全斗煥
| 全斗煥 전두환 |
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| 任期: | 1980年8月27日 – 1988年2月24日 |
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| 出生: | 1931年1月18日(81歳) |
| 政党: | 民主正義党 |
| 配偶者: | 李順子 |
| 全斗煥 | |
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| 各種表記 | |
| ハングル: | 전두환 |
| 漢字: | 全斗煥 |
| 平仮名: (日本語読み仮名) |
ぜん・とかん |
| 片仮名: (現地語読み仮名) |
チョン・ドゥファン |
| ラテン文字転写: | Chun Doo-hwan/Cheon Tu-hwan |
全 斗煥(チョン・ドゥファン、전두환、1931年1月18日 - )は、大韓民国(韓国)の軍人、政治家。韓国第11・12代大統領(在任:1980年 - 1988年)。本貫は、旌善全氏。号は「日海」(イレ、일해)。
日本では、漢字の日本語読みで「ぜん・とかん」とも読むこともあるが、1980年代以降は韓国語原音に近い読みがマスメディアなどで一般化したので、余り使われなくなってきている。「チョン・ドファン」とも読まれることがある(Microsoft IMEやATOKでは、「ちょんどふぁん」と入力し、変換すると「全斗煥」と表示される)。
目次 |
[編集] 来歴
慶尚南道陜川生まれ。朝鮮戦争中に陸軍士官学校に入学(11期)。同期には盧泰愚らがいた。1960年6月、陸軍大尉として崔世昌、張基梧、車智澈と共にアメリカ合衆国ジョージア州フォート・ベニングの特殊戦教育機関で6ヶ月間、沼地、山岳・サバイバル訓練などの「レインジャー・トレーニングコース」課程を受けた。また落下傘降下訓練(これはオプションと思われる)を受け、空輸団創設要員となった[1]。朴正煕がクーデターを起こすと、陸軍士官学校の生徒を率いて支持を表明。この功績が認められて最高会議議長秘書官になった。ベトナム戦争に参加し、帰国した。1969年、特戦団司令部が創設された。第一空輸旅団を母体として次々と旅団が生まれてゆき、自らも第一旅団長を務めた[2]。この特殊戦略司令部を経て1979年に保安司令官になる。
朴正煕暗殺事件が起きると、暗殺を実行した金載圭を逮捕・処刑するなど暗殺事件の捜査を指揮する。12月12日に戒厳司令官鄭昇和大将を逮捕し、実権を掌握(粛軍クーデター)。1980年5月17日に5・17非常戒厳令拡大措置を実施。9月に大統領就任。翌1981年から第五共和国政府がスタートした。
1982年には長年続いた夜間外出禁止令を解除した。1984年、戦後の韓国元首として初めて日本を訪れ、昭和天皇との晩餐会に臨むなど[3][4]、日本と向き合う姿勢を強調し、この時には韓国の記念切手にもなっている。同年、政治活動被規制者202人の規制を解除する[5]。ほぼ同時期に第一次教科書問題が発生。中国共産党に連携する形でこれを批判した。ただしこれは純粋な歴史認識問題というよりも、日本に60億ドルの経済援助を求めていたが日本は呑めないということで膠着していた全斗煥が、自らの独裁権力の強化のために日本からの援助を引き出させる手段として用いたとする説もある。
日米との連携を強め経済の活性化に成功するが、1983年にミャンマーのアウン・サン廟へ赴いた際、北朝鮮の工作員による全斗煥を狙ったラングーン爆弾テロ事件が発生する。彼自身は難を逃れたものの、事件で多くの閣僚を失った。さらに1987年には北朝鮮の工作員金賢姫らによる大韓航空機爆破事件が起き、南北関係は緊迫度を増した。
反政府活動の取り締まりも強化し、大学生の副業の禁止や卒業の制限、学生運動に関連した学生を強制的に入営させて密告やスパイを奨励させる「緑化事業」を行った。1980年には、非常戒厳令拡大措置にともない、社会的に弱者とされる失業者やホームレス、あるいは犯罪者や学生運動家、労働運動家など約4万人を一斉に逮捕させ、軍隊の「三清教育隊」で過酷な訓練と強制労働を課した。特に後者は暴行などで52人の死者を出し(後遺症の死者は397人)、2768人に精神障害を残すなど計り知れない傷跡を残した。あまりの酷さに人々から「一旦入ったら生きて出られぬ」と恐れられたという。逮捕された者の中には光州事件に連座した高校生や主婦、14歳の女子中学生も含まれていた。
クーデター後に金大中を含む野党側の政治家を逮捕また軟禁し、非常戒厳令を全国に拡大させ、これに反発していた光州での民主化要求デモを鎮圧するため陸軍の特殊部隊を送り、市民が多数虐殺された(光州事件)。金大中は軍法会議で死刑判決を受ける(後に無期懲役に減刑)ものの、1982年にアメリカに出国。1987年以降には改憲・反政府運動も活発化し、7月には政権移譲を表明。
退任後には自ら財団を設置し院政を狙うが、利権介入などが発覚し親族が逮捕されるに至って、1988年11月23日に私財の国庫への献納と隠遁を表明した[6]。その後も光州事件や不正蓄財への追及が止まず、死刑判決を受けた(金大中の計らいにより、減刑の後、特赦)。2004年にも子息の不正貯蓄について検察から出頭を求められている。
全斗煥に対しては独裁者、虐殺者、在任中の汚職など否定的なイメージで見られることが多いが、その反面、経済発展やオリンピック誘致・スポーツ振興などの功績を評価すべきだという保守派からの擁護論もある。
[編集] 経済の建て直し
全斗煥が大統領に就任して第一に目標としたのは、漢江の奇跡以来の経済成長の夢の再来だった。就任当時、経済成長率はマイナス4.8%、物価上昇率は42.3%、44億ドルの貿易赤字を抱えていた。経済成長をなくして国は成立しないと考えた全斗煥は、執務の合間に経済学博士や財界の実業家などを呼び、大幅に時間を割いて経済の勉強を開始した。この際、「国民総生産600億ドルを目指し、日本から学んで、日本に追いつこう」をキャッチフレーズとした。
経済政策は、朴正煕時代に作られた経済開発院ではなく、青瓦台の経済首席に任せ、自らが事実上経済政策の主導権を握った。
この結果、1987年の経済成長率は12.8%、物価上昇率0.5%、貿易黒字は114億ドル、国民一人当たりGNPは3098ドル、国民総生産は1284億ドルと、主要な経済指数のほとんどを上向かせることに成功した。
[編集] 対日姿勢
全斗煥は、韓国の歴代大統領としては初めて、現在の韓国を含む朝鮮半島が日本の植民地となったことは、自分の国(当時の大韓帝国)にも責任があったと認め、当時日本でも大きく報道された。
1981年8月15日の光復節記念式典の演説では、「我々は国を失った民族の恥辱をめぐり、日本の帝国主義を責めるべきではなく、当時の情勢、国内的な団結、国力の弱さなど、我々自らの責任を厳しく自責する姿勢が必要である」と主張している。
また、翌年の光復節記念式典においても、歴史教科書問題により、日本人に対するタクシーの乗車拒否が起こるなど、反日感情が渦巻いていた韓国において、前述の通り強硬的な姿勢を見せながらも、「異民族支配の苦痛と侮辱を再び経験しないため確実な保障は、我々を支配した国よりも暮らし易い国、より富強な国を作り上げる道しかあり得ない」と述べ、「克日」を強調した。
[編集] その他
- 1968年1月21日に青瓦台襲撃未遂事件が起きた際は、首都警備司令部の大隊長として、迫撃砲と照明弾を打ち上げてソウルを昼のように照らし出した。後に生け捕りにされたゲリラの一人は、「迫撃砲と照明弾で、既に包囲されたと観念した」と話していた。
- 1974年9月には、第一師団師団長として、北朝鮮が軍事休戦ラインを越えて掘り進んでいた南進トンネルを発見した。
- 前述の通り、韓国の陸軍士官学校を卒業している事から、全斗煥は歴代の韓国の大統領では初めて、純粋な自国の教育を受けた経験がある人物となる(李承晩と張勉はアメリカで、朴正煕と崔圭夏は日本で教育を受けていた)。この事から全斗煥は、韓国の指導者としての正統性をアピールするために、「ハングル世代で、正規の士官学校を卒業した」という事をしばしば強調していた。
- 全斗煥については、韓国のテレビドラマ『第5共和国』において、その集権過程から没落まで詳しく描かれている。
- 国民への政治批判をかわす目的で、朴政権と異なって、娯楽には寛大な姿勢をとった。プロ野球の創設やソウルオリンピックの誘致、サッカー選手の育成。映画法改正による表現の自由の緩和と外国映画輸入やポルノ映画制作の解禁、観光業やサービス業、特に性産業の許容などである。いずれも国民からは好評であったが、一方でスポーツ、映画(screen)、セックスの頭文字をとって3S政策と揶揄された。
[編集] 経歴
- 1966年 - 第一空輸特戦団 副団長
- 1967年 - 首都警備司令部 第30大隊長
- 1969年 - 陸軍参謀総長室 主席副官
- 1970年 - 第9師団 29連隊長(駐ベトナム白馬部隊)
- 1971年 - 第1空輸特戦団 団長
- 1973年 - 陸軍准将
- 1976年 - 青瓦台警護室 次長補
- 1977年 - 陸軍少将
- 1978年 - 第1師団長
- 1979年 - 保安司令官、朴正煕暗殺事件後 戒厳司令部 合同捜査本部長、12.12事態で政権掌握
- 1980年 - 陸軍中将、中央情報部 部長署理、国家保衛立法会議 常任委員長
- 1980年 - 陸軍大将、予備役編入、第11代大統領 就任
- 1981年 - 第12代大統領
- 1984年 - 9月6日 - 8日にかけて日本訪問。これは歴代韓国大統領の中で初めての日本公式訪問である。
- 1988年 - 国家元老諮問会議 議長(その後辞任)、不正蓄財と利権介入が発覚し私財の国庫献納と隠遁生活に入る。
- 1996年 - 粛軍クーデター・光州事件などにより逮捕、死刑を言い渡される(後に特赦)。
- 2006年 - 叙勲取り消し[7]
[編集] 参考文献
- 名越二荒之助 『日韓共鳴二千年史 - これを読めば韓国も日本も好きになる』 明成社、2002年 ISBN 4-944219-11-3
- 池東旭 『韓国大統領列伝 - 権力者の栄華と転落』 中公新書、2002年
- 金浩鎮・羅京洙 『韓国歴代大統領とリーダーシップ』 羅京洙・小針進訳、柘植書房新社、2007年
- 厳相益・金重明 『被告人閣下 - 全斗煥・盧泰愚裁判傍聴記』 金重明訳、文藝春秋、1997年
- 李泳釆・韓興鉄『なるほど!これが韓国か 名言・流行語・造語で知る現代史』 朝日新聞社、2006年 ISBN4-02-259899-9
[編集] 脚注
- ^ 張甲済『別冊宝島89 軍部!』 黄民基訳、JICC出版局、1989年、181頁
- ^ 張甲済『別冊宝島89 軍部!』 黄民基訳、JICC出版局、1989年、181頁
- ^ [1]
- ^ この際昭和天皇は「今世紀の一時期において、不幸な過去が存在したことは、まことに遺憾」と謝罪した。
- ^ 今日の歴史(2月25日) 聯合ニュース 2009/02/25
- ^ 特別談話
- ^ 今日の歴史(3月20日) 聯合ニュース 2009/03/20
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