太陽政策

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太陽政策
各種表記
ハングル 햇볕정책
漢字 햇볕政策
発音 ヘッピョッチョンチェク
英語 Sunshine Policy
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太陽政策(たいようせいさく)は、大韓民国(韓国)政府が採用していた朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への友好的な外交政策で、金大中盧武鉉政権下この政策が採られていた。

概要[編集]

イソップ童話『北風と太陽』にちなみ、北朝鮮の頑な態度を改めさせるためには圧力ではなく温情であるとするものであり、軍事力で統一するよりも人道的・経済的援助や文化的交流(観光等)を深めることで将来の南北統一を図ろうとする外交政策である。その政策の原則とは武力的な手段を用いず、北朝鮮を吸収する形態の統一は行わず、さらに「南北基本合意書」に基づいて相互の和解と協力を推進するものとされている。その狙いには、南北基本合意書の継承と北朝鮮の崩壊の防止、統一した後の格差解消、北朝鮮の国際社会との繋がりを維持などがある。

この政策に関連して行われたことは南北首脳会談や、現代財閥による金剛山観光事業、北朝鮮へのコメ支援などがある。消極的なものとしては、北朝鮮による韓国人拉致疑惑(一説には数百人に上るとも)をあえて追及しないなどの措置も含まれる。

歴史[編集]

先建設後統一政策[編集]

朝鮮戦争によって南北が分断されてから韓国政府は朝鮮半島を統一することを目的として政策を打ち出してきた。しかし軍事力を用いた統一の危険性と予想される損害が経済発展と共に増大したために、外交的な手段による統一の必要性が出てきた。そのため韓国政府は北朝鮮との経済的な繋がりを強めることで、北朝鮮との一体性を高め、最終的に統一を目指すという政策研究がなされ、実行されることとなった。

太陽政策の原型といえるものは朴政権における「先建設後統一政策」に見られる。これはまず韓国の経済力を高め、その経済力を持って北朝鮮への繋がりを作ろうという政策であった。この一環として日韓国交正常化が成功し、韓国政府は日米から経済協力によって多大な資金を得ることができ、経済復興の基盤を築くことに成功した。

北方政策[編集]

その後、先建設後統一政策は全政権において「北方政策」が立案された。これは韓国の経済力で北朝鮮との繋がりを強め、さらに北朝鮮の友好国である共産圏の国々と国交を樹立して外交的に北朝鮮を包囲しようとする政策である。具体的には当時共産圏であった中国との貿易拡大を進め、1985年には中朝貿易を上回る量の貿易規模の拡大に成功し、北朝鮮の友好国である中国への影響力を持つことに努めた。また1990年には韓国はソ連との国交を樹立し、北朝鮮の宗主国と関係を持つことで外交的な包囲網を形成することに成功した。さらに当時北朝鮮国内では経済的に厳しい状況にあり、地域限定で外資の導入を認めるなどの経済的な繋がりを得るには好都合な状況が生まれていた。このような状況で1990年には韓国と北朝鮮の首相が会談し、1991年には南北基本合意書が締結され、南北経済交流が推進されたために北朝鮮にとって韓国は中国に次ぐ貿易相手国へとなっていった。北朝鮮を主要な共産主義国家との国交樹立によって外交的に包囲し、さらに韓国経済との繋がりを強化して北朝鮮の韓国への依存性を強め、最終的に南北統一へとつなげる、という北方政策はここで完成したと言える。

太陽政策[編集]

その後、韓国政府はこれまで打ち出した北方政策を基盤として「太陽政策」を立案した。金日成の急死により実現しなかったとはいえ、1994年には南北首脳会談も決まったなど南北間には断続的に対話が続けられていた。しかし金大中政権が開始した太陽政策はその規模と内容がこれまでの北方政策に較べて大きく拡大したことも事実で、2000年には南北首脳会談が実現し、金剛山観光事業、開城工業団地事業、京義線東海線の鉄道・道路連結事業という対北朝鮮三大経済協力事業が進められ、離散家族再会事業が継続して行われるなど、目に見える形で北朝鮮と韓国の距離が縮まったと韓国では広く認識されている。

評価[編集]

韓国においては離散家族の再会事業などの功績から、386世代と言われる中年層を中心にこの政策を支持する人が多い。しかし朝鮮戦争従軍者を中心に、長年にわたり反共政策を支持した韓国国内の高齢層、退役軍人はもとより、統一への関心が低く経済的な負担感を嫌う若年層からも反発が強い。日本米国中国などの反北団体や人権団体からは「この政策は民衆を苦しめ続けている金正日政権を生きながらえさせているだけで、まったく飢餓などの解決策になっていない」「旅人ではなく泥棒に物を与えているだけ」と批判される。

事実、2000年の南北首脳会談の直前に北朝鮮に対して5億ドルもの秘密支援の疑惑が囁かれるなど、太陽政策の遂行課程で巨額の資金が北朝鮮に渡されているにもかかわらず北朝鮮の姿勢に変化が見えず、北朝鮮を巡る多国間のアプローチにおいて韓国が標榜する太陽政策は米韓・日韓などのあいだでの温度差の原因ともなっている。実際、太陽政策は米国が日本など諸外国との連携のもと行っている北朝鮮制裁への妨害行為として、日韓の保守層の間では民衆出身の左翼政権盧武鉉大統領の反米・反日主義(北朝鮮への媚び)と関連付けて捉えられている。

太陽政策が行われる背景として、韓国は北朝鮮との統一を実際には望んでおらず、北朝鮮政権の存続を望んでいるからではないかとの分析もある。すでに極端に拡大した経済格差から、統一は韓国にとって過大な経済的負担となりうることによる。また、中国が北朝鮮に経済進出を活発化させており、それに対する韓国の警戒感も太陽政策の後押しをしているという見方もある。

またイソップ童話と違い「支援」ばかりを与えた太陽政策は(イソップ童話での旅人は太陽の熱を「苦」にして服を脱いだが)2006年10月に、北朝鮮が国連などの反対を押し切り核実験を行ったと発表したことで破綻をきたした。盧武鉉大統領は非難の声明を公にし、太陽政策を打ち切るとの意図を感じさせる言動を発表したが、具体案は示さず態度は曖昧であった。そのため韓国国内でも、この太陽政策が北朝鮮の増長を招いたとして非難されるようになり、それまで与党だったウリ党と野党第一党のハンナラ党の立場が逆転し、2008年に盧武鉉が大統領の座を退いた後は李明博(イ・ミョンバク)が第17代大統領に就任、支援の条件として核放棄を求めた「非核・開放・3000」を掲げ太陽政策を転換させた。立案者の金大中は「(北の核実験は)米国の強硬政策のせいだ」と主張し、太陽政策を擁護していた。

関連項目[編集]