オスカー・シンドラー

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1946年、シンドラーとその妻エミーリエ

オスカー・シンドラー(Oskar Schindler、1908年4月28日 - 1974年10月9日)は、メーレン(当時オーストリア領、現チェコ領)生まれのズデーテンドイツ人の実業家第二次世界大戦中、ナチスにより強制収容所に収容されていたユダヤ人のうち、自身の工場で雇用していた1,200人を虐殺から救ったことで知られる。

目次

[編集] 生涯

[編集] 生い立ち

オスカー・シンドラーは、1908年4月28日、当時オーストリア・ハンガリー帝国領だったモラヴィアのツヴィッタウ(Zwittau)(現・チェコスヴィタヴィ(Svitavy))で、農業機械の工場を経営するハンス・シンドラーとその妻フランツィスカ(Franziska)(旧姓・ルーザー(Luser))の息子として生まれた。近隣のユダヤ人家族の子どもたちは、彼の遊び仲間だった。オスカー・シンドラーは、エルフリーデ(Elfriede)という妹があった。

シンドラーは、国民学校、実家学校に学び、卒業後は父親の工場で技師になった。彼はカトリックの信徒として育てられたが、成人してからはその信仰から遠ざかった。20歳で、エミーリエ(Emilie)と結婚、彼女は裕福なドイツ系カトリックの農家ペルツル家(Pelzl)の娘だった。結婚後間もなく、彼は兵役に召集された。

[編集] ナチ党員に

シンドラーの父親の工場が世界的な大不況の影響で閉鎖された後、シンドラーは、1935年から1939年までメーリッシュ=オストラウ Mährisch-Ostrau (現・チェコのオストラヴァ)やブレスラウ(現・ポーランドヴロツワフ)でヴィルヘルム・カナリス提督の下で対外/防衛省の諜報員として働いた。身分を偽装するために彼は、ブリュン(現・チェコのブルノ)の電気製造業の営業部門の責任者をしていることになっていた。

1935年、彼はコンラート・ヘンラインのズデーテン・ドイツ郷土戦線(後のズデーテン・ドイツ人党(SdP))という国粋主義的な政党に入党した。彼の諜報活動が露見した時、チェコの鉄道内部の秘密情報を漏らしたということで、大叛逆罪の罪で死刑の宣告を受ける。1938年10月にドイツのズデーテン併合があったため、ドイツによって刑の執行は中止された。

1939年2月10日、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に志願して入党[1]。同じ年、ブレスラウのカナリスの下での参謀本部の職務から身を引いた。戦争での一儲けを狙って、彼はドイツのポーランド侵攻に合わせて、クラクフにやってきた。

[編集] ユダヤ人強制労働者の救出

ブルニェネツに残るシンドラーの工場

1939年10月、シンドラーは、没収前はユダヤ人の所有になっていた落ちぶれた琺瑯容器工場を買い取る。彼は、ユダヤ系ポーランド人の会計士イツァーク・シュテルンの助言を受けながら、闇商売で資産を拡大していく。クラクフの近くのザプロヴィツ Zablowic の小さな工場は、軍の厨房用品を製造して、急激な成長を遂げた。わずか3カ月で、工場は250人のポーランド人労働者を使うようになり、その中には7人のユダヤ人労働者もいた。1942年末までに、工場は、巨大な琺瑯容器工場にして、軍需工場に成長していった。 45,000 m²の敷地に800人近い労働者がここで働いたのである。その中には、クラクフ・ゲットーの370人のユダヤ人もいた。

シンドラーは、快楽主義者で遊び人で、まさにプレイボーイのライフスタイルを楽しみ、生きることをそのすべての面で享受していた。彼は、同時代の人たちから見てくれよく育ってきた人間とみなされて、上品な社会の中で立ち回り、良い身なりをし、女性たちからももてはやされ、金を湯水のように使っていた。

シンドラーのナチ政権への抵抗は、イデオロギー的な理由からではない。まずもって楽天的な工場主は、無力なユダヤ人住民たちに対する扱い方に異を唱えたのである。次第に彼の経済的な関心は、出来るだけ多くのユダヤ人を救済したいという願望の前に後退していった。その最後には、シンドラーは、彼の全財産をこの目的のために投げ出すだけでなく、自分の命までそれに賭けようとしたのである。

シンドラーのユダヤ人救済において大きな力となったのは、彼の工場が“軍需工場”ということでポーランド占領のドイツ軍司令部からも特別の格付けを承認されていたことである。これにより、彼は経済的な大きな利益のある契約を締結することが出来ただけでなく、親衛隊の監督下にあったユダヤ人労働者を要求することもできたのである。 彼がこれらの労働者を彼の工場の生産ラインに不可欠のものと主張することで、彼はその雇用者が絶滅収容所への移送の危険がせまったときにも、特例措置を働きかけることが出来たのである。

シンドラーは、その際にもウソをついたり、記録を偽ったりということはせず、ただ子どもやあるいは大学生を熟練の金属工と称しただけにとどまった。シンドラーは、かの有名な“リスト”を彼の秘書ミミ・ラインハルト Mimi Reinhardt に口述筆記させ、彼女もまた2,3人の名前をそれに書き足した。

シンドラーは、規則違反やユダヤ人に対する優遇の嫌疑をかけられてたびたびゲシュタポから事情聴取を受けた。こうした事実をシンドラー自身も隠そうとはしなかった。1943年、シンドラーは、ユダヤ人組織の招待でブダペストに旅行し、そこでハンガリーのユダヤ人たちと会合を持った。彼は、ポーランドのユダヤ人たちの絶望的な状況を包み隠さず語り、救出の可能性について議論を交わした。

1943年3月、クラクフのゲットーは解体され、お気に入りのユダヤ人たちは、クラクフ郊外のプワシュフ強制収容所へ移送された。 シンドラーは、残忍な強制収容所所長の親衛隊大尉アーモン・ゲートが、彼の飲み仲間でもあったことから、彼の工場にユダヤ人労働者のための小屋を建てさせてくれるようにと説得した。この秘密交渉で、彼はそのユダヤ人労働者に比較的快適な生活条件を提供し、貧弱な栄養状態を補ってやることが出来るようになった。このための食糧は、シンドラーがすべて闇の市場で調達してきた。収容所の親衛隊の警備兵たちは、工場の敷地内への立ち入りは禁止されたのである。

1944年末、プワシュフ Płaszów は、赤軍の侵攻により、すべての収容施設の解体を余儀なくされ、ここにいた20,000人以上のユダヤ人が絶滅収容所に移送された。シンドラーは、ドイツ軍の司令官から、彼とその妻がズデーテン地方のブリュンリッツ(現・チェコのブルニェネツ Brněnec)で新たに手に入れた工場で「軍需物資の生産」を継続し、そのための労働者を連れていくという許可を得た。

その労働力には、プワシュフの収容所からかなりの大人数が選ばれ、総数で800人にもなった。そのうち700人がユダヤ人、300人が女性だった。これらの人々のブリュンリッツ労働収容所への移送は、1944年10月15日に行われた。これはグロース・ローゼン(現・ポーランドのロゴジニーツァ Rogoźnica)の強制収容所を経由しての移動であった。この強制収容所 KZ Groß-Rosen の副次的な収容所が労働収容所ブリュンリッツだったのである。 輸送の列車はアウシュヴィッツを通っていた。その時、彼女たちが別の収容所に移される前に、すべての囚人は男であれ女であれすべて検疫所に行くようにという親衛隊の指令書が届いた。同様に、秘密の場所に隠されていた身体検査施設へという指令もその中にあった。これらすべての指令が女性の囚人たちに実施されている間、グロース・ローゼンは、シンドラーの女性労働者たちを管理するのにはまだ充分な人員も施設も準備されていなかった。そのため、女性たちはおよそ60km離れた強制収容所アウシュヴィッツに行くというはめになったのである[2]

シンドラーは、グロース・ローゼンの収容所から人々を助け出しに駆けつけ、彼らを助け出すことに成功した。シンドラーが、ユダヤ人1人当たり1日につきゲシュタポに7マルク支払うことを約束し、彼の秘書がアウシュヴィッツで女性たちを更に移送する交渉を行ったのである。これは、絶滅収容所が、その運用されていた間に、そこからかくも大勢の集団が出ていくことを許された唯一のケースである。

オスカーとエミーリエのシンドラー夫妻は、アウシュヴィッツの収容施設から加えて120人のユダヤ人を救出した。この人たちは、親衛隊のドイツ石炭鉱業という鉱山で働かされていた人々である。1945年1月、この人々はロシア軍の侵攻により、強制疎開を余儀なくされ、2台の鍵をかけられた家畜貨車で西方に荷送された。凍りつくような寒さの中、食事も水も与えられず、7日間かけて親衛隊は、この貨車をシンドラーの工場の門まで運んだのである。エミーリエ・シンドラーは、親衛隊の輸送部隊を阻止して、貨物車だけを工場の中に引き入れた。オスカー・シンドラーは、貨物車の乗客が工場にとって急ぎ必要なのだと説いて聞かせた。貨物車のドアが開けられると、13人の凍死者が発見された。生き延びた107人は、ただちに治療を必要とする状態で、懸命な介護でなんとか一命を取り留めたのである。

親衛隊は誰一人シンドラーの工場には立ち入りを許されなかった。そればかりか凍死したユダヤ人を彼らが焼却処分することもシンドラーは許さなかった。彼は土地を購入して、ユダヤ教のしきたりに則って彼らをそこに埋葬した。

プワシュフでは「彼の」労働者たちの誰一人としてそれ以来、収容所エマーリア Emalia では打たれることはなかったし、不自然な死を遂げたものもなく、また絶滅収容所に送られたものもなかった。戦争の終盤、シンドラーは、ドイツに移ったが、彼はその時1ペニヒすら持っていなかった。

[編集] 戦後

レーゲンスブルクのシンドラーが居住した建物の壁にある記念のプレート

企業家としてのシンドラーは、戦後は不運に見舞われた。1945年11月から1950年5月まで、彼はレーゲンスブルクにいた。しばらくアルゼンチンに赴き、毛皮をとるためにヌートリアの飼育も手掛けた。その農場を閉鎖せざるを得なくなって、貿易商の仕事をしたのち、ドイツに帰国した。ドイツでは、セメント工場の仕事をし、これもまた1961年に倒産に追い込まれた。シンドラーに救われたユダヤ人たちが彼の不運を聞き知って、次から次に事業に失敗し、資金繰りで奔走しているシンドラーを彼らはイスラエルに招待した。

この時点から、オスカー・シンドラーの「二重生活」が始まる。つまり年の半分を彼が隠居生活をしているフランクフルトで過ごし、他の半分をエルサレムの彼が救ったユダヤ人たちの下で過ごすということである。オスカー・シンドラーはこのような生活を1974年彼が、ドイツのヒルデスハイムで死ぬまで続けた。彼の墓は彼自身の希望により、エルサレムのローマカトリックの教会墓地にある。

シンドラーの墓

彼が亡くなる2年前に、ヘブライ大学の構内に彼にささげられた部屋が設けられた。そこには彼によって命を救われた人々すべての名前が記された本が置かれている。ドイツ、そのほかの国々など広く一般には、彼の名は、トマス・キニーリーの手による伝記『シンドラーのリスト』によって初めて広く知られることになり、その映画化作品が製作されたことで評価を決定的なものとした。

1999年彼の最後の恋人アーミ・シュペート Ami Spaeth の住居の屋根裏部屋から、シンドラーが親衛隊に取り入るために作成したありとあらゆる書類のすべてが詰まったひとつのカバンが見つかった。生活必需品のすべての支出が事細かに記載されたものである。今日の通貨価値にして、総額100万ユーロを食糧、賄賂、そして贈り物として支払っていたのである。

妻エミーリエとは1957年以来疎遠となっており、離婚こそしなかったものの終生出会うことはなかった。夫の死から20年後、彼女は夫の墓前に次のように心中を語りかけた。

「やっと会えたのね…。何も答えを聞いてないわ、ねえ、どうしてわたしを見捨てたのかしら…。でもね、あなたが亡くなっても、わたしが老いても、ふたりが結婚したままなのは変わらないし、そうやって2人は神さまの御前にいるの。あなたのことは全部許してあげたわ、全部…。」[3]

晩年の彼女の身寄りはバイエルンに居る姪一人きりだった。[3]アルゼンチンのサン・ビセンテ San Vicente でペットに囲まれて過ごした。自宅は反ユダヤ主義極右過激派から身を守る為に、アルゼンチン警察の制服警官が24時間常駐していた。[3]2001年7月のベルリン訪問中、彼女は記者たちに、人生最後の時間をドイツで過ごすことが最大にして最後の望みであること、更にホームシックがどんどん重くなっていることを語った。[4]そして10月、ベルリン市内の病院で亡くなった(93歳)。ミュンヘンから1時間ほどの距離にあるヴァルトクライブルク Waldkraiburg にある彼女の墓には、次のような言葉がドイツ語で刻まれている。

「たった一つの命を救うものは、全世界を救うのである。(Wer einen Menschen rettet, rettet die Ganze Welt.)」[5]

[編集] 顕彰

「たった一つの命を救うものは、全世界を救うのである」 - このタルムードにある言葉は、ユダヤ人たちがオスカー・シンドラーに贈り物として与えた指輪に刻まれている。この指輪は、1945年5月8日、ユダヤ人たちが、シンドラーに命を救ってもらった感謝のしるしに彼からが唯一持っていた本物の金歯から作られたものである。

1965年11月5日、彼は、ドイツ連邦共和国功労賞第一級に叙せられた[6]

加えてシンドラーは、1962年イスラエルヤド・ヴァシェム諸国民の中の正義の人通りに彼の名において、いなごまめ(洗礼者ヨハネがよく食べていたとされるもの)の木を植える栄誉を与えられた。

ドイツではオスカー・シンドラーは、その生誕100年を記念して、145セントの特別記念切手が、2008年4月10日に発行された。この切手には、「1人の命を救うものが全世界を救う」というタルムードの言葉が書かれている[7]

[編集] 映画『シンドラーのリスト』

ユダヤ系アメリカ人映画監督のスティーブン・スピルバーグは、トーマス・キニーリーの小説をもとに『シンドラーのリスト』という題で映画化している。オスカー・シンドラーはリーアム・ニーソンが演じた。

同作品は、アカデミー賞で12部門にノミネートされ、そのうち作品賞、監督賞、脚色賞、撮影賞、編集賞、美術賞、作曲賞の7部門で受賞した。

[編集] 注釈

[編集] 参考文献

[編集] 出典

  1. ^ E.ブレッチャー著『私はシンドラーのリストに載った』19ページ
  2. ^ Mieczysław (Mietek) Pember: Der rettende Weg, Schindlers Liste – die wahre Geschichte. 2. Auflage. Hoffmann und Campe, Hamburg 2005.
  3. ^ a b c http://www.auschwitz.dk/emilie/emilie.htm
  4. ^ “Emilie Schindler, 93, Dies; Saved Jews in War”. The New York Times. (October 8, 2001). http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9E0DE1DD133CF93BA35753C1A9679C8B63&scp=8&sq 2009年1月20日 閲覧。 
  5. ^ Crowe, David M. (2004). Oskar Schindler: The Untold Account of His Life, Wartime Activities, and the True Story Behind the List. Cambridge, MA: Westview Press. ISBN 0-8133-3375-X. 
  6. ^ „Vater Courage – Oskar Schindler in Frankfurt“ auf hr-online
  7. ^ Briefmarke zum 100. Geburtstag Schindlers

[編集] 関連項目

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