マザー・テレサ

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MotherTeresa 090.jpg
ノーベル賞受賞者 ノーベル賞
受賞年:1979年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:長期間にわたる献身的な働きにより、苦しみのなかにいる人々に安息をもたらした[1]

マザー・テレサMother Teresa、本名はアルーマニア語アグネサ/アンティゴナ・ゴンジャ・ボヤジ (Agnesa/Antigona Gongea Boiagi)、アルバニア語アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ (Agnesë Gonxhe Bojaxhiu)、1910年8月26日 -1997年9月5日)はカトリック教会修道女にして修道会神の愛の宣教者会」の創立者である。


「マザー」は指導的な修道女への敬称であり、「テレサ」は修道名である。カトリック教会の福者コルカタ(カルカッタ)で始まったテレサの貧しい人々のための活動は、後進の修道女たちによって全世界に広められている。

生前からその活動は高く評価され、1973年テンプルトン賞1979年ノーベル平和賞1980年バーラ・ラトナ賞(インドで国民に与えられる最高の賞)、1983年エリザベス2世から優秀修道会賞など多くの賞を受けた。1996年にはアメリカ名誉市民に選ばれている(アメリカ名誉市民はわずか7人しかいない)。2003年10月19日、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福された。

生涯[編集]

マザー・テレサの地元スコピエにある、彼女のメモリアル・ハウス

カルカッタの修道女[編集]

マザー・テレサことアグネス・ゴンジャ・ボヤジュは1910年8月26日、オスマン帝国領のコソボ州・ユスキュプ(現代のマケドニアスコピエ)に生まれた。翌27日は彼女が洗礼を受けたキリスト教徒としての誕生日である。母はアルバニア人のドラナ (Drana) であったが、父のニコル(Nikollë) は少数民族の(ルーマニア人と同系の)アルーマニア人の出身であった[2] [3] 。 父は実業家でアルバニア独立運動の闘士であったが急死(暗殺説もある)、彼女は3人の子供たちの末っ子であった。両親はマケドニア地方に住むカトリック教徒であったが、アルバニア人にはイスラム教徒が多く、マケドニア地方には正教徒が多かったことを考えると珍しい家族であった。

アグネスの幼少時代についての記録はほとんどないが小さいころから聡明な子で12歳の時には将来、インドで修道女として働きたいという望みを持っていたといわれる。18歳のとき、聖座の許可を得たアグネスは故郷のスコピエを離れアイルランド系の修道会であるロレト修道女会に入ってカルカッタ(現・コルカタ)へと赴くことになった。ロレト修道女会は女子教育を行う修道会であった。アグネスはダブリンで基礎教育を受けると修練女として1931年にインドのダージリンに赴いた。初誓願のときに選んだ修道名がテレサであった。この名前はリジューのテレーズからとっている。1937年に終生誓願を宣立し、以後シスター・テレサとよばれることになった。

1929年から1947年までテレサはカルカッタの聖マリア学院で地理を教えていた。彼女は子供の頃から地理が好きで、また、ユーモラスな彼女の授業は、学院の女学生達の間で大変人気が有ったらしい[4]1944年には校長に任命されている。上流階級の子女の教育にあたりながら、テレサの目にはいつもカルカッタの貧しい人々の姿が映っていた。彼女自身の言葉によると1946年、汽車に乗っていた際に「全てを捨て、最も貧しい人の間で働くように」という啓示を受けたという。彼女は修道院を離れて活動を行う許可を求めたがバチカンの修道会管轄庁などカトリック教会の上層部は慎重に評価を行おうとし、すぐには彼女の活動に対する認可を与えなかった。それでもテレサは自分の信じる道を進もうと決意していた。

1948年、ようやく教皇・ピウス12世からの修道院外居住の特別許可が得られた。テレサは修道院を出て、カルカッタのスラム街の中へ入っていった。彼女はインド女性の着る質素なサリーを身にまとい、手始めに学校に行けないホームレスの子供たちを集めて街頭での無料授業を行うようになった。やがて彼女のもとに聖マリア学院時代の教え子たちがボランティアとして集まり始め、教会や地域の名士たちからの寄付が寄せられるようになる。

神の愛の宣教者会の創立[編集]

1950年から修道会設立の許可を得た。これが「神の愛の宣教者会」である。テレサによれば、同会の目的は「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことであった。[5]テレサは修道会のリーダーとして「マザー」と呼ばれるようになる。

インド政府の協力でヒンズー教の廃寺院をゆずりうけたテレサは「死を待つ人々の家」というホスピスを開設した。以降、ホスピスや児童養護施設を開設していく。

活動の初期の頃は、地元住民たちは、キリスト教に改宗させようとしているという疑念を抱いていた。しかし、彼女たちはケアする相手の宗教を尊重する姿勢を貫き、亡くなった者に対しては、その者の宗教で看取っていた。

ケアする相手の状態や宗派を問わないテレサたちの活動は世界から関心を持たれ、多くの援助が集まった。1960年代までに「神の愛の宣教者会」の活動は全インドに及ぶようになった。さらに1965年以降、教皇・パウロ6世の許可によってインド国外での活動が可能になった。インド以外で初めて宣教女が派遣されたのは南米・ベネズエラであった。以後、修道会は全世界規模で貧しい人々のために活躍するようになる。

世界のマザー・テレサ[編集]

テレサの活動はカトリック教会全体に刺激を与え、「神の愛の宣教者修道士会」(1963年)や「神の愛の宣教者信徒会」などが次々に設立されていった。1969年、アメリカ人のマルコム・マゲッリッジMalcolm Muggeridge)が撮ったドキュメンタリー映画『すばらしいことを神様のために』(Something Beautiful for God)および同名の書籍によってテレサの活動はアメリカのみならず、全世界で知られるようになった。この作品の取材をする中でマゲッリッジはテレサの姿に強い感銘を受け、後にカトリック教徒になっている。

1971年、教皇・パウロ6世は自らが制定した勲章「ヨハネ23世教皇平和賞」の最初の受章者としてテレサを選んだ。これを皮切りに多くの賞がテレサに与えられることになる。ケネディー賞(1971年)、アルベルト・シュバイツアー賞 (1975年)、アメリカ合衆国大統領自由勲章1985年)、アメリカ合衆国名誉市民1996年)、議会名誉黄金勲章Congressional Gold Medal1997年)、これらにくわえて数多くの大学の名誉学位を受けた。アメリカ合衆国名誉市民としては5人目(存命中はチャーチルに次いで2人目)、またアメリカやその同盟国の政治家・軍人以外としては初めての授与である。

こういった賞の中で最も有名なものは、もちろん1979年に受けたノーベル平和賞であろう。テレサは授賞式の際にも特別な正装はせず、普段と同じく白い木綿のサリーと皮製のサンダルという粗末な身なりで出席した。賞金19万2000ドルは全てカルカッタの貧しい人々のために使われることになった上、授賞式の場においては、「私のための晩餐会は不要です。その費用はどうか貧しい人々のためにお使い下さい」とも要望した。賞金を受け取った時、「このお金でいくつのパンが買えますか」と言ったという。インタビューの中で「世界平和のために私たちはどんなことをしたらいいですか」と尋ねられたテレサの答えはシンプルなものであった。「家に帰って家族を愛してあげてください」。

1982年にはテレサはイスラエルパレスティナの高官にかけあって武力衝突を一時休止させ、戦火の中で身動きがとれなくなっていたベイルートの病院の患者たちを救出している。

晩年と死[編集]

1983年、高齢のテレサはヨハネ・パウロ2世との会見のために訪れたローマで心臓発作に見舞われた。1991年にはペースメーカーをつけた。この年、優れない健康状態を押して故郷・アルバニアに最初の支部を設立している。これはテレサの念願であった。また同年、テレサは健康状態を理由に総長の辞任を願い出たため全会員による無記名投票が行われた。結局賛成票を投じたのはテレサ本人だけであとはすべて反対であったため、彼女は総長に留任することを同意した。[要出典]

1997年4月、テレサは転倒して首の骨にひびが入り8月にはマラリアに罹患した。すでに心臓の状態が悪化していたため、総長職は1997年3月に退いていた。1997年9月5日、世界が見守る中、テレサはカルカッタにて87年の生涯を終えた。

テレサが亡くなったとき「神の愛の宣教者会」のメンバーは4000人を数え、123カ国の610箇所で活動を行っていた。活動内容はホスピスHIV患者のための家、ハンセン病者のための施設(平和の村)、炊き出し施設、児童養護施設、学校などである。[要出典]

宗派を問わずにすべての貧しい人のために働いたテレサの葬儀はインド政府によって国葬として盛大に行われた。インドの大統領や首相以外で国葬されたのは彼女と2011年4月に死去したサティヤ・サイ・ババのみである。彼女の死は国家的な損失であるとインドの人々は嘆き、世界の人々も彼女の偉大な働きを思って追悼した。その葬儀には各宗教の代表者が参列し、宗教の枠を超えて尊敬されたことを象徴するものとなった。[要出典]

列福までの道のり[編集]

1997年、テレサの死後すみやかに列福列聖調査がはじめられた。通常は死後5年を経ないと始めることはできない規定なのだが、テレサの場合は生前から聖女の誉れが高かったことと、彼女の業績を極めて高く評価していたヨハネ・パウロ2世が前倒しを強く求めたため、例外的に5年を待たずに始められたのである(この例外は、2005年4月に帰天した当の教皇ヨハネ・パウロ2世自身にも適用された)。

マザーの列福のために報告され、後日、奇跡として認められた事例に、非カトリックのインド人女性モニカ・ベスラの治癒がある。 1998年、彼女は34歳の時、腹部の腫瘍を患い病んでいた。「胃に腫瘍ができ、日に日にそれは大きくなっていきました。人々は私が妊娠していると思っていました」とモニカ自身が述懐する。

シリグリ( 西ベンガル州) のR.N .Bhattacharya 医師は、腫瘍は7ヶ月の胎児と同じ大きさだったと証言する。 「すぐに手術しなければ、ベッドの上で死んでしまうと思いました。」しかし、患者はひどい貧血症も煩っていたために、手術は不可能であった。

医学的治療では治る希望がなくなった時、彼女は神の愛の宣教者会が経営する「死に行く人のための家」に赴いた。マザー・テレサの帰天一周年の次の日に、彼女はその家の礼拝堂に連れて行ってくれと頼んだ。そこで治癒を願おうと思ったのである。

「礼拝堂に入ると、マザー・テレサの写真が目に入りました。そのとき、あたかも一条の光が私に向って飛び出たように感じ、私は体が麻痺したように感じました。その後、シスターたちは私のためにお祈りしてくれて、私は眠りにつきました。朝の一時に目が覚めると、腫瘍がなくなっていたのです。」

その突然の完全な治癒は医者たちを驚かせ、その後にその医師たちは自分たちの診断が間違っていなかったと強調して、あらゆる必要な証拠を提出した。

治癒の後で、腫瘍を検査するためにした小さな外科手術の跡をも見つからなかった。立ち会った医師は、「これは私の医師としての人生で出会った最もすばらしい経験の一つです」と言う。[6]

列福のための正式な手続きは、2001年の8月にカルカッタ(現:コルカタ)司教区の特別委員会が報告書を取りまとめ、ローマ法王庁列聖省に提出している。

この報告書は重病や貧困に苦しむ人々に対するマザーの献身的活動や、列福に値することを示すため、マザーに対する執り成しの祈りによる奇跡的行為なども盛り込まれており、ページ数は35000ページにも及ぶ。

列福・列聖には通常、対象者の死後数十年かかるが、マザーの献身的活動が生前から世界中の尊敬を集めてきたこと等により、1999年、ヨハネ・パウロ2世は手続きを早める特例を認めた。[7]

2003年10月19日、ヨハネ・パウロ2世はテレサを列福し、福者であると宣言した。[8] 通常は本人の死後、福者の認定を受けるまで少なくとも数十年の審査が必要とされている現状を考えれば、死後6年での列福というのは異例の早さである(さらに列聖には、場合によっては数百年の時間をかけて審査が行われることもある。福者は聖人の前段階)。

受賞・受章歴[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ ノーベル財団 Mother Teresa The Nobel Peace Prize 1979 Frequently Asked Questions "Question: マザー・テレサは、どうして1979年のノーベル平和賞を受賞したの?"に対するAnswer(英文)を意訳。
  2. ^ Kalkuttai Boldog Teréz
  3. ^ fost Maica Tereza aromâncă? | Romania Libera ルーマニア語の新聞記事「故マザー・テレサはアルーマニア人だったのか?」
  4. ^ 著者名:やなぎやけいこ、著書名:マザー・テレサ-キリストの渇きを癒すために-、発行所名:ドン・ボスコ社、刊行年:1990年4月25日、参照ページ:13ページ5行目から。
  5. ^ テレサでも自身の活動がうまくいかない時もあり落ち込むこともあったという。
  6. ^ 中井俊巳、『マザー・テレサ。愛の花束』PHP 研究所、2003年 
  7. ^ ローマ井上卓弥、福者、聖人に列する正式手続き開始へ 教皇庁   毎日新聞(2001-08-17 )
  8. ^ "Vatican news release". Vatican.va. 19 October 2003. Retrieved 24 August 2010

関連作品[編集]

書籍[編集]

  • 『マザー・テレサ -神さまへのおくりもの-』マザー・テレサ著、半田基子訳、女子パウロ会、1976年
  • 『生命あるすべてのものに』マザー・テレサ、講談社現代新書、1982年
  • 『マザー・テレサ 愛を語る』ジョルジュ・ゴルレ、ジャン・バルビエ編著、支倉寿子訳、日本教文社 、1982年
  • 『ほほえみ -マザー・テレサのことば-』女子パウロ会編、江口まひろ絵、女子パウロ会、1989年
  • 『マザー・テレサ 愛のことば』女子パウロ会編、いもとようこ絵、女子パウロ会、1998年
  • 『マザー・テレサ 日々のことば』マザー・テレサ著、いなますみかこ訳、女子パウロ会、2000年
  • 『マザー・テレサ 愛と祈りのことば』ホセ ルイス・ゴンザレス‐バラド編、渡辺和子訳、PHP文庫、2000年
  • 『愛する子どもたちへ マザー・テレサの遺言』マザー・テレサ、片柳弘史(写真)、ドン・ボスコ社、2001年
  • 『マザー・テレサ書簡集』、片柳弘史編・訳、ドン・ボスコ社、2003年
  • 『マザー・テレサ -すばらしいことを神さまのために-』マルコム・マゲッリッジ、沢田和夫訳、女子パウロ会、1976年
  • 『マザー・テレサとその世界』千葉茂樹、女子パウロ会、1980年
  • 『マザー・テレサこんにちは』千葉茂樹、女子パウロ会、1980年
  • 『マザー・テレサ あふれる愛』沖守弘、講談社文庫、1984年
  • 『ノーベル平和賞に輝く聖女 マザーテレサ』望月正子、講談社、1988年
  • 『こんにちわ地球家族 -マザー・テレサと国際養子-』千葉茂樹、女子パウロ会、1991年
  • 『マザー・テレサ 愛の軌跡』ナヴィン・チャウラ、三代川律子訳、日本教文社 、1995年、2001年増補改訂版
  • 『マザー・テレサへの旅 ボランティアってだれのため?』寮美千子学研、1997年
  • 『わたしはマザーに出会った -20人が語るマザー・テレサのすがた-』女子パウロ会編、女子パウロ会、2001年
  • 『愛 -マザー・テレサ日本人へのメッセージ-』女子パウロ会編、三保元訳、女子パウロ会、2003年
  • 『カルカッタ日記 マザー・テレサと出会って』片柳弘史、ドン・ボスコ社、2003年
  • 『マザー・テレサの真実』五十嵐薫著 《NPO法人レインボー国際協会理事長》、PHP出版、2007年
  • 『大ヴァチカン展パンフレット』大ヴァチカン展実行委員会、1987年
  • AERA臨時増刊『人を助けたい 震災ボランティア/善意ネットワーク』 朝日新聞社 1995年3月
  • 『マザーテレサ「死の場面」』坂倉圭著、聖母の騎士社、2004年(ISBN 978-4882162539
  • 『マザーテレサ「死の場面」』 ウエブ版
  • 『マザー・テレサ 愛の花束』 中井俊已 PHP研究所 2007年ISBN 978-4569669465
  • 『マザーテレサの子と呼ばれて』 工藤朋子著、聖母の騎士社2010年ISBN 978-4882163183

漫画[編集]

映像作品[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]