北マリアナ諸島

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北マリアナ諸島自治連邦区
Commonwealth of the Northern Mariana Islands
北マリアナ諸島の旗
地域の旗
地域の標語:なし
地域の歌:Gi Talo Gi Halom Tasi(チャモロ語
Satil Matawal Pacifiko (カロリン語
北マリアナ諸島の位置
公用語 英語チャモロ語カロリン語
主都 ススペ
最大の都市 ガラパン
政府
アメリカ合衆国大統領(国家元首) バラク・オバマ
知事 エロイ・イノス
面積
総計 477km2230位
水面積率 不明
人口
総計(2013年 51,170人(207位
人口密度 107.2人/km2
成立
コモンウェルス盟約締結 1975年
コモンウェルス成立 1978年
信託統治終了 1986年
通貨 USドル (USD)
時間帯 UTC UTC+10 - チャモロ標準時DST:なし)
ISO 3166-1 MP / MNP
ccTLD .mp
国際電話番号 1-670

北マリアナ諸島自治連邦区(きたマリアナしょとうじちれんぽうく、: Commonwealth of the Northern Mariana Islands)、通称北マリアナ諸島は、ミクロネシアマリアナ諸島のうち、南端のグアム島を除く、サイパン島テニアン島ロタ島などの14のから成るアメリカ合衆国自治領コモンウェルス)である。主都は、サイパン島のススペ

地位[編集]

北マリアナ諸島は、1919年から1944年まで日本委任統治していた。戦後、アメリカの信託統治を経て、現在は米国領の中でもコモンウェルスという政治的地位にあり、北マリアナ諸島の住民は、アメリカ合衆国の市民権を有する。他の州とは異なり連邦税の納税義務を持たない代わりに、アメリカ合衆国大統領選挙の投票権がない。アメリカ合衆国議会の選挙権も無く、かつては首都ワシントンに北マリアナ政府代表が常駐するにとどまっていたが、2008年よりオブザーバーの資格でアメリカ合衆国下院の委員会に代表委員を送ることが認められるようになった。

「北マリアナ諸島連邦」と日本語訳されることがあるが、北マリアナ諸島は連邦制(英:federation)をとっておらず、アメリカ合衆国と連邦の関係にあるわけでもない。この連邦とは、コモンウェルス(英:commonwealth)とよばれる自治の形態で、複数の国またはそれに匹敵する地域が政治的経済的につながりを持っている関係を指しているのみである(税関申告書の日本語版には、「北マリアナ連邦へようこそ」と書かれている)。

地理[編集]

北マリアナ諸島の地図

島々[編集]

北から順番に

ロタ島の南にはアメリカ合衆国準州グアム島がある。グアム島も含める場合はマリアナ諸島と呼ぶ。

内政[編集]

北マリアナ諸島政府代表

歴史[編集]

紀元前東南アジアから渡って来たチャモロ人の定住を経て、古代にはタガ王朝が成立した。1565年には全島がスペインの支配下に入ったが、チャモロ人の反乱は絶えず、スペイン=チャモロ戦争が勃発する。1698年には全島民がグアムに強制移住させられた。1898年、米西戦争の結果ドイツ領となり、第一次世界大戦後、日本国際連盟委任統治領になる。太平洋戦争中、日米の激戦地として住民を巻き込んだ地上戦が展開された。戦後、アメリカ国連信託統治領を経て、1978年から北マリアナ諸島としてアメリカの自治領になる。

南洋庁サイパン支庁 
戦前の彩帆香取神社 
太平洋諸島信託統治領政府庁舎 
北マリアナ諸島のコモンウェルス盟約の署名 
北マリアナ諸島政府本庁 

住民[編集]

チャモロの民族衣装
日本統治時代のチャモロ人(1930年代)

人種・民族・宗教[編集]

アメリカ市民権を有する者の中では、先住民族チャモロ人カロリン人が圧倒的に多い。先住民の多くが、スペイン統治時代に伝来したカトリックを信仰している。最初にこの島々に居住した人々の子孫はチャモロ人と呼ばれるが、現在はミクロネシア連邦に属するカロリン諸島との交流も古い伝統があり、カロリン諸島系の住民(カロリン人)も少なくない。ドイツ及び日本による統治時代には、先住民による遠洋航海禁止政策によって、一旦カロリン諸島との交流は途絶えたが、1970年サタワル島の航法師ルイス・レッパンルックが再びカロリン諸島とサイパンの間をカヌーによって航海し、現在は両者の交流は再び盛んになっている。

戦後、北マリアナ諸島には、多くの外国人が移住しており、特にフィリピン人中国人の人口は、チャモロ人を凌駕している。

言語[編集]

主に、公用語である英語チャモロ語カロリン語が話される。

経済[編集]

ホテル・ニッコー・サイパン

主要産業は、日本人を対象にした観光業であり、観光客のほとんど(7割以上)を日本人が占めている。かつて、JALグループは、グアム以上にサイパンの観光開発を重視しており、日本‐サイパン間の路線を毎週14便運航し、年間16万人を旅客輸送していた。ホテル経営にも積極的で、ホテル・ニッコー・サイパンを営業しており、最盛期には、大型ショッピングモールラ・フィエスタ・サン・ロケ・ショッピングプラザをオープンさせ脚光を浴びていた。ラ・フィエスタでは、日本航空のジャンボジェットで空輸した雪で雪まつりが行われ、観光客のみならず地元住民も楽しみにしているイベントであった。しかし、2005年後半以降、収益性の低いリゾート路線のコスト削減の観点から、日本航空の定期便運休やサイパン地点撤退の影響もあり、ピーク時に比べ30%減と日本人観光客が減少傾向にある。これに対し、地理的に近いこともあって、韓国人中国人の観光客が増加しているが、日本人観光客減少の損失を補えるほどではない。このため、北マリアナ経済は、大きな打撃を受けることとなった。そこで、マリアナ政府観光局は、再び日本人観光客を誘致するための政策を行っている。

かつて存在していた縫製工場

かつては繊維業が盛んであった。北マリアナ諸島では、コモンウェルス盟約の規定により、独自の労働法出入国管理制度が認められていたため、最低賃金を合衆国政府が定める基準よりも低く設定し、そして、入国審査も緩くすることで中国人の出稼ぎ労働者を受け入れ、彼らが働く繊維工場が域内各地に出来た。北マリアナ諸島は米国領であるため、「Made in USA」の表示が許され、安価な北マリアナ製衣服が市場を席巻した。しかし、労働者に対する不当な搾取が問題化したため、合衆国政府は北マリアナ諸島政府からこれらの権限を剥奪し、合衆国政府の管理下に置くこととなった。そのため、これらの繊維工場は次々と閉鎖されることになった。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]