金大中

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金大中
김대중 ノーベル賞受賞者
Kim Dae-jung (Cropped).png

任期 1998年2003年
国務総理 金鍾泌 (1998-2000)
朴泰俊 (2000) 代理
李漢東 (2000-2002)
張裳 (2002) 代理
張大煥 (2002) 代理
金碩洙 (2002-2003)

出生 1925年12月3日[1]
日本の旗 日本統治下朝鮮全羅南道務安郡
(現・大韓民国全羅南道新安郡
死去 2009年8月18日(満83歳没)[1]
韓国の旗 韓国ソウル特別市
政党 民主党 (1954-1964)
新民党 (1970)
統一民主党 (1986-87)
平和民主党 (1987-1990)
新民主連合党 (1991)
民主党 (1991-1995)
新政治国民会議 (1995-2000)
新千年民主党 (2000-03)
配偶者 李姫鎬
署名 Kim Dae-jung signature.png
金大中
各種表記
ハングル 김대중
漢字 金大中
発音: キム・デジュン
日本語読み: きん だいちゅう
2000年式
MR式
Gim Dae-jung
Kim Tae-jung
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金 大中(キム・デジュン、朝鮮語김대중1925年12月3日[1] - 2009年8月18日)は、大韓民国政治家、第15代大統領(在任:1998年 - 2003年)。本貫金海金氏は「後廣」(フグァン、후광)。日本名は豊田大中( - 1945年)。ニックネームは「忍冬草」。略称は「DJ」。カトリック教徒で、洗礼名は「トマス・モア」。立命館大学第37号名誉博士

来歴[編集]

政界入り[編集]

1925年全羅南道荷衣島(現在の新安郡)に生まれるが、本貫はこの地域と対立していた慶尚道の金海市である。1943年に木浦公立商業学校(現全南第一高校)卒業、慶煕大学大学院経済学科2年課程修了。

運送業を経て、1954年総選挙で国会議員に初挑戦するも落選。張勉に引き立てられ、民主党スポークスマンを務める。以降も、当時の李承晩大統領の政策に反対する姿勢で活動したが、1959年1960年と立て続けに落選を経験した。1961年に補欠選挙で国会議員に初当選したが、朴正煕による軍事クーデターにより無効となった。

その後、野党の代表的な政治家として頭角を現し、1963年1967年第6代第7代、国会議員選挙で連続当選した結果、1970年9月に新民党の大統領候補に指名された。翌1971年大統領選では、現職の朴正煕に97万票差にまで迫った(朴正煕634万票、金大中537万票)が、落選。以後、朴正煕の政敵としてつけ狙われるようになり、大統領選の直後には交通事故を装った暗殺工作に遭い、股関節の障害を負った。

民主化運動家として[編集]

朴正煕による十月維新の後は、日米両国に滞在しながら民主化運動に取り組んだ。1973年昭和48年)8月8日、東京に滞在中、ホテルグランドパレスで何者か(複数)によって拉致され、行方不明となった。この犯人たちは、謀殺を意図した韓国中央情報部 (KCIA) の工作員であった事が後に判明する。拉致後、神戸から出港した工作船の上で殺害される寸前であったが、日本の自衛隊機が船の上を旋回して威嚇したため、犯人らは殺害は中止。その後、ソウルで解放されて九死に一生を得たが、ソウルの自宅で日本人記者らに会見を行った後、2ヶ月間、軟禁状態に置かれた。

1976年3月にはらと共に「民主救国宣言」を発表、逮捕され懲役判決を受けるも、1978年3月に釈放された。1979年に朴正煕暗殺事件が起きると、民主化の機運が高まってソウルの春が訪れ、韓国政界で金大中・金泳三金鍾泌の三人のリーダーが注目される、いわゆる三金時代が始まった。

1980年2月19日に公民権を回復。政治活動を再開するが、5月18日に再び逮捕。これが原因となって光州で起きた民主化要求のデモを軍部が武力鎮圧する、流血の大惨事となった。このため、軍法会議で首謀者として、また1977年に発生した学園浸透スパイ団事件での“摘発スパイ”の自白から「韓国民主回復統一促進国民会議」の議長とされ、死刑判決を受けた。日本の当時の鈴木善幸首相はこれを憂慮して、11月21日崔慶禄駐日大使と会談し、「日韓親善からみて、金大中の身柄に重大な関心と憂慮の意を抱かざるを得ない」と発言し、その旨を全斗煥大統領に伝達するよう要請した。この事を受け、朝鮮日報は11月25日付の紙面で、鈴木発言を「内政干渉である」と批判した。しかし、次第に民主化弾圧の死刑判決であると国際的な批判が強まって、1982年1月23日の閣議決定により無期懲役に減刑される事が決定し、12月23日に米国への出国を条件に刑の執行を停止された。

1985年2月8日に亡命先の米国からの帰国を強行し軟禁状態に置かれたが、3月6日全斗煥大統領により政治活動を解禁された[2]1987年には再び公民権を回復。16年ぶりに直接選挙制で行われた大統領選挙平和民主党を結成して、軍人出身の盧泰愚に挑むものの、保守系の金泳三と分立したことが文民勢力の分裂を招いて敗北した。1992年にも金泳三、鄭周永らを相手に大統領選を戦うも再び敗北。これをもって金大中は一時、政界引退を表明した。その後、研究生活に入り、論文を書く日々を送っていたが、次回大統領選挙に向け動向に注目が集まっていた1995年に、新政治国民会議を結成して、総裁に就任。政界復帰した。

大統領として[編集]

1997年大統領選挙では、与党ハンナラ党李会昌と、ハンナラ党内での予備選に敗退した李仁済を相手に選挙を戦った。与党の強力な集票力に当選が危ぶまれたが、保守派であり朴正煕の片腕だった金鍾泌と手を結び[3]、また度重なる敗北を逆手に取り「準備された大統領」をキャッチフレーズに戦い、アジア通貨危機への対応能力をアピールした。結果、自らの地盤である全羅道地域で圧倒的な支持を得てことに加えて、金鍾泌の地盤である忠清道地域、浮動票の多い首都圏での支持を得ることに成功した。また、李仁済の立候補により保守票が割れたことにも助けられ、当選した。

大統領に就任したのはアジア通貨危機の直後であり、経済的な危機は続いていた。金大中政権は引き続きIMFの介入を全面的に受け入れた上で、経済改革に着手した。IT産業奨励やビッグディール政策(財閥間の事業交換、統廃合)をもって経済建て直しを図った。危機を脱した韓国は内外から「IT先進国」と呼ばれるようになり、サムスン電子現代自動車の世界市場での地位を高めた。しかし、急激な産業構造の転換は貧富の格差の増大などを招いた。そのため、医療保険や年金など福祉政策の拡充にも重点を置いた(DJノミクス)。

1998年小渕恵三内閣総理大臣日韓共同宣言を発表し、韓国でそれまで禁止されていた日本文化開放を推し進めた。

自ら大韓民国中央情報部(KCIA)に拉致され、命を狙われた経験のある金大中は、1999年に国家安全企画部(旧・中央情報部)を廃止し、権限や機能を大幅に縮小した国家情報院を大統領直属機関として新設した。

ノーベル賞受賞者 ノーベル賞
受賞年:2000年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:韓国、および一般に東アジアの民主主義と人権のための努力、特に北朝鮮との平和と和解のため

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に対しては「太陽政策」と称される宥和・関与政策を志向した。2000年6月に朝鮮民主主義人民共和国の首都平壌金正日国防委員長との南北首脳会談が実現し、6.15南北共同宣言を締結した。南北首脳会談などが評価されて、ノーベル平和賞を受賞した[4]。これは現時点で韓国人唯一のノーベル賞受賞である。

ただ、太陽政策は金大中の任期中に宥和政策としては機能したが、関与政策としての役割を果たしたかには議論の余地があり、その後の報道では、会談実現のために金大中大統領から現代グループを通じて4 - 5億ドルを金正日に渡していたとされる。(後述

朴正煕全斗煥盧泰愚金泳三と4代続いた慶尚道地域出身の大統領から、全羅道地域の金大中へ権力が移ったことにより韓国の地域対立の打破が期待されたが、当選時の経緯や、共に与党である新政治国民会議と忠清道地域に影響力を持つ自民連の統合が頓挫したことにより、この分野では目覚しい成果を上げることが出来なかった。

大統領退任後と晩年[編集]

退任後は政界を引退した。延世大学校付属の金大中図書館設立に携わるなど政治とは距離を置き、研究生活を送っていた。

2006年6月に北朝鮮を訪問する予定であったが、北朝鮮のテポドン発射問題によって取り消された。

2008年11月27日に、民主労働党指導部に対して「民主労働党民主党・市民社会団体がしっかりと手を組んで広範囲の民主連合を結成し、逆走を阻止する闘争をすれば必ず成功するはずだ。李明博政府の非核・開放3000政策は失敗した米ブッシュ政権の政策である」と述べた[5]

2009年7月13日に三たび持病の肺炎を患う。同年8月18日ソウル市内延世大学校医療院セブランス病院で、多臓器不全により、死去。85歳だった[6]。また、盧武鉉の死去(同年5月)と同じく、韓国の大手サイト(ネイバーダウムネートYahoo!GoogleMSN)では、トップのロゴを白黒に差し替え、特設ページも設けた。太陽政策を推し進めた大統領経験者が4ヶ月足らずで相次いで死去したことになる。

2009年8月23日、ソウル市の国会議事堂前広場にて、韓国史上2人目の国葬に処された[7]

対日関係[編集]

金大中は併合時代の朝鮮における日本語教育を受けており、戦後日本での滞在も長く、流暢な日本語を話すことができたため、非公式な場における日本のマスコミ向けのインタビューでは日本語で応じる事が多かった。盧武鉉江沢民のように強固な反日姿勢はとっておらず、二度命を救われている日本に対しても寛容な立場で、潜在的親日派とされているが[8]、国の事情により、親日[9]に踏み込んだ発言まではしなかった。ただし、小泉純一郎靖国神社参拝問題には反対の姿勢であった。また前述の金大中事件KCIAの犯行と判明した際には、当時の首相田中角栄等を角栄の没後であったのにも拘わらず、痛烈に批判している(ただし、日本語訳版も出た大統領就任直後に出版された自伝『死線を越えて』では「金大中事件の際には日本の皆様には世話になった。」と日本に対する謝意は表明している)。大統領就任後の来日時には日本統治時代の恩師を訪問し、「豊田です。」と日本語で創氏改名時の苗字を名乗ったため、一部から批判を浴びた。

1998年の来日に先立って、政府として天皇を表す「日王」の呼称を取り止め、「天皇」を使用することを公式に宣言。また、来日前から「過去の清算」に強い意欲を持っていたとされる。皇居での晩餐会での天皇の言葉に対する答辞では、植民地支配など過去の歴史の傷には触れなかった。愛子内親王の誕生に際しては「皇室と国民が待ちこがれた皇孫が誕生した事を、韓国国民とともに心よりお祝いします。皇室がこの度の慶事を機に、一層繁栄することを確信します」との祝電を送った。また、金は日本の常任理事国入りに対する韓国国内の支持を求めていた。

映画や音楽などの日本文化を受容することも表明[10]。そのためか、日本に対する嫌悪感が薄れる若者が、過度な反日教育・報道にもかかわらず増えた。日韓ワールドカップも共同開催するなど、金泳三と同様に民間交流で日韓関係を好転させ、金大中時代が過去最も良好な外交関係であった。

対北送金疑惑[編集]

金大中は南北首脳会談の直前に現代グループが北朝鮮へ5億ドルを違法に送金をするのを容認した[11]。現代グループはこれにより、北朝鮮における事業の権利を得た。このため首脳会談は送金の見返りだったという見方があり[12]、ノーベル賞受賞に疑問を投げかけた。

2004年3月28日、最高裁判所は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への不法送金事件で起訴された林東源元国家情報院長、李瑾栄元産業銀行総裁、朴相培元産業銀行副総裁、金潤圭現代峨山社長に対し有罪を確定したと発表。判決文では「高度な政治性を帯びた国家行為に対し、司法審査を抑制するという統治行為概念は認めるとしても、適法な手続きに沿うことなく、北朝鮮に4億5000万ドルを送金した行為自体は法的審査の対象となる」としている[13]

2004年6月12日のMBCのインタビューにて、金大中は「対北送金に対する特別検事捜査は、それ自体やってはならないことだった。国政を遂行していれば、外部には知らせられない多数の問題がある。これを一々特別検事が捜査し、問題視すれば、国政は難しくなる。1億ドルを提供しようとしたのは事実だが、実定法では難しい部分があり、政府レベルでは提供できなかった。現代が通信に関する権利を北朝鮮側から提供される対価として支払ったと聞いている」と関与を認めた[14]

2011年12月、金大中政権が発足当時からノーベル平和賞受賞のために組織的な「工作」を行っていたことや、北朝鮮に5億ドルを不法送金した内幕、安全企画部による盗聴などをメディアに次々と暴露した元国家情報院職員がアメリカへの政治亡命が認められた。この元職員は機密漏洩の容疑で国家情報院より告発されている。[15][16]

その他[編集]

  • 大統領になるまでの自宅軟禁、投獄期間は約10年に及ぶ。
  • 国会議員を務めた1970年に、当時24歳の女性(後に自殺)との間で婚外子をもうけたと、2005年4月、韓国のSBSテレビが報道した。国家情報院はこの問題を「1号懸案」と呼び、関係者の盗聴など特別な注意を払っていたという。
  • 世論調査機関「リサーチ・アンド・リサーチ」が行った「韓国の発展に最も大きく貢献した大統領」を問うアンケートで2位となった(1位は朴正煕)[17]
  • 大統領在任中に死刑判決を受けた北朝鮮の工作員辛光洙(シン・グァンス)を恩赦で釈放した。また、18ヶ月しか服役していない殺人犯朴琦緖(パク・キソ)を釈放した。
  • 来日の折、1998年10月8日の日韓共同宣言[18]において、歴史認識に関して植民地支配がもたらした苦痛と損害に対し、日本の「お詫び」が文書化された[19]。金大中はこれ以降、「韓国政府は、過去の問題を持ち出さないようにしたい。自分が責任を持つ」と言明した[20]。しかし2001年、韓国政府は「新しい歴史教科書を作る会」の教科書に修正要求を出し、日本との外交の場に歴史認識を再度持ち出している[21]

脚注・出典[編集]

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  1. ^ a b c 戸籍上の生年月日である。自叙伝では1924年1月6日生としている。読売新聞8月18日付記事参照。
  2. ^ 今日の歴史(3月6日) 聯合ニュース 2009/03/06
  3. ^ いわゆるDJP連合。ちなみに両者は共に金海金氏である。
  4. ^ ただし会談の一方の当事者である金正日には賞は授与されていない。
  5. ^ 金大中元大統領「李大統領、南北関係を意図的に破たん」 中央日報 2008.11.28
  6. ^ 金大中元大統領が死去
  7. ^ “金大中・元大統領の国葬、2万人が参列”. 読売新聞. (2009年8月23日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090823-OYT1T00554.htm 2009年8月23日閲覧。 
  8. ^ ただし若手議員時代には朴政権を親日売国政権と痛烈に批判していた。
  9. ^ 日本語とは別の意味を持つ。親日派を参照。
  10. ^ CHAGE and ASKAが初の韓国でライブを行った日本歌手だった。
  11. ^ 李明博はなぜ金大中・盧武鉉政権の疑惑を捜査しなければならないのか? 現代コリア 趙甲済 2008年9月5日(月刊朝鮮2007年1月号より引用)
  12. ^ 「対北送金」は首脳会談の対価ではない? 朝鮮日報 2003年2月14日
  13. ^ 「対北送金」 6被告の有罪確定 朝鮮日報 2004/03/28
  14. ^ 金大中氏「対北送金の捜査すべきでなかった」 朝鮮日報 2004/06/14
  15. ^ 「金大中ノーベル賞は工作」暴露の元情報員、米国に亡命へ=韓国 サーチナ 2012/01/25
  16. ^ “「뉴스 파일」‘감청의혹 폭로’ 김기삼 前안기부원 美 망명 승인(「ニュース ファイル」‘監聴(盗聴)疑惑暴露’キム・ギサム前安企部員 アメリカ亡命承認)”. 東亜日報. (2012年1月26日). http://news.donga.com/3/all/20120126/43555632/1 2012年1月26日閲覧。 
  17. ^ 「最高の大統領」は朴正煕元大統領 中央日報
  18. ^ 日韓共同宣言 -21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ- 外務省
  19. ^ 「韓日新時代」論考-金大中政権の対日政策 立命館大学 立命館法学 一九九九年五号
  20. ^ アジア支援をめぐる思惑に差 - 日本とアジア 小牧輝夫 アジア経済研究所 IDE-JETRO
  21. ^ 政府、日本の歴史教科書の再修正要求を検討 朝鮮日報 2001年4月10日

日本語の著書[編集]

※改題増補版『金大中自伝~わが人生、わが道』(千早書房,2000年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]