アウンサンスーチー

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アウンサンスーチー
အောင်ဆန်းစုကြည်
Aung San Suu Kyi ノーベル賞受賞者
Remise du Prix Sakharov à Aung San Suu Kyi Strasbourg 22 octobre 2013-18.jpg
生年: 1945年6月19日(69歳)
生地: Flag of British Burma (1937).svg 英領ビルマラングーン管区ラングーン都
活動: ミャンマーの非暴力民主化運動
所属: Flag of National League for Democracy.svg国民民主連盟
投獄: 自宅軟禁3回 合計約14年9か月(現在は解除)
受賞: ノーベル平和賞1991年
議会名誉黄金勲章2008年
レジオン・ドヌール勲章コマンドゥール(2012年
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アウンサンスーチービルマ語: အောင်ဆန်းစုကြည် (画像による標示:Aung San Suu Kyi (Burmese).svg)、ラテン文字転写: Aung San Suu Kyi、国際音声記号 [aʊŋˌsæn.suːˈtʃiː]。1945年6月19日 - )は、ミャンマーにおける非暴力民主化運動の指導者、政治家。現在、連邦議会議員、国民民主連盟中央執行委員会議長。京都大学名誉フェロー2013年[1]オックスフォード大学名誉博士1993年)。ノーベル平和賞受賞(1991年)。

ビルマの独立運動を主導し、その達成を目前にして暗殺された「ビルマ建国の父」ことアウンサン将軍の娘である。

日本での報道では「スー・チー」「スー・チーさん」などと表記されることもあるが、原語では姓名の区別なく「アウンサンスーチー」と一語で表記する(後述)。

来歴[編集]

ビルマの首都だったラングーンに生まれた。1960年に母親のキンチーがインド大使に着任すると、アウンサンスーチーはデリーで学ぶことになる。1962-1963年にはデリー大学レディ・スリラム・カレッジで政治学を学ぶ。1964-1967年にはイギリスのオックスフォード大学セント・ヒューズ・カレッジで哲学、政治学、経済学を学び、学士号を取得する。なお1990年には名誉フェローに選出された。ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)で研究助手を務めた後、1969-1971年にはニューヨーク国際連合事務局行政財政委員会で書記官補となる。

1972年にオックスフォードの後輩でチベット研究者のマイケル・アリス(1946-1999)と結婚し、アレキサンダーとキムの2人の息子をもうける。ブータン外務省研究員、オックスフォード大学ボーダリアン図書館の研究員を務める。その後1985-86年には京都大学東南アジア研究センターの客員研究員として来日し、父アウンサン将軍についての歴史研究を進める。当時の受け入れを行ったのは、当時同センター長の石井米雄(前神田外語大学学長)らである。

軍事政権との対峙[編集]

1988年4月、病気の母を看護するためビルマに戻る。1987年9月の高額紙幣廃止令などをきっかけに、学生を中心に始まった反政府運動(8888民主化運動)は、デモ中の学生が虐殺された同年3月以降に激化した。同年7月には1962年の軍事クーデターより独裁政治を敷いていたネ・ウィン将軍・ビルマ社会主義計画党議長が辞任した。戒厳令下では学生、市民らが大規模なデモを行った。アウンサンスーチーは8月26日にシュエダゴン・パゴダ前集会で50万人に向け演説を行った。9月18日には国軍がクーデターを起こし、ソウ・マウン議長を首班とする軍事政権(国家法秩序回復評議会、SLORC。のちのSPDC―国家平和発展評議会)が誕生した。民主化運動は徹底的に弾圧され、数千人の犠牲者が出た。アウンサンスーチーは9月に、翌1990年に予定された選挙への参加を目指し、国民民主連盟(NLD)の結党に参加する。全国遊説を行うが、1989年7月に自宅軟禁された。国外退去を条件に自由を認めるともちかけられたが拒否したと言われる。

軍事政権は1990年5月27日に総選挙を行い、アウンサンスーチーの率いる国民民主連盟が大勝した。しかし、軍政側は、「民主化より国の安全を優先する」と権力の移譲を拒否した。この強硬な姿勢は国際的に激しい非難を招き、アウンサンスーチーは1991年にノーベル平和賞を受賞した。賞金の130万ドルはビルマ国民の健康と教育のための基金の設立に使われた。ただし自宅軟禁中のため授賞式には出席できず、受賞演説を行ったのは軍政が民主化に本腰を入れ始めてから21年後の2012年6月16日のことであった[2]

1995年7月10日に自宅軟禁から解放される。週末に自宅前集会を行って大勢の聴衆を集めたが、軍政によって中止に追い込まれる。NLDは同年11月に制憲国民会議のボイコットを決断し、軍政は、対抗措置として同党側委員を除名した。会議は事実上休眠状態となる(2003年に再開)。

NLDは1996年5月、アウンサンスーチー釈放以後初の党大会を計画したが、軍政側は国会議員235人を拘束する弾圧策に出た。軍政はアウンサンスーチーにヤンゴン外への移動を禁止していた。アウンサンスーチー側は1996年と1998年にこれに抵抗したが、いずれも妨害された。NLDは1998年9月、国会招集要求を無視した軍政に対抗し、アウンサンスーチーら議員10人で構成する国会代表者委員会(CRPP)を発足させる。

1999年3月、夫マイケル・アリスが前立腺癌で死亡。ビルマ入国を求めたアリスの再三の要請を軍政は拒否した。再入国拒否の可能性があるアウンサンスーチーは出国できず、夫妻は再会することができなかった。

度重なる自宅軟禁[編集]

2000年8月24日、ダラーのNLD青年部への訪問を再び阻止される。抗議の篭城を行うが、9月2日に首都ヤンゴンに強制送還された。同月22日にマンダレー行きを試みたが、再度拘束され、翌22日から再度自宅軟禁された。同10月から、ラザリ国連事務総長特使らが仲介し、アウンサンスーチーと軍政との間で国民和解対話に向けた前段交渉が始まった。2002年5月6日に自宅軟禁は解除される。その後NLDの党組織再建のため、各地を遊説し、訪問先で熱狂的な歓迎を受ける。2002年5月14日、アウンサンスーチーと久米宏が5分間の電話対談を行い、録音した音声がテレビ朝日系列の「ニュースステーション」で放送された。2003年5月30日、ビルマ北部を遊説中に軍政による計画的な襲撃に遭い、活動家や支援者に多数の死傷者と逮捕者が出た。襲撃の責任者がのちに首相となるソー・ウィン中将とされる。その後は軍施設に連行され、三度目の軟禁状態に置かれる。外部からの訪問はほぼ完全にシャットアウトされた。同年9月に手術入院した後は自宅に移され、自宅軟禁状態となる。

2007年9月23日、仏教僧侶らの反政府デモが広がるのに伴い、軟禁先を自宅からインセイン刑務所に移されたとの情報がある。9月30日、ミャンマーを訪れたイブラヒム・ガンバリ国連事務総長特別顧問と1時間にわたり会談した。

国際社会からの支援[編集]

2008年4月、アメリカにて議会名誉黄金勲章授与法案可決。同年5月10日に軍事政権が信任選挙を強行した新憲法草案では、当初「配偶者および子供が外国人、もしくは外国の市民権を有する国民には選挙権を認めない」との条項があり、前夫が外国人のアウンサンスーチーの被選挙権を事実上剥奪していた。しかし、諸外国の抗議もあり、軍事政府はこの条項は撤回。同月23日、アウンサンスーチーは事前投票したと伝えられた。

2009年5月、アメリカ人の男が自宅に侵入したのが軟禁条件違反に当たるとして、「国家転覆防御法」違反の罪で起訴される。5月18日、ヤンゴン市・インセイン刑務所内の裁判所で裁判が始まった。規定では有罪なら禁固3-5年が科せられる。自宅軟禁の最長期限は6年であるから、同月末を迎えると軟禁が解かれる予定だった。同日、アウンサンスーチー率いる野党・国民民主連盟(NLD)が刑務所周辺で抗議行動を行った。17日の前日には、ニコール・キッドマンブラッド・ピットデビッド・ベッカムら著名人44人が、アウンサンスーチーの訴追に反対し、解放を求める共同声明を発表した。26日午前、タン・シュエをトップとする軍事政権は軟禁期限は同年11月との声明を出し、アウンサンスーチーと弁護士にも軟禁解除を伝えた。その上で8月11日、国家転覆の罪で禁固3年の実刑を言い渡し、直後に執行猶予と1年6か月分の特赦を付けて再度の軟禁状態に置いた。侵入者のアメリカ人は禁固7年の実刑判決を受けた。

政治活動の再開[編集]

2012年9月、ホワイトハウスにてバラク・オバマと会談を行うアウンサンスーチー

2010年1月21日、軍事政権のマウン・ウ内相が地方の会合でアウンサンスーチーについて「軟禁期限となる11月に解放される」と述べていたことが判明し、11月13日に軟禁を解除された[3]。政治活動の再開を進めるアウンサンスーチーに対し、政府は2011年6月28日に活動停止を通告[4]。7月25日、8月12日には政府側と会談し、国家の発展のため協力していくことで合意したが、これには懐疑的な見方もある[5]。8月14日には地方都市での政治活動を再開させた[6]。2012年4月1日に行なわれたミャンマー連邦議会補欠選挙にNLDより立候補[7]し、当選を果たす[8]。だが軍事政権が定めた憲法に反対する立場から、議員就任の際に求められる憲法遵守の宣誓を拒否することを理由に、4月23日の初登院に応じず宣誓内容の修正を求めた[9]。その後方針転換し、5月2日に正式に議員に就任した[10]

2012年1月10日、国民民主連盟中央執行委員会議長に選出。1月13日、ニコラ・サルコジフランス大統領が、レジオンドヌール勲章コマンドゥール(3等)の授与を電話で伝える。1月25日、アースィフ・アリー・ザルダーリーパキスタン大統領より、ベナジル・ブット賞を授与される。2月10日、国際連合教育科学文化機関が、2002年に授与が決定していたマダンジート・シン賞を授与する。

2013年4月13日、27年ぶりに来日。在日ミャンマー人や、京都滞在中に家族ぐるみの付き合いをしていた日本人との懇談や、経済界へのミャンマーへの支援の呼びかけ、安倍晋三首相などの日本政府要人との会談を行う[11]

人物[編集]

名前について[編集]

アウンサンスーチーの名前は、父親の名前(アウンサン)に、父方の祖母の名前(スー)と母親の名前(キンチー)から一音節ずつ取って、付けられたものである。

ミャンマーに住むビルマ民族は性別に関係なくを持たない。アウンサンスーチーの「アウンサン」も姓や父姓ではなく、個人名の一部分に過ぎない。彼女の名前は「アウンサンスーチー」で、原語では分割することはない。したがって、彼女のことを「スー・チー」「スーチー」などと呼ぶのは誤りとなる。ただし日本の新聞や報道などでは便宜上短い表記を使うことがほとんどとなっている。日本の大手メディアでは毎日新聞が1996年から、朝日新聞が2012年から「アウンサンスーチー」と表記しているがそれ以外は「アウン・サン・スー・チー」と表記している。

なおビルマ人は、通常、年配の女性につける「女史」に相当する敬称「ドー」(Daw) をつけて「ドー・アウンサンスーチー」と呼ぶ。また、親しみを込めて「ドー・スー」ということもある。

逸話・評価[編集]

  • アウンサンスーチーがいつも髪に差している鮮やかな花の髪飾りは、再会することなく死別した英国人の夫とかつて誕生日に贈りあった品種。彼女にとってこれをつけることが無言の抵抗の証となった。
  • 日本留学中(25年以上前に)、市川崑監督の映画「ビルマの竪琴」を鑑賞し、「中井貴一ってハンサムね」と述べたという[12]
  • 高山正之はアウンサンスーチーについて、父を殺し、祖国を破壊したイギリスに忠誠を誓い、イギリスに背く祖国を非難し「植民地支配の糾弾」事業を潰したと評している[13]
  • 彼女の半生をもとにした映画「The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛」が2011年に制作された。
  • 旧軍事政権との繋がりの深い政商から、NLDが金を受け取っていた事が判明。彼ら政商は軍事政権の取り巻きの立場を利用して富を築いており、国内でも悪評が高い。内訳は教育・医療対策の為に実業家テー・ザTay Zaから8万2353ドル、チョー・ウィンから15万8824ドル。テー・ザは武器密輸の疑い、チョー・ウィンは南部カレン州で起きた強制土地収用に関係している。また同じくNLDに献金していたゾー・ゾーが所有する財閥マックス・ミャンマーは、2013年1月現在も欧米からの制裁を受けている。イラワジ誌によれば、NLDの行動を擁護し、「軍事政権の取り巻きだったとされる人々は、NLDなどの社会活動を支援してきた。そのどこが悪いのか?目的もなく金を使う代わりに、彼らは支援するべきことを支援した。それはいいことだ」と語った[14]
  • 国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチ(本部ニューヨーク)は2013年1月31日、2013年版の年次報告を発表し、アウンサンスーチーについて「少数民族の人権保護に消極的で、失望している」との批判を掲載した。[15]

著書[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 産経新聞「スー・チー氏、京都大なども訪問」2013年4月15日号
  2. ^ “受賞から21年…スー・チー氏がノーベル賞演説”. 読売新聞. (2012年6月16日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20120616-OYT1T00795.htm 2012年6月16日閲覧。 
  3. ^ “スー・チーさん解放、7年半ぶり自由に” (日本語). 読売新聞. (2010年11月13日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20101113-OYT1T00657.htm 2010年11月13日閲覧。 
  4. ^ “スー・チーさんに活動停止通告 ミャンマー政府”. 朝日新聞. (2011年6月29日). http://www.asahi.com/international/update/0629/TKY201106290616.html 2011年8月15日閲覧。 
  5. ^ “「国の発展に協力」スー・チーさんと政権が共同声明” (日本語). 朝日新聞. (2011年8月12日). http://www.asahi.com/international/update/0812/TKY201108120547.html 2011年8月15日閲覧。 
  6. ^ “スー・チーさんが軟禁解除後初の地方活動 北部バゴーを訪問”. CNN.co.jp (CNN). (2011年8月15日). http://www.cnn.co.jp/world/30003689.html 2011年8月15日閲覧。 
  7. ^ “スー・チーさん、選挙立候補へ”. ロイター (ロイター). (2011年11月19日). http://www.cnn.co.jp/world/30004641.html 2011年11月19日閲覧。 
  8. ^ “スー・チーさんのNLD、40人当選と選管発表”. YOMIURI ONLINE (読売新聞). (2012年4月2日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20120402-OYT1T00956.htm 2012年4月2日閲覧。 
  9. ^ “スー・チーさんら、議会への初登院をとりやめ”. 読売新聞. (2012年4月23日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20120423-OYT1T01163.htm 2012年5月1日閲覧。 
  10. ^ “スーチー氏ら国会で宣誓、議員に正式就任 ミャンマー”. CNN.co.jp (CNN). (2012年5月2日). http://www.cnn.co.jp/world/30006452.html 2012年5月4日閲覧。 
  11. ^ “スー・チー氏が来日 27年ぶり、支援呼び掛け 安倍首相らと会談も”. 産経新聞. (2013年4月13日). http://sankei.jp.msn.com/world/news/130413/asi13041308230000-n1.htm 2013年4月13日閲覧。 
  12. ^ 池上彰著「そうだったのか!現代史パート2」 210頁
  13. ^ 高山正之『サンデルよ、「正義」を教えよう』
  14. ^ 「汚れたカネ」に開き直るスー・チー プリヤンカ・ボガーニ Newsweekニューズウィーク日本版 2013年1月29日号
  15. ^ 2013年1月31日産経新聞『スー・チー氏を異例の批判 民族問題で国際人権団体』

関連項目[編集]

外部リンク[編集]