日本国との平和条約
| 日本国との平和条約 | |
|---|---|
| 通称・略称 | 「サンフランシスコ条約」など |
| 署名 | 1951年9月8日(サン・フランシスコ市) |
| 効力発生 | 1952年4月28日 |
| 条約番号 | 昭和27年条約第5号 |
| 言語 | 英語、フランス語、スペイン語、日本語 |
| 主な内容 | 第二次世界大戦における連合国と日本の間の平和条約 |
| 条文リンク | 中野文庫 |
日本国との平和条約(にっぽんこくとのへいわじょうやく、英:Treaty of Peace with Japan、昭和27年条約第5号)は、第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国諸国と日本国との間の戦争状態を終結させるため、両者の間で締結された平和条約。
本条約はアメリカ合衆国のサンフランシスコ市において署名されたことから、サンフランシスコ条約・サンフランシスコ平和条約・サンフランシスコ講和条約などともいう。1951年(昭和26年)9月8日に全権委員によって署名され、同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約も署名された。翌年の1952年(昭和27年)4月28日に発効するとともに「昭和27年条約第5号」として公布された。
この条約によって正式に、連合国は日本国の主権を承認した[2]。国際法上はこの条約の発効により、正式に日本と連合国との間の「戦争状態」が終結した[3]
目次 |
正文 [編集]
この条約の後文には「千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で、ひとしく正文である英語、フランス語及びスペイン語により、並びに日本語により作成した」との一文があり、日本語版は正文に準じる扱いとなっている[4]。これは当時国連公用語だった英語・フランス語・スペイン語・ロシア語・中国語の5カ国語[5]のうちソビエト連邦と中華民国がこの条約には加わらなかったことからロシア語版と中国語版が作成されなかったことによるもので、また日本語が加えられているのは当事国であるためである。日本では外務省に英文を和訳させ、これを正文に準ずるものとして締約国の承認を得たうえで条約に調印した。現在条約締結国に保管されている条約認証謄本は日本語版を含む4カ国語のものである。
内容 [編集]
- 日本と連合国との戦争状態の終了(第1条(a))
- 日本国民の主権の回復(第1条(b))
領土の放棄または信託統治への移管 [編集]
- 朝鮮の独立を承認。朝鮮に対する全ての権利、権原及び請求権の放棄(第2条(a))
- 台湾・澎湖諸島の権利、権原及び請求権の放棄(第2条(b))
- 千島列島・南樺太の権利、権原及び請求権の放棄(第2条(c))
- 国際連盟からの委任統治領であった南洋諸島の権利、権原及び請求権の放棄。同諸島を国際連合の信託統治領とする1947年4月2日の国際連合安全保障理事会決議を承認(第2条(d))
- 南極(大和雪原など)の権利、権原及び請求権の放棄(第2条(e))
- 新南群島(スプラトリー諸島)・西沙群島(パラセル諸島)の権利、権原及び請求権の放棄(第2条(f))
- 南西諸島(北緯29度以南。琉球諸島・大東諸島など)・南方諸島(孀婦岩より南。小笠原諸島・西之島・火山列島)・沖ノ鳥島・南鳥島をアメリカ合衆国の信託統治領とする同国の提案があればこれに同意(第3条)
戦前の国際協定に基づく権利等の放棄 [編集]
- サンジェルマン条約、ローザンヌ条約及びモントルー条約に基づくボスポラス海峡・マルマラ海・ダーダネルス海峡に関する権利及び利益の放棄(第8条(a))
- ヤング案に基づく諸協定や国際決済銀行条約など、第一次世界大戦の連合国として有していた対ドイツ賠償に関わる権利、権原及び利益の放棄(第8条(a))
- 北京議定書(付属書、書簡、文書含む)の廃棄。同議定書に由来する利得及び特権を含む中国における全ての特殊の権利及び利益を放棄(第10条)
国際協定の受諾 [編集]
- 国際連合憲章第2条に掲げる義務(7大原則に従うこと)を受諾(第5条(a))
- 第二次世界大戦(1939年9月1日を開戦日とする)を終了させるために現に締結されもしくは将来締結される条約、連合国が平和の回復またはこれに関連して行う取極の完全な効力を承認(第8条(a))
- 国際連盟及び常設国際司法裁判所を廃止するための取極を受諾(第8条(a))
- 極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷(例として南京軍事法廷、ニュルンベルク裁判)の判決を受諾(第11条)
賠償 [編集]
- 日本が行うべき賠償は役務賠償のみとし、賠償額は個別交渉する(第14条(a)1 など)
- 日本の商標・文学的及び美術的著作権は連合国各国の一般的事情が許す限り日本に有利に取り扱う(第14条(a)2-III-v)
- 連合国は、連合国の全ての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権、占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄(第14条(b))
安全保障 [編集]
- 連合国は、日本が主権国として国連憲章第51条に掲げる個別的自衛権または集団的自衛権を有すること、日本が集団的安全保障取極を自発的に締結できることを承認(第5条(c))
その他 [編集]
- 連合国日本占領軍は本条約効力発生後90日以内に日本から撤退。ただし日本を一方の当事者とする別途二国間協定または多国間協定[6]により駐留・駐屯する場合はこの限りではない(第6条(a))
- 連合国は、本条約効力発生後1年以内に、戦前に日本と結んだ二国間条約・協約を引き続いて有効としまたは復活させることを希望するかを日本に通告。通告された条約・協約は、通告日の3ヶ月後に、本条約に適合させるための必要な修正を受け、国際連合事務局に登録された上で有効または復活する。通告がなされなかった対日条約・協約は廃棄される(第7条(a))
- 日本は、占領期間中に、占領当局の指令に基き、もしくはその結果として行われ、または当時の日本の法律によって許可された全ての作為または不作為の効力を承認。前述の作為又は不作為を理由として連合国民を民事責任または刑事責任に問わない(第19条(d))
- 日本は、連合国による在日ドイツ財産処分のために必要な措置を取り、財産の最終的処分が行われるまでその保存・管理に責任を負う(第20条)
条約解釈と諸問題 [編集]
領土 [編集]
ポツダム宣言の8項を受けて規定された条項である。日本には領土の範囲を定めた一般的な国内法が存在せず、本条約の第2条が領土に関する法規範の一部になると解されている。国際法的には、「日本の全ての権利、権原及び請求権の放棄」とは、処分権を連合国に与えることへの日本の同意であるとオックスフォード大学イアン・ブラウンリー教授は解釈している[7]。例えば台湾は、連合国が与えられた処分権を行使しなかったため条約後の主権は不確定とし、他国の黙認により中国の請求権が凝固する可能性を指摘している[8]。
竹島問題 [編集]
竹島の扱いについては草案から最終版までに下記の変遷を辿っている[9]。
- 1947年3月19日版以降 日本は済州島、巨文島、鬱陵島、及び、竹島を放棄すること。
- 1949年12月29日版以降 日本は済州島、巨文島、及び、鬱陵島を放棄すること。日本の保有領土の項に竹島を明記。
- 1951年6月14日版以降 日本は済州島、巨文島、及び、鬱陵島を放棄すること。(日本の保有領土の項は無くなる)
- 1951年9月8日版(最終版) 日本は済州島、巨文島、及び、鬱陵島を放棄すること。
北方領土問題 [編集]
「北方領土問題」を参照
第二章第二条(c)において日本が放棄した千島列島に南千島(択捉島、国後島)を含むかどうかに解釈上の争いがある。
「外地人」の日本国籍喪失 [編集]
詳細は「在日韓国・朝鮮人」および「平和条約国籍離脱者」を参照
条約に基づき領土の範囲が変更される場合は当該条約中に国籍の変動に関する条項が入ることが多いが、本条約には明文がない。しかし、国籍や戸籍の処理に関する指針を明らかにした1952年(昭和27年)4月19日法務府民事局長通達・民事甲第438号「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」により本条約第2条(a)(b)の解釈として朝鮮人及び台湾人は日本国籍を失うとの解釈が示された。昭和36年の最高裁判所判決でも同旨の解釈を採用した[12]。もっとも、台湾人の国籍喪失時期については本条約ではなく日華平和条約の発効時とするのが最高裁判例である[13]。これに対し、千島列島・南樺太は法体系上は内地であったため、同地域内に本籍を置いた者については、権原放棄に伴う国籍の喪失はないとされている[要出典]。
東京裁判の受諾問題 [編集]
「日本国との平和条約第11条の解釈」および「東京裁判」を参照
東京裁判の「受諾」について書かれた11条について議論が行われている[14]。
著作権保護期間の戦時加算 [編集]
戦時中は連合国・連合国民の有する著作権の日本国内における保護が十分ではなかったとの趣旨から、本条約第15条(c)の規定に基づき連合国及び連合国民の著作権の特例に関する法律が制定され、著作権法に規定されている保護期間に関する特例が設けられている[15]。
経緯 [編集]
冷戦と朝鮮戦争 [編集]
戦時中に同じ連合国であったソ連は、第二次世界大戦終結後、アメリカ合衆国と対立するようになり、自由主義陣営と共産主義陣営が対立する冷戦構造が戦後の国際社会で形成されていった。また中国大陸では、蒋介石の中華民国(国民党)と毛沢東らの中国共産党とが国共内戦を開始し、ソ連の支援を受けた中国共産党は国民党軍に勝利し、1949年には中華人民共和国が樹立、蒋介石らは台湾に移った。
また、1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発し、ソ連と中華人民共和国は北朝鮮を支援、アメリカら国際連合軍は南朝鮮(大韓民国)を支援した。この朝鮮戦争でソ連と中華人民共和国は、アメリカらとの間では互いに交戦国となったため、第二次世界大戦当時の「連合国」による日本の法的な戦後処理をめぐる講和条約締結にむけた交渉は混迷した。結局、サンフランシスコ講和会議には中国(中華人民共和国、中華民国)は招待されず、またソ連は参加したが、講和条約に署名をしなかった。
単独講和と全面講和論 [編集]
こうした国際情勢を受けて日本国内では、アメリカとの単独講和と、第二次世界大戦当時の日本の交戦国でありかつ連合国であったソ連や中国も締結すべきとする全面講和論とが対立した[16]。
単独講和とは自由主義国家陣営に属し、またアメリカとの二国間軍事同盟を締結してアメリカ軍部隊のみ「在日米軍」とし駐留を引き続き維持させる立場。実際には52国が講和条約に参加しており、そのため多数講和または部分講和ともいわれる[17]。
全面講和論は自由主義と共産主義国家の冷戦構造のなかで中立の立場をとろうとするもの。いずれもソ連と中国を含むか含まないかが争点となった[18]。全面講和論者の都留重人は、単独講和とは、共産主義陣営を仮想敵国とした日米軍事協定にほかならないとしている[18]。
内閣総理大臣吉田茂は単独講和を主張していたが、これに対して1946年3月に貴族院議員となっていた南原繁(東京帝国大学教授)がソビエト連邦などを含む全面講和論を掲げ、論争となった。また日本共産党、労農党らは全面講和愛国運動協議会を結成、社会党も全面講和の立場をとった。南原は1949年12月にはアメリカのワシントンでの米占領地教育会議でも国際社会が自由主義陣営と共産主義陣営に二分していることから将来の戦争の可能性に言及しながら、日本は「厳正なる中立」を保つべきとする全面講和論を主張した[17]。1950年4月15日には南原繁、出隆、末川博、上原専禄、大内兵衛、戒能通孝、丸山真男、清水幾太郎、都留重人らが平和問題懇談会を結成し、雑誌『世界』(岩波書店)1950年3月号[16]などで全面講和論の論陣を組んだ[19][20]。
こうした全面講和論に対して1950年5月3日の自由党両院議員秘密総会において吉田茂首相は「永世中立とか全面講和などということは、 いうべくしてとうていおこなわれないこと」で、「それを南原総長などが政治家の領域にたちいってかれこれいうことは曲学阿世の徒にほかならない」と世におもねらず学問につとめよという意味の故事を用いて批判した[21][17]。南原は吉田の批判に対して「学者にたいする権力的弾圧以外のものではない」「官僚的独善」と応じ[17]、「全面講和は国民の何人もが欲するところ」と主張した[21]。当時、自由党幹事長だった佐藤栄作は、南原にたいし「党は政治的観点から現実的な問題として講和問題をとりあげているのであって」「ゾウゲの塔にある南原氏が政治的表現をするのは日本にとってむしろ有害である」と応じた[21]。また、小泉信三は「米ソ対立という厳しい国際情勢下において,真空状態をつくらないことが平和擁護のためにもっとも肝要」として、全面講和論はむしろ占領の継続を主張することになると批判し、単独講和を擁護した[16][22]。
- 日米交渉
1950年6月21日から27日にかけてダレスが来日した[21]。1951年1月29日には吉田・ダレス会談が行われた[23]。
なお、吉田茂は朝鮮戦争勃発を講和の好機到来と直感し、秘密裏に外務省の一部に講和条約のたたき台を作らせていた。更に表向きは経済交渉という触れ込みで池田勇人を訪米させ、この講和条約案を直接アメリカ国務省と国防省の高官に内示することにより、講和促進を図ったことが明らかになっている[24]。
講和会議への招請 [編集]
1951年(昭和26年)7月20日、米英共同で日本を含む全50ヶ国に招請状を発送した。8月22日、フランスの要求を容れインドシナ三国(ベトナム・ラオス・カンボジア)にも招請状が発送された。中国は中華人民共和国・中華民国いずれも招請されなかった(後述)。
非参加国 [編集]
インド、ビルマ、ユーゴスラビアは招請に応じず、講話会議に参加しなかった。インドが参加しなかったのは、ネール首相が日本に名誉と自由を他の国々と同様に与えるべきであると考え、講和会議への不参加を決めたからとされる[25]。ネール首相が挙げた不参加の理由は、条約に外国軍の駐留事項を除外すること、日本が千島列島や樺太の一部をソ連に、澎湖諸島や台湾を中国に譲渡する必要があること、沖縄や小笠原諸島は日本へ返還すべきであることなどであった[25]。
中華人民共和国・中華民国 [編集]
中国は第二次世界大戦中連合国であったが、条約締結当時、国共内戦を経て1949年に成立した中華人民共和国と、内戦に敗北した蒋介石らの中華民国の二国に分裂しており、いずれを代表政権にするかついて米英の意見が一致しなかった。イギリスは当時中華人民共和国を承認しており、中華人民共和国の参加を主張した。一方、中華人民共和国を承認していなかったアメリカは中華民国の参加を主張した。また1950年6月25日から発生した朝鮮戦争において中華人民共和国とソ連は北朝鮮を支援し、英米韓などの連合軍と交戦状態にあった(朝鮮戦争は1953年7月27日に休戦)。結局、日中間の講和については独立後の日本自身の選択に任せることにして「中国」の招請は見送られた。
講和会議直前の1951年8月15日には中華人民共和国の周恩来外相が、対日平和条約英米案は、1942年1月1日の連合国共同宣言が単独講和してはならないとしていることや、ほかカイロ宣言、ヤルタ協定、ポツダム宣言、1947年6月19日の極東委員会で採択された降伏後の対日基本政策などの国際協定にいちじるしく違反するものと批判する声明を発表した[26]。
韓国の参加要求 [編集]
韓国は署名国としての参加を度々表明し、一時は署名国リストにも掲載されていたが、日本と交戦していなかった[27]ため、招請されなかった。1949年1月7日、韓国の李承晩政権は対馬領有を宣言し、日本に対馬返還を要求した[28]。さらに李承晩は韓国が講和条約署名国としての資格があるとアメリカ側へ訴え、これを受けて1949年(昭和24年)12月3日、駐大韓民国ジョン・ジョセフ・ムチオアメリカ大使は中国国民党軍の朝鮮人部隊、大韓民国臨時政府の存在、韓国を署名国にすれば非現実的な対日請求要求を諦めさせることができること等を理由に韓国の参加をアメリカ国務省に要請した。1949年(昭和24年)12月29日の条約草案では、韓国が締結国のリストに新たに加えられた。
1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発し英米も参戦するなか、1951年(昭和26年)5月の米英協議等において第二次世界大戦において韓国が日本と戦争をしていなかったことを理由に、イギリスが韓国の条約署名に反対した。イギリスの方針表明を受けてアメリカも韓国臨時政府を承認したことがないことから方針は変更された。1951年(昭和26年)7月9日、ジョン・フォスター・ダレス国務長官補は韓国大使との会談で「韓国は日本と戦争状態にあったことはなく、連合国共同宣言にも署名していない」ことを理由に、韓国は講和条約署名国となれないことを通知した。この会談で、韓国側は日本の在朝鮮半島資産の韓国政府および米軍政庁への移管、竹島・波浪島の韓国領編入、マッカーサー・ラインの継続などを記した要望書を提出したうえで「十分な信頼と信任により平和を愛する世界の国々との機構への日本人の受け入れに反対する」と、日本を国際社会に復帰させようとする対日講話条約締結に反対した[29]。これに対しアメリカは1951年8月10日にラスク書簡で最終回答を行い、在朝鮮半島の日本資産の移管についてのみ認め、韓国のほかの要求を拒否した。しかしこの通知後も韓国は署名国としての地位を要求した。1951年(昭和26年)8月22日にダレスは韓国大使の署名要求を再度拒否するとともに、講和会議へのオブザーバー資格での参加も拒否、非公式の参加は可能[30]と回答した[31][32]。
講和会議と条約調印 [編集]
9月4日から8日にかけて、サンフランシスコ市の中心街にあるオペラハウス[33]において全52カ国の代表が参加して講和会議が開催された。
日本の全権団は首席全権の吉田茂(首相)、全権委員の池田勇人(蔵相)・苫米地義三(国民民主党最高委員長)・星島二郎(自由党常任総務)・徳川宗敬(参議院緑風会議員総会議長)・一万田尚登(日銀総裁)の6人。吉田はできるだけ「超党派」の全権団にしたいと考えていたため、野党国民民主党の主張する臨時国会の召集要求を呑むなど、妥協の末、委員参加を取りつけた。また、日本社会党に対しても全権委員参加を要請したが、左翼陣営は基本的に「全面講和」を主張していたため不参加となった。
9月7日、吉田茂首相により、条約を受諾する演説が日本語でなされた。英語で行う予定で準備されていたが、直前になって日本語で行うことになり、急遽原稿が差し替えられ、長大な巻物式の急造原稿は現地のメディアからトイレットペーパー[34]とも言われた[35]。
セイロン代表ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナは、戦争中の空襲を指摘した上で、責任の所在・謝罪・反省を受け入れて、心の問題としての憎しみの連鎖が戦争に成る事を戒めた「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む」という仏陀の言葉を引用して、日本に対する賠償請求を放棄する演説を行った。
ソ連、ポーランド、チェコスロバキアの共産圏3国は講和会議に参加したものの、同じ共産主義国の中華人民共和国の不参加を理由に会議の無効を訴え署名しなかった。
9月8日、条約に49カ国が署名し講和会議は閉幕した。調印は、国名の英語表記のアルファベット順にこれを行い、講和当事国の日本が最後に調印した。署名は各国とも全権として会議に参加した者全員でこれを行った。
署名国 [編集]
- アルゼンチン共和国
- オーストラリア連邦
- ベルギー王国
- ボリビア共和国
- ブラジル合衆共和国
- カンボジア王国(仏連合王国)
- カナダ(英連邦王国)
- セイロン(英連邦王国)
- チリ共和国
- コロンビア共和国 ※
- コスタリカ共和国
- キューバ共和国
- ドミニカ共和国
- エクアドル共和国
- エジプト王国
- エルサルバドル共和国
- エチオピア帝国
- フランス共和国
- ギリシャ王国
- グアテマラ共和国
- ハイチ共和国
- ホンジュラス共和国
- インドネシア共和国 ※
- イラン帝国
- イラク王国
- ラオス王国(仏連合王国)
- レバノン共和国
- リベリア共和国
- ルクセンブルク大公国 ※
- メキシコ合衆国
- オランダ王国
- ニュージーランド(英連邦王国)
- ニカラグア共和国
- ノルウェー王国
- パキスタン(英連邦王国)
- パナマ共和国
- パラグアイ共和国
- ペルー共和国
- フィリピン共和国
- サウジアラビア王国
- シリア共和国
- トルコ共和国
- 南アフリカ連邦(英連邦王国)
- グレートブリテン及び北アイルランド連合王国
- アメリカ合衆国
- ウルグアイ東方共和国
- ベネズエラ ボリバル共和国
- ベトナム国
- 日本
- ※は、調印はしたが批准はしていない国。なお上記の国名はいずれも調印時におけるものである。
日米安保条約 (旧)締結 [編集]
同9月8日、講和条約に続いて日本とアメリカ合衆国の代表は、サンフランシスコ市内のプレシディオ陸軍基地に場所を移し、日米安全保障条約に調印した。
日米安全保障条約には首席全権代表・吉田茂が単独で署名した。吉田は無理に同行した池田勇人蔵相に対して、「この条約はあまり評判がよくない。君の経歴に傷が付くといけないので、私だけが署名する」と言い、署名の場に同席することは許さなかった。
条約締結後 [編集]
1951年(昭和26年)10月26日、衆議院が締結を承認。11月18日には参議院が締結を承認、内閣が条約を批准した。11月19日、奈良において昭和天皇が批准書を認証。11月28日には アメリカ合衆国政府に批准書が寄託された。
1952年(昭和27年)4月28日 日本標準時で22時30分(アメリカ合衆国東部標準時で8時30分)に条約が発効した。
講和条約署名国以外との国際関係 [編集]
日本国との平和条約、および日米安全保障条約(旧)の2条約の締結を以って日本は自由主義陣営の一員として国際社会に復帰した。他方で、共産主義陣営のソ連と中華人民共和国との間では軋轢が続いた。しかし、日本は条約締結後、インド、台湾、ソ連、韓国、中華人民共和国など条約を締結しなかった国々と個別に平和条約またはそれに準じる共同宣言などを締結していき、各国との国交正常化を果たしていった。
- 条約発効直前の1952年1月18日、韓国政府は突如としてマッカーサー・ライン[36]に代わる李承晩ラインの宣言を行い、島根県の竹島に韓国軍が上陸した。背景には韓国国内での済州島四・三事件、保導連盟事件及び国民防衛軍事件等が発生し、韓国政府に対する不満があったともされるが、一方的な宣言である李承晩ラインに対し日米両政府は非難した。その後、険悪になった日韓両国は1965年(昭和40年)の日韓基本条約の締結において国交正常化したが、竹島問題は現在も日韓での外交問題となっている。
- 中華民国との間では、日本国との平和条約の発効日と同じ1952年4月28日に日華平和条約を調印[37]。
- 1952年6月9日(昭和27年)にインドは全ての賠償請求権を放棄するとともに日本は対印投資を約する日印平和条約が東京で締結された[25][38]。2005年の演説でインドのマンモハン・シン首相は講和条約に関する日印関係を思い出されるべき重要なことと語った[38]。
- 1956年10月19日、ソ連と日本は日ソ共同宣言を発表、国交が正常化し、法的にも戦争状態が終了した。日ソ共同宣言では「引き続き平和条約締結交渉を行い、条約締結後にソ連は日本へ歯舞群島と色丹島を引き渡す」と明記されたが、北方領土の全面返還を求める日本との間で交渉は停滞し、北方領土問題は現在も未解決のままである、またソビエト連邦(現・ロシア)とは未だに正式な平和条約を締結していない状態である[39]。
- 中華人民共和国との間では、1972年2月のニクソン大統領の中国訪問や国際連合での「国府追放、北京招請」を受けて、日本は1972年(昭和47年)9月29日、日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明を調印し日中国交正常化を実現させた。しかし、この声明で「ひとつの中国」である中華人民共和国を認めたため、をこれにともない、台湾の中華民国とは法的に断交した。
全面講和論のその後 [編集]
他方、冷戦構造に対して中立をとろうとする全面講和論はその後も展開し、山川均らの非武装中立論は社会党の党是ともなり、その後の日本をめぐる安全保障および日米同盟に関する議論を形成していった[40]。なお条約の発効をもってレッドパージの一環として占領軍により発行を禁止されていたしんぶん赤旗が再刊された。
非武装中立論を批判する永井陽之助は長期的目標として非同盟=中立が正しいとしても米ソ中三国の緊張緩和のテンポを考慮するべきだと論じた[40]。このような議論は講和条約と同日に締結された旧日米安保条約を改定した日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約が1960年に締結される前後、安保条約に反対する政治運動として安保闘争が繰り広げられた。
また在日米軍の問題は、沖縄での米軍基地問題に関して今日の日米関係の重要な外交上の争点となっている。沖縄県では、条約が発効した1952年4月28日を、引き続き1972年までアメリカによる統治下に置かれることになった「屈辱の日」としている[41][42]。この問題には、昭和天皇が寺崎英成を通じてGHQに伝達した、いわゆる「沖縄メッセージ」も深く関係している。
「アメリカ合衆国による沖縄統治」を参照
全面講和論はその後も再評価されることがあり、2001年に朝日新聞紙上で坂本義和は当時、全面講和は1951年でなく朝鮮戦争やベトナム戦争の休戦協定時点であれば可能であったはずだと主張し、また、日米安保条約を「有事駐留」方式にすれば,ソ連が北方領土を認めた可能性もあるし、また沖縄への米軍基地集中も起こなかったかもしれないと述べた[43]。これに対して伊藤祐子は、戦後の日本はアメリカによって単独占領されており、したがって占領下の日本が独自の外交権も持てずに実質的に制限されていたことを考慮すれば、日本がアメリカの対日政策と無関係にみずから行動を起こすことは不可能であったと考えるべきだと批判した[16]。また、全面講和が可能になる条件としては、アメリカの冷戦的思考と枠組みをソ連が受け入れるか、またアメリカが共産主義諸国を敵視しないことが必要であったが、それらはいずれも不可能であったため、全面講和は実現できなかっただろうと述べた[16]。
記念事業 [編集]
- 署名50周年
2001年(平成13年)9月8日(日本時間では9月9日)、講和会議の会場であったオペラハウスにて、北カリフォルニア日本協会 (the Japan Society of Northern California) の主催により「サンフランシスコ平和条約署名50周年記念式典」が開かれた。日本からは田中眞紀子外務大臣が、米国からはコリン・パウエル国務長官が出席しそれぞれ演説を行い、日米の同盟関係の更なる強化の必要性を確認し合った。この式典の前にプレシディオ元陸軍基地において、サンフランシスコ平和条約署名50周年記念式典も行われた。
- 記念切手
日本国郵政省(現在の日本郵便)は、調印翌日の9月9日に事前に用意していた記念切手3種を発行した。2円切手と24円切手にはキクが描かれているが、8円切手には国旗が描かれている。1996年4月8日に発行された戦後50年メモリアルシリーズの第1集のうち1枚は吉田が署名する場面が切手の意匠に採用された[44]。2001年9月7日に調印50年を記念して、会場となったオペラハウスと秋草を描く記念切手を発行した[45]。
2011年(平成23年)2月25日、自民党議員が「4月28日を主権回復記念日にする議員連盟」を設立。講和条約発効日である4月28日を主権回復記念日と定め、政府主催の記念行事を毎年開催するよう働きかけをおこなっていくとしている[46]。
現在 [編集]
中国による日本領土縮小案 [編集]
周辺国による条約否認・改定への動きもある。尖閣諸島問題で日中関係が悪化する中、2012年11月14日に中国、韓国、ロシアによる「東アジアにおける安全保障と協力」会議が開かれた。席上、中国外交部直属の中国国際問題研究所副所長郭憲綱は「日本の領土は北海道、本州、四国、九州4島に限られており、北方領土、竹島、尖閣諸島にくわえて沖縄も放棄すべきだ」と公式に演説した。そのためには中国、ロシア、韓国による反日統一共同戦線を組んで米国の協力を得たうえで、サンフランシスコ講和条約に代わって日本の領土を縮小する新たな講和条約を制定しなければいけない、と提案した[47]。
モスクワ国際関係大学国際調査センターのアンドレイ・イヴァノフは、この発言が中国外交部の公式機関の幹部で中国外交政策の策定者から出たことに対し、多かれ少なかれ中国指導部の意向を反映していると述べている[47]。
脚注 [編集]
- ^ 池田勇人(蔵相)、苫米地義三(国民民主党)、星島二郎(自由党)、徳川宗敬(参議院緑風会)、一万田尚登(日銀総裁)。
- ^ 第1条(b)
- ^ 第1条(a)。法的にはポツダム宣言の受諾を表明した1945年(昭和20年)8月14日や玉音放送を実施した8月15日、降伏文書に署名した1945年(昭和20年)9月2日以降にも戦争状態は継続していたものとして扱われている[要出典]。
- ^ 日本語では「及び」と「並びに」の違いが判りにくいが、英文では明解で“DONE at the city of San Francisco this eighth day of September 1951, in the English, French, and Spanish languages, all being equally authentic, and in the Japanese language”(太字編者)となっている。この太字の文言が「ひとしく正文である」にあたり、仮に日本語も正文だとするとこの部分は文章の最後にくることになる。
- ^ アラビア語が国連公用語に加わるのは後になってからのことである。
- ^ アメリカはこれにより日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約を締結して在日米軍を駐留させ現在に至る。
- ^ ブラウンリー 1992, p. 121
- ^ ブラウンリー 1992, p. 100
- ^ Wikisourceの竹島に関するサンフランシスコ平和条約草案の変遷(英語)参照。
- ^ United States Department of State (1976) (英語). Foreign relations of the United States, 1949. The Far East and Australasia (in two parts). Volume VII, Part 2. pp. pp. 898-900.(アメリカ合衆国国務省『合衆国の外交関係:1949年』―「極東とオーストララシア」、1976年)
- ^ 独島と波浪島の位置について問われた韓国大使は「大体鬱陵島の近くで日本海にある小島である」と返答。(しかしその後の米調査では「ワシントンの総力を挙げた」("tried all resources in Washington")にも関わらず、これらの島を発見することはできなかった。その後、独島については竹島に同定されることになったが、波浪島は現在に至るまで発見されていない。)ダレス米大使はこれらの島が日本の併合前から韓国の領土であったかと尋ねたところ、韓国大使はこれを肯定、ダレスはもしそうであればこれらの島を日本の放棄領土とし韓国領とするに問題はないと答えた。
- ^ 最大判昭和36年4月5日民集15巻4号657頁
- ^ 最大判昭和37年12月5日刑集16巻12号1661頁
- ^ 日暮吉延『東京裁判』講談社現代新書,2008年
- ^ 戦時加算 (著作権法)
- ^ a b c d e [1]伊藤祐子「日米安保体制の50年-日米安全保障政策と日本の安全保障観の変容」亜細亜大学国際関係紀要第11巻第1号,2001年
- ^ a b c d 『岩波書店と文藝春秋』(毎日新聞社1995年)p64-68
- ^ a b 都留重人「講和と平和」『世界』1951年10月号
- ^ KOTOBANK全面講和愛国運動協議会(世界大百科事典)、日立ソリューションズ。
- ^ 『岩波書店と文藝春秋』(毎日新聞社1995年)p52-57.
- ^ a b c d クリック20世紀「吉田首相、南原東大総長の全面講和論を「曲学阿世」論と非難」2013年1月27日閲覧。信夫清三郎『戦後日本政治史Ⅳ』勁草書房,p.1112
- ^ 『文藝春秋』1952年1月号
- ^ [2]「講和問題に関する吉田茂首相とダレス米大使会談,日本側記録」(東大東洋文化研究所田中明彦研究室「サンフランシスコ平和会議関連資料集」所収。原資料は外務省、外交史料館所蔵。
- ^ この時の池田訪米に秘書官として同行した宮澤喜一の述懐による。
- ^ a b c 中村麗衣「日印平和条約とインド外交 (PDF)」 、『史論』第56号、東京女子大学学会史学研究室 / 東京女子大学史学研究室、2003年、 pp.56-73、 NAID 110007411152。
- ^ 「対日講和問題に関する周恩来中国外相の声明」 東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室「サンフランシスコ平和会議関連資料集」所収。外務省アジア局中国課監修「日中関係基本資料集」p19-25.
- ^ 当時の大韓帝国は日本に併合され、大韓民国臨時政府を承認した国も存在せず、また他の亡命政府のような「大韓民国臨時政府」の指揮下にある軍も存在しなかった
- ^ 今日の歴史(1月7日) 聯合ニュース 2009/01/07
- ^ エモンズによる会談覚書、および竹島問題外交交渉史参照。
- ^ 「非公式に代表を送るのであれば宿泊や会場入場等の便宜をはかる」との回答。塚本1992
- ^ United States Department of State (1951). United States Department of State / Foreign relations of the United States, 1951. Asia and the Pacific (in two parts). VI, Part 1. pp. p. 1296.
- ^ 塚本孝 「韓国の対日平和条約署名問題」『レファレンス』494、国立国会図書館調査立法考査局、1992年3月、pp. 95-101。
- ^ War Memorial Opera House。なお「War Memorial」は「戦没者追悼記念」ではなく、正確には「第一次世界大戦従軍兵記念」を意味する。また日本語での一般的な表記は現地・日本ともに「サンフランシスコ・オペラハウス」「ウォーメモリアル・オペラハウス」または単に「オペラハウス」
- ^ 吉田茂参照
- ^ (外務省 外交史料 Q&A 昭和戦後期)。原稿は、外務省(1970年118~122ページ)、田中(刊日不明)で閲覧可。
- ^ サンフランシスコ講和条約ではマッカーサー・ラインも廃止される予定であった。
- ^ 1952年(昭和27年)8月5日発効。
- ^ a b Dr. Manmohan Singh's banquet speech in honour of Japanese Prime Minister National Informatics Centre Contents Provided By Prime Minister's Office April 29, 2005
- ^ 日ソ共同宣言参照
- ^ a b 米原謙「日本型社会民主主義の思想――社会党左派理論の形成と展開」大阪大学大学院国際公共政策研究科, 2002
- ^ “対日講和発効60年/人権蹂躙を繰り返すな 許されぬ米軍長期駐留”. 琉球新報. (2012年4月28日) 2012年11月25日閲覧。
- ^ “沖縄の40年<屈辱の日>”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2012年5月1日) 2012年11月25日閲覧。
- ^ 「対日講和 50年の意味」『朝日新聞』2001年9月6日
- ^ “戦後50年メモリアルシリーズ 第1集郵便切手”. 日本郵趣協会. 2012年6月5日閲覧。
- ^ サンフランシスコ平和条約50周年記念郵便切手
- ^ “自民有志、「4月28日」主権回復記念日議連を設立 サンフランシスコ平和条約発効”. MSN産経ニュース(産経新聞). (2011年2月25日) 2011年3月6日閲覧。
- ^ a b イリナ・イワノワ (2012年11月15日). “反日統一共同戦線を呼びかける中国” (日本語). ロシアの声 2012年11月25日閲覧。[3]
参考文献 [編集]
- 外務省条約局法規課 (1951年9月7日). “平和条約の締結に関する調書VII”. サンフランシスコ平和会議における吉田茂総理大臣の受諾演説. 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室. pp. 118-122. 2011年3月20日閲覧。
- 西村熊雄 (1970年7月). “平和条約の締結に関する調書”. VII 昭和26年9月 サン・フランシスコ平和会議. 外務省. 2012年4月28日閲覧。
- ブラウンリー 「第三部 領域主権」『国際法学』 島田征夫ほか訳、成文堂、1992年11月、補正版。ISBN 4-7923-3106-4。
関連文献 [編集]
- 入江啓四郎 『日本講和条約の研究』 板垣書店、1951年。
- 『日本外交文書 サンフランシスコ平和条約 準備対策』195、外務省編纂、外務省、2006年1月。
- 『日本外交文書 サンフランシスコ平和条約 対米交渉』198、外務省編纂、外務省、2007年3月。
- 『日本外交史 26 終戦から講和まで』 鹿島平和研究所編、鈴木九萬監修、鹿島研究所出版会、1973年。
- 西村熊雄 『日本外交史 27 サンフランシスコ平和条約』 鹿島平和研究所編、鹿島研究所出版会、1971年。
- 西村熊雄 『サンフランシスコ平和条約・日米安保条約』 中央公論新社〈中公文庫 シリーズ戦後史の証言 占領と講和7〉、1999年7月18日。ISBN 4-12-203466-3。
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
- 日本国との平和条約(中野文庫)
- サンフランシスコ平和条約 準備対策(外務省-日本外交文書)
- サンフランシスコ平和条約 対米交渉(外務省-日本外交文書)