星島二郎

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星島 二郎
ほししま にろう
1932年
生年月日 1887年11月6日
出生地 日本の旗 岡山県倉敷市藤戸町
没年月日 (1980-01-03) 1980年1月3日(92歳没)
死没地 日本の旗 東京都
出身校 東京帝国大学法科大学法律学科
所属政党立憲国民党→)
革新倶楽部→)
立憲政友会→)
(政友会正統派→)
同交会→)
翼賛政治会→)
無所属→)
日本自由党→)
民主自由党→)
自由党→)
分党派自由党→)
日本民主党→)
自由民主党岸派藤山派
称号 従二位
勲一等旭日桐花大綬章
親族 父・星島謹一郎(貴族院多額納税者議員)

日本の旗 第47代 衆議院議長
在任期間 1958年6月11日 - 1958年12月13日
天皇 昭和天皇

内閣 第1次吉田内閣
在任期間 1947年1月31日 - 1947年5月24日

日本の旗 第27代 商工大臣
内閣 第1次吉田内閣
在任期間 1946年5月22日 - 1947年1月31日

選挙区 (岡山県第2区→)
(岡山県第2区→)
(岡山県全県区→)
旧岡山2区
当選回数 17回
在任期間 1920年5月10日 - 1966年12月27日
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星島 二郎(ほししま にろう、1887年明治20年)11月6日 - 1980年昭和55年)1月3日)は、日本弁護士政治家衆議院議員。元衆議院議長従二位勲一等旭日桐花大綬章

来歴・人物[編集]

岡山県児島郡藤戸町(現・倉敷市藤戸町)出身。岡山中学校第六高等学校東京帝国大学卒業。政界入りする前は弁護士であり、東京日比谷片山哲らと中央法律事務所を開設し、森戸事件等を担当した。

戦前は普通選挙運動、婦人参政権、公娼廃止に熱心な自由主義的・進歩的な立場を貫き、 母性保護連盟の委員として母子保護法の成立(1937年)にも尽力した[1]

戦時中も議会政治擁護の立場を変えなかった。戦後は山崎首班工作に関与したこともあった。あと4年議員を続ければ名誉議員の資格である議員在職50年の表彰を受けることができる状況で、秘書の加藤六月を後継者に指名し、政界を引退。政界引退後は自民党顧問、共立女子大学理事を務めた。

略年譜[編集]

サンフランシスコ平和条約に署名する日本の全権委員(星島は写真上から3番目)
- 東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。弁護士となる傍ら犬養毅の秘書として政治の勉強をする。
5月10日 - 立憲国民党公認で郷里から総選挙に立候補し初当選(以降、17回連続当選)。
9月1日 - 所属政党の国民党が解党。
11月8日 - 革新倶楽部の結成に参加。
- 治安維持法に反対する。政革合同に際しては、師の犬養に従い立憲政友会に合流。
4月15日 - 廣田内閣鉄道参与官に就任。
5月20日 - 政友会の分裂に伴い久原房之助、鳩山一郎らとともに正統派(久原派ともいう)に属する。
11月10日 - 鳩山、尾崎行雄ら翼賛政治に反対する議員とともに同交会を結成。
4月30日 - 翼賛選挙に非推薦で当選。
5月14日 - 同交会が解散。
11月9日 - 旧政友会正統派→旧同交会の流れを汲む日本自由党の結成に参加。
- 自由党政調会長に就任。5月22日第1次吉田内閣商工大臣として入閣。
1月31日 - 内閣改造に伴い、閣内移動で無任所の国務大臣となる。
12月12日 - 繊維疑獄事件に関する問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された[2]
6月 - サンフランシスコ講和会議全権委員。
- 自由党鳩山派の1人として自由党を離党、日本民主党の結成に参加。
- 保守合同に伴い自民党に参加。所属派閥ははじめは鳩山派、同派分裂後は岸派から藤山派
6月11日衆議院議長に就任するが、警職法改正をめぐる会期延長問題で国会が混乱した責任を取って、わずか半年後の12月13日に辞任。
- 政界引退。
1月3日 - 老衰のため92歳で死亡。

家族[編集]

星島家[編集]

岡山県倉敷市藤戸町東京都
曽祖父宜平は嘉永2年(1849年)に児島郡庄屋となり、文久2年(1861年)には苗字帯刀御免となった[3]。宜平の弟茂八郎は分家を立てた[3]。茂八郎の子寛(ゆたか)は明治33年(1900年)から5年間藤戸村長を務め、その長男昴一も明治44年(1911年)から昭和12年(1937年)まで6期藤戸町長を務めた[3]。祖父啓三郎は、土地所有面積の拡大、更に、備前紡績をはじめとする地元企業への出資、藤戸銀行、星島銀行の創業など、家産の保全拡大に努めた[3]。父謹一郎大正4年(1915年)から同12年(1923年)まで多額納税者として貴族院議員を務めた[3]。兄の義兵衛は岡山電気軌道などの役員をへて岡山県農工銀行頭取になり、山陽学園理事長・校長などをつとめた実業家[4][5]。弟の三郎(完雄)は1927年に山手線駒込駅で鉄道自殺した[6][7]。次弟の四郎兵衛は名古屋鉄道病院院長を務めた[8]。姪や甥(兄の子供)を通じて斎藤喜十郎財閥嘉納財閥辰馬本家酒造と姻戚関係にある。
  • 妻 雛子- 山邑太左衛門(櫻正宗当主)の長女[9]
  • 長男 東一
  • 次男 光平
  • 長女 節子

刊行文献[編集]

  • 星島二郎編『最近憲法論 上杉慎吉対美濃部達吉』みすず書房、1989年。オンデマンド版 2005年
  • 『一粒の麦 いま蘇える星島二郎の生涯』「政治と人」刊行会編、廣済堂出版、1996年

脚注[編集]

  1. ^ 母性保護連盟が法案通過祝賀会開く『東京朝日新聞』(昭和12年4月2日)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p684
  2. ^ 第4回国会 衆議院 不当財産取引調査特別委員会 第4号 昭和23年12月12日
  3. ^ a b c d e 星島家系図(児島郡藤戸村)
  4. ^ 星島義兵衛 日本人名大辞典+Plus
  5. ^ 星島義兵衛『人事興信録』第15版 下
  6. ^ 東京朝日新聞 1927(昭和2)年8月16日(火)夕刊「省線駒込駅 魔のホーム供養 新築以来絶へぬ自殺者にをぢ気立つ従業員」
  7. ^ 『有馬賴寧日記: 大正8年-昭和3年』山川出版, 1999, p459
  8. ^ 星島 二郎(読み)ホシジマ ニロウコトバンク
  9. ^ 星島二郎『人事興信録. 第14版 下』

外部リンク[編集]

議会
先代
益谷秀次
日本の旗 衆議院議長
第47代:1958年
次代
加藤鐐五郎
先代
角田幸吉
日本の旗 衆議院人事委員長
1949年 - 1950年
次代
田中伊三次
先代
倉元要一
日本の旗 衆議院建議委員長 次代
戸井嘉作
党職
先代
結党
自由党総務会長
初代:1950年
次代
益谷秀次
先代
斎藤隆夫
民主自由党総務会長
第2代:1949年 - 1950年
次代
解党
先代
北昤吉
日本自由党政務調査会長
第3代:1946年
次代
芦田均
先代
吉田茂
日本自由党総務会長
第3代:1946年 - 1948年
次代
解党
公職
先代
小笠原三九郎
日本の旗 商工大臣
第28代:1946年 - 1947年
次代
石井光次郎