マリアナ沖海戦

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マリアナ沖海戦
Japanese aircraft carrier Zuikaku and two destroyers under attack.jpg
米軍の攻撃を受ける空母瑞鶴と駆逐艦2隻
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日:1944年6月19日~20日
場所マリアナ諸島周辺海域
結果:アメリカの勝利
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指揮官
小沢治三郎
栗田健男
角田覚治
レイモンド・スプルーアンス
マーク・ミッチャー
戦力
航空母艦9
戦艦5
重巡洋艦11
軽巡洋艦2
駆逐艦20
航空母艦15
戦艦7
重巡洋艦8
軽巡洋艦12
駆逐艦67
損害
航空母艦3沈没
油槽船2沈没
航空母艦1中破
航空母艦3小破
戦艦1小破
重巡洋艦1小破
艦載機378機
航空母艦2小破
戦艦2小破
重巡洋艦2小破
艦載機123機
マリアナ・パラオ諸島の戦い

マリアナ沖海戦(マリアナおきかいせん)は、太平洋戦争においてあ号作戦として1944年6月19日から6月20日にかけてマリアナ諸島沖とパラオ諸島沖で行われた日本海軍アメリカ海軍空母機動部隊の海戦。アメリカ軍側の呼称はフィリピン海海戦(Battle of the Philippine Sea)である。アメリカ側の作戦名は、海上作戦を含むサイパン島攻略作戦全体についてフォレージャー作戦(「掠奪者作戦」の意味)と命名されていた。

マリアナ諸島に侵攻するアメリカ軍を日本軍が迎撃した本作戦では、日本はアウトレンジ戦法による航空作戦を行うが、アメリカから「マリアナの七面鳥撃ち(Great Marianas Turkey Shoot)」と揶揄されるほどの一方的な敗北となり、日本海軍は空母3隻と搭載機のほぼ全てに加えて出撃潜水艦の多くも失う壊滅的敗北を喫し、空母部隊による戦闘能力を喪失した。マリアナ諸島の大半はアメリカ軍が占領することとなり、西太平洋の制海権と制空権は完全に米国の手に陥ちた。

あ号作戦[編集]

立案[編集]

日本軍は太平洋戦争の短期決着に失敗し、戦力の多くを失った。そのため、1943年中期から日本海軍は戦力を極力温存して、基地航空部隊、空母航空部隊の充実を図り、アメリカ軍侵攻正面をマーシャル方面に想定し、総力をもってアメリカ空母機動部隊を迎撃、撃滅を目的とした「Z号作戦」を計画する。しかし、「ろ号作戦」で予定の戦力が投入され、計画を変更せざるを得なくなり、決戦想定正面をマリアナ諸島もしくはカロリン諸島に変更して「新Z号作戦」となった。

1943年後半からアメリカ軍は中部太平洋での攻勢を本格化させ、11月にはギルバート諸島タラワ環礁マキン環礁を占領、1944年2月にはトラックを空襲すると共にマーシャル諸島へ侵攻し占領した。さらに3月にはパラオ大空襲で日本の在泊艦艇および基地施設に多大な損害を与え、4月にはニューギニア島ホーランジア、アイタペに上陸した。この状況を受けて、5月豊田副武大将が連合艦隊長官に着任すると、アメリカ軍による決戦想定方面への侵攻は5月から6月にを行うものと判断して「あ号作戦」を発令した。

1944年3月31日パラオ大空襲の際、海軍乙事件で「あ号作戦」の元になる「新Z号作戦」計画書など最重要軍事機密が米軍の手に渡った。米軍は把握した日本海軍の兵力、航空機や艦船の数、補給能力等の重要情報をもとに約1ヶ月をかけて用意周到な作戦を練り上げた。日本海軍は「新Z号作戦」計画書が米軍に渡った事を知らなかったため、作戦名を「あ号作戦」と改めるなど多少の作戦変更しか行っていない。

問題は、アメリカの侵攻正面であり、決戦海面としては、小笠原諸島、マリアナ諸島、西カロリンを考えていたが、敵情判断、また現状のタンカー保有量不足から近場が望ましく「西カロリン」を選定した[1]。第一想定正面であるパラオ近海において防衛を行うこととした。そのためにグアムサイパンテニアンの兵力を強化して敵をパラオ方面へ誘い込み、空母機動部隊である第一機動艦隊第一航空艦隊を主力とする基地航空隊によって撃破するという作戦を立てた。この作戦を「あ号作戦」という。あ号作戦の「あ」はアメリカの頭文字に由来する。

準備[編集]

5月16日、リンガ泊地にあった小沢治三郎中将麾下の第一機動艦隊は、予定戦場に近いタウィタウィ泊地へ進出した。タウィタウィで訓練の仕上げを行う計画であったが、日本側の行動を予期していたアメリカ潜水艦多数が待ち伏せていたため、泊地外での空母の訓練行動は危険でできなくなってしまった。タウイタウイ泊地は狭いうえ、赤道に近く無風状態であるため、泊地内では航空機の発着訓練は困難だった。対潜掃討のために駆逐艦が出撃したが、逆に4隻(6月6日水無月、6月7日早波、6月8日風雲、6月9日谷風)が撃沈された。このため十分な洋上訓練が行えず、航空機搭乗員の練度不足はあ号作戦に影響を及ぼした。泊地周辺に展開したアメリカ潜水艦は日本艦隊にとって貴重な給油艦をも襲い、そのうちの2隻を撃沈した[2]

5月20日、豊田副武連合艦隊司令長官は「あ号作戦」開始を発令した。同日、小沢治三郎中将は旗艦「大鳳」で訓辞を行った。

  1. 今次の艦隊決戦に当たっては、我が方の損害を省みず、戦闘を続行する。
  2. 大局上必要と認めた時は、一部の部隊の犠牲としこれを死地に投じても、作戦を強行する。
  3. 旗艦の事故、その他通信連絡思わしからざるときは、各級司令官は宜しく独断専行すべきである[* 1]
  4. もし、今次の決戦でその目的を達成出来なければ、たとえ水上艦艇が残ったにしても、その存在の意義はない。

一方、空母部隊と両輪となるべき日本の基地航空隊は、目標の1/3である500機程度の戦力しか集められなかった。しかも、2月下旬のマリアナ諸島空襲、3月末のパラオ大空襲、4月のトラック島再空襲と重なるたび、比較的に練度の高い搭乗員から出撃して消耗してしまっており、母艦機と同様に練度は芳しくなかった。

また、日本海軍は、アメリカ艦隊の行動を探るため、多数の潜水艦をアドミラルティ諸島北方の「ナ散開線」などアメリカ艦隊の予想進路上に、散開線配備した。ところが、これらの日本潜水艦は、同様の任務に就いていたアメリカ潜水艦と異なって戦果を上げることができず、逆にアメリカの対潜掃討艦艇に発見されて呂一〇〇型潜水艦多数などを撃沈されてしまった[3]

5月27日、米陸軍主体の連合軍は西部ニューギニア沖合のビアク島へ上陸を開始した。 日本軍はビアク島救援のため渾作戦に着手した。 連合艦隊司令部は、マリアナ方面に備えていた第一航空艦隊のうちヤップ所在の約90機を、ビアク支援に転用した。

5月31日、敵中に孤立していたナウル基地を飛び立った海軍の偵察機彩雲が、メジュロ環礁に停泊するアメリカ軍の大艦隊を確認した。大本営は、タンカー不足のためマリアナ諸島沖での艦隊戦が困難な自軍の状況から、このアメリカ艦隊はマリアナ諸島を襲わずビアク攻略部隊の増援かパラオ諸島に来襲すると希望的観測に基づく判断をした。この誤判断の結果、マリアナ方面の第一航空艦隊からさらに約100機をビアク支援のためハルマヘラ島へ移動するよう命じられた。

6月5日、ふたたび彩雲がメジュロ環礁を偵察。アメリカ軍が出撃準備を急いでいることを確認した。6月9日にはメジュロ泊地が空になっているのが確認された。メジュロを出撃した敵艦隊がビアク方面に向かうと見た日本側は、渾作戦を囮として敵艦隊を誘致することで、パラオ方面での迎撃を実現しようと考えた。そこで第三次渾作戦が計画された。

6月11日午後、アメリカ海軍第58任務部隊がサイパン島に対して奇襲的な航空攻撃を行い、日本側基地航空隊に大打撃を与えて制空権を奪う。さらに翌日からは上陸に備え砲爆撃も開始。それでも日本軍は渾作戦を中止しなかった。サイパンでは、脱出しようとした第4611船団が全滅するなど、日本側の艦船や航空機、地上施設や備蓄物資に大被害が出た。日本海軍第一航空艦隊は主力をビアク方面に移し、ダバオにも約100機を残していたため、残る100機弱だけでアメリカ艦隊に応戦することになった。12日にはサイパンから未明に陸攻6機、昼に艦爆6機の基地航空隊が出撃するが戦果なし、6機が未帰還となった。

発動[編集]

6月13日、サイパン現地から明後日中に敵上陸開始の見込みとの報告が届き、豊田長官は「あ号作戦決戦用意」を発令。第一機動艦隊はすでにギマラス泊地への前進を決めていたが、渾作戦も中止となって渾作戦参加部隊も機動艦隊と合流するよう指示された。なお、ビアク守備隊は孤立しつつも勇戦して抵抗を続け、アメリカ上陸軍がビアク島の諸飛行場を制圧して陸軍航空戦力を展開できるようになったのは本海戦の終了後であった。

6月15日、アメリカ軍はサイパン島へ上陸を開始。同日、豊田長官もあ号作戦発動を命令した。第一機動艦隊はギマラス泊地を出撃し、翌16日に渾作戦部隊と合流した。だが、艦隊に協力すべき基地航空隊は、ビアク救援作戦に振り回されて消耗しており、すでにマリアナ所在の戦力はほぼ壊滅状態になっていた。 第一航空艦隊はビアク・ハルマヘラ方面に転進した部隊をヤップやグアムへ戻したものの、転進先での戦闘のほか、搭乗員のマラリアデング熱感染、頻繁な移動に伴う事故などで戦力は大きく低下していた。

アメリカ艦隊は、6月15日のうちには日本艦隊の出撃を知っていた。アメリカ潜水艦「フライングフィッシュ」は、サンベルナルディノ海峡を通過する日本艦隊を発見して報告し、同じく「シーホース」も16日にスリガオ海峡沖を北上する日本艦隊を追尾していた[4]。スプルーアンス提督は、日本艦隊への攻撃を決意した。17日、スプルーアンスは、ミッチャーに対し、第58任務部隊は敵空母の撃破を第一の目標とするよう指示した[5]

戦闘の経過[編集]

6月18日まで[編集]

6月18日、小沢機動部隊は40機以上にのぼる索敵機を発進させ、三段索敵を行った[* 2][6]。昼過ぎ、前衛艦隊索敵機が3群で編成された米機動部隊を発見[7]。前衛部隊の軽空母から攻撃隊が発進した[8]。ところが夜間攻撃を危惧した機動部隊司令部からの命令で攻撃中止となり[7]、攻撃隊は爆弾を捨てて着艦態勢に入った[9]。技術未熟だった攻撃隊は満足に着艦すら出来ず、数機が事故で失われた[8]。旗艦「愛宕」艦橋は重苦しい空気に包まれた[9]

日本の基地航空隊の反撃としては15日、トラックから天山11機、ヤップから第一次攻撃隊零戦9機、彗星3機。第二次攻撃隊として零戦5機、銀河10機が出撃するが、戦果なし。15機未帰還。16日、グアムから天山6機出撃するが、戦果なし。全機帰還。17日、ヤップから零戦31機、彗星19機が出撃し、米護衛空母「ファンショー・ベイ」小破・揚陸艦1隻小破という戦果をあげるも、24機喪失。22機がグアムに着陸し、残4機は不明。トラックから天山5機出撃し、揚陸艦1隻を撃沈するも1機未帰還。18日、ヤップから59機が出撃しタンカー2隻を少破させるも22機を失う。残り37機はグアムに着陸。19日グアムから爆戦3機出撃。

アメリカ艦隊は、日本の機動部隊の所在を見失った状態で警戒していた。スプルーアンスは、日本艦隊が攻略船団だけを狙った一撃離脱を試みることをおそれ、東方への航行を続けた[10]

6月19日[編集]

戦闘機雲を眺める第58任務部隊の兵士
空母バンカーヒルに急降下爆撃を行う日本の爆撃機(1944年6月19日)

19日朝、依然として日本艦隊を発見できないアメリカ機動部隊は、グアム島の日本軍基地航空隊の殲滅を図った。グアムには前日までにヤップから移動してきた日本の基地航空部隊が展開していた。午前8時30分ころからの激しい空中戦の末、グアム上空の制空権はアメリカ軍が掌握した。これは、その後、日本機動部隊のグアム基地を利用した攻撃計画を狂わせる効果を生んだ[10]

一方、小沢機動部隊は早朝の3時30分から頻繁に索敵機を発進し周囲の捜索を開始した。6時半頃、サイパン島西部にアメリカ機動部隊を発見した。

7時25分に空母千歳千代田瑞鳳から前衛の部隊として64機(零戦14機、爆装した零戦43機、天山7機)と、7時45分に甲部隊(空母大鳳翔鶴瑞鶴)から128機(零戦48機、彗星53機、天山29機)の第一次、第二次攻撃隊を発進させた。「瑞鳳」はレーダーで接近する飛行機群をとらえた。7時40分、甲部隊の攻撃隊は味方の前衛部隊上空を通過。この時、日本軍攻撃隊80機を米軍機と判断した前衛部隊の誤射で被害を受け、3機が撃墜された[* 3][11]

双方の攻撃隊は2時間から3時間をかけて米第58任務部隊に到達。第一次攻撃隊は9時35分にアメリカ艦隊への攻撃を開始したが、レーダーで日本海軍攻撃隊の接近を既に探知しており、万全の防空体勢を敷いていたアメリカ海軍に次々と撃墜され、全体の2/3にあたる41機(零戦8機、零戦爆戦31機、天山2機)を失った。第一次攻撃隊の戦果は戦艦と重巡をそれぞれ1隻ずつ小破させたのみであった。10時45分にアメリカ艦隊への攻撃を開始した第二次攻撃隊も、戦艦サウスダコタ、空母バンカーヒル重巡洋艦ミネアポリスを小破させるに留まり、全体の3/4以上にあたる99機(零戦33機、彗星43機、天山23機)もの航空機を失うという大損害を被った。

8時10分、空母大鳳が米潜水艦アルバコアの雷撃を受け、発射された6本の魚雷のうち1本が命中。大鳳の損傷そのものは軽微(前部エレベーターの陥没)であったため、当初は戦闘続行可能な状態であった。

9時15分、乙部隊(空母隼鷹飛鷹龍鳳)から第二波の第三次攻撃隊49機(零戦17機、零戦爆戦25機、天山7機)が発進するが、別働隊と誘導機が進路(目標)変更の受信を逃した上、本隊も米第58任務部隊を発見できずに引き返し、7機(零戦1機、零戦爆戦5機、天山1機)が未帰還となった。10時15分には第四次攻撃隊50機(零戦20機、九九式艦爆27機、天山3機)が発進した[12]。第四次攻撃隊は米艦隊を発見できなかった。攻撃後にグアム島ロタ島経由でヤップ島へ向かうように指示されていたため、グアム島に向かったところ、付近で戦闘機の迎撃を受け26機(零戦14機、九九式艦爆9機、天山3機)が撃墜された[13]。阿部大尉の彗星隊はグアム島で燃料補給を受け、翌日「隼鷹」へ帰艦するよう命じられている[14]。10時45分、彗星9機・零戦6機が発進したが、発進直後に彗星2機・零戦1機が故障で引き返し、さらに索敵中に彗星1機・零戦3機が行方不明となった[15]。この隊は偶然米軍機動部隊を発見したが、F6Fの迎撃で落ち着いて狙うどころではなく、阿部は1時間ほどF6Fに追跡されてロタ島へ不時着した[16]

大鳳の修理作業の後、10時28分に大鳳、翔鶴、瑞鶴から第五次攻撃隊18機(零戦4機、零戦爆戦10機、天山4機)が発進したものの、米第58任務部隊を発見できず、ほとんどが引き返し、一部は不時着、9機(零戦爆戦8機、天山1機)が未帰還となった。10時30分、乙部隊(隼鷹、飛鷹、龍鳳)から第六次攻撃隊15機(零戦6機、彗星9機)が発進し、本隊8機が13時40分頃に米艦隊を発見、空母を目標に攻撃した。しかし、全く戦果を上げられず、9機(零戦4機、彗星5機)が撃墜された。第六次攻撃隊の彗星隊と第四次攻撃隊の九九艦爆隊の共同攻撃を企図したという証言はあるが、連絡や指示された証拠はない。

11時20分には、日本機動部隊に接近した米潜水艦カヴァラが空母翔鶴に4本の魚雷を命中させた。翔鶴は致命的な損傷を受け、14時10分に沈没した。14時32分には大鳳が突如大爆発を起こし、16時28分に沈没した。この大爆発の原因は魚雷のダメージにより気化した航空燃料が艦内に漏れており、艦載機の着艦の衝撃で気化燃料に引火したものとされる。

17時10分、虎の子の正規空母を2隻も失い、送り出した攻撃隊の大半が未帰還となったことから、小沢中将は立て直しのために北上を命じた。日本機動部隊はそれまでに6次にわたる攻撃隊を送ったが、その全てが部隊の大半を失う致命的な損害を喫した。一方、米艦隊の艦艇は被害らしい被害を受けずに日本側攻撃隊の大半を撃墜し、自軍は空戦で29機の戦闘機を損失したに留まった。一連の動きとは別に、18時07分、第五一潜水隊所属「呂115」が爆雷攻撃に耐えつつにワスプ型米空母[17]に対し全搭載魚雷4発を発射したが[18]、命中を確認できなかった。

6月20日[編集]

対空砲火によって撃墜された日本軍の機体

小沢艦隊は20日の夜明け前から活動を再開し、4時40分に索敵機を発進させるが、米機動部隊を発見することはできなかった。12時、小沢中将は旗艦を羽黒から瑞鶴に移した。

第58任務部隊は15時40分にようやく日本機動部隊を発見し、16時過ぎになってその戦力を確認した。マーク・ミッチャー中将は日本機動部隊までの距離が米艦載機の航続可能範囲の限界付近であることや、帰還が夜になってしまうことを覚悟の上で216機(F6F戦闘機85機、SB2C急降下爆撃機51機、SBD急降下爆撃機26機、TBF雷撃機54機)の攻撃隊を出撃させた。17時30分、米第58任務部隊から発進した攻撃隊が日本艦隊上空に来襲した。零戦が迎撃に向かったが23機が撃墜され、空母飛鷹が沈没、他の空母瑞鶴、隼鷹千代田も損傷してしまった。給油艦2隻も航行不能となり、自沈処分された。米攻撃隊は20機が撃墜され、ほかに80機が燃料切れの不時着や着艦失敗で失われた。

空襲を受ける前の16時15分には日本軍側も米艦隊を発見しており、17時25分に甲部隊唯一の空母瑞鶴から7機の雷撃機を発進させ、前衛の栗田中将に夜戦のため東進を命じた。日本側の薄暮攻撃隊は3機未帰還・4機不時着で全損に終わった。

上記の空襲を受けた後、小沢中将は残存空母を率いて夜戦のため東進を続けたが、小型艦艇では燃料不足が懸念されはじめた[19]。19時40分頃、連合艦隊長官豊田副武大将から離脱が命じられ、21日、小沢中将は「あ号作戦」を中止し撤退した。前衛艦隊は米機動部隊と水上戦闘を行うべく24ノットで東進していたが[20]、突入命令中止を受けて北西に変針した[21]

アメリカ艦隊は、20日真夜中から西方に針路を変えて追撃を試みたが、21日午後9時20分に中止した。サイパンへの帰路、脱出・不時着した友軍搭乗員59人を収容した。

NHKで放送された『証言記録 兵士たちの戦争「マリアナ沖海戦 破綻した必勝戦法」』でも言及されていたが、広い太平洋の真っ只中で何の目印もない状況で、出撃した航空部隊が母艦に戻ってくることは、敵を攻撃する以上に難しかったという。特に戦闘爆撃機として出撃した零戦は単座であったため、航法管制をする搭乗員がいないので、独力で戻ってくることはほぼ不可能に近かったといわれる。そのため、アメリカ側に撃墜されただけでなく、洋上で機位を失し燃料切れで母艦に帰還できなかった母艦機も相当数あったようであるが、その実数は不明である。

影響[編集]

機動部隊を率いる小沢治三郎中将は、日本海軍の艦載機の特徴である航続距離の長さを活かし、アメリカ軍艦載機の作戦圏外から攻撃部隊を送り出すアウトレンジ戦法を実行した。しかしレーダーに誘導された戦闘機による迎撃によりそのほとんどが米機動部隊に近づく前に撃墜され、またVT信管を使用した(使用率20%)対空弾幕の増強により、わずかに残った日本の攻撃隊は次々と撃墜された。当時の日本軍の航空隊の平均技量は開戦時より遙かに劣り、開戦時のエースパイロットやベテランの熟練者達の持つ技量で行うことを前提にしたアウトレンジ戦法で2時間以上飛び続け敵艦隊を攻撃することはほぼ不可能に近かった。アメリカ軍は日本の攻撃隊がろくに回避運動もせずたやすく撃ち落とされたことを「マリアナの七面鳥撃ち」と呼んだ。また、日本海軍の空母が相手との距離を縮めないように同じ海域に留まっていたため、次々と敵潜水艦の餌食となってしまった。

日本側はこの戦いで大鳳、翔鶴、飛鷹という数少ない正規空母と軽空母それに準ずる空母3隻を失った他、参加航空兵力の3/4以上となる378機もの航空機の損失により第一機動艦隊は事実上壊滅、日本海軍は二度と機動部隊中心の作戦を行う事ができなくなった。又、この後「絶対国防圏」の要ともいえるサイパン島を失ったことで、戦局の挽回や有利な条件で講和を結ぶ可能性は完全に失われた。

勝敗の要因[編集]

小沢治三郎司令部[編集]

前述のように敗因として搭乗員の技量不足が挙げられるが、そうなった責任は艦隊司令部の指揮官にあった。奥宮航空参謀は、著書[22]で「なお、マリアナ沖海戦での小澤司令長官の戦法(アウトレンジ戦法)は良かったが、飛行機隊の実力がこれに伴わなかったという説があるが、私はこれに賛成出来ない。第一線部隊の指揮官の最大の責務は戦闘に勝つか、払った犠牲にふさわしい戦果を挙げることであるからである」と述べているが、その言わんとするところは、小沢は兵士の技量を無視した無謀な作戦を立ててしまったということである。

小沢中将がアウトレンジ戦法による作戦を立てていたのに対し、乙部隊の首脳陣、特に奥宮航空参謀はそれを行うには母艦搭乗員の技量から見て自信がもてない、と感じていた[23]。 彼は大鳳艦上で行われた、小澤司令部との打ち合わせにおいて、アウトレンジ作戦についての反対意見を述べているが、敢えて議論はされなかったことについて「本件については既に作戦前から小澤司令部の参謀達とよく話してあったが、彼等は母艦航空戦を理解しておらず、ましては理解も出来無かった…と言うより聞く耳を持たなかった」「そんな経緯もあり、大鳳での打ち合わせという最終段階において、その様な議論をすることは利益よりも害が多いから」と述べている[24]。奥宮航空参謀はソロモン方面での苛烈な基地航空戦での経験から現状を以上のように認識していたが、 小澤司令部もまたろ号作戦等、ソロモン方面での航空戦を経験しているため、(一航戦小沢司令部と、第二、三航戦司令部)の間には、母艦搭乗員の現状と空母航空戦の認識に相当の隔絶があったことが伺われる。

アウトレンジ戦法[編集]

アウトレンジ戦法を採用するならば相応の技量に引き上げる為の各種訓練が必要であったが、タウイタウイ入泊後は殆どその機会が無かった。編成の早かった一航戦艦載の第601海軍航空隊搭乗員は、リンガ泊地・シンガポール付近で約一ヶ月程の訓練を行ったが、タウイタウイ入泊後は2回しか訓練出来無かった。 その原因としては、タウイタウイ近辺に、全艦載機を挙げて訓練する飛行場がなかった事、そもそも泊地自体が第一機動艦隊が全艦入泊した時点で一杯になり、泊地内で空母が母艦機の訓練を行なう事が出来無いほど狭かった事、タウイタウイ島周辺に米潜水艦が多数出没した為、泊地から出て訓練ができなかった事が挙げられる。

編成が遅れた二航戦の第652海軍航空隊、三航戦の第653海軍航空隊は、内地で満足に訓練が出来無いままタウイタウイに直行した為、僅かに回航中に1回、入泊後5月18日と同31日の2回しか訓練を行えなかった。その為、二航戦の奥宮正武航空参謀は「タウイタウイでは”如何に練度を上げるかではなく””如何にしてこれ以上、練度を下げないようにするか”に腐心した」[25]。363空飛行長の進藤三郎は「その頃の搭乗員の練度は何とか着艦ができる程度、洋上航法や空戦はやっとこさ というくらいで、とても『アウトレンジ戦法』どころではなかった[26]。」と述べている。

このため、もともと技量のある指揮官クラスの搭乗員は列機を率い戦う訓練を行う事が出来ず、また新規搭乗員は訓練不足で技量の維持ができないという結果となった。故に、長距離を洋上航法を用い編隊飛行で敵艦隊を攻撃した後、また母艦まで往復するアウトレンジ戦法は、当時の母艦搭乗員の技量を無視して強行された戦法であった。さらに、敵艦隊や敵機に遭遇せずとも未帰還(行方不明)となった機体が多かったのは、十分な訓練の機会と時間を与えられなかった事が原因であり、敗北の一因を形成している[* 4][要出典]

また、長距離飛行により生ずる時間経過によって索敵機が発見した目標位置の誤差が拡大し、未錬成の搭乗員では目標を発見出来無い恐れがあった。これを避ける為に攻撃隊の前方に前路索敵(誘導)機を飛ばした。誘導機は攻撃終了後、再び攻撃隊を母艦まで誘導することも期待された。しかし結果的にそれらの効果は認められず、結局多数の未帰還機を出すのみにおわった。[27]

日本軍偵察機の一部は、緯度変更に伴う磁針の訂正をしておらず、第58任務部隊の位置を誤って報告した。その結果、日本艦隊は米機動部隊が二群いるものと取り違え、実際には米艦隊のいない方角に乙部隊を中心とした100機近い航空機を振り向けてしまった。これらの部隊は、米艦隊には会敵できず、彼我の被害減少と損害増大の一因となった。

当初は、マリアナ諸島に展開する第一航空艦隊と第一機動艦隊とが連携して米艦隊を迎撃することで、上述の「物量の差」を補う予定であった。 ところが、海軍乙事件の機密漏洩の影響もあり、米軍の侵攻スピードは日本軍の予想を超え、第一航空艦隊は練度と機数ともに準備が整う前に逐次マリアナ諸島の各島嶼に展開、同時に米任務部隊の激しい機動空襲に晒される事になった。 またビアクへの米軍上陸に伴い部隊がそちらに転用されてしまった。 その結果、迎撃に依る消耗や米艦載機による銃爆撃、一航艦司令長官・角田中将の行なった少数機での米任務部隊への攻撃、ビアクに上陸した米軍への攻撃、その為に生じた部隊の移動に伴う事故等、複数以上の過誤と多くのパイロットがマラリア、デング熱に感染したことも重なり、これら第一航空艦隊所属の航空隊は「あ号作戦」発動前にあらかた損耗してしまっていた。 結果、第一機動艦隊は単独で米第五艦隊と戦う事になり、劣勢を余儀なくされたが、小澤司令部はその現実を知る事はなかった。

一連の戦いで稼動機を全て失った第732海軍航空隊戦闘詳報で「小兵力を駆って徒に無効なる攻撃を続け、兵力を損耗し尽くすに及んで已むに至るが如き作戦指導は、適切とは称し難し。耐久的戦勢に於いては、見敵必戦策なき無理押しを反覆せず、兵を養い機を見て敵の虚に乗じ、戦果を発揚する如くすべきなり」と評した[28]

勝利したアメリカ軍側でも、スプルーアンスの作戦指揮について、消極的であるとの批判がされた。6月18日に攻勢に出なかったことや、20日になるまで西方への進撃を行わなかったことなどが指摘され、航空戦の専門家でないスプルーアンスが指揮官だった点も問題視された[29]

これに対し、戦史家のサミュエル・モリソンは、スプルーアンスの戦術指揮は正しかったと主張する。サイパン攻略の支援という任務を負っていたことから、日本の航空部隊により大きな打撃を与えることは困難であった。また、西進していれば、何隻かの艦艇が失われる結果になっただろうと反論している[29]

モリソンは、どちらかといえば19日に夜間索敵が行われず、日本艦隊発見が遅れたことを問題視する。19日夜の段階で日本艦隊を発見できれば、翌20日に早朝から攻撃が可能であったはずだと指摘する。ただ、ミッチャーが夜間捜索をしなかったのは、搭乗員の疲労が激しかったことへの配慮に基づくものであったと擁護する[29]

戦力の格差[編集]

そもそも航空戦力に決定的な差があった。日本側498機に対しアメリカ側901機、しかも戦闘機だけでも445機(数値については諸説あり)もの差があった。背景としては、日本側はこの海戦に持てる航空機動部隊のすべてを投入したのに対し、アメリカ側はなお多数の空母が残っており、また建造中であった。兵器生産能力の差は大きく、日本側は消耗が許されない状況にあった。いずれにせよ、この海戦の開始時点ですでに、挽回不可能なほど日本側の戦力は劣勢にあった。

日本海軍の主力戦闘機を担っていた零戦は、開戦当初は文字通りに無敵の強さを誇ったものの、極限まで軽量化された機体であったため、搭乗員の生命を軽視し防弾装備は殆どされておらず、ひとたび攻撃される側にまわると脆さを露呈することとなった。 また大出力エンジンの開発でも欧米に大きく遅れをとっていたため、改良型が開発されても大きな性能の向上は望めなかった。この時期に投入を目論んでいた後継機烈風の開発も予定より遅れており、依然として主力であり続けた零戦だったが、開戦当初のF4F ワイルドキャットに代わり米海軍の主力となっていた2000馬力級のF6F ヘルキャットに比べると旧式化・陳腐化。高性能化した米軍機の前には、仮に如何なるエースが搭乗したとしても苦戦は必至であった。 艦上攻撃機である天山は実戦配備が遅く、米軍のTBF アヴェンジャーと比べて速度や航続距離では多少勝っていたが、防弾面では他の海軍機の例に漏れず貧弱であった。このように搭乗員の質のみならず、航空機の性能面でも日本はアメリカに大きく遅れをとっていたのである。なお敵艦載機より航続距離の長いことが前提のアウトレンジ戦法であるが、実は艦爆に関してはこのころ既に実戦における爆装状態での航続距離は、米軍の方が勝っていた。

熟練搭乗員の多くがこれまでの戦闘で既に失われており、経験の浅い搭乗員が多数を占めるようになっていた。前述の通り開戦当初からの様々な戦い、特にい号作戦以降幾度と無く繰り返された母艦搭乗員の陸上基地転用によって、熟練搭乗員を損耗していただけでなく、編隊を率いる指揮官クラスの搭乗員が激減していた。特に後者の損耗は致命的であり、またこれらの搭乗員は、容易に補充も急速錬成も出来無いものであった。

日本海軍は、新規搭乗員の大量養成・母艦搭乗員の急速錬成にもかなりの努力を払い、川崎まなぶによれば、本海戦に参加した全母艦搭乗員の平均飛行時間は、開戦時~南太平洋海戦までと比べてもあまり遜色ないレベルであったとしている[30]が、その大半が基礎訓練を終えたばかりの実戦の経験も無い、新規の搭乗員で占められており、更に編隊指揮官の任に堪えうる熟練搭乗員や実戦経験者は極少数に過ぎなかった。本来は時間の経過とともに増大するはずの平均搭乗時間が多少であれ却って減少していることは、搭乗員の損耗率の高さを物語っているともいえる。

この時期になるとアメリカ海軍機動部隊は、レーダー航空管制を用いた防空システムを構築していた。潜水艦からの報告で日本艦隊の動向を掴んでいたアメリカ機動部隊・第58任務部隊は、初期のレーダーピケット艦と言える対空捜索レーダー搭載の哨戒駆逐艦を日本艦隊方向へあらかじめ約280km進出させておいて、日本海軍機の接近を探知した。そしてエセックス級航空母艦群に配備されていた方位と距離を測定するSKレーダーと高度を測定するSM-1レーダーの最新型レーダーで割り出した位置情報に基づいて日本側攻撃機編隊の飛行ベクトルを予測し、400機にも及ぶF6F ヘルキャットを発艦させて前方70~80kmで、日本側編隊よりも上空位置で攻撃に優位となる高度約4,200mで待ち受けさせた。

第58任務部隊旗艦のエセックス級航空母艦レキシントン Ⅱ戦闘指揮所(Combat Information Center)には、進出させた哨戒駆逐艦や他空母など自艦と同じ最新型レーダーを搭載した艦を含む傘下各艦隊、それと早期警戒機早期警戒管制機の元祖といえる高性能レーダーと強力な無線機を搭載している特別なTBMが戦闘空域近くを飛んでいて、それらから各々探知した日本機編隊の情報が伝えられた。

VT信管(MARK53型信管)

当時のCICは、まだ戦闘に関する情報をほとんど完全な手動で処理、統合、分析を行なうだけで、戦闘機誘導所がCICからの情報をもって空中待機中の戦闘機隊を無線で、向かってくる日本機編隊ごとに振り分けその迎撃に最も適した空域へ管制し、交戦開始後は各戦闘機隊の指揮官が現場指揮を執って、逃げ惑う日本機を追いかけ回した。

また1943年の末頃から、対空砲弾が命中しなくても目標物近く通過さえすれば自動的に砲弾が炸裂するVT信管を高角砲弾に導入した。この結果、従来の砲弾に比べて対空砲火の効果は数倍に跳ね上がった。アメリカ軍は概ね3倍程度と評価している。なお、マリアナ沖海戦におけるアメリカ艦隊の対空砲火のスコアは、戦闘機の迎撃を突破して艦隊上空に到達できた日本機が少なかったこともあり、VT信管弾や40mmボフォースなど全てを合計しても19機(米側確認スコア。当然誤認を含むと思われる)に過ぎなかった。また1943年に開発されたばかりのVT信管はマリアナ沖海戦時点では製造が間に合っておらず、アメリカ艦隊が発射した全高角砲弾のうちVT信管弾が占める割合は20%程度であった。

日本軍でもアメリカ艦隊の対空防御能力を「敵艦艇の対空火力は開戦初期はパラバラ、その後火ぶすまに変わり、今やスコールに変わった」として、これまでのような方法でアメリカ空母を攻撃しても成功は奇蹟に属すると考えるようになった[31]

決戦方面の選定[編集]

あ号作戦の決戦方面にマリアナは含まれてはいたが、ほぼ考慮されていなかった。軍令部作戦課長山本親雄によれば「マリアナには全然来ないとは思わなかったが、あれほど早く来るとは考えていなかった。マリアナには陸軍兵力が入り、相当自信があるのでまず大丈夫と考えていた」という[32]堀栄三によれば、陸軍ではこの方面の作戦計画をした主務参謀晴気誠が海軍に対して、たとえ海軍航空が無くなっても第四十三師団が到着するから敵を絶対に叩き出せるという説明を行ったという[33]

参加兵力[編集]

日本軍[編集]

第一機動艦隊(正規空母3、改造空母6 搭載機零戦225機、彗星艦爆99機、九九艦爆27機、天山艦攻108機、九七式艦上攻撃機二式艦上偵察機、498機との説あり)

ほとんどヤップ島、グアム島の航空部隊でサイパン島、テニアン島の航空部隊は空襲で壊滅
    • 守備隊30000人

アメリカ軍[編集]

第5艦隊
海兵隊
アメリカ陸軍
  • 第27歩兵師団(増援部隊) 司令官:ラルフ・C・スミス陸軍少将 → スタンフォード・ジャーマン陸軍少将 → ジョージ・W・グライナー陸軍少将

損害[編集]

日本軍[編集]

沈没[34]
  • 空母:大鳳、翔鶴、飛鷹
  • 油槽船:玄洋丸、清洋丸(雪風の雷撃処分)
損傷
  • 戦艦:榛名(直撃弾1、火薬庫漏水。小破)
  • 空母:隼鷹(中破[* 5])、龍鳳(小破)、千代田(直撃弾1、小破)、瑞鶴[* 6]
  • 重巡:摩耶(直撃弾1、小破)
  • 油槽艦:速吸(小破)
潜水艦

出撃21隻に対し損害8隻

この時期の潜水艦喪失17隻の詳細(公刊戦史による)

  • あ号作戦前の5月下旬の大量喪失5隻(呂104、105、106、108、116)
  • ほかマーシャル方面で偵察、輸送任務に当たっていた3隻の喪失(伊16176183
  • 北方艦隊の伊180の喪失(ただし、アリューシャン方面)
  • あ号作戦中の邀撃任務に出た21隻のうち8隻の喪失(伊184,185、呂36,42,44,111,114,117)

20隻の内訳(公刊戦史「潜水艦史」による)
5月3日「あ号作戦計画」発令
5月14日「あ号作戦配備」発令 各潜水艦は邀撃任務のため担当散開線に向かう
イ176(5月16日没)、イ16(5月19日没)
5月20日「あ号作戦計画開始」発令
ロ106(5月22日没)、ロ104(5月23日没)、ロ116(5月24日没)、ロ108(5月26日没)、ロ105(5月30日没)

6月13日「あ号作戦決戦用意」発令 潜水艦部隊はマリアナ東方海域に急行
6月19~20日 水上戦闘
6月21日 展開潜水艦部隊に帰還指令 
この間での未帰還 イ184、イ185、ロ36、ロ42,ロ44、ロ111、ロ114,ロ117

孤立したマリアナ諸島への物資輸送、通信連絡、パイロット・第六艦隊司令部収容任務での未帰還
イ5イ6イ10イ55、ロ48
7月27日を以ってア号作戦中部太平洋潜水艦作戦中止

損失航空機

艦載機と水上機や基地など476機

死傷者

航空搭乗員戦死445名、艦乗組員戦死と失踪3000名以上

その他

アメリカ軍[編集]

損傷
  • 戦艦:サウス・ダコタ、インディアナ
  • 空母:バンカーヒル、ワスプ
  • 重巡:ミネアポリス、ウイチタ
損失航空機

撃墜43機、着艦失敗や不時着など87機

死傷者

航空搭乗員戦死76名、艦乗組員戦死33名

注釈[編集]

  1. ^ ただし、この訓辞は、各艦隊の司令部要員クラスにだけに行われた可能性もある。理由としては、653/652/601航空隊の中で生き残った搭乗員たちは、戦後NHKのドキュメンタリー取材に際し、その様な訓辞は聞いてもいないし、知りもしないと「証言」していることから。その証言に、信憑性があるか否かは、確かめる術は、もはやない。大戦中、搭乗員の過大な戦果報告を丸呑みせざるを得なかった根本の理由もここにある。
  2. ^ ミッドウェー海戦の際にはわずか7機であったものを、戦訓により索敵力を強化したものである。
  3. ^ 「昭和19年6月20日 軍艦利根戦闘詳報 第7号(あ号作戦中対空戦闘に対する分)」第11-12画像、安永弘『死闘の水偵隊』344頁、「筑摩」所属偵察機乗員。山本佳男『巡洋艦高雄と共に』135頁、三連装機銃射手。
  4. ^ タウイタウイに閉じ込められた原因としては潜水艦の跋扈が上げられる。泊地を出た途端雷撃される事もあり、そのため、護衛の駆逐艦が損耗した。そもそもタウイタウイ島と、その周辺海域は、南シナ海で通商破壊を行なう米潜水艦航路の途中にあった。
  5. ^ アイランドの煙突に命中するも、航行に支障無し。
  6. ^ 500ポンド爆弾を艦橋後部のマスト付近に命中したとしているが乗組員の回想では被弾無し、至近弾によるスプリンターを直撃弾と勘違いした可能性有り。

出典[編集]

  1. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦336頁
  2. ^ モリソン(2003年)、286頁。
  3. ^ モリソン(2003年)、287頁。
  4. ^ モリソン(2003年)、284-285頁。
  5. ^ モリソン(2003年)、290-291頁。
  6. ^ 草鹿 1979, p. 260.
  7. ^ a b 「戦闘詳報.第1機動部隊 あ号作戦(653空.第1機動艦隊司令部.千歳.千代田)(1)」第35画像
  8. ^ a b #小板橋見張員p.84、著者は当時「愛宕」航海部操舵手。
  9. ^ a b #小板橋見張員p.85
  10. ^ a b モリソン(2003年)、292-293頁。
  11. ^ 『いざゆけ!ゼロ戦 最強の戦闘機、激闘の伝説 スーパー戦闘機で知る太平洋戦争 ゼロ戦は無敵だった!』(KKベストセラーズ、2007年)230頁によると、「8時20分、前衛部隊の戦艦大和艦橋で第1次攻撃隊127機が高度4000メートルで前衛部隊に近づいてくるのを発見したが、無線封鎖中の前衛部隊ではこの100機を超える編隊が敵か味方か、判別できなかった。日本海軍では飛行機は味方軍艦上空を飛ばないことになっており、重巡高雄が味方識別合図を要求するため高角砲4発射ち上げたが、編隊は無反応のまま艦隊の真上に向かって距離1万5千メートルまで接近。大和は敵編隊とみなして全艦に左45°一斉回頭と対空射撃の緊急命令を出し、各艦は回頭と発砲を始めた。日本機編隊は慌てて翼をバンクさせて味方だと知らせたのだが、4機も被弾して落ちていった。」
  12. ^ #艦爆隊長p.168
  13. ^ #艦爆隊長p.169
  14. ^ #艦爆隊長p.170
  15. ^ #艦爆隊長p.171
  16. ^ #艦爆隊長p.176
  17. ^ 「昭和19年6月20日~昭和19年7月10日 第61駆逐隊戦闘詳報(2)」第1画像
  18. ^ 「昭和19年6月20日~昭和19年7月10日 第61駆逐隊戦闘詳報(2)」第11-12画像
  19. ^ 池田清『最後の巡洋艦矢矧』(新人物往来社、1998)、85頁
  20. ^ #小板橋見張員p.88
  21. ^ #小板橋見張員p.89
  22. ^ 『太平洋戦争と十人の提督』(617頁より)
  23. ^ 『戦史叢書 12 マリアナ沖海戦』
  24. ^ 『真実の太平洋戦争』『太平洋戦争と十人の提督』より。
  25. ^ 『日本はいかに敗れたか 上』より
  26. ^ 神立尚紀『零戦最後の証言2』光人社NF文庫、pp.113f
  27. ^ 『真実の太平洋戦争』(第二章 数多い誤認と誤解 2 夢に終わったアウトレンジ戦法より 157-158頁)
  28. ^ 内藤初穂『戦艦大和へのレクイエム 大艦巨砲の技術を顧みる』(グラフ社、2008)185頁
  29. ^ a b c モリソン(2003年)、298-299頁。
  30. ^ 川崎まなぶ著『マリアナ沖海戦 母艦搭乗員 激闘の記録』(308~309頁 飛行時間の計算)
  31. ^ 戦史叢書 41 P.110
  32. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦323-325頁
  33. ^ 堀栄三『大本営参謀の情報戦記』文春文庫128頁
  34. ^ 「戦闘詳報.第1機動部隊 あ号作戦(653空.第1機動艦隊司令部.千歳.千代田)(1)」第49-51画像

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08030710900「戦闘詳報.第1機動部隊 あ号作戦(653空.第1機動艦隊司令部.千歳.千代田)(1)」
    • Ref.C08030711000「戦闘詳報.第1機動部隊 あ号作戦(653空.第1機動艦隊司令部.千歳.千代田)(2)」
    • Ref.C08030573900「昭和19年6月1日~昭和19年11月15日 軍艦利根戦時日誌戦闘詳報(1)」
    • Ref.C08030574000「昭和19年6月1日~昭和19年11月15日 軍艦利根戦時日誌戦闘詳報(2)」
    • Ref.C08030713100「昭和19年6月20日 軍艦利根戦闘詳報 第7号(あ号作戦中対空戦闘に対する分)」
    • Ref.C08030150500「昭和19年6月20日~昭和19年7月10日 第61駆逐隊戦闘詳報(1)」
      内容は、第六一駆逐隊戦闘詳報、第五一潜水隊「あ号作戦戦闘詳報」
    • Ref.C08030150600「昭和19年6月20日~昭和19年7月10日 第61駆逐隊戦闘詳報(2)」
      内容は、呂号第百十五潜水艦「あ号作戦戦闘詳報(ワスプ型空母襲撃)」他
    • Ref.C08030150700「昭和19年6月20日~昭和19年7月10日 第61駆逐隊戦闘詳報(3)」
      内容は、特設運送船「あづさ丸」戦闘詳報、特設運操船「玄洋丸」戦闘詳報、他
  • NHK戦争証言プロジェクト 「マリアナ沖海戦 破綻した必勝戦法」『証言記録 兵士たちの戦争(2)』 NHK出版、2009年。
  • 阿部善朗 『艦爆隊長の戦訓 体験的/新説太平洋海空戦』 光人社、1997年ISBN 4-7698-0834-8(隼鷹彗星操縦員)
  • 奥宮正武『真実の太平洋戦争』(PHP文庫、1988年) ISBN 4-569-56383-X
  • 奥宮正武『日本はいかに敗れたか』上(PHP研究所、1993年) ISBN 4-569-54182-8
  • 奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』(学研M文庫、2001年) ISBN 4-05-901045-6
  • 奥宮正武『太平洋戦争と十人の提督』上、下(学研M文庫、2001年)
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  • 奥宮正武淵田美津雄 『機動部隊』 学研〈M文庫〉、2008年 ISBN 978-4-05-901222-1
  • 江戸雄介『激闘マリアナ沖海戦―日米戦争・最後の大海空戦』 光人社〈NF文庫〉、2000年 ISBN 4-7698-2264-2
  • 海防艦顕彰会『海防艦戦記』(海防艦顕彰会・原書房、1982年)
  • 学研編集部(編) 『歴史群像 太平洋戦史シリーズ8 マリアナ沖海戦』 学習研究社、2001年 ISBN 4-05-401264-7
  • 川崎まなぶ『マリアナ沖海戦―母艦搭乗員 激闘の記録』 大日本絵画、2007年 ISBN 978-4-499-22950-0
  • 木俣滋郎『日本空母戦史』(図書出版社、1977年)
  • 木俣滋郎『日本戦艦戦史』(図書出版社、1983年)
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』(図書出版社、1986年)
  • 木俣滋郎『日本海防艦戦史』(図書出版社、1994年)
  • 草鹿, 龍之介 (1979), 連合艦隊参謀長の回想, 光和堂  - 1952年、毎日新聞社『聯合艦隊』、および1972年行政通信社『聯合艦隊の栄光と終焉』の再版。戦後明らかになった米軍側の情報などは敢えて訂正していないと言う(p.18)。
  • 源田實『海軍航空隊始末記』(文春文庫、1996年) ISBN 4-16-731003-1
  • 小板橋孝策 『戦艦大和いまだ沈まず 「大和」艦橋見張員』 光人社、1983年ISBN 4-7698-0224-2
  • 小林昌信ほか 『証言・昭和の戦争 戦艦「大和」檣頭下に死す』 光人社、1995年ISBN 4-7698-2087-9
    • 渡辺義雄『ああ「瑞鶴」飛行隊帰投せず』(戦闘機整備科員)
  • 佐藤和正『レイテ沖の日米決戦 日本人的発想VS欧米人的発想』(光人社、1988年) ISBN 4-7698-0374-5
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 51人の艦長が語った勝者の条件』(光人社、1989年) ISBN 4-7698-0445-8
  • サミュエル・E・モリソン 『モリソンの太平洋海戦史』 光人社、2003年。
  • 志柿謙吉 『空母「飛鷹」海戦記 「飛鷹」副長の見たマリアナ沖決戦』 光人社、2002年2月。ISBN 4-7698-1040-7
  • シーパワー編集部(編)『海軍機動部隊』 軍事研究1992年7月号別冊 ISSN 0533-6716 雑誌 03242-7
  • ピーター・C・スミス著、地主寿夫訳 『天空からの拳 艦爆の神様・江草隆繁』 PHP研究所、2009年ISBN 978-4-569-77149-6
  • C・W・ニミッツ & E・B・ポッター 著\実松譲 & 冨永謙吾 訳『ニミッツの太平洋海戦史』(恒文社、1992年新装版) ISBN 4-7704-0757-2 英題『THE GREAT SEA WAR』
  • 写真 太平洋戦争 第四巻』(光人社、1989年) ISBN 4-7698-0416-4
  • 防衛研修所戦史室編戦史叢書 12 マリアナ沖海戦』 朝雲新聞社、1968年
  • 防衛研修所戦史室編 『戦史叢書 41 捷号陸軍作戦(1) レイテ決戦』 朝雲新聞社、1970年

外部リンク[編集]