アンネの日記
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『アンネの日記』(アンネのにっき)は、ドイツ系ユダヤ人少女アンネ・フランクによる日記様の文書。第二次大戦の最中、ナチス・ドイツ占領下のオランダ・アムステルダム。ナチスの追及をかわし、隠れ家に潜んだ8人のユダヤ人達の生活を活写したもの。執筆は密告(密告者の詳細はいまだ不明)によりドイツ秘密警察に捕まるまでのおよそ2年間に及んだ。彼女の死後、父オットー・フランクの尽力によって出版され、世界的ベストセラーになった。
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[編集] 内容
1942年6月12日から1944年8月1日まで記録されている。
アンネの日記は、一少女の内的葛藤と成長を描き出した作品であるとされている。第三者(アンネはキティーと呼称)に宛てた手紙を模した独特な表現スタイルは、内面の吐露をより印象深いものにする。特に際立つのが、早熟さ、そして鋭い観察力と批判精神である。それは時に、他者に対して辛辣過ぎる程ですらある。
作中に、何か決定的なドラマがあるわけではない。むしろ逮捕以後の悲惨さとは対照的に、幾つかのエピソードを除いて、他愛のない日常が記録されているに過ぎない。戦争、そしてゲシュタポの影に怯えながらも、作品全体を貫く印象は明るく、時に絶望することがあってもそれに押し潰されることはない。隠れ家という閉塞された空間の中でも、将来への希望を失うことはないのである。
しかし、その将来が無残に断ち切られることによって悲劇性が加速する。作品は、若年者が戦争、人種差別、ホロコーストなどについて考える一助となっている。
[編集] 主な登場人物
主要な登場人物はアンネと一緒にアムステルダム市プリンセンフラハト263番地の隠れ家に隠れていた7人の同居人である。
- アンネ・フランク(日記上では「アンネ・アウリス」のち「アンネ・ロビン」名を名乗る。逮捕後、ベルゲン・ベルゼン強制収容所で死亡)
- オットー・フランク(アンネとマルゴットの父。逮捕された後も戦後まで生き延び、娘アンネの日記を出版した)
- エーディト・フランク(アンネとマルゴットの母。オットーの妻。しばしばアンネと衝突したことが日記から窺われる。逮捕後、アウシュヴィッツ強制収容所で死亡)
- マルゴット・フランク(アンネの姉。日記からはペーターとアンネの関係に複雑な思いを寄せる様子が窺える。逮捕後、ベルゲン・ベルゼン強制収容所で死亡)
- ペーター・ファン・ペルス(アンネと恋愛関係になる少年。ただ二人の関係はキス止まりだった。日記上では「アルフレート・ファン・ダーン」。逮捕後、マウトハウゼン強制収容所で死亡)
- ヘルマン・ファン・ペルス(ペーターの父。日記上では「ハンス・ファン・ダーン」。日記からはフランク一家と摩擦が多かった事が窺われる。逮捕後、アウシュヴィッツ収容所で死亡)
- アウグステ・ファン・ペルス(ヘルマンの妻、ペーターの母。日記上では「ペトロネッラ・ファン・ダーン」。ヘルマン同様フランク一家と摩擦があったことが日記から窺われるが、コミカルな性格が描写されている事も多い。逮捕後、死亡するがいずれの収容所へ送られたか不明)
- フリッツ・プフェファー(歯科医。日記上では「アルベルト・デュッセル」。愛人がいたが、愛人はユダヤ人でないため、一人だけで隠れ家に合流。アンネと折り合いが悪く、日記の中で頻繁に悪役にされる。逮捕後、ノイエンガンメ強制収容所で死亡)
[編集] 日記の成立
1944年8月4日の午前10時から10時半頃、隠れ家に潜んでいた8人のユダヤ人は、何者からかの密告を受けて出動したアムステルダム駐留の保安警察(SD)の職員たち(カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー親衛隊曹長と数名のオランダ人ナチ党員)によって逮捕された。彼らを匿っていたヴィクトル・クーフレルとヨハンネス・クレイマンの2人も連行された。しかし女性だったミープ・ヒースとエリーザベト・フォスキュイルは逮捕を免れた。
逮捕されたユダヤ人8人の中で戦後を迎えることができたのは、オットー・フランクのみである。アンネを始めとした他のユダヤ人7名はそれぞれの移送先の強制収容所で死亡した。
保安警察が去ると、ミープ・ヒースとエリーザベト・フォスキュイルは床の上に散乱した文書をすぐに回収した。それらのテキストは、戦後アムステルダムに戻ったオットーに渡された。彼はこの文書を編集してまとめ、アンネやフランク一家をよく知る人のために私家版として配った。やがてこの文書の存在は広く社会に知られるようになり、周囲の声に推され、本格的な出版に踏み切ることになる。最初の版1947年にオランダのコンタクト社から発売された。
アンネは隠れ家のことを、その形から『ヘット・アハターハウス(Het Achterhuis=直訳すると「後ろの家」)』と名づけていたが、これはオランダ語版の『日記』のタイトルとなった。
[編集] 各国語への翻訳
『アンネの日記』は世界中でベストセラーになった。翻訳された言語は55言語、出版部数は2,500万部を超えるといわれている。
日本でも1952年に文藝春秋から皆藤幸蔵の訳で『光ほのかに - アンネの日記』のタイトルで出版された。その後『光ほのかに』という訳書が他に存在することが判明し、副題の『アンネの日記』が日本語での正式なタイトルとなった。2004年現在、同じく文藝春秋からは深町眞理子訳出のものがラインナップされている。しかし出版当初は、日本がこの書物を発行する事に対する風当たりが極めて強かった。なぜなら日本は、ナチスドイツの同盟国でありアムステルダム市民からは「アンネを殺したナチスと日本は同罪だ」という考えを持たれていたからである。現に訳者の1人がアムステルダムの本屋でアンネに対する文献を探していたところ、市民連中から「お前ら日本人に、アンネの事が分かってたまるか!」と店からつまみ出されたり、本屋によっては「日本人にはアンネの書物は売れない」と拒否されたりしている。
[編集] 日記のオリジナル性
作家志望だったアンネ・フランクは、手始めに自分の『日記』を出版することを考えており、書き溜めたものを推敲する作業を自ら進めていた。よって、日記にはオリジナル原稿と、彼女自身の清書による改訂稿の二つが存在する。これらはどちらも完全な形では残っておらず、アンネの死後、オットー・フランクによって、オリジナル原稿と改訂稿を相互補完する形で縮約編集された。いわば私家版である。
出版に当たっては、編集の過程で第三者によるさらなる本文の削除や訂正などがあった。削除箇所の多くは母親への辛辣な批判である。その他に第三者に関する批判(ファン・ペルス夫妻など)、若干の退屈なエピソード、性の目覚め、存命中の者のプライバシーを守るための配慮などがあった。上記のような編集が加えられたことにより、書店に並んだ日記はアンネ・フランクが書いたものと一字一句同一とはいえないが、内容は概ねアンネ・フランク自身のものと一致しており、1960年及び1981年の文書鑑定では、「これらの編集作業は日記のオリジナリティーを損なうものではない」と結論付けられた。オットー・フランクの死後、原本はオランダ国立戦時資料研究所に寄付され、そこで科学的調査がおこなわれた。その結果、原本に使われている紙・インク・糊は当時のオランダで入手可能なものであり、原本自体はアンネ自身によって書かれたものであると最終報告された。また1990年、ハンブルク地方裁判所は、原本が真筆であると結論した。
なお、削除箇所については後の版で増補されており、2004年現在、原テキストに近い形で刊行されている。また、原本を保管しているオランダ国立戦時資料研究所による「アンネの日記 研究版」では、3種のバージョンの比較、日記の信憑性に対する攻撃の経緯、筆跡鑑定、インクや紙に関する科学的調査などについて研究結果が詳述されている。
[編集] 日記の真贋に関する論争の歴史
第二次世界大戦後10年の間にアンネ・フランクの名が広く知れ渡り、ナチスの残虐行為が明らかになるにつれ、まずホロコースト否認論者により、アンネへの中傷や、アンネの存在自体への懐疑、日記の信憑性に対する疑問が呈された。
1958年、「アンネが実在したというならば、アンネを捕まえた人間を見つけ出してみせろ」というホロコースト否認論者からの主張を受けて、ナチ・ハンターとして著名なサイモン・ヴィーゼンタールは、アンネらを逮捕した人物の調査を開始した。ヴィーゼンタールはその人物、元ゲシュタポで、オランダではナチス親衛隊保安部(SD)曹長をしていたカール・ヨーゼフ・ジルバーバウアーを1963年に探し出し、アンネが実在したことを証明した。インタビューによって、ジルバーバウアーは戦時中の行為をすぐさま認め、アンネ・フランクの写真を見て、彼が逮捕した人々の一人であると確認した。彼の供述は、オットー・フランクらの供述と合致した。
1959年、アンネの日記は捏造であると勤務先の学校内文書に書いた、元ヒトラーユーゲントで、当時は教師をしていたローサー・シュティーラウに対して、オットー・フランクはリューベックで訴訟を起こした。1960年、裁判の結果、法廷は日記が本物であるとの裁定を下した。シュティーラウは主張を撤回し、オットー・フランクはその件についてそれ以上の追及をしなかった。
1970年代中頃、イギリスのホロコースト否認論者デイヴィッド・アーヴィングは、日記は偽物であると表明した。
1976年、日記が偽物であるというパンフレットをフランクフルトで配布したハインツ・ロースに対して、オットー・フランクは訴訟を起こした。裁判所は、ロースがこれ以上そのような声明を出版した場合、50万ドイツマルクの罰金と6ヶ月の懲役を科すとの裁決を下した。1978年と1979年の同様な二つの訴訟については、オットー・フランクのような被害者自身による告訴ではなかったため、言論の自由の見地から裁判所はその訴えを棄却した。
アンネの日記は捏造であると糾弾した二人のネオナチ、エルンスト・レーマーとエドガー・ガイスが逮捕された時、日記の真贋に関する議論は最も白熱した。彼等が上訴している間、歴史家チームがオットー・フランクと協議して原本の調査を行い、日記は本物であると結論したが、1978年にレーマーとガイスの上訴に関して、ドイツの内務省に属する犯罪調査局(Bundeskriminalamt: BKA)は、原本の紙とインクの種類の科学調査を依頼され、「日記をルーズリーフに書く際に使用されたインクは戦時中のものであるが、ルーズリーフに後からなされた訂正は黒、緑、青のボールペンによって書かれている」との報告を裁判所に提出した。BKAはボールペンでの訂正について詳細な証拠を外部に示さなかったが、日記の正当性を疑う人々はこの点に注目した。ボールペンは第二次世界大戦の終戦以前は一般的ではなかったためである。(ボールペンが一般的になったのは1950年以後である)
1986年、原本を保管するオランダ戦時資料研究所は、さらに詳細な科学的調査の結果を報告した。その際、どの部分がボールペンでの訂正部分なのか指摘するように求められたBKAは、その部分を指摘する事が出来なかった。オランダ戦時資料研究所自体は、アンネ・フランクのルーズリーフに挿入されたボールペンによって書かれた2枚の紙を確認していた。1987年、ハンブルグの心理学者で裁判所から鑑定依頼される筆跡のエキスパートであるハンス・オクルマンは、彼の母ドロシー・オクルマンがミナ・ベッカーと共同して日記の調査を行ったときに、そのボールペンのテキストをドロシーが書いたことを明らかにした。2003年に出版された修正版の日記では、問題となった2枚の紙の写真が掲載されている。

