タジキスタン

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タジキスタン共和国
Ҷумҳурии Тоҷикистон(キリル文字)
جمهوری تاجیکستان(アラビア文字)
タジキスタンの国旗 タジキスタンの国章
国旗 (国章)
国の標語:なし
国歌タジキスタン共和国国歌
タジキスタンの位置
公用語 タジク語(ペルシャ語)[1] (state); 地域言語:ロシア語 (inter-ethnic communication[2])
, シュグニー語
首都 ドゥシャンベ
最大の都市 ドゥシャンベ
政府
大統領 エモマリ・ラフモン
首相 コヒル・ラスルゾダ
面積
総計 143,100km292位
水面積率 0.3%
人口
総計(2012年 7,100,000人(???位
人口密度 49人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 176億[3]ソモニ
GDP (MER)
合計(2008年 51億[3]ドル(144位
GDP (PPP)
合計(2008年 130億[3]ドル(142位
1人あたり 2,019[3]ドル
独立
 - 日付
ソビエト連邦より
1991年9月9日
通貨 ソモニ (TJS)
時間帯 UTC (+5)(DST:なし)
ISO 3166-1 TJ / TJK
ccTLD .tj
国際電話番号 992

タジキスタン共和国(タジキスタンきょうわこく)、またはタジクアオスタ、通称タジキスタンは、中央アジアに位置する共和制国家。首都はドゥシャンベ。旧ソビエト連邦から独立した。南にアフガニスタン、東に中華人民共和国、北にキルギス、西にウズベキスタンと国境を接する。

国名[編集]

正式国名は、キリル文字Ҷумҳурии Тоҷикистон (Jumhurii Tojikiston)、アラビア文字でجمهوری تاجیکستان(Jumhūrī-i Tājīkistān)。読みは、ジュムフーリーイ・トージーキストーンあるいはジュムフーリーイ・タージーキスターン。通称は、Тоҷикистон / تاجیکستان。

公式の英語表記は、Republic of Tajikistan。通称、Tajikistan

日本語の表記は、タジキスタン共和国。通称、タジキスタン。漢字による当て字は汰爾奇斯坦[4]

国名は、タジク人の自称民族名Тоҷик(タージーク、トージーク)と、タジク語で「~の国」を意味する -истон の合成語である。タジク(ペルシア語ではタージークtājīk)の語源は明らかではないが、中国唐朝イスラム帝国を指した「大食」(タージー)と同じで、元はペルシア語で「アラブ人」を意味した語であると言われ、のちにアラブ人からイスラム教を受け入れたペルシア・イラン系の人々のことを指すようになったとの俗説もあるが根拠はない[要検証 ]。タジク語、ペルシア語、ダリー語で、"تاج Tāj" は「王冠」を意味し、単純には「冠の人たちの国」となり、現在タジキスタン国内で国名の由来を説明するときに用いられる通説である。

歴史[編集]

紀元前から近世[編集]

紀元前2000年から紀元前1000年にかけて、アーリア系諸部族がユーラシア草原から中央アジアに移住し、オアシス地方で独自の文化を創り上げていた。

現在のタジキスタンの領土に相当する地域は、古代より最盛期のアケメネス朝ペルシア帝国の東部辺境としてギリシア世界に知られ、様々な民族の往来・侵入・支配を受けつつも果敢に反撃し、パミール高原を境とする中国インドアフガニスタンイラン中東の結節点としての文明の十字路たる地位を確立してきた。反撃の過程ではスピタメネス(タジク語では「スピタメン」)を輩出した。同時に山岳地域は被征服民族の“落武者の隠れ里”として、各地のタジク語諸方言だけでなく、ヤグノビ語英語版シュグニー語ルシャン語英語版ワヒ語英語版などのパミール諸語英語版を話す民族を今日まで存続させてきた。

7世紀イスラーム教徒のペルシア征服の後、8世紀に西方からアラブ人が到来し、イラン系の言語を話していたこの地域の住民たちの多くはイスラム教を信奉するようになり、9世紀には現在のタジキスタンからウズベキスタンにかけての地域で、土着のイラン系領主がブハラを首都にサーマーン王朝を立てた。しかし、サーマーン朝は同地域でのタジク系最後の独立王朝となる。やがてテュルク民族が到来すると、タジキスタンとウズベキスタン、アフガニスタン、イランなどにかけて広く居住するイラン系の言語を話すムスリム(イスラム教徒)定住民たちは都市部においては侵入してきたテュルク語系諸民族と混住し、テュルク系言語とイラン系言語のバイリンガルが一般的となり、双方の民族とも民族としてのアイデンティティは低く、例えばタジクという呼称よりも、出身地により自らを「サマルカンド人」や「ブハラ人」などと呼ぶなど、出身都市や集落に自己のアイデンティティを求めることが多かったようである。

16世紀にはタジクたちの中心地域であるトランスオクシアナ(ウズベキスタン中央部からタジキスタン北西部)に、ヴォルガ川流域で強大になったウズベク人(シャイバニ・ウズベク族)が侵入し、ウズベク族の建てたブハラ・ハン国の支配下に入る。

アングロ・ペルシア戦争英語版1856年-1857年)後にパリ条約英語版が締結されると、ガージャール朝ヘラートから手を引いた。19世紀ロシア帝国では軽工業を基幹とする産業革命が進行していたが、1860年代前半に勃発したアメリカ南北戦争の影響から、それまでアメリカ合衆国南部奴隷制プランテーション農業によって生産されていた棉花の値段が上昇したため棉花原料の確保が困難となり、ロシア帝国では「安い綿原料の確保」ばかりでなく、「大英帝国による中央アジアの植民地化阻止」及び「平原を国境とすることの危険性」といった観点から、中央アジアへの南進及び領土編入・保護国化が進められ(グレート・ゲーム)、1868年にブハラ・ハン国はロシアの保護国となった。

20世紀以降[編集]

20世紀初頭のオスマン帝国1904年から1905年にかけての日露戦争での日本の活躍をほとんど注目しておらず、むしろロシアと敵対関係にあったブハラ・ハン国の政府に支援されたブハラからの留学生が留学先のドイツ帝国の首都ベルリンでロシアが日本に敗れたことを知り、ブハラ・ハン国とその同盟国たるオスマン帝国に知らせている[要出典]。その留学生らは、日本の近代化の原動力を明治維新だと知ると、同じような自由主義革命の気運がガージャール朝ペルシア1906年から始まったイラン立憲革命)やオスマン帝国(1908年から始まった青年トルコ人革命)に拡大した。しかし、ロシアの力が余りに強大だったウラル山脈地域や中央アジアでは、本来は民族主義に相容れない社会主義革命[要出典]民族自決のための希望を見出した。ロシア革命の影響を受けたブハラ青年らは保守的なブハラ・ハン国を倒壊し、1920年ブハラ人民ソビエト共和国を打ち立てた。しかし、1924年ソビエト政府は中央アジアの各自治共和国を民族別の共和国に分割統治再編する「民族境界区分」の画定に踏み切り、それまでテュルクの定住民とまとめて「サルト」と呼ばれてきたイラン系のタジクたちが、タジク民族として公認されるとともに、ブハラの東部とトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の南部が切り分けられて現在のタジキスタンの領域にタジク自治ソビエト社会主義共和国が設置された。

このように、中央アジア地域では、ナポレオンフィヒテの唱えた西欧型民族自決の言葉と引き換えに、本来の民族共生というアジア的な優れた生き方を少なくとも政府のイデオロギーレベルでは失うことになり、本来は中央アジア諸国が一団となれば巨大な経済圏となるはずであったのが、結果的に諸国の分立と少数民族と多数派民族とのあらゆる格差を生み出すことになった。以上のような考え方はタジクへももたらされたものの、第一次世界大戦後のトルコ革命後にパミール地方へ逃れたエンヴェル・パシャ将軍らが唱えた「汎テュルク主義」はロシアとの対立を望まないケマル・アタチュルク率いる新生トルコ共和国により却下され、反ロシア・反ソヴィエトのバスマチ抵抗運動は旧地主・支配階層による抵抗運動の枠を超えられず、中央アジア諸民族の結束力の弱さを体現している。この旧地主・支配階層は、その後アフガニスタンに逃れ、一部は湾岸諸国やイラン、或いは西欧に亡命して現在に至っている。一方で1929年、タジクはウズベク・ソビエト社会主義共和国から分離し、ソビエト連邦構成国のひとつタジク・ソビエト社会主義共和国に昇格した。ソ連時代のタジク・ソビエト社会主義共和国は、スターリン批判後の中ソ対立の文脈で1969年に発生した珍宝島/ダマンスキー島をめぐる中ソ国境紛争の調停の結果、タジキスタンの東部パミール地域にあるゴルノ・バダフシャン自治州にあるムルガーブ県英語版の一部領土が中華人民共和国に割譲されるなど、中央政権にとってのタジキスタンのパミール地域は「削られても痛くない辺境地域」として見られているかと見間違うほどであった。

こうして形成されたタジク国家は1990年主権宣言を行い、1991年に国名をタジキスタン共和国に改めるとともに、ソ連解体にともなって独立を果たした。1991年11月大統領選挙でラフモン・ナビエフが当選し、共産党政権が復活する。1991年12月21日、独立国家共同体 (CIS) に参加する。ロシアとは同盟関係にあり、国内にロシア軍が駐留している。

1992年タジキスタン共産党系の政府とイスラム系野党反政府勢力との間でタジキスタン内戦がおこった。11月に最高会議(共産党系)はエモマリ・ラフモノフ (1952-) を議長に選び新政権を樹立し、1993年春までにほぼ全土を制圧した。1994年4月最初の和平交渉が行われた。11月の大統領選挙が行われ、1997年6月の暫定停戦合意で反対派は政府ポストの3割を占めた。5万人以上の死者を出した内戦が終わった。エモマリ・ラフモノフ(現在はラフモンと改名)大統領の就任以来、国際連合タジキスタン監視団 (UNMOT) のもとで和平形成が進められてきたが、1998年には監視団に派遣されていた秋野豊筑波大学助教授が、ドゥシャンベ東方の山岳地帯で武装強盗団に銃撃され殉職する事件が起こった。

1997年に内戦は終結した。UNMOTは2000年に和平プロセスを完了させ、以後は国際連合タジキスタン和平構築事務所 (UNTOP) が復興を支援した。2001年対テロ戦争以来、フランス空軍も小規模ながら駐留している(2008年現在)。

ラフモン大統領の長期政権によって、ロシアや中華人民共和国上海協力機構加盟)、米国との関係強化が行われ、日本を含む各国の手厚い支援や国連活動によって、21世紀に入ってからは年10パーセントの高成長率を維持しているようである。和平後のマクロ経済成長は順調で負債も順調に返済していたが、2006年に中華人民共和国が道路建設支援を目玉に大規模な借款を行ったために、タジキスタンのマクロ経済指標の状況はアフリカ諸国並みであり、将来にわたる世界不況に対する不安が残っている。特に、もともと資源・産業の多様性は乏しい上、所得の再分配がうまく機能せず、国民の大多数は年収350ドル未満の生活を送っている。旧ソ連各国の中でも最も貧しい国の一つであるが、近年のロシア経済の好転により、出稼ぎ労働者からの送金額が上昇したことから、公式経済データと実体経済との乖離、及び出稼ぎ労働者のいない寡婦世帯における貧困の深化が問題となっている。特に、ロシア語の話せない村落部出身の男性は、ロシアでの出稼ぎ先では低賃金肉体労働しか選択肢がなく、過酷な労働による死亡、AIDS若しくは性感染症の持ち込み、或いはロシア国内での重婚による本国家族への送金の停止など、都市部・村落部を問わず社会的問題は単純な貧困を超えた現象となりつつある。

2011年1月12日、タジキスタン下院は、中国との国境画定条約を批准し、パミール高原の約1000平方キロメートルが中国に割譲されることになった。

政治[編集]

政治体制[編集]

タジキスタンの政体共和制をとる立憲国家である。現行憲法1994年11月に採択されたもの。

行政府[編集]

国家元首として強大な権限を憲法により保障されている大統領は、国民の直接選挙で選出され、任期は7年と長い。首相を任命する。副大統領職は無い。

内閣に相当する閣僚評議会のメンバーは、最高会議の承認のもとに大統領が任命する。

立法府[編集]

立法府二院制最高会議(マジリシ・オリ)で、国民議会上院、マジリシ・ミリー)と人民代表議会下院、マジリシ・ナモヤンダゴン)で構成される。国民議会は33議席で、うち25議席は地方議会による選出枠、残りは大統領が任命する。人民代表議会は63議席で、その内、41議席は小選挙区制、22議席は比例代表制で選出される。両院とも任期は5年。

2010年2月28日には下院選挙が行われた。

政党[編集]

主要政党には大統領エモマリ・ラフモン2007年4月14日、ラフモノフから改名)率いるタジキスタン人民民主党旧ソ連時代の政権党であったタジキスタン共産党、そしてイスラム主義宗教政党タジキスタン・イスラム復興党の3つがある。この3党は、比例代表制での5%障壁を超えることができた。タジキスタン人民民主党以外は野党つまり反政府派であり、当初の和平協定では反政府派に政府閣僚級ポストの5%が所定枠として当てられ、「民主的国家」を目指すことになっていたが、2006年11月の大統領選挙で現大統領が再選すると野党反政府派は主要ポストからほぼ退かされた状況にある。

司法[編集]

最高司法機関は最高裁判所で、その裁判官は大統領が任命する。

軍事[編集]

国際関係[編集]

インドが基地の許可を得た[5]

地理[編集]

国土のほとんどは山岳地帯で、中国との国境に至る東部はパミール高原の一部。北部のフェルガナ盆地では、ウズベキスタン、キルギスと入り組んで国境を接している。最高峰はイスモイル・ソモニ峰。主要河川は、アムダリヤ川ヴァフシュ川パンジ川バルタン川英語版ザラフシャン川(旧ソグド川)。

タジキスタンの地震[編集]

地方行政区分[編集]

タジキスタンの衛星写真
首都ドゥシャンベは西の平野部に位置する

地方は3つの州と1つの自治州に分けられる。すなわち、共和国直轄地(首都ドゥシャンベを含む)、南部のハトロン州(州都クルガン・テッパ)、北部フェルガナ盆地方面のソグド州(州都ホジェンド)の2州と、東部パミール高原のゴルノ・バダフシャン自治州(州都ホログ)である。

州より下の行政単位は、行政郡(nohiya) - 地区(jamoat) - 村(deha)或いは集落地 が一般的であり、行政郡の中心部に市(shahrak)をおくこともある。ただし、地方の大きな都市は独立した行政単位であり、特に首都のドゥシャンベ市は非常に権限の強い行政単位である。ドゥシャンベ市の内部は、区(nohiya)が置かれ、住民自治の一端を担っている。

主要都市[編集]

その他の主要都市は、パンジケントガルムクリャーブなどがある。

経済[編集]

内戦終結後の経済発展は著しく、2000年から2004年のGDP成長率は9.6%に達した。主要歳入源はアルミニウム生産、綿花栽培、国外出稼ぎ労働者からの送金である。国営Talco社が世界的規模のアルミ精錬を行っている。主にロシアなど国外での安い労働力提供で得られる仕送りはGDPの36%を超え、貧困層を多く抱えるタジキスタンにとって重要な収入である。

一方、2006年には麻薬押収量世界3位であったが、アフガニスタンからロシアなどへの移送取締りを国連などの協力で実施したため、その効果は上がっているという。アフガニスタン国境の橋が米国により建設されるなどインフラストラクチュア整備が少しずつ進んでいる。

通貨はソモニである。

鉱業[編集]

タジキスタンの鉱物資源で特筆すべきなのはアンチモン鉱である。2002年時点で3000トンを採鉱した。これは世界第4位であり、世界シェア2.1%に相当する。この他、水銀(20トン、世界シェア1.1%)、を産する。有機鉱物資源は亜炭原油天然ガスとも産出するが量は多くない。ウラン鉱も存在する。

エネルギー[編集]

タジキスタンのエネルギー供給は世界一高いヌレークダムや近年完成間近であるサングトゥーダ・ダムなどで行っている、水力発電に完全に依存し、水が足りなくなる冬季においては首都では都市セントラルヒーティング用のボイラーを使った小さな火力発電所しかない。その他には、ザラフシャン川などに大規模ダムなどを作らず、夏季に安定した水供給を約束する見返りとして、冬季にウズベキスタンやトルクメニスタンから電力を輸入している。7000mを超える高山、深い谷と急流、比較的雨量の多い地中海性気候という条件下、年間発電量144億kW/h(2001年)のうち、97.7%を水力発電でまかなっている。安価で大量の電力生産は精錬に膨大な電力を必要とするアルミニウム工業を発達させるためであり、生産量は世界シェアの1.2%に当たる31万トンに達するが、原料となるボーキサイトウクライナなどの外国からの輸入に頼っている。輸出金額に占めるアルミニウムの割合は53.7%にも達するが、その利権の全てがタジク国内にあるわけではない。

交通[編集]

国民[編集]

民族[編集]

民族構成(タジキスタン)
タジク人
  
80%
ウズベク人
  
16%
ロシア人
  
1%
キルギス人
  
1%
その他
  
2%

主な民族タジク人ウズベク人ロシア人など。タジク人の話すタジク語はペルシア語に近く、民族的にはイラン人に近いと考えられるが、タジク人を含めたタジキスタンのムスリム(イスラム教徒)の間ではスンナ派が多数を占め、イラン・イスラーム共和国国教と同じシーア派十二イマーム派の信徒は殆どいない。むしろ、東部のパミール高原ではシーア派のイスマーイール派の信徒が大部分を占め、パキスタン北部と同様に寛容と自由に溢れるイスラム文化を築いている。

2000年時点で、タジク人(79.9%)が多数を占める。ウズベク人(16.5%)、ロシア人(1.1%)、キルギス人(1.1%)が次ぐ[6]。なお、1989年時点ではロシア人は全人口の7.6%を占めていたが、1990年代の内戦により大部分が流出した。

言語[編集]

公用語であるタジク語ロシア語が多く使用されている。ただし、2009年10月から国語法が成立し、公文書や看板、新聞はタジク語を用いることを義務付けられた[7]。違反者には罰金が科される。ラフモン大統領も以前まではロシア語風の「ラフモノフ」と名乗っていたが、現在はタジク語風の「ラフモン」である。ソ連崩壊後に起きたタジキスタン内戦によるロシア人の大量流出によりロシア語は旧ソ連各国では最も通じにくい国なった[要出典]。そのため、現在ではロシア語教育も重要視されつつある[7]

宗教[編集]

タジキスタン国民の多くはムスリムであり、スンナ派が大半を占める。また、歴史的にペルシャとの結び付きが強く、哲学者イブン・スィーナーなどのペルシャ人は尊敬されている。その他、ダルヴァーズ郡、ヴァンジ郡並びにムルガーブ郡を除くゴルノ・バダフシャン自治州では、服装・戒律とも極めて緩やかで、開放的なシーア派イスマーイール派が大多数を占める。イスマーイール派のリーダーは「アーガー・ハーン」の称号を用い、宗教的指導者よりも、精神的・思想的指導者としての面が強く、国境を跨いだアフガニスタンとタジキスタンのイスマーイール派の居住する地域と周辺部では、ビジネス及び人道的支援の両面にわたる社会的事業を展開している。

このようにタジキスタン国内でのイスラム教の影響は強いが、近年はキリスト教ロシア正教など他宗教への改宗も目立ってきている[要出典]。もっとも西欧プロテスタント系キリスト教団が表立って活動することは少なく、むしろ、独立と内戦の戦乱期に入ってきたキリスト教を名乗る一派がロシアの断肉喰の習慣などの厳しい伝統を取り込んだ形で、混乱状態にあった正教徒を取り込んだ結果として勢力拡大につながった、と考えるほうが適当である。

2003年の推計では国民の85%がスンナ派ムスリム、5%がシーア派ムスリム、10%がその他であった[8]

教育[編集]

2011年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は99.7%(男性:99.8%、女性:99.6%)である[8]。2011年の教育支出はGDPの3.9%だった[8]

文化[編集]

イド・アル=フィトルを祝うタジク人家族

タジキスタンの文化は、ウズベキスタンの文化と同根である。しかし、ソビエト時代の共産政権下においては、地域の文化組織は崩壊し、ウズベキスタンの文化とは分断された。しかし、このことは全て悪い結果をもたらした訳ではなく、ソビエト時代には、タジキスタンは劇場と有名な小説家を輩出することにより知られていた。これらタジク知識人士は、タジク語とアラビア語ペルシャ語との関連性を調節し、タジク語をより洗練されたものにした。

食文化[編集]

音楽[編集]

世界遺産[編集]

タジキスタン国内には、国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産リストに登録された文化遺産が1件、自然遺産が1件存在する。

祝祭日[編集]

祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 新年 Соли нави мелодӣ -
3月8日 国際女性デー Занон -
3月20日

- 3月22日

ノウルーズ Наврўз イラン暦新年
5月9日 戦勝記念日 рўзи ғалаба -
9月9日 独立記念日 Истиқлол -
11月6日 憲法記念日 Қонуни асосӣ -
- 断食月明祭 иди Рамазон ヒジュラ暦による
- 犠牲祭 иди Қурбон ヒジュラ暦による

著名な出身者[編集]

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

タジキスタンについての情報
政府
日本政府