インドネシア

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インドネシア共和国
Republik Indonesia(インドネシア語)
インドネシアの国旗 インドネシアの国章
国旗 (国章)
国の標語:Bhinneka Tunggal lka
(古ジャワ語: 多様性の中の統一)
国歌大インドネシア
インドネシアの位置
公用語 インドネシア語
首都 ジャカルタ
最大の都市 ジャカルタ
政府
大統領 スシロ・バンバン・ユドヨノ
首相 なし
面積
総計 1,919,440km215位
水面積率 4.8%
人口
総計(2012年 247,000,000人(4位
人口密度 124人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 4,954兆0,289億[1]ルピア
GDP(MER
合計(2008年 5,117億[1]ドル(26位
GDP(PPP
合計(2008年 9,082億[1]ドル(15位
1人あたり 3,986[1]ドル
独立
 - 宣言
 - 承認
オランダより
1945年8月17日
1949年12月27日
通貨 ルピアIDR
時間帯 UTC (+7 ~ +9)(DST:なし)
ISO 3166-1 ID / IDN
ccTLD .id
国際電話番号 62

インドネシア共和国(インドネシアきょうわこく)、通称インドネシアは、東南アジア南部に位置する共和制国家。首都はジャワ島に位置するジャカルタ

5,110kmと東西に非常に長く、また世界最多の島嶼を抱える国である。赤道にまたがる1万8,110もの大小の島により構成されるが、この島の数は人工衛星画像から判別したものであり、正確な島の数はインドネシア政府すら把握していない[2]。数年がかりで島の数を数え直したところ、2013年11月12日、島の数は従来より4000ほど減って1万3466だった事が明らかとなった[3]。人口は2億3000万人を超える世界第4位の規模であるが、その大多数はイスラム教徒であり、世界最大のイスラム人口国としても知られる。

島々によって構成されている国家であるため、その広大な領域に対して陸上の国境線で面しているのは、東ティモールティモール島マレーシアカリマンタン島(ボルネオ島)パプアニューギニアニューギニア島の3国だけである。

海を隔てて近接している国は、パラオインドアンダマン・ニコバル諸島)、フィリピンシンガポールオーストラリアである。

東南アジア諸国連合(ASEAN)の盟主とされ、アセアン本部もインドネシアの首都ジャカルタにある[4]。そのため、2009年以降、アメリカ、中国など50か国あまりのASEAN大使が、ASEAN本部のあるジャカルタに常駐[5]。日本も、2011年(平成23年)5月26日、ジャカルタに東南アジア諸国連合(ASEAN)日本政府代表部を開設し、ASEAN大使を常駐させている[6]

国名[編集]

正式名称は Republik Indonesiaインドネシア語: レプブリク・インドネシア)、略称は RI(インドネシア語: エル・イー)。

公式の英語表記はRepublic of Indonesia 、略称は Indonesia ([ˌɪndoʊˈniːziə] または [ˌɪndəˈniːʒə]) 。

日本語表記はインドネシア共和国、略称はインドネシア。漢字表記は印度尼西亜、略称は

国名インドネシア(Indonesia)のネシア(nesia)は諸島を意味する接尾辞ギリシャ語を意味するネソス (nesos) の複数形ネシオイ (nesioi) に由来する。1920年代に定着した。

国旗[編集]

上部に赤、下部に白の2色で構成されている。モナコ公国国旗と類似しているが、インドネシアは2:3、モナコ公国は4:5と縦横比が異なる。ポーランドとも国旗が似ているが、ポーランドの場合は上が白、下が赤と、上下が逆である。

国章は、「ガルーダ・パンチャシラ」と呼ばれる。ガルーダはインド神話に登場する伝説上の鳥で、ヴィシュヌ神の乗り物と言われる。鷹のような図柄である。翼の羽毛は左右それぞれに17枚ずつ、尾の羽毛は8枚、尾の着け根の羽毛は19枚、首の羽毛は45枚で、独立宣言をした1945年8月17日の数字を表している。[7]

歴史[編集]

インドネシアの先史時代は、様々な出土品から石器時代金属器時代の二つに大きく分けることができる。

石器時代[編集]

人類が使用するいろいろの道具石器で作っていた時代である。なお当時は、石器のみではなく、からの利器や器具、道具が作られていた。この石器時代をさらに旧石器時代、中石器時代、新石器時代、巨大石器時代の四つに分けることができる[8]

王国時代[編集]

のちにインドネシアとなる地域に住んでいたマレー系の人々は、紀元前1世紀頃から来航するインド商人の影響を受けてヒンドゥー教文化を取り入れ、5世紀頃から王国を建国していった。諸王国はインドと中国をつなぐ中継貿易の拠点として栄え、シュリーヴィジャヤ王国クディリ王国シンガサリ王国マジャパヒト王国などの大国が興亡した。12世紀以降はムスリム商人がもたらしたイスラム教が広まり、人々のイスラム化が進んだ。

オランダ統治開始[編集]

16世紀になると香辛料貿易の利を求めてポルトガルイギリスオランダが相次いで来航し、17世紀にはバタヴィアジャカルタ)を本拠地としたオランダ東インド会社による覇権が確立された。

オランダ人は18世紀マタラム王国の分割支配によりジャワ島19世紀アチェ戦争英語版によりスマトラ島をほとんど支配するようになる。この結果、1799年にオランダ東インド会社が解散され、1800年にはポルトガル領東ティモールを除く東インド諸島のすべてがオランダ領東インドとなり、ほぼ現在のインドネシアの領域全体がオランダ本国政府の直接統治下に入った。

ただし、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)は1795年にフランス革命軍に占領されて滅亡し、バタヴィア共和国(1795年ー1806年)、ホラント王国(1806年ー1810年)と政体を変遷した。インドネシアは、1811年から1815年のネーデルラント連合王国建国まで英国領であった。

1819年、イギリスのトーマス・ラッフルズシンガポールの地政学上の重要性に着目し、ジョホール王国の内紛に乗じてシンガポールイギリス東インド会社の勢力下に獲得したことにオランダが反発し、1824年、イギリス・オランダ両国が英蘭協約を締結。オランダ領東インドの領域が確定した。

独立運動[編集]

オランダによる過酷な植民地支配下で、20世紀初頭には東インド諸島の住民による民族意識がめばえた。ジャワ島では、1908年5月20日ブディ・ウトモが結成され、植民地政府と協調しつつ、原住民の地位向上をはかる活動に取り組んだ。設立日である5月20日は「民族覚醒の日」と定められている。

1910年代にはイスラームを紐帯とするサレカット・イスラームが東インドで大規模な大衆動員に成功し、1920年代にはインドネシア共産党が労働運動を通じて植民地政府と鋭く対立した。インドネシアの民族主義運動が最高潮を迎えるのは、1927年スカルノによるインドネシア国民党の結成と、1928年の「青年の誓い」である。

インドネシア国民党の運動は民族の独立(ムルデカ)を掲げ、青年の誓いでは唯一の祖国・インドネシア、唯一の民族・インドネシア民族、唯一の言語・インドネシア語が高らかに宣言された。しかし、インドネシア共産党は1927年末から1928年にかけて反乱を起こしたことで政府により弾圧され、スカルノハッタが主導する民族主義運動も、オランダの植民地政府によって非合法化された。スカルノらの民族主義運動家はオランダにより逮捕され、拷問を受けた末に長く流刑生活を送ることになり、以後の民族主義運動は冬の時代をむかえることになった。

日本軍政[編集]

ジャワ島内を進撃する日本軍

オランダの植民地支配が1942年日本軍の東インド一帯への侵攻によって瓦解し、東インドは日本陸軍の今村均中将率いる軍政下に置かれ、台湾支配のノウハウをインドネシアに応用した。日本はインドネシア人に対する緩和政策を基本とし[要出典]大東亜政略指導大綱にもとづき東インドを大日本帝国領土とする方針を決定した。石油が欲しかった日本軍は海軍も陸軍もそれぞれが分割統治し、海軍はボルネオの油田を、陸軍はスマトラの油田を保有した[9]

まず日本はオランダに囚われていたスカルノやハッタらを解放し、日本軍政への協力を求めた。スカルノ、ハッタは日本軍政当局による人員、資源などの動員に協力しながら、与えられた公的ポストを活用して民衆の民族意識を鼓舞し、またこれに対し日本軍政当局の一部も協力した。これに併せて日本はオランダ支配下で迫害されていたイスラム教の存在を認めた他、オランダ統治時代に行われていたオランダ語による住民教育にかわって、インドネシア語と日本語による教育を行った[要出典]

民衆は当初オランダを追い払った日本軍を歓迎したが、すぐにそれが幻想であることに気付いた。民族運動は取り締まられ、42年3月には結社・集会の禁止、6月には言論・行動・示唆・宣伝の禁止がなされ、学校では日本語教育を強制し、民族旗や民族の歌を禁止し反抗すれば投獄、拷問、殺害も行われた[10]。イスラム教に対しては当初民心把握のために積極的に支援したが、ここでも宮城遥拝を義務づけたため聖地メッカと逆の方向へ向かって頭を下げる行為はイスラム教徒に怒りと反発を呼んだ[11]。また泰緬鉄道の建設やインドネシア諸島の軍工事、石油の開発のために労務者の動員がなされ、その人数は日本側では20万から30万人だが、インドネシア側では410万人に上り、南方では粗末な食料とともに送りこまれその9割は故郷に帰還できなかったという[12]

また、日本は1943年中盤以降のアジア・太平洋地域における戦局悪化の趨勢を受けてジャワ、スマトラ、バリの現地住民の武装化を決定し、募集したインドネシア人青年層に高度の軍事教練を施した[要出典]。それらの青年層を中心に、ジャワでは司令官以下すべての将兵がインドネシア人からなる郷土防衛義勇軍(ペタ)が発足した。こうして日本軍政期に軍事教練を経験した青年層の多数が、後の独立戦争期に結成される正規、非正規の軍事組織で、中心的な役割を果たすことになった[要出典]

インパール作戦の失敗によってビルマ方面の戦況が悪化すると、日本はインドネシアの独立の方針を推し進め、1944年9月にはインドネシア国旗の掲揚と国歌の斉唱を解禁した他、1945年にはまず独立準備調査会を発足させて憲法草案を起草させ、次いで同年8月初頭に独立準備委員会を発足させた[13]。そして同年8月18日に第1回会合を開催し、同年8月24日にはインドネシアの独立が認められる見込みであった[14]

インドネシア独立戦争[編集]

インドネシア人により使用された日本軍の軽戦車

しかし、1945年8月15日に日本がオランダを含む連合国軍に降伏し、念願の独立が反故になることを恐れたスカルノら民族主義者は同17日、ジャカルタのプガンサアン・ティムール通り56番地で独立を宣言した(独立宣言文の日付は皇紀を用いている)。しかし、これを認めず再植民地化に乗り出したオランダと独立戦争を戦うことを余儀なくされた。インドネシア人の側は、外交交渉を通じて独立を獲得しようとする外交派と、オランダとの武力闘争によって独立を勝ち取ろうとする闘争派との主導権争いにより、かならずしも足並みは揃っていなかったが、戦前の峻烈な搾取を排除し独立を目指す人々の戦意は高かった。

独立宣言後に発足した正規軍だけでなく、各地でインドネシア人の各勢力が独自の非正規の軍事組織を結成し、降伏後に日本軍兵器庫から奪ったり、連合国軍に対する降伏を潔しとしない日本軍人の一部がばら撒いたり横流しした武器や弾薬で武装化した。これらの銃器の他にも、刀剣竹槍棍棒毒矢などを調達し農村まで撤退してのゲリラ戦や、都市部での治安を悪化させるなど様々な抵抗戦によって反撃した。

また、この独立戦争には、スカルノやハッタらインドネシアの民族独立主義者の理念に共感し、軍籍を離脱した一部の日本人2,000人(軍人軍属)も加わって最前列に立って戦い、その結果1,000人が命を落とした。

他方でインドネシア政府は第三国(イギリスオーストラリアアメリカ合衆国)などに外交使節団を派遣してインドネシア独立を国際的にアピールし、また、発足したばかりの国際連合にも仲介団の派遣を依頼して、外交的な勝利にむけても尽力した。結果として、1947年8月1日に国際連合安全保障理事会で停戦および平和的手段による紛争解決が提示された。

独立戦争は4年間続き、オランダに対する国際的な非難は高まっていった。最終的にインドネシアの共産化を警戒するアメリカの圧力によって、オランダはインドネシア独立を認めざるを得なくなった。

独立承認[編集]

こうした武力闘争外交努力の結果、1949年12月のオランダ-インドネシア円卓会議英語版(通称、ハーグ円卓会議)で、インドネシアはオランダから無条件で独立承認を得ることに成功した。植民地独立においては、植民地時代に抱えていた債務を引く継ぐことが求められ、60億ギルダーの債務が残されたが、うちオランダ向け債務20億ギルダーを免除することにオランダは同意した。

スカルノ時代[編集]

インドネシア初代大統領スカルノ

オランダからの独立後、インドネシアは憲法(1950年憲法)を制定し、議会制民主主義の導入を試みた。1955年に初の議会総選挙を実施、1956年3月20日、第2次アリ・サストロアミジョヨ内閣が成立した。国民党、マシュミ、NU の3政党連立内閣であって、インドネシア社会党(PSI)、共産党は入閣していない。この内閣は5カ年計画を立てた。その長期計画は、西イリアン帰属闘争、地方自治体設置、地方国民議会議員選挙実施、労働者に対する労働環境改善、国家予算の収支バランスの調整、植民地経済から国民の利益に基づく国民経済への移行により、国家財政の健全化を図ることなどである。[15]

しかし、民族的にも宗教的にもイデオロギー的にも多様なインドネシアで、各派の利害を調整することは難しく、議会制は機能しなかった。また、1950年代後半に地方で中央政府に公然と反旗を翻す大規模な反乱が発生し(ダルル・イスラーム運動英語版カルトスウィルヨ英語版の反乱、カハル・ムザカル英語版の反乱、プルメスタの反乱英語版)、インドネシアは国家の分裂の危機に直面した。

この時期、1950年憲法の下で権限を制約されていたスカルノ大統領は、国家の危機を克服するため、1959年7月5日、大統領布告によって1950年憲法を停止し、大統領に大きな権限を与えた1945年憲法に復帰することを宣言した。ほぼ同時期に国会を解散して、以後の議員を任命制とし、政党の活動も大きく制限した。スカルノによる「指導される民主主義」体制の発足である。この構想は激しい抵抗を受け、中部・北・南スマトラ、南カリマンタン・北スラウェシのように国内は分裂した。ついに、スカルノはインドネシア全土に対し、戒厳令を出した[16]

スカルノは、政治勢力として台頭しつつあった国軍を牽制するためにインドネシア共産党に接近し、国軍と共産党の反目を利用しながら、国政における自身の主導権を維持しようとした。この時期さかんにスカルノが喧伝した「ナサコム(NASAKOM)」は、「ナショナリズム(Nasionalisme)、宗教(Agama)、共産主義Komunisme)」の各勢力が一致団結して国難に対処しようというスローガンだった。1961年12月、オランダ植民地のイリアンジャヤに「西イリアン解放作戦」を決行して占領。1963年5月にインドネシアに併合されると、反政府勢力(自由パプア運動英語版en:National Committee for West Papua)によるパプア紛争1963年–現在)が勃発した。

スカルノの「指導される民主主義」は、1965年9月30日事件によって終わりを告げた。国軍共産党の権力闘争が引き金となって発生したこの事件は、スカルノからスハルトへの権力委譲と、インドネシア共産党の崩壊という帰結を招いた(これ以後、インドネシアでは今日に至るまで、共産党は非合法化されている)。

スハルト時代[編集]

1968年3月に正式に大統領に就任したスハルトは、スカルノの急進的なナショナリズム路線を修正し、西側諸国との関係を修復、スカルノ時代と対比させ、自身の政権を「新体制 (Orde Baru) 」と呼んだ。スハルトはスカルノと同様に、あるいはそれ以上に独裁的な権力を行使して国家建設を進め、以後30年に及ぶ長期政権を担った。

その間の強引な開発政策は開発独裁と批判されつつも、インフラストラクチャーの充実や工業化などにより一定の経済発展を達成することに成功した。

その一方で、東ティモールアチェイリアンジャヤなどの独立運動に対しては厳しい弾圧を加えた。

1997年アジア通貨危機に端を発するインドネシア経済崩壊のなか、1998年5月にジャカルタ暴動英語版が勃発し、スハルト政権は崩壊した。

スハルト以後[編集]

ハビビ政権[編集]

スハルト政権末期の副大統領だったユスフ・ハビビが大統領に就任し、民主化を要求する急進派の機先を制する形で、民主化・分権化の諸案を実行した。スハルト時代に政権を支えたゴルカル、スハルト体制下で存続を許された2つの野党(インドネシア民主党開発統一党英語版)以外の政党の結成も自由化され、1999年6月、総選挙が実施され、インドネシアは民主化の時代を迎えた。

ワヒド政権[編集]

その結果、同年10月、インドネシア最大のイスラーム系団体ナフダトゥル・ウラマーの元議長、アブドゥルラフマン・ワヒド国民覚醒党)が新大統領(第4代)に就任した。メガワティ・スカルノプトリは副大統領に選ばれた。しかし、2001年7月、ワヒド政権は議会の信任を失って解任された。

メガワティ政権・ユドヨノ政権[編集]

代わって、闘争民主党メガワティ政権が発足した。

現在は、2004年4月に同国初の直接選挙で選ばれた第6代スシロ・バンバン・ユドヨノ2009年に60%の得票を得て再選され、2014年までの大統領の任にある(歴代の大統領については、インドネシアの大統領一覧を参照)。

政治[編集]

国是[編集]

インドネシアは多民族国家であり、種族、言語、宗教は多様性に満ちている。そのことを端的に示すのは「多様性の中の統一 Bhinneka Tunggal Ika」というスローガンである。この多民族国家に国家的統一をもたらすためのイデオロギーは、20世紀初頭からはじまった民族主義運動の歴史の中で、さまざまな民族主義者たちによって鍛え上げられてきた[17]

そうしたものの一つが、日本軍政末期にスカルノが発表したパンチャシラである[18]1945年6月1日の演説でスカルノが発表したパンチャシラ(サンスクリット語で「5つの徳の実践」を意味する)は今日のそれと順序と語句が異なっているが、スハルト体制期以降も重要な国是となり、学校教育や職場研修などでの主要教科とされてきた[19]。また、スハルト退陣後の国内主要政党の多くが、今もなお、このパンチャシラを是として掲げている。

現在のパンチャシラは以下の順序で数えられる。

  1. 唯一神への信仰(イスラーム以外でもよいが無宗教は認容されない)
  2. 人道主義
  3. インドネシアの統一
  4. 民主主義
  5. インドネシア全国民への社会正義

行政府[編集]

国家元首たる大統領は、行政府の長を兼ねる。その下に副大統領が置かれる。首相職はなく、各閣僚は大統領が指名する。第五代までの大統領と副大統領は、国民協議会(後述)の決議により選出されていたが、第六代大統領からは国民からの直接選挙で選ばれている。任期は5年で再選は1度のみ(最大10年)。憲法改正によって大統領の法律制定権は廃止された。各種人事権については、議会との協議を必要とするなど、単独での権限行使は大幅に制限された。また議会議員の任命権も廃止され、議員は直接選挙によって選出されることになった。

立法府[編集]

国民議会

立法府たる議会は、(1) 国民議会インドネシア語: Dewan Perwakilan Rakyat (DPR), 英語: Peoples Representative Council, 定数560)、(2) 地方代表議会インドネシア語: Dewan Perwakilan Daerah (DPD), 英語: Regional Representatives Council, 定数132)、そして (3) この二院からなる国民協議会インドネシア語: Majelis Permusyawaratan Rakyat (MPR), 英語: People's Consultative Assembly)がある。

まず、(3) の国民協議会は、2001年2002年の憲法改正以前は、一院制の国民議会の所属議員と、各州議会から選出される代表議員195人によって構成されていた。国民協議会は、国民議会とは別の会議体とされ、国家意思の最高決定機関と位置づけられていた。国民協議会に与えられた権限は、5年ごとに大統領と副大統領を選出し、大統領が提示する国の施策方針を承認すること、1年に1度、憲法と重要な法律の改正を検討すること、そして場合により大統領を罷免すること、であった。このような強大な権限を国民協議会に与えていることが憲政の危機をもたらしたとして、その位置づけを見直す契機となったのは、国民協議会によるワヒド大統領罷免であった。

3年あまりの任期を残していた大統領を罷免した国民協議会の地位をあらためるため、メガワティ政権下の2001年2002年におこなわれた憲法改正により、国民協議会は国権の最高機関としての地位を失った。立法権は後述の国民議会に移されることになり、国民協議会は憲法制定権と大統領罷免決議権を保持するが、大統領選任権を国民に譲渡し、大統領と副大統領は直接選挙によって選出されることになった。

これらの措置により、国民協議会は国民議会と地方代表議会の合同機関としての位置づけが与えられ、また、国民議会と地方代表議会のいずれも民選議員によってのみ構成されているため、国民協議会の議員もすべて、直接選挙で選ばれる民選議員となった。

(1) の国民議会は、2000年の第2次憲法改正によって、立法、予算審議、行政府の監督の3つの機能が与えられることになった。具体的には立法権に加えて、質問権、国政調査権、意見表明権が国民議会に与えられ、また、議員には法案上程権、質問提出権、提案権、意見表明権、免責特権が与えられることが明記された。比例代表制により選出される。

(2) の地方代表議会は、2001年から2002年にかけて行われた第3次、第4次憲法改正によって新たに設置が決まった代議機関であり、地方自治や地方財政に関する立法権が与えられている。先述の通り、総選挙で各州から選出された議員によって構成されている。

司法府[編集]

スハルト政権期には政府・司法省が分有していた司法権が廃止され、各級裁判所は、司法府の最上位にある最高裁判所によって統括されることになり、司法権の独立が確保された[20]。最高裁判所は法律よりも下位の規範(政令等)が法律に違反しているか否かを審査する権限を有する。他に憲法に明記される司法機関としては司法委員会と憲法裁判所がある。司法委員会は最高裁判所判事候補者を審査し国会に提示する権限及び裁判官の非行を調査し最高裁判所に罷免を勧告する権限を有する。憲法裁判所は法律が憲法に違反しているか否かを審査する権限を有する。憲法改正以前には大統領に属していた政党に対する監督権・解散権が憲法裁判所[21]に移された。これにより、大統領・政府による政党への介入が排除されることになった。

政党[編集]

現存する政党[編集]

以下、主なもの。

かつて存在した政党[編集]

軍事[編集]

インドネシア共和国国軍Angkatan Bersenjata Republik Indonesia - 略称ABRI)の兵力は、2003年に30万2000人(陸軍23万人、海軍5万5000人、空軍2万7000人)であり、志願兵制度である[29]。そのほかに予備役が40万人。軍事予算は2002年に12兆7,549億ルピアで、国家予算に占める割合は3.71パーセントである。

スハルト政権以来、米国を中心とした西側との協調により、近代的な兵器を積極的に導入してきたものの、東ティモール問題の悪化により米国と軋轢が生じ、2005年まで米国からの武器輸出を禁じられた。この間にロシア中国と接近し、これらの国の兵器も多数保有している。

国際関係[編集]

インドネシアが外交使節を派遣している諸国の一覧図。

宗主国オランダとの武力闘争によって独立を勝ち取ったインドネシアは、独立当初から外交方針の基本を非同盟主義に置いた。こうした外交方針は「自主積極 bebas aktif」外交と呼ばれている。独立達成後のインドネシア史において、外交にも様々な変化がみられるものの、いずれの国とも軍事同盟を締結せず、外国軍の駐留も認めていないなどの「自主積極」外交の方針はほぼ一貫しているといってよい。

1950年代後半のスカルノ「指導される民主主義」期には、1963年マレーシア連邦結成を「イギリスによる新植民地主義」として非難し、マレーシアに軍事侵攻した。国際的な非難が高まるなかで、1965年1月、スカルノは国際連合脱退を宣言し、インドネシアは国際的な孤立を深めていった。インドネシア国内ではインドネシア共産党の勢力が伸張し、国内の左傾化を容認したスカルノは、急速に中国に接近した。

1965年9月30日事件を機にスカルノが失脚し、スハルトが第二代大統領として就任すると、悪化した西側諸国との関係の改善をはかり、また、スカルノ時代に疲弊した経済を立て直すために債権国の協力を仰いだ。1966年9月、東京に集まった債権国代表がインドネシアの債務問題を協議し、その後、インドネシア援助について協議するインドネシア援助国会議(Inter-Governmental Group on Indonesia - 略称 IGGI)が発足した。

1967年8月、ASEAN発足時には原加盟国となり、域内での経済、文化の促進を所期の目標とした。他のASEAN加盟国との連帯を旨としている。その一方で、時折のぞくインドネシアの盟主意識・地域大国意識は、他国からの警戒を招くこともある。

今日に至るまで日本をはじめとする西側諸国とは協力関係を維持しているが、スハルト体制期においても一貫して、ベトナム北朝鮮とは良好な外交関係を保った。

1999年東ティモール独立を問う住民投票での暴動にインドネシア軍が関与したと見られ、その後の関係者の処罰が不十分とされたことや、2001年アメリカ同時多発テロによって米国との関係が悪化し、2005年まで武器禁輸などの制裁を受けた。このため、ロシア中国との関係強化に乗り出し、多極外交を展開している。

日本との関係は良好であり、特に近年、インドネシアでは日本文化がブームとなっており、日本企業の投資や、日本語を学ぶインドネシア人が増えている。大相撲アニメなど、日本文化のイベントも開催されている[30]

地方行政区分[編集]

インドネシアの州

インドネシアには2層の地方政府が存在し、第一レベルの地方政府が州(Provinsi)であり、その下位に第二レベルの地方政府である県(Kabupaten)と市(Kota)が置かれている。

第1レベル地方政府(便宜上4区域に分ける)は2013年時点で以下のとおり、ジャカルタ首都特別州と4の特別州、29の州が設置されている。下記リストで名称右に*付きが、首都ジャカルタと4特別州。

第2レベルの地方政府は、2006年時点で349県・91 市が置かれている。県と市には行政機能上の差異はなく、都市部に置かれるのが市で、それ以外の田園地域等に置かれるのが県である。 なお、県・市には、行政区としての郡(Kecamatan)とその下には区(Kelurahan)が置かれる。なお、都市以外の地域には村(Desa)が置かれているが、これは区の担う行政機能に代わり、地縁的・慣習的なコミュニティであり、行政区ではない。

インドネシアは、スハルト政権の崩壊後、世界で最も地方分権化が進んだ国の1つに数えられている。しかし、逆に言えば中央政府の力が弱く、地方政府が環境破壊を進める政策を実施していても、中央政府には、これを止める力がない[31]

地理[編集]

インドネシアの地図

世界で最も多くの島を持つ国であり、その数は1万3466にのぼる[3]

インドネシアとその周辺では、ユーラシアプレートオーストラリアプレート太平洋プレートフィリピン海プレートなどがせめぎあっており、環太平洋火山帯(環太平洋造山帯)の一部を構成している。そのため全土に無数と言っていい数の火山があり[32]クラカタウ大噴火に代表されるように古くから住民を脅かすと共に土壌の肥沃化に役立ってきた。スマトラ島のクリンチ火山が最高峰(3805m)である。スメル山はジャワ島の最高峰(3676m)で、世界で最も活動している火山の一つである。 また、地震も多く2004年スマトラ島沖地震、及び2006年ジャワ島中部地震は甚大な被害を与えた。スマトラ島とジャワ島は、約60,000年前は陸続きであったが、11,000年前の大噴火があり、スンダ海峡ができて両島は分離した[33]。これらの島々のすべてが北回帰線南回帰線の間に位置しており、熱帯気候である[34]

主な島[編集]

森林[編集]

国土を「林業地区」(国有林)と「その他の地区」に区分している。森林は石油と石炭に次いで大きな二酸化炭素の排出源である。森林は、適切な利用・管理により地球温暖化防止に役立つ。[35]

経済[編集]

水牛を用いて稲田を耕している様子。インドネシアは伝統的に農業国である。

IMFによると、2011年のインドネシアのGDPは8456億ドルであり、世界第16位である[36]。一方、一人当たりのGDPは3508ドルであり、世界平均の40%に満たない水準である。2011年アジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は1億1743万人と推定されており、国民のおよそ半数を占めている[37]

インドネシアは基本的に農業国である。1960年代に稲作の生産力増強に力が入れられ、植民地期からの品種改良事業も強化された。改良品種IR8のような高収量品種は他にもつくられ、農村に普及し栽培された。このような「緑の改革」の結果、1984年にはコメの自給が達成された。しかし、1980年代後半には「緑の改革」熱も冷めてゆき、同年代の末にはコメの輸入が増加するに至った。[38]。 農林業ではカカオキャッサバキャベツココナッツコーヒー豆サツマイモ大豆タバコ天然ゴムトウモロコシパイナップルバナナ落花生の生産量が多い。特にココナッツの生産量は2003年時点で世界一である。オイルパーム(アブラヤシ)から精製されるパームオイル(ヤシ油)は、植物油の原料の一つで、1990年代後半日本国内では菜種油・大豆油に次いで第3位で、食用・洗剤・シャンプー・化粧品の原料として需要の増大が見込まれている。このパームオイルの生産国の第1位はマレーシア(2001年、1190万8000トン)、2位はインドネシア(同年、893万トン)で、この2国だけで世界の82.4%を生産している。このためオイルパーム・プランテーションの増勢が行われる。アブラヤシの栽培面積は2000年にはココヤシと並び、2005年には548万ヘクタールとなった(インドネシア中央統計庁(BPS)による。)[39]

鉱業資源にも恵まれ、スズ石油石炭天然ガスニッケルの採掘量が多い。1982年、1984年、日本からの政府開発援助(ODA)でスマトラ島北部のトバ湖から流れ出るアサハン川の水でアサハン・ダム(最大出力51.3万キロワット)とマラッカ海峡に面したクアラタンジュンにアサハン・アルミ精錬工場が建設された[40]。ニッケル鉱山は、南東スラウェシ州コラカ沖のパダマラン島のポマラと南スラウェシ州ソロアコ(サロアコ)にある。生産の80%が日本に輸出されている。ニッケルはカナダの多国籍企業インコ社が支配している。多国籍企業のインドネシア進出はスハルト体制発足後の1967年外資法制定以降であり、採掘・伐採権を確保している。また、日本企業6社が出資している。鉱山採掘に伴い森林伐採で付近住民と土地問題で争いが起こる[41]

日本は天然ガスからつくるLNGをインドネシアから最も輸入している。2004年以降は原油の輸入量が輸出量を上回る状態であるため、OPEC(石油輸出国機構)を2009年1月に脱退した。

工業では軽工業、食品工業、織物石油精製が盛ん。コプラパーム油のほか、化学繊維パルプ窒素肥料などの工業が確立している。 パナソニックオムロンブリヂストンをはじめとした日系企業が現地に子会社・あるいは合弁などの形態で、多数進出している。

ジャカルタはインドネシア経済の中枢であり、東南アジア屈指の世界都市である。

独立後、政府は主要産業を国有化し、保護政策の下で工業を発展させてきた。1989年には、戦略的対応が必要な産業として製鉄航空機製造、銃器製造などを指定し、戦略産業を手掛ける行政組織として戦略産業管理庁(Badan Pengelora Industri Strategis)を発足させている。しかし同時に、華人系企業との癒着や、スハルト大統領ら政府高官の親族によるファミリービジネスFamily buisiness)等が社会問題化し、1996年には国民車ティモールの販売を巡ってWTOを舞台とする国際問題にまで発展した。しかし、1997年アジア通貨危機の発生により、インドネシア経済は混乱状態に陥り、スハルト大統領は退陣に至った。その後、政府はIMFとの合意によって国営企業の民営化など一連の経済改革を実施したが、失業者の増大や貧富の差の拡大が社会問題となっている。 ただ、改革と好調な個人消費により、GDP成長率は、2003年から2007年まで、4%~6%前後で推移した。2008年には、欧米の経済危機による輸出の伸び悩みや国際的な金融危機の影響等があったものの、6.1%を維持。さらに2009年は、政府の金融安定化策・景気刺激策や堅調な国内消費から、世界的にも比較的安定した成長を維持し、4.5%の成長を達成。名目GDP(国内総生産)は2001年の約1,600億ドルから、2009年には3.3倍の約5393億ドルまで急拡大、2010年はさらに6950億ドルになる見通しである。今ではG20の一角をなすまでになっており同じASEAN諸国のベトナムフィリピンと同様にNEXT11の一角を占め、更にベトナムと共にVISTAの一角を担うなどインドネシア経済の期待は非常に大きい。

このような中、日系企業のインドネシア進出は拡大している[42]が、インドネシアが投資環境の面で抱える問題は少なくない。世界銀行の「Doing Business 2011」でも、インドネシアのビジネス環境は183国中121位に順位づけられており、これはASEANの中でも特に悪いランキングである[43]。具体的には、道路、鉄道、通信などのハードインフラの整備が遅れていることのほか、ソフトインフラともいうべき法律面での問題が挙げられる。インドネシアの裁判所や行政機関の判断については、予測可能性が低く、透明性も欠如しており、これがビジネスの大きな阻害要因になっていると繰り返し指摘されている[44]。 これに対し、日本のODAは、ハードインフラ整備の支援に加え、統治能力支援(ガバナンス支援)などソフトインフラ整備の支援も近年行っている。インドネシアの警察に対する市民警察活動促進プロジェクトは、日本の交番システムなどをインドネシアにも導入しようというものであり、日本の技術支援のヒットとされている[45]。また、投資環境整備に直結する支援としては、知的財産権総局を対象とした知的財産に関する法整備支援も継続されている[46]。一方、法的なエンフォースメントの最後を担うことになる裁判所を対象とした法整備支援は、2009年まで行われていた[47]

2013年現在では、インドネシアは東南アジア全体でも有数の好景気に沸いており、日本からの投資も2010年には7億1260万ドル(約712億6000万円)であったのが、2012年には25億ドル(約2500億円)へと急増している[30]。一方で、国の経常赤字と資本流入への依存、貧弱なインフラや腐敗した政治や実業界など、いくつかの問題点も指摘されている[48]

国民[編集]

人口の76.5%を占めるムスリムの女性はヒジャブを着用することが多い。

人口[編集]

2010年の総人口は2億3,764万1326人(男性1億1963万913人、女性1億1801万413人)で中国・インド・アメリカ合衆国に次ぐ世界第4位[49]。今後も人口は着実に増加してゆく傾向にあり、2050年の推計人口は約3億人。全国民の半分以上がジャワ島に集中しているため、比較的人口の希薄なスマトラ島、カリマンタン島、スラウェシ島に住民を移住させるトランスミグラシと呼ばれる人口移住政策を行ってきた。

  • 人口増加率:1.03%(2010年)

民族[編集]

大多数がマレー系で、彼らがインドネシア人の直系の祖先であり、原マレー人新マレー人の2種類に分けられる。原マレー人は、紀元前1500年頃に渡来した。原マレー人は先住民よりも高度な文化を持っていた。原マレー人は後から来た新マレー人によって追われていくが、ダヤック人、トラジャ人、バタック人として子孫が生存している。新マレー人は、マレー人、ブギス人、ミナンカバウ人の祖先であり、紀元前500年頃に渡来した。渡来時には青銅器製作の技術を獲得しており、数百年後には鉄器を使用し始める。彼らの使用した鉄器がトンキン湾ドンソン地方で大量に発見されていることから「ドンソン文化」と呼ばれる[50]

他に約300の民族がおり、住民の内、ジャワ人が45%、スンダ人が14%、マドゥラ人が7.5%、沿岸マレー人が7.5%、その他が26%、中国系が約5%となっている。

父系母系を共に親族とみなす「双系社会」であり、姓がない人もいる(スカルノスハルトなど)。

言語[編集]

公用語インドネシア語であり、インドネシアの国語となっている。会話言語ではそれぞれの地域で語彙も文法規則も異なる583以上の言葉が日常生活で使われている。インドネシア語が国語と言っても、日常で話す人は多くて3,000万人程度で国の人口比にすると意外と少ないが、国語になっているため第2言語として話せる人の数はかなり多い。また、首都ジャカルタに出稼ぎにでる人も多い為、地方の人でもインドネシア語は必須であり、話せないと出稼ぎにも影響が出てくる。

  • インドネシア語識字率:88.5%(2003年)

宗教[編集]

首都ジャカルタ中心部のイスラム教寺院イスティクラル。インドネシアは世界最大のイスラム教徒人口を抱える。

インドネシアは憲法29条で信教の自由を保障している。パンチャシラでは唯一神への信仰を第一原則としているものの、これはイスラム教を国教としているという意味ではない。インドネシアは多民族国家であるため、言語と同様、宗教にも地理的な分布が存在する。バリ島ではヒンドゥー教が、スラウェシ島北部ではキリスト教カトリック)が、東部諸島およびニューギニア島西部ではキリスト教(プロテスタント、その他)が優位にある。

最新の統計(ブリタニカ国際年鑑2007年版)によると、イスラム教が76.5%、キリスト教が13.1%(プロテスタント5.7%、独立教会4.0%、カトリック2.7%、他)、ヒンドゥー教が3.4%、伝統信仰が2.5%、無宗教が1.9%、その他が2.6%となっている。

イスラム教徒の人口は、1億7000万人を超え、世界最大のイスラーム教徒(ムスリム)人口を抱える国となっている(インドネシアは世俗主義を標榜しており、シャリーアによる統治を受け入れるイスラーム国家ではない)。ただし、イスラームはジャワ島やスマトラ島など人口集中地域に信者が多いため、国全体でのイスラーム教徒比率は高いが、非イスラム教徒の民族や地域も実際には多い。カリマンタン島やスラウェシ島ではちょうど、イスラム教徒と非イスラム教徒の割合が半々ほど。東ヌサトゥンガラから東のマルク諸島、ニューギニア島などではイスラム教徒比率は一割程度である(それもジャワ島などからの移民の信者が大半である)。またイスラム教徒多数派地域であっても、都市部や、スンダ人、アチェ人地域のように比較的、厳格な信仰を持つものもあれば、ジャワ人地域のように基層にヒンドゥー文化を強く残しているものもあり、また書面上はイスラム教徒となっていても、実際にはシャーマニズムを信仰している民族も有る。

なお、信仰の自由はあるといっても完全なものではなく、特に無神論は違法であり、公言をすると逮捕される可能性がある[51]

教育[編集]

インドネシアの教育体系は、教育文化省が管轄する一般の学校(スコラ sekolah)と、宗教省が管轄するイスラーム系のマドラサ (madrasah) の二本立てとなっている。いずれの場合も小学校中学校高校の6・3・3制であり、このうち小中学校の9年間については、1994年義務教育にすると宣言された。スコラでもマドラサでも、一般科目と宗教科目を履修するが、力点の置き方は異なる[52]

大学をはじめとする高等教育機関も一般校とイスラーム専門校にわかれており、前者については1954年に各州に国立大学を設置することが決定された。以下、インドネシア国内の代表的な大学のリストを挙げる。

2011年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は92.8%(男性:95.6%、女性:90.1%)である[53]。2010年の教育支出はGDPの3%だった[53]

独立運動など[編集]

インドネシアはその民族・宗教などの多様性や、過去のオランダやポルトガル、イギリスなどの分割統治の影響でいくつかの独立運動を抱えている。紛争に発展したアチェ独立運動などもあった。東ティモールは独立運動の末、国連の暫定統治を経て2002年に独立したが、パプア(旧イリアン・ジャヤ州)において独立運動が展開されており、カリマンタン島では民族対立が、マルク諸島ではキリスト教徒とイスラム教徒の宗教対立が存在する。アチェ独立運動は2004年のスマトラ島沖地震 (2004年)の後、2005年12月27日に終結した。

文化[編集]

ワヤン・クリジャワ島バリ島で行われる、人形を用いた伝統的な影絵芝居である。

インドネシアの宗教・文化は島ごとに特色をもつが、日本ではバリ島のガムランなどのインドネシアの音楽や舞踊が知られる。またワヤン・クリと呼ばれる影絵芝居や、バティックと呼ばれるろうけつ染めも有名である。

食文化[編集]

文学[編集]

インドネシア文学をインドネシア語、またはその前身であるムラユ語で、インドネシア人によって書かれた文学作品のことであると限定するならば、それはインドネシアの民族主義運動期に生まれたといえる。1908年オランダ領東インド政府内に設立された出版局(バライ・プスタカ)は、インドネシア人作家の作品を出版し、アブドゥル・ムイスの『西洋かぶれ』(1928年)など、インドネシアで最初の近代小説といわれる作品群を出版した[54]

また、インドネシア人によるインドネシア語の定期刊行物としては、1907年バンドンで、ティルトアディスルヨが刊行した「メダン・プリヤイ」が最初のもので[55]、その後、インドネシア語での日刊紙週刊誌月刊誌の刊行は、1925年には200点、1938年には400点を越えていた[56]

20世紀の著名な文学者としては、『人間の大地』(1980年)、『すべての民族の子』などの大河小説で国際的に評価されるプラムディヤ・アナンタ・トゥールの名を挙げることができる[57]

以下、代表的なインドネシアの作家・詩人・文学者を挙げる。

音楽[編集]

舞踊[編集]

スポーツ[編集]

バドミントンが盛んでありオリンピックで獲得したメダルの半分以上がバドミントンによるものである。ボクシングではWBA世界スーパー王者クリス・ジョンを輩出したことで知られる。

世界遺産[編集]

インドネシア国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が4件、自然遺産が4件存在する。

祝祭日[編集]

日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元日 Tahun Baru Masehi
中国正月 Tahun Baru Imlek 移動祝日
犠牲祭 Idul Adha 移動祝日
ヒジュラ正月 Tahun Baru Hijriyah 移動祝日
ヒンドゥー正月 Hari Raya Nyepi 移動祝日
聖金曜日 Wafat Isa Al-Masih 移動祝日
キリスト昇天祭 Kenaikan Isa Al-Masih 移動祝日
ムハンマド聖誕祭 Maulid Nabi Muhammad SAW 移動祝日
仏教大祭 Hari Raya Waisak 移動祝日
8月17日 独立記念日 Hari Proklamasi Kemerdekaan R.I.
ムハンマド昇天祭 Isra Mi`raj Nabi Muhammad SAW 移動祝日
断食明け大祭 Idul Fitri 移動祝日
12月25日 クリスマス Hari Natal

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. ^ 2000の島が消える?=正確な数把握へ調査-インドネシア 時事通信 2009年8月28日
  3. ^ a b “おおらかすぎ? 数え直したら4千余の島消え インドネシア”. 産経新聞. (2013年11月12日). http://sankei.jp.msn.com/world/news/131112/asi13111209000004-n1.htm 2013年11月12日閲覧。 
  4. ^ 日本アセアンセンター「ASEAN概要」
  5. ^ NHK時論公論「安倍政権 アジア外交の課題~東南アジアへの視点」
  6. ^ 大使館メルマガ「東南アジア諸国連合(ASEAN)日本政府代表部の開設について」
  7. ^ 村井吉敬・佐伯奈津子・間瀬朋子著『エリア・スタディーズ113 現代インドネシアを知るための60章』 明石書店 2013年 24ページ
  8. ^ イ・ワヤン・バドリカ著 2008年 7-15ページ
  9. ^ 池端雪補ほか『岩波講座 東南アジア史8』p34、岩波書店
  10. ^ 森武麿『集英社版日本の歴史 アジア・太平洋戦争』p264、集英社、1993
  11. ^ 池端雪補ほか『岩波講座 東南アジア史8』p34、岩波書店
  12. ^ 森武麿『集英社版日本の歴史 アジア・太平洋戦争』p265、集英社、1993
  13. ^ 奥源造編訳(1973)『アフマッド・スバルジョ著 インドネシアの独立と革命』191頁。
  14. ^ 奥源造編訳(1973)『アフマッド・スバルジョ著 インドネシアの独立と革命』93頁他。
  15. ^ イ・ワヤン・バドリカ著 2008年 335ページ
  16. ^ イ・ワヤン・バドリカ著、2008年 337ページ
  17. ^ インドネシア独立前の民族主義運動期から独立後の過程において、さまざまな論者が国家的統一、あるべき国家像について、発言している。それらを概観するものとして、Herbert Feith and Lance Castle ed., Indonesian Political Thinking 1945-1965, Ithaca and London, Cornell University Press, 1970.
  18. ^ スカルノのパンチャシラ演説の日本語訳は、日本国際問題研究所インドネシア部会編 『インドネシア資料集 上 1945-1959年』、同研究所、1972年、1-17頁。
  19. ^ 高橋宗生 「国民統合とパンチャシラ」、安中章夫三平則夫編 『現代インドネシアの政治と経済 - スハルト政権の30年 -』、アジア経済研究所1995年、第2章、を参照。
  20. ^ 但し税務裁判所の人事と予算は引き続き財務省管轄化にある。税務裁判所の裁判に対する不服申立ては最高裁判所に対して行われる。
  21. ^ インドネシア共和国憲法第24C条第1項後段。
  22. ^ スハルトがゴルカルを支持母体として政権運営していたのは有名であるが、スハルトはゴルカルの党員でも党首でもない「ただの人」であった。その「ただの人」をゴルカルをはじめとするグループが大統領として推挙するという形式をとっていた。
  23. ^ 民主党はユドヨノ大統領の支持母体である。
  24. ^ ユドヨノは民主党最高諮問会議議長として党の最高権力を保持していたが、相次ぐ民主党不祥事によりアナスの党首続投が不可能な情勢となったため2013年3月31日の臨時党大会において党首に就任し自ら党運営を行うこととなった。
  25. ^ 2001年にメガワティと組んで副大統領に就任。2004年大統領選挙において大統領候補。
  26. ^ 最高諮問会議議長はプラボゥオ・スビヤント。
  27. ^ 大統領候補としてウィラントを支持している。
  28. ^ イスラム宗教団体ナフダトゥル・ウラマー を母体としている。 アブドゥルラフマン・ワヒド大統領を輩出したことで有名。
  29. ^ 外務省:インドネシア共和国
  30. ^ a b Angela Dewan (2013年9月5日). “インドネシアで日本ブーム、背景に日本企業の攻勢”. AFPBB News. http://www.afpbb.com/article/economy/2965797/11274893 2013年9月6日閲覧。 
  31. ^ “インドネシア煙害、近隣国巻き添えで非難の応酬”. 日本経済新聞. (2013年6月20日). http://www.nikkei.com/article/DGXNASGV20001_Q3A620C1000000/ 2013年6月20日閲覧。 
  32. ^ 活火山は129(石弘之著『歴史を変えた火山噴火 ー自然災害の環境史ー』刀水書房 2012年 120ページ)
  33. ^ 石弘之著『歴史を変えた火山噴火 ー自然災害の環境史ー』刀水書房 2012年 123ページ
  34. ^ 村井吉敬・佐伯奈津子・間瀬朋子著『エリア・スタディーズ113 現代インドネシアを知るための60章』 明石書店 2013年 38ページ
  35. ^ 村井吉敬・佐伯奈津子・間瀬朋子著『エリア・スタディーズ113 現代インドネシアを知るための60章』 明石書店 2013年 316ページ
  36. ^ IMF: World Economic Outlook Database
  37. ^ アジア開発銀行 Poverty in Asia and the Pacific: An Update
  38. ^ 村井吉敬・佐伯奈津子・間瀬朋子著『エリア・スタディーズ113 現代インドネシアを知るための60章』 明石書店 2013年 271-272ページ
  39. ^ 村井吉敬・佐伯奈津子・間瀬朋子著『エリア・スタディーズ113 現代インドネシアを知るための60章』 明石書店 2013年 321ページ
  40. ^ 藤林泰「アルミニューム」/村井吉敬・佐伯奈津子編著『インドネシアを知るための50章』明石書店 2004年 27ページ
  41. ^ 村井吉敬「ニッケル」/村井吉敬・佐伯奈津子編著『インドネシアを知るための50章』明石書店 2004年 31-35ページ
  42. ^ 「NHKスペシャル 灼熱アジア」
  43. ^ http://www.doingbusiness.org/reports/doing-business/doing-business-2011
  44. ^ ジャカルタ・ジャパン・クラブ「黄金の5年間に向けて-ビジネス環境の改善に向けた日本企業の提言-
  45. ^ 草野厚『ODAの現場で考えたこと』日本放送出版協会 (2010/04)
  46. ^ http://www.jica.go.jp/publication/j-world/1005/pdf/tokushu_06.pdf
  47. ^ インドネシア法整備支援
  48. ^ “インドの轍を踏むインドネシア 経済的成功に甘んじて何もしなかったツケ”. 日本ビジネスプレス (フィナンシャル・タイムズ). (2013年9月5日). http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/38634 2013年9月6日閲覧。 
  49. ^ 村井吉敬・佐伯奈津子・間瀬朋子著『エリア・スタディーズ113 現代インドネシアを知るための60章』 明石書店 2013年 289ページ
  50. ^ イ・ワヤン・バドリカ著 2008年 14-15ページ
  51. ^ “フェイスブックで逮捕された無神論者”. ニューズウィーク. (2012年3月14日). http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2012/03/post-2471.php 
  52. ^ 西野節男「ムスリムはどう教育されるか - インドネシア」、片倉もとこ編 『イスラーム教徒の社会と生活』、栄光教育文化研究所<講座イスラーム世界1>、1994年、93-96頁。
  53. ^ a b CIA World Factbook "Indonesia"2013年8月24日閲覧。
  54. ^ 早瀬晋三深見純生「近代植民地の展開と日本の占領」、池端雪浦編 『東南アジア史II 島嶼部』、山川出版社<新版 世界各国史6>、1999年、309-311頁、を参照。
  55. ^ 土屋健治「文学と芸術」、綾部・石井編、弘文堂1995年、162頁。
  56. ^ 早瀬・深見、同上、291頁、を参照。なお、戦後も含めたインドネシア文学の歩みについては、松尾大「近代インドネシア文学の歩み」、アイプ・ロシディ編、松尾大・柴田紀男訳 『現代インドネシア文学への招待』、めこん1993年、に詳しい。
  57. ^ 押川典昭「インドネシア」『激動の文学――アジア・アフリカ・ラテンアメリカの世界』 信濃毎日新聞社、信濃毎日新聞社、長野市、1995年3月15日、初版、67-70頁。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

政府
インドネシアの法律
日本政府
観光その他