スリ

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スリ(英 : pickpocketing, pickpocket)とは、他人の懐などから金品などを気づかれないようにかすめとる行為、また、それを行う者のこと。

行為には「掏摸」、行う者には「掏児」の字を当て、読みはどちらも「スリ」。別称として「巾着切り」(きんちゃくきり)、また京阪神地方では「チボ」などがある。

概説[編集]

買い物中の女性の背後から掏り取るスリ犯(右側)。Louise Moillon(1610-1696) 画。
ヒエロニムス・ボッシュ(15世紀頃の画家)の絵。見せ物に夢中になっている男性の背後から、一番左の男が掏り取っている。

人混みを利用した犯罪であり、縁日繁華街観光地市場 等々で行われる。指先の器用さが必要とされる。新米のスリは物を取ったらすぐに駆け出すことから「駆け出し」という言葉が生まれた。

スリは、刑法上の窃盗罪にあたり刑事罰の対象となる。一般的にターゲットが特定されず、上級技術を有するスリ師や集団スリは、誰でも標的にする。ただし、特に観光客や繁華街の買い物客などは何かに意識をひきつけられていることが多いので狙われやすい。 広く一般市民が犠牲になるという点で、一部の者(商店、コンビニ等の経営者)しか被害にあわない万引きと異なる。

電車内で刃物や防犯スプレーを振り回すなどして逃走する武装すり団は、強盗罪の適用が問題となる。

なお、奇術師が、ショーとして舞台上などで観客に対してスリ行為を行う「ピックポケットショー」というものがある。この場合は観客はショーに参加ことで合意していると見なされ、かつ掏り取った物品はショーの最後に返却されるため犯罪にはあたらない。

東京

東京では下町には普段から素行が悪い者が多く、スリも多い。特に浅草近辺は日本各地、世界各地から観光客が大勢集まり人混みが多いので、スリの常習犯がウヨウヨしている。ズボンの後ろポケットなどに長い財布を入れて商店街を歩いている者などからはあっという間に掏り取ってゆく。並んで歩いていて互いの存在に夢中になっているカップルなども餌食になりやすい。後ろを歩いている人々にスリの瞬間を目撃されると知っていても大胆にスリを行う。目撃しても、あっという間に人混みに消えてしまい、通報することも難しい。捕えるには一般的に言えば即座に複数名で抑え込むくらいしかない。なお合気道を使えば独りでも抑え込むことは可能で、抑え込んでから周囲を歩いている通行人などに通報を頼むことはできる。 また浅草では、複数の者がグルになっている場合があり、路上商人役の者が台の上に置いた商品に通行人の気をひきつけおいて、目配せで合図を送り合い、グルの者が後ろから掏り取るということを一日のうちに何度も何度も繰り返すといった 古典的で陰湿・悪質な手口も行われている。

日本での歴史[編集]

山科言経の日記「言経卿記文禄3年(1594年)8月24日の条に、石川五右衛門について、「正午天晴、盗人スリ十人また一人者釜にて煮らる」とあるから、盗人とスリとは区別されていたという。慶長2年(1597年)3月の記事に「一、辻切すり盗賊之儀に付、諸奉公人侍は五人侍下人は十人組に連判を続、右悪逆不可仕旨請定可申事」とあることもそれを証するという。当時のスリは無頼の徒は道行くひとにすりよって悪事をなし、携帯品をかすめ取るので、スリと呼ばれ、下緒ヌキと並び称され、貞享元禄頃、巾着切りの名前になって巧妙化した。

元禄・宝永頃に名人坊主小兵衛が現われたが、これは同心目付役加賀山権兵衛の寵愛を受けた。このころからスリと同心の因縁が生じたという。当時の手口は袂さがし、腰銭はずし、巾着切りが主で、敲きの上門前払いに処罰されたが、巾着切りの横行の流行にかんがみ、延享4年(1747年)2月、御定書に「一、巾着切、一、腰銭袂銭を抜取候者、右何れも可為入墨之刑事。但入墨之者悪事不相止召捕候はば死罪」と達せられ、突き当たりの手口で荒稼ぎする者を入れ墨、重敲すべきを見合わせて死罪にする判例が生じた。その手口はますます巧妙化し、荒稼ぎ、山越し、達磨外し、から、天保頃から、違(ちがい。すれ違いざまにおこなう)、飛(かっさらい)、どす(おどしとり)へと変わり、白昼の追いはぎも現われ、スリは並抜きをして、同類と共同で稼ぐものもあったので、遂に天保の大検挙が行われ、万吉、虎、勇九郎、遠州屋のような有名なスリの入牢があった。しかしその後もスリの跳梁跋扈はやまず、天保の大検挙で入牢した親分たちが出牢するにおよんでますますさかんになり、慶応元年(1865年)、浅草年の市には勇九郎の流れをくむ秀奴の手合いが手当たり次第にすりとった紙入れは炭俵1杯分あって、石を付けて大川に放り込んだという。当時スリは髷を元結い1本で結ぶのが掟で、天保頃は江戸に黒元結連という組があって、元結いを黒にして、一目でその所属がわかるようにしていたという。また、必ず集団で行動し、仲間のスリがしくじった場合は見ず知らずの町人を装った仲間が袋叩きにし、番屋に突き出す振りをして奪還した。組に所属しない流しのスリは十指全てをへし折られる凄惨な制裁を受けた。

明治以前はスリは町人全盛の大坂に多く、技量の点でも上方がスリの本場であったが、明治維新となり、東京に人口が集中し、スリの恐れた武士の帯刀が禁じられ、富豪が増え、上方から東京に所がえするものがおおくなり、明治20年(1887年)頃、秀奴の子分の地蔵の栄のまた子分の巾着屋の豊が東京市中のスリを統一し組織し、京阪のスリは非常に多く東京に集まった。当時、スリには「箱師」(電車内専門)、「ボタハタキ」(縁日や劇場など人混み内専門)、「違い」(路上ですれ違いざまにする)の3種があった[1]。警察が彼らを情報屋として利用することもあったため、明治末期まで取り締まりは比較的緩かった[1]

巾着屋の豊の全盛期は明治27-28年(1894-1895年)頃で、その後を継いだのが明治の大親分湯島の吉であった。湯島の吉は巾着屋の豊に次ぐ親分で、清水の熊というスリの名人の流れをくんだ仕立屋銀次日清戦争頃に台頭した[2]。当時スリの大立て者として東京にあったのは、湯島の吉と仕立屋銀次と、深川で大徳、びっこの治三公、おいらんの定こと荒井定吉、中折れの文太こと原田文太などに養成された鼈甲勝こと渡辺勝次郎の、3大親分が鼎立する情況であった。すりに苦慮した警視庁は明治27年(1894年)番町招魂社裏の青木善吉の門構えの邸宅に「ドサ」をいれた(踏み込み、本人を引致するとともに証拠物件の検査をする)のがスリにドサをいれた最初で、小親分らに手入れしたことで小親分らが衰退し、ついには3大親分の鼎立とはなった。

これに、その後上方から上京して一団をなした新宿組のスリのてあいはその勢力が非常に強く、その関係が錯綜し、どれほど跳梁しようと手の下しようが無く、現行犯で逮捕しても仕立屋銀次が口を出すとたちまち釈放されるばかりか、一部からはスリは犯罪捜査の補助的機関であるとさえ考えられた。このような弊害を抜本的に改善しようと考えた当時の赤坂警察署長本堂平四郎警視は、偶然、スリ被害事件で召喚した仕立屋銀次が召喚に応じないことに憤慨し、その検挙を命じた(明治42年(1909年)6月18日)。これを機に警視庁でも武東刑事課長、島谷掏摸主任その他も湯島の吉、鼈甲勝その他に内偵を進め、11月5日、彼らと彼らの通屋(づや。盗賍品取引者)を一斉検挙し、かくて東京で親分株として子分を集めていたものを掃蕩し、従来の刑事とスリとの関係を断絶し、取締を厳ならしめ、そのためにその後は掏摸仲間に統一、連絡は無くなり、被害件数は激減した。

[編集]

  • スリや、賭博で負けて損する意味の「する」などのネガティブなイメージから、日本では「する」という言葉を別の言葉に置き換える風習(忌み言葉)がある。アタリメ(スルメ)やあたり鉢(すり鉢)、墨をあたる(墨をする)など。なお、置き換えに入る「あたる」は賭博で負ける「する」の対義語。
  • 成瀬無極仕立屋銀次を例に、明治時代のスリの典型的な風体を「スリらしい髪の刈り方をし、スリらしい着物をぞろりと着て帯を腰低に結び、素足に安雪駄」と描写している。[3]

参考文献[編集]

  • 尾佐竹猛『賭博と掏摸の研究』新泉社 ISBN 4787799053
  • 坂口鎮雄『すり』(柴田臥龍堂発行、大正3年6月)
  • 坂口鎮雄、湯川四郎『すり・掏摸の犯罪史』 (近代犯罪資料叢書) 大空社、 1999/1/29

脚注[編集]

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  1. ^ a b スリ絶えず、大名生活の大親分、東京市中に1500徘徊 新聞集成明治編年史. 第十三卷、(林泉社、1936-1940)
  2. ^ 仕立屋銀次『明治・大正・昭和歴史資料全集. 犯罪篇 下卷』有恒社、1932-1934
  3. ^ 『木の實を拾ふ』白水社、1935年11月

関連項目[編集]

外部リンク[編集]