アントニオ猪木

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アントニオ猪木
プロフィール
リングネーム アントニオ猪木
本名 猪木 寛至
ニックネーム 燃える闘魂
アントン
キラー猪木
身長 187cm
体重 102kg
誕生日 1943年2月20日(65歳)
出身地 神奈川県横浜市
スポーツ歴 陸上競技
トレーナー 力道山
豊登
カール・ゴッチ
デビュー 1960年9月30日
引退 1998年4月4日

アントニオ 猪木(あんとにお いのき、英語表記:Antonio-Inoki1943年2月20日 - )は、日本の元プロレスラー、元参議院議員。本名:猪木 寛至(いのき かんじ)。神奈川県横浜市鶴見区出身。血液型AB型。

新日本プロレス創始者でオーナー。愛称は「アントン」。

日本のプロレス格闘技の歴史を語る上で(猪木自身は、プロレスと格闘技を区別することを嫌っているが)、力道山ジャイアント馬場と並んで、多くのプロレスラー・格闘家に影響を与える存在である。1995年には北朝鮮で、「スポーツと平和の祭典」を開催している。北朝鮮政府によると、この大会では2日間で38万人の観客を動員した。

目次

[編集] プロフィール

[編集] 生い立ち

横浜市鶴見の石炭問屋を営む裕福な一家に生まれる。横浜市鶴見区生麦町(現在の鶴見区岸谷)で育つ。5歳の時に父親は死去。第二次世界大戦後、エネルギー源が石炭から石油に変わったこともあって実家の石炭問屋は倒産し、14歳の時に母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ渡り(長兄は同行せず。祖父は渡航中に船上で毒性のあるまだ青いバナナを食べて死去)、サントス港を経由してサンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごす。高校は、現在も都内にあるセイントメリーインターナショナルスクールから卒業したのである。彼は、レスリングファーイースト大会を優勝した経験も持っている。

[編集] ブラジル移住

ブラジルへ移住した最初の1年半は、農場であまりにも過酷な労働を強いられた。コーヒー豆などを収穫する作業が中心だったが、作業のたびに手の皮がずる剥けになり血まみれになっていたという。1年半の契約だったため逃げることはできなかった。あまりにも過酷なため、作業が終わり与えられた電気も通っていない小屋に戻り着替えるためにTシャツを脱ぐと、Tシャツに染みこんだ汗の塩分のため、Tシャツが固まって立ったほどだったという。猪木の精神力はこのブラジルでの生活で強く培われたと言える。

ブラジルへ移住してからは陸上競技選手として砲丸投などで活躍し、その身体能力をいかんなく発揮する。なお陸上部の前にバスケットボール部に入っていた。ただし「うまくないから」という理由で退部。その後現地の砲丸投げ大会に出場、優勝した際、ブラジル遠征中の力道山の目に留まる。

[編集] プロレスデビュー

1960年4月11日に力道山から直接スカウトされ、力道山に「日本に行くぞ」と言われてそのまま日本へ帰国し日本プロレスに入団した。猪木はこの出会いを振り返り、「本当に自分は運がいい」と今でも語っている。力道山から掛けられた最初の言葉は、「オイ、裸になれ」であった。上半身だけ脱がされて背中の筋肉を見て合格になったという。

1960年9月30日、東京の台東体育館にて大木金太郎とデビュー戦を行った(敗戦)。デビューはジャイアント馬場と同日である。なお、リングネームは、先輩レスラー豊登道春による命名である。当時の名レスラー、アントニオ・ロッカにあやかって名付けられたという説が一般的であるが、単にブラジル帰りを強調するため洋風な名前にされたということらしい(本人曰く「アントニオという名前は日本で鈴木や佐藤という名前が多いようにブラジルではありふれた名前」とのことであるが、実は苗字ではなくファーストネームであり日本でいえばヒロシやタケシ)。

なお、まだリングネームが決まる前に出演したテレビドラマ『チャンピオン太』での役名「死神酋長」を気に入った力道山によりその名をつけられそうになったが、猪木自身はそれが気に入らず、その名前を付けるのであればやめるとまで言ったとの逸話もある。

また力道山は猪木を日系ブラジル人として売り出そうとしていた。これは南アメリカでの興行を成功させる布石でもあり、弟子入りのために帰国した際には「日本語は話せますか?」と記者に問われた。その記事を見た横浜在住時の猪木の幼馴染が日本プロレスの道場を訪ね、「お前は横浜にいた猪木だろ?」と質問したが、猪木は「違う」と貫き通した。猪木自身が「横浜生まれ」だということを公にしたのは力道山が亡くなった後である。

その後は力道山の付き人となったものの、力道山は赤坂ナイトクラブニューラテンクォーター」で刺さされ、後に傷が元で死去した。その後の1964年に、アメリカへ武者修行へ赴く(この時のリングネームは、ロサンゼルス日本人街であるリトル・トーキョーをもじった『リトル・トーキョー・トム』)。地方巡業を中心に活躍して2年後に帰国。なおアメリカ時代にアメリカ人女性と結婚している。

[編集] 東京プロレス

かつて日本プロレス社長であった豊登に「日本プロレスに帰っても一生馬場の上には行けん」と口説かれ、豊登と東京プロレスを旗揚げする。猪木はエースとして扱われ、ジョニー・バレンタインとの一戦は昭和プロレス史に残る名勝負となって一躍猪木の名を有名にした。

しかし、テレビ放送が付かなかったことや営業力の弱体、豊登の横領などにより急速に業績が悪化、3ヶ月で東京プロレスは破産し、最終的に古巣である日本プロレスに戻ることになる。

[編集] 日本プロレス復帰

日本プロレス復帰後は馬場に次ぐ待遇を受け、NET(現テレビ朝日)が日本プロレス中継を開始すると日本テレビとの取り決めで、馬場の試合が日本テレビの独占とされた関係上、NETの日本プロレス中継のエースという格になり、UNヘビー級王座を獲得する。

しかし、馬場との対戦要求が容れられなかった(力道山が日本マットを統一して以降、日本人対決はタブーになっていた)ことや日本プロレスの経理が不透明であったことなど日本プロレスとの度重なる確執から1971年に追放処分を受ける(詳細については上田馬之助 (プロレスラー)#密告事件を参照)。なお、その直前の同年11月、女優倍賞美津子結婚した(1987年離婚)。

[編集] 新日本プロレス設立

日本プロレスを追放された後は新団体設立を画策し、1972年1月26日に新日本プロレスを旗揚げした。当初はテレビ放送もなく苦しい経営であったが、世論は日本プロレス支持から次第に新日本プロレス支持に移り、力道山亡き後のプロレス黄金時代を築く。

新日本プロレス設立当初は、日本プロレスの圧力により有力な外国人プロレスラーを多数招聘することが難しかったため、流血遺恨試合、釘板デスマッチなどの際物的な試合も多かった。その後、無名の外国人を使い続けて育て上げる一方で、WWFとの提携により多数の外国人スターを呼べるようになった。

[編集] 異種格闘技戦

新日本プロレスにおいて、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」というストロングスタイルを標榜。その後のプロレスのスタイルに大きな影響を与える。最強の証明のため、“熊殺し”の空手家ウイリー・ウイリアムスとの対戦など、異種格闘技路線への挑戦を続け後年の総合格闘技の礎を築いた。

中でもプロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの一戦は世界各国に中継され話題を呼んだ。日本ではそのアリ戦は昼間の生中継と、同日のゴールデンタイム19時からNETテレビ(現テレビ朝日)にて録画中継という形で2度放送された。(アントニオ猪木対モハメド・アリ参照)。なお、1979年1月には元アフリカのボクシングヘビー級チャンピオンでウガンダの元大統領イディ・アミンとの異種格闘技戦の計画が浮上した。アミンは猪木戦を承諾したものの、反体制派クーデターを受け亡命。結局、対戦は実現しなかった。

[編集] 「過激なプロレス」

1980年村松友視の『私、プロレスの味方です』が発表される。観客自身の想像力によりプロレスを過激にヒートアップするベクトルを示唆した本書にストロングスタイルの教祖であった猪木は当然反発すると見られたが「過激なプロレス」を標榜、新路線を開拓する。純粋にプロレスラーの技術や試合内容を楽しむ事に主眼が置かれた時代もあったが、1970年代における青少年層がプロレスを愛憎奏であう現実の人間社会として捉える事に対して素直に理解を示した(または、村松の「私的観戦」を便宜主義で利用した)。

その結果、会場における熱狂的ムーブメントがそれまでのプロレス文脈を全てを飲み込む結果となる。後日、プロレスライターのターザン山本は『私、プロレスの味方です』は、時代を変えたとまで書いている。しかし、旗を揚げた猪木自身にも、観客にも以降の方向性が見出せなかったために、「新日本プロレス」内部においては猪木自身の神格化でしかその終焉を迎えられなかった。

[編集] 「猪木監禁事件」

1982年2月27日には、猪木に対し「ルールの無い命をかけた」果し合いを申し込んだ沖縄松林流空手東海支部長であった水谷征夫とともにフルコンタクト空手の団体「寛水流空手(かんすいりゅうからて)」を設立したが、同年に漫画原作者梶原一騎暴力団関係者を使い、猪木を大阪リーガロイヤルホテルの一室に呼び出し監禁する事件が起こった。当時週刊誌スポーツ新聞のみならず、テレビ全国紙でも大きく取り上げられるニュースとなった。原因は猪木が寛水流を設立したことに怒ったとされるが真相は不明。

ちなみに梶原の著書『わが懺悔録』によるとこの事件は、「タイガーマスクのキャラクター使用料が猪木側から支払われなくなっており、猪木も梶原を避けていたので全く連絡がつかなかった時にたまたまホテルで会ったので、部屋に招いてその件を問いただしただけで監禁恐喝は完全に冤罪である」、とある。だが、梶原の他に同席者がいたことは否定しておらず、猪木に対して何らかの威圧をかけることができる人物、もしくはその様な「物」を手にした人物が存在したのは事実のようである。

[編集] IWGP立ち上げと世代交代

1983年には世界統一タイトルを目指しIWGPを立ち上げるが、同年6月2日に、自身の立ち上げた第1回IWGP優勝戦において、当時新鋭であったハルク・ホーガンにロープ越しのアックスボンバーを受けリングサイドに落ちた際に頭を打ち脳震盪を起こし、衝撃の失神完全KO負けを喫した。

また、この頃より猪木自身が「アントンハイセル」など様々な事業に新日本プロレスの資金を投資したものの、その多くが失敗に終わって新日本プロレスの経営を圧迫することになり、これに嫌気がさした所属レスラーによる「クーデター」と、タイガーマスク長州力の退団騒動がこの後に起こることになる。

1988年8月8日の藤波とのIWGP戦は、「猪木負ければ引退か」?と憶測が飛び交った試合であるが、この一戦の前には長州力の不意打ちのラリアットをくらいピンフォール負けするなど、先行きが危ぶまれる中でIWGP挑戦者決定リーグ戦を何とか勝ち抜いてのものであった。「負けたら引退する」と宣言し、引退試合の実況を約束していた古舘伊知郎がテレビ朝日の演出により、急きょ実況する設定の中行われた試合は、結果60分時間切れの引き分け。猪木がIWGPに挑戦した最後の試合となった。

1989年2月22日両国国技館での長州力とのシングルマッチで完璧なピンフォール負けを喫した。猪木はセコンドに肩を担がれ涙を流しながらリングを後にした。

[編集] 政界進出

同年には「スポーツを通じて国際平和」の合言葉で、スポーツ平和党を結成。第15回参議院選挙にも比例区から99万3989票を集めて初当選(キャッチコピーは「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」、史上初のレスラー出身の国会議員となり、「今話題になっているリクルート問題に対して私はこの一言で片付けたい”逆十字固め”」、「国会の場でも俺にしかできない事をやる」と宣言した。なお、当時衆参両院共通で比例区は政党名の投票であったのに対し、自身の知名度の高さから猪木の個人名を書いた無効票が大量に出た。政治活動を続けながらもプロレス界からは引退せず、政治とプロレスの「二足のわらじ」で活動した。

1989年10月14日福島県会津若松市で講演中に暴漢に刃物で襲われ左の頸部などを負傷すると、会場が一時騒然となる中、講演を中止する事無く、傷口をタオルで押さえたまま最後まで行った後、東京の病院に入院した。10月25日頭に包帯をし車椅子に乗った状態で、統一会派を組んだ民社党の配慮により、初めて質問に立った。

1990年12月1日イラクにおいて「平和の祭典」を行うことを発表し、関係者や人質被害者41家族46人と共にトルコ経由でバグダットへ入った。このイベントの開催後に、人質状態にあった在留日本人と全人質のが解放された。この勢いを元にその後行われた1992年7月第16回参議院議員通常選挙でも1議席を獲得(参議院会派で2議席目)した。

1994年1月4日、東京ドーム大会で全日本プロレス出身の天龍源一郎と初対戦し、一旦はチョークスリーパーで天龍を落とし失神させたが、最後は天龍にパワーボムで敗北した。なお、この試合は1年間テレビ中継されなかった。

[編集] 落選

1994年頃より、公設第1秘書(当時)であった佐藤久美子(当初は公設第2秘書であったが第1秘書の猪木快守が借金問題で秘書を解雇され昇格)及びスポーツ平和党前幹事長の新間寿らによる告発で「税金未納問題」、「女性問題」などスキャンダルが持ち上がった。TBSは、新間寿の記者会見を急遽生中継までして放送した。

この前後に、もう1人のスポーツ平和党所属の議員であった江本孟紀と党の運営を巡って対立。特に党運営に関わる金銭疑惑による猪木への不信感により、大きな亀裂が生じた。また釈明記者会見の際に、猪木が机を叩き記者を怒鳴るなどの高圧的な態度も強い批判を浴びた。また、佐川急便事件との関与も報じられた。

一連の「猪木スキャンダル」もあって、1995年の参議院選挙で落選。なお、同じ参院選挙では高田延彦が副党首を務めたさわやか新党も立候補したが、「スポーツ平和党」同様に議席を獲得出来なかった。選挙後、江本は離党した。

[編集] 引退

1994年5月1日福岡ドームグレート・ムタと対戦、フォール勝ちしたものの、この試合より引退への布石となる「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」が始まった(なお「ファイナルカウントダウン」と銘打ったが、「 1、2、3…」とカウントがダウンせずにアップしたことが話題を呼んだ)。

1998年4月4日東京ドームで行われた引退記念イベント「ファイナルイノキトーナメント」で、小川直也などと対戦し勝ち上がったドン・フライと引退試合で対戦、グランド・コブラで勝利し引退した。

引退の際のスピーチ[1]は、いまだに盛んに春一番らがものまねの対象にしている。

[編集] 引退後

引退後はUFOPRIDEINOKI BOM-BA-YEの盛り上げ役や、猪木完全プロデュースによる「ジャングルファイト(MMA/VT)」をブラジルで開催していく。なお、2002年8月28日に行われた「Dynamite!」では、上空4000メートル(夜間規制があったため発表は3000メートル)からのスカイダイビングに挑戦。91,107人(主催者発表)の観衆が待つ国立霞ヶ丘陸上競技場への着地に成功したが、その後「PRIDE」と絶縁。2003年12月31日に日本テレビ協賛で「イノキボンバイエ」を開催したが大失敗に終わり、格闘技プロデュースからは退いた。

2005年11月14日に自身の持つ新日本プロレスの株式(全株式の51.5%相当)を株式会社ユークスに売却し、事実上新日本プロレスの経営から身を引いた。以降は自身が提唱したバングラデシュ興行が中止になる等、同団体への影響力は全盛時ほどは無くなりつつある。

[編集] IGF設立

2006年4月にはアメリカの新興総合格闘技団体IFLの世界大使に就任し、同年9月には、IFL参戦のため東京サーベルズを結成し監督に就任する。同9月には自らが企画し、モハメド・アリの娘や猪木の娘(サイモン猪木の妻)などが参戦を表明した格闘技イベント「INOKI GENOME ~格闘技世界一決定戦~」の開催延期を発表するなど、試行錯誤を繰り返していたが、2007年3月、新団体「イノキ・ゲノム・フェデレーション(IGF)」を発足させ、自身が社長となると共に6月に旗揚げ戦を行った。なお、同時期に娘婿であるサイモン・ケリー猪木新日本プロレス社長を辞職、IGFへ合流した。

また、2007年7月11日、交友のあるTRIPLE-Pと“TRIPLE-P vs アントニオ猪木”を組み、アントニオ猪木の名言「道」を曲にして発売した。道のCDジャケットの裏側はアントニオ猪木の手書きの「道」が書かれているプロモーションビデオにも出演しDJプレイしたりサンプラーを叩いたりする。

2007年12月20日の有明コロシアムの小川直也安田忠夫戦の試合終了後、レフェリーの制止をも聞き入れず暴れまわる小川直也を止めるため乱入し、裸絞めで小川を失神させた。

[編集] プロレス

[編集] 主な戦績

[編集] 通算成績

  • シングル戦 - 611勝41敗50分
  • タッグ戦 - 1466勝104敗130分

[編集] 獲得したタイトル

  • NWAタッグ
  • WC世界タッグ
  • NWA北米タッグ
  • USヘビー級
  • インターナショナル・タッグ
  • 世界ヘビー級(カールゴッチ所有)
  • NWFヘビー級
  • アジアタッグ王座
  • WWF格闘技ヘビー級
  • WWFヘビー級
  • IWGPヘビー級王座
  • UWA世界ヘビー級
  • NWAテキサスヘビー級
  • NWA世界タッグ
  • UNヘビー級

[編集] 得意技

[編集] フィニッシュホールド(必殺技)

コブラツイスト(アバラ折り:アブドミナル・ストレッチ)
主に日本プロレス時代で頻繁に使用した技。ジャイアント馬場など他のレスラーが使い始めたあたりから必殺技としての説得力が薄れ、卍固めをフィニッシュとして使うようになるが、猪木のコブラツイストは他人を滅多に褒めることの無かったブルーザー・ブロディも絶賛していた。
卍固め(オクトパス・ホールド)
アントニオ猪木の代名詞的な技。コブラツイストに代わる新しい必殺技として使用し始め、卍固めという名前は一般公募により名づけられた。別名アントニオスペシャル。相手の体に絡みついた上体と顔を同時に挙げ、相手を絞り上げる鬼気迫る表情は、下記リバース・インディアン・デスロックと並ぶ「様式美」の境地である。
延髄斬り(バック・ブレイン・キック)
運動中枢であり、人体の急所である延髄をジャンプして蹴る技。これも猪木の代名詞的な技である。
バックドロップ(岩石落とし)
猪木はルー・テーズ式の"ヘソで投げる"と表現されるバックドロップの使い手である。
ジャーマン・スープレックス・ホールド(原爆固め)
日本プロレス時代にカール・ゴッチから体得した技。ストロング小林戦で放ったときは投げの勢いがつきすぎてブリッジの際に足が一瞬浮き上がり、首だけで身体を支える形になったことからファンの間で話題になった(この時のジャーマンはオールスタープロレスリングで必殺技として収録されている)。全盛期のブリッジの美しさには定評がある。
ブロックバスター・ホールド
ルー・テーズとのNWF戦でフィニッシュとして使用した。

[編集] 主に晩年に使用された技

グランドコブラ
コブラツイストの体勢からグランドに移行し、フォールを取るか関節を決め、ギブアップを奪う技。引退試合のフィニッシングホールドとなった。
スリーパーホールド(裸絞め)
頸動脈を絞めて相手をギブアップさせる技で、「魔性のスリーパー」の異名を持つ。決め技として説得力を持ち出したのは国会議員になった後からで、それ以前は繋ぎ技のひとつであった。相手を失神させるほどの威力があると言われている。猪木が使用していたいわゆる「魔性のスリーパー」はチョークスリーパーに近いものであった。
一部では“チョークスリーパー”と呼ばれているが、プロレスではチョーク攻撃は禁止されており、これは実況アナウンサー辻よしなりの完全な誤認であると、解説(当時)のマサ斉藤も言っている。

[編集] 伝説の技・その他

アーム・ブリーカー(腕折り)
モハメド・アリとの試合の丁度2年前、昭和49年6月26日大阪府立体育館猪木のベストバウトの1つに上げられる試合、NWFヘビー級選手権試合で、相手のタイガー・ジェット・シンに多用し腕を折った荒業(演出であった可能性大)。相手の手首を自分の肩越しにつかみ、二の腕から腕の付け根にかけて自分の肩に強打する、テコの原理を利用した技。「なんで逃げないの?」への答えは、「掌を押え、肘の関節を外に開く方向で力を加えているから、逃げようとするともっと痛い」。
アントニオ・ドライバー(フロント・ネック・チャンスリー・ドロップ)
東京プロレス時代にのみフィニッシュとして使用していた投げ技で、腰を酷使するため使われなくなったと言われている。
アリキック
モハメド・アリとの異種格闘技戦で使用したためアリの名がつけられた蹴り技。自ら仰向けになり相手の脚の側面や裏側を蹴るこの技は、ボクシングとの異種格闘技戦におけるルールの盲点をついた効果的な攻撃であった(立ったまま、或いは「スライディングキック」で相手の脚を蹴るバージョンもあり)。アリの脚は試合後、紫色に腫れあがり、ホテルのエレベーターでがっくりと膝をついた、との挿話あり。以降は相手の足を狙ったローキックは、猪木が繰り出すとアリキックと呼ばれるようになる。
リバース・インディアン・デスロック
うつ伏せにした相手の交差させた足を極める技。自分の片足を相手の交差した両足に入れながら、そのまま後ろへ受身を取りダメージを与える。両手を叩きながら観客を煽り、派手に後ろへ倒れこむ様は、歌舞伎でいうところの大見得であり、アントニオ猪木が逆襲に転じる際の大きな見せ場の一つとなっている。倒れこんだ状態で相手のアゴを手で捉えブリッジする「鎌固め」に移行することも多い。また、足を絡めた状態から「変形弓矢固め」に移行するパターンもある。
ナックル・パート
勢いよく振りかぶった拳を相手の顔面(主に額)に叩き込む技。技を出すときは、片手で相手の髪の毛を掴みつつ何度も繰り出すため、相手の額が割れることもある。拳骨はプロレスにおいて反則技だが、アントニオ猪木が激高した際に繰り出す定番の技で、レフェリーも猪木が使用するから、という理由で黙認していた。拳を固め、中指のみ突出させて相手の額に打ち付けることもある。別名「鉄拳制裁」、「弓を引くストレート」。を引くように思い切り振りかぶる様子から、「ナックルアロー」と呼ばれることもある。
ドロップキック
助走無しで至近距離から蹴るのを得意としていた。全盛期には3回連続で使うこともあったが決め技としての効果は当然無く、試合中盤から反撃の口火を切る際に用いることが多かった。
ニードロップ
通常は寝ている相手に対して膝から落ち、ダメージを与える技だが、猪木の場合はトップロープから飛び降り、寝ている相手の顔、または反対方向を向いている相手の後頭部に膝蹴りを繰り出す。アンドレ・ザ・ジャイアント戦や北朝鮮興行におけるリック・フレアー戦などが有名。

[編集] 骨法技

浴びせ蹴り
「竜巻蹴り」とも称される。骨法の技の一つとされており、レオン・スピンクス戦前の骨法特訓にて習得。マッハ文朱前田日明が得意とした縦回転二ールキックと混同される事が多いが、軸足を残してバランスを取る二ールキックとは、両足を離して宙に浮く点が大きく異なる。のちにシングルマッチでこの技を食らった天龍源一郎が、我流のアレンジを加えてこの技を継承している。

[編集] 「若獅子」

日本プロレス所属時代のキャッチフレーズは「若獅子」、由来は不明。

[編集] 「燃える闘魂」

新日本プロレス設立後~現在に至るまでのキャッチフレーズは「燃える闘魂」、これは当時テレビ朝日プロレス中継アナウンサーの舟橋慶一の命名である。

[編集] 「イノキボンバイエ」

イノキボンバイエ」のフレーズを持つ入場曲『炎のファイター ~INOKI BOM-BA-YE~』は、元々モハメド・アリの伝記映画『アリ・ザ・グレイテスト』の曲であったが、猪木と対戦したアリが、猪木に贈りアレンジしたものとされる(真相は猪木のマネージャー新間寿がアリ側にお願いして無理矢理そういうことにしてもらった)。ちなみに「ボンバイエ」とは、「Boma ye(ボマ・イェ)」(リンガラ語:彼を殺せ!)が訛ったもの。アリがコンゴの首都キンシャサジョージ・フォアマンと戦った際の声援が由来とされる。

[編集] 猪木の弟子たち

  • 猪木の最初の弟子は藤波辰爾であり、日本プロレス時代の付き人であった。
  • 猪木を慕って来た者の中にはその後袂を分かったケースも少なくない。前田日明(猪木の関係する旧UWFへエースとして参加→崩壊)、佐山聡(旧UWF→シューティング→UFO→決裂)、高田延彦(「PRIDE」で共闘するも後に絶縁)、いわゆる闘魂三銃士(武藤敬司=全日本プロレスへ移籍、橋本真也=ZERO ONE設立)などである。
  • 猪木は力道山の付き人をしていた時代、いつも理由もなく殴られたと語っていた。
  • 現在、猪木を頼りにしている者は安田忠夫藤田和之星野勘太郎等。

[編集] 寛水流空手

寛水流空手(かんすいりゅうからて)は、1982年2月27日に空手家の水谷征夫と猪木が創設したのフルコンタクト空手の団体。その名称は猪木の本名である猪木寛至の「寛」と水谷の「水」を取って命名された。現在は正式名称を「NPO法人 世界寛水流空手道(せかいかんすいりゅうからてどう)」として東海地方を中心に活動している。

[編集] 寛水流空手発足の経緯

『いつ何時誰の挑戦でも受ける』と表明したアントニオ猪木に対して、安藤昇の小説『東海の殺人拳』のモデルとして知られる空手家・水谷征夫が『ルールのない命をかけた戦い』を申し入れた。

その申し出を猪木は承諾し、具体的な話が進められた。なお、「ルールの無い命をかけた戦い」とは急所攻撃を禁止しない、勝負は生死をもって決するというものである。水谷が鎌、サイ、トンファーなど琉球古武術の達人でもあったことから、猪木の素手に対して鎖鎌で戦いを挑んだという説があるが、これは完全な誤りである。素手に対して鎖鎌の挑戦を猪木が受けるはずが無いのは明らかである。また、鎖鎌は日本本土の忍者が日本刀を持った相手に対して鎖の先に分銅を付け、振り回しながら刀を絡め取り、相手の首を鎌でしとめるために創案した武器であり、沖縄には存在しない。(琉球古武術に使われる武器は農具を源流としており、農耕用の鎌を使った二丁鎌の型があるが、鎖鎌が使われることはない)この試合は両者で一旦は合意され、当時マスコミに「昭和の巌流島」として取り上げられた。猪木有利の予想の中、新間寿は水谷の実力を冷静な目で判断していた。そして、テレビ放映のスポンサーがつかなかったことと、水谷の貫手による目への攻撃や蹴りによる急所攻撃によって猪木に万一のことがあることを恐れた新間の必死の仲裁により、直前で中止された。

交渉の過程で水谷は猪木に対して、プロレス界のスターでありながら、一空手家の挑戦をリスク覚悟で承諾した姿勢に尊敬の念を抱く。また、猪木は、自らの命をかけて戦いを挑んでくる日本人がいることに驚嘆する。戦いを前に鋭く対立した二人であったが、その後交流を深め寛水流空手を創設した。水谷は1990年に死去したが、訃報を知った猪木は、盟友の早すぎる死に涙したという。

[編集] 政治

[編集] 略歴

  • 1989年に「スポーツを通じて国際平和」の合言葉で、スポーツ平和党を結成。同年に行われた第15回参議院選挙に比例区から出馬し初当選し、史上初のレスラー出身の国会議員(=参議院議員)となり、猪木チャリティーテレホン(ダイヤルQ2)など様々な政治活動を行った。
  • 東京スポーツは "レスラー・猪木" と "参議院議員・猪木" で扱いを分けていた。「猪木」と呼び捨ての記事にした場合はレスラー・アントニオ猪木、「猪木さん」「猪木氏」と書いた場合は参議院議員・猪木寛至についての記事。
  • ソ連邦から勇利アルバチャコフオルズベック・ナザロフをはじめとするアマチュアボクシングのトップ選手を親交の深い金平正紀率いる協栄ボクシングジムに預け日本でプロデビューする道を拓いた。
  • 湾岸戦争前夜にイラクにおいて行ったイベントにより、人質状態にあった在留日本人と全人質の解放に貢献。なお、北朝鮮でもイベント「平和の祭典(リック・フレアーと対戦し勝利を収めている)」を開催した。
  • 1992年7月に実施された第16回参議院議員通常選挙には、比例代表候補として元阪神タイガースのプロ野球解説者江本孟紀を擁立し、見事当選し参議院会派で2議席目を獲得。
  • 猪木は自由民主党第8代総裁・清和政策研究会初代会長の福田赳夫に可愛がられ、福田の実弟の福田宏一が猪木の格闘家としての後援会会長を務め、また福田の愛弟子で自民党第19代総裁・清和会第4代会長森喜朗とも親交が深い。
  • 二階堂進は日本プロレスリングコミッション(新日本プロレス・国際プロレス)のコミッショナーも勤めていた。1985年、新国技館(両国国技館)の新日本プロレス使用を、前年の蔵前国技館でのファンの暴動騒ぎ(IWGPリーグ戦第二回大会決勝戦の項を参照)から相撲協会が貸し出しを渋った際には、仲介の労をとった。
  • いわゆる「猪木スキャンダル」によって、1995年の参議院選挙で落選する。
  • 同年に突如江本副代表から党の運営を巡って対立する。特に党運営に関わる金銭疑惑による猪木への不信感は2人の関係に大きな亀裂を生じてしまう。江本孟紀副代表は離党し無所属になってしまい、元公設第1秘書(借金問題で一度は解雇された)だった、実兄である猪木快守テノール歌手・パブロ猪木)が党首(代表)に就任。
  • その後スポーツ平和党は主立った政治活動を行わなくなり、2007年3月には公式サイトを閉鎖。既に政治団体解散届を総務大臣に提出している。

[編集] イラク在留邦人人質解放までの真相

  • 1990年湾岸戦争が危惧される中、イラクサダム・フセイン大統領は、在留外国人を国外出国禁止(事実上の人質)とした、その中に多くの日本人が含まれており、安否が気遣われていたが、外務省主導による、人質解放交渉は遅々として進まなかった、解決の糸口さえ見えない外務省の人質交渉に痺れを切らした猪木があることを決断する。
  • それは被害者家族等を率いてあえて緊張高まるイラクでのイベント"スポーツと平和の祭典"を行う為、バグダットに向かうと言うものだった。
  • 猪木に対して外務省はイラク行きを止めるよう説得するもこれを拒否、すると今度は人質被害者家族に対し圧力を掛け「いつ戦争が起こるか分からないし、日本政府としては責任を持てない。そんな所に行くことはまかりならん、もしどうしても猪木議員とイラクに行く場合は、・・・それはあなた方も含めて命の保証が無いと言う意味です。」と猛烈に反対した。
  • イラク邦人人質被害者家族は悩んだ末に、外務省ではなく猪木に全てを託す事にしたのである。
  • 1990年11月、猪木は日本の各航空会社にイラクへの出航を要請したが、外務省の強い圧力により一度決まっていたフライトをキャンセルされると、他のいずれの航空会社も拒否してきたことでイラクへの直行便の計画は暗礁に乗り上げた。
  • やむなく猪木はユセフ・トルコに相談し、チャーター機の費用を猪木個人が負担トルコ航空によるトルコ経由でのバグダッド入りを決意する。
  • 1990年12月1日、平和の祭典関係者や人質被害者41家族46人と共にトルコ経由でバグダット入りを果たす。この時サダム・フセイン大統領は、一国会議員でしかない猪木を国賓級の扱いで迎えたと言う。
  • イラクでのスポーツと平和の祭典は邦人人質を中心に人質被害者家族とイラク人観衆が会場を中心に向き合う中で始まり、12月2日、3日の両日に渡り、ロックコンサートと、日本の大太鼓を初めとする伝統芸能や空手トーナメント、そして最後にプロレスが行われ無事終了し平和の祭典は成功を収める一方、イベント開催中に家族の面談は許されたものの解放までには至らなかった。
  • 焦りと落胆の中、帰路に着くべく機中に着いた時、フライト直前の猪木にイラク政府から「大統領からお話があります」と告げられ急遽猪木だけ飛行機を降り、この結果まず12月5日在留邦人の解放が決まり、7日には人質全員の解放が決定する。
  • 各メディアは人質の解放の事実だけを伝えて、解放に至るまでの経緯や事の真相に触れるマスコミは殆ど無かった。
  • 猪木はかつて新日本プロレスのパキスタン遠征において、格闘技の英雄アクラム・ペールワン[2]と対戦し腕を折るなどして勝利を収めると一躍国民的一大事になり、同行した妻の倍賞美津子と共に猪木が国王と並んで国民に挨拶をする姿が当地のマスメディアで大きく紹介されるなど、猪木はアラブ諸国において英雄として扱われていた事が、イラクへの入国と人質解放に向かわせた大きな要因と言える。
  • これらの背景には、反米感情を背景に米国ブッシュ大統領との対決姿勢を強める中、イラク国民に敬虔なイスラム教徒を強くアピールしていたサダム・フセインは、英雄的存在であり同じイスラム教徒(一時猪木がイスラム教徒に改宗していた)である猪木の扱いを通じてイスラム諸国や国王の支持を取付けたいとの政治的思惑があったとされる。

[編集] 東京都知事出馬と撤退

  • 1991年の東京都知事選に、かつてNHKのニュースキャスターだった磯村が出馬を表明した後に出馬を表明したが、マスコミから「なぜ出馬したのか?」と聞かれ猪木が「彼(磯村)には、かつて『ニュースセンター9時』でアリとの試合を茶番扱いされたので」と答えた。
  • その後福田赳夫首相に説得され、出馬を断念した。
  • 出馬断念に至る裏には、数千万円の現金が動いたとの証言があり、東京スポーツの激闘の永田町にスクープを書いた菊池久を名誉毀損で民事告訴し、マスコミを賑わせたが、判決は領収書の所在が不明との判断で金銭授受を否定して菊池側の敗訴となる。
  • 地裁判決には、猪木と新間寿も出廷していたが、判決後には猪木が菊池久に対して『もう少しうまく話し合いが出来ればねえ』と余裕の表情で語っていた。

[編集] 参議院落選迄の裏側

  • 1995年の参議院選挙(2期目)直前に、税金未納問題や女性問題などスキャンダルを連発する、これらは全て、当時猪木との関係が悪化していた佐藤久美子元公設第1秘書(当初は公設第2秘書だったが、第1秘書の猪木快守が借金問題で秘書を解雇され昇格した)とスポーツ平和党前幹事長の新間寿の告発によるものであった。
  • 数多くのスキャンダルに対して猪木本人は完全否定したが、マスコミから「なぜちゃんと反論しないのか」と聞かれ猪木は「めんどくせえ!!」の一言で終わらせた。
  • なお、TBSは、新間の記者会見を急遽生中継までして放送した。これも「仕掛け人」の異名を持つ新間の手によるものと言われている。
  • 新間はその記者会見で、「女性の方は耳を塞いでください。」と言って、「アントニオ猪木のPKO、それはパンパン、来い来い、オマンコやろう。」と放送禁止用語を生中継にもかかわらず発言し物議を醸す。
  • その後佐藤は、数年後に多額の現金を手にしてオーストラリアでの悠々自適な生活が報道されるなど、やはり「陰謀」の感がぬぐえないという見方が強い。

[編集] 事業

猪木の旺盛な野心はリング内に収まらず、多くの事業に挑戦している。ただし成功を収めたものはほとんど無い。数多くの事業の大半はブラジルに関係する事が多く、アントンハイセルに私財を投げ打ってまで事業を進める事に対して夫人(倍賞美津子=当時)は新間寿(新日本プロレスリング営業本部長=当時)に「何故そこまでしてブラジルに拘るのか」と聞いた程である。下記のように、猪木はプロレスだけに止まらず、様々な事業に手を広げているが、本人は「(事業欲が旺盛であった)力道山と祖父の影響が大きい」と述べている。

[編集] 「アントンフーズ」

アントンフーズ」という会社を設立し、スペアリブレストランチェーン「アントンリブ」を展開する他に、健康食品などを販売していた。この会社は一時日本国内でのタバスコマキルヘニー社)の販売権を持っていたことがあるが、別件で借金を抱えたため手放している。当時はまだタバスコは一般的ではなく、その後激辛ブームや宅配ピザが広まり需要が大幅に伸びた。またタバスコを最初に日本に持ち込んだのは猪木と言われることもあるが、事実ではない。

そのほかにも「アントンマテ茶」やスナック菓子「ひまわりナッツ」を販売。ワールドプロレスリングの番組内で古館伊知郎アナウンサーが宣伝したが、販売実績は振るわなかった。

[編集] 「アントンハイセル」

ブラジル政府を巻き込んだ国際的な大プロジェクト「アントンハイセル」(1980年に設立)は、猪木自身にとって生涯最大の事業であった。これは、ブラジル国内で豊富に収穫できるサトウキビの絞りかすを有効活用法として考案された事業で、当時からブラジル政府は、石油の代わりにサトウキビから精製したアルコールをエネルギーとして使用する計画を進めており、現代で言うところのバイオテクノロジー系ベンチャービジネスの先駆けである。このアントンハイセルを開始するにあたって、猪木は自民党の大物議員にも協力を呼びかけたが断られ逆に辞めるように言われたが、猪木はこの一大事業に傾倒して行く。

この一大プロジェクトとも言える計画に、解決しなければならない大きな問題が発生する、それは弊害としてサトウキビからアルコールを絞り出した後にできるアルコール廃液と絞りかす(バカス)が公害問題となった。そこで家畜に飼料として食べさせるが、直ぐに下痢を起こしてしまう。また、土中にバカスをそのまま廃棄すると、土質を悪化させる為、その土地では農作物が取れなくなるなどの弊害が生じる結果になってしまう。

それでも猪木は世界の食料危機問題に対応すべく、バカスの再生飼料を食べた家畜の糞を有機肥料として、農業生産の向上と家畜の増産を目指すも、結局は日本とブラジルの気候の違いから発酵処理に失敗する。さらに追い討ちをかけるように、ブラジル国内のインフレが原因で生産コストはさらに悪化の一途を辿る。

これらの原因により、現代のエコプロジェクトの先駆けであり国家的事業であったにもかかわらず、経営は僅か数年で破綻する。およその負債額は数十億円とも言われ、テレビ朝日から数億円(12億円との説も)の肩代わり(後に、株券と引き換えに佐川清=佐川急便会長に債権を移動)してもらうがそれだけでは補えず、遂には新日本プロレスの収入の大半を補てんしてしまう。しかしこれがアダとなり新日本プロレスではタイガーマスク(初代佐山聡)や長州力などスター選手をはじめ13名もの選手が大量離脱するなど当時クーデターと言われた騒動は、やがて社長解任劇に発展する。山本小鉄などの動議により経営の責任を取らされる形で、猪木寛二代表取締役社長と坂口征二副社長は解任されテレビ朝日の社員が役員に就任したが、混乱の終結と共に数ヵ月後に復帰する。

なお、ブラジルではサトウキビからエタノールを抽出して燃料とする事業は環境対策や原油高騰などから、内容が見直され積極的に行われている。現在はようやく事業化のめどがついたといわれるが、アントン・ハイセルは既に猪木の手を離れている。

[編集] 「永久電気」

INP技術研究所の名誉会長となっている。同社は「永久電機」用発電機を開発していたが、途中から「高効率モーター」に変化している。

[編集] 「アントニオ猪木酒場」

東京池袋2006年、居酒屋「アントニオ猪木酒場」を開店した。「午後八時のプロレスを見ながら食べたメニューを再現する」がうたい文句の居酒屋で、店内は古きよき昭和の時代をイメージし、常時プロレスが放送されている。既に沖縄店・仙台店・千葉店が開店していて、さらなるフランチャイズ展開が進行中である。なお実際の店舗運営は、IGFのスポンサーでもあり、焼肉屋さかいなどを傘下に収める外食産業大手のジー・コミュニケーションが行っており、猪木は経営には関与していない。

[編集] その他

近年では「サンダリッパ」や「とうふパン」のプロデュースも手掛けた。

[編集] エピソード

[編集] プロレス

  • 日プロ入門当初、ジャイアント馬場は付き人を経験せずにすぐにアメリカ遠征に出され、給料も出ていたという完全に特別扱いだったが、猪木はその全く正反対で、力道山からはまるで目の仇のように厳しく育てられた。リングシューズを力道山に履かせる際、ちょっとした紐の掛け違いでも蹴飛ばされたほど。
  • 「ほうきを相手に試合をできる」程の卓越したプロレス・センスを持ち、過去に『ハンマープライス』内で素人と対戦したり、力道山メモリアル内で滝沢秀明と対戦している。なお『ハンマープライス』で猪木との試合権を購入したのは諸富祥彦明治大学文学部教授である。リングネームは「ゾンビー諸富」であった。
  • 「延髄斬り」は海外マットでもenzuigiriと呼称され、名詞として定着している。
  • 猪木は馬場と16回対戦したが、16戦0勝16敗で、馬場には一度も勝てなかった。
  • 袂をわかってからジャイアント馬場を執拗に敵視し挑発してきたが、私生活ではホテル(キャピトル東急など)で馬場に会った際、「どーもどーも」と笑顔で握手に行き食事に勝手に同席した上、会計を馬場にまかせて去っていったなどの逸話がのこされており、公私は別にしていた。馬場も挑発には乗らなかったが、新日本のNWA加盟に対して妨害工作を行うなど、内心ではかなり猪木を意識していたと考えられる。
  • 引退後もプロレス・格闘技のイベントや試合の開催案を不定期で発表するが、実現せずに終わることも多い(実現しても大赤字に終わってしまうケースが多い)。「できるかどうかは関係ない。まず発表してしまうこと。それでいろいろ周りを巻き込んで 実現へと向かわせればいい。それがオレのやり方」と、交渉の前に発表するという方法を使う。この方法は新日本プロレスおよびその派生団体で今も使われ続けている。当然のことながら名を挙げられた選手、所属団体のフロントなどからの反発も大きい。これはジャイアント馬場がもっとも嫌った手法であり、旧全日系の馬場の弟子が猪木を嫌う理由と同じであり、ジャンボ鶴田・三沢光晴ともに新日系レスラーの筋を通さずマスコミを動かしてなしくずしにもっていく手法を嫌い、否定している。その悪影響を最も受けたのが橋本真也であった。
  • かつて「誰の挑戦でも受ける」とコメントしていたが、新日本に復帰した前田日明の挑戦は受けなかった(実際には前田にも猪木とシングルで対戦できる機会はあった。しかし、UWF代表者決定リーグ戦は