朴正煕

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朴正煕(パク・チョンヒ)
박정희
朴正煕

任期: 1963年10月15日1979年10月26日

出生: 1917年11月14日
慶尚北道
死去: 1979年10月26日
ソウル特別市
政党: 民主共和党
配偶: 陸英修

朴正煕パク・チョンヒ1917年11月14日 - 1979年10月26日)は、大韓民国軍人政治家。クーデターで政権を奪取して第5~9代大統領(在任:1963年 - 1979年)を務め、軍事独裁権威主義体制を築いた。号は「中樹」(チュンス、중수)。

日本語読みは「ぼく・せいき」。日本名は高木正雄(たかぎ まさお)(-1945年)。日本では1984年全斗煥大統領訪日を契機に韓国人人名の現地読み化が行われるようになり、漢字表記のままで「パク・チョンヒ」と韓国語読みされるのが一般的である。ハンナラ党代表の朴槿恵は長女。

なお、出生日を1917年9月30日とする文献等があるがこれは旧暦での表記であり実際には上記の日付が正しい。

目次

[編集] 出自からクーデターまで

朴正煕
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各種表記
ハングル 박정희
漢字 朴正熙
平仮名
(日本語読み仮名)
ぼく・せいき
片仮名
(現地語読み仮名)
パク・チョンヒ
ラテン文字転写: Pak Jeong-hui/Park Chung-hee
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満州国軍時代の朴正煕
満州国軍時代の朴正煕

朴正煕は日本統治下の朝鮮慶尚北道善山郡亀尾(グミ)(現在の亀尾市)で、貧しい農村部家庭の5男2女の末子として生まれた。父親は科挙に合格したが、日本によって韓国が併合された後に没落し墓守をしていた。小学生の頃は、学校に弁当を持って行けないほど生活は苦しく、後世、酒に酔うたびに友人や側近に「俺は本当の貧しさを知っている」と語っていたという[1]。家は貧しかったが亀尾小学校を優等で卒業。大邱師範学校を卒業し教師をした後、日本国籍のまま満州国軍新京軍官学校で学び、同校を首席で卒業する。優秀な成績のため、特に選ばれて日本の陸軍士官学校留学した。その後、創氏改名によって高木正雄と名乗った。1944年に日本の陸軍士官学校を3位の成績で卒業(57期)し、終戦時は満州国軍中尉だった。

大韓民国が独立した後、新たに創設された韓国軍に入隊した。一方で南朝鮮労働党(共産党)に入党し、軍内党細胞の指導者であったことが粛軍運動で発覚して逮捕され、死刑を宣告される。しかし、南朝鮮労働党の内部情報を提供したこと、北朝鮮に通じていることが米軍当局に評価されて釈放された。朝鮮戦争勃発とともに軍役に復帰し、さらに戦闘情報課長から作戦教育局次長へと昇進した。

1961年5月16日張都暎(当時・陸軍中将)を議長に立てて「軍事革命委員会」を名乗り、軍事クーデターを起こす(5・16軍事クーデター)。反共親米、腐敗と旧悪の一掃、経済再建などを決起の理由とした。決起に関する謀議は李承晩が退陣に追い込まれた四月革命の過程と同時進行だったことがわかっている。学生たちが南北朝鮮会談を開こうとする政治的騒乱のなか、軍が突然、政治の舞台に踊り出たことは多くを驚かせた。軍は朝鮮の政治史において例を見ない巨大勢力だった[2]

当時、陸軍少将の階級にあり第2副司令官だった朴正煕は、陸軍士官学校第8期生を中心とするグループに推されてクーデターグループのリーダーになった。陸士8期生は解放後はじめて韓国が自前で訓練した軍人たちであり、その中心人物が金鍾泌だった[3]。なお、陸軍士官学校11期生には後に大統領になる全斗煥盧泰愚が含まれている。これら軍人たちには地方の貧困層出身者が多く、彼らの信望を集めていたのが朴正煕であった。

軍そのものの規模に比してクーデターに動員された人員は必ずしも多くはなく、成功もおぼつかないはずだった。クーデターグループたちは軍首脳の懐柔に成功し、後に軍首脳を排除した。クーデターグループは自らを「革命主体勢力」と呼び、戒厳令を布いた。金融凍結、港湾空港を閉鎖、議会を解散し、政治活動を禁止し、張勉政権の閣僚を逮捕した。

政権を奪取した朴正煕は「軍事革命委員会」を「国家再建最高会議」と改称した。自ら議長となり、治安維持と経済改善のためとして国家再建非常措置法を施行した。6月10日には秘密諜報機関・韓国中央情報部(KCIA)を発足させた。7月3日には張都暎を失脚させ軍事政権のトップに立った。これらの権力奪取の過程で軍事独裁政治色を強めていった。これに抗議するデモが頻繁に起きるようになるが、武力で押さえ込んだ。また、腐敗政治家の排除・闇取引の摘発・治安向上を目的とした風俗店摘発なども行い、「ヤクザも敵わぬ朴将軍」と言われるようになる。

その後、政権へのアメリカの支持を取り付けるために訪米することとなり、アメリカ大統領と釣り合う階級を与えるべきとの軍長老の進言に従い大将に昇進した。訪米の往路日本に立ち寄り、11月12日池田勇人首相と会談、早急なる国交正常化で合意した。このとき一部日本語を使って会談したため、韓国内の反日勢力から批判を買うこととなった。訪米ではケネディ大統領との会談を実現した。

[編集] 大統領としての施策

SEATO首脳ら。左から3人目が朴正煕(1966年10月24日)。
SEATO首脳ら。左から3人目が朴正煕(1966年10月24日)。

1963年8月に軍を退役し、大統領選に出馬。前大統領のを破り、自らが大統領の座に就く。1965年6月22日には、日本との国交を回復(日韓基本条約)。日韓基本条約は過去の植民地支配を清算するものでなく、僅かばかりの金で国を売るものであるとして、民主化活動家の大学生に市民も加わった韓国民と野党議員たちの激しい抵抗のなか、日本との条約締結が強行された。また、日本国内でも、条約に基づく巨額の資金提供は独裁政権を利するとして共産主義者からの反対があり、大学生を中心に大々的な反対運動が展開されていた。その後、アメリカの要請に応じてベトナム戦争への派兵も決定するが、次第にアメリカの敗色濃厚となるに従い、ナショナリスト的な立場からアメリカから離れていく。西ドイツへ炭鉱労働者と看護婦を派遣し、その給与を担保に借款を受けたことに始まり、日韓基本条約の締結により得た資金を不足していたインフラの整備に充てた。また、ベトナム参戦が、漢江の奇跡と呼ばれる経済成長に繋がっていく。中華人民共和国核兵器開発に対抗して、密かに核・ミサイル開発に着手してアメリカと衝突して中止するなど、ハリネズミのごとく武装する「小強国」ビジョンに基づく独自の自主国防計画を推進することになる。

内政においては典型的な開発独裁であった。軍備増強よりも経済基盤の建設を優先した。軍人としては珍しく強い経済マインドを持つ人物だった。クーデター直後、最初に着手したのは農村における高利債整理法(一種の徳政令)であった。

大統領に就任するや、国家主導で産業育成を図るべく、経済開発院を設立した事を皮切りに、財閥や国策企業を通じて、重工業にベトナム参戦により得たカネ、モノを重点的に投入した。これによって作られた代表的なものに、日本の八幡製鐵所をモデルとした浦項製鉄所がある。また「日本経済の急成長の秘密は石油化学にある」として、石油化学工場建設を急がせた。この結果、1961年には国民1人あたりの所得が僅か80ドルだったという世界最貧国圏から、1979年には1620ドルといったように、20年弱で国民所得を約20倍にまで跳ね上げるという「漢江の奇跡」を成し遂げた。工業化にある程度成功したころには農業の遅れが目立つようになり、それを取り戻すべく、農業政策においてはセマウル運動を展開し、農村の近代化を果たした。また、高速道路の建設にも力を入れた。

政治的なスローガンとしては執政期中ごろから標榜した「維新体制」がある。開発独裁と言われる朴正煕の経済政策はソ連計画経済をモデルにしている。例えば、1962年から始まった数次にわたる五カ年計画方式がそれである。また、朴正煕の経済開発手法が実際に見聞した満州国の経済からヒントを得ているとする分析がある。それまでの輸入代替工業化政策を大胆に輸出型重工業化による経済離陸政策に切り替える柔軟性を見せた[4]。 しかし、国外からは、反共同盟の強化を意図するアメリカ政府日本政府などを除けば、朴正煕政権は批判的に評されることが多かった。特にセマウル運動については農業近代化であるよりも相互監視を機能させるための農村の強制的な組織化であるとして全体主義的な組織化になぞらえる論考も日本では生まれた。

1968年1月21日には北朝鮮ゲリラ部隊に大統領官邸を襲撃される(青瓦台襲撃未遂事件)が、1970年8月15日演説で平和共存を提案し、1972年7月4日には南北共同声明を発表した。

国内では、10月17日に非常戒厳令を発する(十月維新)など独裁色を強め、金大中事件に代表されるような中央情報部による強権的な反政府運動弾圧をも行った。反政府勢力に対する弾圧は執政期全般をとおして苛烈を極めた。共産主義者ないし北朝鮮のスパイ摘発に名を借りた不法な拷問冤罪事件は枚挙に暇がない。そのうち、1975年11月22日の「学園浸透スパイ団事件」は同時代の日本でも大きく報道された[5]

2007年10月韓国政府は、1973年朴正煕政権の方針に反発して日本で民主化運動を推し進めていた金大中が日本で拉致された所謂金大中事件に関して、韓国中央情報部(KCIA)の関与があり同時にそれを統括・指揮していた朴正煕から暗黙の了解を得て行っていたとする公式発表を行った。

[編集] 政権末期

自分を脅かす者は政敵ばかりか与党の有力者であっても退け、独裁体制を維持し続けていた。1974年8月15日、日本植民地統治から解放されたことを記念する光復節の祝賀行儀に参加していたところ、在日韓国人文世光に銃撃を受け、朴正煕自身は無事だったものの、夫人の陸英修が頭部を撃たれて死亡した(文世光事件)。なお、この際に用いられた拳銃が、文世光が日本で警察官を襲撃し日本警察から強奪したものであったことや、事件に関与したと見られる朝鮮総連を日本側が擁護し続けたこともあり、日韓両国の政治問題へと発展した。さらに最末期にはしばしば米国と対立していたとも漏れ伝わっている。

[編集] 暗殺

釜山馬山で民主化暴動が起こっていた1979年10月26日、側近のKCIA部長金載圭によって射殺された(10・26事件)。享年61。国葬が執り行われ、遺体は国立墓地顕忠院に葬られている。なお、朴正煕は1985年には自ら下野すると側近に話していたという。

[編集] 死去後の評価

2008年現在の大韓民国においては政治的な事情もあり評価は各人の立場においてまちまちではあるが、一般論においては、政治面では目的の為には不当な手段も厭わないものの、私人としては清廉であると評価されつつある。

朴正煕の死後、早くから目をかけてきた軍人大統領が2代続き、その開発独裁路線を継承し強圧的な独裁政治は批判され続けていたが、民主化後その達成感によって運動が退潮しはじめたこと、生活が豊かになったと国民が感じ始めたことで、独裁下に於いて実現した「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展や治安の良さを再評価する動きが出て来た。特に政敵であった金大中が、大統領選を控えて保守票を取り込むために朴正煕時代の経済発展を評価するに至って、韓国近代化の礎を築いたという声が高まった。

独裁的でありながら彼の私生活はいたって質素、潔癖であり、ネポティズム(縁故採用)も嫌ったことは事実であり、保守派を中心に彼の治世を懐かしむ声さえ存在し、韓国歴代大統領のうち一番人気があるともいわれる。

しかし、彼が終始民主化運動を徹底的に弾圧し、終身大統領として自身の権力を死ぬまで保持しようとしたこと、朴政権下での拷問、不当逮捕を含む強権政治が大統領の死後も二代の軍事政権に引き継がれ韓国の民主化を阻んだことも事実であり、内政における自由化が遅れる原因となった。

終生のライバルであった北朝鮮の金日成に体制競争を挑み決定的な経済格差を付け、経済格差によって南北の力関係が大きく変化したことは東アジア地域の国際関係にも変化をもたらした。

経済パフォーマンスを体制の正統性の根拠としてアピールしたのはむしろ朴正煕登場以前の北朝鮮であり、そのため北朝鮮は経済面のみならず人民に対して支配を正当化するうえでも慢性的な苦境に陥った。

批判的な見地からは、独裁者としての批判に加えて朴正煕を植民地支配における対日協力者・親日派とする意見もあり、実際親日人名辞典編纂委員会の名簿に記載された。2004年に日本植民地統治時代の対日協力者を解明するための日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法が可決され、その時代に日本の陸軍士官学校で学び、満州国国軍に参加していた彼もそれに含まれる(最終的には、保守派の反対を受け彼は該当しないように配慮されることとなる)という一幕もあった。これらは韓国で行われている歴史見直しの一環であるが、次期大統領選絡みで、彼の娘であり有力候補の一人であるハンナラ党党首・朴槿恵の人気低下を狙ったという見方もある。朴大統領をはじめ韓国の軍事政権が行った開発独裁政治に、大日本帝国の韓国植民地支配が手法、理念その他でどれだけ影響を与えていたかは歴史家によって意見がまちまちである。

日本との関係を真剣に考えていたとされ、竹島をめぐる領有権問題について「両国友好のためにあんな島など沈めてしまえ」と発言したとも言われている。

また、ベトナム戦争への参戦については、派遣された韓国軍部隊が現地でベトコンと見なした一般市民を女性や子供も含めて大量虐殺する事件やベトナムの女性を強姦する事件、その他数々の野獣のような蛮行を起こしたこと、及びベトナム戦争自体にベトナムの独立運動を妨害・抑圧する性格(当時の植民地解放闘争は共産主義との関連が強かった、ベトナム戦争も参照)があったのではないかという問題もあって、ベトナム人の視点からすれば朴大統領はまぎれもない「侵略者の一員」であるとベトナム人の多くおよび韓国、日本のリベラル派の歴史学者を中心に指摘されている。とりわけ、韓洪九は自著『韓洪九の韓国現代史』(元はハンギョレ新聞連載コラム)でベトナム戦争の植民地解放運動への圧迫としての面を重視し、日本による侵略に苦しんだ韓国の近現代史と重ねながら、朴大統領のベトナム戦争参戦を批判している。

1999年にはアメリカ雑誌TIME』で「今世紀もっとも影響力のあったアジアの20人」に韓国人から唯一選ばれている。

[編集] 逸話など

  • 元プロレスラーの大木金太郎には、その現役時代において朴正煕から反則禁止令が出されていたという。
  • 恥かしがりやであったために、後に夫人となる陸英修と見合いをするときには、酒を飲んでから見合いの席に臨んだ。
  • 酒を飲んで機嫌が良くなると、よく日本の軍歌を歌っていたと言われている。
  • 生涯で2回結婚(もう1回は同居)しており、陸英修夫人とは、仲の睦まじさを演出したが、家庭内では夫人が「青瓦台(大統領官邸)の中の野党」の役割を果たし、政治的な助言も惜しまなかった為、時々「陸‐朴戦」(韓国語では「肉薄戦」と発音が同じ)、つまり夫婦喧嘩があったという。終生、夫人に対してはただの妻以上に尊敬し続け、もし夫人が生きていたら、政権の末期もかなり違っていたかも知れないとよく言われる。
  • 無名の若者たちが国の近代化を推し進めた明治維新を「明治維新の志士を見習いたい」と称賛していた。特に、中心人物の一人である西郷隆盛を尊敬し、西郷が語った「子孫のために美田を残さず」という言葉を好んで使っていた事から、前述の浦項製鉄所や石油化学工場の建設の推進など、経済政策やメンタリティ等あらゆる部分で日本の影響を色濃く受けていた事が伺える。
  • 日本の英文学家・劇作家で保守思想家としても評価の高い福田恆存と親交を結んだ。福田は朴の暗殺を聞き追悼文「孤獨の人、朴正煕」を書いている。その中で福田は、朴と昼食を共にした時を回想し、以下のように書いている。
    「故人に對して、そしてまた一國の元首に對して、頗る禮を缺いた話だが、私は敢へて書く、正直、私はその粗食に驚いた、オムレツは中まで硬く、表面がまだらに焦げてゐる。もし日本のホテルだつたら、「これがオムレツか」と私は文句を言つたであらう。が、それを平氣で口にしてゐる青瓦臺の「獨裁者」をまじまじと眺め…」
  • 他の大統領と同様に、よく教会に通っていた。

[編集] 脚注

  1. ^ 農村部貧困家庭の末子であったことは、朴正煕のメンタリティーを考えるうえで重要な要素である。
  2. ^ クーデターによって軍の存在が政治勢力として初めて認識された。軍を政治勢力として捉えるならば、韓国軍は当時において最大であるだけではなく朝鮮の歴史において最大の政治勢力だったと言える。韓国軍はクーデター時に約60万人を擁していた。そのうち53万人が陸軍である。これに比して、韓国併合時に日本によって解散させられた朝鮮軍は6000人でしかなかった。このことは長い李氏朝鮮の歴史において軍備が縮小される一方だったこととも関係している。
  3. ^ 陸軍士官学校第8期生はそれまでの士官と性格を異にしている。韓国の陸士第1期生から第7期生までは旧日本軍(朝鮮軍)の勤務者と、即席で訓練されて士官になった者たちで編成されていた。これに対して第8期生は1年間の訓練を受けている点、第1期生から第7期生をあわせた数に近い1800人を擁していたという点などで特異な存在だった。陸士第8期生は朝鮮戦争において韓国軍の主要な役割を担い、その後も韓国現代史において大きな影響力をもっていた。
  4. ^ クーデター時の朴正煕は重工業化と輸出によるテイクオフを構想してはいなかったと言われている。輸出型工業化を図るという経済政策を採用したのが政権奪取後であることも官僚的権威主義体制モデルがしばしば適用される理由の一つである。
  5. ^学園浸透スパイ団事件」はソウルに留学していた在日韓国人・徐勝徐俊植の兄弟が首謀者とされたことや、徐勝が顔から半身に火傷を負った姿で法廷に現れたことなどから、日本で騒がれた。特に火傷は拷問によるものだと信じられた(のちに火傷を負ったのは拷問中に苦痛に耐え切れず自殺をはかったためと判明)。日本では徐兄弟の救援運動が展開され、徐勝・徐俊植『獄中からの手紙』(岩波新書 ISBN 4-00-420163-2)はベストセラーになった。また、徐勝は実際に北朝鮮の工作船で同国にひそかに入国、実際に工作員として教育を受けていたことが現在では明らかになっている

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

  • 『朴正煕―韓国近代革命家の実像』(亜紀書房)
  • 『韓国を強国に変えた男 朴正煕』(光人社NF文庫)

[編集] 外部リンク

先代:
尹潽善
大韓民国の大統領
第6 - 9代: 1963年-1979年
次代:
崔圭夏
大韓民国大統領
臨時政府: 李承晩 | 朴殷植 | 李相龍 | 洪震 | 李東寧 | 金九
共和国: 李承晩 | | 朴正煕 | 崔圭夏 | 全斗煥 | 盧泰愚 | 金泳三 | 金大中 | 盧武鉉李明博