パラオ

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パラオ共和国
Beluu ęr a Belau (パラオ語)
Republic of Palau (英語)
パラオの国旗 パラオの国章
国旗 国章
国の標語:Rainbow's End
国歌我等がパラオ
パラオの位置
公用語 パラオ語英語
アンガウル州は上記2言語と日本語
首都 マルキョク
最大の都市 コロール
政府
大統領 トミー・レメンゲサウ
首相 なし
面積
総計 458km2194位
水面積率 極僅か
人口
総計(2005年 20,303人(190位
人口密度 44人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2005年 1億4467万アメリカ合衆国ドル
GDP(MER
合計(2005年 1億4467万ドル(???位
GDP(PPP
合計(2001年 1億7,400万ドル(190位
1人あたり 9,000ドル
独立
国連信託統治アメリカ合衆国)より 1994年10月1日
通貨 アメリカ合衆国ドルUSD
時間帯 UTC +9(DST:なし)
ISO 3166-1 PW / PLW
ccTLD .pw
国際電話番号 680

パラオ共和国(パラオきょうわこく、パラオ語: Beluu ęr a Belau英語: Republic of Palau)、通称パラオは、太平洋上のミクロネシア地域の島々からなる国である。首都マルキョク2006年10月7日に旧首都コロールから遷都した。

国名[編集]

正式名称はパラオ語で、Beluu er a Belau。公式の英語表記は、Republic of Palau。通称、Palau。日本語の表記は、パラオ共和国で通称パラオ。漢字では、帛琉と書き、と略す。また、現地ではベラウと呼ぶこともある。

歴史[編集]

有史以前[編集]

有史以前のパラオについては未解明の状態だが、国内に多く残る遺跡などを研究した結果、約4000年前から人が住んでいたと推定されている。

スペインの植民地[編集]

16世紀頃より、海運の進歩の結果ミクロネシア諸島にもヨーロッパ人が訪れるようになり、スペイン人が初めて渡来し、次いでポルトガル人、イギリス人がやってきた。パラオも1885年にスペインの植民地下に入った。これらのヨーロッパ人により天然痘などが持ち込まれ、また現地人に対する搾取が行われた結果、パラオの人口は90%程度減少したとされる。

ドイツの植民地[編集]

1899年に、国力が衰退の一途を辿っていたスペインは、グアムを除くスペイン領ミクロネシアを450万ドルでドイツに売却、パラオもこれに含まれ以降ドイツ植民地となった。ドイツはパラオでココナッツタピオカ栽培、アンガウルにおけるリン鉱石採掘などの産業振興を行った[1]。しかし、他のドイツの植民地と同様に、道路や水道などのインフラストラクチャーの整備や現地人への教育はほとんど行われなかった。

1914年第一次世界大戦が開始されると、イギリスやアメリカなどと同じ連合国の一国であり、ドイツに対して宣戦を布告した日本海軍を派遣し、ドイツ守備隊を降伏させてこれを占領した。

日本の委任統治[編集]

日本の委任統治領当時のコロール
アンガウル島沖での海戦

第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議によって、パラオはドイツの植民地支配を脱し日本の委任統治領になった[2]。コロールには南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)が置かれ、パラオは周辺諸島における植民地統治の中核的な島となり、多くの日本人が移住しパラオ支庁管内の住民の4人に3人は日本人となった(軍人を除く昭和18年6月末時点の居住者33,960人の内訳:内地人(内地出身日本人)25,026人、朝鮮人(朝鮮半島出身日本人)2,460人、パラオ人先住民6,474人、他にスペイン人・ドイツ人宣教師18人)。

日本の統治が始まってからは、ドイツの統治下ではほとんど進んでいなかった学校や病院、道路など各種インフラストラクチャーの整備も重点的に行われ、1920年代頃になるとコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させていった。また、日本統治の開始にともない日本語による学校教育が現地人に対しても行われるようになった。ただし、本科3年補習科2年の課程であり、日本人子弟とは学校が別だった(公学校)。現地人子弟は高等教育の道が事実上閉ざされていた[1][3]。現地人の教科書編纂のため南洋庁の書記として赴任していた中島敦(後に作家となる)は、教育の軽視など、現地住民がおかれた状況を悲観的に分析した手紙を家族に送っている。

日本は1933年国際連盟から脱退したが、「統治委任はパリ講和会議によるもの」と主張して、国際連盟の加盟諸国もこれを認めたために委任統治を続けた。なお、国際連盟からの脱退により、国際連盟の「委任統治領に軍事施設を建設してはならない」という規則の制約から逃れた日本は、各地に海軍の関連施設を建設した。

第二次世界大戦太平洋戦争)が始まると、コロールは海軍の重要な基地として北西太平洋方面の作戦拠点となった。そのため、西方のフィリピン戦線の状況と連動して連合軍の攻撃対象となり、1944年にはペリリューの戦いなどで両軍に多くの戦死者を出した。なお、ペリリュー島の戦いではパラオ民間人の死者はなかった[4]。しかし、日本国籍を持たない現地人であっても、パラオ挺身隊などに軍属として動員されることがあった[3][5]

1945年8月に日本の統治が終了した当初は日本への反感が一部にはあったものの、現在では非常に親日的でかつ多くの日本人観光客が訪れている上、アメリカに次いで日本から莫大な援助を受けている[6]

アメリカの信託統治[編集]

戦争終結後の1947年に、国際連合の委託を受けアメリカ合衆国はパラオを信託統治下に置いた(太平洋諸島信託統治領)。アメリカはミクロネシア地域には動物園政策を取り教育や福祉健康には援助を行ったが、日本とは違い産業開発にはほとんど投資を行わなかった。

アメリカ統治の開始にともない、今度は英語による教育が住民に対して行われるようになった。パラオ住民は高等教育も受けることが出来るようになった反面、上記のように産業開発は行われず経済はアメリカの援助に依存し、パラオ人は農業などの肉体労働に就くのを嫌がるようになり、かつてアメリカの植民地支配下にあったフィリピンからの出稼ぎ労働者が担うようになった。

食料がアメリカによって豊富に供給されたことにより蛋白源が伝統的な魚介類から輸入肉製品中心となり肥満の問題も発生している。また、高等教育を受けた若者は、アメリカの教育の影響を受けて統治国のアメリカでの就職を希望する者が多く、パラオの人口動態は流動的なものとなって把握が難しくなっていた。アメリカによる教育の「成果」は、後述パラオ憲法の非核条項をめぐるコンパクトの国民投票においてアメリカ側の軍事的利益に反する結果を度々出したことにも現れている。

独立への動き[編集]

1979年7月には、アメリカによる核兵器の持ち込みを禁止した「非核憲法」を住民投票で可決したが、アメリカ政府の意向を受けた信託統治領高等裁判所が無効を宣言。10月、非核条項を緩和した憲法草案で再び住民投票を行ったが今度は否決。しかし1980年7月に、1年前と同じ内容(修正前)の草案での住民投票で可決された。

1981年に、自治政府の「パラオ共和国」を発足させ、憲法を発布。翌1982年に、内政・外交権はパラオが、安全保障はアメリカ合衆国が担うものとし、アメリカ軍が駐留。その見返りとしてアメリカが財政援助をする自由連合盟約(コンパクト)の内容に関して両政府が合意した。だが翌年行われた住民投票でコンパクトは否決され、これ以降、1990年まで都合7回の住民投票が行われたが全て否決された。

独立[編集]

1990年代初頭の冷戦終結を受けて、アメリカにとってパラオの利用価値がなくなった後の1992年に行われた住民投票で、憲法内の非核条項をアメリカとの自由連合協定においてのみ凍結することが決まり、コンパクト承認のための住民投票の可決条件を緩和(75%から50%へ)する憲法改正のための住民投票が行われ、これを可決。同時に行われた大統領選挙でクニオ・ナカムラが当選した。

1993年には、緩和された可決条件の下、8回目の住民投票でアメリカ合衆国とのコンパクトが承認された。これにより、1994年10月1日に、コンパクトによる自由連合盟約国として独立し、国連による信託統治が終了。同年に国際連合へも加盟した。信託統治領としては最後の独立となる。

地理[編集]

パラオの地図
パラオの地図(2)

パラオを構成する島は200程度だが、実際に人が住んでいる島は10に満たないとされる。首都マルキョクやパラオ国際空港のあるバベルダオブ島と旧首都のあるコロール島とは橋で結ばれている。

地方行政区分[編集]

パラオは、16の行政区域に分かれている。

州内の自治は州政府(州知事が首長)によっておこなわれるが、伝統的な酋長制度も並存している。パラオには州単位の酋長で構成される酋長協議会がある。

気候[編集]

海洋性熱帯気候 全域が熱帯の気候であり、年平均気温は27℃と温暖である。また、スコールなど通年で雨が多いが、特に7月と10月の雨量が多い。年間雨量は3,800mmになり、平均湿度は82%である。なお、台風の襲来はほとんどない。

標準時[編集]

全土でパラオ時間(Palau Time, PWT)が施行されている。UTC+9:00で、日本標準時 (JST) との間に時差はない。

政治[編集]

国会議事堂

パラオは任期4年の大統領制をとり、議会は二院制(下院16名、上院9名。任期4年)である。自国軍隊は保持していない。独立時にアメリカ合衆国と締結した自由連合盟約 (Compact of Free Association) に基づき、期限付きであるが軍事権の全てと、外交権のうち軍事権に関連する部分はアメリカ合衆国が掌握している。またこの盟約に基づき一部のパラオ国民はアメリカ軍人として採用されている。

現在の政治的な課題として、アメリカの経済援助が2009年に終了することに備えた財政の自立化と、9・11テロ事件後以降減少した観光客の誘致等があげられている。

外交[編集]

  • 2003年現在、日本や台湾中華民国)、アメリカ、フィリピンを含む29ヶ国と外交関係を樹立しているが、その中でも旧統治国である日本やアメリカとの関係を重視している。中華民国と対立関係にある中華人民共和国とは国交がない。
  • 1996年に崩落したKBブリッジの再建を始めとした多くの援助が日本によってなされているなど、パラオと日本の関係は信託統治時代以降も深い。
  • 三重県ナカムラ元大統領の父が三重県伊勢市の出身であった縁で、1996年以降友好提携関係にある。また旧首都コロールは現在東京都姉妹都市になるべく交渉中である。
  • コロール島の旧官幣大社南洋神社ペリリュー島ペリリュー神社(南興神社)、アンガウル神社が、1980年代以降に日本からの資金により再建された。また、日本からの遺骨収集団や慰霊団も度々訪れている。
  • 現在でも日本や日本語に親しみを持ち、子供に日本風の名前をつけるパラオ人も多い。パラオ語には多くの日本語の言葉が取り入れられており、また、パラオにある唯一の公立高校では、1964年から選択科目として日本語を取り入れている。さらに、アンガウル州では州の公用語の一つとして採用されている。
  • 第6代大統領のトミー・レメンゲサウは、2005年7月の来日前に行われた会見で当時の小泉首相の靖国神社参拝について「すべての人のために祈るのは正しいことだ」と支持を表明した。また、第5代大統領クニオ・ナカムラの代理人が靖国神社に参拝した。
  • 一方でクニオ・ナカムラは「南洋」という言葉が旧植民地宗主国の主観に基づくものとして「われわれの国々を“南太平洋”と呼ぶのもけっして適当とはいえない。“太平洋諸国”といってほしい。“南”は不要です」と発言している[1]。なお、パラオは北半球に位置する。

経済[編集]

パラオ最大のショッピングセンターであるWCTCショッピングセンター
コロール市内

漁業とココナッツなどの農業、観光が主産業で、歳入のほとんどがアメリカ合衆国からの無償援助である。公務員の削減による緊縮財政政策や、観光や軽工業の振興を奨励している。

パラオの貿易収支は大幅な貿易赤字である。2000年時点で輸出1,800万ドルに対して、輸入は9,600万ドルに達する。主な輸出品は、全輸出金額の7割を占めるマグロ、次いで農業生産物のコプラ、わずかな手工芸品などである。日本への輸出品は2003年時点でマグロ(98.6%)が大半を占め、航空貨物による輸出も頻繁に行われている。

主な輸入品は、各種機械(24.2%)、各種原料(19.0%)、食料品(15.2%)、各種製品(13.3%)、原油(10.4%)である。輸入元はアメリカ合衆国(39.3%)、グアム(14.0%)、日本(10.2%)、シンガポール(7.7%)、大韓民国(6.4%)である。

火力発電所は、パラオに一か所しかないが、フィリピン人労働者で維持されている。

パラオ人の多くは公務員であり、その他もホワイトカラー指向であり、教員や看護師などの専門技能を持つ人たちは、給与格差などの理由で1990年代にサイパンへ移住した人も多い。

日本の民間資本によるパラオへの投資[編集]

  • 1990年代まで、日本航空の関連会社が経営する「ホテル・ニッコー・パラオ」が存在したが、老朽化や台風被害の影響で2002年に閉館、その後2005年に同じJALホテルズ運営の「パラオ・ロイヤル・リゾート」が開業した(所有は台湾企業)。
  • 東急不動産の関連会社パシフィック・アイランズ・デベロップメント・コーポレーションが「パラオ・パシフィック・リゾート(1984開業)」を運営している。
  • パラオ国会アドバイザーを自称する増田俊男が大規模場ゴルフ場開発計画を発表している。
  • 株式会社「オーシャン・デヴェロップメント・カンパニー」がパラオにおいて国際コンベンションセンター、マリンリゾート施設、老人ホーム、ゴルフ場などの大規模開発を計画している。
  • プロレスラーアントニオ猪木が名誉オーナーの通称「イノキ島」という、保護大型シャコガイが多数生息する離島が存在する。

情報・通信[編集]

パラオの放送局はICTなどがあり、ほかに専門チャンネルなどでNHKCNNの番組が配信されている。 インターネットにおいてはパラオの番組survivorpw.pwというサイトを開設している。 新聞は「パラオ・ホライズン」と「ティア・ベラウ」、「アイランド・タイム」などがある。

交通[編集]

国内[編集]

コロール市内の道路

鉄道網は整備されていないため、自動車と船艇による移動が中心である。右側通行であるが、日本から輸入された右ハンドルの日本製中古車が多く走っている。

主要島であるバベルダオブ島を周回する通称「コンパクト・ロード」が2007年に完成したため、同島内の交通の利便性が高まった。 バベルダオブ島とその南の、パラオ最大の都市である旧都コロールがあるコロール島とは、KBブリッジ(Koror-Babeldaob Bridge、正式名称「日本・パラオ友好の橋(Japan-Palau Friendship Bridge)」)という橋で繋がっている。

中心部の殆どの道路は舗装整備されているが、中心部を離れたり離島部に行くと道路が舗装されていないため、スコールが来るとぬかるむので注意が必要である。 離島との交通手段には船が使われている他、観光用に小型飛行機が使われることもある。

国外[編集]

バベルダオブ島にあるパラオ国際空港グアムマニラヤップとの間にユナイテッド航空が、中華航空[notes 1]台北から定期便を就航させている。2010年12月からは成田空港からの直行便がデルタ航空によって運航が開始された。

グアムとの間には1日1便または2便直行便が就航している。また、日本航空が年に十数回から数十回の直行チャーター便成田空港中部国際空港関西空港から就航させている。

国民[編集]

人種構成[編集]

パラオでは、海外へ移住するパラオ人と1990年代初頭から海外からの非パラオ人の移住という二つの現象が起きている。 人口の70%程度はパラオ人で、他に1990年代からフィリピン人労働者が多い。人口の半分以上は旧首都コロールに住む。日系パラオ人は全人口の25%を占めるともいわれている。

1970年の人口規模は1万数千人で、海外移住者は2500人以上であったと推定されており、この年以降も数百人規模で海外移住が行われている。特に1972年以降に大規模な海外移住が始まっている[7]

言語[編集]

パラオでもっとも使われている言語は公用語の一つパラオ語(64.7%、以下 United Nations Statistical Yearbook 2002より)である。次いでフィリピノ語(13.5%)、公用語の一つ英語(9.4%)、中国語(5.7%)、カロリン語(1.5%)、日本語(1.5%)。

日本統治時代に教育を受けたパラオ人は、日本語で不自由無く意思疎通ができるレベルに達している者が多い。また日本語由来の現地語も多く流通しており、扇風機は「センプウキ」、電話は「デンワ」、ブラジャーが「チチバンド」、ビールを飲む事は「ツカレナオス」、美味しいは「アジダイジョウブ」、混乱することを「アタマグルグル」、飛行場は「スコオジョウ」と言う。

宗教[編集]

主な宗教キリスト教で、カトリックが41.6%、プロテスタントが28.2%。他にカトリックと伝統宗教が融合した新宗教モデクゲイが8.8%、エホバの証人(166人)、モルモン教(124人)や、土着の宗教がある(2000年センサスより)。

文化[編集]

教育[編集]

娯楽[編集]

映画テレビラジオが娯楽の中心である。なお、「エコパラダイスFM」はエフエム東京(TFM)と日本航空などが協力して設立されたラジオ局で、TFMの一部番組もネットされている。

祝祭日[編集]

日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元日 New Year's Day
3月15日 青年の日 Youth Day
5月5日 敬老の日 Senior Citizen Day
6月1日 大統領の日 President's Day
7月9日 憲法記念日 Constitution Day
9月 第1月曜日 労働者の日 Labor Day
10月1日 独立記念日 Independence Day
10月24日 国連の日 United Nation's Day
11月 最終木曜日 感謝祭 Thanksgiving Day
12月25日 クリスマス Christmas

パラオに住んでいたことがある著名人[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 2008年5月の遠東航空全便運航停止(事実上の倒産)を受け移管

参考文献[編集]

  • 須藤健一監修『パラオ共和国 過去と現在そして21世紀へ』おりじん書房、2003年
[ヘルプ]
  1. ^ a b 森岡純子. “パラオにおける戦前日本語教育とその影響” (PDF). 立命館法学別冊 ことばとそのひろがり (4) 山口幸二教授退職記念論文集: 339頁. 41684195. http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/kotoba05/morioka.pdf 2007年10月24日閲覧。. 
  2. ^ 外務省: パラオ共和国 日本国外務省によるパラオの略史
  3. ^ a b 飯高伸五 「旧南洋群島における混血児のアソシエーションーパラオ・サクラ会」『移民研究』5号、琉球大学移民研究センター、2009年3月。
  4. ^ NPO南洋交流協会[パラオ共和国の歴史] NPO法人南洋交流協会による解説
  5. ^ 1973年12月18日参院外務委員会での社会党田英夫議員の質問
    「これはパラオですが、五人の大体五十過ぎの人たちですが、全部日本語で話してくれましたので非常に意思の疎通が早かったわけですが、この人たちは皆日本の軍隊に強制的に徴用され、パラオ挺身隊という名前をつけられてニューギニアに連れていかれた。仲間の多くは現地で死んでいるわけであります。この人たちが口々に訴えましたのは、自分たちの仲間の遺骨はいまだにニューギニアにある。」
  6. ^ 日本の貿易商社でパラオの大規模開発計画を企画しているオーシャン・デヴェロップメント・カンパニーが運営しているサイトに掲載されている、前パラオ大統領トミー・E・レメンゲサウ・ジュニアからのメッセージとされる文章
    • (第一次世界大戦後から第二次世界大戦)終戦までの日本は、数万人に及ぶ日本人入植者をパラオに送り込み南洋庁を作り、私たちパラオ人のために様々な教育や産業を伝えました。それは後に、パラオ独立のための貴重な原動力となりました。そして現在でもパラオの長老たちは日本のことを「内地」と呼び、世界で最も親日感情が高い国、といっても過言ではないのです 日本パラオ国際交友協会(「パラオ大統領からのメッセージ」から引用)。NPO法人日本パラオ国際交友協会は、パラオにおいて国際コンベンションセンター、リゾート施設、老人ホーム、ゴルフ場などの大規模開発を謳うオーシャン・デヴェロップメント・カンパニーと代表者が同じである
  7. ^ 遠藤央「出稼ぎする人びと」/印東道子編著『ミクロネシアを知るための58章』明石書店 2005年 192ページ

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

政府

日本政府

観光

その他