小泉信三

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小泉 信三
(こいずみ しんぞう)
古典派経済学
生誕 1888年5月4日
日本の旗 日本 東京府東京市芝区
死没 1966年5月11日(満78歳没)
研究機関 帝国学士院会員(1943年)
研究分野 リカードの経済理論
母校 慶應義塾大学大学部政治科卒業
影響を
受けた人物
福田徳三堀江帰一
論敵 河上肇櫛田民蔵
影響を
与えた人物
継宮明仁親王
実績 自由主義の立場から共産主義及びマルクス経済学を研究した上で合理的な批判をしたこと。
受賞 人文学名誉博士号(1954年)
文化勲章(1959年)
名誉都民(1965年)
正三位(1966年)
野球殿堂(1976年)
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小泉 信三(こいずみ しんぞう、1888年明治21年)5月4日 - 1966年昭和41年)5月11日)は、日本経済学者経済学博士)。東宮御教育常時参与として皇太子殿下(後の今上天皇)の教育の責任者となる。1933年(昭和8年)から1946年(昭和21年)まで慶應義塾塾長(第7代)。父は第2代慶應義塾塾長(1887年(明治20年) - 1890年(明治23年))や、横浜正金銀行支配人などを歴任した小泉信吉(こいずみ・のぶきち)。

経歴[編集]

小泉宅跡
福澤邸に同居した後、本地に一家は宅を構えた。裏の木戸から直接塾内に入ることが可能であった。
御田小学校「岬門」
2010年現在、小泉が通っていた当時のまま現存している。

1888年(明治21年)5月4日東京市芝区に旧紀州藩士小泉信吉と千賀の第三子として生まれる。幼少期に父を亡くす。なお父が福澤諭吉の直接の門下生だったので、晩年の福澤に目をかけてもらっており、幼少時に福澤邸に一家が同居していた時期もあった。横浜本町の横浜小学校を経て、東京府三田に転居し東京府芝區御田小学校に転校し卒業。御田小学校から慶應まで同期生として水上瀧太郎がいた。

1910年(明治43年)慶應義塾大学部政治科を卒業し、慶應義塾の教員となる。1912年(大正元年[1]9月[2] に研究のためヨーロッパに留学し、イギリスフランスドイツの各大学で学ぶ。イギリスへの留学中、小泉は1913年(大正2年)のウィンブルドン選手権を観戦したことがあり、当時大会4連覇中だったアンソニー・ワイルディングの著書“On the Court and Off”(「テニスコートの内外で」)を日本に送り、大学の後輩たちに硬式テニスを推薦した。

1916年(大正5年)に帰国し、慶應義塾大学教授となり、デヴィッド・リカード経済学を講義する。自由主義を論調とし、共産主義マルクス経済学に対し徹頭徹尾合理的な批判を加えている。1933年(昭和8年)には慶應義塾大学塾長に就任する。1934年慶應義塾大学より経済学博士。学位論文は 「リカアドオ」研究 。 1943年(昭和18年)帝国学士院会員に任命される。時代は第二次世界大戦に入り、信三の長男の小泉信吉が出征したのち戦死。一人息子を亡くした信三は、『海軍主計大尉小泉信吉』を著し、私家版として関係者に配り、没後に公刊された。信三自身も1945年(昭和20年)の東京大空襲で、焼夷弾により顔面に火傷を負ったため、一時は高橋誠一郎が塾長代理を務めた。1947年(昭和22年)に塾長を辞任し、後任に潮田江次が就任した。

1949年(昭和24年)には、継宮明仁親王(現在の今上天皇)の教育掛(東宮御教育常時参与)に就任。『ジョージ5世伝』や『帝室論』などを講義し、新時代の帝王学を説いた。1954年(昭和29年)、コロンビア大学より人文学名誉博士号を贈与される。1959年(昭和34年)11月、文化勲章を受章。

1966年(昭和41年)5月11日心筋梗塞のため78歳で死去。叙・正三位[3]。昭和51年(1976年)野球殿堂入り。

没後、慶應義塾はその業績を記念し「小泉基金」を設立。1968年(昭和43年)からは「小泉信三記念講座」が実施されている。1976年(昭和51年)から全国高校生小論文コンテスト「小泉信三賞」が行われている。

小泉と共産主義[編集]

小泉は共産主義の批判者であったが、同時に共産主義を深く研究していたことは特筆すべきことである。小泉が社会主義に興味を持つ切っ掛けとなったのは、幸徳秋水等が処刑された大逆事件である[4]

共産主義批判の常識』は1949年(昭和24年)に新潮社より刊行されベストセラーとなった。後に新潮文庫(1954年(昭和29年))や講談社学術文庫(1976年(昭和51年))に収録され、小泉の著書の中でもっとも多く読まれた著書の一つである。塾長退任後に刊行された『共産主義批判の常識』は、昭和初期に行った共産主義批判の論文と内容に大差はないが、マルクス・レーニン主義が国家再生の思想としてもてはやされていた状況を憂慮し、戦後ソ連共産主義についての直接の言及が多くなっている。この流れで講和問題でもソ連とは与せず単独講和論を主張している[5][6]

小泉とスポーツ・文化[編集]

「練習ハ不可能ヲ可能ニス」の碑
(慶應大学日吉キャンパス)

1922年(大正11年)から塾長就任の前年である1932年(昭和7年)までの期間庭球部部長をつとめるなど、慶應義塾體育會(体育会)の発展にも力を尽くした。「練習ハ不可能ヲ可能ニス」の言葉は有名。(『練習は不可能を可能にす』 に詳しい)。

関東大震災のとき慶応義塾の教授であった小泉は、被災した人々の実態調査を進める一方で、テニス・歌舞伎などの文化的な行事に精力を割いた[7]

「最後の早慶戦」における小泉の尽力[編集]

還らざる学友の碑
(慶應大学三田キャンパス)

1943年(昭和18年)10月16日開催の出陣学徒壮行早慶戦(通称「最後の早慶戦」)は、「学徒出陣に赴かざるを得ない学生らに、せめてもの最後の餞を残したい。それには早慶戦が相応しい」との小泉の思いから始まった。

  • 小泉は慶大野球部の部長・主将を通じ、早稲田大学野球部飛田穂洲監督に試合を頼み込んだ。早大野球部はこれを快諾したが、早稲田大学側(田中穂積総長)は軍部や文部省の圧力に屈し、試合の申し出を承諾出来ずにいた。
  • そのため、早大野球部は早大当局の反対を押し切って試合を挙行。
  • 試合が行われた戸塚球場に招かれた小泉は、早大側による特別席への案内を「私は学生と一緒の方が楽しいです」[8] と断り学生席で観戦した。

このほか東京六大学野球連盟からの懇願を受け、ただ一人体育審議会で野球弾圧の無意味さを説き、強烈な反対の論陣をもって軍部・官僚たちを沈黙させた。1976年(昭和51年)には野球殿堂入り。

伝記・資料[編集]

著書[編集]

  • 『小泉信三全集』 文藝春秋全28巻、1967-72年
第25巻「書簡集」は上下巻、最終巻は別巻で写真などの回想集。

没後の重版、新版再刊[編集]

主な初版本[編集]

  • 『私の履歴書 小泉信三』 日本経済新聞社、1966年8月(遺著)
  • 『座談おぼえ書き』 文藝春秋、1966年
  • 『わが日常 自選随筆』 新潮社、1963年
  • 『十日十話』 毎日新聞社、1962年2月
  • 『この一年』 新潮社、1959年
  • 『小泉信三選集』 文藝春秋新社全5巻、1957年
  • 『國を思ふ心』 文藝春秋新社、1955年
  • 『外遊日記』 文藝春秋新社、1954年
  • 『平和論』 文藝春秋新社、1952年2月
  • 『初學經濟原論』 泉文堂、1952年
  • 『今の日本』 慶友社、1950年8月
  • 『文学と経済学』 勁草書房、1948年
  • 『社会思想史研究』 和木書店、1947年4月
  • 『大学生活』 岩波書店、1939年12月
  • 『アメリカ紀行』 岩波書店、1938年5月
  • 『支那事變と日清戰爭』 慶應出版社、1937年
  • 『師・友・書籍』 岩波書店、1936年7月
  • 『学窓雑記』 岩波書店、1936年7月
  • 『アダム・スミス、マルサス、リカアドオ 正統派經濟學研究』 岩波書店、1934年
  • 『近世社會思想史大要』 岩波書店、1928年
  • 『社會組織の經濟理論的批評』 下出書店、1921年11月

関連人物[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 1912年は7月30日を以って、元号が明治から大正に改元された。信三が留学を始めたのは9月であるので「大正元年」となる。
  2. ^ 小泉タエ『留学生小泉信三の手紙』文藝春秋社 1994年3月
  3. ^ 『藝能』1966年
  4. ^ 小泉信三『小泉信三 私の履歴書』 日本経済新聞社1966年8月15日、49頁
  5. ^ 小泉信三「平和論」、『文藝春秋』第30巻第1号、文藝春秋、1952年1月、 64-79頁。
  6. ^ 小泉信三「平和論(昭和27年1月号)」、『文藝春秋』第70巻第2号、文藝春秋、1992年2月、 巻末2-12頁。
  7. ^ 麻木久仁子・田村秀男・田中秀臣 『日本建替論 〔100兆円の余剰資金を動員せよ!〕』 藤原書店、2012年、241頁。
  8. ^ 『早稲田大学野球部五十年史』より
  9. ^ 尚、石坂も慶大卒である。

外部リンク[編集]