ジョゼ・ラモス=ホルタ
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ジョゼ・ラモス=ホルタ(José Ramos-Horta, 1949年12月26日 - )は、東ティモールの大統領(2007年5月20日 - )、民族抵抗評議会共同代表。首都ディリ出身で、父親はポルトガル人、母親はティモール人のハーフ。
[編集] 来歴
1974年、東ティモール独立革命戦線の設立に参加。1975年独立を宣言した東ティモール民主共和国では外務大臣の役職にあった。インドネシア侵攻以後は、国際社会の支援を得るため、国外で活動を続けた。 1994年に欧州議会人権委員会で、東ティモール人の自決権行使を3段階によって達成しようとする和平案を発表し、注目を浴びた。また、1995年に国連の仲介によって実現した「全東ティモール人包括対話」でも重要な役割を果たしている。1996年、「東ティモールにおける紛争の正当で平和的な解決への尽力」を評価され、カルロス・フィリペ・シメネス・ベロ司教とともにノーベル平和賞受賞。
2002年に独立した東ティモールで外務大臣に就任、2006年7月10日より退陣したマリ・アルカティリの後任としてグスマン大統領より首相に指名され首相に就任。(国防大臣を兼任)のちに大統領選に立候補。与党候補・フレティリンのルオロ党首との決戦投票を制し、2007年5月20日にグスマン初代大統領の後をうけて、第2代大統領に就任した。子息は、離婚したペソア国家行政相との間に長男がいる。現在独身。
2007年6月30日に行われた議会選挙では、グスマン党首率いる東ティモール再建国民会議 (CNRT) が18議席を獲得し議会第2党に躍進。東ティモール独立革命戦線は、かろうじて第1党であったが、65議席中21議席と大幅に議席を減らした。この結果を踏まえ与野党による挙国一致内閣を目指したが、東ティモール独立革命戦線・マリ・アルカティリ書記長は、これに異を唱えた。一旦はその考えを受け入れたが、CNRT 率いる野党連合とフレティリンは、何週間も論争を繰り返したが合意には至らなかった。選挙により決定的な差がつかなかったことも要因とされる。これにより、野党連合による連立政権を組閣することを決断。8月6日にグスマン党首を首相に指名し組閣を指示、8月8日にグスマンは首相に就任した。これに対して、東ティモールの憲法に違反するとして、アルカティリが法的手段で闘うと述べ、フレティリンは彼の決定を非難している。
2008年2月11日、暗殺計画により銃撃され、重傷を負った。銃撃戦により護衛の1人が負傷し、アルフレド・レイナド (Alfredo Reinado) を含む反乱軍兵士2人が死亡した。ラモス=ホルタはディリにあるオーストラリア軍の基地に搬送され、さらに治療のためオーストラリアのロイヤル・ダーウィン・ホスピタルに移され、何度も手術を受け回復。
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