日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約

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日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約
Japan US Security Treaty 8 September 1951.jpg
外務省外交史料館で展示されている署名
通称・略称 (旧)日米安保条約
署名 1951年9月8日サンフランシスコ
効力発生 1952年4月28日
条約番号 昭和27年条約第6号
主な内容 日本安全保障に関するアメリカ合衆国の関与について
関連条約 日本国との平和条約日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約
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日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(にほんこくとアメリカがっしゅうこくとのあいだのあんぜんほしょうじょうやく、Security Treaty Between the United States and Japan)は、日本における安全保障のため、アメリカ合衆国が関与し、アメリカ軍を日本国内に駐留させることなどを定めた二国間条約である。いわゆる旧日米安保条約と呼ばれるものであり、1951年9月8日の日本国との平和条約の同日に署名された。1960年に日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(新日米安保条約)が発効したことに伴い、失効した。

概要[編集]

日本の降伏以降、日本はアメリカ軍を中心とした連合国軍に占領され、日本軍は解体された。冷戦による陣営対立が深まり、1950年6月25日には朝鮮戦争が勃発している。日本駐留のアメリカ軍は朝鮮半島に移動し、警察予備隊(のちの陸上自衛隊)が創設されるなど、日本の防衛・安全保障環境は不安定であった。

朝鮮戦争が継続されるなか、日本は共産主義陣営を除いた諸国と講和する運びとなってきた(片肺講和)。防衛・安全保障環境を憂えた日米両国は、日本の主権回復後もアメリカ軍が駐留することで、極東における安全保障環境を維持することとした。これにより、日本国との平和条約と同時に、“全ての占領軍は講和成立により速やかに撤退する、二国間協定により引き続き駐留を容認される国も存在出来る”と定めた条約第6条a項但し書きの規定を口実に本条約が結ばれた。この条約により、アメリカ合衆国は「望む数の兵力を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を確保」(ジョン・フォスター・ダレス)した。

条約は前文と5条からなり、アメリカ軍が引き続き日本国内に駐留し続けることが骨子となっている。条約の期限は無く、駐留以外に援助可能性には触れているが、防衛義務は明言されていない。また、内乱対応への言及もあった。このため、防衛義務の明言や内乱条項の削除などを行なった日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(新日米安保条約)が締結、1960年に発効した。旧日米安保条約第四条および新日米安保条約第九条の定めにより、旧日米安保条約は1960年6月23日に失効した。

内容[編集]

前文
日本に独自の防衛力が充分にいないことを構築されていないことを認識し、また国連憲章が各国に自衛権を認めていることを認識し、その上で防衛用の暫定措置として、日本はアメリカ軍が日本国内に駐留することを希望している。また、アメリカ合衆国は日本が独自の防衛力を向上させることを期待している。平和条約の効力発行と同時にこの条約も効力を発効することを希望する。
第一条(アメリカ軍駐留権)
日本は国内へのアメリカ軍駐留の権利を与える。駐留アメリカ軍は、極東アジアの安全に寄与するほか、直接の武力侵攻や外国からの教唆などによる日本国内の内乱などに対しても援助を与えることができる。
第二条(第三国軍隊への協力の禁止)
アメリカ合衆国の同意を得ない、第三国軍隊の駐留・配備・基地提供・通過などの禁止。
第三条(細目決定)
細目決定は両国間の行政協定による。
第四条(条約の失効)
国際連合の措置または代替されうる別の安全保障措置の効力を生じたと両国政府が認識した場合に失効する。
第五条(批准)
批准後に効力が発効する。

エピソード[編集]

当条約の署名のさい、主席全権委員であった吉田茂首相は独りで署名に臨んだ。講和会議の舞台となった華やかなオペラハウスとは対照的な、プレシディオ国立公園の下士官用クラブハウスの一室で行われたこの調印式には、他の全権委員は欠席しており、唯一同行した池田勇人蔵相に対しても「この条約はあまり評判がよくない。君の経歴に傷が付くといけないので、私だけが署名する」と言って一人で署名したという[1]

条約の適用[編集]

第一条「外国による武力侵攻」に関して、この時期の該当例は、韓国による竹島占領、ソ連による色丹島および歯舞諸島占領がある。いずれも当時、米国が日本の主権だと認めていた領土への外国の武力支配であったが、安保条約による米軍の援助はなかった。

色丹島と竹島については、東京領事ウィリアム・ターナーは、1953年11月30日付けで「リアンクール(竹島)論争に関するメモランダム」を本省に提出し、安保条約と 領土問題について触れている[2]ラスク書簡をもとに竹島に対する日本の主権を認めていながら、竹島問題にアメリカが介入して恨みを買うことを恐れていたターナーによると、竹島問題は、ソ連が占領した日本領の色丹島問題と似ている、という。アメリカは「色丹島が日本の主権に属する」と声明したが、日本はアメリカに対して「安保条約に基づく武力行使」を要請してこなかった。したがって竹島問題についても、「日本人が日米安保条約を呼び出すのではないかと過度に不安になる必要はない」と述べている。

1957年、ソ連国境警備隊は歯舞諸島の低潮高地である貝殻島に上陸、実効支配したが、アメリカによる対抗措置はなく、ソ連の手に落ちた。

脚注[編集]

  1. ^ 西村熊雄「サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約」1999年、P.237。直接の参照は、楠綾子「吉田茂と日米同盟の形成」[1]
  2. ^ Wikisource reference William T. Turner. Memorandum in regard to the Liancourt Rocks (Takeshima Island) controversy. - ウィキソース. 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]