アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所

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アウシュビッツ・ビルケナウ
ドイツ・ナチの強制・絶滅収容所(1940年-1945年)
ポーランド

アウシュビッツ第二強制収容所(ビルケナウ)の鉄道引込線
アウシュビッツ第二強制収容所(ビルケナウ)の鉄道引込線
(英名) Auschwitz Birkenau
German Nazi Concentration and Extermination Camp (1940-1945)
(仏名) Auschwitz Birkenau
Camp allemand nazi de concentration et d'extermination (1940-1945)
登録区分 文化遺産
登録基準 文化遺産(6)
登録年 1979年
拡張年
備考 負の遺産
公式サイト ユネスコ本部(英語)
地図
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の位置
世界遺産テンプレートを使用しています

アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau)は、第二次世界大戦中にナチス党率いるドイツ(ナチス・ドイツ)が推進した人種主義的な抑圧政策により、最大級の惨劇が生まれたとされる強制収容所。アウシュビッツ第二強制収容所とも言い、ドイツ占領地のポーランド・オシフィエンチム市につくられた。周辺には同様の施設が多数建設されている。ユネスコは二度と同じような過ちが起こらないようにとの願いを込めて、1979年「負の世界遺産」に認定した。一部現存する施設は「ポーランド国立オシフィエンチム博物館」が管理・公開している。

※このページはビルケナウに限定せず、アウシュビッツ全体について記述しています。

目次

[編集] 概要

オシフィエンチムの市街地をとりまくようにつくられた施設群。とりわけ第二強制収容所の規模の大きいことがわかる
オシフィエンチムの市街地をとりまくようにつくられた施設群。とりわけ第二強制収容所の規模の大きいことがわかる
貨車に乗せられ、強制収容所に送られる被収容者たち
貨車に乗せられ、強制収容所に送られる被収容者たち
ARBEIT MACHT FREI (日本語訳:働けば自由になる、英語訳:WORKS GETS FREE)と表記されている(第一強制収容所)
ARBEIT MACHT FREI (日本語訳:働けば自由になる、英語訳:WORKS GETS FREE)と表記されている(第一強制収容所)

ホロコーストの象徴として挙げられる「アウシュビッツ強制収容所」とは、現在のポーランド南部オシフィエンチム市郊外につくられた、強制的な収容が可能な施設群(List of subcamps of Auschwitzに一覧)の総称である。ソ連の領土をも視野に入れた「東部ヨーロッパ地域の植民計画」[1]を推し進める上でのモデルケースとして、労働力の確保と人種主義的抑圧を目的にドイツが建設した。地勢的にはヨーロッパの中心に位置し、広範なドイツ統治下の国々から被収容者を集めるのに適している。

1940年5月、親衛隊(SS)全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの命を受け、ドイツ国防軍が接収したポーランド軍兵営の建物を利用し「アウシュビッツ第一強制収容所(基幹収容所)」[2]が開所する。数ある強制収容所における画一的な管理システム、いわゆる「ダッハウモデル」が踏襲されている。初代所長は、SS中佐ルドルフ・フェルディナント・ヘス[3]その後の被収容者増に合わせて、1941年10月、ブジェジンカ村にさらに大規模かつ絶滅施設が問題視される「アウシュビッツ第二強制収容所ビルケナウ」が、1942年から1944年の間にはモノビッツ村周辺に、当時のドイツを代表する イーゲー・ファルベン社(化学)、クルップ社(重工業)、シーメンス社(重電産業)といった大企業の製造プラント[1]や近隣の炭鉱に付随する形で、大小合わせて40ほどの強制労働を目的とした収容施設がそれぞれつくられた。モノビッツ村の施設群は「アウシュビッツ第三強制収容所モノビッツ」[4]とも呼ばれる。

収容されたのは、ユダヤ人政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者、さらにはこれらをかくまった者など。その出身国は28に及ぶ。ドイツ本国の強制収容所閉鎖による流入や、1941年を境にして顕著になった強引な労働力確保(強制連行)[5]により規模を拡大。ピーク時の1943年にはアウシュビッツ全体で14万人が収容されている。

アウシュビッツは一般に言われる絶滅収容所としてだけでなく、第三強制収容所モノビッツが示すように、戦争遂行に欠かせない労働力確保のための施設としても機能している。その中で作用した「労働力として適さない女性・子供・老人などを選別し処分する」という仕組が、今日語り継がれる数多くの悲劇を生み出した。[6]一説には「強制収容所到着直後の選別で、70~75%がなんら記録も残されないまま即刻ガス室に送り込まれた」とされており、このため正確な被収容者総数の把握は現在にいたってもできていない。[7]

即刻の処分を免れ、たとえば労働力として認められたとしても多くは半ば使い捨てであり、非常に過酷な労働を強いられた。理由として、

  1. ナチスが掲げるアーリア人による理想郷建設における諸問題(ユダヤ人問題など)の解決策が確立されるまで、厳しい労働や懲罰によって社会的不適合者や劣等種族が淘汰されることは、前段階における解決の一手段として捉えられていたこと。
  2. 領土拡張が順調に進んでいる間は労働力は豊富にあり、個々の労働者の再生産(十分な栄養と休養をとらせるなど)は一切考慮されなかったこと[8]
  3. 1941年末の東部戦線の停滞に端を発した危急の生産体制拡大の必要性と、戦災に見舞われたドイツの戦後復興および壮麗な都市建設計画など、戦中と戦後を見越した需要に対し、膨大な労働力を充てる必要があったこと

などが挙げられる。

劣悪な住環境や食糧事情、蔓延する伝染病、過酷な労働と懲罰、さらには解放直前の数次にわたる被収容者約60,000人の西方への移動により多くが命を落とした。ソ連軍による1945年1月の第一強制収容所解放時には約7,500人の被収容者がおり、西方へ移動した生存者を加えると約50,000人が生き残ったことになる。一方で被収容者全体の9割以上が命を落としたとされる。[9]

すべての強制収容所はヒムラーによってSSの下に集約されており、SSが企業母体[10]となる400以上[11]にも上るレンガ工場はもとより、1941・1942年末以降の軍需産業も体系化された強制収容所の労働力を積極的に活用した。このため、戦後、SSのみならず多くの企業が「人道に対する罪」を理由に連合国などによって裁かれることとなる。

[編集] 各強制収容施設の概要

[編集] アウシュビッツ第一強制収容所(基幹収容所)

航空写真

「死の壁」。多くの被収容者がこの壁の前で銃殺刑に処された
「死の壁」。多くの被収容者がこの壁の前で銃殺刑に処された

1940年5月20日、ドイツ国防軍が接収したポーランド軍兵営の建物をSSが譲り受け開所。約30の施設から成る。平均して13,000~16,000人、多いときで20,000人が収容された。被収容者の内訳は、ソ連兵捕虜、ドイツ人犯罪者や同性愛者、ポーランド人政治犯が主となっており、6月14日には最初の被収容者であるポーランド人政治犯728人が到着している[12]。後に開所する「第二強制収容所ビルケナウ」や「第三強制収容所モノビッツ」を含め、アウシュビッツ強制収容所全体を管理する機関が置かれていた。

入り口には「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」の一文が掲げられている。「B」の文字が逆さまに見えることについて、SSの欺まんに対する作者(被収容者)のささやかな抵抗と考えられている。10号棟には人体実験が行われたとされる実験施設が、11号棟には銃殺刑を執行するための「死の壁」があり、そのほかには、裁判所、病院などがあった。収容施設は、女性専用の監房、ソ連兵捕虜専用の監房となどといった具合に分けられている。また、アウシュビッツ最初のガス室とされる施設がつくられたが、後に強制収容所管理のための施設となった。戦後、ガス室として復元され、一般に公開されている。

[編集] アウシュビッツ第二強制収容所ビルケナウ

航空写真

ガス室があったとされる施設の破壊跡
ガス室があったとされる施設の破壊跡

被収容者増を補うため、1941年10月、ブジェジンカ村に絶滅収容所として問題視される「第二強制収容所ビルケナウ」が開所。総面積は1.75平方キロメートル(東京ドーム約37個分)で、300以上の施設から成る。建設には主にソ連兵捕虜が従事したとされる。ピーク時の1944年には90,000人が収容された。そのほとんどはユダヤ人であり、このほかに主だったものとしてロマ・シンティが挙げられる。

アウシュビッツの象徴として映画や書籍などで見られる「強制収容所内まで延びる鉄道引込み線」は1944年5月に完成。このほか、被収容者から猟奪した品々を一時保管する倉庫や病院(人体実験の施設でもあったとされる)、防疫施設、防火用の貯水槽とされるプール、農家2棟を改造したガス室とされる施設、さらに4つのガス室とされる施設などがあった。ガス室とされる施設は、撤退時にドイツ軍の手によって破壊されている。収容施設は、家族向けの監房、労働者向けの監房、女性専用の監房などに分けられており、1943年以降に建てられた南側の収容施設(全体の3分の1程度)は、収容所のなかでも特に粗末なつくりであったとされる。ここには主に女性が収容された。

[編集] アウシュビッツ第三強制収容所モノビッツ

航空写真

1942年から1944年の間に、当時のドイツを代表する イーゲー・ファルベン社、クルップ社、シーメンス社といった大企業の製造プラントや近隣の炭鉱に付随する形で、大小合わせて40ほどの強制労働を目的とした収容施設がモノビッツ村につくられた。これらの施設群を「第三収容所モノビッツ」と呼ぶ。オシフィエンチム市は鉄道の接続が良く、近郊は石炭と石灰の産出地。さらには内陸に位置することもあり、既存の生産拠点への空襲が危惧されるようになると、安い労働力と併せて特に注目されるようになった。

なかでも最大規模であったのが、700万ライヒマルクを投資して建てられたイーゲー・ファルベン社の合成ゴム・合成石油プラント「ブナ」。同社は、1925年にドイツの化学関連企業6社が合体してできたコンツェルンであり、当時の総合化学業界としては世界を三分するうちの1社であった。また、1936年4月、ナチスによって示された国家の重要な指針をとなる「四ヵ年計画」の遂行にあたって、産業面で大きな役割を果たすなどナチスとは緊密に連携し合う関係にあった。戦後のニュルンベルク裁判では「人道に対する罪」を理由に役員や技術者など被告の24人全員が有罪となり[13]、次いで1948年の「米英占領地区の合同管理理事会」でコンツェルンの解体が決定する[14]。各プラントは連合国軍の爆撃目標とされ、さらには1945年1月の解放の後、ソ連軍によって破壊されたため現在は残っていない。

[編集] 収容所での暮らし

[編集] 選別

ドイツ統治下の各地より貨車で運ばれてきた被収容者は、オシフェンチムの貨車駅(1944年5月以降は第二強制収容所ビルケナウに作られた鉄道引込線終着点)で降ろされ、「収容理由」「思想」「職能」「人種」「宗教」「性別」「健康状態」などの情報をもとに「労働者」「人体実験の検体」、そして「価値なし」などに分けられた。価値なしと判断された被収容者はガス室などで処分となる。その多くが「女性、子供、老人」であったとされる。

ナチスの制定した法の多くがそうであったように、選別は、「法令」に比べ規範(簡単に言えばルール)のあいまいな「訓令(または通達)」を受けて遂行される。そのため規範の細部については「選別担当者」や「選別担当者が所属するグループ」の裁量に任された。「人体実験の検体として”双子”を選別する」といったような規範が、医師のヨーゼフ・メンゲレによって付け加えられたのはその一例である。ここで注意したいのは、通達などの書類に具体的な記述がないからといって「実際にそのような行為はなかった」とは言い切れないということだ。

[編集] 登録

収容の際に撮影された被収容者たち。縦じまの囚人服には、分類のためのマークがつけられている(オシフィエンチム博物館展示)
収容の際に撮影された被収容者たち。縦じまの囚人服には、分類のためのマークがつけられている(オシフィエンチム博物館展示)

即刻の処分を免れた被収容者は、散髪、消毒、写真撮影[15]、管理番号を刺青するなど入所にあたっての準備や手続きを行う。管理番号は一人ひとりに与えられ、その総数は約40万件とされる。私物は「選別」の段階ですべて没収されており、与えられる縦じまの囚人服が唯一の所持品である。最後に各被収容者は特定のコミュニティを形成する収容棟に送られた。

囚人服には「政治犯」「一般犯罪者」「移民」「同性愛者」、さらには「ユダヤ」などを区別するマークがつけられている(ナチ強制収容所のバッジを参照)。これは、強制収容所内にヒエラルキーが形成されていたことを意味し、労働、食事、住環境など生活のあらゆる面で影響を及ぼしたと考えられる。ドイツ人を頂点に、西・北ヨーロッパ人、スラブ人、最下層にユダヤ人やロマ・シンティが置かれ、下層にあればあるほど状況は過酷になり、死亡率も高くなった。心理面では、下層の被収容者がいることで上層の者に多少の安心を与えると共に、被収容者全体がまとまって反抗する機運をつくらせない狙いがあったと考えられる。

[編集] 労働

労働は主に4つのタイプに分けることができる。ひとつ目は被収容者の肉体的消耗を目的とした労働。たとえば、石切り場での作業や道路の舗装工事などを行う「懲罰部隊」がこれに該当する。場合によっては、「午前中は穴を掘り、午後その穴を埋める」といったような、なんら生産性のない作業を命じられることもある。懲罰部隊に組織された被収容者の多くは短期間のうちに死亡したとされる。

ふたつ目は、戦争遂行に欠かせない資材・兵器などの生産や、収容施設の維持・管理などを目的とした労働。工場労働者や各施設の拡張・管理作業などがこれに該当し、何らかの技能や知識(電気工事師、医師、化学者、建築士など)を持つ被収容者が作業にあたった。ただし、懲罰部隊での労働と比較して程度の差こそあれ、劣悪な食料事情や蔓延する伝染病などにより命を脅かされる状況にあったことに違いはない。

三つ目は、所内で死亡した被収容者の処分を目的とした労働。ガス室や病気、栄養失調などで死亡したおびただしい数の遺体を、焼却炉などに運び処分する「ゾンダーコマンド(特別労務班員)」がこれに該当する。比較的待遇は良かったが、一方で口封じのため数ヵ月ごとに彼ら自身も処分されたと言われている[16]

最後は、ほかの被収容者たちを監視する「カポ(労働監視員、収容所監視員などと訳される)」である。主に第一収容所のドイツ人犯罪者から選ばれることが多かったとされ、被収容者ヒエラルキーの頂点に立った。戦後、過酷な懲罰を課したことで裁かれる者もいた。

[編集] 住環境

バラック内部。三段ベッドの下は汚物を流す溝。右端は暖房(第二強制収容所)
バラック内部。三段ベッドの下は汚物を流す溝。右端は暖房(第二強制収容所)

住環境は非常に劣悪であった。第一収容所はもともとポーランド軍の兵営であったため暖房設備は完備されている。しかし、50人用の部屋を200人で使用した結果、三段ベッドの各段に二人ずつが押し込まれ、その上、掛け布団は汚れて穴だらけの毛布のみであった(カポなどSSに協力する者には個室やまともな食事が与えられる)。

第二収容所ビルケナウは囚人の急激な増加に対応するために急遽建てられたもので、バラックと言うべき非常に粗末なつくりであった。湿地の上に基礎工事なしで建てられたため、多くのバラックには床がなく、また、上下水道が完備されていないため地面は土泥化していた(汚水は収容者が敷地内に溝を掘り、そこへ流した)。暖房は簡素なものがあったが、隙間風がいやおうなく吹き込み、その役目を果たしていなかった。排水がままならない不衛生なトイレを真ん中にはさむ形で8人ずつが寝る三段ベッドが並べられ、マットレスのかわりに腐ったわらを敷いていた。

[編集] 食事

収容した側された側双方の証言によると、食料の奪い合いが個人やグループ間で日常的にあったとされる。配給量についてはさまざまな証言があり、ポーランド国立オシフィエンチム博物館に展示されている「朝食:約500ccのコーヒーとは呼ばれる濁った飲み物(コーヒー豆から抽出されたものではない)。昼食:殆ど具のないスープ。夕食:300gほどの黒パン、3グラムのマーガリンなど[17]」は一例で、実際は被収容者間のヒエラルキーや個々の労働能力、さらには収容時期によって待遇にかなりの差があったと見るのが自然だろう。実際、1943・1944年以降は「業績に連結した食料配給体制」[18]が多くの強制労働者に対し実施されている。この制度は劣悪であった強制労働者全体の食糧事情を改善するものではなく、戦況の悪化に伴い厳しくなった食料自給において限られた食料を生産性の高い労働者に優先して配給し、生産の全量的向上を目的としている。一般的なドイツ人の業績を基準に、業績の良い労働者に多くを配給し、逆に悪い労働者は以前よりもさらに減らすというものだが、もともとほとんどの被収容者は一般成人が一日に必要とするカロリーに遠く及ばない量の食料[19]しか与えられていないなかで、比較すること自体無理があり、不幸にも減らされたとなれば死は確実になるばかりである。生き抜くためにほんのわずかな増加分を得ようとする「人間の精神力」に期待しての制度であり、結果として被収容者同士が食料を奪い合うことが日常的に起こるというのは、いかにその状況が過酷であったかを表していると言える。

[編集] 医療

強制収容所内は栄養失調や不衛生な環境によりチフスなどの伝染病が蔓延し、病気・栄養失調による死者はかなりの数に上ったとされる。被収容者の中には医師や看護師などもおり、主に彼らが治療にあたった。医療現場は「第二の選別の場」でもあり、回復が難しいと診断された被収容者は処分施設へまわされることになる。このため、選別が収容所内に知れ渡るまで医師は患者に対して極力入院を拒んだという。一方、ナチスに組み込まれていた当時のドイツ赤十字(DRK)から派遣された医師は、治療以外に選別や人体実験に携わっていたとされる。

[編集] 抑圧

絶望のあまり自ら高圧電流が流れる鉄条網に触れて自殺する者もいたという(第一強制収容所)
絶望のあまり自ら高圧電流が流れる鉄条網に触れて自殺する者もいたという(第一強制収容所)

アウシュビッツ全体の警備は約6,000名のSSによって行われているにすぎず、対して被収容者は最大で14万人を数える。一般予防としての懲罰は、圧倒的多数の被収容者に多大の心理的な抑圧を与えることを目的とし、行使以外にも見せしめによる擬似的な体験、連帯責任制や強烈な恐怖心を抱かせる懲罰の流布などにより、被収容者をコントロールする要となった。一方で、先に触れた「口封じのためにゾンダーコマンドが"数ヵ月おき”に処分される」ことは、これが事実であれば、人種主義的な抑圧も併せることによって発生した「多すぎる死」を被収容者に隠すための処置であり、つまり懲罰はむやみやたらというよりも、被収容者のコントロールと人種主義的な抑圧のバランスの中で計画的に遂行されていたと見ることができる。「絶滅工場」などと隠喩されるのは、つくりだされた死の量的な多さだけでなく、このような「計画的な性質の介在」にも由来すると言えるだろう。

懲罰は「鞭打ち」「後ろ手に縛り体を杭に吊るす」「特別監房への移送」「過重労働(懲罰隊への入隊)」「懲罰点呼」などが挙げられる。いずれも激しい飢餓に苦しむ被収容者にとっては死を意味するものであったと言える。たとえば、90cm×90cmの狭いスペースに4人を押し込む「立ち牢」や、一切の水・食料を与えない「飢餓牢」[20]は、体力を確実に消耗させ、死に至らしめる。永続的に続くかのような苦痛と絶望が介在する懲罰の存在は、被収容者たちに計り知れない恐怖を与えたと考えられる。また「銃殺刑」や「絞首刑」[21]は、具体的な死の姿を瞬間的に見せつけ、しばしば所内にとどろく銃声は直接これを見ずとも緊張と忘れがたい恐怖を植えつけるのに十分であったと言える。絶望のあまり自ら高圧電流が流れる鉄条網に触れて自殺する者もいたという。

抑圧の一方で、被収容者による「オーケストラ」が組織されていたことも事実である。強制収容所到着直後の被収容者には明るい曲を、強制労働に向かう被収容者には行進曲を奏でたとされる。オーケストラの存在は、多くを奪われ、失意のうちにアウシュビッツへ送られてきたばかりの人々にはかすかな希望を与え、日々重労働を課せられる被収容者には逆に腹立たしさを覚えさせた。SSにとっては余興でもあり、その本分は人心を巧みに利用した被収容者に対しての欺まんであったと言える。奏者は特別な待遇を受けることができたが(アルマ・ロゼに概要)、ゾフィア・チコビアクのように、「人々の死に自らの行為が間接的に関与していた」という思いから心に生涯にわたる傷を負った者もいた。

戦後、被収容者としての経験を持つ精神科医たちは、自らの抑圧体験を研究し精神分析学の発展に貢献した。たとえば、精神科医ヴィクトール・フランクルは、実体験を記した著書「夜と霧」で、激しい苦痛の中で精神がどのようにして順応し、内面的な勝利を勝ち得ていくかについて語るとともに、患者に対し実存主義的アプローチを採る「ロゴセラピー」を新たに提唱した。皮肉なことだが、アウシュビッツの功罪で唯一の功の部分であったと言えるかもしれない。

[編集] 大量殺害のための施設(ガス室)

ガス室を備えた複合施設「クレマトリウム2」。最大の規模があったとされる。(1)入り口(2)脱衣室(3)ガス室(4)ガスを投入するための穴(5)遺体運搬のためのエレベータ(6)5つの搬入口から成る焼却炉
ガス室を備えた複合施設「クレマトリウム2」。最大の規模があったとされる。(1)入り口(2)脱衣室(3)ガス室(4)ガスを投入するための穴(5)遺体運搬のためのエレベータ(6)5つの搬入口から成る焼却炉
チクロンBの缶(オシフィエンチム博物館展示)
チクロンBの缶(オシフィエンチム博物館展示)

人種的な抑圧にも通じる「東部ヨーロッパ地域の植民計画」は初期段階において占領したポーランド地域のドイツ化を目的とした。当時のポーランドは農業後進国であり、入植したドイツ人による農業生産の機械化で数百万人の余剰労働者が生まれると試算したナチスは、そこに住むポーランド人やユダヤ人などの資産(農地、工場、住宅など)を接収(時には非常に安い価格で買い上げた)するとともに、強制移住させることを決定する。1942年1月には、同計画について関係機関間における認識の共有化を図り、より強力に推し進めるための「ヴァンゼー会議」が開かれた。しかし、戦況の悪化により移送や移送先の確保が難しいなど計画が行き詰まりを見せ始めると、「特別措置14f13[22]に准じた「大量殺害」に関する研究の意義が増し、各強制収容所でもなされるようになったと考えられる。ダッハウ強制収容所の排気ガスを使った一酸化炭素による中毒死の研究「ガス車」は、事実であれば、一例と言える。

アウシュビッツでは、日々送られてくる被収容者の効率的な殺害の手段として「ガス室」を研究し、実際に用いたとされる。最初のガス施設(クレマトリウム1)は1941年頃に第一強制収容所につくられ、実験をかねてまず約800人のソ連兵捕虜・ポーランド人が送られた。後に第二強制収容所に4つのガス施設(クレマトリウム2~5)[23]が1943年3月~6月にかけて、さらに農家を改造した2つのガス施設(赤い家、白い家)[24]の計7施設がつくられたとされる(第一強制収容所のガス室は、後に強制収容所管理のための施設に改造したとされる)。使用されたガスは「チクロンB」であったと言われており、このガスは防疫施設で伝染病を媒介するノミやシラミの退治にも使用された。死体は、ガス施設に備えられた焼却炉や焼却壕などで処分されたと言われている。作業にはゾンダーコマンドがあたった。

これらの施設は、1944年10月に起きたゾンダーコマンドの反抗による破壊(クレマトリウム4)、ソ連軍の接近を察知したSSによる破壊が原因で、現在当時のままの形をとどめているものはない。オシフィエンチム博物館で閲覧できるクレマトリウム1は復元されたものである。

[編集] 人体実験

ナチスの医師たちは、被収容者をさまざまな実験の検体として使った。いわゆる「人体実験」である。エルンスト・グラビッツカール・ゲップハルトホルスト・シューマンらはスラブ民族撲滅研究のために男女の断種実験、ヨーゼフ・メンゲレは双子や身体障害者、精神障害者を使った遺伝学人類学の研究を行ったとされる。ほかにも新薬投与実験や有害物質を囚人の皮膚に塗布する実験が行われた。実験で命を落としたものは数百人に及び、生き残った人々にも障害が残った。

戦後、同様に人体実験を行った日本の731部隊がアメリカに研究成果を引き渡したことで罪を不問とされたのに対し、ニュルンベルク裁判などはこれらの行為を医療犯罪として裁いた(医療裁判に概要)。また、裁判の結果を受け、医学的研究における被験者の意思と自由を保護する「ニュルンベルク綱領」が示された。

[編集] 赤十字国際委員会(ICRC)とドイツ赤十字(DRK)

この項を記すにあたって、まず「赤十字国際委員会(ICRC)」と「ドイツ赤十字(DRK)」[25]の違いを理解しなければならない。両者を比較し簡単に特徴を述べると、ICRCは「中立性を重視した赤十字組織で、世界中の紛争地域へ介入を行うことを目的とした国際機関である。本部はスイスのジュネーブに置かれている」、一方DRKは「ジュネーブ条約締約国であるドイツに設けられた各国赤十字組織で、活動の中心はドイツ国内である」ということになる(「日本赤十字東京支部」に概要)。特に、戦時中の両者はまったくの別組織であり、ホロコースト研究にあたっては、どちらの赤十字が作成した資料かを見極める必要があることは言うまでもない。

[編集] 輝かしい歴史のなかの汚点 (ICRC)

ドイツに捕らわれた戦争捕虜と対面するICRC委員
ドイツに捕らわれた戦争捕虜と対面するICRC委員

スイス人技術者などは戦時中もドイツ国内を自由に移動でき、強制収容所内の細部についてはさておき、1938年頃より後にもたらされたドイツに関する情報はICRCが注視せざるを得ないものとなった。報告とその理念に基づき各強制収容所に数多くの援助物資を送り続ける一方で、ナチスの非人道的な行いの調査と実効的な手段による行動については消極的であった。理由として、本部の依拠するスイスと当事国であるドイツが国境を接し、産業でも強く結びついていたことにより、永世中立国と言えどもナチスの動向には敏感にならざるを得ない状況であったこと。さらには赤十字の活動には原則当事国の承諾が必要なため表立った非難は状況をさらに困難にすると考えられていたことや、ジュネーブ条約の条項に一般市民(文民)の保護に関する規定がなかった[26]ことなどが挙げられる。特にスイスの国益に関する問題は大きな足かせとなった。1942年当時、ICRC委員でもあったスイス大統領フィリップ・エッターは、断固たる態度を示すことに反対し、ICRC委員長のカール・ブルクハルトは、ファシズムよりも共産主義の拡大を恐れ、その防波堤となるナチスと国際社会の良き仲介者であろうとしたとされる(カール・ブルクハルトがドイツ系スイス人であったことも関係している)。このような状況下で強制収容所に送り込まれた視察員は、意図してつくられた平和的な光景に惑わされることになる[27]。ICRCが実効的な手段を執るようになったのは、ドイツの敗色が濃厚になり、いよいよ残りすべての被収容者を処刑しはじめようとした1945年からのこと。主だった強制収容所にICRC委員を"常駐"させ監視にあたるようになったことで、それまで送り続けていた援助物資が被収容者に確実に届きはじめ、併せて消えかけた命も救われた。

1995年、ICRC委員長コルネリオ・ソマルガは、アウシュビッツ解放50年周年式典に出席するにあたり、当時の対応に誤りがあったことを認め遺憾の意を表明した[28]。ICRCにとってホロコーストは、輝かしい歴史のなかの忘れてはならない汚点であり、教訓となる出来事であったと言える。

[編集] ナチスに組み込まれた赤十字 (DRK)

1933年にイギリスの王族出身でナチス党員のカール・エドワード元公爵が総裁職に(後に国会議員も兼任)、1937年にSS高級将校エルンスト・グラビッツが総裁代行職にそれぞれ就任したことは、DRKがナチスまたはSSの一部局であることを象徴するものであり、後の組織改変を経て決定的となる。赤十字の基本原則である「平等」が破棄されるとともに、ナチスの標榜する人種的な抑圧政策が持ち込まれた。強制収容所の人体実験や選別は、間接的に関係したというあいまいなものではなく、DRKの行為そのものであったと言える[29](DRKの詳細な徽章はこちら)。

1945年4月、エルンスト・グラビッツはベルリンが戦場になるなか、家族を巻き添えにして自害。カール・エドワードは非ナチ化裁判で有罪となり、重い罰金を課せられるとともに、財産のほとんどをソ連に没収された。赤十字の崇高な理念に反するだけででなく、まさに利用していたことは、苦しい時代を生きた人々の信頼を著しく失墜させた。

[編集] 解放

アウシュビッツの子供たち。解放直後とされる
アウシュビッツの子供たち。解放直後とされる

1944年暮頃、ソ連軍の接近に伴い強制収容所および強制労働者の扱いが問題となる。11月には、SSの一部局である「人種・移民局」が「強制労働者を管理組織が独自の判断で処刑するように」との通達を出している。これを受けて産業界は、自らの手を汚すまいと強制労働者をSSに返還することを取り決めており、SS、産業界双方に「解放」という姿勢は見うけられない。

アウシュビッツの被収容者は、なおも活動を続けるドイツ本国の強制収容所に移送されるか、または処刑されるかのいずれかであった。実際は約7,500名が1945年1月27日の解放時にとどまっており、これはソ連軍の急速な接近による混乱、一部証言にある「ドイツへ行くか残るか選ぶことができた」といったような処置[30]、さらには処刑や移送が間に合わなかったなどの可能性が考えられる。移送された被収容者は合計で60,000人に上るとされるが、移送途中にも多くが命を落としている。移送で生き残った者は、別の強制収容所に入れられるだけのことで、実際の解放までに数ヵ月間待たなければならなかった。[31][32]

[編集] 記憶の最後に

人間の特性を探る研究に、アウシュビッツという過酷な状況のなかで愛・美・夢のいずれかを持続した人が生き残った、と結論付けるものがある。以下は、その研究を紹介した佐久間章行著「人類の滅亡と文明の崩壊の回避(丸善プラネット)」p218-219からの引用。

第二次大戦の勝利者である連合軍は、あの過酷なアウシュビッツの環境で最後まで生を維持させた人間の特性に興味を抱き調査団を組織した。その報告が正確であるならば、生命の維持力と身体的な強靭さの間には何の関係も見出せなかった。そして生命を最後まで維持させた人々の特性は次の3種類に分類された。第1の分類には、過酷な環境にあっても「愛」を実践した人々が属した。アウシュビッツの全員が飢えに苦しんでいる環境で、自分の乏しい食料を病人のために与えることを躊躇しないような人類愛に生きた人々が最後まで生存した。第2の分類には、絶望的な環境にあっても「美」を意識できた人々が属した。鉄格子の窓から見る若葉の芽生えや、軒を伝わる雨だれや、落葉の動きなどを美しいと感じる心を残していた人々が最後まで生存した。第3の分類には「夢」を捨てない人々が属した。戦争が終結したならばベルリンの目抜き通りにベーカリーを再開してドイツで一番に旨いパンを売ってやろう、この収容所を出られたならばカーネギーホールの舞台でショパンを演奏して観客の拍手を浴びたい、などの夢を抱くことができた人々が最後まで生存した。

[編集] 現在のアウシュビッツ

慰霊の碑文。この地で150万人が死んだことを後世に伝える(第二強制収容所)
慰霊の碑文。この地で150万人が死んだことを後世に伝える(第二強制収容所)

多くの要人が公式・非公式にかかわらずこの地を訪れている。一例として、1979年にはポーランド出身のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、2006年5月28日にはベネディクト16世が訪問している。ベネディクト16世は「この地で未曽有の大量殺戮があったことは、キリスト教徒として、ドイツ人の教皇として耐え難いことだ」と述べた。年間を通じてイスラエル人学生の修学旅行のルートになっている。日本からの訪問も増えており、多くても200人程度だった年間訪問者が近年は5,000人を超えた。なお、日本国内にはポーランド国立オシフィエンチム博物館から展示物を譲り受けた「アウシュヴィッツ平和博物館」が福島県白河市にある。

[編集] アウシュヴィッツでの死亡者は何名か?

ソ連はアウシュヴィッツを解放してから、しばらくの間、他の西側連合諸国のアウシュビッツ収容所の調査を許可しなかった。その為に、正確な死亡数は判っておらず、その数字については色々な説があるが、近年、客観的な研究結果を踏まえて死亡者総数は減少する傾向にあると言われている。

<900万人説>
フランスで作製されたドキュメンタリー夜と霧 (映画)による。(1955)
<800万人説>
フランス戦争犯罪調査局とフランス戦争犯罪情報サービスによる。(1945)
<500万から550万人説>
Bernard Czardybon による。何名かのSS隊員の自白『ル・モンド』紙による。(1945)
<400万人説>
ニュルンベルク裁判が「顕著な事実」としたソ連側資料による。この数字は、1990年までアウシュヴィッツ=ビルケナウの記念碑に刻まれて、多くの人々によって信じられてきた。しかし、現在では虚偽であるとされ、1995年に150万人と置き換えられた。
<300万人説>
初代アウシュヴィッツ所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスの尋問による自白による。(1946)「私は1943年12月1日までアウシュヴィッツの所長を務め、少なくとも250万人の犠牲者がガス処刑や焼却によって処刑・絶滅され、少なくとも50万人が飢えや疫病で死亡したと推定する。死者の合計は300万人である。」(1946年4月5日、ニュルンベルクの監獄で供述書に署名)現在では、ヘスは尋問中に暴行や拷問を受けた可能性や、弁護人の立会いなしで取調べを長期間に渡って受けるなど、ニュルンベルク裁判の問題点が指摘されており、300万というヘスの証言は信憑性がない、とされている。
<150万人説>
現在のアウシュヴィッツ=ビルケナウの記念碑の数字。1995年に、400万人という数字から差し替えられた。
<125万人説>
100万人のユダヤ人が殺され、25万以上の非ユダヤ人が死亡した。ユダヤ系の歴史家ラウル・ヒルバーグによる。(1985)
<100万人説>
Jean-Claude Pressac による。(1989)
<80万人から90万人説>
歴史家Gerald Reitlinger による。(1953)
<63万人から71万人説>
Jean-Claude Pressac による。(1994)(そのうち47万人から55万人がガス処刑されたユダヤ人であった。)
<50万人説>
Fritjof Meyerによる。(2003)(そのうちガス処刑による犠牲者は35万人であった)

アーサー・R・バッツ(Arthur R. Butz)ら歴史修正主義者たちは、アウシュヴィッツの死者の総数は「15万に達するが、そのうち約10万がユダヤ人であった。」大半のユダヤ人は殺されたのではなく、とくにチフスの疫病によって死んだのである。殺虫剤チクロンBはガス処刑にではなくチフスを媒介するシラミを駆除するために使用されたと主張している。

[編集] 否認主義(または修正主義)

ガス室の存在や劣悪な環境など、さまざまなな要素に対して捏造であるといった主張は後を絶たない。詳細については「ホロコースト否認」「ホロコースト否認論の考察」を参照。

[編集] 世界遺産

1979年、第一・第二強制収容所の遺構は第二次世界大戦における悲劇の証拠であり後世に語り継ぐべきものとして、ユネスコ世界遺産に登録された(負の世界遺産)。

[編集] 改名提案

ポーランド政府はかねてから「ポーランド人が作ったかのような印象を与える」として世界遺産登録名称の変更を要請していた。2007年6月27日、ユネスコ世界遺産委員会は「アウシュビッツ強制収容所」から「アウシュビッツ・ビルケナウ - ドイツ・ナチの強制・絶滅収容所(1940年-1945年)」への名称変更を承認した。

[編集] 登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準における「顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰、または、芸術的、文学的作品と、直接に、または、明白に関連するもの」などの基準を満たしているとの理由から登録された。

[編集] 付記

  1. ^ 東部併合地域から全てのユダヤ人と300 ~400 万人に及ぶポーランド人を移送し、入れ替わりに20 万のドイツ人を入植させる計画。
  2. ^ アウシュビッツ全体を管理する組織が置かれていたため、基幹収容所と呼ばれる。
  3. ^ 1943年12月まで所長として強制収容所を指揮。後任はアルトゥール・リーベヘンシェル。さらにその後任で最後の所長はリヒアルト・ベイアー(戦後、フランクフルト・アウシュビッツ裁判で被告となるが収監中に死亡)。
  4. ^ 当初「ブナ収容所」と呼ばれていたが、1944年以降は「モノビッツ収容所」に改称。
  5. ^ 前記の収容理由以外に、労働者の一般募集も行い、工場などへ派遣していた。労働力不足が顕著になってからは、募集のほかに、強制的に占領地の住民を連行するようになる。
  6. ^アンネの日記」「ハンナのかばん」などが有名。
  7. ^ 到着直後の処分を免れた被収容者には、一人ひとりに管理番号が与えられており、この総数が約40万件とされる。被収容者の30%に番号が与えられたとして、単純にこれらの数字を参考に総数を試算した場合「133万人」となる。25%だとすると「160万人」。しかし、これは仮定的な数値でしかない。
  8. ^ 戦況が悪化して労働力の確保が難しくなると、人道的な観点からではなく、生産を落とさないために労働者の再生産について考慮されるようになるが、同時に食料自給も悪化しており、結局は、より厳しい状況に労働者はおかれるだけであった。
  9. ^ 終戦直後のソ連は「400万人が虐殺された」と発表したが、現在では誇張の可能性が高いと見るむきが強い。ビルケナウ強制収容所跡にある慰霊碑に刻まれた死亡者数は、東西冷戦終結後の1995年に「400万人」から「150万人」に改められ、世界遺産に登録したユネスコの2007年6月28日のリリースには「120万人」と記載されている。近年、客観的な研究結果を踏まえて死亡者総数は減少する傾向にあるが、被収容者総数同様、確定的な数値の把握にはいたっていない。
  10. ^ 持ち株会社のドイツ経済企業有限会社(DWB)、ドイツ装備品産業有限会社 (DAW)、ドイツ食糧試験所がSSの運営する企業。ドイツ食糧試験所はダッハウ強制収容所に調味料確保のためのハーブ栽培施設をつくったことでも知られる。
  11. ^ 1940年1月現在の工場数。
  12. ^ 3年後に脱出し、アウシュビッツの証言者となったカジミェシ・アルビンも含まれていた。
  13. ^ 戦後、ユダヤ人がイーゲー・ファルベン社に対して起こした損害賠償と慰謝料を求める民事訴訟は、1957年に和解が成立。和解金として3,000万マルクが(このうち2,700万マルクがユダヤ人団体に、300万マルクが非ユダヤ人強制労働者に)支払われている。
  14. ^ BASF社、バイエル社ヘキスト社の3社に分割された。
  15. ^ 「正面」「正面を向き視線を右上に上げたもの」「横向き」の写真を撮影された。
  16. ^ 例外的なケースとしてフィリップ・ミューラーの件が挙げられる。彼自身の証言によれば1942年春から年末までゾンダーコマンドであったが、後に別の労働に移ることになり生き残ることができたとしている。彼はニュルンベルク裁判で証言台に立った。
  17. ^ アウシュビッツ徹底ガイド 6号棟その2「日々の生活」
  18. ^ 各労働者の労働力を3つのランク(ランク1.一般的ドイツ人の業績の100%以上、ランク2.100%~90%、ランク3.90%以下)いずれかに評価し、与えられたランクに応じて食料を配給する制度。産業界は生産性の向上を目的に労働者の再生産環境向上を1943年頃より求めている。背景には、食料自給状況の悪化のほかに、東部戦線の停滞さらには、ソ連軍の反攻による強制労働者確保の行き詰まりが挙げられる。
  19. ^ たとえば、スラブ人に対しては、最低レベルに属するドイツ人労働者のさらに半分などと規定されていた。
  20. ^ 後に聖人に列せられたマキシミリアノ・コルベ神父は、他人の身代わりとしてこの餓死牢に入っている。
  21. ^ 絞首刑には移動式の絞首刑台なども用いられた。見せしめによる精神的抑圧を第一の目的としていると言える。
  22. ^ 占領地にSSが赴き、ユダヤ人や政治犯を殺害するというもの。強制収容所の管理も同じSSが行っている点に注目すると、占領地での殺戮行為が強制収容所内に持ち込まれてもおかしくはない状況と言える。
  23. ^ ヘースの証言によると、クレマトリウム4と5には資材不足から換気設備が備え付けられていなかった。すべてのガス施設での作業にはガスマスクが必要であったとする証言もある。
  24. ^ または「ブンカー」とも呼ばれる。
  25. ^ バイエルン赤十字(BRK)もこれに含まれる。
  26. ^ 1949年に改定(第4項)。
  27. ^ 元視察員のモーリス・ロッセルはBBCのインタビューに対し、強制収容所の状況を自らの安全を考慮した上で直接現地から"正直"に報告することの難しさを述べている。
  28. ^ コルネリオ・ソマルガはBBCのインタビューに対し、政治にかかわる人間がICRC委員であったことに問題があったとも述べている。
  29. ^ 1939年から1941年に実施されたT4作戦にも関与した。
  30. ^ ただし、ナチスはドイツ国内で他民族(スラブ人など)が労働することを許可しない傾向にあり、もしこのような処置があったとしてもすべての被収容者に対してとは考えにくい。また、当時からソ連の体制に対する恐怖が一般大衆に少なからずあったことも事実であり、自主的な選択はもちろん、強制収容所という特殊な環境下においてこの恐怖を利用してトイツ移送を誘導的に承諾させたとも考えられる(ストックホルム症候群)。
  31. ^ アウシュビッツなどの強制収容所から解放され帰還したソ連兵捕虜、一般ソ連人(ソ連邦に属する人々)の多くは、敵に協力した反逆者としてソ連によって教化施設(強制労働施設)に送られることになる。
  32. ^ 強制収容所に残り、ソ連軍に解放された人々についても必ずしも安全が保障されたわけではなかったとする証言もある。ソ連は解放から約ひと月の間、他の連合諸国がアウシュビッツに立ち入ることを許可しなかった。このことが後にさまざまな疑念を生むひとつの原因にもなる。

[編集] 主な人物(五十音順)

[編集] 被収容者

  • アルマ・ロゼ, 音楽家。アウシュビッツのオーケストラを指揮。1944年4月4日、同強制収容所で死亡。死因は中毒死。

[編集] 加害者的立場でアウシュビッツに関与した人物

[編集] その他

[編集] 関連項目

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