省留学生採用試験受験に合格。外務省ロシア語留学生としてハルビンに渡る。
  • 1920年(大正9年) - 朝鮮京城府龍山歩兵79連隊9中隊に一年志願兵(陸軍少尉)として入営。
  • 1924年(大正13年) - 外務省書記生に採用。2月、満州里在勤命令。12月、ハルビン在勤命令。
  • 1926年(大正15年) - 『ソヴィエト聯邦國民経済大観』を外務省より刊行。日露協会学校講師に任命される。
  • 1932年(昭和7年) - 満洲国外交部特派員公署事務官(薦任六等)となる。
  • 1933年(昭和8年) - 満洲国側書記官に任命される。
  • 1934年(昭和9年) - 満洲国外交部理事官、政務局ロシア科長兼計画科長に任命される。
  • 1935年(昭和10年) - 北満鉄道譲受交渉の満洲側の実務担当官として、対ソ連外交を有利な解決に導く。満洲国外交部依願退官後、外務省大臣官房人事課勤務、情報部第一課勤務を命じられる。菊池文雄(香川県志度商業高等学校校長)の長女・幸子と結婚。
  • 1936年(昭和11年) - 日露漁業交渉の通訳官としてペトロパブロスクに着任、半年後モスクワ日本大使館二等通訳官に任命される。
  • 1937年(昭和12年) - ソ連より杉原の入国拒否通告。フィンランドの在ヘルシンキ公使館へ転勤。
  • 1939年(昭和14年) - 1月、リトアニアの在カウナス領事館・領事代理に任命される。
  • 1940年(昭和15年)- 7月、領事館に救いを求めてやって来たユダヤ避難民等に同情し、本省の訓命に反して通過ビザを発給。外務省より領事館退去命令。8月29日領事館閉鎖。9月5日、カウナス駅より国際列車で退去、ベルリン経由にてチェコスロヴァキアの在プラハ総領事館に着任。
  • 1941年(昭和16年) - 2月28日、ドイツ領の在ケーニヒスベルク総領事館勤務を命じられる。11月、ルーマニアの在ブカレスト公使館勤務任命、一等通訳官に任命される。
  • 1943年(昭和18年) - 三等書記官に任命。
  • 1944年(昭和19年) - 勲五等瑞宝章を受章
  • 1945年(昭和20年) - ブカレスト郊外のゲンチャ捕虜収容所に連行される。
  • 1946年(昭和21年) - ブカレストを発ち帰国の途につく。
  • 1947年(昭和22年) - 4月、博多経由で帰国。6月7日、外務省を依願退職。
  • 1969年(昭和44年) - イスラエル政府からヤド・バッシム勲章を授与される。
  • 1981年(昭和56年) - ゲルハルト・ダンプマン『孤立する大国日本』にて杉原への献辞が掲載。
  • 1985年(昭和60年) - イスラエル政府より日本人として初めてヤド・ヴァシェム賞を受賞し、「諸国民の中の正義の人」に列せられる。受賞メダルには、タルムードから引用された「ひとりの命を救うことは全世界を救うのと同じである」という句[脚注 56]が刻まれていた。現在でも、エルサレム郊外のベート・シェメッシュの丘には千畝の顕彰碑が建っている。
  • 1986年(昭和61年) - 7月31日、鎌倉市にて逝去(86歳)。
  • 1990年(平成2年) - 6月30日、『六千人の命のビザ』の初版刊行。
  • 1991年(平成3年) - 9月、リトアニア政府のヴィータウタス・ランズベルギス議長は、杉原の功績を讚えるため、ヴィリニュス(首都)の通りの一つを「スギハラ通り」と命名する。
  • 1992年(平成4年) - 杉原幸子夫人の著書にもとづく『命のビザ』が、フジテレビ系列で放映。加藤剛秋吉久美子の演技で、日本中で「杉原千畝」の名前が知られる。
  • 1995年(平成7年) - 3月8日、岡崎市の度会隆広により、千畝にちなんだワインが、バチカンのローマ法皇、ヨハネ・パウロ2世に届けられる。
  • 1996年(平成8年) - 8月26日、駐日ポーランド大使、ヘンリック・リプシッツより、幸子夫人にポーランド復興勲章のなかの「コマンドルスキ十字勲章」(三等)が授与される。
  • 1997年(平成9年) - 映画『ビザと美徳』(千畝役は日系米人のクリス・タシマ)が米国で上演され、翌年、第70回アカデミー賞短編実写部門賞受賞。
  • 1998年(平成10年) - イスラエルを初めに、日本[146](2000年)、ガンビアグレナダグレナディーン諸島(2002年)、リトアニア(2004年)等、各国郵政省で千畝の記念切手が発行される[147]
  • 2000年(平成12年) - 杉原の生誕百周年に当たり、杉原の業績をたたえる顕彰プレートが外務省外交史料館に設置される。顕彰プレートには、「勇気ある人道的行為を行った外交官杉原千畝氏を讃えて」等の文言が記載されている。10月10日の除幕式には、イスラエル及びリトアニア各臨時代理大使、杉原幸子夫人らが参列するなか、当時の河野洋平・外務大臣が顕彰演説を行い、日本政府による公式の名誉回復がなされた。「平和の鐘」が千畝の母校の名古屋市立平和小学校に設置される。11月19日、カナダ在住の天文学者・楊光宇が新しく発見した惑星を「杉原」(25893 Sugihara) と命名。岐阜県八百津市に杉原千畝記念館が設立され、以来来館者は年間約2万人を数える[148]
  • 2001年(平成13年) - 母校の早稲田大学の構内に記念碑が建立される。米国で杉原千畝記念 "Do the Right Thing"(正しいことをしよう)エッセイ・コンテスト始まる。7月31日、東京タワーの蝋人形館にて杉原千畝像が設置される。
  • 2002年(平成14年)リトアニアの作曲家、ヨーナス・タムリオーニスに委嘱された "Natus in curas"(苦難の中の獅子)[脚注 57]が、早稲田グリークラブの第50回定期演奏会で扱われる[149]
  • 2005年(平成17年)10月11日 - 反町隆史飯島直子を主演とし渡辺孝好監督によって製作された『日本のシンドラー杉原千畝物語 六千人の命のビザ』が、「終戦60周年記念ドラマ」として読売テレビ系列で放送される。米国テレビ局 Sugihara: Conspiracy of Kindness[150] を放映。
  • 2006年(平成18年) - 福井テレビ、『扉開きしのち 敦賀に降り立ったユダヤ人の軌跡』を放映。
  • 2007年(平成19年) - 5月26日、今上天皇・皇后夫妻がリトアニアの杉原千畝の記念碑を訪問[151]。同日ビリニュス発共同通信は、リトアニア大統領ヴァルダス・アダムクスが歓迎昼食会の際に、杉原領事代理が「両国の間に特別な懸け橋をつくり」、「人道的な功績で国民の尊敬を集めている」と賛辞を贈った。10月10日に、ポーランド大統領レフ・カチンスキより叙勲が決定。
  • 2008年(平成20年) - 1月16日、東京都目黒区にあるポーランド大使館でポーランド大使から、千畝の孫・千弘(長男・弘樹の息子)にポーランド復興勲章のなかの「星付きコマンドルスキ十字勲章」(二等)が手渡される。これは五段階中上から二番目の勲章であるが、一番上の勲章が授与されることはほとんどなく、実質最高位とされている。10月8日幸子夫人逝去(94歳)。
  • 2009年(平成21年) - 7月、オリコンの「世界に誇れる日本人」のランキングにおいて、外交官として唯一人ベストテンに入る[152]。10月13日、在シカゴ日本総領事館において、「杉原千畝を偲ぶ夕べ」を開催。
  • 2010年(平成22年) - 5月5日から7月25日まで、米アトランタのキング牧師記念館で、「命のビザ ユダヤ人たちを救った外交官」と題する展示が行われる。5月28日、リトアニアの首都ビリニュスで、ビルギニア・ブデネ大統領上級補佐官や日本初の女性大使である明石美代子日本大使ら約20人が出席するなか、広島の爆心地で原爆の熱線を浴びた路面電車の敷石に平和を祈る女性像を刻んだ「祈りの石」が、杉原千畝ゆかりの公園で贈呈される。10月18日、「あいちトリエンナーレ2010」において、舞踏家スティーヴン・コーヘンが『The Wandering Jew – 杉原千畝の崇高なる記憶に捧ぐ』と題するパフォーマンス(在日フランス大使館後援)を行う。
  • 2011年(平成23年) - 1月27日、日独交流150周年記念行事として、「諸国民の中の正義の人と見られた日本のシンドラー杉原千畝副領事」と題する講演がパッサウで催される。3月、米国のユダヤ人組織であるオーソドックス・ユニオンが、東日本大震災によって被災した人々に対する義援金を募るにあたり、「窮状にある人々に手を差し伸べることは、主のいつくしみの業に倣うこと」であり、「今こそ、身職を賭して通過ビザを発給し、リトアニアから6,000人ものユダヤ人を救ってくれた杉原夫妻の恩義に報いる時である」[153]との声明。10月24日、千畝の母校の早稲田大学において、顕彰碑が建立される。
  • 2012年(平成24年) - 2月27日、来日したリトアニアのクビリウス首相が野田佳彦首相に「故杉原氏がユダヤ人を助けたことはリトアニアの日本理解に大きな影響を与えている」と述べる。3月22日、フロリダ州ボカラントン市で千畝の功績を記念する式典が挙行され、ニューヨーク総領事館から川村泰久首席領事をはじめ約100人が出席。5月5日、年4回の季刊誌として、杉原千畝研究会から『せんぽ -- The World of Chiune Sugihara』が創刊される。
  • 2013年(平成25年)- 2月21日、白石和子駐リトアニア大使が、岐阜大学で「日本とリトアニアの関係について」と題する講演を行う[154]。3月9日、「命のビザ」の実態調査をした敦賀の日本海地誌調査研究会(会長:井上脩)が「野の花文化賞」を受ける[155]。9月10日、千畝のひ孫の杉原織葉(おりは)が、ミュージカル「SEMPO」に出演[156]

関連人物[編集]

ハルビン学院時代[編集]

根井三郎
1902年(明治35年)、宮崎県廣瀬村に生まれる。ハルビン学院の後輩で、元・ウラジオストク総領事代理。シベリア鉄道を使って遙々やって来た難民の窮状に同情し、書類不備を理由に日本入国に難色を示す外務本省に抗議した気骨の外交官。ロシアのみならず、中東情勢にも詳しく、「列国の注目を集める新興国イラン」(『世界知識』13:03, 1940年)などの論文で知られる学究的側面もあった。戦後は法務省に移り、名古屋入国管理事務所所長を最後に引退。1992年(平成4年)に、90歳で没した。『自由への逃走』に登場。
伊神孝雄
ハルビン学院の後輩で、元・セントラルパーク社長。「人道の丘公園」の発案者として、『六千人の命のビザ』に登場。『日本に来たユダヤ難民』の邦訳 (1992) の巻末に、「世界平和と杉原精神」と題する後書きを寄せる。
笠井唯計
ハルビン学院の後輩で、ドイツ語とロシア語に堪能な元・在ベルリン満洲国大使館一等書記官。貴重な在欧体験を語る講演会(岐阜歴史と医学を語る会「激動の昭和史と外交官』1994年1月30日)なども行う。『自由への逃走』『サキエル氏のパスポート』に登場。

満洲国外交部時代[編集]

広田弘毅
杉原が尊敬していた外交官・政治家。元外務大臣。元貴族院議員。第32代内閣総理大臣。千畝の長男で『六千人の命のビザ』の英訳者である「弘樹」の名前は、広田「弘毅」にちなんだもの。ウクライナ出身のユダヤ系音楽家のレオ・シロタを庇護。レオの娘である ベアテ・シロタ・ゴードンのアメリカ留学のために米国大使館と交渉。ベアテは、戦後 GHQ民政局の一員として来日して、日本国憲法の人権項目の策定に携わり、女性の権利拡大に尽力。
大橋忠一
満洲国外交部時代の直属の上司。元衆議院議員。元カンボジア大使。著書に『太平洋戦争由来記』など。
下村信貞
旧制第五高等学校(熊本)に入学し、東大法科卒後、満鉄入社。大連工業専門学校教授等を経て、大橋忠一が千畝と同時にハルビンから帯同。満洲国外交部総務司計画科に薦任五等官として着任。ノモンハン事件の収拾に尽力。終戦時、外交部次長の要職にあったため、ソ連軍に連行され、ハバロフスク収容所に収監され同地で没する[157]

カウナス領事館時代[編集]

ソリー・ガノール[脚注 58]
カウナスの少年時代に千畝と交流があり、子供好きであった千畝から日本の切手をもらったエピソードで知られる。ダッハウ強制収容所に収監されていたところを、日系二世部隊に救出される奇遇にあうことは、『日本人に救われたユダヤ人の手記』(1995) に詳しい。
ゾラフ・バルハフティク英語版
カウナスで杉原からのビザ受領交渉にあたったユダヤ難民のリーダー。1948年5月14日のイスラエル独立宣言の署名者の一人。ワルシャワ大学出身で法学博士、神学博士。後にイスラエルの宗教大臣になり、千畝の「諸国民の中の正義の人」賞受賞のために尽力。『日本に来たユダヤ難民』(1984)[158] と題する有名な回想録がある。
レオ・メラメド英語版
シカゴ・マーカンタイル取引所の名誉会長。「先物取引」の父。「杉原ビザ」受領者の一人。自伝に日本滞在記がある。東日本大震災後に犯罪が急増しなかった日本に関し米国で称賛の声が上がっていることに対して、「米国人にはかなりの驚きだっただろう。でも私には驚きはみじんもない。日本人は世界で最も礼儀正しい人々だから」[159] という見解を示した。
シルビア・スモーラ[160]
「杉原ビザ」受領者。アルバート・アインシュタイン医科大学教授(医学博士)。『レイチェルとアレックス』(Rachel and Aleks, 2007) と題する、両親のポーランドからの逃避行を描いた歴史小説があり、この小説の第1部が、安藤富雄[脚注 59]により、「自由への旅路」という邦題で訳出されている[161]
ジョン・ストシンガー英語版
「杉原ビザ」受領者。国際政治学者。サンディエゴ大学名誉教授(ハーバード大学 Ph.D.)。バンクロフト賞受賞者。2001年11月8日、福山市のホロコースト記念館館長の大塚信[162] による招聘で記念講演[163] を行った。
サミュイル・マンスキー[164]
「杉原ビザ」受領者。チェスナッヒルのテンプル・エメスに杉原のメモリアル・ガーデンを作り、顕彰碑の碑名[165]には、「獅子のような心を持つ力ある者」(「サムエル記」II、17章10節)が選ばれた。
モシェ・ズプニック[166]
ポーランドにあったミラー神学校の元生徒代表。杉原とビザの受給交渉をし、他の神学生全員とともに救われた。ニューヨークでラビ(ユダヤ教の聖職者)を務め、2010年没。
ミハウ・リビコフスキポーランド語版
ポーランド軍少佐。陸軍大学を卒業後、参謀本部第二部ドイツ研究課に配属。小野打寛(ラトヴィア駐在武官)、小野寺信(スウェーデン駐在武官)及び杉原らと協力し、日本側に独ソ間の情報を提供。その見返りに、日本や満洲国のクーリエを用いて、ロンドンのポーランド亡命政府にドイツやソ連の情報を送る。
アルフォンス・ヤクビャニェツ[167]
別名「クバ」。ポーランドの諜報将校。カウナスとベルリンで、千畝の情報収集に協力。1941年ドイツに逮捕され、ザクセンハウゼン強制収容所で処刑。
レシェク・ダシュキェヴィチ[168]
別名「ペシュ」。ポーランド亡命政府の陸軍中尉。カウナス、ベルリン、ケーニヒスベルクで杉原の情報収集に協力。
ヤン・ズヴァルテンディクオランダ語版
スリナム、キュラソーなど中南米のオランダ領の渡航には入国ビザを必要としないことを千畝に伝え、杉原の難民救済を助けた在カウナス・オランダ名誉領事[脚注 60]

モスクワ駐在員時代[編集]

川村秀
日露文化センター代表。早稲田大学文学部ロシア文学科卒業。ロシア科学アカデミー東洋学研究所を設立したロシア史家。杉原がモスクワ駐在時代に結婚式の仲人を務めた部下で[169]、現在は杉原に関する著述や講演(「日露関係における広瀬武夫と杉原千畝」2010)も行っている。歌手でエッセイストの川村カオリと俳優の川村忠の父で、家族も含め正教徒。また実兄に、芥川賞作家の川村晃。『杉原千畝の悲劇』に登場。38歳で亡くなった歌手の長女・川村カオリの葬儀が行われたのは、戦後千畝が通った神田のニコライ堂であり、杉原は付属するニコライ学院でかつてロシア語を教えていた。
田村俊介
モスクワで貿易会社在勤時代の同僚。大阪外国語大学ロシア語学科卒業。登山家。むさしの・多摩・ハバロフスク協会[170]専務理事。『中央アジアの探検』『タイガを通って―極東シホテ・アリニ山脈横断記』(東洋文庫)などの訳者としても知られる。『杉原千畝の悲劇』に登場。
萱場道之輔
フジテレビのモスクワ支局長だった1977年、モスクワにいた千畝にインタビューした経験を持つ。この時のインタビューにおける千畝の肉声は、岐阜県加茂郡八百津町にある人道の丘公園の杉原千畝記念館で聞くことができる。

親族[編集]

杉原幸子
妻で歌人。『六千人の命のビザ』の著者。正教徒(洗礼名はマリア)。香川県志度商業高等学校の校長であった菊池文雄の長女。祖父は岩手県遠野神社の宮司。ドイツ語とロシア語に通暁。神奈川県歌人委員、『朝日新聞』歌壇選者。作品に『歌集 白夜』(大正出版)など。
杉原弘樹
長男。正教徒(洗礼名はヤコブ)。神奈川県立湘南高等学校を卒業後米国カリフォルニアに留学。翻訳家。『六千人の命のビザ』を英訳[171]。「ドイツにおける日本年」(2001)に、ベルリンの日本大使館において講演した際、「僕はまだ子供だったが、ビザを書いたあの時の父の姿を僕は覚えている。今、あの時を振り返り、父の姿を思い出すに、あれは父の心の中に眠る日本人としての《侍魂》があのビザを書かせたのだと僕は思う」と語る[172]
杉原千弘
弘樹の長男で、NPO「杉原千畝 命のビザ」理事長[173]。タイ国バンコク市在住。日本語、英語、タイ語に堪能。ポーランド復興勲章「星付きコマンドルスキ十字勲章」受賞。2013年2月4日、タイの国連ビルにおいて、千畝とホロコーストに関する講演を行う[174]
杉原晴香
日本からのもっとも早い時期の ヘブライ大学への給費留学生としてイスラエルに学んだ四男・伸生の四女。8歳の時に欧州歌謡界の登竜門の一つである「ユーロソング」のジュニア部(2009)に出場。[175]ベルギーアントウェルペン在住。英語、フラマン語(オランダ語)を駆使し、歌手・女優として、ミュージカル『アニー』(フラマン語版)、オランダ映画『ブルーホース』などに出演[176]
杉原織葉
曾孫で女優。『SE・M・PO -- 日本のシンドラー 杉原千畝物語』などに出演を前にして、鎌倉霊園に眠る千畝の墓前へ報告し、「曽祖父の作品に関わらせていただくので一生懸命頑張ります」と語った[177]
竹地祐治
CBCテレビの元アナウンサーで現在は経営企画局経営企画部課長代理。竹地の祖母が杉原千畝の妹。

脚注[編集]

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  1. ^ 千畝の発給したビザによって生き延びた難民たちの子孫は、今日25万人にも及ぶという。cf. 千畝のレリーフ 八百津町に贈呈 早大OB(『読売新聞』2012年3月13日付)
  2. ^ シンドラーのユダヤ人救出の動機は、「自らが助かるため」であり、また工場労働者としてユダヤ人を使役して利益を得ていたこともあり、外務省を失職した千畝の後半生が不遇であったことを多くの日本人が知っているだけに、「日本のシンドラー」という海外での便宜的呼称は、日本国内では概して不評である。cf.『杉原千畝の悲劇』p.31. ちなみに、ホロコーストからユダヤ人を救った者に「諸国民の中の正義の人」賞を授与するヤド・ヴァシェム委員会は、その授与の条件として、自己の生命に危険があったことと、実利的対価を受けなかったことに関して綿密な調査が行われる。戦後外務省を追われた千畝の一家は貧窮を極め、「電球売りの訪問販売」までして糊口をしのいだ。cf.『真相・杉原ビザ』p.35.
  3. ^ 番地は八百津町786。(杉原幸子 1993, p. 214)
  4. ^ cf.『真相・杉原ビザ』p.131. 岐阜県八百津の棚田は、日本の「棚田百選」にも選ばれる佳境として知られている。千畝と「棚田」に関しては、cf. 中島峰広「早稲田が生んだ二人の偉人 杉原千畝と中村十作」(ロシア・CIS・東欧地域研究会)。なお、八百津は千畝の出生地だが、父親の転勤のため、一家は八百津に住んだことはない。
  5. ^ 「外務次官」の演説を報じた当時の新聞王ハームウォーズによる「紙」面の意。
  6. ^ 「それから“Under secretary of State”を具合良よく訳せない人もあったらしい。副外務卿、副外務次官、下外務大臣とやった人もあった様に聞いたが、恐らく日本の下五位式の応用であろう。こんなものは、日々の新聞を少し注意して読めば、其の国々に適した邦語が施せる道理である」と、千畝は余裕のコメントを寄せており、若き日の千畝の猛勉強と矜恃を知るユーモラスな資料となっている。この長文の受験体験記は「雪のハルビンより」と題され、研究社の許諾を得て、『真相・杉原ビザ』(pp.388-414) に転載されている。
  7. ^ 早稲田大学本科の『大正八年四月入学・伊呂波名簿』には、杉原千畝に関して、「八年十一月除名・英語・杉原千畝・岐阜」という記録があり、千畝の早稲田大学在籍期間は、1年半にも満たない。しかし1994年(平成6年)8月2日、千畝の事績を知って感激した早大第13代総長・小山宙丸(哲学)が、杉原夫人を訪れ顕彰状を渡し、千畝は早稲田大学「校友」として遇されることになった。小山はこの顕彰の後早大を退職、キリスト教(カトリック)に改宗した。cf. 杉原千畝顕彰状
  8. ^ 日露協会幹事の倉知鉄吉(対露輸出組合理事長)が、1929年に幣原外相に宛てた事業報告書には、別途「高等試験免除申請」が添付され、清水三三(東京外語卒)、水谷健行(協会学校卒)、杉原千畝(協会学校卒、ハルビン総領事館書記生)計3名の名前が職員リストに掲載されていた。cf.『戦間期の日ソ関係』p.243.
  9. ^ 旧満洲国外交部同人会の野中清次が所有する書簡において、笠井は、「杉原さんは北鉄買収交渉の随員でしたが、主としてハルビンにあって対ソ連諜報、特に北満鉄道の状況につき極めて詳細かつ正確な情報を蒐集され、交渉が有利に解決したのも杉原さんの活躍があったといっても、過言ではない」と述べている。満洲国側の交渉出席者は、丁士源・駐日大使、大橋忠一・外交部次長、杉原千畝。外交部北満特派員公所事務官など計6名。外交部の人員配置の詳細については、cf. 中見立夫「満洲国の〝外務省〟-- その組織と人事」、『近代中国東北地域史研究の新視角』pp.121-153. また、第1回から第6回までの会議の概要は、外務省外交史料館所蔵 (F.1.9.2.5-11) の外務省情報部『北満鉄道譲渡交渉関係発表集』(昭和9年1月)を参照。
  10. ^ 「パウェル」は、パウロの日本正教会における表記であり、教会スラヴ語のロシアにおける再建音に由来する。杉原幸子夫人や長男・弘樹も正教徒であり、聖名はマリヤ(マリア)とイアコフ(ヤコブ)である。
  11. ^ 千畝自身の書いた杉原メモのなかに「多額の工作費提案あり、一切拒否した」という明確な記述がある。cf.『真相・杉原ビザ』p.177.
  12. ^ 満洲国外交部に勤務した後輩の笠井唯計は、「杉原さんがハルビンを去られことについての、真相は余り知られておりませんが、私の知る限り、憲兵隊の圧力があったことです」と、満洲国外交部同人会宛ての書簡で述べている。cf.『真相・杉原ビザ』p.180.
  13. ^ この調書は、外務省外交史料館では、昭和戦前期外務省記録の分類で、「移民、旅券」関係のJ門の「外國ニ於ケル旅券及査證法規竝同取扱事件雜報 蘇聯邦ノ部 本省員關係」というファイルに綴じられている。
  14. ^ Чиуне Сугихара”, w Archiwum Museum Wojsko Polskiego, Teczka D-1, ss10. 書簡のなかに、戦後オーストリア大使などを歴任した古内広雄が衆議院選で「今年初めて当選した」という記述があり、その初当選が1967年(昭和42年)である。
  15. ^ 文字通り訳すと「ブルジョワ的」。
  16. ^ 本来の首都は、現在と同じヴィリニュスだが、ポーランド・ソビエト戦争の過程で、ポーランドに同地を奪われ、カウナスに首都機能が移転していた。その後ソ連によって一旦はリトアニアに返還されたが、その後ソ連はリトアニアを他のバルト諸国同様に併合した。
  17. ^ 『日本・ポーランド関係史』pp.229-235.原文は、"Le consulat des Pays-Bas à Kaunas déclare par la présente que l'admission d'étrangers au Suriname, au Curaçau et d'autres possesions néerlandaises en Amérique un visa d'entrée n'est pas requis."である。cf.『日本に来たユダヤ難民』p.95.
  18. ^ 実際にソ連領として併合されてしまうと、そこからの出国は、ソビエト体制に不満を持つ反革命分子として摘発されるおそれがあったので、避難民たちは出国を急いでいた。西方からのナチスの脅威と東方からのソ連軍の進駐によって、難民たちは窮地に陥っていたのである。
  19. ^ 幸子夫人の著書『六千人の命のビザ』の巻末年譜にも掲載されている『約束の国への長い旅』(p.35) では、「私は主人に、あのユダヤ人たちを助けて下さい、とたのみました」という言葉の直前で、2章19節が引用されており、『六千人の命のビザ』(p.40) には、「ビザを待つ人群に父親の手を握る幼な子はいたく顔汚れり」という短歌が挿入されている。また、同書には、「神は愛である」(p.200) という「ヨハネの手紙I」(4章)の言葉が引用されている。
  20. ^ 8月31日は、ホテル・メトロポリスに避難していた時期であり、実際のベルリン行き列車の出発は、9月5日である。
  21. ^ このロシア語書簡は、千畝に情報を独ソ間の情報を提供していた亡命ポーランド政府の将校、ミハウ・リビコフスキによって、ワルシャワのポーランド軍事博物館に寄贈されたものだが、誰に宛てられた書簡かは不詳。阪東宏は、「リビコフスキからの依頼に応じて」(『日本のユダヤ政策』p.167)としているが、書簡中でリビコフスキが三人称で記述されていることからして、その可能性は薄い。
  22. ^ 「としかず」と読み、スイス公使の「かせ しゅんいち」とは別人である。
  23. ^ ゴム印の文面は、英仏語で"TRANSIT VISA. Seen from the journey through (Surinam, Curaçau and other Netherlands' colonies.) Consul du Japon à Kaunas"(通過ビザ スリナム、キュラソーその他のオランダ植民地へは入国ビザ不要と認む。在カウナス日本領事館)というものであり、これは、オランダ領事がタイプで打ち込んだ仏語の書面の英訳である。cf.『自由への逃走』p.141;『真相・杉原ビザ』p.301.
  24. ^ ビザ発給の手数料は、当時のリトアニアの通貨で2リタスであり、レオ・メラメドは、「米ドル、1ドルの手数料」と述べている。cf.『エスケープ・トゥ・ザ・フューチャーズ』p.64.
  25. ^ 幸子夫人の『六千人の命のビザ』の「六千人」に関して、白石仁章は、「何にもとづいて流布されたのか不明」(『諜報の天才 杉原千畝』p.157)としているが、1941年2月以降新聞記者がユダヤ人を中心とする避難民を話題として集中的に採り上げており、2月7日付の『大阪毎日新聞』にも「敦賀から上陸した者は、2月6日までに合計5,500人」の記述があり、2月13日には、さらに「335名」が追加され、翌3月、4月にも避難民の上陸が続いている。cf. 渡辺勝正 「杉原ビザは六千人を救ったか」(『真相・杉原ビザ』pp.335-337)。
  26. ^ レオ・メラメドは、ソ連当局が「ユダヤ難民から通常運賃の二倍以上をとることにして、その差額を自分たちのポケットに入れた」と述べている。cf.『エスケープ・トゥ・ザ・フューチャーズ』p.62.
  27. ^ 『日本に来たユダヤ難民』p.105. エレミア書16章15節の「イスラエルの子らを、北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られた主は生きておられる、というようになる。わたしは彼らを、わたしが先祖に与えた土地に帰らせる」(新共同訳)を踏まえている。
  28. ^ 『六千人の命のピサ』(p.175) で、千畝と一緒にラクダに乗った写真に登場する杉原伸生は、イスラエルのヘブライ大学出身。英語とヘブライ語、イディッシュ語に堪能で、特にヘブライ語の巧みさは、ポーランドのユダヤ系作家、マレク・アルテールに、「彼の方が私よりうまくその言葉を操っている」と驚かせるほどである。cf.『救出者 -- なぜユダヤ人を助けたのか』 pp.173-174. ミュージカル『アニー』に主演したベルギー在住の歌手・女優の杉原晴香は、この伸生の四女。cf. Haruka Sugihara sings "Tomorrow & Maybe" from Musical "Annie"
  29. ^ いわゆる「杉原リスト」が完成したのは、やっと2月28日になってからである。
  30. ^ ポーランドの作家、シュトルンフ=ヴォイトキェヴィチ (Stanisław Strumph-Wojtkiewicz, 1898-1986) には、『ティーアガルテン』(Tiergarten, 1978) という、日本とポーランドの対独諜報機関の協力を描いたノンフィクション小説がある。
  31. ^ 「クンツェヴィッチ」ことヤクビャニェツ大尉の逮捕は、「女好き」であった大尉が、リトアニア人のマルティンクス少佐の見目麗しいアンナ夫人に接近し、少佐の嫉妬からドイツ側に密告されたとされていた。cf. エヴァ・パワシュ=ルトコフスカ『日本・ポーランド関係史』p.255.しかし阪東宏は、「『歴史雑誌』112号、1995、に掲載されたポナルスキの回想録によると、マルティンクスは嫉妬からではなく、Abwehr〔注、ドイツ諜報部のこと〕に属していた職務上『クバ』に疑いを抱いていたと述べている」(『世界のなかの日本・ポーランド関係 1931-1945』p.284)として、嫉妬説を退けている。ルトコフスカの説明によれば、「マルティンクスはゲシュタポの手先」(『日本・ポーランド関係史』p.255)と所属はことなるが、ドイツ側の間諜説は同じである。
  32. ^ 1923年(大正12年)、東大法卒。同年、第31回文官高等試験合格。ベルリン大使館時代の職名は参事官。法学博士。著書に、『基本的人權の研究』『日本における憲法事件の判決』など。
  33. ^ レドホウスキ神父は、独ソ間のモロトフ・リッベントロップ協定でポーランドが分割された1939年9月28日、バチカンから「私は叫ぶ、ポーランドよ、おまえは決して打ち砕かれはしない。おまえは、再び栄光のうちに立ち上がるだろう、わが愛する、わが殉教のポーランドよ!」と放送して、ポーランドの抵抗運動を鼓舞した。cf. Stewart A. Stehlin, Weimar and the Vatican, 1919-1939 : German-Vatican Diplomatic Relations in the Interwar Years, Princeton University Press, 1983, p.53.
  34. ^ cf.『自由への逃走』p.41. 千畝が残したメモには、"VOLKSDEUTCHER(sic) WOLFGANG GUDZE"という言葉が、縦横を逆にした原稿用紙のヘッダーに書き込まれ、その下部が鋏で切り取られている。グッチェに関して千畝が指摘する「フォルクスドイッチュ」(国外ドイツ人)とは、元々はドイツ住民だったのに、国境線の変更や新国家建設に伴い他の国民になったドイツ人の内、ドイツ語を母語として、民族的・文化的にドイツ人としてのアイデンティティを自覚する人々を指す。この語は、とりわけ第一次世界大戦後に使われ初め、ナチス政権は、人種主義に利用した。グッチェは、杉原たちのベルリン行きに同行し、ベルリンの駅で別れてから、あれほど親しかった一家の前から忽然と姿を消し、おそらくゲシュタポの要員ではないかと推測されている。cf.『真相・杉原ビザ』pp.310-314.
  35. ^ この「当初600名分の通過ビザ」とは、戦後ミハウ・リビコフスキが回想録に記しているもので、それを山脇正隆中将の発意としているが、日本側の資料にはないもので、阪東宏は、山脇中将の発意か否かは「確認はできない」としている。cf.『世界のなかの日本・ポーランド関係 1931-1945』p.287.
  36. ^ 現在、リトアニアのクライペダ市は、岩手県の久慈市と姉妹都市であり、両都市は「琥珀」の産出という共通点を持っている。cf.「久慈市とリトアニア共和国クライペダ市との姉妹交流の20年を振り返って
  37. ^ このモットーは、元々は、ロンドンでボーイスカウトの訓練を見て深く心に期するところがあった後藤新平が、1922年(大正11年)に全国少年団をつくった時に、「自紀の三訣」として案出した標語である。cf. 「少年團と自治精神」(子爵後藤新平)
  38. ^ 藤沢市の南部中央にある鵠沼は、広田弘毅、杉原千畝、森島守人という三名の著名外交官ゆかりの地である。
  39. ^ この通告書は、日付と宛名だけが手書きで書き込めるようになっているガリ版刷りのもので、退職を自明の前提としたものである。
  40. ^ 杉原夫人も特別映像に出演する、加藤剛主演『命のビザ』(フジテレビ、1992年)において、同一人物と理解されている。
  41. ^ 「センポ」は「千畝」の音読み
  42. ^ 『六千人の命のビザ』p.171. このニシュリは、バルハフティクらと共にビザの受給交渉をした5名の代表の一人。5名の代表とは、B. Gehashra Nishri(在日イスラエル大使館参事官)、ゾラフ・バルハフティク英語版(イスラエル共和国宗教大臣)、Shimon Yaeeon(ニシュリの後任として在日イスラエル大使館参事官)、Gileene Klementyroveski、Zvi Klementyroveski(テル・アヴィヴ市助役)であり、いずれも新生イスラエルの要路を占める人物となった。
  43. ^ 四男・伸生(のぶき)は、ポーランドの作家、マレク・アルテールに対し、千畝の名誉回復の動きについて、「リトアニアが独立したときのことで、新生リトアニアにたいする日本政府からの贈り物のようなもの」(『救済者』p.172.)と述べているが、その洞察の正しさを裏付けるかのように、リトアニアとの国交回復の日に行われた千畝への顕彰演説のなかで、河野外務大臣は、「杉原氏が御活躍されたリトアニアと我が国との間の新たな外交関係が9年前に始まった今日、すなわち10月10日という機会に、外務省としても、同氏の業績を改めて称え、日本外交の足跡として後世に伝える」趣旨を述べている。なお、名誉回復に関しては、cf. 「杉原千畝氏 顕彰プレート除幕式」における河野大臣挨拶
  44. ^ 「皆さまは杉原千畝のストーリーご存じのことと思います、少なくとも彼の名前をお聞きになったことがあるでしょう。1940年、リトアニアの総領事だった杉原千畝は、少なくとも6000名のリトアニア在住のユダヤ人に日本への立ち入りを可能にするビザを発行してナチスの魔の手から命を救いました。私たちはその恩に完全にむくいることはできませんが、多くユダヤ人が今こそ杉原千畝への敬意を表すべく、日本を助ける時であると言っています。ユダヤ人が助けを必要とする時に日本の皆さまに手を差しのべていただきました、そして今度は私たちユダヤ人が日本に手を差し伸べる時なのです」。cf. ニシム・ベンシトリット駐日イスラエル大使講演
  45. ^ 杉原幸子、前掲書、p.200. 難民たちを「見捨て」ることが「神に背く」ことになるとは、「正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない」(エレミア書、22章3節)という主命に違背することになるということである。
  46. ^ Light One Candle. A Survivor’s Tale from Lithuania to Jerusalem, p.47. 「ヴァジャ・コン・ディオス!」とは、長旅などをする相手に対して「さようなら、ご無事を!」くらいの意のスペイン語だが、Adios!よりもやや改まった用法。当時の切迫した状況を考えると、「神と共に行け!」という字義通りの意味と二重の含意。「人物」欄にある千畝に対する追悼文では、後者の意味が強調されている。この言葉の初出の際、ソリー・ガノールは、"Voya con Dios. Go with God. I don't know why he said in Spanish, but the words were from the heart, and to this day those tree words invoke deep feeling in me."(「ヴァジャ・コン・ディオス」。神と共に行け。彼がどうしてスペイン語で述べたのか、私にはわからなかった。しかし、今日に至るまでこの心のこもった三語が私に深い感情を呼び起こすのである)と英語に直訳している。
  47. ^ Visas for Life, p.134. これは、ルカによる福音書(17章10節)の「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」という個所を踏まえた表現である。
  48. ^ 「“命のビザ”杉原氏がいたから私たちがいる」(『中日新聞』2009年9月18日付)cf.「多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く」(ダニエル書、12:3)。
  49. ^ 『幸せな子 -- アウシュビッツを一人で生き抜いた少年』の「日本語版によせて」には、「この日本語版を杉原氏の記念碑として捧げたい」(p.10) とある。なお、同書の日本語翻訳者の池田礼子と渋谷節子は、千畝の「名誉回復」時に外務事務次官だった小和田恆の実娘であり、著者のバーゲンソールは、国際司法裁判所における小和田恆の同僚。
  50. ^ オーストラリアの慈善事業家。元・駐メルボルン・イスラエル総領事ロナルド・クロンゴールドの父。
  51. ^ 杉原幸子、前掲書、p.151. もちろん、戦後一時しのぎの仕事を転々とし、電球売りの訪問販売までして、その生涯を通じて清貧を貫いた千畝に対する事実無根の中傷である。ユダヤ人避難民の代表であり、後に新生イスラエルの宗教大臣になったバルハフティィク自身が、以下のように証言している。「それは絶対にない。ビザを取得する時には、今でもビザ代を多少なりとも支払うが、私たちはその時、ほんのわずかのビザ代のお金を払った。杉原氏が多額のお金を受け取るということは、まったくない。そんな話はでたらめだ。ビザ代はそんなに高い額ではなかったが、私も支払ったように、皆がそのビザ代のみを支払っていた。それに私たちは、多額のお金を持っていなかった」(『真相・杉原ビザ』p.41)。
  52. ^ 1914年(大正3年)生まれ。外交官試験に合格し、東大法中退後入省。ユーゴスラビア、パキスタン、西ドイツ大使等を歴任。終戦の翌年6月には、「調査局第二課(ソ連関係事務の主管課)課長心得」の役職にあった。cf.『ソビエトウォッチング40年』p.17.
  53. ^ 歳川隆雄『外務省の権力構造』講談社、2002年、pp.95-105. その他、竹本信介「戦後日本外務省内の『政治力学』-- 外交官試験と外務省研修所の考察を手がかりに」(立命館大学『立命館法學』2010年)、戦後日本における外務官僚のキャリアパス」(立命館大學『立命館法学』2011年)などを参照。
  54. ^ 1914年(大正3年)生まれ。東京文理大、東大を経て文官高等試験合格。上海総領事勤務を経てフランス、ドイツ大使館勤務。オーストリアで米軍に抑留された後、大島浩・駐独大使とともに帰国。
  55. ^ 安江仙弘や樋口季一郎とともに、イスラエル建国功労者として「ゴールデンブック」に名前が記載されている。
  56. ^ メダルの裏面には、仏語で「杉原千畝に、ユダヤ民族は感謝する」(A SEMPO SUGIHARA LE PEUPLE JUIF RECONNAISSANT) という献辞の後にこの一節 "Celui qui sauve une vie sauve l'univers tout entier" (traité Baba Batra, 15b, Talmud) があり、エルサレム・タルムードのサンヘドリン篇 (23 a-b) によれば、この後には、「このために人は一人で生まれた」という一節が続く。
  57. ^ 曲題は、杉原夫妻と交流があったフィンランドの作曲家ヤン・シベリウスによる讃美歌を転用したもの。
  58. ^ 戦後カナダに渡る際に、アングロ・サクソン風の Solly Ganor への改名する前の名前は、ザルケ・ゲンキント (Zalke Genkind) である。cf. Essays by Holocaust Survivor Solly Ganor.
  59. ^ 英文学者。日本福祉大学教授。高校生用教科書『杉原千畝物語』(1992) の編纂者として知られる。
  60. ^ ヤン・ズヴァルテンディクの長男は、自姓にZwartendykの異綴を用い、Jan Zwartendyk, "Jan Zwartendijk: His Activities as Dutch Consul in Lithuania" (October 1, 1996; Updated December 3, 2005) なる草稿がある。

出典[編集]

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  158. ^ 原書房版の邦訳は、ヘブライ語原著の英訳 (Refugee and Survivor : Rescue Efforts During the Holocaust, 1984) からの重訳。
  159. ^ 「日本、立ち直る 「命のビザ」に救われた『先物の父』」(時事通信、2011年4月3日)
  160. ^ Sylvia Wassertheil-Smoller, Faculty Profile
  161. ^ 『日本福祉大学紀要』(第116号、2007年)所収。
  162. ^ 「ホロコースト」に学ぶ人類全体に通じる問題
  163. ^ ホロコースト記念館「ジョン・ストシンガー博士講演」
  164. ^ Seana K. Magee, "Samuil Manski, Holocaust survivor belives in fate" in The Japan Times, 13 January, 2011
  165. ^ チェスナッヒルの顕彰碑の碑石
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  167. ^ Wywiad Polski na Litwie
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  169. ^ 川村カオリ『ヘルター・スケルター』p.11.
  170. ^ むさしの・多摩・ハバロフスク協会
  171. ^ cf. Joe Eskenazi“Hiroki Sugihara, son of Japanese Schindler dies at 64”(Jewish Weekly, June 22, 2001)
  172. ^ cf. Mariko Sakamoto, “SUGIHARA YUKIKO STORY”.
  173. ^ 特定非営利活動法人「杉原千畝 命のビザ」理事長の挨拶
  174. ^ cf.「タイ・バンコク国連ビルでスピーチ」(英語)
  175. ^ cf. Hieronder kan je kennismaken met Haruka
  176. ^ Haruka Sugihara sings "Tomorrow & Maybe" from Musical "Annie"
  177. ^ 杉原千畝さん描いた舞台 ひ孫がユダヤ人役で出演」(『スポニチ』2013年8月14日付)

参考文献[編集]

〔和文〕
【一次資料、回想録、自伝など】

  • 杉原幸子 『六千人の命のビザ』 (新版) 大正出版、1993年ISBN 4811703073 
    • [英訳] Yukiko Sugihara, Visas for Life, translated by Hiroki Sugihara, San Francisco, Edu-Comm, 1995.
    • [仏訳] Yukiko Sugihara, Visas pour 6000 vies, traduit par Karine Chesneau, Paris, Ed. Philippe Piquier, 1995 ; [Poche] 2002.
    • [葡訳] Yukiko Sugihara, Passaporte para a Vida, São Paulo, Editorial Notícias, 1996 ; Jornal de Nikkey, 1997 ; Sociedade Brasileira de Cultura Japonesa, 2010.
  • 外務省情報部 『北満鉄道譲渡交渉関係発表集』1934年 ASIN B000JANVYI
  • 杉村陽一編 『杉村陽太郎の追憶』1940年 ASIN B000J8RLQY
  • 大橋忠一 『太平洋戦争由来記』要書房、1952年 ASIN B000JBCUP8
  • 斎藤良衛 『欺かれた歴史 -- 松岡と三国同盟の裏側』読売新聞社、1955年 ASIN B000JB49HK
  • 林正義編 『秘められた昭和史』鹿島研究所出版社、1965年 ASIN B000JADQR0
  • 西春彦 『回想の日本外交』岩波書店、1965年 ASIN B000JAE5NE
  • 外務省欧亜第一課編 『日「ソ」交渉史』巌南堂書店、1969年 ASIN B000J9KFAM
  • 布施濤雄・小倉和三郎編 『追想 向谷容堂 -- 恩師ベニンホフ先生を偲びつつ』向谷容堂先生記念文集刊行発起人会、1969年
  • 林三郎『関東軍と極東ソ連軍』芙蓉書房、1974年 ASIN B000J9JULM
  • 曽野明 『ソビエト・ウォッチング40年』サンケイ出版、1983年 ISBN 4-383-02275-8
  • 小野寺百合子 『バルト海のほとりにて―武官の妻の大東亜戦争』共同通信社、1985年 ISBN 4-7641-0178-5
  • 上野正夫 『ソ連禁固刑二十五年』ふだん記町田グループ、1985年
  • 石堂清倫 『わが異端の昭和史』勁草書房、1986年 ISBN 4-326-15174-9
  • 石射猪太郎 『外交官の一生』中央公論社、1986年 ISBN 4-12-201376-3
  • 原四郎『大戦略なき開戦 -- 旧大本営陸軍部一幕僚の回想』原書房、1987年 ISBN 4-5620186-4-X
  • 新関欽哉 『第二次世界大戦下 ベルリン最後の日』NHK出版協会、1988年 ISBN 4-14-001548-9
  • 安江弘夫『大連特務機関と幻のユダヤ国家』八幡書店、1989年 ISBN 4-89350-314-6
  • 藤山楢一『一青年外交官の太平洋戦争 -- 日米開戦ワシントンからベルリン陥落』新潮社、1989年 ISBN 4-10-373101-X
  • 森島守人『陰謀・暗殺・軍刀 -- 外交官の回想』岩波書店、1991年 ISBN 978-4004150725
  • スタニスワフ・ミコワイチク『奪われた祖国ポーランド』中央公論新社、1991年 ISBN 4-12-003127-6
  • ユオザス・ウルブシス 『リトアニア 厳しい試練の年月』新日本出版社、1991年 ISBN 4-406-01947-2
  • ゾラフ・バルハフティク 『日本に来たユダヤ難民』原書房、1992年 ISBN 4-562-02310-4
  • 邦正美 『ベルリン戦争』朝日出版社、1993年 ISBN 4-02-259573-6
  • 都倉栄二 『外交官の決断 -- 一万五千日の現場秘史』講談社、1995年 ISBN 4-06-207456-7
  • マルク・アルテール『救出者 -- なぜユダヤ人を助けたのか』 NHK出版、1997年 ISBN 4-14-080301-0
  • ソリー・ガノール 『日本人に救われたユダヤ人の手記』 講談社、1997年 ISBN 4-06-208924-6
  • レオ・メラメド『エスケープ・トゥ・ザ・フューチャーズ―ホロコーストからシカゴ先物市場へ』ときわ総合サービス出版調査部、1997年 ISBN 4-930909-69-4
  • 新村徳也 『一隅を照らす -- 日本中東外交と私の生涯』ジェムハウス、1997年
  • 早乙女勝元 『戦争を語り継ぐ -- 女たちの証言』岩波書店、1998年 ISBN 4-00-430568-3
  • 栗田健太郎他編 『対ソ情報活動資料』第4巻、現代史料出版、1999年 ISBN 978-4906642953
  • 佐藤優 『国家の罠 – 外務省のラスプーチンと呼ばれて』新潮社、2005年 ISBN 4104752010
  • 川村カオリ『ヘルター・スケルター』宝島社、2005年 ISBN 4-796648-46-1
  • 松岡洋右 『満鉄を語る』慧文社、2007年 ISBN 9784905849841
  • 高橋保 『萬里を行く -- 若き外交官の渡欧・敗戦日記』愛媛新聞メディアセンター、2007年 ISBN 4-86087-043-3

【千畝に関する研究、評伝など】

【その他】

  • 南満州鉄道株式会社哈爾浜事務所調査課編編『北満の労働運動』哈爾浜、1927年
  • アルトゥル・ルッピン 『猶太人社会の研究』南満州鉄道株式会社、1941年 ASIN B000JA9VRO
  • アムレトー・ヴェスパ 『中国侵略秘史』大雅堂、1946年 ASIN B000JA6PXW
  • 片倉衷、古海忠之 『挫折した理想国 -- 満州興亡の真相』現代ブック社、1967年 ASIN B000JA8PBW
  • 三輪公忠 『松岡洋右―その人間と外交』中央公論社、1971年 ASIN B000J9EBFC
  • E・H・カー 『独ソ関係史 -- 世界革命とファシズム』サイマル出版会、1972年 ISBN 978-4377100990
  • 松岡洋右伝記刊行会 『松岡洋右―その人と生涯』講談社、1974年 ASIN B000J9IK7W
  • 小沢親光 『鮎川義介伝 – 夢をひらく男』山口新聞社、1974年 ASIN B000J9FPY8
  • マービン・トケイヤー、メアリ・シュオーツ 『河豚計画』日本ブリタニカ株式会社、1979年 ASIN B000J8F8R8
  • 西原征夫 『全記録ハルビン特務機関 -- 関東軍情報部の軌跡』毎日新聞社、1980年 ASIN J84G3K
  • 秦郁彦 『戦前期日本官僚制度の制度・組織・人事』東京大学出版会、1981年 ASIN B000J7SZOC
  • ゲルハルト・ダンプマン 『孤立する大国ニッポン』阪急コミュニケーションズ、1981年 ISBN 4-484-00101-2
  • 田々宮英太郎 『橋本欣五郎一代』芙蓉書房、1982年 ASIN B000J7S3K8
  • リチャード・ディーコン 『日本の情報機関』時事通信社 1983年 ASIN B000J79RQW
  • 杉山公子 『哈爾賓物語 -- それはウラジオストクからはじまった』地久館出版、1985年 ISBN 978-4562016730
  • 哈爾濱學院史料編集室編 『哈爾濱学院史』1987年
  • ツヴィ・ギテルマン 『葛藤の一世紀 -- ロシア・ユダヤ人の運命』サイマル出版社、1988年 ISBN 4-377-31109-3
  • 小室直樹 『日米の悲劇 -- “宿命の対決”の本質』光文社、1991年 ISBN 978-4334005153
  • 渡邊克義『カチンの森とワルシャワ蜂起 -- ポーランドの歴史の見直し』岩波書店、1991年 ISBN 4-00-003142-2
  • ジョルジュ・カステラン『ルーマニア史』白水社、1993年 ISBN 4-560-05747-8
  • 山室信一 『キメラ -- 満州国の肖像』中央公論新社、1993年 ISBN 4-12-191138-5
    • [英訳] Shin'ichi Yamamuro, Manchuria under Japanese Dominion, University of Pennsylvania Press, 2006.
  • 秦郁彦 『昭和史の謎を追う』文藝春秋、1993年 ISBN 4-16-347270-3
  • イアン・ニッシュ 『日本の外交政策 1869-1942』ミネルヴァ書房、1994年 ISBN 978-4623024087
  • 猿谷要、篠輝久 『意外な解放者』情報センター出版局、1995年 ISBN 4-79581-902-5
  • マイケル・ベーレンバウム 『ホロコースト全史』創元社、1996年 ISBN 4-422-30032-6
  • 田嶋信雄 『ナチズムの極東戦略』講談社、1997年 ISBN 4-06-258096-9
  • 原暉之 『ウラジオストク物語 -- ロシアとアジアが交わる街』三省堂、1998年 ISBN 978-4385358390
  • ジョゼフ・ロスチャイルド 『現代東欧史 -- 多様性への回帰』共同通信社、1999年 ISBN 978-4764104396
  • 宮澤正典、デイヴィッド・グッドマン 『ユダヤ人陰謀説 -- 日本の中の反ユダヤと親ユダヤ』講談社、1999年 ISBN 4-06-209588-2
  • 松浦寛 『ユダヤ陰謀説の正体』筑摩書房、1999年 ISBN 4-480-05823-0
  • 芳地隆之 『ハルビン学院と満洲国』新潮社、1999年 ISBN 4106005611
  • 永岑三千輝 『独ソ戦とホロコースト』日本経済評論社、2001年 ISBN 4-8188-1321-4
  • 阪東宏 『日本のユダヤ政策 1931-1945』未来社、2002年 ISBN 4-624-11185-0
  • 歳川隆雄『外務省の権力構造』講談社、2002年、pp.95-105.
  • ヴァルダス・アダムクス 『リトアニア わが運命』未知谷、2002年 ISBN 4-896420-58-6
  • ウォルター・ラカー編 『ホロコースト大辞典』柏書房、2003年 ISBN 4-7601-2413-6
  • 金子マーティン 『神戸・ユダヤ難民 1940-1941』みずのわ出版、2003年 ISBN 4-944173-23-7
    • [独訳] Martin Kaneko, Die Judenpolitik der japanischen Kriegsregierung, Berlin, Metropol Verlag, 2008.
  • 阪東宏 『世界のなかの日本・ポーランド』大月書店、2004年 ISBN 978-42-7253039-7
  • ベン=アミン・シロニー 『ユダヤ人と日本人の不思議な関係』成甲書房、2004年 ISBN 4-88086-170-7
  • プレプク・アニコー『ロシア、中・東欧ユダヤ民族史』彩流社、2004年 ISBN 4-88202-886-7
  • 丸山直起 『太平洋戦争と上海のユダヤ難民』法政大学出版局、2005年 ISBN 4-588-37703-5
  • 中見立夫他 『近代中国東北地域史研究の新視角』山川出版社、2005年 ISBN 4-634-67453-X
  • 泉孝英『日本・欧米間、戦時下の旅 -- 第二次世界大戦下、日本人往来の記録』淡交社、2005年 ISBN 4-473-03256-6
  • 明神慶昌 『平和を愛した最後の陸軍大将 山脇政隆』リーブル出版、2006年 ISBN 4-947727-79-9
  • 高橋秀寿・西成彦編 『東欧の20世紀』人文書院、2006年 ISBN 4-409-23038-7
  • フェリクス・シフ 『ポーランドのユダヤ人』みすず書房、2006年 ISBN 4-622-07231-9
  • 山本祐策 『ユダヤ難民救助者の法的評価 – ヤン・ツバルテンディクと杉原千畝』近代文芸社、2006年 ISBN 4-7733-7389-X
  • ウルスラ・ベーコン 『ナチスから逃れたユダヤ人少女の上海日記』祥伝社、2006年 ISBN 978-4396681173
  • 小林英夫 『満鉄調査部の軌跡』藤原書店、2006年 ISBN 978-4-89434-544-7
  • 野村真理 『ガリツィアのユダヤ人 -- ポーランドとウクライナ人のきざまで』人文書院、2007年 ISBN 978-4-409-51060-5
  • 小谷賢 『日本軍のインテリジェンス -- なぜ情報がいかされないのか』講談社、2007年 ISBN 978-4-06-258386-2
  • 日本海地誌調査研究会 『人道の都 敦賀』 敦賀上陸ユダヤ難民足跡調査会、2007年
  • 尾崎俊二 『記録するワルシャワ -- 抵抗・蜂起とユダヤ人援助組織「ジェコダ」』光陽出版社、2007年 ISBN 978-4-87662-460-7
  • 満川亀太郎『ユダヤ禍の迷妄』慧文社、2008年 ISBN 978-4863300064
  • 小林英夫編『満州 -- その今日的意味』つげ書房新社 2008年 ISBN 978-4-8068-0575-5
  • 本山美彦 『金融権力』岩波書店、2008年 ISBN 978-4004311232
  • 早稲田奉仕園百年史編集委員会編 『早稲田奉仕園百年史』(財)早稲田奉仕園、2008年
  • 服部龍二 『広田弘毅 --「悲劇の宰相」の実像』中央公論新社、2008年 ISBN 4-121019-51-2
  • トーマス・バーゲンソール 『幸せな子 -- アウシュビッツを一人で生き抜いた少年』毎日新聞社、2008年 ISBN 978-4-02-250347-3
  • ヴィリギリウス・チェイパティス 『リトアニア -- 民族の苦悩と栄光』中央公論新社、2008年 ISBN 4-12-003755-X
  • ヤン・T・グロス『アウシュヴィッツ後の反ユダヤ主義 -- ポーランドにおける虐殺事件を糾明する』白水社、2008年 ISBN 978-4-560-02631-1
  • エヴァ・パワシュ=ルトコフスカ、アンジェイ・T・ロメル 『日本・ポーランド関係史』彩流社、2009年 ISBN 978-4-7791-1414-4
  • 砂村哲也 『ハルビン教会の庭』PHP研究所、2009年 ISBN 978-4-904302-32-3
  • 佐藤優 『交渉術』文藝春秋、2009年 ISBN 4-163685-80-4
  • 市川裕他 『ユダヤ人と国民国家 - 「政教分離」を再考する』岩波書店、2009年 ISBN 978-4-00-025408-3
  • ワシリー・モロジャコフ 『後藤新平と日露関係史 -- ロシア側新資料に基づく新見解』藤原書店、2009年 ISBN 978-4-89434-684-0
  • ベルナール・ルコント 『バチカン・シークレット』河出書房新社、2010年 ISBN 978-4-303-20543-4
  • 平野久美子 『坂の上のヤポーニア』産経新聞社、2010年 ISBN 978-4-8191-1119-5
  • 関根真保 『日本占領下の上海ユダヤ人ゲットー』昭和堂、2010年 ISBN 978-4-8122-0972-1
  • 富田武 『戦間期の日ソ関係 1917-1937』岩波書店、2010年 ISBN 978-4-00-023689-8
  • 三宅正樹 『スターリンの対日情報工作』平凡社、2010年 ISBN 978-4-582-85540-1
  • 芳地隆之 『満州の情報基地 ハルビン学院』新潮社、2010年 ISBN 978-4-10-399802-0
  • ヤニック・エネル 『ユダヤ人大虐殺の証人 ヤン・カルスキ』白水社、2011年 ISBN 978-4-309-22539-5
  • マイルズ・フレッチャー 『知識人とファシズム -- 近衛新体制と昭和研究会』柏書房、2011年 ISBN 978-4-7601-3686-5
  • モルデカイ・パルディール『キリスト教とホロコースト』柏書房、2011年 ISBN 978-4-7601-3977-4
  • 越澤明 『後藤新平』筑摩書房、2011年 ISBN 978-4-480-06639-8
  • 臼杵陽他著 『シオニズムの解剖 -- 現代ユダヤ世界におけるディアスポラとイスラエル』人文書院、2011年 ISBN 978-4-409-23047-3
  • 鶴見太郎 『ロシア・シオニズムの想像力 -- ユダヤ人・帝国・パレスチナ』東京大学出版会、2012年 ISBN 978-4-13-016032-2
  • 生田美智子編 『満州の中のロシア -- 境界の流動性と人的ネットワーク』成文社、2012年 ISBN 978-4-915730-92-4
  • ルータ・セペティス『灰色の地平線のかなたに』岩波書店、2012年 ISBN 978-4-00-115651-5
  • シルリ・ギルバート『ホロコーストの音楽』みすず書房、2012年 ISBN 978-4622076957
  • 井口治夫『鮎川義介と経済的国際主義 -- 滿州問題から戦後日米関係へ』名古屋大学出版会、2012年 ISBN 978-4-8158-0696-5
  • アレクセイ・A・キリチェンコ『知られざる日露の二百年』現代思潮新社、2013年 ISBN 978-4329004864
  • 山田純大『命のビザを繋いだ男 -- 小辻節三とユダヤ難民』NHK出版、2013年 ISBN 978-4140815991

〔欧文〕

  • Herman Dicker, Wanderers and Settlers in the Far East, New York, Twayne Publishers, 1962.
  • Abraham Kotsuji, From Tokyo to Jerusalem, Torath HaAdam Institute, 1975.
  • David Kranzler, Japanese, Nazis and Jews, Hoboken, NJ, Ktav Publishing House, 1976.
  • John J. Stephan, The Russian Fascists. Tragedy and Farce in Exile, 1925-1945, London, Hamish Hamilton, 1978.
  • Stewart A. Stehlin, Weimar and the Vatican, 1919-1939 : German-Vatican Diplomatic Relations in the Interwar Years, Princeton University Press, 1983.
  • Beth Hatefutsoth, Passage Through China : The Jewish Communities of Harbin, Tientsin and Shanghai, Tel Aviv, The Nahum Goldmann Museum of the Jewish Diaspora, 1986.
  • Samuil Manski, With God's Help, Northwestern University, 1990.
  • Solly Ganor, Light One Candle. A Survivor’s Tale from Lithuania to Jerusalem, New York, Kodansha International, 1995.
  • Marek Halter, La force du Bien, Robert Laffont 1995.
  • George Passelecq & Bernard Suchecky, L'Encyclique cachée de Pie XI. Une occasion manquée de l'Eglise face à l'antisémitisme, Paris, La Découverte, 1995.
  • Yaacov Liberman, My China : Jewish Life in the Orienr 1900-1950, Jerusalem, Gefen Books, 1998.
  • Pamela Rotner Sakamoto, Japanese Diplomats and Jewish Refugees, Westport, CT, Praeger Pnblishers, 1998.
  • John Cornwell, Hitler's Pope. The Secret History of Pius XII, New York, Viking, 1999.
  • Alison Leslie Gold, A Special Fate. Chiune Sugihara, New York, Scholastic, 2000.
  • Astrid Freyeisen, Shanghai und die Politik des Dritten Reiches, Wurzburg, Verlag Königshausen & Neumann, 2000.
  • Dom Lee & Ken Mochizuki, Passage to Freedom. The Sugihara Story, New York, Lee & Low Books, 2003.
  • David Alvarez & Robert A. Graham, Nothing sacred. Nazi Espionage against the Vatican 1939-1945, London, Frank Cass, 2003.
  • Vincas Bartusevičius , Joachim Tauber u. Wolfram Wette, Holocaust in Litauen. Krieg, Judenmorde und Kollaboration im Jahre 1941, Wien, Böhlau Verlag, 2003.
  • Alvydas Nikzentaitis, The Vanished World of Lithuanian Jews, Amsterdam, Editions Rodopi B.V. , 2004.
  • Carl L. Steinhouse, Righteous and Courageous, Bloomington, Indiana, AuthorHouse, 2004.
  • Willam Kaplan, One More Border – The True Story of one family’s escape from war-torn Europe, Tronto, Groundwood Books, 2004.
  • Samuel Iwry, To Wear the Dust of War: From Bialystok to Shanghai to the Promised Land ; An Oral History, London, Palgrave Macmillan, 2004.
  • Anne Hoshiko Akabori, The Gift of Life, California, Edu-Comm Plus, 2005.
  • Tessa Stirling, Daria Nałęcz & Tadeusz Dubicki, Intelligence Co-operation between Poland and Great Britain during World War II, vol.1, London, Vallentine Mitchell, 2005.
  • Walter Schellenberg, The Memoirs of Hitler's Spymaster, London, André Deutsch, 2006.
  • Sylvia Smoller, Rachel and Aleks : A Historical Novel of Life, Love and WWWII, iUniverse, Inc., 2007.
  • Mordecai Paldiel, Diplomat heros of the Holocaust, KTAV Publishing House, NJ, 2007.
  • Alfred Erich Senn, Lithuania 1940 : Revolution from above, Amsterdam, Editions Rodopi B.V., 2007.
  • Reinhard R. Deorries, Hitler’s Intelligent Chief, New York, Enigma Books, 2009.
  • Barbara Ruth Bluman, I Have My Mother's Eyes : A Holocaust Memoir Across Generations, Ronsdale Press, 2009.
  • Michaël Prazan, Einsatzgruppen, Paris, Ed du Seuil, 2010.
  • Timothy Snyder. Bloodlands: Europe Between Hitler and Stalin, New York, Basic Books, 2010.
  • Miriam Bistrović, Anitisemitismus und Philosemitismus in Japan, Essen, Klartext Verlagsges, 2011.

〔論文、記事〕(和文)

〔論文、記事〕(欧文)

〔小中高生向け教材・絵本・漫画、学習指導案など〕

  • 杉原幸子、杉原弘樹 『杉原千畝物語 -- 命のビザをありがとう』金の星社、1995年 ISBN 4-323-01876-2
  • 杉原幸子、杉原弘樹 『杉原千畝物語 -- 命のビザをありがとう』金の星社、フォア文庫版(杉原美智解説)、2003年 ISBN 978-4-323-09027-6
  • 渡辺勝正、稲垣収、あべさより 学習まんが人物館『杉原千畝 六千人の命を救った外交官』小学館 2001年 ISBN 4-092701-13-6
  • 篠輝久 『約束の国への長い旅』リブリオ出版、1988年 ISBN 4-89784-159-3
  • 間森誉司「6000人の命のビザ 人権学習指導案」(新宮小学校6年生)

〔ビデオ、DVD、CD など〕

  • 『ビザと美徳・日本のシンドラー杉原千畝』クリス・タシマ、スーザン・フクダ(出演)[VHS](1997年、販売元:ケイエスエス)
  • "Natus in curas~in honor of Chiune Sugihara" 松原千振(指揮)[CD](2003年、販売元:フォンテック)
  • "Sugihara: Conspiracy of Kindness" directed by Diane Estelle Vicari & Robert Kirk [DVD] (2005年、製作:電通)
  • 『日本のシンドラー杉原千畝物語・六千人の命のビザ』反町隆史・飯島直子(出演)[DVD](2005年、販売元:バップ)
  • ミュージカル『SEMPO -- 日本のシンドラー 杉原千畝物語』[DVD](2008年、販売元 : ライズ・プロデュース)
  • 『命のビザ』加藤剛・秋吉久美子(出演)[DVD](2010年、販売元:カズモ)
  • 少年少女合唱団マーレ製作『命をつないだビザ 人道の港敦賀にゆかりのある杉原千畝ものがたり』(平成25年度全国自作視聴覚教材コンクール入賞)

演劇[編集]

  • 1992年(平成4年)、劇団銅鑼による『センポ・スギハァラ』の連続公演始まる。
  • 2006年(平成18年)2月24日、一柳慧によるオペラ『愛の白夜』が、神奈川県民ホール30周年を記念して上演。
  • 2008年(平成20年)4月4日、吉川晃司の千畝役で、『SE・M・PO -- 日本のシンドラー 杉原千畝物語』新国立劇場で上演(吉川晃司の他に、森奈みはる、井料瑠美等が出演し、中島みゆきが舞台作品としては初めて書き下ろしの楽曲を提供)。12月10日、水澤心吾による一人芝居『決断・命のビザ SEMPO 杉原千畝物語』がカーネギーホールで上演され、米国国連協会「エレノア・ルーズベルト賞」を受賞。
  • 2009年(平成21年)9月、八百津町の「杉原千畝記念館」開館10周年記念行事として、八百津小学校の生徒たちによる児童劇『メノラの灯』が上演される。
  • 2013年(平成23年)9月、ミュージカル『SEMPO -- 日本のシンドラー 杉原千畝物語』が新国立劇場で一部キャストを入れ替え再演される。
  • 2014年(平成26年)、権代敦彦が作曲した、リトアニア語のオラトリオ『根付いた桜』が、1月にカウナスで上演予定。

関連項目[編集]

カウナス リトアニア リトアニアにおけるホロコースト
ケーニヒスベルク (プロイセン) 国家社会主義ドイツ労働者党 ゲーペーウー
ポーランド 満州国 南満州鉄道
早稲田奉仕園 ロシア正教 ニコライ堂
白系ロシア人 反ユダヤ主義 シオニズム 上海ゲットー
ヤド・ヴァシェム 諸国民の中の正義の人 アメリカ・ユダヤ人共同配給委員会
ノモンハン事件 杉原 (小惑星) 大島浩
杉村陽太郎 大迫辰雄英語版 小和田恆
オスカー・シンドラー ラウル・ワレンバーグ ベニート・ムッソリーニ#民族・人種政策 - 極右政党党首で枢軸国側の国家元首でありながらも、イタリアがドイツ傀儡国家化するまでは親ユダヤだった。 松岡洋右
近衛文麿 広田弘毅 鮎川義介
小和田恆 明石康 河野洋平
加藤寛 (経済学者) 高橋哲哉 金子マーティン
川村秀 杉原誠四郎 石岡史子
渡辺勝正 白石仁章 ホロコースト教育資料センター
大正出版 中日新聞社 江戸川乱歩
日本ハリストス正教会 八百津町 愛知県立瑞陵高等学校

外部リンク[編集]